うろーおにうろー

裁判記録(5)

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裁判記録

○第一次事件後、王仁三郎は大本を公認宗教にしたかった。
○立替立直について。
○第一次事件後、信者は増えた。

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。意味のまとまりごとに標題を付加した。

裁判進行 高橋警部の取り調べ

午後(ごご)一時(いちじ)十分(じふぶん)開廷


清瀬弁護人 ちよつと被告を調べる前に私から願ひたい。

()の時雑誌を裁判所に提出(ていしゆつ)

 ()の調べの劈頭に被告より高橋警部の()調べに際しては、真実(しんじつ)を述べ能はざりし事情(じじやう)を裁判長に対して、詳細(まつぶさ)述べたのでありまするが、私は能く警察の調べのことは()事件(じけん)のみならず他の事件(じけん)(おい)ても()きますが、近時矢張(やつぱり)同様(どうやう)のことがあるものである。

 十年以前にはそれはどうも被告が言ふのだと思つて居りましたが、段々(だんだん)()(ころ)世相(せさう)から考へて、警察の調べの真相(しんさう)は被告の(うつた)へ通りだらうと思ひ出したのであります。

 ()の雑誌の四十四頁に『大本(おほもと)事件(じけん)日記』と()ふものがあります。京都府特高課長杭迫軍治と()ふ人の執筆に(かか)りますが、()の末尾(すなは)ち五十三頁──一番(いちばん)終ひです、そこを御覧(ごらん)下さると、

「本稿を草するに付ては高橋警部、倉元、小川(をがは)両警部補に負ふ所大なり」

そこでどう云ふことをしたかと言ひますると、頁の上段(じやうだん)を見ますると、一月二十五日の記事(きじ)には、

彼等(かれら)は何れも最初(さいしよ)審理の節は宗教乃至(ないし)精神的(せいしんてき)問題(もんだい)に仮(たく)して、頑強(ぐわんきやう)事実(じじつ)を否定、否認し続けたるが、事犯の全貌が証拠品調査、参考人の予備(よび)的取調の結果(けつくわ)(つひ)暴露(ばくろ)せるに至り、一切(いつさい)を自供するに至つた」

()の次です、

「三月三日に高橋警部は熱誠(つひ)に元兇王仁(おに)を降す」

と書いてあります、まるが付いて居りますが、「熱誠」の言葉(ことば)(うるは)しい言葉(ことば)でありますけれども、事件の半面には、余りにも高橋警部が職務(しよくむ)に熱誠の結果(けつくわ)(つひ)に「元兇王仁(おに)を降す」と云ふ文字を書いて居りますが、()の意にあらずして、前項の供述を取得(とりえ)したるものであることは紙背に明瞭(めいれう)であります。

 ()記録(きろく)を見ますると二月三日には調書がなくして、二月八日からに十二日迄十四日連続の調書があります。

 (これ)()りますると、()記録(きろく)も随聴随録の記録(きろく)ではなく、うんと被告を(おさへ)へて、(あたか)も右へ曲つてるものを(ある)程度(ていど)(まで)(おさへ)へないと真直(まつすぐ)ぐになりませぬが、(おさへ)へ過ぎると左になるやうに、(これ)も曲り過ぎた記録(きろく)ではあるまいか。

 本日の御調べに反抗(はんかう)して、高橋のしたことを(うつた)へましたが、私()いて惻々として感ずる所があつたのであります。

 後に証人として(あるひ)は高橋警部を()ぶやうなことが出るかも知れませぬが、()の「熱誠の結果(けつくわ)王仁(おに)を降す」と云ふ記事(きじ)御覧(ごらん)に供して置くと、段々(だんだん)判ると思ひます。

 (これ)は証拠として別に出しますが、単に御覧(ごらん)下されば、今日(けふ)の所は(よろ)しうございます。

前田弁護人 午前に御許可を得ましたのですが、本日他の被告共に対しまして、自分に関する限りに(おい)てのノートを取らしめたいと思ふのであります。それで此処(ここ)にノートブツクと鉛筆を備付けて置きました。

 裁判長の方の承諾(しようだく)を御与へを願ひたいと思ひます。

 (もつと)(これ)には……。

裁判長 此処(ここ)に置いて行く訳ですね。

前田弁護人 無論(むろん)一冊のノートと鉛筆を渡しますが、各自(かくじ)がそれに署名して置きまして、退廷の際に此処(ここ)に置いて行くと、()う云ふことにして置きたいと思ひます。

田代弁護人 (なほ)前田君の(おつ)しやつたことに附加しますが、被告にですな、()のノートは他の被告が言うてることに違つて()ると云ふやうなこととか、(これ)は何れ自分が言はなくちやならぬと思ふことを忘れ勝ちでありますから、それをば何日(いつ)の誰のと云ふやうに「メモ」を取つて置くと云ふやうにすれば、言ひそびれてしまふとか(あるひ)は忘れてしまつたと云ふやうなことがないやうになる。

 ()の御趣旨(おもむき)の下にノートブツクを御許しを願つたのだと云ふことを(おつ)しやつて(いただ)きたい。相被告の方は何の(ため)のノートブツクか御判りにならぬと思ひます。

裁判長 全部(ぜんぶ)起つて──。

(各被告人、全部(ぜんぶ)起立(きりつ)

前田弁護人から御話がありましたが、王仁三郎(おにさぶらう)の供述なり、()の他のことに付て裁判長に(おい)てはそれを引用することがあるかも知れませぬから、()時分(じぶん)には自分は()う云ふ点は違ふ、あの点は……と云ふやうなことの考があつたらそれは後から言ひ落したと云ふことのないやうに十分に覚えて書いて置いて(もら)ひたい。

 必ず書かなければならぬことはありませぬよ。それで書いたものは此処(ここ)に置いて退廷する。

 判つたな、ぢや座つて……。

(各被告着席)

必ず書いて置かなけひはならぬのぢやないよ。

()の時前田弁護人各被告にノートを渡す)


経歴 十年事件、保釈中の活動

 それぢや王仁三郎(おにさぶらう)訊問(じんもん)をします、()(まま)……被告人は大正(たいしやう)十年の二月、不敬並に新聞(しんぶん)紙法違反罪に()つて起訴せられましたか。

 はい。

 右事件の犯罪事実(じじつ)の内容は()の通りですか。記録(きろく)の判決抄本、大阪(おほさか)控訴院の判決。(これ)が出て居りますが(これ)は見せて(もら)つたでせう。

()の時記録(きろく)を示す)

 ()の時は蒙古(もうこ)へ行つて居りましたですけれども、大抵(たいてい)は判つて居ります。それは()うやつたろと()いて居ります。

 それで王仁三郎(おにさぶらう)()の不敬事件が係属中も、(なほ)大本(おほもと)(ため)活動(くわつどう)して()つたやうであるが、(これ)はどう云ふ訳だ。

 何をですか。

 前の十年事件が係属中に(なほ)色々(いろいろ)活動(くわつどう)をして()つたやうなことですが。

 活動(くわつどう)……私は決して(これ)は──。

 それはどう云ふ訳であるか。

 ()の訳は、私は決して自分では、さう云ふ不都合(ふつがふ)な事はないと私は信じて()つた。

 それで(これ)は早く(これ)を──免罪を天下(てんか)に知らす(ため)には、一刻も早く、一人にでも余計に()教義(けうぎ)を知らすが()いと云ふ信念(しんねん)の下に、布教(いた)しましたです。

 悪いと思ひましたら、()しも不都合(ふつがふ)なことだと思うて居りましたら……私は神様(かみさま)から色々(いろいろ)のことを()いて居りまして、決して罪ぢやないと思うて居りました。我々(われわれ)も日本の臣民(しんみん)だから悪いと思へば何もしやしまへぬ。()の時は私は悪いとは思はなかつた。残念だと思つて居りました。

 悪いとは思はぬからそれをやつて()つたと云ふ訳ですな。

 ……それで人が来れば布教して()つた。

 それから、神懸(かむがか)りになりまして、()の間布教やなしに霊界物語(れいかいものがたり)を述べて()つた訳です。

 ()の時に大本(おほもと)改良意見書〔「大本(おほもと)七十年史」参照(さんせう)〕──大本(おほもと)()う云ふやうに改良すると云ふ(ちか)ひの書付(かきつけ)見たいのが出て()るやうだな。

 はあ。

 はあぢやない、自分で書いたのか。

 書いたのかも知れませぬ、書いたやうにも思ひますし……ちよつと見せて下ざい。

記録(きろく)を示す)

 それの一番(しま)ひの所だ。

 (これ)は書いたのです。

 それに()るとどうぢやな、悪いことをしたと云ふやうになつて居りやせぬか。

 (これ)はもう私は言うたつて迚もあきまへぬから、「悪いことをしたと言ふて謝つて、早く予審をして(もら)つて、予審ぢやない、保釈して(もら)ひたいと思ひまして」予審判事のお気に入るやうに書いたのです。

 さうすると自分の意思(いし)に反することを書いた訳ですね。

 意思(いし)にあることもありますし、反したこともあります、けれども良いものにしたいことはしたい、矢張(やつぱ)り改良して良いものにしたい、(いく)分か不都合(ふつがふ)やと云ふ組織の点に(おい)ても、信仰(しんかう)の点に(おい)ても(いく)分か人から見て悪いと思へる所は直したいと云ふ考はありました。それからぼつ/\改良した積りで居ります。

 ()の書いた物を見ると、是等(これら)は純然たる宗教団体(しうけうだんたい)として盛り立てて行くと云ふやうなことを書いて居りますね。

 それはさうです。

 それはさうぢや……。

 宗教としてやつて行くと云ふことは、私の意思(いし)ですから──。

 それぢや宗教でなかつたのか。

 いや本当の宗教−公認教にする積りだつた。宗教としてやつて行くと云ふことの(ため)に、()の事件が済むと直ぐ平渡信と運動(うんどう)をやつたのです。

 立替立直(たてかへたてなほ)趣旨(しゆし)はどうも余り(おだや)かでないから、(これ)はやるべき……。

 (つま)私はそんな国体(こくたい)の変革と云ふやうな立替(たてかへ)ぢやない、総ての今日(けふ)のやり方、一切(いつさい)経済(けいざい)の統制やとか云ふことの意味に()ける立替立直(たてかへたてなほ)ですから、あゝ云ふことの意味を言うとるので、それを何だかへんな所に持つて行かれてしまうた。

 さうせぬと云ふと、今日(けふ)の事件が起らぬ。それで、さう云ふ所に持つて行かれたのです。私は決してさう云ふことは夢にも思うて居りまへぬ。証拠には大本(おほもと)信徒(しんと)が朝晩神前(しんぜん)奏上(そうじやう)して居りまする所の善言美詞(ぜんげんびし)と云ふ祝詞(のりと)を見て(もら)ひましたらはつきり判ります。

 (これ)は高橋警部の時にも、予審の時にも、何れの時にも申しませぬ、何で申さぬかと云ふと、()いことばかりが書いてあります。大本(おほもと)結構(けつこう)なことばかりが──国家(こくか)に対する大事なことが書いてありますが、(これ)(また)今迄(いままで)のやうに、「胡麻化(ごまくわ)すとか、(あるひ)は保護色やとか、表看板や」とか言はれてけちを付けられては適はぬから、()のことはちよつとも言はぬで、それが利益(りえき)のあるものやと言うたら湮滅させられてしまうたら大変(たいへん)だと思うて、()の公判(まで)にそれは言はぬやうにしてのけて置いたのです。

 私の利益(りえき)になるやうなことは言はぬやうに……予審でも言うて居りませぬ。

 王仁三郎(おにさぶらう)に対する()の事件の三十二回の問答に()ると、「出る時は誓約(せひやく)書通りに改良する意見であつたが、出て見ると信者(しんじや)共がどうも筆先(ふでさき)信用(しんよう)して()る。()(ため)我々(われわれ)の主張は正当(せいたう)なことと考へて()る。(また)自分も国常立尊(くにとこたちのみこと)古事記(こじき)にも書いてあるし、本当とも思はれて()る。それで改良はしなかつたのだ」と云ふことをば三十二回の問答に述べて()るが、(これ)はどうなのだ、まるきり悪いことはして居らぬ──訂正(ていせい)する必要はなかつたと思うて()つたのか。

 それはね、私は大して(これ)は悪いと云ふことは一つも思うて居りまへぬ。

 宗教として(これ)をやりたい、本当の宗教にしたい、宗教類似ぢやなしに──()う云ふことを考へて居りましたし、(また)私の言うたことよりも、少し向ふでは加減(かげん)して書いてありますから、私が言うたこととはちよつと(ちが)うて()る所があります。

 ま一遍見せて……もう一遍聴かして下さい。

 能く()いて居なくちやいけないよ、「自分は出る時に、予審判(しんぱん)事に対して提出(ていしゆつ)せる改正(かいせい)意見の通りにする積りで()たが、帰つて信者(しんじや)に会つて見れば、矢張(やつぱ)筆先(ふでさき)と云ふものは神様(かみさま)のものであると信用(しんよう)して()る。」

 さうです。

 「(また)色々(いろいろ)な関係で自分の是迄(これまで)の主張が国常立尊(くにとこたちのみこと)問題(もんだい)とか、素盞鳴(すさのおを)尊の問題(もんだい)と云ふやうなことは正常なことであると思つて()る」と云ふやうなことを言つてるやうだな、さう予審記録(きろく)に書いてあるな。

 ちよつと頭が判らなくなつちやつた、ちよつと待つて下さい。

 もう一遍そこの所をはつきりして(もら)はないと工台が悪いのです。

 実は予審でね、予審判事さんの前で、筆先(ふでさき)は決して悪いものとは思つて居らぬ、絶対信用(しんよう)して()つた、それを悪いと(おつ)しやるし、(また)筆先(ふでさき)問題(もんだい)になりますので、(また)筆先(ふでさき)問題(もんだい)になつたやうなことの(ため)に、私がこんな所に入らなけひはならぬのだから、こんな所は改良しなければならぬ。こんな所は──問題(もんだい)になるやうな所は焼いてしまふか、(つぶ)してしまうたら()いと思つてほかさせなければならぬと云ふ信念(しんねん)を有つて居りました。

 それは前の問題(もんだい)だね。

 前の事件の時の予審判事の前で言うたことは、全部(ぜんぶ)焼く積りはなかつた、悪い所だけほかす積りだつたと云ふ考であつたが、予審判事さんはそれを全部(ぜんぶ)ほかすと云ふ意味に取られたが、私は皆はようほかさぬと思つて()つたのです。

 (ところ)が戻つて来たら信者(しんじや)が、「予審判事の前で焼くとかと云ふやうなことを言つた」と云ふので、私に(せま)つて仕様(しやう)がない。そこで、私は、「済まぬが()の時はさう云ふやうに言はなければならなかつたのだからこらへて()れ」と謝つて()つた。

 ()時分(じぶん)、予審判事さんの前で、仕様(しやう)がないからさう云ふやうに言ひました。仮令(たとへ)九牛(きうぎう)一毛(いちまう)でも筆先(ふでさき)のいかぬことがあるのに、()筆先(ふでさき)を残すと云ふことは言へませぬがな……。

 成る程。

 それで、私は、「止めます」と言ふたけれども、肚の底では矢張(やつぱ)り止めたうなかつた。


経歴 十年事件中の大本の活動

 それからね、大正(たいしやう)十年の不敬事件当時(たうじ)皇道(こうだう)大本(おほもと)状況(じやうきやう)はどう云ふ風でした。

 事件中ですか。

 事件中。

 入つて()つた当時(たうじ)のことは知りまへぬが、人に聞いた位です。

 事件当時(たうじ)は江木博士(はかせ)やとか、あゝ云ふ人が弁護して()れて居て、何かと用がありました。

 私は()の時には病気をしまして、十年から寝て居りまして、さうして霊が懸つて来て、筆先(ふでさき)を……筆先(ふでさき)ぢやない霊界物語(れいかいものがたり)と云ふもののを書いた。

 十月頃からそれから毎日(まいにち)寝て()つて書いたのです……書いて()れたのです。

 十年、十一年、十二年頃(まで)(ほとん)霊界物語(れいかいものがたり)ばかりである。

 自分としては……。

 (しや)つて()つたのを人が書いて()つたのです。

 口述(こうじゆつ)要旨は後から()きます。

 大本(おほもと)状況(じやうきやう)は──。

 ()の時の状況(じやうきやう)と云ふものは、余り宣伝にも行つてるものがありませぬ。(ただ)何とか云ふ……。

 積極(せききよく)的の活動(くわつどう)を止めて()つたのですね。

 さうです、(ただ)二人(ふたり)程宣伝をして()つた。

 満州へ行つたり、他所(よそ)へ行つたりして、内地では八方(はつぱう)(ふさ)がりで──

 信者(しんじや)は減つたか。

 減つて居りませぬ、それは()えて居りました。それは何故(なぜ)かと云ふと、私が(つかま)へられた時には百二十四であつた支部(しぶ)が、帰つた時は百五十四と、三十()えて()つた。

 何故(なぜ)()えたと云ふと、大本(おほもと)と云ふものはあの事件が出たものですから、大島(おほしま)とか、琉球とか、朝鮮(てうせん)とか、満州とか端々のさう云ふ所の人が、今迄(いままで)知らなんで()つた人達(ひとたち)が、大本(おほもと)事件があつたので初めて知つた。さうして一度見て来てやらうかと言うて来た人が来て信者(しんじや)になつた。

 予審の三十二回の訊問(じんもん)調書に(おい)て、「一部の主だつた者が脱退して信者(しんじや)も半減して()る」と云ふことを言つてるが、(これ)はどうだ。

 向ふがさう言うて聴かしまへぬもの……。

 予審ですよ。

 え、さう言やはるから仕様(しやう)がありまへぬ、減つて居りまへぬ。

 減つて居らぬと云ふことは(よろ)しい。

 減つた人がある代りに()えて居ります。


経歴 開窟奉賛祭

 被告人王仁三郎(おにさぶらう)は右の不敬事件に付て、昭和二年の五月十七日大審院に(おい)て同年の勅令第十一号大赦令に()つて免訴の判決を受けましたね。

 はあ。

 昭和二年の五月二十七日開窟奉賛祭を行ひましたか。

 はい。

 ()の際の模様はどうでした。

 祭の模様は(ただ)()う云ふ事件が起つて、さうして大本(おほもと)はまるで()つくらがりになつて()つたが、愈々(いよいよ)夜が明けた。それの御礼(おれい)御祭(おまつ)をしたのです。

 ()の時に綾部(あやべ)の人やら大分(だいぶん)祝ひに来て()れました、信者(しんじや)や何かで千人位()つたかと思ひます。

 綾部(あやべ)弥勒殿(みろくでん)でやつた、千人程集つてやつた。

 信者(しんじや)やら町の人やらが集つて……。

 さうして祝詞(のりと)奏上(そうじやう)したと云ふ訳だね。

 さうです、千人でしたか、千五百人でしたかはつきり覚えて居りまへぬが。

 『真如能光(しんによのひかり)』に祝詞(のりと)が出て()るね。

 あれは見せて(もら)はぬでも()いか。

 祝詞(のりと)だから大抵(たいてい)悪いことはないと思ひます。

 湯川先生が書いたのです。

 証第四千二百十五号の昭和二年六月五日発行(はつかう)の『真如能光(しんによのひかり)』の第七十一頁、此処(ここ)に出て()る訳だね。

 (これ)へ見せて(もら)はぬでも()いでせう。

 へ、祝詞(のりと)はもう大抵(たいてい)判つて居ります。

 それからちよつと言うて置くが、同祭の目的はどう云ふ目的なんだ、(まつ)賛祭を(もよほ)した目的は──。

 目的は祝の目的です。御礼(おれい)の目的です。我々(われわれ)が喜んだ喜びを表する御祭(おまつ)です。

 (ところ)が決定には、予審の決定に()ると、奉賛祭と云ふのは、「開窟奉賛祭と云ふものは、役員(やくゐん)信者(しんじや)(とう)に対して、右の事件は大本(おほもと)に反対する者の策動に起因(きいん)したるものと信ぜしめ、事件の(ため)に減じた信者(しんじや)を本に帰らして、信者の結束の(ため)にやつたものである」と云ふことになつて()るが。

 それは御書きになつたのでしようがあらへぬ。

 「判を捺さなんだら、お前は(うそ)を言ふのか、三年も四年も(これ)から(かか)つたらどうする、早う年寄(としと)りは弱つて()るからいなしてやらなければ可哀相だ、早ういなしてやらなければならぬのに」と、多勢(おほぜい)の者に言はれゝば仕様(しやう)がない。

 私はそんなことは申しまへぬ、そんな阿呆(あはう)なこと。