出口王仁三郎全集7 短歌集(3)

全集7にある歌の感想をブログで連載していたものです。  

記述 2005年3月12日~5月3日

※2015/1/2現在リンクで切れているものがありますが、過去の記事を生かすために、そのままにしてあります。


昭和青年会軍式訓練

東光苑(とうこうえん)に朝まだき響く喇叺(らっぱ)()ききつつ庭の雪に見入(みいれ)れり

わが生命(いのち)もゆる思ひやわかうどの兵式(へいしき)訓練みつつ樂しき

うたたねの夢を破りて青訓(せいくん)のラツパ響けり近き野の村

縁側にわが立ち()れば飛行機は空どよもしてつぎつぎ(きた)

青空のあなたに消えし飛行機のあとぼんやりとわれ立ちて見つ



昭和青年会の軍隊式訓練の雰囲気が伝わってくるような歌です。王仁三郎は何を考えて、昭和青年会に軍隊式訓練を行っていたのでしょうか・・・
これらの歌の「庭の雪に見入れり」とか「ぼんやりとわれ立ちて見つ」が気持ちを表しているのでしょうか?

気になる流れ

こはたれし宮居(みやい)の跡なる清庭(すがにわ)実生(みば)えの松は(じょう)にのびたり

ふるびたる居間(いま)の襖に繪をかきてよみがへりたる心地(ここち)せるかも

夕津陽(ゆうつひ)
は山におちけむ雨空(あまぞら)の雲の(ひと)とこほのあかりつつ

大空(おおぞら)
にさゆる月かげ恋しけれど風のさむきに戸をとざしをり

月ひくう南の空をわたりつつ寢やの障子(しょうじ)にかげをうつせり

書と実践

千古(せんこ)の書われ讀まむよりは世を思ふ天下の志士(しし)を友とせむかな


私にとっては自分のやり方を批判されているような歌です。実践者、信仰者が求められています。でも、研究者も大事ではないでしょうか。

うつしみ

男子(おのこ)われ君の涙にひたされてこほしさ日日(ひび)にいやまさりつつ

八百重波(やおえなみ)
へだつる島の君()ひて寢る夜はさむしこがらしの音

むらきもの心ゆたけき君ゆゑに何時(いつ)もにこにこ()ませ(たま)へる

君一人家に殘して旅に立つ夕べの虫のこゑはかなしき

あたひなきこの(つつ)しみをいつまでか守り續けむ年さびし吾に

君待ちて()ふる心はつぎ橋のいやつぎつぎに思ひたえなく

唐衣(からごろも)
木曾のかけ橋あやふくもわたりて行かむ君が(いおり)

思ふことありて酒のむこの(よい)はひとしほものの淋しさを知る

ひえびえと寒さ身にしむ小夜(さよ)()けをひとり()ねつつ人を思へり


これは女性を読んだ歌だろうか?君は妻のような感じがしますが、何故か力のない歌に感じられます。感じる方の感受性が悪いのか?

昭和八年

(ひむがし)の空ほのぼのと明けそめて二見(ふたみ)の浦に千鳥なくなり


「朝の海」というタイトル。
「東の」ときたら、柿本人麻呂のこの歌、

東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

いよいよ昭和8年に突入です。

回天

回天(かいてん)ののぞみに生きて新年(にいどし)の海辺に立てば昇る朝津日(あさつひ)

回天(かいてん)ののぞみに生きて新年(にいどし)の晴れたる今日を高殿(たかどの)()

かいてん くわい― 【回天】 〔天をめぐらす意〕
(1)天下の形勢を一変させること。衰えた勢いをもりかえす意に用いる。
「―の事業」
(2)第二次大戦末期、日本が用いた一人乗り特攻潜水艇。爆薬を積み、敵艦に体当たりした。


私からすると(2)の意味しか浮かんでこない。王仁三郎が回天を予言していたなんては言わない。イメージを予言できても言葉は予言できないから。
ところで、回天の攻撃を立案して実行に移した人々はどうなったのだろうか。どうしているのだろうか。今までも、命を落とした若者だけが取り上げられている。当然、若者を追悼することは必要なのだけど・・・
今年中に、回天で散った若者を取り上げたTV番組、ドラマが放送されそうな予感?

子犬と雀

雪しまくあしたの庭に犬の()の鈴の()さみしく()をさがしをり

高殿(たかどの)広庭(ひろにわ)晴れて雀子(すずめこ)の聲さわやかに朝日のぼれリ



「犬の仔」としたところがいいのではないでしょうか。状景と王仁三郎の気持ち、どんなんかはっきりしないのですが、そのまま伝わってくるような気がします。
雀の歌は、あまり伝わってこないですね・・・

両手を組む

知らぬまに兩手を組む癖のついた私、いつも叱られてゐるやうな恰好で

反省

言ひたいだけ言ひはなつたあとで輕い悔い心にせめられてゐる

女と純情

一点(いってん)の曇り無き青空を見ながら彼女の純情さを感謝してゐる

純情だからおこりもしすねもするのだ、彼女がいとしくなる

はづかしさうに伏目(ふしめ)がちに黙黙(もくもく)(すわ)つてゐる彼女の心を(ゆか)しんでみる


おっさん!何歳や!

オリオン

オリオン星座が頭上(ずじょう)にかがやいて()てはじめた雨後(うご)の庭


ン十年前、中学生の時、合唱部だった。女の子と一緒に歌を歌っていた。その時の歌で、「冬空高く燦然と 輝くオリオンは ミューズの神の怒りに触れて 蠍の針に 倒れた勇士」というのを今でも覚えている。昔は、女の子と合唱するのは、なかなか進んでいたんだぜ・・・・
それから、ずっとオリオンが気になっていた。王仁三郎師と出合ったとき、オリオンでとても親近感を抱いたことを覚えている。

吉田松蔭

松陰(しょういん)英魂(えいこん)永久(とわ)に殘れるかこの柿崎(かきざき)の浪にこゑあり


柿崎は伊豆下田。柿崎神社には吉田松蔭の像があります。(王仁三郎の時代にあったかは不明)松蔭はこの近くの弁天島から小船で米国の軍艦に乗り込み、海を渡ろうとしました。西欧を完全に敵とみなしていて、敵を知るには懐に飛び込まなければならないとの信念によるものです。その結果、米国の船長には同行を許されず、送り返されて幕府に捕われてしまいます。
吉田松蔭のこの行為は、当時の情勢から見ても狂気と言えるものでしょう。しかし、私はこの行為に王仁三郎と同質のものを感じるのですが・・・
王仁三郎は松蔭をあまりとりあげておらず、評価していないようです。でも、この歌は評価しているように聞こえます。

国際聯盟

聯盟(れんめい)脱退、聞くさへ溜飮(りゅういん)(さが)日本(にっぽん)の二月


王仁三郎は国際連盟を非難しており、脱退を支持してます。これは、当時の日本人の全体の立場だったと思います。
しかし、王仁三郎はそれ以上を見ていた可能性もあります。

国際聯盟の人物で「ドラモンド」王仁三郎の文献にも出るのですが、フリ○メ○ソンの高位の関係者です。Googleで検索してみてください。

たはむれに

わが袖にひかりておつる()が君の涙にこもる生命(いのち)たふとし

(ゆえ)しらぬ涙しみじみわきにけりしばしわかれむ君のすがたに

眞夜中(まよなか)に戸を(たた)くさへもはばかりて(しも)()夜半(よわ)を庭に(たたず)

君ゆゑにわれはかなしく君ゆゑにわれは樂しく世に生くるなり

(あたい)なきつつしみなりとは知りながら今日のわが身のままならぬかな

陳腐(ちんぷ)なる旧道徳にしばられて虚偽(きょぎ)の世界に生くる苦しさ



この一連の歌。たわむれにという題がついているので事実ではないということでしょうか。
最後の歌の王仁三郎。私が引かれたのはこの王仁三郎です。

道歌

(むく)いこそ由由(ゆゆ)しかりけれ身のために人の曲事(まがごと)人に語らじ神前


今日から、道歌に入ります。
このジャンルはあまり好きではありません。でも、全集7全巻をデータ化するためには仕方ないでしょう。
この歌は、神前で人を批判するなということでしょうか?
しかし、考えてみましょう。相手が、悪意があって、自分をはめた場合も、批判してはいけないのか。そんな、相手の破滅を神にお願いしてはいけないのでしょうか?
まあ、ここで、宗教ならば「相手の悪意がほんとうに悪意ではないかも知れない、みんな自分から出たこと」、だとか、「神の試しだ」とか言うところですね。とりあえず、王仁三郎にはそんなことを言って欲しくない。
私には許せない人間-地獄に落ちろという人間が3人ほどあります。こいつらが、口では立派な事をいい、心の中は塵芥の金毛九尾だと思っています。だから、二度目に王仁三郎に出会って、邪神の説明を読んだ時にスーッて理解できた。
しかし、神の力、自分に神の力があるのなら、あいつらの破滅を起こしたいと思う。私が、嵌められてから、その中の一人は、結構不幸になったようです。よかった。ただ、一人だけは、のうのうと生きています。もうかなりのじじいなので、早く、なんとかなって(死ぬのではない)欲しいものです。そうしたら、神を全部信じよう。
でも、今、また、自分の不注意で変な仕事を引き受けて、苦しんでいるのだけれど、ここで、この歌が出たということは、神の戒めでしょう。あまり攻撃的にはならないように、冷静に対応したい。

外教

博愛を口には言へど耶蘇教(やそきょう)は他宗を見れば憎みあらそふ


王仁三郎のキリスト教に対する理解。今後、分析しますが、なかなか進んでいたものだと思います。

尽誠

ふたたびは生れがたなき現身(うつそみ)の命ある(うち)まことつくせよ


この歌だけとらえると、完全に倫理主義者と同じだ。「尽誠」というのは私には嫌いな言葉の一つです。

國法

ときどきの國の法度(みのり)もときどきの神の御教(みのりぞ)ぞゆめな(たが)ひそ


これは、「法律も神の教えだ」と言っているようだけど、ほんと?これを書いた時代は大日本帝国の時代、大本はその法律によって弾圧されるのではないだろうか。これらの、王仁三郎の発言の真意はいつか解きたいと思っている。

臣民

天祖
皇御孫(すめみま)御子(みこ)にさづけし神宝(みたから)千代萬代(ちよよろづよ)の鏡なりけり

國祖
海月(くらげ)()すただよふ國をつきかため(おさ)めたまひし常立(とこたち)の神


大君(おおぎみ)勅命(みこと)かしこみ 國民(くにたみ)をいつくしむこそ(おみ)の道なる


君のため国の為めには何者も捨つるは民の務めなりけり

醫師
病悩(いたずき)の身を天地(あめつち)にいのるとも夢現世(ゆめうつしよ)薬師(くすし)わすれな

藥物
人皆の身の病症(びょうれき)ををさめむと少彦名(すくなひこな)()りし神藥(みくすり)

浴湯
大己貴(おおなむち)少彦名(すくなひこな)のあらはしし温泉(いでゆ)(いさ)は神のたまもの

皇祖
虚空(そら)みつ大和國(やまとのくに)橿原(かしはら)日嗣(ひつぎ)(もとい)ひらきたまへり

祈祷
(きみ)の()め國のためには眞心(まごころ)をかけて(いの)るぞ人の道なる

祓戸
祓戸(はらいど)の神の()さずば許許多久(ここたく)の罪やけがれの如何(いか)ではらへむ


これは連続した一部を取り出したもの。臣の前の並びがおかしい。臣の前には、君または大君が来るはず。その下の方に皇祖が来ている。これだけ見ても、例えば青字の一部を取り出して論じてはいけないことが分る。


蕃神

氏神
氏神(うじがみ)祖先(そせん)の靈と知らずして蕃神(からかみ)いつく人の多かり

教徒
大本のまことの(のり)にまつろひて蕃神(からかみ)祭り捨てしまめひと

神改式
靈幸(たまちは)ふ神の大道(おおじ)にかへせかし(おや)のいつきし蕃神(からかみ)(のり)


蕃神(からかみ)の解釈が難しい。ここでは仏教か?しかし、神道ということも考えられる。慎重な検討が要求されます。

みこと


身体(からたま)のたふとき人をあがめてぞ体異(みこと)体別(みこと)()へる國風(くにぶり)


この歌は意味が不明だけれど、これまでうろーで考えている血筋の問題にかかわってくると思う。

省る心

(かえりみ)る心しあらばすさび來る八十(やそ)曲津(まがつ)もほろび行くべし


一つの歌だけ取り出すのは良くないのだけれど、この歌全然魅力を感じない。
例えば、自分の行為をかえりみて反省すれば、悪霊もその人には憑かない。これが一般的な解釈でしょう。全然、面白くない。
私は、人類がそれぞれの人を覆っているイリュージョンの雲を吹き払う時、曲津神=彼らの支配も終る。イリュージョンを吹き払うためには、自分の中の常識から見直し、立替える必要がある。まずは、アインシュタインから!



誠ある人の誠の行爲(おこない)(くだ)けてもなほ(かん)ばしきかな

[異体字]砕 [音訓]サイ・くだく・くだける


この歌の意味はとりずらいのだけれど、「砕」けるとはどういうことか?誠の行いをしても、相手に通じず、相手の誠じゃない行いがまかり通るということだろうか。
この歌で、BSEの牛肉偽装の時の西宮冷蔵さんを思い出した。この歌を贈りたい。たとえ、砕けても、誠の行いは誠なんだ!

神神

神と()へば皆かしこしと思ふらむ鬼大蛇(おにおろち)あり曲津霊(まがつひ)もあり


このまま。この歌は霊界物語の余白歌にもありますね。

基督

よみがへる力しあらば何ゆゑに十字の(かせ)に身をや捨てたる


なかなか面白いキリスト観です。

ん?

(にら)まれて(にら)み返すは人ごころ笑うてかへすは神ごころなる


これだけ取り出されて示されたら、「ん?ばかじゃないの!」って反応するだろうと思います。睨まれたら睨み返さなければ・・・
でも、これは出口王仁三郎が言っているから、まあ、聞いておこうか、というところです。
王仁三郎の発言(これは歌だけど)の一部を取り出して示すことの危険さをよく示していると思います。

曲津神も神

(けが)れたるひとの身魂(みたま)をよろこびて(つど)ひくるなり曲津神(まがつかみ)ども


今まで、あまり気にしていなかったけど、曲津神も「神」なのですね。

議論

むつかしき議論(ぎろん)は神の()みたまふ平易(へいい)なるこそ神の大道(おおみち)


難しい議論をしているわけじゃない。おっさんが「訳分らんように書いているから」きちんと、原典に当たっているだけ。
おっさんの後継と称する人たちとか、おっさんが懸かったという人たちとか、みんな、単純で分りやすいし、議論せずに、そのまま受け入れているようやけど、ほんとうにおっさんの言葉か?一番悪いのは、おっさんが首尾一貫していない膨大な著作を残していることやろ。

末の世

(すえ)の世と人は(なげ)けど道を行くわれには五六七(みろく)神世(かみよ)なりけり


大正15年(1926年)9月の歌
これだけ取り出しても意味は取れないと思います。この月特に大きな出来事はありません。大正天皇の崩御はこの年の12月。

善の仮面

(しこ)みたま()が大本をけがさむと善の仮面をかぶりしのび()

注連繩(しめなわ)をはりまはしつつ神徳(しんとく)を隱さむとする曲世(まがよ)なりけり


この歌はいつ頃のものかまだ出ていないので分りませんが、いろいろな意味に取れる歌だと思います。後で日付が出たら載せたいと思います。

教え

百舌(もず)(すずめ)山雀(やまがら)あまたあつまりて(のり)の林にことさやぐなり


自分勝手に教えを解釈して、それを大声でさえずる人が沢山ある。
毎日言っているようだけれど、これだけ取り出すと分らないですね。この歌を後生大事に、「学では立たんぞよ」と、何も考えず信仰にはげむ。それも行き過ぎでしょう。

瑞穂国と中津国

葦原(あしはら)のみづほの國とは地の名なり中津御國(なかつみくに)は日の本のくに


葦原の瑞穂国は地球全体、中津国は日本と言われている。
最近読んだ本の中に、シュメールと日本の関係を考察しているものがあって、チグリス・ユーフラテス川の河口付近は葦が密生していて、そこがシュメールの故郷であるというのがあった。それでは、はそこを指す可能性はないだろうか?

誓約と人の肉体

(いず)御魂(みたま)(みず)御魂(みたま)誓約(うけい)より人の肉體(からたま)()り出でしとふ


『伊都能売神諭』では、「天の八洲河原に於て誓約を遊ばし、御両神様の御魂から五男三女の八柱の神が御生れ遊ばしたので在るが、是が神が人間の肉体に成りた初りで在るぞよ。」となっている。また、稚姫君命は天照の妹になっている。
『霊界物語』では、人体の祖はアダムとエバということになっている。

この世の終わり

まのあたりこの世の終りいたるまでに()へて置きたし人のこころを

大三災(だいさんさい)小三災(しょうさんさい)頻發(ひんぱつ)も人のこころの反映なりけり


末法の世に起る小三災と云ふのは飢、病、戦であるが、飢と云ふのは食糧の欠乏とのみ取つてはならぬ。経済上の飢饉もある。病気と云ふのも、単に体が病むと解するのは誤りである。思想的の病気も此中に入るので、皇道の正中を歩むのが健康者であつて、左傾だの右傾だのと云ふのは思想上の病人である。特に赤い思想などは膏肓に入つた大病人である。
大三災の風、水、火については云ふまい。唯これは人力の如何ともする事が出来ない天然現象である。一向神様に祈つて惨禍の少しにても少なからむ事を希はねばならぬ。【火】と云ふのは火事だけの事ではない、大地火を噴く地震の事である。
「人のこころの反映」というところをよく考える必要がありますね。

高山

柱木(はしらぎ)にせむとおもへど高山(たかやま)は風にもまれて下木(したぎ)のみなる


第二次大本事件の裁判の時に、争点となった言葉に「高山」があります。「高山」とは「天皇陛下」を表した言葉であるとの検察の主張に、王仁三郎は「大臣などの臣である」と答えています。
事件を起こすための挑発的な言葉であるのか、それとも王仁三郎が裁判で答えた通りなのか、慎重な検討が必要です。
この歌の場合は「のみ」がついているので「臣」を表すのでしょう。
政治家や官僚達には国の大黒柱として国民を率いてもらいたいのだが、米国などの外圧にさらされて、国民を守ろうという気概のある大人物はいない、くらいの意味でしょうか。

天津日の御子

天地(あめつち)大御心(おおみこころ)をこころとし()ろし()すかも天津日(あまつひ)御子(みこ)

玉鏡(たまかがみ)(つるぎ)のひかり身に受けて世を(しろ)()天津日(あまつひ)御子(みこ)


同じような歌が二つ並んでいます。
天津日の御子とは天皇のことを言うと思うのですが、どうでしょうか。「治ろし召す」と「知し召す」、どう違うのでしょうか。意味深な歌です。

大江山の鬼

大江山(おおえやま)鬼の住家(すみか)八衢(やちまた)都大路(みやこおおじ)に宿をかへたる


大江山の鬼は邪神のこと。都大路はいうのは京都のことでしょうか。大江山の鬼は誰にのり移ったのか、もしくは誰になったのか、大江山の鬼の伝説も調べてみたいものです。

人を責めるな自分を責めよ

身を()むる人はまことの人ぞかし人を()むるは(しこ)邪神(まがかみ)

上司の文句ばかり言っていないで、反省しなさい。
人の意見のあら捜しばかりして、批判ばかりしていないで、自分に対しても厳正に間違いがないか見直しなさい。

ふん!そんな解釈するなよ!
でもなぁ・・・、これ王仁三郎の歌なんだよね。

最近、データ化していて一番嫌な歌ばかりをコメントしているような気がする。これらの歌を取り出して、『出口王仁三郎の神教歌 真の大和魂』なんていう本を出したら売れるかな?文部省推薦で、新しい教科書を作る会の教科書に収録していただけるかも知れない。
そうなると、『人は誰でも救われる 後家倒しの国依別と王仁三郎と多田琴』なんていう本を対抗して出さなければ・・・

豫言者

(おろか)なる人と子供の言の葉は誠の神の豫言者(つかい)なりけり


「愚なる人」とはどんな人のことだろう?人が何も考えずに発した言葉の中に神の言葉が宿っているということか。

立替え

立替(たてかえ)世人(よびと)のことと()思ひそ立替するは(おの)身魂(みたま)


この言葉は倫理的に解釈するととてもつまらない。
しかし、「我々の心は、教育、宗教、テレビ、メディアなどでマインドコントロールされている。その、我々の心を立替えることこそ、このマインドコントロールから逃れ、自分を取り戻すことこそが大事なのだ。」と解釈したらどうだろうか。
これこそ、デーヴィッド・アイクの思想そのものだ。
「一部を取り上げて、自分の意見を正当化しているんじゃない」
そうかも知れません。

いましめ

王仁(おに)といふ(われ)のみ愛し天地(あめつち)の神を愛せぬ友ぞうたてき


「研究者」と「信仰者」の議論はよく掲示板で交わされています。
他の人にそう言われてもあまりこたえませんが、聖師さんに言われると、ちょっとこたえますね。

徳主法従

我國(わがくに)徳主法從(とくしゅほうじゅう)神の國理窟(りくつ)ばかりで治まらぬ|國(くに)


徳主法従はこの言葉ではないですが、いろいろな人が説いています。この歌だけ見て、出口王仁三郎であることを隠して、どこかの仏教系の新興宗教の教祖さんが御殿で言ったとしたら、OH!NO!Ooops(ウープス)
我国は特殊な地場(じば)で御仏(みほとけ)も認めておられるのです。だから、理屈に走らず、法を持ち出さず、御法(みのり)に従って生きればよいのです。それが徳となるのです。その御法を皆さんにお伝えするのが私の仕事なのです。云々

天国はどこにある

天國は虚空(こくう)にあらず葦原(あしはら)中津御國(なかつみくに)眞秀良場(まほろば)にあり

根の國は地底(ちそこ)にあらず()(あく)(しこ)の集まる野の末にあり


「葦原の中津御國の眞秀良場」というのは日本のどこか(多分大本の聖地)にあるということ。
最近、このコラムが反半王仁三郎的になっているような気がしますが、私は親王仁三郎です!
この歌だけ捉えると、天国は現世にあって、倫理的に正しい気持ちの持ち方をすれば、生きながら天国に行けるような解釈ができます。
私が、王仁三郎の思想だと信じているものは、「天国、地獄は次元は違っても同じ空間(※)にある。いま生きていて私たちが見ることのできる世界のどこか、たとえば綾部や亀岡、もしくは皇居にあるわけではない。」というものです。

※用語が不明。言いたいことは、私たちの存在する場所は、ある空間のひとつの次元だとする。

一向宗

十二 一向宗
にくみてもなほあまりあり天照神(あまてらすかみ)(いつ)かぬまがの醜道(しこみち)


「一向宗(浄土真宗)は天照神を祭祀しないから邪教である。」と、ここまではよいとして、この歌から見る限り、大本教は天照神を祭祀していることになる。まさか、自分たちも天照神を祭祀していないのに、一向宗を攻撃する必要は全くないでしょう。
しかし、現代のほとんどの信仰者たちは、「王仁三郎は天照神を認めていなかった」と言います。ということは、この天照神は皇室の先祖の天照ではないという帰結になるのですが・・・
私は何度も書いていますが、ここのところをどう説明するのでしょうか?テーゼとして受け入れているのではなく、きちんと納得できているでしょうか?
私も、基本的には王仁三郎は天照を受け入れていなかったと思うのですが、こんな歌をどう解釈していいか分かりません。
なお、現在の綾部の大本教団の天照に対する見解は、私には全く分かりません。ここであげたのは、三派に分かれる以前の教団の本などの編集態度や、現代では、あくまでもインターネットで考え方が垣間見れたグループについてです。

楽生

十一 樂生
何時(いつ)までも生きて()かなき現世(うつしよ)一日(ひとひ)もがなと祈りこそすれ


そうだよね。死ぬことばかり考えてはいけないよね・・・
道歌になったらとりあげたいのが少なくなってしまいました。あと、70ページほど、約1ヶ月で全巻のデータ化が終了します。

空海

十七 眞言祕密
眞言(しんごん)の秘密と人にほこれどもそんないつはり(たれ)空海(くうかい)


よく読んでくださいね。言葉がかけてあります。
これを読む限り、王仁三郎は空海を否定しています。
『皇道の道』では、「僧の空海最澄等により神仏の混淆まつり始まりにけり」と、神仏の混交を非難しています。他の文章でも、正面切って否定はしていませんが、たいした評価も与えていません。
霊界物語では、「空海」で検索すると、「天空海濶」という言葉が何度か出てきます。大本用語でしょうか?

ロシア

ろ 露西亜魂(ろしあだま)の人のみ多き世の中に日本心(やまとごごろ)をてらすわが道


この歌が書かれたのがいつだか分からないが、神霊界の「いろは歌」を引いているとしたら、1918年。
ロシア革命が1917年、大正6年。ここでのロシア魂とは共産主義の事だろうか?世の中とは日本か世界か?もし、日本のことだったら、共産主義がそれほど広がっていたのだろうか。共産主義は一部の知識人だけのもので、「人のみ多き」とは言わないと思うのですが・・・
時代背景の検討が必要な歌です。

教団

(むつ)まじき(おしえ)の友のよりあひて語らふ夜半(よわ)は樂しかりけり


同じ理解を持った人々の集まり、信仰集団がいいのは、こんなところでしょうか。こんな歌を読むと、無所属でいることの寂しさを感じます。

和めすかす

攻めきたる(あま)醜女(しこめ)をにくまずに(なご)めすかして救ふこの道


これが私には全くできない。正面切って対立してしまう。直したいのだけれど・・・
ところで「天つ醜女」って何だろう?

辞書では
醜女(しこめ)
(1)容貌(ようぼう)のみにくい女。
(2)黄泉(よみ)の国のみにくく、恐ろしい女の鬼。
「即ちよもつ―を遣はして追はしめき/古事記(上)」

となっていますが実態は不明。天の鬼?
霊界物語などでは探女・醜女とペアで出てきます。探女というのは「スパイ」だと思われます。

ソシモリ

そしもりの(さと)天降(あも)りし素盞嗚(すさのお)の神は韓國(からくに)(つく)りましける


素盞嗚尊が、天照大神の岩戸隠れの責任を負わされ、千座の置戸を負って、天下ったことは、『日本書紀』にいくつかの説が書かれています。新羅のソシモリに降ったというのは、『日本書紀』の「一書に言う(第四)」に書かれています。『古事記』には書かれていません。
ただし、記紀には「韓國を造った」とは書かれていません。

大神の道

むづかしき話をやめよ大神(おおかみ)のまことの道はたやすきが道


よく分かりますよ、言いたいこと。じゃ、誰の言葉が大神の道を説いているのですか。○代教主さんですか。それとも、王仁三郎さんの血筋の○○さんですか。それとも、王仁三郎さんの手で本に分かりやすく書いてありますか?それとも、門外不出の秘伝でも・・・
それが分からない。それを検証しようとするとたやすくならない。神の道は単純なはずなのに、どうして?
例えば、今、日本が置かれている状況、中国、朝鮮半島とか、歴史問題とか、王仁三郎さんならどう言いますか。王仁三郎さんを研究する前までは、「愛善の心でゆけ」なんて言うだろうと思ったでしょうが、いろいろ研究した私は、全然想像できません。もしかしたら、たぶんないと信じたいですけれど、もしかしたらですよ、問題となっている『新しい歴史教科書』を支持し、「はっきりと日本の神国である立場を示し、日本は亜細亜の人民の解放ために戦争をしたことを明らかにせよ」なんて言い出すかも知れません。
ああ、よくわからない!

楽しき我が家

狭くとも心を広く持つときはしづが伏屋(ふせや)もたのしき天國(てんごく)


こんな歌があるんですね。「狭いながらも、楽しき我が家♪♪♪♪~」って歌が、高度成長期にあったと思いますが。

解釈
狭い家に住んだり広い家に住んだり違いがあるのは、身魂の因縁生来によるものだ。だから、狭い家に住んでいる人が、広い家に住んでいる人を、羨んだり妬んだりしてはいけない。広い家に住んでいる人は、それだけ徳があってそうなっているのだから。徳を積めば、いつか広い家に住めるだろう。
ああ!書いていて、ヘドが出てくる・・・
この歌の重点は「心を広く持つ」ということ。そして、歌全体を理解するには、王仁三郎の生涯・思想のすべてを知らなければならない。

人魂

草木(くさき)にも(あや)しき(たま)のあるものを人の御魂(みたま)の光らざらめや


この歌の解釈も難しい。「光る」を字面でとらえると「人魂」ということになるでしょう。しかし、通常は、「草木だって魂を持って生きている。人間こそは草木に勝る魂を持っているはずだから、もっと充実した生を送れるはずだ。」くらいの意味になるでしょうか。
王仁三郎の文献では人魂は当然存在することになっています。

白鷺

白鷺(しらさぎ)白雪(しらゆき)()に遊べるはその身を守る()めにぞありける


白鷺が雪の上で舞っている、とてもきれいな光景だ。しかし、その実、雪の上でなく、緑や黒い背景では目だってしまい、敵(人間)に襲われてしまう、というところでしょうか。
意味深な歌で、引き付けられますが、何を言おうとしているのかは不明です。

地獄

ことさらに神は地獄は造らねどおのが造りておのが()くなり


王仁三郎の思想の一つの特徴です。『霊界物語』でも地獄(というか幽界)のシーンは出てきますが、このことを頭に入れて読むと、見え方が変わるかも知れませんね。
要は、同じような霊魂が集まるので、自分に合った場所にしか行けない。地獄の霊魂が天国に行くとしても、天国には苦しくていられない。このために、常時、霊魂をみがいて、天国仕様にしておかなければならない。くらいですかね。

伊都能売三題

伊都能売神について参考になる3つの歌をあげます。出てくる順番はこの順番とは反対です。

(3) 天國(てんごく)()の神となり靈國(れいごく)に月とかがやく伊都能売(いずのめ)の神


物語63-1-4 1923/05 山河草木寅 山上訓


一、厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕(あら)はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。

これからゆくと、伊都能売神=天御中主神ということになります。


(2) ひさかたの天王平(てんのうだいら)奥都城(おくつき)(しず)まりたまふ伊都能売(いずのめ)(たま)

「ひさかた」は天にかかる枕詞。ここでは伊都能売のとなっています、他天王平の奥都城には開祖出口なおが葬られています。開祖=伊都能売のとなっていますが、他の歌では全部です。ということは、開祖=伊都能売神の一部と考えるのが妥当でしょう。


(1) ある時は人とあれまし()るときは(まが)()ります伊都能売(いずのめ)の神

問題はこの歌。善悪一如の考え方でわからないことはないのですが、伊都能売神が積極的に曲(邪神)として現れるのだろうか?この神と破壊の神としての弥勒神の関係は?また、たぶん、神素盞嗚大神が曲として現れているところは『霊界物語』にはないでしょう。

今の私では、人の結論を引用せずにこれを説明することはできません。慎重な検討が必要なところでしょう。

まず敵人を

大本の神の大道(おおじ)にあるものは()敵人(てきびと)言向(ことむ)()はせよ


「味方同士で争うな」ということではないと思うけど・・・

右左

右左(みぎひだり)(まが)のうかがふ神國(かみくに)遠久(とわ)にまもらへ日本大丈夫(やまとますらお)


この「右左」を右翼、左翼ととると、とても新しい歌になります。現在の私の感覚から言うと、「神国」、「日本大丈夫」は右翼用語ですから、右翼から右翼を守ることになる。変ですね。
ここで考えるべきは、「右翼」、「左翼」という言葉がこの歌の読まれた昭和4年にあったかどうかです。
時代背景を無視して、デーヴィッド・アイク的に解釈すると、
NWO(ニユー・○ールド・オーダー)の手先である右翼と左翼は、全く別のものとして対立しているように見える。しかし、これは邪神(曲)のとる二面作戦であって、実際は同じものである。この日本の地は、世界の端にあるので、長らく邪神の襲来を免れ、完全征服はされていない。その、大和魂(ヤマト)ではなく日本魂(ヒノモト)を持って、邪神に立ち向かおうではありませんか。
なんて?

思想

人びとは(おの)思想(しそう)にみちびかれ各自(かくじ)居所(きょしょ)(こと)にするなり


この歌も難しい。人は神の生宮であるので、ほんとうは、考えたり、感じたりすることは同じであるはずじゃないだろうか。もし、人一人全部が根源神とつながっているなら、根源神の周波数に100%共振しているとする。しかし、邪神の周波数が根源神の周波数を混乱させる。例えば、根源神50%、邪神50%とか、根源神10%邪神90%とか、違った周波数が混ざっていろいろな波形が生まれる。それが、いろいろな思想なんだ。
当然、違った波形だと干渉が生まれ、気分が悪くなるので、人びとは同じ波形=思想で集まろうとする。
どう。この新解釈!?

成功急性病者

ものごとに煩悶(はんもん)苦惱するものは世に捨てられし小人(しょうじん)なりけり

純眞(じゅんしん)な想像力は語を()へて言ヘばすなはち通暁力(つうぎょうりょく)なり

ものごとに失望落胆する人は成功急性病者(きゅうせいびょうしゃ)なりけり

(以上三首昭和四年十二月)


この三首は味わい深いですね。

一人の御子

皇神(すめかみ)一人(ひとり)御子(みこ)を人といふ(ほか)はのこらず人間と知れ


この種の歌は沢山あり、『霊界物語』にも多くのこのような表現があります。一人の御子とは天皇陛下のように考えられるようにぼかして書いていますが、天皇陛下のことではありません。たぶん、王仁三郎を指しています。

誤解・非難を恐れずに書くと、狭依彦の思い込みでは、現在、大本系は次のように分かれているのではないでしょうか。
(1)開祖の血筋は神の霊代である。王仁三郎も神の言葉を伝えた。
(2)王仁三郎のみが神の化身である。開祖の血筋はその補佐。今後は、神の化身は現れない。
(3)開祖の血筋も王仁三郎も神の言葉を伝えた。その神の言葉を伝える系列は大本教を離れて他へ移った。今後も神の言葉を伝える霊代は現れる。

(3)の立場で「神の言葉を伝えている」と言っている人は、現在でも、いっぱいいるわけで、(2)の立場に立てば、それらをすべてを否定するしかないわけです。

私狭依彦の立場は(2)に近いのですが、信仰者との違いは、「王仁三郎は神の化身である」ことを受け入れるか、受け入れないかでしょう。
と、このように書いてきましたが、各派から話を聞いたわけではないので、これでいいかは不明です。
ということで、各立場で歌を解釈すると、

(1)の立場では、この歌は取り上げない。オクラ入り。
(2)の立場では、王仁三郎=皇神の御子。
(3)の立場では、いろいろ。皇神の御子=天皇陛下と言い出す人も出るかもしれない。当然、皇神の御子=自分という人も出るでしょう。

狭依彦の立場としては(2)のように解釈はするけど、受け入れらないというところでしょうか。

わがあらむかぎり

わがあらむかぎりは神國(みくに)安からむ(しこ)(いくさ)のおそひ()るとも


昭和5年の歌。「わがあらむ(私が生きている)かぎり」はよいのですが、お隠れになった後、今の私たちの時代はどうなのでしょうか。確か、霊界から守護していただいているわけですが・・・
昭和5年の時点で、第二次世界大戦になることは一般的に予測できたのでしょうか?歴史的事実を知りたいものです。

高麗

皇神(すめかみ)神言(みこと)かしこみ高麗(こま)の野に(こま)(むち)うち(われ)はすすみし


王仁三郎は「満州・蒙古」へ行ったはずですが、ここでは「高麗」と言っています。
高麗(こま)は「こうらい」とも読みます。

(1)高句麗の王族王建が建てた朝鮮の王朝(918-1392)。都は開城。半島を統一し、仏教を尊崇して栄えたが、一三世紀に元に服属、一四世紀に倭寇(わこう)の侵入で弱まり李成桂(りせいけい)に滅ぼされた。
(2)かつて日本で、朝鮮の別名。こま。

この言葉の意味からすると、王仁三郎の意識は、
1.満州へ行くために、朝鮮を通ったのでそのことを読んだのか、
2.満州を朝鮮の一部だと思っていたのか、
3.もしくは、満州は高麗(こうらい)を建国した民族と同じ人びとが住む土地だと認識していたか
どれかでしょう。


貴賤貧富

貴賤貧富(きせんひんぷ)賢愚(けんぐ)位置によりおのおの平等ある世なりけり

無差別なマルクス主義の平等は皇國(みくに)の基礎をくつがへすなり

富をつむは罪惡(ざいあく)なりと心得(こころ)るまめ人たまにあるぞゆゆしき


この歌たち、今の政府とか○由民主党の方たちに贈ると喜ばれるのではないでしょうか。
私は、これまで、論考でも掲示板での投稿でも、何度もこのテーマについて語ってきました。
2つ目から語りましょう。「無差別なマルクス主義の平等」とはマルクス主義の本質をとらえている言葉で、今いる私たちには、「マルクス主義は何か」は歴史によって証明されています。しかし、この歌を考えるときには時代相-これが読まれた時のマルクス主義の扱いを知る必要があります。
だから、今の私たちには、とても新しい歌に思われても、ただの保守主義で、他の人も口々に言っていたことかも知れません。いつか、その時代相を解明したいと思います。
3つ目については、当然、手続きが正しければ、という前提がついているでしょう。王仁三郎は積極的に「富を積」もうとしたのでしょうか?
1つ目については、血筋などとかかわることで、私は、未だに納得できません。「貴賎、貧富というのは社会の構造から生まれているのではないか」としか感じられないためです。
後で読み返していたら、「・・・世なりけり」で、「なりけり」は詠嘆。「であるのだな」なのかもしれません。それであれば、その世を肯定しているのではなくなります。
王仁三郎の生きた、この歌の読まれた時代は自由にものが言えなかった時代であった。だから、これらの歌も本心ではないかも知れない。そう言って済ましてしまうには、重すぎる歌たちではないでしょうか。
私は、これらが、王仁三郎の歌でなければ、投げ捨ててしまうでしょう。

学問

(おのずから)らさとり得らるる天地(あめつち)をわすれ苦しむ學問(まなび)のために


この歌も、これだけ読むと「頑固じじい」のような感じですが、知識というものの本質を考えてみるととても深い意味を持っていると思います。
マイクロソフトの採用試験問題に「富士山を動かす方法」というのがあるそうですが、この問題は、例えばダンプ1台にどれだけ搭載できて、それを何台使い、何年などと論理的に答えなければなりません。他にも、この会社の採用試験は、たぶん知識方面の頭の良さを検査し、「頭の良い」人たちを採用していると思います。でも、トラブルで電話をした時の対応なんて、私はこの会社の根底に流れる冷たいものを感じます。
あんた、何が言いたいの、かって。知識ベースの頭の良さではなく、別の価値観があるのではないか、ということ。王仁三郎は「頑固じじい」で自分に学問がなかったから、学問、学者を批判しているのではなく、愛の心を曇らせるという知識の本質をふまえて、ものを言っているのではないだろうか?ということです。
これから、この国は頭のいい人たちに引っ張られてどんどん右の方に行き、「頭の悪い」一般大衆は「俺たちは頭悪いし、自分では考えられない。頭のいい人たちの判断だから」と喜んで(かどうか分からないけど)ついてゆくと思いますが、今一度この歌の本当に意味するところを考えなければならない時が近づいているのでしょう。

宗教

宗教は數多(あまた)あれどもおしなベて營利会社の変名なりけり


王仁三郎は、宗教、特に既成宗教に対しては強烈な批判をしていますが、これはその中でもうなずけるものです。
なお、王仁三郎が歌を読んだ時代には、新宗教という概念はありませんでした。国から認められた公認教と未公認教。大本は公認されていませんでした。だから、ここで言う宗教は既成宗教(仏教、キリスト教、神道系の大教団など)です。
 
全集(7)完了

一輪(いちりん)の花さへ天地(てんち)神神(かみがみ)の力しなくば(かお)らざるべし

やや美しい歌で『全集(7)』を閉じられそうです。

本日で『全集(7)』は完了です。

開始 2004年11月26日 終了 2005年5月4日 158日 
総時間 約53時間


「うろー」のダウンロードページでダウンロードできます。

第1.1版(一部修正)2015/01/02

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