うろーおにうろー
裁判記録(24)
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裁判記録
○「素盞鳴尊は再び世に現はれて…」
○十二段返しの歌
○三種の神器
○大本の旗を付けた軍艦
○白馬に乗つた王仁三郎
○天皇に酷似した服装
○神聖会での王仁三郎の護衛
○六合拝
○王仁三郎便所の装置
原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。
争点 「素盞鳴尊は再び世に現はれて…」
午後
(
ごご
)
二時二十五分開廷
出口
あ丶しんどい。
裁判長
三千六百六十八号の
証拠
(
しようこ
)
品の二枚目に、「
素盞鳴
(
すさのおを
)
尊は再び世に現はれて、
大海原
(
おほうなばら
)
を治さめ給はむ」と云ふ歌が書いてありますね。
是
(
これ
)
は検挙
当時
(
たうじ
)
、
島根県
(
しまねけん
)
の
別院
(
べつゐん
)
で書いたのか。
答
お
祀
(
まつ
)
りをした時に書いたのです。
問
白石麗子と云ふ女に渡したのか。
答
筆記さしたのです。
問
どんな意味です。
答
矢張
(
やつぱ
)
り、今に、世界
戦争
(
せんさう
)
が起つて来るから、
其
(
そ
)
の時に御
守護
(
しゆご
)
遊ばすことです。
問
誰が。
答
素盞鳴
(
すさのおを
)
尊が
霊界
(
れいかい
)
から御
守護
(
しゆご
)
遊ばす。
「世に現れる」と云ふことは、姿を以て現れるのではない、「あの
霊徳
(
れいとく
)
を以て現れて来て、日本を助ける」と云ふのです。
皇国
(
くわうこく
)
を救けられると云ふことを言つたのであります。
戦争
(
せんさう
)
が起ると云ふことは、
支那
(
しな
)
どころぢやない、ロシヤも世界
戦争
(
せんさう
)
が
是
(
これ
)
から起ると云ふことを見て
居
(
を
)
るのであります。
素盞鳴
(
すさのおを
)
尊の推進力を以て、
此
(
こ
)
の世界に日本が勝つと云ふ意味です。
問
是
(
これ
)
は、
素盞鳴
(
すさのおを
)
尊の
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
霊代
(
たましろ
)
となつて、世に現れて、世界を治める、と云ふのぢやないだらうな。
答
それは
違
(
ちが
)
ひます。
神様
(
かみさま
)
がなさると云ふのです。
争点 十二段返しの歌
問
中野与之助に対する治安
維持
(
ゐぢ
)
法違反、並に不敬
事実
(
じじつ
)
の
証拠
(
しようこ
)
品の一号証ですが、
此処
(
ここ
)
に十二段返しの歌がありますが……。
答
見せて
貰
(
もら
)
ひました。
問
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が作つたのですか。
答
私は知らぬです、初めて見たのですもの、
大本
(
おほもと
)
に
時々
(
ときどき
)
色々
(
いろいろ
)
のものが出て来て
拵
(
こしら
)
へる者があるのです。
それで、「
大本
(
おほもと
)
には秘密があるやろ」とか何とか言うて、それに書く者がある……初めてそれは見たのです。
問
十回の一問答に
於
(
おい
)
て、「私は、
大正
(
たいしやう
)
六年十二月頃に、
綾部
(
あやべ
)
の西町の
大槻
(
おほつき
)
鹿造
(
しかざう
)
方に行つた時に、近所に四十歳
位
(
くらゐ
)
の女の人が
居
(
を
)
りまして、
其
(
そ
)
の人が
天理教
(
てんりけう
)
の
筆先
(
ふでさき
)
を持つて
居
(
をつ
)
て、『今の
天子様
(
てんしさま
)
は外国から来られたのである』と云ふ
趣旨
(
しゆし
)
のことが書いてありました。
又
(
また
)
、
其
(
そ
)
の時、
其
(
そ
)
の女が、『
天理教
(
てんりけう
)
の管長様の中山新次郎さんが日本の心、
即
(
すなは
)
ち中心になるのである』と言つて
居
(
を
)
つた。
其
(
そ
)
の
天理教
(
てんりけう
)
の
筆先
(
ふでさき
)
及
(
およ
)
女の話からヒントを得て、
大本
(
おほもと
)
に帰つて、私が
別荘
(
べつさう
)
と言つて
居
(
を
)
つた六畳敷の
部屋
(
へや
)
で、
白紙
(
はくし
)
に
縦横
(
たてよこ
)
に線を引いて、二十二字宛字が書けるやうに……四段目に」
答
それは
大分
(
だいぶん
)
違
(
ちが
)
ひます。
それは私の
意思
(
いし
)
ぢやありませぬ。実は
斯
(
か
)
うです。私は引つ
掛
(
かか
)
つたのです、「
天理教
(
てんりけう
)
は
怪
(
あや
)
しからぬものだ」と言やはられたのです。
「『
日
(
ひ
)
の
本
(
もと
)
の真の柱は唐人や』と云ふことを
天理教
(
てんりけう
)
は言うて
居
(
を
)
る。
斯
(
か
)
う云ふ
怪
(
あや
)
しからぬことを言うて
居
(
を
)
る」と言はれたので、「それは
怪
(
あや
)
しからぬ。私もさう云ふことならば聞いたと思ひます──
大槻
(
おほつき
)
鹿造
(
しかざう
)
の隣に宿があつて、
其処
(
そこ
)
に四十歳
位
(
くらゐ
)
の人が飴売りに来て
居
(
を
)
つた。さうして、『新次郎と言つて
天理教
(
てんりけう
)
の管長さんが、心になる人だから』と言つて
居
(
を
)
りましたから、
怪
(
あや
)
しからぬ」と云ふことを認めて
居
(
を
)
りました。
さうしたら……
其
(
そ
)
の時はそれで済んで
居
(
を
)
つたが、十日程してからそれをお書きになつて、「お前は加藤にそれを書かしたのやろ」と言やはりましたけれども、私は七年頃にはそれに会ひましたけれども、加藤には十年初めて会うたのです。
仕方
(
しかた
)
がないから、「へえ」と言うて
居
(
を
)
りました。
どんなことがあつても聴かはりまへぬもの。
証拠
(
しようこ
)
も無し、
神様
(
かみさま
)
が知つて
居
(
を
)
らはるのだから、と云ふので向ふの
仰
(
おつ
)
しやる通り認めて置いたのです。
併
(
しか
)
しながら、そこに
妙
(
めう
)
なことには、
いつの日か
如何
(
いか
)
なる人の解くやらむ
此
(
こ
)
の
天地
(
てんち
)
の大いなる謎
と云ふのがある、
是
(
これ
)
はあさのが十一年に作つた歌です。
それが七年にそんな歌がありさうなことがありまへぬ。
十二年頃に作つた歌が「神の国」の十二年
発行
(
はつかう
)
の五月号の十五頁に、
確
(
たし
)
かにあさのが
其
(
そ
)
の歌を書きまして、色紙に書いてちやんと出して
居
(
を
)
ります。
七年頃に書いたと云ふことも
嘘
(
うそ
)
ですし、「七年頃に
其
(
そ
)
の者が
居
(
を
)
つた」と云ふ話はしましたけれども、私はそんなことは書いて
居
(
を
)
りまへぬ。
或
(
あるひ
)
は、今考へて見るのに、ひよつとしたら、
静岡県
(
しづをかけん
)
に
妙
(
めう
)
な
奴
(
やつ
)
が
居
(
を
)
つて、
其
(
そ
)
の
連中
(
れんちう
)
が私の
蒙古
(
もうこ
)
へ行つた留守の間に
其
(
そ
)
の
神霊界
(
しんれいかい
)
を見
居
(
を
)
つて、
其
(
そ
)
の歌を書いて
居
(
を
)
つてそんなものを作つたのぢやないかと云ふやうに思ふのです。
問
静岡
(
しづをか
)
……。
答
神霊界
(
しんれいかい
)
ぢやない、神の国に出て
居
(
を
)
つた、十二年の五月号に……
問
其
(
そ
)
の歌が。
答
「大いなる謎」と云ふあさのの歌が。
問
此
(
こ
)
の歌の読み方は──。
答
歌は別です。
問
あさのが……。
答
歌つて
居
(
を
)
るのは別です。そんなのとは違ふ。
此
(
こ
)
の意味は、私がああ云ふことになつたりして、自分がもう
是
(
これ
)
程神さんを
信仰
(
しんかう
)
して
居
(
を
)
るのに、
斯
(
こ
)
んな目に遭ふのは
何故
(
なぜ
)
か判らぬ、と言つて
悔
(
くや
)
んで
居
(
を
)
つて作つたのだから──何とか云ふ男が……
是
(
これ
)
は知らぬ人でございますけれども、与野何とか云ふ男が、誰に
貰
(
もら
)
うたか知りまへぬが、
其
(
そ
)
の
貰
(
もら
)
うた人を調べて
貰
(
もら
)
うたら判るのです。
私は書いた覚えはないのです。見た覚えもありませぬ。
問
それでは、予審で言うて、作つた時の
顛末
(
てんまつ
)
を書いたのは
嘘
(
うそ
)
だと云ふのだな。
斯
(
こ
)
んな歌を作つたのは誰か判らぬと言ふのだね。
答
さうです。
或
(
あるひ
)
は、湯ケ島の者が作つたのやないか、と云ふことを思ふのでありまして、それは
何故
(
なぜ
)
かと云ふと、
筆先
(
ふでさき
)
を──
偽
(
にせ
)
の
筆先
(
ふでさき
)
を書く人がありまして、
色々
(
いろいろ
)
のことを書いて
居
(
を
)
りまして、私はそれを見付けたから、破らして燃やさしてしまつたのであります。
後から書いて
居
(
を
)
つたかも知れないが……私は誠の為に「
偽
(
にせ
)
の
筆先
(
ふでさき
)
」と書いてどつかに書いて置いたことがあります。
問
此
(
こ
)
の意味合のことに付ては、第十回の一問答に
於
(
おい
)
て
詳
(
くは
)
しく
説明
(
せつめい
)
して
居
(
を
)
るが、
此
(
こ
)
の歌を見たことがあるか。
答
初めて見たのです。
今迄
(
いままで
)
見たことがありまへぬ。
問
それにしては能く
説明
(
せつめい
)
して
居
(
を
)
るのぢやないか。
答
「
斯
(
か
)
うやろ/\」と言つて字を書いて……皆
是
(
これ
)
は向ふから書かれたので、私は
説明
(
せつめい
)
してやしまへぬ。
問
ぢや
訊
(
たづ
)
ねるが、四段目の右から左に読むと「
綾部
(
あやべ
)
に
天子
(
てんし
)
を
隠
(
かく
)
せり」、
又
(
また
)
、八段目を左から右に読むと、「
畏
(
かしこ
)
多くも、今の
天子
(
てんし
)
偽者なり」と書いて
居
(
を
)
る。
答
さうです。初めてそれを見た。
今迄
(
いままで
)
そんなことを書いた覚へもありまへぬ。やつた覚えもありまへぬ。
若
(
も
)
しもなそやつたら、
綾部
(
あやべ
)
の者が持つて
居
(
を
)
つたならば
綾部
(
あやべ
)
の者が書いたに
違
(
ちが
)
ひないが、私は初めて見たのであります。
最前の長いものと
是
(
これ
)
は
大変
(
たいへん
)
やと思つて
迷惑
(
めいわく
)
して
居
(
を
)
るものです。
争点 三種の神器
問
それからね、四十九回の一問答の(一)に
依
(
よ
)
りますと、昭和十年の十一月上旬に
亀岡
(
かめをか
)
の透明殿の二階の
一室
(
いつしつ
)
に三種の
神器
(
しんき
)
に
擬
(
ぎ
)
した、鏡と
璽
(
たま
)
と
劔
(
つるぎ
)
を置いて
居
(
を
)
つたと云ふが……。
答
是等
(
これら
)
は、
問
何ですか。
答
貰
(
もら
)
うたのです、藤井と云ふ人が、三種の
神器
(
しんき
)
を木で
拵
(
こしら
)
へたのです。
鏡も木で作り、劔も
拵
(
こしら
)
へたりして、
之
(
これ
)
を
穴太
(
あなを
)
で
神聖
(
しんせい
)
神社
(
じんじや
)
を
拵
(
こしら
)
へて
居
(
を
)
る時に、「
此
(
こ
)
の三種の
神器
(
しんき
)
を
祀
(
まつ
)
るのはいかぬ、
天照大神
(
あまてらすおほかみ
)
の大霊だからいかぬ」と云ふので、何を持つて来たのです。
藤井と云ふ人が…ちよつと気の変つた人です。
又
(
また
)
、
其処
(
そこ
)
へ鶴殿さんと云ふ九条公の妹さんが三種の
神器
(
しんき
)
を持つて来て、「
神聖会
(
しんせひかひ
)
のお宮を建てるならば、
之
(
これ
)
を
御神体
(
ごしんたい
)
にして
呉
(
く
)
れ」と言つて持つて来た。
それは、三種の
神器
(
しんき
)
をお祀りして、
穴太
(
あなを
)
に残つたのを置いて置いたのです。
争点 大本の旗を付けた軍艦
問
(二)の所の、昭和五年頃から高天閣の
一室
(
いつしつ
)
に、艦首に更始会の紋の付いた旗、マストに
十曜
(
とえう
)
の紋の付いた旗を立てた
軍艦
(
ぐんかん
)
の模型を置いてありましたが、透明殿の
出来
(
でき
)
た時、
其
(
そ
)
の模型を
同殿
(
どうでん
)
のに階に移したと云ふがそれはどうぢや。
答
貰
(
もら
)
うたのです。
是
(
これ
)
は海軍の士官が夢を見たと云ふのです──。五、六人の人が、日本の
軍艦
(
ぐんかん
)
と
米国
(
べいこく
)
の
軍艦
(
ぐんかん
)
とが戦うた時に、
最後
(
さいご
)
の時に、帆柱の上に白衣の
観音
(
くわんのん
)
さんが現れて、さうして
其
(
そ
)
の人から光が出て敵艦が亡びてしまふ──
斯
(
か
)
う云ふ夢を見たと云ふのです。
是
(
これ
)
は考へて見ると、
大本
(
おほもと
)
かも知れない、と云ふので、皆寄つて
拵
(
こしら
)
えて──百
何十
(
なんじふ
)
円か
掛
(
かか
)
つたさうです。
大本
(
おほもと
)
に持つて来た
其
(
そ
)
の時には、
畏
(
をそれ
)
多くも菊の紋が付けてあつた、。是
(
これ
)はどうもいかぬから、せめて
大本
(
おほもと
)
の紋に変へて
貰
(
もら
)
はなければ困ると言つて変へて
貰
(
もら
)
つたのです。
争点 白馬に乗つた王仁三郎
問
それから、(三)に
依
(
よ
)
ると、豊生館内に白馬に
御召
(
おめし
)
になつて
居
(
を
)
られる
大正
(
たいしやう
)
天皇さまの御写真と、
其
(
そ
)
の向つて左横に
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の白馬に乗つた写真を並べて
掛
(
か
)
けて置いたと云ふことだが──。
答
それは
嘘
(
うそ
)
です。
私が行く時には、何へ行く
出雲
(
いづも
)
へお
祀
(
まつ
)
りに行く時ずつと一遍
廻
(
まは
)
つた。
其
(
そ
)
の時に
何処
(
どこ
)
にも
掛
(
かか
)
つてやしまへぬ。
それに、
大正
(
たいしやう
)
天皇さまの白馬に
御召
(
おめし
)
になつて
居
(
を
)
る写真と云ふものは
大本
(
おほもと
)
にはありまへぬ。大きなものはありまへぬです。
それが、写真にちやんと載つて
居
(
を
)
るから、
大変
(
たいへん
)
不思議に思つて
居
(
を
)
るのです。
問
それを予審で見せて
貰
(
もら
)
ひましたか。
答
見たことがありませぬ……
見せて
貰
(
もら
)
うたが、「私はそんなことは知りまへぬ」と言つた。
「私が知らぬ間に誰ぞ
青年
(
せいねん
)
会の者が」……、「そんなことを言ふならば、
青年
(
せいねん
)
会の者が罪になるぞ」と言はれたから、
黙
(
だま
)
つて
居
(
を
)
つたのであります。
問
ちよつと
畏
(
をそれ
)
多い話だがね。
答
私もさう思つて
居
(
を
)
ります。
問
大正
(
たいしやう
)
天皇とありますが、今上陛下の御写真ですね。
答
さうですね、初めて見たのです。
問
今上陛下の御写真と、白馬に乗つた
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の写真を
竝
(
なら
)
べて
掛
(
か
)
けてあつたことは……。
答
掛
(
か
)
けてなかつたのです。
後から誰か
掛
(
か
)
けたか知らぬと思つたが、私は知らぬ。私はちよつとも知りまへぬ。私の白馬に乗つて
居
(
を
)
る、そんな大きなのも知りまへぬ。
問
関知せぬと云ふのです。本当に知らぬならばそれで
宜
(
よろ
)
しい。
四の
事実
(
じじつ
)
は、「昭和八年の八月に
亀岡
(
かめをか
)
の東光苑に
於
(
おい
)
て白馬に乗つて昭和
青年
(
せいねん
)
会の査閲分列式を行つて、式後岡部と云ふ退役
軍人
(
ぐんじん
)
の
信者
(
しんじや
)
が
居
(
を
)
つて、それが旗手となつて昭和
青年
(
せいねん
)
会の騎馬隊の三角旗を立てて
先頭
(
せんとう
)
に進んで、
其
(
そ
)
の次に、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が白馬に乗つて昭和
青年
(
せいねん
)
会を率ひて
亀岡
(
かめをか
)
から
穴太
(
あなを
)
迄
行進
(
かうしん
)
した。
其
(
そ
)
の時の写真
及
(
およ
)
記事
(
きじ
)
等
(
とう
)
は
真如
(
しんによ
)
能光
及
(
およ
)
同年
(
どうねん
)
九月
発行
(
はつかう
)
神の国に
掲載
(
けいさい
)
してある」とあります。
又
(
また
)
、「右
以外
(
いぐわい
)
にも、二回程、白馬に乗つて昭和
青年
(
せいねん
)
会の査閲を行つたことがあるが」と言つて
居
(
を
)
るが、
是
(
これ
)
はどうぢや。
答
それはあるのです。
けれども、
是
(
これ
)
は、
蒙古
(
もうこ
)
に行つた時で、向ふでは
宗教家
(
しうけうか
)
は
全部
(
ぜんぶ
)
白馬に乗るのです。
宗教家
(
しうけうか
)
と見たら敵が撃たぬのですから、
蒙古
(
もうこ
)
では
喇嘛
(
ラマ
)
は白馬に乗りますが、
喇嘛
(
ラマ
)
を皆
信仰
(
しんかう
)
して
居
(
を
)
りますから、敵の中へ入つても白い馬だつたら撃たない。
それで、私は、向ふで白馬に乗つて
居
(
をつ
)
た。私の白馬に乗つて
居
(
を
)
る写真はこつちへ持つて来た。
又
(
また
)
、白馬の赤い奴を取り下げて、
詰
(
つま
)
り、言うたら、自分の方から下げて
貰
(
もら
)
つたのです。
さうした所が、もう廃馬になつた赤い馬ですから、ちよつと
穴太
(
あなを
)
に行つたら二度目にはへたつてしまつた。そんな馬を買はされた。乗つたのは本当です。
問
陛下の三角旗を立てて、
儀仗
(
ぎぢやう
)
警衛
(
けいゑい
)
に
真似
(
まね
)
て、分列式の
査閲
(
さえつ
)
を行つたのはちよつとげせぬぢやないか。
答
それは
軍人
(
ぐんじん
)
さんが皆
居
(
を
)
つたものだから……私は知りまへぬもの。
問
陛下の観兵式と同じだらう。
答
ちよつとも、三角旗があつたことも、何も知らなんだのです。
儀仗 ぎぢやう (1) 儀式に用いる装飾的で形式化した武器。(2)儀式。
警衛 けいゑい 警戒し守ること。また、その人。警護。
査閲 さえつ 軍事教練の成績を実地に調べること。
争点 天皇に酷似した服装
問
それから
此
(
こ
)
の点はどうだ、
大正
(
たいしやう
)
九年頃に
福知山
(
ふくちやま
)
の
装束
(
しやうぞく
)
屋衣川と云ふ者に……。
答
衣
(
きぬ
)
川です。
問
黄櫨染
(
くわうろぜん
)
の
袍
(
はう
)
と云ふものを
拵
(
こしら
)
へさせて
居
(
を
)
つたと言ふが、今天皇陛下が
御召
(
おめし
)
になるものぢやないのか。
答
それはクウロンの活仏から……黄色のが一番上なんです。
紅教
(
こうけう
)
と言ひまして、
紅教
(
こうけう
)
の方は紅の着物を着、
黄教
(
わうけう
)
と云ふのは黄色の着物を着る。
其
(
そ
)
の布を
呉
(
く
)
れた。布を
是
(
これ
)
程(と手
真似
(
まね
)
しながら)
呉
(
く
)
れた。それが、方式です。
それを
蒙古
(
もうこ
)
に行く
時分
(
じぶん
)
に、
其
(
そ
)
の時に、「
之
(
これ
)
を着て行かなければならぬ。
此
(
こ
)
の布の色の何を
拵
(
こしら
)
へて
呉
(
く
)
れ」と言つて置いた。
処
(
ところ
)
が、そんな物を
拵
(
こしら
)
へて来た。色はちよつと違つて
居
(
を
)
ります。けれども、あれを衣川が持つて来ました。
「
是
(
これ
)
はちよつとおかしくないか」と言ひましたら、衣川の言ふには、「
其
(
そ
)
の代り、
大本
(
おほもと
)
の
十曜
(
とえう
)
の紋とか松とか梅とかが書いてあるから
差支
(
さしつか
)
ない。私は
有職
(
いうそく
)
故実
(
こじつ
)
を学んで
居
(
を
)
る。
先祖代々
(
せんぞだいだい
)
のことだから
気遣
(
きづか
)
はおへぬ。」と言ふのです。
問
おかしいとは思つたのか。
答
私は判りまへぬけれども、何だとか彼だとか
大層
(
たいそう
)
に言ふから、ひよつとしたらさうやないかなと言つたら、霊が懸つて来て、「
大本
(
おほもと
)
の
御祭
(
おまつり
)
をする時には、稚宮さん
即
(
すなは
)
ち仁徳天皇さん、
綾部
(
あやべ
)
の八幡さん
即
(
すなは
)
ち応仁天皇さん、
此
(
こ
)
の神がお出でになるから
御懸
(
をかかり
)
になつた時にはどうしても着なければいかぬ」と云ふことだつた。着るのは嫌やと言つたら……
それで一遍着たのですわ。それがどうしても着まいと思うても、体が硬ばつて
仕方
(
しかた
)
がないから着た。そしたらすつと直つたのです。二度より着て
居
(
ゐ
)
やしまへぬ。
黄櫨染の[御]袍 くわうろぜんのごはう 天皇が年中の祭儀に着ける黄櫨染の袍。桐・竹・鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)の地紋がある。夏は生絹(すずし)、冬は練絹で裏は同色の平絹、腋(わき)は縫腋(ほうえき)。明治以後は即位礼にも着用する。
争点 神聖会での王仁三郎の護衛
問
それから昭和
神聖会
(
しんせひかひ
)
の
統管
(
とうかん
)
として、
統管
(
とうかん
)
服を着て
天恩郷
(
てんおんきやう
)
を
出入
(
でい
)
りする時とか、
或
(
あるひ
)
は
地方
(
ちはう
)
本部へ行く時とか云ふ
場合
(
ばあひ
)
には、
統管
(
とうかん
)
旗を持つた旗手を
先頭
(
せんとう
)
に立てて、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の乗つてる
自動車
(
じどうしや
)
の
前駆
(
まえがけ
)
後駆
(
あとがけ
)
として
神聖
(
しんせい
)
会員
(
くわいゐん
)
が、自転車
又
(
また
)
は自動自転車に乗つて護衛して
居
(
を
)
つたと云ふが本当か。
答
それはさうです。それは下位さんが指図してさしたのです。
問
前後
(
まへうしろ
)
駆を……
統管
(
とうかん
)
旗を立てゝ
出入
(
でいり
)
することをか。
答
「
或
(
あ
)
る人が、東京であんたを
狙
(
ねら
)
うて
居
(
を
)
る者がある。あんたを暗殺しようとして
居
(
を
)
る者がある。あんた要心して後、先を守つて
貰
(
もら
)
はなければならぬ」と云ふので、守つて
貰
(
もら
)
つた。
それで、自分の先へも行き、後へも行くと云ふ
具合
(
ぐあひ
)
になつたのでずる/\べつたりになつたのです。
参謀長と云ふのが下位ですが、下位が、「構やしまへぬ、伊太利で私がやつて来たのや」と言つて……。
問
是
(
これ
)
が
統管
(
とうかん
)
旗か。
(
此
(
こ
)
の時
統管
(
とうかん
)
旗を示す)
答
さうです、
是
(
これ
)
は歩いたから
汚
(
よご
)
れたのです。
争点 六合拝
問
斯
(
か
)
う云ふことは余り
面白
(
おもしろ
)
くないのぢやないか。
前駆
(
まえがけ
)
後駆
(
あとがけ
)
を設けると云ふやうなことは。
それから、七番を
抜
(
ぬ
)
いて八番に行きませう。
大正
(
たいしやう
)
八年頃から毎年の旧
正月
(
しやうぐわつ
)
、
夜明
(
よあけ
)
前に
祭祀
(
さいし
)
課長
及
(
および
)
幹部
(
かんぶ
)
の五、六人を連れて、
綾部
(
あやべ
)
の
黄金閣
(
わうごんかく
)
の三階に上つて
六合
(
りくがふ
)
拝と云ふのをやつて
居
(
を
)
つたのか。
答
はいやつて
居
(
を
)
りました。
問
後から止めたのか。
答
止めたのであります。
問
是
(
これ
)
は、
宮中
(
きうちう
)
の
四方拝
(
しはうはい
)
を
真似
(
まね
)
たのか。
答
神さんの命令で、
天地
(
てんち
)
四方
(
しはう
)
を拝むと云ふことになつて
居
(
を
)
りますから、
四方拝
(
しはうはい
)
を
真似
(
まね
)
たらそれをやるのですが……
四方拝
(
しはうはい
)
の時は皆朝起きて拝みます。お
祀
(
まつ
)
りを
致
(
いた
)
します。
是
(
これ
)
は旧の
正月
(
しやうぐわつ
)
に
神様
(
かみさま
)
が
綾部
(
あやべ
)
へ下つて来るから拝め、と云ふことだつたのです。
問
其
(
そ
)
の
六合
(
りくがふ
)
拝の時に、
天が下
四方
(
よも
)
の
国々
(
くにぐに
)
ことぐく
我
(
わが
)
が
言霊
(
ことたま
)
に
靡
(
なび
)
き伏すらむ
と云ふ歌を唱へて
居
(
を
)
つたのは、
是
(
これ
)
は
何時
(
いつ
)
頃か。
答
一遍だけでした。
問
十四年頃からですか。
答
毎年
違
(
ちが
)
ひます。
問
是
(
これ
)
はどう云ふ意味だ。
答
詰
(
つま
)
り私の口から出た教が、風に
草木
(
さうもく
)
の
靡
(
なび
)
き伏すが
如
(
ごと
)
くに、
世界中
(
せかいぢう
)
に拡まるであらうと云ふ意味です。
「らむ」ですから弱い
言葉
(
ことば
)
です。
四方拝 しはうはい 一月一日に行われる皇室祭儀。四大節の一。明治以前は元旦寅の刻に天皇が清涼殿の東庭で属星(ぞくしよう)を唱え、天地四方・山陵を拝して年災を払い、五穀豊穣・宝祚(ほうそ)長久を祈った。現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。陰陽道(おんようどう)に由来。
争点 王仁三郎便所の装置
問
それから
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の、
便所
(
べんじよ
)
の装置は、ちよつと
大分
(
だいぶん
)
高貴
(
かうき
)
の方の
便所
(
べんじよ
)
の構造装置に似て
居
(
を
)
るのだと云ふぢやないか。
答
そんなことは知りまへぬ。
問
設備構造をどなたかのに
真似
(
まね
)
たやうなことは……。
答
そんなことは知りまへぬ。存じまへぬ。
此処
(
ここ
)
が似て
居
(
を
)
るか似て
居
(
ゐ
)
ないか、なにがやつたのですから……
大工
(
だいく
)
がやつたのですから、別に立派な装置とも思つて
居
(
を
)
りまへぬ。そんな立派なものだと言はれるやうな
便所
(
べんじよ
)
ではありませぬ。
唯
(
ただ
)
変つて
居
(
を
)
つたのは、二畳
位
(
くらゐ
)
の
座敷
(
ざしき
)
を
拵
(
こしら
)
えまして、前に机を置いてl
忙
(
いそ
)
がしいのですから
尻
(
しり
)
を
捲
(
まく
)
つてなにして
居
(
を
)
る間に、
眼鏡
(
めがね
)
を
掛
(
か
)
けて、前に仏書とか
基督教
(
キリストけう
)
の本を置いて読むことが
出来
(
でき
)
るやうになつて
居
(
を
)
りましたが。
併
(
しか
)
し、ちよつとそこらの
宿屋
(
やどや
)
に行つたら……刑務所の第五房の
便所
(
べんじよ
)
の装置でも立派なものです。縁から水が出て来て立派なものです。あれよりも悪いのでございます。
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