うろーおにうろー

裁判記録(21)

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裁判記録

○長生殿の建築
○指揮命令系統
○大本の財政状態
○不敬関係書籍など

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。

歴史 長生殿の建築

 「昭和十年九月頃、王仁三郎(おにさぶらう)が伊佐男に、『愈々(いよいよ)綾部(あやべ)本宮山(ほんぐうやま)の長生殿の建築に着手(ちやくしゆ)するから準備せよ』と云ふ話があつたので、()の頃光照殿(くわうせうでん)に伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、長生殿の建築事務は亀岡(かめをか)本部に(おい)取扱(とりあつか)ふこと、()の建築費用は亀岡(かめをか)に建築する万祥殿の建築費用と合併して、両殿の建築費用を神殿(しんでん)造営(ざうえい)献金名義で信者より献金せしめ、長生殿は大本(おほもと)最高(さいかう)の宮であるから、信者(しんじや)全部(ぜんぶ)から献金せしむることに協議(けふぎ)決定(けつてい)しました。同年(どうねん)十月二十七日の秋季大祭(たいさい)に長生殿の斧始式を執行(しつかう)すると云ふことは、(すで)同年(どうねん)八月十日の弥勒殿(みろくでん)()ける信者(しんじや)大会(たいくわい)の席上に(おい)王仁三郎(おにさぶらう)信者(しんじや)予言(よげん)してありましたので、右決議以来(いらい)続々献金する者が出来(でき)て、神殿(しんでん)造営(ざうえい)献金額は、昭和十年十二月迄二約七、八万円となり、万祥殿建築費の献金は右以外(いぐわい)に約九万円決つて()りました。それで、長生殿の斧始式は予定通り十月二十七日二執行(しつかう)しました。王仁三郎(おにさぶらう)は昭和三年三月三日頃から、『同日には王仁三郎(おにさぶらう)がみろく菩薩(ぼさつ)として()の世に下生(げしやう)し、月宮殿(げつきうでん)出来(でき)ればみろく如来(によらい)となり、本宮山(ほんぐうやま)御宮(おみや)出来(でき)たらみろくの神となるのである』と言うて()りました」と書いてあるが……。

 それは、みろくの神になるなんて、そんなことは言うて()りまへぬ。

 それは()き損ひです。

 それから()の後はどうなんです、長生殿の建築の会議(くわいぎ)は。

 それは会議(くわいぎ)は相談したに(ちが)ひありまへぬ。

 それで、金はなんぼ要つたかそれは私知りまへぬけれど、私は昔から四十年程神様(かみさま)に仕へて()りますけれども、金のことは一遍も扱つたことはないのです。皆役員(やくゐん)に任してありますから──家の会計(くわいけい)役員(やくゐん)さんがして()れて()ります。

 それから、昭和十年十月光(げつくわう)照殿に(おい)て伊佐男、高木、大深、東尾が大本(おほもと)今後(こんご)活動(くわつどう)方針(はうしん)に付て協議(けふぎ)をして、(これ)からは長生殿(およ)び万祥殿の造営(ざうえい)に主力を注ぎ、青年(せいねん)(およ)び坤生会も外廓運動(うんどう)を手(ひか)へて両殿の造営(ざうえい)に力を注ぐこと。信者(しんじや)の期待する長生殿が出来(でき)るのであるから、()機会(きくわい)信者(しんじや)信仰(しんかう)向上(こうじやう)せしむること。昭和神聖会(しんせひかひ)運動(うんどう)は中止するのではないが、内容充実(じゆうじつ)に入つたものと心得(こころえ)させること。右方針(はうしん)信者(しんじや)徹底(てつてい)せしむる為、井上(ゐのうへ)(およ)び有留を東班とし、大深(およ)び大谷を西班として各地(かくち)方に派遣すること、信者(しんじや)獲得の為には支部(しぶ)設置(せつち)を簡易にせねばならぬから、信者(しんじや)十戸以上(いじやう)あれば支部(しぶ)の新設を許可し、支部(しぶ)の外に会合所を設けることとし、会合所は信者(しんじや)二、三人でも()いこととし、是迄(これまで)のやうに十人以下(いか)支部(しぶ)はないことゝする代り、会合所を設置(せつち)することゝ決定(けつてい)し、()決定(けつてい)事項は十月二十七日の秋季大祭(たいさい)の時信者(しんじや)に発表して実行(じつかう)奨励(しやうれい)しました。以上(いじやう)の外、昭和六年頃以来(いらい)は各大祭(たいさい)前日(ぜんじつ)に総務会議(くわいぎ)を開き、大祭(たいさい)(おい)信者(しんじや)に報告する事項、信者(しんじや)を指令する事項(とう)協議(けふぎ)決定(けつてい)しました。」

 さうですか、()の点は()いかね。

 はあ。

 さうすると是等(これら)の点の……。

 ()の十月頃のことは、もう私、余り(くは)しう存じまへぬけれども、それで間違(まちが)ひないと思ひます。何が言うとるのですから──東尾はんが言うとるのなら間違(まちが)ひないと思ひます。

 はつきり覚えて()らぬが、東尾が言うとるのなら間違(まちが)ひはないと言ふのだね。

 さうです。


歴史 指揮命令系統

 それでは()の点は……

 それから、ちよつと()いて置くが、大本(おほもと)の総本部、(また)は本部と分所(ぶんしよ)支部(しぶ)(とう)の連絡、並に、(これ)指導(しだう)方法(はうはふ)はどう云ふ風にして()つたのか。

 本部から、ずつとなんでつしやらう、分所(ぶんしよ)へ伝へたり、分所(ぶんしよ)から支部(しぶ)に伝へたり、それから、直接の支部(しぶ)もあつたでせう。分所(ぶんしよ)に属して()らぬ支部(しぶ)も──それは本部から直接に支部(しぶ)へやつて()つたのだらうと思ひますけれども、私が初まりにやつて()つた時分(じぶん)はさうでしたが、それから後は東尾はんのやつて()つたのはどう云ふ風にしてやつて()つたのか存じまへぬ。

 指導(しだう)方法(はうはふ)はどう云ふ風にやつて()つたのか。

 指導(しだう)方法(はうはふ)矢張(やつぱ)り特派宣伝使(せんでんし)と云ふのが地方(ちはう)に行つて指導(しだう)して()つたのだらうと思ひますけれども、なんとか……特派宣伝使(せんでんし)、それからもう一つなんとか云ふ、なんや知らぬけれども特別(とくべつ)地方(ちはう)に、九州(きうしう)なら九州(きうしう)四国(しこく)なら四国(しこく)、それを受持つて行つて()る人がありまして、なんと云ふか名前は忘れましたが、銘々()地方(ちはう)々々へ行つて()の人が指導(しだう)するやうな具合(ぐあひ)になつて()つた。

 台湾(たいわん)台湾(たいわん)で受持つて行つて()つたのです。受持宣伝使(せんでんし)かなんか、それをまあ受持つて行つて()る人がありました(()の時苦しさうな声を出す)

 (よろ)しいか。差支(さしつか)ないか。悪かつたら休むが……。

 いえ私の(くせ)です。

 ()の点に付て、ちよつと伊佐男が三十三回の十問答と三十四回の二問答に()う云ふことを言うとるがね。

 ちよつと()いて()なさい、三十三回の十問答ではですね、「聖師(せいし)教主(けうしゆ)総裁(そうさい)総裁(そうさい)補、総統、総統補、総務、総本部主事(しゆじ)主事(しゆじ)補、瑞祥(ずゐしやう)会長(くわいちやう)、同会長(くわいちやう)補、本部統理、統理補、天声社(てんせいしや)長、駐在(ちゆうざい)宣伝使(せんでんし)、特派宣伝使(せんでんし)地方(ちはう)宣伝課長、編輯課長(とう)下部(かぶ)に対し大本(おほもと)教義(けうぎ)(およ)活動(くわつどう)方針(はうしん)指揮(しき)して()つたものと言へるだらうと思ひます。(もつと)も、主会長(くわいちやう)、課長(とう)上部(じやうぶ)指導(しだう)命令を受けて下部(かぶ)指導(しだう)し、大本(おほもと)教義(けうぎ)(およ)活動(くわつどう)方針(はうしん)を」……。

 かぶに(ヽヽ)対しとは。

 下部(かぶ)は、下の方。

 あゝさうですか。

 「大本(おほもと)教義(けうぎ)(およ)活動(くわつどう)方針(はうしん)指導(しだう)して()つたものと言へるかも知れませぬと思ひます。(もつと)も、主会長(くわいちやう)、課長(とう)上部(じやうぶ)指揮(しき)命令を受けて、下部(かぶ)指導(しだう)し、自己(じこ)の裁量で下部(かぶ)指導(しだう)するやうなことは余りありませぬでした」。()う言うて()るがね。

 さうなつて()つたでせう。

 それから三十四回のに問答では、「大本(おほもと)関係の諸活動(くわつどう)に関する指揮(しき)命令は、瑞祥会(ずゐしやうくわい)のあつた時は、同会長(くわいちやう)より各課長(およ)び主会長(くわいちやう)に、同会廃止(はいし)後は綾部(あやべ)総本部に(おい)主事(しゆじ)」……。

 しゆじ(ヽヽヽ)と云ふのは……。

 (ぬし)と云ふ字。

 判りました。

 「綾部(あやべ)総本部に(おい)主事(しゆじ)より各課長に、亀岡(かめをか)本部に(おい)ては、本部統理(また)は統理補より各課長(およ)び主会長(くわいちやう)に通達し、地方(ちはう)(おい)ては、主会長(くわいちやう)より聯合会長(くわいちやう)に、聯合会長(くわいちやう)より分所(ぶんしよ)支部長(しぶちやう)に、分所(ぶんしよ)支部長(しぶちやう)より信者(しんじや)会員(くわいゐん)に通達して実行(じつかう)せしめて()りました。()指揮(しき)命令の伝達(でんたつ)方法(はうはふ)は年四回の、大祭(たいさい)の折、(また)は課長会議(くわいぎ)、主会長(くわいちやう)、聯合会長(くわいちやう)会議(くわいぎ)、主会、聯合会、分所(ぶんしよ)支部(しぶ)代表者(だいへうしや)大会(たいくわい)(また)信者(しんじや)大会(たいくわい)の席上に(おい)て、父王仁三郎(おにさぶらう)(また)は、瑞祥(ずゐしやう)会長(くわいちやう)、統理、統理補、外廓団体(だんたひ)の責任者が趣旨(しゆし)を述べて伝達(でんたつ)し、急速(きふそく)を要する場合(ばあひ)は書面に()り、(また)は本部員を派遣して伝達(でんたつ)したこともあります。大本(おほもと)(およ)大本(おほもと)関係の諸活動(くわつどう)方針(はうしん)大抵(たいてい)関係機関(きくわん)紙に掲載(けいさい)しました。」

 こんなことであつたな。()いかね、判つたかね、今言うたこと。

 はあ大抵(たいてい)判りました。


歴史 大本の財政状態

 それから、ちよつと、大本(おほもと)の財政状態(じやうたい)のことを()きたいのだが、財政状態(じやうたい)のことは判りませぬか。

 私は、最前申したやうに、ちよつとも携つて()らぬものですから財政状態(じやうたい)が判らぬのです。

 それは外の人の方が、役員(やくゐん)の方が能く知つて()ります。

 判らぬかね。

 私には判りまへぬ。

 ()の東尾が二十二回の十問答で()う云ふことを言うて()るが、判らぬか。

 ()つしやつて下さい。

 (よろ)し。

 「大本(おほもと)の基本財産(ざいさん)としては土地建物(たてもの)で、それは王仁三郎(おにさぶらう)(およ)(すみ)名義になつて()ります。今回(こんくわい)警察で綾部(あやべ)金塊(きんくわい)(およ)び金貨があつたと云ふことを聞きましたが、私は金塊(きんくわい)や金貨のあることは知りませぬでした。大本(おほもと)の総本部(およ)び本部の最近の財政状態(じやうたい)は、収入(しうにふ)は一箇年約十万円余で、()の内訳は更始会の収入(しうにふ)約五万四千円、弥勒殿(みろくでん)(およ)祖霊社(それいしや)玉串(たまぐし)料約二万四千円、大祭(たいさい)四回分の玉串(たまぐし)料約八千円、天声社(てんせいしや)収入(しうにふ)約一万五千円、安生館(あんせいくわん)の実収約五千円で、支出(ししゆつ)は一箇年約十五万円で、()の主なるものは綾部(あやべ)(およ)亀岡(かめをか)奉仕(ほうし)者約五百人の手当(てあて)金約五万円、諸税約三万円、修繕(しうぜん)費、宣伝費、内事費、雑費等約七万円であります。右収入(しうにふ)の外に、信者(しんじや)から王仁三郎(おにさぶらう)に直接献金する金も相当(さうたう)多額であると思ひますが、()の金は王仁三郎(おにさぶらう)が保管しますので、私等(わたくしら)には()の額は判りませぬ。(また)、右支出(ししゆつ)の外に、臨時の建築費(とう)信者(しんじや)より献金させます。大本(おほもと)の主会、聯合会、分所(ぶんしよ)支部(しぶ)(とう)の費用は各()地方(ちはう)(おい)て自弁し本部から補助(ほじよ)するやうなことはありませぬ。愛善(あいぜん)会の費用は大本(おほもと)本部より出し、愛善(あいぜん)新聞社(しんぶんしや)新聞(しんぶん)収入(しうにふ)()り同社を経営(けいえい)して、(なほ)純益がある位であります、北国夕刊は(ほとん)ど自給自足で丹州(たんしう)時報(じほう)大本々部(おほもとほんぶ)から月三百円位補助(ほじよ)して()りましたと書いてありますがね。

 其処(そこ)の中で、金のことは知りまへぬけれども、私に金を()れた人はありましたけれども、それで明光社(めいくわうしや)(こしら)へたり、(これ)は会の方から出たのではありまへぬ。

 明光社(めいくわうしや)、さうして智照館(ちせうくわん)(こしら)へたり、明鏡館と云ふのを──明鏡館と云ふのはなんですね、写真を、(また)、銅板に取る所ですわ、それを(こしら)へたり、さう云ふことに皆使うてしまひました、それで私の金は持つて()りまへぬです。

 個人(こじん)の献金はどの位あつたか。

 月二百円もある時もありますし……。

 そんなものか。

 (また)、もつと少い場合(ばあひ)もあります。

 それから()の古物の古金が好きで、古金を集めるのが私の趣味(しゆみ)でしたから、それを蓄めて置いたが、別にどうと云ふ考もなかつた。(ただ)、それは趣味(しゆみ)で持つて()つたのです。銀貨(ぎんくわ)の赤いやつだとか、昔の一円(いちゑん)やらあゝ云ふものを寄せて()つたのです。

 献金はあつたけれども覚えて()らぬと。百円あつたこともあり、もつと少いこともある。古金はあつたけれども、それは()のものに付ての趣味(しゆみ)で持つて居つたのだ。献金をして(もら)つたのは全部(ぜんぶ)建築物に使つて自分は持つて()らぬと言ふのだな。

 はい。

 王仁三郎(おにさぶらう)個人(こじん)資産(しさん)状態(じやうたい)はどうだ。

 それは、どれが私の名になつて()るのか、亀岡(かめをか)はお(すみ)と私の名になつて()るが、人に任して()る。

 役員(やくゐん)さんが、勝手(かつて)に、(これ)はなんの名義にして置かうとやつて()るから私は判りまへぬ。

 動産は総て王仁三郎(おにさぶらう)の名義になつて()つたのか。

 いや、家内(かない)の名になつて()つたのです。

 名義は私ですけれども、自分の物とは思つて()りまへぬもの。

 自分としての不動産はどう自分の物になつて()り、(また)()の他の資産(しさん)もどの位あるかと云ふことは判らぬか。

 それは判りまへぬ。

 亀岡(かめをか)にあつたのは私と(すみ)二人(ふたり)のものになつて()つて……。

 (およ)そは。

 それはどう云ふ財産(ざいさん)の意味ですか。

 個人(こじん)財産(ざいさん)

 時価の……。

 時価々々。

 今日(こんにち)の時価ですね。

 大本(おほもと)が盛んな時には一坪百円もしました。

 五十円でも百円でも売つて()れやしまへぬが、()うなつてしまうと二足三文ですから、今の値やつたら百円した所が一円(いちゑん)にもなつて()るやらうし、さうやからちよつと判らぬのです。

 どれ位あるのか。

 五万坪位あると思ひます。

 時価は判らぬね。()の他の個人(こじん)の名義の動産、不動産と云ふやうなものはないのか。

 それも……。

 不動産……。

 家内(かない)がなんでも、借家をちよい/\建てゝ()ると云ふことを聞いて()りましたけれども、私には判りまへぬ。

 (これ)は皆売つたのぢやないか。

 売つたのぢやないかと思ひます、借家は──。

 五万坪の……。

 (これ)は売らされたのです。

 無理(むり)に売らされたのだから、返して(もら)はうと思つて裁判して(もら)はうと思つて()ります。

 売つたことになつて()るが、そんな百円も五十円もするものを坪八銭や十銭で売りさうなことがありまへぬもの。

 何か蓄へて()るものがあるのか。

 ありまへぬ。

 (ただ)調べられた時にあすこにあつただけです。

 私はもう金のことを()かれるとかなはぬから……(ただ)古い金だけを玩具(おもちや)にして()つたのです。


争点 不敬関係書籍など

 それでは第二の不敬のことを(たづ)ねますがね。

 (これ)も、大体(だいたい)、準備手続(てつづき)(おい)ては(くは)しく弁解を()いて置いたけれども、(なほ)(くは)しく(たづ)ねるが、()亀岡町(かめをかちやう)天恩郷(てんおんきやう)発行(はつかう)された所の、昭和八年の六月三十日の霊界物語(れいかいものがたり)の六十巻の三版、(これ)は昭和七年の十月三十日の矢張(やつぱ)り同物語の第七巻の三版、それから昭和八年の四月十日同物語の三十八巻の第四版、同年(どうねん)六月十日同物語六十一巻の第四版、昭和九年の十二月二十五日同物語十巻の第三版、それから昭和八年の七月一日から昭和十年の四月一日(まで)瑞祥(ずゐしやう)新聞(しんぶん)、昭和九年の十一月九日の昭和十年日記の各編輯者(およ)び発行者は何人(なんぴと)でありますか。

 (つま)り、()問題(もんだい)になつて()る、()の刊行物の発行者並に編輯人のことを()くのですがね。

 それは、私一つも覚えて()りまへぬわ。本を見て(もら)はねば……

 ──本に書いてある通りです。

 本に書いてある通りか。

 それは編輯人、発行(はつかう)人は本に書いてある通りに(ちが)ひございまへぬ。

 私は覚えて()りまへぬ。

 それからね、()の編輯者が神諭(しんゆ)なり(あるひ)王仁三郎(おにさぶらう)作歌(さくか)霊界物語(れいかいものがたり)や、(あるひ)新聞(しんぶん)(とう)に、瑞祥(ずゐしやう)新聞(しんぶん)(とう)掲載(けいさい)することに付ては被告人が承認を与へたのかな。

 与へるも与へないもない。

 皆、ずつと、私の書いたことは皆()せることになつて()るのですから、随意に好きな所に、余白があつたら余白の所に持つて行くやうになつて()ります。

 ()せることは許してあるのです。どこへ()せても……。


 いやそれぢやなしに、今言うた問題(もんだい)になつて()るのは能く判つて()りませう。

 何が問題(もんだい)になつて()ると云ふことは判つて()りませう。

 判つて()ります。

 あの文に付て、刊行物と新聞(しんぶん)とありませう。

 あれに()せるに付ては、被告人は承諾(しようだく)を与へたかと云ふことに付て()きたいのだが。

 それは、「(これ)()せますから調査下さい」と言はれたのぢやなしに、(ただ)私の書いたことを皆()せると云ふことは許して()つたのですから……。

 さうか。

 それで、「此処(ここ)の所を、(これ)()せますから」とそんなことはちつとも聴かしまへぬ。

 私の作つたものとか、口から出たものは、皆喜んで()せたのですから──それは一つとして調べては()りまへぬです。

 それでは王仁三郎(おにさぶらう)……。

林弁護人 ちよつと裁判長、苦しいのぢやないかと思ひますが、非常(ひじやう)に苦しさうに見えますが。

裁判長 「()う云ふ(くせ)があるから心配せぬで()れ」と云ふのですが、どうぢや休むか。

林弁護人 ()の程度(ていど)で昼にして戴いて、ちよつと一時間程休養(きうやう)させて戴いたらと思ひますが。

 後ろから見て()つて、どうも身体(からだ)具合(ぐあひ)が見て()られないものですから……。

裁判長 どうぢや王仁三郎(おにさぶらう)休むか。

出口 ちよつと休まして(いただ)きたいと思ひます。

裁判長 それぢやちよつと休みませう。五分位。

林弁護人 ちよつと長く休まして戴かないと、苦しいのぢやないかと思ひます。

裁判長 王仁三郎(おにさぶらう)どうぢや、昼前休ませて欲しいのですか。

出口 五分か十分したら止るかも知れまへぬ。

 さうしたら、(また)……。

裁判長 無理(むり)()かうと思つて()りはせぬからね。

出口 私の(くせ)でございまして、始終(しじう)()うなるのです。

裁判長 それでは、大分(だいぶん)十二時迄時間もありまするが、午後(ごご)からの開廷は何時(いつ)にしませうかね。

 正一時にしませうか、(これ)は掛引のない一時ですから──()の代り一時間半ありますから、それでは午後(ごご)正一時。

午前十一時十七分休憩(きうけい)