うろーおにうろー

裁判記録(22)

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裁判記録

○不敬関係書籍の編輯者
○霊界物語の第六十巻の「悪の頭」
○霊界物語の第七巻の歌「月の光の…」
○霊界物語の第三十八巻の歌「千歳経し…」
○霊界物語の第六十一巻の歌「現つ世の…」
○霊界物語の第五十五巻の歌「日の光の…」

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。

争点 不敬関係書籍の編輯者

午後(ごご)一時十分開廷

出口 何でしたら、六日間一杯調べて(いただ)きたいと思ひます。

 えらかつたら休まして(いただ)きたいと思ひます。

裁判長 もう少し……。

出口 それは、しつかりして()りますけれども。

 午前中に問題(もんだい)になつて()る。「不敬事実(じじつ)掲載(けいさい)になつて()る文献の発行(はつかう)人は、本を見たら判る」と云ふから、調べて見たら大体(だいたい)判つたが、昭和十年の日記を見ると編輯者は皇道(こうだう)大本(おほもと)総本部史実課となつて()るが、(これ)は誰ですか。

 それは知りまへぬ。

 他の人を調べて見て(もら)うたら判ります。

 史実課の人を調べたら判るのですね。

 さうです。


争点 霊界物語の第六十巻の「悪の頭」

 昭和七年六月三十日、霊界物語(れいかいものがたり)の第六十巻の再版を発行(はつかう)するに当つて、()の四百二十七頁以下(いか)に、

 (あま)岩戸開(いはとびら)段々(だんだん)近寄(ちかよ)りたから、(これ)までのやうな事には行かぬから、一か八かと云ふ事を悪の頭に書いて見せて置くが良いぞよ、今の番頭(ばんとう)のふな/\腰では()ても(こわ)がりてこんな事を書いて見せてやるだけの度胸はありはすまいなれど、神の申すやうに(いた)したら間違(まちが)は無いぞよ、一の番頭(ばんとう)守護神(しゆごじん)が改信が出来(でき)たら、肉体(にくたい)に胴が()わるなれど、到底(たうてい)六ケ敷(むつかし)いから、今に番頭(ばんとう)が取()へられるぞよ、もう悪の頭の年の明であるから悪い頭から取(はら)ひに(いた)すぞよ。

と云ふ文句(もんく)掲載(けいさい)して発売したことは(ちが)ひないな。

 此処(ここ)問題(もんだい)になつて()る「悪の頭」と云ふのは誰を指すのか。

 (つま)り、矢張(やつぱ)り、霊界(れいかい)にある所の霊界(れいかい)の「悪の頭」を言ふたのです。

 霊界(れいかい)の「悪の頭」か──(ことごと)くがか。

 (これ)が、仏教(ぶつけう)で言へば、阿修羅王(あしゆらわう)とか、大黒天(だいこくてん)とか、天魔波旬(てんまはじゆん)とか、四魔波旬(しまはじゆん)とかは「悪の頭」です。

 それから、(また)、外国の方で言へばクレノス・ゴロス、(これ)は「悪の頭」で、日本で言へば八十禍津神(やそまがつかみ)などは(これ)は「悪の頭」であります、総ての宗教には善の神の頭もあれば悪の神の頭もある。

 悪の神の頭が色々(いろいろ)のものに移つては、さうしては左右して世の中を(みだ)す。それで(これ)は極く前のことでありますが、三十四、五年頃に「悪の頭」に見せて置かなければならぬと云ふので、教祖(けうそ)筆先(ふでさき)に書きますと、それを中村竹造やとか、四方藤太郎やと云ふ連中(れんちう)弥仙山(みせんざん)の上へ持つて行つたりして、書いてある筆先(ふでさき)を拡げてさう云ふことをやつた。


 「悪の頭」と云ふのはさう云ふ意味ですね。

 さう云ふ意味です。

 それで同一(どういつ)文章の中に……

 出口の午前の注意(ちうい)()つて読んで見たが、「悪神(あくがみ)の頭目」とか、「極悪の頭」とか「悪の霊」と云ふものがあるが、(これ)はどう云ふ意味だ。

 (これ)(つま)り、猶太(ゆだや)悪神(あくがみ)大将(たいしやう)と云ふやうなものとか、(あるひ)悪神(あくがみ)の霊と言(いちごん)つたり……。

 (これ)に書いてあることは判つて()りますか。

 今書いてある所が判つて()りますか。

()の時筆先(ふでさき)を示す)

 目が悪くてとても()んなものは見えない。

 ちよつと眼鏡(めがね)()けまして……

 (これ)は直の筆先(ふでさき)です。

 さうすると、(これ)は本件に(おい)問題(もんだい)になつて()る「悪の頭」とか、「悪神(あくがみ)の頭目」とか書いてあるのと同じ意味か。

 同じ意味です、書き方が違ふだけです。

 同じ文句(もんく)でも同じ字句でも、場所に()つては別に取るやうなことはないか。

 私は、同じこつちやと思うて()ります。

 (つま)り、()の時の具合(ぐあひ)で言うたのだから──。


阿修羅 修羅ともいう。梵語アスラの音写。もとは古代インドの神の一族で、八部衆の一つ。戦争好きで修羅場の語源となった

大黒天  〔梵 Mahākāla 摩訶迦羅と音訳〕

(1)〔仏〕 三宝を守護し戦闘をつかさどった神。普通三面六臂逆髪青黒の忿怒相につくる。中国・日本では食物の神として寺などの厨房にまつられた。大黒神。

(2)七福神の一。狩衣に似た服を着て大黒頭巾をかぶり、左肩に大袋を背負い、右手に打ち手の小槌(こづち)を持ち、米俵の上に座る像につくる。日本では大国主神(おおくにぬしのみこと)と習合し、福徳の神として民間の信仰を集める。

天魔波旬 天魔は天子魔(てんしま)ともいい、仏法を妨げる魔のことで、四魔(しま)のひとつ。波旬は梵語パーピーヤスの音写で人の生命や善を断つ悪魔をいう。作品中では雑魚だが、もともとは欲界第六天の魔王である。

四魔 しま 〔仏〕 人々を悩ませ、仏道修行を妨げる四種類のもの。人間のもつ執着や欲望である煩悩(ぼんのう)魔、苦しみを生じさせる陰魔(おんま)(五陰魔・五蘊魔(ごうんま))、死そのものの死魔、人々が正しい道に進むことを妨げる他化自在天魔(天魔波旬)をいう。

クレノス・ゴロス ギリシア神話の神。


争点 霊界物語の第七巻の歌「月の光の…」

 (よろ)しい。

 昭和七年十月三十日、同物語第七巻の第三版を発行(はつかう)するに当り、()の六十一頁に、

  月の光の昔も今も変らねど

      大内山にかゝる黒雲(くろくも)

と云ふ歌があるが……。

富沢弁護人 それを御()きになる時にお願があります。

 それは証拠(しようこ)をちよつとお示しを願ひたいと思ふのであります。

裁判長 証拠(しようこ)……。

富沢弁護人 えゝ、第十巻のに百六十七頁、先づ(これ)御覧(ごらん)をお願ひ(いた)したいと思ひます。

裁判長 歌ですか──。

富沢弁護人 歌です。

 其処(そこ)御覧(ごらん)下さいますと、大正(たいしやう)十一年二月二十六日、旧一月三十日、(これ)は六個となつて()ります、それから次に三百四十七頁、(これ)御覧(ごらん)を願ひたい。之も大正(たいしやう)十一年二月二十七日、旧二月一日、北村(きたむら)隆光(たかてる)録となつて()りますが、さうしますと、其の歌のある所ぢやなく……言霊学(げんれいがく)と云ふのが()の前にありまして、三百二十八頁(完)となつて()ります。

 さうしますと、三百二十九頁に五首歌がある。

 最後(さいご)に、大正(たいしやう)九年一月十五日講演(かうえん)筆録外山豊一と、()うなつて()ります。

 そこで、「大正(たいしやう)九年一月十五日講演(かうえん)記録(きろく)と云ふことを書くべきものは、三百二十八頁の終り(完)の次に書くのぢやないか」、(これ)を御()きを願ひたい──と申しまするのは、()の作は大正(たいしやう)十一年の作だと()うなつて()りますから。

裁判長 どうぢや。

出口 十一年の作ぢやありませぬ、十年の作です。

富沢弁護人 九年の一月に(こしら)へたものぢやありませぬか。

()の時清瀬弁護人、富沢弁護人に私語す)

 違ふのですか、版で見て()るから。

出口 「日の光」が「月の光」になつて()ります。

裁判長 版は──。富沢弁護人初版です。

清瀬弁護人 (おつ)しやることは必要ですが、()の事は予審の決定(けつてい)書に付ての五の所でお(たし)かめを願ひたいと思ひます。

富沢弁護人 それぢや間違(まちが)ひました。

裁判長 ()の十年の作、七巻の三版を発行(はつかう)する際に、今言うた歌を掲載(けいさい)して発行(はつかう)したことは間違(まちが)ひないだらう。

 其処(そこ)に載つて()れば問違はないだらうと思ひます。

 どう云ふ意味ですか、()の歌は──。

 「月の光昔も今も変らねど……」の「月の光」は「日の光」でないと云ふと、さうやないと云ふと、文句(もんく)(ちが)ひます。

 書いてあるぞ。

 それでも文句(もんく)が合ひませぬ。

 「日の光」と云ふことは、(つま)(わが)皇室(くわうしつ)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)御光(みひかり)は昔も今も万世一系(ばんせいつけい)で変りはないけれども、そやけども()の時の陛下には御悩があつて、国民(こくみん)非常(ひじやう)に苦しんで()るから、「大内山にかゝる黒雲(くろくも)」と云ふ名詞で止めてありますが、歌の方は名詞で止つてる時は、三十一文字(みそひともじ)で名詞になつて終つて(をつ)たら、其処(そこ)に深い意味が──書外の書、言外の言がありまして、黒雲(くろくも)が一時も早く()れさせ給へ、と云ふ意味が(ふく)んで()るのです。

 歌と云ふものは名詞で止つて()ると、後に残つて()文句(もんく)があるのです。

 歌の説明(せつめい)()い、()の歌の趣旨(しゆし)はどう云ふのだ。

 それは、「陛下が御悩をなさつて()るのを痛み(まつ)る」と云ふ意味を書いたのです。

 どなたの。

 大正(たいしやう)天皇様です──

 ()の時は私が未決から出して(もら)ひまして四、五日した時に、大変(たいへん)御重態だと云ふことが新聞(しんぶん)に出たりして、綾部(あやべ)の官民一同が八幡神社(じんじや)へ御平癒(へいゆ)祈願(きぐわん)参拝(さんぱい)した時です。

 それで、十年と云ふことを考へ出したのであります。

 それぢや、大正(たいしやう)天皇の御悩のことを歌つたと云ふのだね。

 それで「黒雲(くろくも)」に、一時も早く()れさせ給へと云ふ意味が(ふく)んで()るのです、総て歌は、

  君が代は千代(ちよ)八千代(やちよ)にさゞれ石の

      (いはを)となりて苔のむすまで

と云ふのも、(ここ)に、言霊学者(げんれひがくしや)から()きますと、「君が代は千代(ちよ)八千代(やちよ)に『栄へませ』、さゞれ石の(いはを)となりて苔のむす迄『()はしませ』と云ふ文字が(かく)れて()るのださうです、それで三十一文字(みそひともじ)で「君が代は千代(ちよ)八千代(やちよ)に……」とあるやうに、それと同じで、かゝる黒雲(くろくも)「一時も早く()れさせ給へ」と云ふ祈の言葉(ことば)ですけれども、三十一文字(みそひともじ)にした(ため)に言外の言、書外の書があるのであります。


争点 霊界物語の第三十八巻の歌「千歳経し…」

 昭和八年四月十日、霊界物語(れいかいものがたり)の三十八巻の第四版を発行(はつかう)するに当つて、()の九十四頁に、

  千歳(ちとせ)経し聖の壷も地震(ないふる)

  荒ひに逢はゞもろく破れむ

  つがの木の(いや)つぎ/\に伝はりて

  宝の壷もひゞぞ入りぬる

 (これ)はどうぢや。

 (これ)は、前にも申上(まをしあげ)げてあるから、(あるひ)は二重になるかも知れませぬが、(また)申上(まをしあげ)げますが、仏教(ぶつけう)渡来(とらい)してから千年以上(いじやう)になります。「千歳(ちとせ)経し聖」と云ふことは基督教(キリストけう)にもあります、聖徒と書いてひじり(ヽヽヽ)と読まして()る。総て仏教(ぶつけう)では(ばう)さんを皆な(ひじり)と云ふのです、()の問言ひましたやうに、

  初雪や高野聖の(おひ)の色

 (つま)り、坊主(ばうず)のこと、兼好法師(ほふし)の徒然草には、京都の「しんせい」院に坊主(ばうず)()つて、()和尚(おしやう)が木餌上人やと言うて()つたのに、それはおかしいと思うて、木の葉ばかり食つて()るのに不思議やと思うて、小坊主(ばうず)が床下を見たら、さうしたら、米の糞があつたから、(これ)は「こくむそう」(ひじり)やと云ふことが書いてありますが、それで(ひじり)と云ふことは予審や何かで陛下のことのやうに言はれ、さう云ふ意味に取られましたけれども、(これ)は決してさうでない、仏教(ぶつけう)(ばう)さん(あるひ)基督教(キリストけう)宣教師(せんけうし)などを皆(ひじり)と云ふのでありまして、「聖の壷」と云ふことから、……壷は総ての局部(きよくぶ)です、仏教(ぶつけう)統一(とういつ)する所ならば──真言(しんごん)宗なら真言(しんごん)宗は高野山(かうやさん)とか、(あるひ)天台(てんだい)宗は叡山とか、其処(そこ)の房は総て(つぼ)と云ふ、局は都房とも言ひ、漢字(かんじ)で本当の壷を書いたので……。

 地震(ないふる)は何だ。

 地震と云ふことで、(これ)は本当の……。

 房と云ふのは(つぼ)と云ふのか。

 (つま)り教務所みたいのものです、宗教を本当に統括する所……。

 教務所がどうしたと云ふのか──。

 ……のやうなものです、総括(そうくわつ)するやうな意味です。

 それが、「壷も地震(ないふる)」と云ふたらば、地震の意味ですが、信者(しんじや)目覚(めざ)めて来て、今日(こんにち)(まで)の所は、坊主(ばうず)が巧いことを言うて善男善女を(たぶら)らかして、(あま)(しる)を吸ふたりして()るけれども、段々(だんだん)文明(ぶんめい)の世の中が進んで来て、若い者──今日(こんにち)の若い者が進歩して真理(しんり)(さと)つて来ると、今迄(いままで)馬鹿(ばか)にして()つたと云ふので、皆一緒(いつしよ)くたになつて宗教反対論を唱へて来ることは、(これ)は人造地震です。

 ()の地震が()れば、直ぐに破れてしまふと云ふ、(みな)(さと)つて来たら直ぐに駄目(だめ)になると云ふことを言うたのであります。

 ()の意味を書いたのであります。

 ()の次は「つがの木の云々(うんぬん)」は。

 それも同じやうな意味で、(これ)は、私が丸山(まるやま)貫長と云ふ人に()つて──「つがの木」は「つぎ/\」と云ふことの枕言葉(まくらことば)で、「つがの木の(いや)つぎ/\に」と云ふのは、(これ)真言(しんごん)宗の(ばう)さんの丸山(まるやま)貫長と云ふ人に()いたのですが、「千年余りも高野山(かうやさん)は伝つて来たが、(しか)し、()当時(たうじ)には高野山(かうやさん)にも仏法(ぶつぽふ)(そう)と云ふ鳥が()つて、仏と法と(そう)と鳴いて、三宝(さんぽう)鳥と言つて三つの宝の鳥が()つて仏法(ぶつぽふ)(そう)と鳴いた。(ところ)今日(こんにち)坊主(ばうず)が女を置いたり、高野山(かうやさん)の女禁制(きんせい)の山に向つて上げたり色々(いろいろ)なことをして(けが)れ切つて()るので、それで仏法(ぶつぽふ)は動かないが僧──一つの宝、それに(ひび)が入つてしまつた」と云ふのです。

 それで、千年も続いて来たのが、今日(こんにち)()う云ふ具合(ぐあひ)仏教(ぶつけう)にも(ひび)が入つて来たと云ふ意味です。

 仏教(ぶつけう)のことを言ふのか、高野山(かうやさん)のか──。

 高野山(かうやさん)の……丸山(まるやま)貫長が高野山(かうやさん)の話をして、「仏教(ぶつけう)がさう云ふやうになつて()る」と云ふのです。

 それは丸山(まるやま)貫長の話に()つて作つた歌です。


争点 霊界物語の第六十一巻の歌「現つ世の…」

 ()の次だが、同年(どうねん)六月十日、霊界物語(れいかいものがたり)六十一巻の第四版を発行(はつかう)するに当つて、()の百九十七頁二

  現つ世の君より外に君なしと

      思ふ人こそ(おろ)かなりけり

 と云ふ歌があるが……。

 それは六十一巻に……(これ)は連作と申しまして、歌を作る場合(ばあひ)に、一つの意味を五首とか六首とか七首とか十首とか(なら)べて歌つて、()の中に一つの意味を説く時の方式に()つてやつたもので、(これ)は連作の中の(ただ)の一首、一部であつて、それだけでは本当のことは判らぬのです。全部(ぜんぶ)読んで(もら)はぬと判らぬのであります。

 (これ)だけの歌の意味はどうぢや。

 (これ)だけの意味でも、現つ世には(つま)り君が在はしますが、現界(げんかい)幽界(いうかい)にも救ひ主と云ふものがある。救ひ主を君と言ふのである。(また)()の他の御歴代(れきだい)帝王(ていわう)でも御崩御になつて、神(かく)れになつて霊界(れいかい)に入られたのは(これ)は皆幽世(かくりよ)の神である。救世主(きうせいしゆ)も君である。基督(キリスト)も君である。さう云ふ意味を言うたのであります。

 君と云ふものは──君も神も同じことであります、三界(さんがい)て……()の世ばかりぢやない、幽界(いうかい)にも君がある。

 宗教の方から救世主(きうせいしゆ)(すなは)ちそれを信仰(しんかう)させる(ため)の歌なんです。霊界(れいかい)にも矢張(やつぱ)りあると──それで聖書の中にも。

 判りました、準備手続(てつづき)の時と同じなんだね、連作と言うて()つたが、同じ頁の所に、前の頁の所に()う云ふことが書いてあるな──。

  君と言へど()の世を治める君ならず……

 同じ所でせう。

 

  神と言ひ君と言ふのも一つなり

  生み誤つな神の御子(みこ)なり

と云ふ(これ)は連歌と云ふ意味か。

 皆連歌です、連作です。

()の時霊界物語(れいかいものがたり)を示す)

 連作と云ふのか、(これ)が。

 全部(ぜんぶ)八迄を連作歌と言ふのです。

 ()の一つの意味を言はむが(ため)に、(これ)を分けて言うたのです。

 一つのことを言はむが(ため)に作つたのだ、と言ふのだな。

 さうです。

 一つだけで判断(はんだん)されては困ると言ふのだな。

 連作だから、全部(ぜんぶ)読まぬと判らぬ。総て(これ)は皆連作になつて()ります。

 「神と言ひ」とか「君と言ひ」。

 (これ)は何か、本件の間題になつて()るものと同じ意味だと言ふのか。

 「神と言ひ、君と言ふ……」のですか。

 (これ)はどう云ふことを言はむとするのだ、()の連作歌は──。

 詰り、()の意味なんです。

 ()の意味とは──。

 神様(かみさま)と言ふのも、君と言ふのも同じことである。

 日本の天皇陛下は、矢張(やつぱ)り、現界(げんかい)でも現御神と言ひ、(また)現人神(あらひとがみ)とも言ひ、(また)大君(おほぎみ)とも言ひます。

 霊界(れいかい)では、矢張(やつぱ)り、霊界(れいかい)にも神様(かみさま)もあれば伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美尊(いざなみのみこと)さまでも()られて、()べて君とも言ひ神とも言ふ。

 現界(げんかい)でも幽界(いうかい)でも神とも言ひ君とも言ふ、と云ふことを知らしたのであります。


 幽界(いうかい)ですか。

 幽界(いうかい)でも同じです。

 現界(げんかい)でも神も君も同じことであります。

 霊界(れいかい)にも神があると云ふこと。救ひ主と云ふ意味か。

 はい。


争点 霊界物語の第五十五巻の歌「日の光の…」

 ()の次は、(さき)問題(もんだい)になつた、昭和九年十二月二十五日霊界物語(れいかいものがたり)の第五十五巻の三版を発行(はつかう)するに当つて、()の二百八十五頁に。

富沢弁護人 裁判長。

裁判長 ちよつと……。

  日の光の昔も今も変らねど

      あづまの空にかゝる黒雲(くろくも)

と云ふのは(これ)はどうぢや。

富沢弁護人 ()の前の、伊都(いづ)御子(みこ)と云ふ段に、それは二百七十六頁になつて()りますが、大正(たいしやう)十一年二年二十六日外山豊二録と()うなつて()ります。

 それから邪神(じやしん)征服(せいふく)と云ふ所に、一日(おく)れて二月二十七日北村録となつて()りませぬか。

裁判長 現れて()りますね。

富沢弁護人 其処(そこ)で、(これ)大正(たいしやう)九年一月十五日外山豊二となつて()ります。

 (これ)此処(ここ)二入るのぢやないか、講演(かうえん)の録に歌が講演(かうえん)の中に入つて()りませぬから──それで(これ)が十一年にならぬと云ふと、九年だからおかしくなつて来るのです、それで此処(ここ)に入るのぢやないかと思ふのですが。

出口 霊界物語(れいかいものがたり)は十一年の十一月前には発行(はつかう)して()りまへぬ。

富沢弁護人 霊界物語(れいかいものがたり)の中に言霊界[解]が入つて()る。

 ()の言霊界[解]は大正(たいしやう)九年一月十五日に外山さんが筆記して()るのです。

 貴方(あなた)講演(かうえん)を──それを()の歌迄も講演(かうえん)と云ふことになつて()るのですが、瑞能神歌(しんか)……()括弧(かっこ)する(やつ)此処(ここ)に付くのぢやないか、と()う思ふのです。

裁判長 どうぢや。

出口 それは別です、瑞能神歌(しんか)と云ふのは別です。一つ時ぢやありまへぬ。

裁判長 空いてるから、余白に入つて()るのだと言つて()ります。

富沢弁護人 其処(そこ)に入るのぢやなく、()の次の附記(ふき)に入るのだらうと思はれるのですが。

出口 (これ)(ちが)ひます。

 此処(ここ)に持つて来なければならぬ、前の頁の仕舞(しま)に……

 置場が間違(まちが)つて()ります。

裁判長 それぢや瑞能神歌(しんか)と云ふのは、(これ)は二百八十四頁の完と書いてある所に加はらなければならぬと云ふ訳だな。

田代弁護人 要するに、()の歌の所には何々(なになに)筆記と云ふ括弧書がないのですよ、外の部分(ぶぶん)には、歌を余白に()れた時には……其処(そこ)だけに大正(たいしやう)十五年となつて外の所にはないからミス・プリントで、こちらに置くのが適当(てきたう)ぢやないかと云ふのです。

裁判長 ミス・プリントのことを言つてるのですね……

 歌の意義(いぎ)は。

出口 私が初めて控訴院の控訴裁判〔第一次大本事件(おほもとじけん)〕に行くので、皆寄つてずつと京都迄来ました。

 京都の駅で、号外々々、と言つて売つて()りました。()の号外には、原敬さんがやられたと言つて二頁大の号外が出て()つた。()の時に()の歌を作つた。

 ()汽車(きしや)の中で──それを加藤明子(かとうはるこ)と云ふのが私に随いて()つて、自分で筆記して置いてそれを移して()つた。

 それは原敬さんのやられたことを言うたのです。

 何時(いつ)だつて。

 何時(いつ)やつたろ……原敬さんのやられたと云ふ朝です、翌日の朝です。

 時期(じき)は──。

 大正(たいしやう)十年……十一年かいな、十一年か……何しろ、初めて行く時ですから。

 控訴院の裁判に行く時か。

 日日(ひにち)は余り覚えて()りませぬ、十年の末か十一年の初めです。

 原敬がやられた、と云ふことを聞いたのか。

 さうです。

 それで、「あゝ、(いたま)しき(かな)」と云ふことを、(しり)(ふく)んで()るのです。

 原敬が(たふ)れた、と云ふことを言つてるのですか。

 やられたことを「気の毒や」とか「(いたま)しい」と言ふ所です。

 けれども、三十一文字(みそひともじ)だから上の句から考へれば、下の句に(おい)(いた)んで()ることが判るやうに書いてあります。

足立弁護人 原敬さんの兇刄に遭ひましたのは大正(たいしやう)十年十一月四日……息子(むすこ)の書いたものがあります。

裁判長 時期(じき)のことは能く判らぬ。私等(わたくしら)()く覚えて()りませぬから──。

足立弁護人 (これ)に、息子(むすこ)さんが父を想ふ文に書いてあります。

裁判長 原敬が亡くなつた時と書いて置けば()いでせう。

足立弁護人 正確(せいかく)のことを……。

裁判長 原敬が亡くなつたのぢや、()文句(もんく)が少し大きいのぢやないか。

 けれども、陛下の代用(だいよう)ですから──御皇室(くわうしつ)は無事であるが、宰相(さいしやう)総理大臣はこんな目に遭うた、と云ふ意味です。

 御皇室(くわうしつ)の御委託を受けて総理大臣になつて()るのですから。さうやから、そこは矢張(やつぱ)り「日の光」と言はなければならぬ、総理大臣ですからさう思うたのです。

 「──昔も今も変らねど」と云ふのは──。

 御皇室(くわうしつ)は変らぬが、宰相(さいしやう)はこんなだ、と言ふ意味です。

 あゝさうか、上の方は御皇室(くわうしつ)か。

 さうです、それで「日の光」と言うたのです。