うろーおにうろー

裁判記録(24)

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裁判記録

○「素盞鳴尊は再び世に現はれて…」
○十二段返しの歌
○三種の神器
○大本の旗を付けた軍艦
○白馬に乗つた王仁三郎
○天皇に酷似した服装
○神聖会での王仁三郎の護衛
○六合拝
○王仁三郎便所の装置

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。

争点 「素盞鳴尊は再び世に現はれて…」

午後(ごご)二時二十五分開廷

出口 あ丶しんどい。

裁判長 三千六百六十八号の証拠(しようこ)品の二枚目に、「素盞鳴(すさのおを)尊は再び世に現はれて、大海原(おほうなばら)を治さめ給はむ」と云ふ歌が書いてありますね。

 (これ)は検挙当時(たうじ)島根県(しまねけん)別院(べつゐん)で書いたのか。

 お(まつ)りをした時に書いたのです。

 白石麗子と云ふ女に渡したのか。

 筆記さしたのです。

 どんな意味です。

 矢張(やつぱ)り、今に、世界戦争(せんさう)が起つて来るから、()の時に御守護(しゆご)遊ばすことです。

 誰が。

 素盞鳴(すさのおを)尊が霊界(れいかい)から御守護(しゆご)遊ばす。

 「世に現れる」と云ふことは、姿を以て現れるのではない、「あの霊徳(れいとく)を以て現れて来て、日本を助ける」と云ふのです。皇国(くわうこく)を救けられると云ふことを言つたのであります。

 戦争(せんさう)が起ると云ふことは、支那(しな)どころぢやない、ロシヤも世界戦争(せんさう)(これ)から起ると云ふことを見て()るのであります。

 素盞鳴(すさのおを)尊の推進力を以て、()の世界に日本が勝つと云ふ意味です。

 (これ)は、素盞鳴(すさのおを)尊の王仁三郎(おにさぶらう)霊代(たましろ)となつて、世に現れて、世界を治める、と云ふのぢやないだらうな。

 それは(ちが)ひます。

 神様(かみさま)がなさると云ふのです。


争点 十二段返しの歌

 中野与之助に対する治安維持(ゐぢ)法違反、並に不敬事実(じじつ)証拠(しようこ)品の一号証ですが、此処(ここ)に十二段返しの歌がありますが……。

 見せて(もら)ひました。

 王仁三郎(おにさぶらう)が作つたのですか。

 私は知らぬです、初めて見たのですもの、大本(おほもと)時々(ときどき)色々(いろいろ)のものが出て来て(こしら)へる者があるのです。

 それで、「大本(おほもと)には秘密があるやろ」とか何とか言うて、それに書く者がある……初めてそれは見たのです。

 十回の一問答に(おい)て、「私は、大正(たいしやう)六年十二月頃に、綾部(あやべ)の西町の大槻(おほつき)鹿造(しかざう)方に行つた時に、近所に四十歳(くらゐ)の女の人が()りまして、()の人が天理教(てんりけう)筆先(ふでさき)を持つて(をつ)て、『今の天子様(てんしさま)は外国から来られたのである』と云ふ趣旨(しゆし)のことが書いてありました。(また)()の時、()の女が、『天理教(てんりけう)の管長様の中山新次郎さんが日本の心、(すなは)ち中心になるのである』と言つて()つた。()天理教(てんりけう)筆先(ふでさき)(およ)女の話からヒントを得て、大本(おほもと)に帰つて、私が別荘(べつさう)と言つて()つた六畳敷の部屋(へや)で、白紙(はくし)縦横(たてよこ)に線を引いて、二十二字宛字が書けるやうに……四段目に」

 それは大分(だいぶん)(ちが)ひます。

 それは私の意思(いし)ぢやありませぬ。実は()うです。私は引つ(かか)つたのです、「天理教(てんりけう)(あや)しからぬものだ」と言やはられたのです。

 「『()(もと)の真の柱は唐人や』と云ふことを天理教(てんりけう)は言うて()る。()う云ふ(あや)しからぬことを言うて()る」と言はれたので、「それは(あや)しからぬ。私もさう云ふことならば聞いたと思ひます──大槻(おほつき)鹿造(しかざう)の隣に宿があつて、其処(そこ)に四十歳(くらゐ)の人が飴売りに来て()つた。さうして、『新次郎と言つて天理教(てんりけう)の管長さんが、心になる人だから』と言つて()りましたから、(あや)しからぬ」と云ふことを認めて()りました。

 さうしたら……()の時はそれで済んで()つたが、十日程してからそれをお書きになつて、「お前は加藤にそれを書かしたのやろ」と言やはりましたけれども、私は七年頃にはそれに会ひましたけれども、加藤には十年初めて会うたのです。

 仕方(しかた)がないから、「へえ」と言うて()りました。

 どんなことがあつても聴かはりまへぬもの。

 証拠(しようこ)も無し、神様(かみさま)が知つて()らはるのだから、と云ふので向ふの(おつ)しやる通り認めて置いたのです。

 (しか)しながら、そこに(めう)なことには、

  いつの日か如何(いか)なる人の解くやらむ

     ()天地(てんち)の大いなる謎

と云ふのがある、(これ)はあさのが十一年に作つた歌です。

 それが七年にそんな歌がありさうなことがありまへぬ。

 十二年頃に作つた歌が「神の国」の十二年発行(はつかう)の五月号の十五頁に、(たし)かにあさのが()の歌を書きまして、色紙に書いてちやんと出して()ります。

 七年頃に書いたと云ふことも(うそ)ですし、「七年頃に()の者が()つた」と云ふ話はしましたけれども、私はそんなことは書いて()りまへぬ。

 (あるひ)は、今考へて見るのに、ひよつとしたら、静岡県(しづをかけん)(めう)(やつ)()つて、()連中(れんちう)が私の蒙古(もうこ)へ行つた留守の間に()神霊界(しんれいかい)を見()つて、()の歌を書いて()つてそんなものを作つたのぢやないかと云ふやうに思ふのです。

 静岡(しづをか)……。

 神霊界(しんれいかい)ぢやない、神の国に出て()つた、十二年の五月号に……

 ()の歌が。

 「大いなる謎」と云ふあさのの歌が。

 ()の歌の読み方は──。

 歌は別です。

 あさのが……。

 歌つて()るのは別です。そんなのとは違ふ。

 ()の意味は、私がああ云ふことになつたりして、自分がもう(これ)程神さんを信仰(しんかう)して()るのに、()んな目に遭ふのは何故(なぜ)か判らぬ、と言つて(くや)んで()つて作つたのだから──何とか云ふ男が……

 (これ)は知らぬ人でございますけれども、与野何とか云ふ男が、誰に(もら)うたか知りまへぬが、()(もら)うた人を調べて(もら)うたら判るのです。

 私は書いた覚えはないのです。見た覚えもありませぬ。

 それでは、予審で言うて、作つた時の顛末(てんまつ)を書いたのは(うそ)だと云ふのだな。

 ()んな歌を作つたのは誰か判らぬと言ふのだね。

 さうです。(あるひ)は、湯ケ島の者が作つたのやないか、と云ふことを思ふのでありまして、それは何故(なぜ)かと云ふと、筆先(ふでさき)を──(にせ)筆先(ふでさき)を書く人がありまして、色々(いろいろ)のことを書いて()りまして、私はそれを見付けたから、破らして燃やさしてしまつたのであります。

 後から書いて()つたかも知れないが……私は誠の為に「(にせ)筆先(ふでさき)」と書いてどつかに書いて置いたことがあります。

 ()の意味合のことに付ては、第十回の一問答に(おい)(くは)しく説明(せつめい)して()るが、()の歌を見たことがあるか。

 初めて見たのです。

 今迄(いままで)見たことがありまへぬ。

 それにしては能く説明(せつめい)して()るのぢやないか。

 「()うやろ/\」と言つて字を書いて……皆(これ)は向ふから書かれたので、私は説明(せつめい)してやしまへぬ。

 ぢや(たづ)ねるが、四段目の右から左に読むと「綾部(あやべ)天子(てんし)(かく)せり」、(また)、八段目を左から右に読むと、「(かしこ)多くも、今の天子(てんし)偽者なり」と書いて()る。

 さうです。初めてそれを見た。

 今迄(いままで)そんなことを書いた覚へもありまへぬ。やつた覚えもありまへぬ。()しもなそやつたら、綾部(あやべ)の者が持つて()つたならば綾部(あやべ)の者が書いたに(ちが)ひないが、私は初めて見たのであります。

 最前の長いものと(これ)大変(たいへん)やと思つて迷惑(めいわく)して()るものです。


争点 三種の神器

 それからね、四十九回の一問答の(一)に()りますと、昭和十年の十一月上旬に亀岡(かめをか)の透明殿の二階の一室(いつしつ)に三種の神器(しんき)()した、鏡と(たま)(つるぎ)を置いて()つたと云ふが……。

 是等(これら)は、

 何ですか。

 (もら)うたのです、藤井と云ふ人が、三種の神器(しんき)を木で(こしら)へたのです。

 鏡も木で作り、劔も(こしら)へたりして、(これ)穴太(あなを)神聖(しんせい)神社(じんじや)(こしら)へて()る時に、「()の三種の神器(しんき)(まつ)るのはいかぬ、天照大神(あまてらすおほかみ)の大霊だからいかぬ」と云ふので、何を持つて来たのです。

 藤井と云ふ人が…ちよつと気の変つた人です。

 (また)其処(そこ)へ鶴殿さんと云ふ九条公の妹さんが三種の神器(しんき)を持つて来て、「神聖会(しんせひかひ)のお宮を建てるならば、(これ)御神体(ごしんたい)にして()れ」と言つて持つて来た。

 それは、三種の神器(しんき)をお祀りして、穴太(あなを)に残つたのを置いて置いたのです。


争点 大本の旗を付けた軍艦

 (二)の所の、昭和五年頃から高天閣の一室(いつしつ)に、艦首に更始会の紋の付いた旗、マストに十曜(とえう)の紋の付いた旗を立てた軍艦(ぐんかん)の模型を置いてありましたが、透明殿の出来(でき)た時、()の模型を同殿(どうでん)のに階に移したと云ふがそれはどうぢや。

 (もら)うたのです。

 (これ)は海軍の士官が夢を見たと云ふのです──。五、六人の人が、日本の軍艦(ぐんかん)米国(べいこく)軍艦(ぐんかん)とが戦うた時に、最後(さいご)の時に、帆柱の上に白衣の観音(くわんのん)さんが現れて、さうして()の人から光が出て敵艦が亡びてしまふ──()う云ふ夢を見たと云ふのです。

 (これ)は考へて見ると、大本(おほもと)かも知れない、と云ふので、皆寄つて(こしら)えて──百何十(なんじふ)円か(かか)つたさうです。

 大本(おほもと)に持つて来た()の時には、(をそれ)多くも菊の紋が付けてあつた、。是(これ)はどうもいかぬから、せめて大本(おほもと)の紋に変へて(もら)はなければ困ると言つて変へて(もら)つたのです。


争点 白馬に乗つた王仁三郎

 それから、(三)に()ると、豊生館内に白馬に御召(おめし)になつて()られる大正(たいしやう)天皇さまの御写真と、()の向つて左横に王仁三郎(おにさぶらう)の白馬に乗つた写真を並べて()けて置いたと云ふことだが──。

 それは(うそ)です。

 私が行く時には、何へ行く出雲(いづも)へお(まつ)りに行く時ずつと一遍(まは)つた。()の時に何処(どこ)にも(かか)つてやしまへぬ。

 それに、大正(たいしやう)天皇さまの白馬に御召(おめし)になつて()る写真と云ふものは大本(おほもと)にはありまへぬ。大きなものはありまへぬです。

 それが、写真にちやんと載つて()るから、大変(たいへん)不思議に思つて()るのです。

 それを予審で見せて(もら)ひましたか。

 見たことがありませぬ……

 見せて(もら)うたが、「私はそんなことは知りまへぬ」と言つた。

 「私が知らぬ間に誰ぞ青年(せいねん)会の者が」……、「そんなことを言ふならば、青年(せいねん)会の者が罪になるぞ」と言はれたから、(だま)つて()つたのであります。

 ちよつと(をそれ)多い話だがね。

 私もさう思つて()ります。

 大正(たいしやう)天皇とありますが、今上陛下の御写真ですね。

 さうですね、初めて見たのです。

 今上陛下の御写真と、白馬に乗つた王仁三郎(おにさぶらう)の写真を(なら)べて()けてあつたことは……。

 ()けてなかつたのです。

 後から誰か()けたか知らぬと思つたが、私は知らぬ。私はちよつとも知りまへぬ。私の白馬に乗つて()る、そんな大きなのも知りまへぬ。

 関知せぬと云ふのです。本当に知らぬならばそれで(よろ)しい。

 四の事実(じじつ)は、「昭和八年の八月に亀岡(かめをか)の東光苑に(おい)て白馬に乗つて昭和青年(せいねん)会の査閲分列式を行つて、式後岡部と云ふ退役軍人(ぐんじん)信者(しんじや)()つて、それが旗手となつて昭和青年(せいねん)会の騎馬隊の三角旗を立てて先頭(せんとう)に進んで、()の次に、王仁三郎(おにさぶらう)が白馬に乗つて昭和青年(せいねん)会を率ひて亀岡(かめをか)から穴太(あなを)行進(かうしん)した。()の時の写真(およ)記事(きじ)(とう)真如(しんによ)能光(およ)同年(どうねん)九月発行(はつかう)神の国に掲載(けいさい)してある」とあります。(また)、「右以外(いぐわい)にも、二回程、白馬に乗つて昭和青年(せいねん)会の査閲を行つたことがあるが」と言つて()るが、(これ)はどうぢや。

 それはあるのです。

 けれども、(これ)は、蒙古(もうこ)に行つた時で、向ふでは宗教家(しうけうか)全部(ぜんぶ)白馬に乗るのです。

 宗教家(しうけうか)と見たら敵が撃たぬのですから、蒙古(もうこ)では喇嘛(ラマ)は白馬に乗りますが、喇嘛(ラマ)を皆信仰(しんかう)して()りますから、敵の中へ入つても白い馬だつたら撃たない。

 それで、私は、向ふで白馬に乗つて(をつ)た。私の白馬に乗つて()る写真はこつちへ持つて来た。(また)、白馬の赤い奴を取り下げて、(つま)り、言うたら、自分の方から下げて(もら)つたのです。

 さうした所が、もう廃馬になつた赤い馬ですから、ちよつと穴太(あなを)に行つたら二度目にはへたつてしまつた。そんな馬を買はされた。乗つたのは本当です。

 陛下の三角旗を立てて、儀仗(ぎぢやう)警衛(けいゑい)真似(まね)て、分列式の査閲(さえつ)を行つたのはちよつとげせぬぢやないか。

 それは軍人(ぐんじん)さんが皆()つたものだから……私は知りまへぬもの。

 陛下の観兵式と同じだらう。

 ちよつとも、三角旗があつたことも、何も知らなんだのです。


儀仗 ぎぢやう (1) 儀式に用いる装飾的で形式化した武器。(2)儀式。

警衛 けいゑい 警戒し守ること。また、その人。警護。

査閲 さえつ 軍事教練の成績を実地に調べること。



争点 天皇に酷似した服装

 それから()の点はどうだ、大正(たいしやう)九年頃に福知山(ふくちやま)装束(しやうぞく)屋衣川と云ふ者に……。

 (きぬ)川です。

 黄櫨染(くわうろぜん)(はう)と云ふものを(こしら)へさせて()つたと言ふが、今天皇陛下が御召(おめし)になるものぢやないのか。

 それはクウロンの活仏から……黄色のが一番上なんです。紅教(こうけう)と言ひまして、紅教(こうけう)の方は紅の着物を着、黄教(わうけう)と云ふのは黄色の着物を着る。()の布を()れた。布を(これ)程(と手真似(まね)しながら)()れた。それが、方式です。

 それを蒙古(もうこ)に行く時分(じぶん)に、()の時に、「(これ)を着て行かなければならぬ。()の布の色の何を(こしら)へて()れ」と言つて置いた。

 (ところ)が、そんな物を(こしら)へて来た。色はちよつと違つて()ります。けれども、あれを衣川が持つて来ました。

 「(これ)はちよつとおかしくないか」と言ひましたら、衣川の言ふには、「()の代り、大本(おほもと)十曜(とえう)の紋とか松とか梅とかが書いてあるから差支(さしつか)ない。私は有職(いうそく)故実(こじつ)を学んで()る。先祖代々(せんぞだいだい)のことだから気遣(きづか)はおへぬ。」と言ふのです。

 おかしいとは思つたのか。

 私は判りまへぬけれども、何だとか彼だとか大層(たいそう)に言ふから、ひよつとしたらさうやないかなと言つたら、霊が懸つて来て、「大本(おほもと)御祭(おまつり)をする時には、稚宮さん(すなは)ち仁徳天皇さん、綾部(あやべ)の八幡さん(すなは)ち応仁天皇さん、()の神がお出でになるから御懸(をかかり)になつた時にはどうしても着なければいかぬ」と云ふことだつた。着るのは嫌やと言つたら……

 それで一遍着たのですわ。それがどうしても着まいと思うても、体が硬ばつて仕方(しかた)がないから着た。そしたらすつと直つたのです。二度より着て()やしまへぬ。

黄櫨染の[御]袍 くわうろぜんのごはう 天皇が年中の祭儀に着ける黄櫨染の袍。桐・竹・鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)の地紋がある。夏は生絹(すずし)、冬は練絹で裏は同色の平絹、腋(わき)は縫腋(ほうえき)。明治以後は即位礼にも着用する。


争点 神聖会での王仁三郎の護衛

 それから昭和神聖会(しんせひかひ)統管(とうかん)として、統管(とうかん)服を着て天恩郷(てんおんきやう)出入(でい)りする時とか、(あるひ)地方(ちはう)本部へ行く時とか云ふ場合(ばあひ)には、統管(とうかん)旗を持つた旗手を先頭(せんとう)に立てて、王仁三郎(おにさぶらう)の乗つてる自動車(じどうしや)前駆(まえがけ)後駆(あとがけ)として神聖(しんせい)会員(くわいゐん)が、自転車(また)は自動自転車に乗つて護衛して()つたと云ふが本当か。

 それはさうです。それは下位さんが指図してさしたのです。

 前後(まへうしろ)駆を……統管(とうかん)旗を立てゝ出入(でいり)することをか。

 「()る人が、東京であんたを(ねら)うて()る者がある。あんたを暗殺しようとして()る者がある。あんた要心して後、先を守つて(もら)はなければならぬ」と云ふので、守つて(もら)つた。

 それで、自分の先へも行き、後へも行くと云ふ具合(ぐあひ)になつたのでずる/\べつたりになつたのです。

 参謀長と云ふのが下位ですが、下位が、「構やしまへぬ、伊太利で私がやつて来たのや」と言つて……。

 (これ)統管(とうかん)旗か。

()の時統管(とうかん)旗を示す)

 さうです、(これ)は歩いたから(よご)れたのです。


争点 六合拝

 ()う云ふことは余り面白(おもしろ)くないのぢやないか。前駆(まえがけ)後駆(あとがけ)を設けると云ふやうなことは。

 それから、七番を()いて八番に行きませう。

 大正(たいしやう)八年頃から毎年の旧正月(しやうぐわつ)夜明(よあけ)前に祭祀(さいし)課長(および)幹部(かんぶ)の五、六人を連れて、綾部(あやべ)黄金閣(わうごんかく)の三階に上つて六合(りくがふ)拝と云ふのをやつて()つたのか。

 はいやつて()りました。

 後から止めたのか。

 止めたのであります。

 (これ)は、宮中(きうちう)四方拝(しはうはい)真似(まね)たのか。

 神さんの命令で、天地(てんち)四方(しはう)を拝むと云ふことになつて()りますから、四方拝(しはうはい)真似(まね)たらそれをやるのですが……

 四方拝(しはうはい)の時は皆朝起きて拝みます。お(まつ)りを(いた)します。

 (これ)は旧の正月(しやうぐわつ)神様(かみさま)綾部(あやべ)へ下つて来るから拝め、と云ふことだつたのです。

 ()六合(りくがふ)拝の時に、

  天が下四方(よも)国々(くにぐに)ことぐく

    (わが)言霊(ことたま)(なび)き伏すらむ

と云ふ歌を唱へて()つたのは、(これ)何時(いつ)頃か。

 一遍だけでした。

 十四年頃からですか。

 毎年(ちが)ひます。

 (これ)はどう云ふ意味だ。

 (つま)り私の口から出た教が、風に草木(さうもく)(なび)き伏すが(ごと)くに、世界中(せかいぢう)に拡まるであらうと云ふ意味です。

 「らむ」ですから弱い言葉(ことば)です。

四方拝 しはうはい 一月一日に行われる皇室祭儀。四大節の一。明治以前は元旦寅の刻に天皇が清涼殿の東庭で属星(ぞくしよう)を唱え、天地四方・山陵を拝して年災を払い、五穀豊穣・宝祚(ほうそ)長久を祈った。現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。陰陽道(おんようどう)に由来。


争点 王仁三郎便所の装置

 それから王仁三郎(おにさぶらう)の、便所(べんじよ)の装置は、ちよつと大分(だいぶん)高貴(かうき)の方の便所(べんじよ)の構造装置に似て()るのだと云ふぢやないか。

 そんなことは知りまへぬ。

 設備構造をどなたかのに真似(まね)たやうなことは……。

 そんなことは知りまへぬ。存じまへぬ。

 此処(ここ)が似て()るか似て()ないか、なにがやつたのですから……大工(だいく)がやつたのですから、別に立派な装置とも思つて()りまへぬ。そんな立派なものだと言はれるやうな便所(べんじよ)ではありませぬ。

 (ただ)変つて()つたのは、二畳(くらゐ)座敷(ざしき)(こしら)えまして、前に机を置いてl(いそ)がしいのですから(しり)(まく)つてなにして()る間に、眼鏡(めがね)()けて、前に仏書とか基督教(キリストけう)の本を置いて読むことが出来(でき)るやうになつて()りましたが。

 (しか)し、ちよつとそこらの宿屋(やどや)に行つたら……刑務所の第五房の便所(べんじよ)の装置でも立派なものです。縁から水が出て来て立派なものです。あれよりも悪いのでございます。