王仁三郎若かりし日の社会観

出口王仁三郎著作集(1)『本教創世記』より

1.本教創世記第3章

2.本教創世記第4章

3.本教創世記第5章

4.本教創世記第9章


1.本教創世記第3章

三大学則

明治30年10月に小幡神社で異霊彦命(本田親徳)に三条の学則を教えられる。本田親徳の名前は後の聖師伝では出ていないと思います。

1、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし。
1、万有の運化の亳差なきを見て真神の力を思考すべし。
1、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし。


異霊彦命の教

 右之三条を余に憑りて筆に誌し玉うた。そこで余は謹んで、「吾神畏こし。願わくは其意義を教え玉え」と請う。神即ち教え諭し玉わく、「右三条の学則は、之れ神の黙示なり。汝よく天地に俯仰して観察すべし。宇宙は、この霊と力と体との三大元質を以て充たさるるを知り得ん。此の活経典を以て、真神の真神たる故由(ゆえ)を知ることを得ん。何んぞ人為に成れる書籍を学習するに及ばんや。只宇宙間に不変不易たる真鑑実理あるのみ」と教え諭〔悟〕されけり。余は始めて此の神教を得て、盲亀の浮木に会える如く喜びて、直ちに感謝を捧げ、益々真理の為めに神の守護あらんことを祈願したりけり。

神の意義

 浅薄なる学者輩は、「神は果して在りとするならそのば、其姿を吾目前に現わすべし」なぞ、尋ぬる者あれども、是等は古流の唯物論の糟粕をなむる者の言であって、採るに足らぬ論拠である。神という義は、神典に隠身とある、「かくりみ」と云う意である。夫(それ)で「神は幽体である」と云う事を先ず弁(わきま)えて居らぬ人には、神の話は何となく怪しき感じが起きて来て、信ずる事が出来ない様に成って来るから、神の道を求めんとするものは、第一着歩として此の間題から解決して掛らねばならぬ。

 凡人の眼に隠れて見えぬ故に、「かくりみ」と云うのである。此の四字をつづめて、「か」と「み」とを合せて「かみ」と云うのであるから、神を見んと欲する者は真智の光明でないと見る事が出来ないのである。

 若し凡夫の目に見ゆるとすれば、夫れは幻影である。妄視の作用である。精神の異常を来たしたるより病的に感ずるのである。人として神にまみえ奉るという事は難いのである。

王仁三郎は救世主

 汝宜敷吾言葉を聞くべし。抑々(そもそも)現し世(うつしよ)の状態は如何と思うぞ。真理は深く包まれて一点の光もなく、徳義は破れて人心は腐敗し、自由競争の悪習は最早頂点に達したり。このままにに放任しおかんか、世界の滅亡を招くに至るべし。

 因りて神界より汝を卑しき農夫の家に降して、善く世の辛酸を嘗(な)めしめ千辛万苦を与えて、世の救主と為さんとの神慮なり。汝は今迄成し来りし事は皆天の為さしめ玉う所なりと教え玉いければ、余は驚きと喜びとに打たれて、暫時無言のままに神の方をのみ視守り居たりけり。

現代の状況(この文章が書かれた時代)と予言

物質文明は世を破滅させるに至る。

 今や世界の文明は日に月に進歩する一方にある。所謂物質的文明の壮年時代である。理化学上の新発明は、神秘の鍵を以て神門を開きたるが如くに疑わるる迄に進捗し、種々の方面に大競争の状態を現出し、偏窟(へんくつ)なる道徳者哲学者や倫理上の学説は、社会の各方面より奇抜なる声を放ち来りて、世人を迷わせて、偽予言者偽救世主は各所に現われて、数多の人類を欺瞞して、世人は其拠る所を知らず。

 文明利器の交通機関は益々完全に備わり行きて、地球の上皮は追々狭隘となり接近し、衣食住は倍々(ますます)贅沢に流れ、世界の各政府は学術を貴重して科学的智育の普及を計り、名義のみの博士や学士を始め理論に生活する所の一種の動物は雲霞の如くに発生し、空論空議の盛なる、今日より甚だしきはなし。

 盲目千人の譬(たとえ)に洩れぬ世人は、皆この物質的文明の進歩を謳歌して居る是れ向後惨澹たる世界の滅亡を来たすべき大原因なるべし総て精神的神教的文明の相伴わざる物質的文明は、最も恐怖戦慄すべきものにして、決して謳歌すべきものにあらず。精神的文明の伴わざる物質的文明と、人類の徳義信仰とは両立すべきものに在らず。

 人類は不完全なる病的智能のみ発達するに従いて、人類の徳義と信仰とは追々浮薄となり、徳義と信仰のなきものがだんだん悪く利口になる程、国家のため社会の為めに恐るべき事をなし、故に今に当って精神的文明即ち惟神の大道を鼓吹して、全世界を覚醒するに非ずんば、国家も社会も維持する事難く、終に世界の滅亡を招かんこと火を見るよりも明かならん」


2.本教創世記第4章

高天原と根の国

日露戦争の予言と、第二次世界大戦の予言もあります。

 太陽系天体中にては、日界を指して高天原といい、我国にては伊勢神宮其他、正神の集い玉える所を云う。一家の和合したる家庭を高天原といい、清浄なる人の心の中をも高天原といい、天国とも唱うべし。

 根の国、底の国は、悪魔餓鬼畜生なぞの外道国にして、今や全地球は根の国と化し去らんとせるなり。又国家より云う時は、日本国は天国にして、異邦は根の国、底の国なり。不和乱雑なる家庭も根の国なり。諸悪念の心の中も、そこの国なり

 故に天国に到るも、根の国に到るも、皆心の持ち様にあり

 今や社会は暗黒にして天意に逆えり。世は末期に際せり。偽予言者、偽救世主、四方に興りて天下を毒し、底止する所を知らず。天災地変頻々として到り、世界は戦争場となれり。況(ま)して東洋の大波瀾を醸して。社稷危き事なり。世界各国と戦う事あらん。先ず日本と露国との戦あり。其後亦(また)続々として災害来るべし。

 故に世界の滅亡を救わんために、天より救主として汝の霊を降し玉いしなり。いでや汝に、進んで治国平天下の大綱を示さん。

 治国の大本は神祇を祭祀するにあり、神祗を祭祀するの蘊奥は、神界に感合の道を修するを以て専らとするなり。抑々(そもそも)神界に感合するの道は至尊至貴にして、濫(みだ)りに語るべき者にあらず。

 吾国は世界万邦の宗国なるにも拘(かか)わらず、古典に往々其実蹟を記載せりと難も、吾国、中世以降祭祀の道衰えて、其術を失う事久し。天祖の神伝によりて、神代の道に復するの時機到れり。神人感合の道は玄理の窮極で、皇祖の以て皇孫に伝えたる治国平天下の大本義にして、祭祀の蘊奥である。蓋し幽斎の法たる、至厳至重なれば、最も深く戒慎し智徳円満にして神意に適合したる者にあらざれば、行うべかざるものとす。

 何人にも伝うべからざるの意も、茲(ここ)に存するのである、然りと難も、汝は神より選まれたる者なれば、其精神を練磨し、万難にたわまず屈せず、自ら彊(や)めて止まざる時は、終に能く其妙境に達し得て、天よりの使命を全くする事を得べし


3.本教創世記第5章

若き王仁三郎の社会観

神示を得るまでの王仁三郎の思想や精神状態は常に矛盾していたが、神示を得てからは落ち着いた。

 余は人生を不平に不愉快に、且つ不思議に感じて社会は何が何やら分らないのであった。富者を見ても貧者を見ても、余は常に一つの疑問を抱くのであった。

 土地と云い資本といい、一切の生産機関なるものは、人類全体の安心に天帝より生活せしむる為に与えられたものでは有るまいか。夫(そ)れを地主や資本家なる者が、自由に壟断したり占有して居るのは、人類全体の生活を左右し死命を制する所以(ゆえん)であるが、彼地主や資本家や、果して何の理由があり、何の徳があり、何の権利が有って、之を壟断し、専有し、増大し、以て、数多人類の幸福なり平和なり進運なりを蹂躙するのであろうか。一挙手の苦、一投足の労も無くして、飽食暖衣、放逸歓楽をほしいままにして、多数人類の労働の結果を略奪せしめて、しかも吾人は彼等の道義的盗賊を放養して、以て其専恣掠奪に任して置いて、一方には、多数の人類が常に飢餓凍死の域にこん転して、満足すべきものであろうか。考えれば考うる程、不理と矛盾とが充満してる如くに思われて、怪しき限りであったのである。

 而して、宗教はあって博愛を鼓吹するとも、未だ現世を救うに至らず、只死後の楽園を想像せしめて、吾人の心中にわずかに慰安を与うるにすぎない。現世の大矛盾を改めて、天国に到遠せしむるの器具ではないか。

 教育は、以て多大の智識を付与すると難も、未だ吾人の為に半日の衣食をも産出するものではないなり。

 法律なるものは、よく人の行為を責罰すれども、人類をして天国の人となさしめるの要具ではない。

 陸海の軍備は充実するも、人をよく屠殺して、地主、資本家を保護するのみで、多数飢凍の人類を安全に生活せしむるの利器ではない。

 鳴呼、如何にせば此の矛盾せる社会を一掃して天国となさしむる事が出来ようか。世界人類の苦痛と飢凍は、一日一日と急迫して来る。人類の多数は生活の自由と衣食の平等を求めんが為めに、一切の平和と進歩と幸福とを犠牲にせざればならぬのであるか。ああ、人生なるものは、果して如此(かくのごとく)不完全なるものであろうか。此れでも真理であろうか、正義であろうか、人道であろうかと、常に余が心中にこの観念のみが往復しつつあるのであったが、始めて神教を授かるに至って、余の決心は強固となったのである。

 神示を得て、社会に出て活動するべく決心した。しかし、誰も王仁三郎の言うことを聞かない。
この本教創世記では、後で出口和明氏などによって述べられる、「有栖川宮の落胤であった」というショックが高熊山に導いたということはないように思われるのですが。

 余が貴族の家に生まれたものであるとか、富豪の家に生まれたものであったなれば、一も二もなく賛成するものがあろうが、何分清貧者であって、労働者仲間に加わって車夫になったり、牛畜を牧したり、賤業に就事して居て、学校の課程も踏んでいない位であるから、信用するものがないのも無理なき次第ではある。

4.本教創世記第9章

西への旅立ち

 富士の眷属の芙蓉坊が「西に行け」と命じた。妻や母が心配するだろうから遺書を残した。

 王仁三郎の内縁の妻は多田琴であったそうですが、ここの妻もそうでしょうか。後の聖師伝では妻のことは出てきません。

 物質的文明に心酔している現社会の人民は、強食弱肉を以て天理の如く思考し、無慈悲で、殺伐で、利己主義である。悪魔同様である。

 現社会は黄金国ではない、地獄である。文明ではない。野蛮の頂点に達して、一も二もなく生物を殺して喰う猛獣国である。此(この)ままに放任して置いたなれば、此の世界は肉食の為めに破滅を来たさねば止まぬ。此肉食の為めに偽文明の人民が皆気が強くなり、勢が激しくなり、ナトリウムの為めに、始終肉体は火気を保って、活気は十分あるが、それに引き替え、慈悲心は断滅し、生存競争は益々狂烈になり、その所へ向けて無神論なぞの馬鹿の智識が東漸して、日本民族の日本的精神を変化させて、人民を小利口にし、小理窟を云う者斗りになって、神国たる事を全然忘却して、愛国を減少し、競うて異邦の道を尊重し、国体の神聖なるを解せずして、奇怪千万なる倫理説に迷うて、宗教なり道徳を疑い、社会の政令法度を馬鹿にし、敦厚なる風習を嘲り、大地震が揺らずとも、大戦争が無くとも、大暴風や大火災の為めでなくとも、此社会は自然に破滅する様に成って往くから、今の中に此大不都合なる社会の風潮を一掃して、精神的文明を鼓吹して、惟神の徳性を拡充し、以て世界人類の為めに身心を尽して、神界に祈請しつつあったが、今や天の時到りて、余の身は出世間の人となりたから、神教のまにまに円満芙麗なる天国に到り、心魂を清めて宇内の為めに奉ぜんとす。

 今や余が身は、余の自由にならざると同時に、余の心身は、毫も余の所有物にあらざるを覚悟したのであるから、天下公共の為めに、天の命を奉じて、天津神国に欺道(しどう)の大義を探究せんとするのである。而して余が身は、俗界を脱したる神の住み玉う城郭となったから、一時、母の事やの事、妹や弟の事等は忘れねばならん。必ず天下公共を救う為めの修業であるから、案じて呉れない様に。不在中は、神前に燈火を献じて、余が首尾よく神命を遂げて帰宅するのを祈って下さい。



第1版 2004/02/01
第1.1版(一部修正)2015/01/02

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