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2015年年初にかけて、サイトを作り直しました。コンテンツを大幅に減らそうと思っていましたが、自分の書いたものは「可愛いく」、更新履歴等まで残すことになりました。
このページはそんな、捨て切れなかった個人的な雑文が主なものです。
狭依彦の基本的な考え方、スタンスは下の「うろー」小史に書いています。
── 昔から好きな話 ──
神と倶(にある人(
人間(は神(を信(じ、神(と倶(にありさへすれば、池辺(の杜若(や、山林(の青葉(が、自然(に包(まれて居(る如(く、長閑(にして安全(なものである。然(し世(の中(は、変化(があるので、人生(は面白(い。彼(の美(しい海棠(の花(だけを避(けて、吹(き捲(る暴風雨(はない。如何(なる苦痛(の深淵(に沈(むとも、心(に正(しき信仰(さへあれば、即(ち根本(に信(を置(いて、惟神(の定(めに任(せてさへ行(けば、そこに変(りの無(い彩色(があり音響(がある。
人生(は如何(なる難事(に逢(ふも恨(まず、嘆(かず、哀別(も離苦(も総(てが花(を撲(つ風雨(と思(へば良(い。富貴(も、栄達(も、貧窮(も、総(てがゆつたりとした春(の気分(で世(に処(するのが惟神(の大道(である。何程(焦慮(つても、一日(に人間(の足(では、百里(は歩(るけぬものだ。学問(や黄金(の力(でも、如何(に偉大(な政治家(や大軍人(の力(でも、昨日(を今日(にする事(は出来(ぬ。又(今日(を明日(にする事(も出来(ぬ。唯(一秒(の時間(でも、自由(に動(かす事(は出来(ぬ。一滴(の露(、眼(に見(えぬ程(の小(さい生物(でも、それを黄金(の力(では造(れない、学問(の力(でも駄目(である。斯(う考(へて見(ると、人間(程(小(さい力(の貧弱(なものは無(い。然(し人間(は一滴(の露(さへ自力(で作(る事(は能(きぬが、神(を忘(れ神(に反(いた時(には、憂愁(と苦悩(とを以(て、広(い天地(を覆(ひ盡(す様(になる、その胸(が幾個(あつても、そのもの思(ひを容(れる事(が出来(ないやうになつて来(る。
吁(、人間(は一滴(の露(、一塊(の土(さへ作(る能力(もなき癖(に、天地(に充満(して、身(の置(き処(の無(いほど、大(きい苦労(を作(る事(が出来(る。人間(は苦労(を作(るために、決(して生(れたのではない。人間(は神(の生宮(神(の御子(、天地(経綸(の使用者(として、神(の御用(の為(に世(に生(れて来(たものである。惟神(の心(になつて何(も彼(も悉(く、天地(の神(に打(ち任(せさへすれば、自然(天地(の恵(みが惟神的(にして、自然(の儘(に行(き渡(るものである。然(るに神(に在(らざる人間(の根蔕(は、兎(もすれば揺(らつき、動(き出(し自然(の規定(を、我(から破(つて、神(を背(にした道(を踏(むために、遂(に神(の恵(みに離(るるに至(るのである。
若(し人間(に、樹草(の如(く確固(たる根(があつて、総(てを天地(に委(して優和(しい大自然(の懐(に抱(かれる余裕(さへあれば、何時(の世(も、至幸至福(で長閑(で、悠々(たる光陰(を楽(しく送(る事(が出来(る様(になつて居(る世界(である。牡丹(も、杜若(も、又(は清(い翠(を見(せる樹々(も、大風(に揉(まれ、大雨(に撲(たれて、手足(を挫(かれる程(の憂目(は見(る事(はあつても、其(根蔕(に、些(の揺(ぎも見(せぬ。此所(は苦(しいから、他(の土地(へ移(らうとは考(へない。大風(は何処(へいつても吹(き、大雨(は何処(へ行(つても降(る。美(しい太陽(は、何国(の涯(にも輝(く。今日(の暴風雨(を、凌(ぐだけの勇気(さへ持(てば、明日(の、長閑(かな歓楽(に会(ふ事(が出来(ると覚悟(して、天地(に絶大(の信(を置(く、その為(に些(しも動揺(が無(い。土地(を替(へても、処(を変(へても、会(ふだけの苦難(には会(ひ、享(けるだけの歓楽(は享(ける。麻縄(で縛(られて、身(の自由(を得(ようと煩悶(へるのは、応(て自(ら苦痛(の淵(に沈(むものである。人間(は一切(を惟神(に任(せて居(れば、実(に世界(は安養(浄土(であり天国(である。
爛漫(たる花(の香(に酔(ふ春(の光(も、次第(に薄(らぎ、青葉(の茂(る夏(となり、木葉(の散(り敷(く秋(の淋(しさを迎(へ、雪(の降(る冬(となつて、万木(万草(枯死(の状態(になるは、天地(惟神(の大道(である。香(りの好(い釵(の花(を嬉(しう翳(した天窓(の上(に、時雨(が降(り、愛(の記念(の指環(を穿(した白魚(の手(に落葉(がする世(の中(だ。花(の山(が青葉(の峰(と忽(ち代(り、青葉(の峰(は木枯(の谷(となる。辛(い経験(は、人生(にとつて免(れ難(き所(である。然(し乍(ら、人間(は決(して斯(んな悲惨(なものではなく、永遠(の生命(と永遠(の安楽(とを与(へられて世(に生(れ、大(なる神業(を以(て、神(の御用(の為(に出(て来(たものである事(を覚(らねばならぬ。それは只(神(を知(る事(に依(つてのみ得(らるる人生(の特権(である。
神の国 1929/05
小(さい蒲公英(
大正(十年(二月(の頃(、皆(の知(つて居(る通(り私(は京都(監獄(に居(つた。或日(の散歩(に、枯草(の中(に咲(いて居(る一輪(の蒲公英(を見出(した。ああ其(一輪(の花(、それによつて私(はどの位(慰(められたか分(らなかつた。何(と云(ふ愛(らしい花(であらう。冬(の寒(い長(い間(百草(も枯(れて、何(も無(いやうに見(える此(花(が、春(の光(を浴(びると、眠(つた如(く見(えた根(からは青(い芽(が出(で、葉(が伸(び、やがてはあの豊醇(な乳(を持(つた美(しい黄色(や、白(い花(が咲(くのである。何(だか私(の境遇(に似(て居(るやうである。私(は思(ふた。たとへ此度(の事(によつて大本(が潰(れたとて、五十七才(になつたら又(元(の六畳敷(から初(めやう、教祖様(は五十七才(にして初(めて立(たれたのだから……。
かくこの一輪(の花(によつて慰(められつつ、日(を送(つて居(る中(、やがて春(の最中(になつて、そこら一面(蒲公英(の花(をもつて埋(めらるるやうになつて来(た。何等(の慰(めをも持(たぬ囚人達(は如何(に此(花(によつて慰(められた事(であらう、朝(に夕(に花(は囚人(の唯一(の愛(の対象物(であつた。然(るに心(なき園丁(は掃除(をするのだと云(つて、皆(此(花(を引(きむしつて仕舞(つた。
神の国 1926/06
── 好きな歌(台湾の歌) ──