流行性感冒(インフルエンザ)考

1.流行性感冒

2.神霊界より引用

3.神の国より引用

4.大正9年の文献より引用

5.霊界物語


1.流行性感冒

2004年3月8には鳥インフルエンザが日本でも流行していていろいろな問題を引き起こしました。また、インフルエンザの危機は、これからが恐ろしいとも言えます。

実は、大正8年から9年にも大流行して、日本でも2,500万人が感染し、38万人が死亡しました。これについて王仁三郎は『神霊界』の随筆で何箇所かで触れています。

原文を見たい方はデータベースで「感冒」で検索してください。

『神の国』では、感冒のはやる理由を「戦争と流行性感冒とはつきものである」と言っています。考えさせられる言葉です。

出口王仁三郎は、「将来、流感の流行で日本が大ダメージを受ける」とは霊界物語では直接予言していないようなので、インフルエンザについては特に心配する必要はないと思いますが、医学衛生完備して 悪疫益々蔓延し」とか「医学は人の生命を縮め」とか、現代を予言するような文脈の中で言っています。(5.を参照)


2.神霊界より引用

大正9年の大流行の時の記事です。

「神霊界」大正九年一月一日号

 昨年の神諭に医者と坊主と葬式屋の豊年が来るからと日ふて警告されて在つたが、弥々実現し出したとは実に残念な事である。世界は兎も角として日本内地に於ける恐るべき流行性感冒は漸く猖獗(注 はびこって勢いが盛んであること)の兆を現はし、現に綾部から目と鼻との間に在る新舞鶴町にさへ、日々十人平均の死者が出来るやうに成つた。今後気候の激変に連れて益々蔓延と共に悪性化せむとするで在らう。国民は益々衛生上の注意を怠らざると共に正しき浄き神の信仰に依りて、心身の健全を計らねば成らぬのである。政府当局では愈々となれば今度こそは総ての興行物を停止し、学校も休校を断行し積極的に防遏(注 ふせぎとめること。防止。)の手段に出られたいと共に、敬神的の行動を国民が採る如うに注意して欲しい。

マスク=魔好く

次の文章では、流感をマッソンの流感と言っています。マッソンとはフリーメーソンのこと、もしくは世界を征服しようとしている秘密結社です。

「神霊界」大正九年一月二十日号

 本年の流行性感冒は余程猛烈を極めて居る。就ては其伝染を防ぐ為にマスクを使用せぬ者は電車に乗る事を禁ずると云ふ府県令が出たり、全国に防疫官が派遣されると日ふ大騒ぎで在るが、マスクの使用も結構かも知れぬが、夫れよりも日本国民は精神をマスクに持ち変ヘてマスクな惟神の大道を歩めば決してそんな猛悪な風邪神に征服される気遣ひは無いのである。

 マツソンの流感に罹つた連中が敬神尊皇の大義を忘れて了つて、不健実な害国思想に心酔して居ると終には神を軽んじ、大君の大恩を忘れ、悪神に乗ぜられて大切な生命までも抹損せなければ成らぬやうになるので在る。

 一月十五日の大朝の報ずる処に依ると、大阪中央電信局で日々殺到する沢山の電報の中から京都神戸奈良地方に送信した五千四百通を抜いて其用件の統計を取つて見た所が、驚く可し一割八分は流感で「危篤だ」「死んだ」と云ふ通知、殊に不思議なのは今年は女の感染が多く、右一割八分の大部分は女の危篤や死亡の通知であつたと云ふ。「東海姫氏国、風の神様までが女を慕はつしやると見へる新らしい婦人方に一つ排斥運動でも行つて貰はにや堪らむ」云々と出てあつた。

 吾人は大本神諭を反覆熟読して倍々神の力依らねば成らぬ事を深く感ぜざるを得ないのである。又た大阪では十五万人の小学生徒が一時に学校を休んで、マスクを面部に当て居る。全然六道の辻をさまよう亡者の精神に成つて悪神を撃退するが目下の最大急務である。又たマスクは国音「魔好く」に通ずるものである。

ここでもマスクの様子が語られています。

「神霊界」大正九年二月一日号

 次に役者閑とあるは、今日の如く、都鄙到る処に流行性感冒や、悪性肺炎の横行を恐れて、面部にマスクを宛て歩行く様に成つては、演劇場へ通ふ男女も、日夜に減る一方である。御神諭の

    目も鼻も口も開かむ事が出来するぞよ

と、示されて在る通り、目は皆老眼や近眼者のみで、色眼鏡をかけ、鼻と口にはマスクを附け、殆んど顔全部は隠して了はねば、他出も出来ぬ様に成つて居る。御神諭にある、

    世界へ天晴れ顔出して歩行けぬ様に成るぞよ

とある警告が、一部分実現して来たやうにも感じられるのである。

この時代にハレー彗星が地球に近づいていました。ここで述べている、彗星説は、外国の学者がこの説を述べて、新聞でとりあげられたのを受けたものだと記憶しています。

「神霊界」大正九年二月十隔日号

 全世界に亘り、幾十百万の貴い生霊を亡ぼしつゝある悪性感冒の原因は、彗星が地球に撒き散した毒物で、彗星の尾に微生物が寄生して、夫れが毒菌に変化し、盛に人類に禍ひすると唱へられて居るのであるが、大本の所説から見ると、符節を合する如くである。

 博士曰く、古くは支那の歴史を始め、東西の沿革史に拠ると、彗星の出現した後には、其十中の八九まで疫病が流行して居ることが証明される。十五世紀の頃、欧亜の大陸には、大彗星の出現と同時に、黒死病と云ふ得体の知れぬ悪疫が、猛威を逞ふして、各地に流行し、数百万の人が之に罹つて斃れた。近頃世界に流行して居る流行性感冒は、今を去ること十一年前、即ち一九一〇年の秋に出現し、天の一方に永く尾を曳いて、約一箇月間雄姿を現はした、ハレー彗星の出現後、数箇月にして、満洲から欧洲の東に至る、亜細亜大陸の各地に流行したのが、地球上の全人類に不幸を及ぼす、此悪疫の蔓延した抑もの始めであつた。

王仁三郎の講演で、大峠について触れた部分です。小難は饑病戦。飢饉と疫病と戦争。これらは人間の力で幾分でも防ぎ得るもの。大難は自然災害。これは防げないものです。

神霊界 1920/09/21 弥勒の世に就いて

次に報身の弥勒の世になれば、皆が喜ぶ世になる。之を天国とも極楽の世とも云へるのでありませう。実に鼓腹撃壌の世の中になつて来るのでありませうけれ共、夫れ迄になるには一つの大峠があります。この大峠を越さねばならない。御筆先に『大難を小難にまつり代へてやる』といふ事が出て居りますが、この大難と云ふのは三つの大なる災で、風水火と云ふこと、又小難といふのは饑病戦といふことである。不作が続いて饑饉になる。或は虎列剌とか、ペストとか、チブスとか、流行性感冒だとか、斯ういふ事が起つて来る、之が小難であります。戦争も人事を尽したならば免れる事が出来るのである。故に是も小難の中に入つて居ります。総て人間の力に依つて、幾分でも防ぎ得るものが小難であります。けれども風水火は人力の奈何ともする事が出来ぬものである。能く新聞などに出て居りますが、小区域の風害があるけれども、これでさへ天文学者や如何なる智者でも、又角力取りでも之を奈何ともすることが出来ませぬ。水も又其通りであつて、大洪水などは奈何とも為がたい。


『神霊界』では、あと一つ、松江の大根島での流感に対する反応(これがいちばん面白い)が原文が手元にないのでいれてありませんが、大正九年に、悪性肺炎もあったというのは、興味を引かれるところです。


3.神の国より引用

戦争と流行性感冒とはつきものである。

神の国  1934/03 (玉鏡 八幡-P.473 天声-P.367 昭09-03)

 本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。近年満州事変、上海事件などで多くの戦死者を出したが、それに対して、禊の行事が行はれてゐない。禊の行事の大切なる事は霊界物語に詳しく示して置いたが、昔はこの行事が厳格に行はれたから、戦争などで沢山の死者があつても地上は時々に清められて、流行性感冒の如き惨害から免がるる事を得たのであるが、今の人達は霊界の事が一切分らず、禊の行事などのある事をすら知らぬ人達のみなるが故に、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁りに濁り、爛れに爛れて、目を開けて見てをられぬ惨状を呈してゐるのである。気の毒にもかうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きを置いて焦心焦慮してゐるのであるが、霊より来る病気を体的にのみ解せむとするは愚である。
 禊の行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常にこれを行ふべきである。さすれば一家は常に朗らかで滅多に病気などには罹らぬものである。


4.大正9年の文献より引用

大本神諭に照らされたる世界覆滅の大陰謀」より引用。これは、浅野和邇三郎が書いたということになっており、王仁三郎、浅野ではなく、当時の大本信者の若者の一人が書いたものです。

 一昨年末来、獰猛を極め全世界至る所死体の山を築かめした、西班牙風邪の手品の種も是によつて明かされた。皆此結社の世界覆滅の所業である、誠に驚くべき哉ではないか。併し、かう云つても彼等の手に企まれた唯物科学に惑乱されて、大本神諭の「盲と聾者」になり切つて居る現代人には、容易に了解されないかも知れぬ。何となれば、直接此「病毒伝播」の衝に当つてゐるのは、人ではなくて神であるからである。私は総論に於て此結社の後に邪神界のあることを説いた。その眷族共がやつてゐるのである。
 即ち狐狸等の四ツ足霊、及び悪亡霊が黴菌を携ヘて人体に憑依し、其黴菌を植ゑつけて保護蕃殖せしめ、協力して肉体を忽ちに死に至らしめるのである。今度の流感が全世界隈なく猖獗を極め、如何なる寒村僻地をも見逃さなかつた所以は、一は実に茲にあるのである。
 勿論之とても、私が独決めの妄説臆想でもなんでもなく、上に掲げた大神の明示と鎮魂帰神の神法の結果得た千百の実験ー是等悪霊の自白等ーによつて確証せられたことである。
 這の事が解れば、此度の感冒が、壮者殊に軍人社会に多く、俗に「今度の風邪は老人小供を嫌らう」と云つてゐるのや、死亡率の年一年と高くなる理由も、亦自ら解決されるであらう。即ち「日本を一コロに取る企み」を為て居る邪神界にとつては、国家の干城たる壮丁を一人でも少くした方が都合がよいからである。
 一方正神界に於ては、今は之に対して傍観的態度をとつて居られる。
 然し是とても決して袖手して我不関焉で居られるのではない。
 改心せる人又は見込のある人、換言すれば神縁の有る身魂には、厚い冥護を与へられて居るので従つて、是等の人々は、決して斯る悪病に犯されることなく、仮令犯されても、生命には毫も危険はないのである。故に今度死する人は悉く一部の因縁ない身魂のみと云ひ得るのである。
 即ち邪悪分子が掃除されるのである。詳言すれば、我が大神は彼等邪神共を掃除人足に使はれてゐるので、所謂毒を以て毒を制すの妙策を取られて居られるのだ。
 然しこんなことを知らない邪神界では、感冒位で満足せずに、もつヘちちうとトコトンまで行り抜かうとするに相違ないやうに思はれる。さうすると、世界の前途は此点のみよりしても、弥々益々暗澹となる訳である。今この毒手より免れ得る方法は一つある。而して唯一つに限られてゐる。
 其は発根と改心して、原の大和魂に立ち復り、以て大本大神の大加護を仰ぐ、この一途のみである。是れ無くして、即ち体主霊従の四ツ足心を改めずに置いて、何程神前で頓首叩頭しても、何程御百度詣りや千度詣りをしても、そんな病直しの身欲信心は所詮駄目である。又現代の医学の無効なるは云ふまでもない。
 何となれば黴菌の持参者後援者たる、本尊の悪霊を処理することを知らずに、其れが肉体を死滅せしめんとする方法、行為が肉体に顕はれた状況のみに捉はれ、全然本末を顛倒して居るからである。
 論より証拠、今回の感冒でざへも、現代の医学は其無能を遺憾なく曝露して居るではないか。
 世界に亘る飢饉状態についても明細に予言警告してある。
 吾人が、小説によつてやつと想像し得た、人肉販売は既に露懊に於て行はれて、新喰人蛮族は、所謂文明の中心地たる欧洲の所在に簇生した。大本神諭の現実化の的確にして、分厘の誤差なきに敬服して居る吾人は、我国の前途につき深憂に堪へぬものがあるのである。

5.霊界物語

次の文は、大正11年から12年初頭の日本社会の状況を述べた文章の一部です。

物語53-0-2 1923/02 真善美愛辰 総説

性の悪い流行性感冒猖獗をきはめ、内務省からは各府県に通牒を発し、その予防に苦心してゐる。

次の文章は、カゼを口実に使ったもので、あまり意味はないものと思われます。

物語68-3-13 1925/01 山河草木未 蛙の口

右守は吾が計略図に当れりと心中雀躍りしながらワザと真面目を粧ひ、
『イヤ承知いたしました。シノブ殿、御安心下さいませ。大王の手前、よしなにお取り計らひを願ひます。そして拙者は御存じの通り目も悪く足も悪く、且つこのごろ流行の感冒に犯されてをりますれば、到底ここ二三日は参内は叶はないだらうと、そこは、それ、よろしく言つておいて下さい。何よりも太子を処分し、アリナさまをお迎へ申すのが焦眉の一大急務ですからな』

さて真善美愛辰 総説は大正時代の社会状況を述べているのですが、舎身活躍寅 序歌(聖者の涙)は、当時の社会情勢を書いたものか、関東大震災の予言とも言われますが、ちょっと気になる表現が散見します。一部引用します。

物語39-0-1 1922/10 舎身活躍寅 序歌

医学衛生完備して   悪疫益々蔓延し
交通機関は完備して  有無通ずるの途もなし
国家の富力増進し   而して饑餓は人々の
頭に刻々迫り来る   法警成るに従ひて
殺傷頻りに行はれ   生産倍々夥多にして
物価は時々に凋落し  輸入超過の惨状は
全くその度を失ひぬ  国庫漸く窮乏し
兌換借款滔々と    経済界を危くし
国防成るに従ひて   国辱頻りに興るあり
高貴は俗に親しみて  卑賤は倍々僣上す
富豪階級は押なべて  皆文弱に流落し
淫酒の慾を漁りつつ  日に夜に社会を汚し行く
貧弱愈窮乏し     怨嗟の声は弥高し
都会に住める人々は  安逸快楽に馴れ染まり
奢侈限り無く増長す  田舎は都会の風に染み
淳朴の気は地を払ふ 

この聖者の涙の表現は昭和青年 1932/04 世紀末観でも使われていますから、昭和時代の予言ということも考えられます。

また、次の「笑いの座」は、国民が政治に参加できないがこの「笑いの座」が催された時だけは、政治を批判するのが許されているという、ガス抜きのようなシステムで、そこで国民の一人が語るというものです。

月の国はインドのことですが、全く現代の日本に当てはまるのではないでしょうか。この2つ後ろの章が、日本の敗戦を予言していると言われている67巻6章の「山河草木午 浮島の怪猫」に当っています。

物語67-1-4 1924/12 山河草木午 笑いの座

『全体、月の国の人間は、国は大きうても、小人物ばかりで、到底世界の強国の班に列するの光栄を永続することは不可能でせう。
外交はカラツキシなつてゐないし、強国の鼻息を伺ふことばかりに汲々乎とし、内政は人民の自由意志を圧迫し、少しく骨のある人間は、何とかカンとか言つては、牢獄へブチ込み、天人若(アマンジャク)ばかりを登用して顕要の地位に就かしめ、己れに諛び諂らふ者のみ抜擢して、愚者、卑劣漢のみが高い所に蠢動してゐるのだから、到底国家の存立も覚束ないではありませぬか。今の時に当つて、本当に国家を思ふ英雄豪傑、または愛善の徳にみちた大真人が現はれなくちや駄目でせうよ』
『さうですなア、私の考へでは、ここ二三年の間には、月の国の大国難が襲来するだらうと思ひます。大番頭も、その他の納言も、どうも怪しい怪しいと何時も芝生に頭を鳩めて、青息吐息で相談をやつてゐますが、何れも策の施しやうがないと言つてをります。何といつても今の世情は、宗教を邪魔物扱ひし、物質本能主義を極端に発揮し、何事も世の中は黄金さへあれば解決がつくやうに誤解してゐたものですから、従つて国民教育も全部物質主義に傾き、国民信仰の基礎がぐらついて、ほとんど精神的破産に瀕してゐるのですから、到底この頽勢を挽回する望みはありますまい。今に世界は七大強国となり、十数年の後には、世界は二大強国に分れるといふ趨勢ですが、どうかして印度の国も、二大強国の一に入りたいものですが、今日の頭株の施政方針では、亡国より道はありませぬ。物価は高く、官吏は多く、比較的人民も多くして、生存難は日に日に至り、強盗殺人騒擾なども、無道的行為は到る処に瀕発し、仁義道徳地に堕ち、人心は虎狼のごとく相荒び、親子兄弟の間も利害のためには仇敵もただならざる人情、教育の力も宗教の力も、サツパリ雰です。否宗教はますます悪人を養成し、経済学は国家民人を貧窮に陥れ、法律は善人を疎外し、智者を採用し、医学は人の生命を縮め、道徳は悪人が虚偽的生活の要具となり、商業は公然の詐欺師となり、一として国家を維持し国力を進展せしむるものは見当りませぬ。
それだから私も一つ奮発して、国家の滅亡を未然に防ぎたいと焦慮してをりますが、何分衣食住に追はれてゐるものですから手の出しやうがありませぬ。米搗虫の地位を利用して賄賂でもどしどし取れば、また寒海を辞した時、社会に活動するの余祐も出来るでせうが、それは私には到底出来ない芸当です。とやせむかくやせむと国家の前途を思ひ、日夜肺肝を砕いてをりますが、心ばかり焦つて、その実行の緒につくことが出来ないのは遺憾千万でございます』

大正時代から昭和の初期が現代と相応しているのか、それとも、霊界物語が現代を予言しているのか?どちらなのでしょうか?



第1版 2005/09/09
第1.1版(一部修正)2015/01/02

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