うろーおにうろー

裁判記録(20)

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裁判記録

○神聖会は国民精神総動員
○決定機関で会議にかけて実行したこと
○更始会
○新聞買収
○皇道大本と改称、出口王仁三郎全集
○宣伝使の組織
○映画の製作

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。

争点 神聖会は国民精神総動員

午前十時三十分開廷

裁判長 辛棒(しんぼう)出来(でき)るか。

出口 (たふ)れる迄行きます。

 さう()ふことでは困る。

 悪かつたらなんとかしますから、腰を()けて……。

 立ちまへぬと、耳がちよつと具合(ぐあひ)が悪いものですから、十年から──こつちへ来てから耳掻(みみかき)を使はして(もら)へぬものだから、()うせぬと(身体(からだ)を前に延しながら)聴へまへぬ。聴えにくいことがあるのです。

 ()かなければなりませぬけれども、()()ふことは準備で認めて()つた点だから略しても()いかも知れないが、(また)弁解でもあれば()かうと思ふから、念の為に()くのですがね。

 それから、あの、神聖会(しんせひかひ)のことで、なんで神聖会(しんせひかひ)を起したかと()ふことに付て高橋さんが、「(これ)団体(だんたひ)を作つて東京へ押寄(おしよ)せて行つて、陛下に譲位を(せま)るのやらう、さうでなかつたら武力(ぶりよく)を以てやるのやらう」なんとか()ふやうなことを言うて、非常(ひじやう)に無茶なことばかり言ふので、「(ちが)ひます」と言うたらどづかれましたし、もうしやうがないから向ふの書かはる通り一一(いちいち)(だま)つて()つたのです。

 それが、矢張(やつぱ)り、予審迄ずつと同じやうに響いて()りますけれども……。

 予審ではそんなことは出て()りませぬ。

 出て()りませぬか。私はそれで(しま)ひ迄……。

 書いとりませぬ。さう思つて()りませぬ。

 それはまあ(よろ)しい。

 初めにさう()ふことを言はれて、私はびつくりしてしまひました。

 (これ)は……。

 (よろ)し。

 昭和神聖会(しんせひかひ)に付て()いて置くがね、「武力(ぶりよく)を以てなんとか()ふことは思つて()らぬが、昭和神聖会(しんせひかひ)(おい)て、()しも千万人の賛同者が出来(でき)るやうになれば一つの与論と()ふものが出て来て、大本(おほもと)の目的を達する(ため)には大変(たいへん)都合(つがふ)好いやうになる」と()ふやうな考は、有つて()らなかつたのか。

 それは、一つの与論が出来(でき)て来たならば、さうしたら与論に()つて、()の日本の本当の皇道(こうだう)発揮(はつき)して、さうして本当の天祖(てんそ)の教へ給うた国体=政体(せいたい)実現(じつげん)すると云ふやうなことは思うて()りました。

 目的は()いて()りますがね。

 (しか)し、大本(おほもと)がさうやからと言うて、それだけの人に()つて、政治家(せいぢか)にならう、と云ふやうなことは思つて()りまへぬ。

 政治家(せいぢか)になるならば、私は代議士(だいぎし)には何時(いつ)でもなれると云ふことを、何辺(なんべん)も人から(すす)められたり、固つて一所(ひとところ)信者(しんじや)団体(だんたひ)があるのですから、何時(いつ)でもなれるのです。

 さうやから、それは日本の正しい国論を国民(こくみん)一般に知らしめてやると云ふ点は、(つま)り、今日(こんにち)国民(こくみん)総動員のやうなことになるのが目的になつて()つたのです。国民(こくみん)精神総動員のやうな意味に考へて()つたのです。


歴史 決定機関で会議にかけて実行したこと

 それで、今度(こんど)は……

 まあ、神聖会(しんせひかひ)のことはそれで打切ります、最高(さいかう)幹部(かんぶ)会と総務会議(くわいぎ)()けて実行(じつかう)に移した具体的(ぐたいてき)事実(じじつ)はだね、()う云ふ事実(じじつ)とくがあつたのぢやないか、と云ふことを東尾が(くは)しく述べて()る。

 それを、今大体(だいたい)要旨を()きますから、それに付て認否をして(もら)ひたい。

 東尾が(くは)しく言うて()りますか。あの人の方が私より(くは)しいのです。

 (くは)しく述べて()るがね、弁解があれば()かなくちやならぬが。

 ()いかね。腰を()けて()つて(よろ)しい。

 ちよつと聴えぬのです、腰を()けると──。

 あゝさうか。

 東尾の第二十回の四問答です。

 「昭和三年八月二十四日教主(けうしゆ)殿に(おい)て総務会議(くわいぎ)を開き、伊佐男、井上、四方、高木、湯川、湯浅、出口慶太郎、東尾、是等(これら)の人が出席して天声社々長(てんせいしやしやちやう)(とう)の選定に付協議(けふぎ)し、第一天声社長を岩田、社長補を瓜生、第二天声社長を御田村、同社長補を吉原常三郎と決定(けつてい)しました。(これ)は、当時(たうじ)北海道(ほくかいだう)旅行中(りよかうちう)王仁三郎(おにさぶらう)から天声社(てんせいしや)長を推薦せよ、との通知(つうち)があつた(ため)であります。」

 それは間違(まちが)ひありまへぬ。


歴史 更始会

 それから、「昭和四年五月二十四日、教主(けうしゆ)殿に、伊佐男、高木、岩田、四方、湯川、湯浅慶太郎、桜井同吉、栗原七蔵、東尾が出席して、更始会の組織確立(かくりつ)に付ての総務会議(くわいぎ)を開き、協議(けふぎ)結果(けつくわ)更始会規約を議決し、()つそれ(まで)王仁三郎(おにさぶらう)から宇宙徽章(きしやう)(もら)つて()る者を取調べて、()の者を更始会員(くわいゐん)とし、今後(こんご)の入会者からは入会金一円(いちゑん)宛を納付せしめて宇宙徽章(きしやう)を渡し、各会員(くわいゐん)は毎月応分(おうぶん)の金を更始会に納付し、更始会に集つた金は大本(おほもと)本部の費用に()てる事と決めました。」

 「宇宙黴章は大正(たいしやう)十三年に王仁三郎(おにさぶらう)蒙古(もうこ)入をする以前に渡しましたが、更始会は有名無実(むじつ)()の組織は出来(でき)()なかつたので、王仁三郎(おにさぶらう)が伊佐男に更始会の組織を確立(かくりつ)せよ、との命令があつたので、()結果(けつくわ)右総務会議(くわいぎ)を開き更始会の組織を確立(かくりつ)したのであります。更始会の会長(くわいちやう)には伊佐男がなつて、会員(くわいゐん)順次(じゆんじ)増加し、最後(さいご)には一万二千人位となり、会員(くわいゐん)からの醵金(きよきん )は、一箇月約千円(くらゐ)になりましたと。それは(よろ)しと、それから昭和四年の七月二十四日教主(けうしゆ)殿に、伊佐男、井上、高木、四方、岩田、湯川、慶太郎(および)東尾が出席して、伊佐男の提議に()大本(おほもと)瑞祥会(ずゐしやうくわい)亀岡(かめをか)移転に付て総務会議(くわいぎ)を開き、協議(けふぎ)結果(けつくわ)大本(おほもと)瑞祥会(ずゐしやうくわい)亀岡(かめをか)に移し、同年(どうねん)八月十六日王仁三郎(おにさぶらう)生誕(せいたん)祭を期し名実共に亀岡(かめをか)大本(おほもと)の宣伝活動(くわつどう)の中心地とする事と決定(けつてい)し、()の頃議定通り実行(じつかう)しました。(これ)大正(たいしやう)十四年以来(いらい)王仁三郎(おにさぶらう)は主として亀岡(かめをか)()り、(かつ)亀岡(かめをか)の諸設備が整つたのと、宣伝活動(くわつどう)の中心地が綾部(あやべ)亀岡(かめをか)の双方に在つては統制も取れず不便(ふべん)である為、活動(くわつどう)中心地を亀岡(かめをか)に移したのであります」と。


醵金 きょきん 〔「拠金」とも書く〕ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。


歴史 新聞買収

 (よろ)しいか、それから、「昭和四年の十一月頃教主(けうしゆ)殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が会合して最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、北国夕刊新聞(しんぶん)買収(ばいしう)して大本(おほもと)(おい)経営(けいえい)することを協議(けふぎ)決定(けつてい)し、伊佐男と岩田とが買収(ばいしう)の衝に当つて、()の頃同新聞(しんぶん)買収(ばいしう)して大本(おほもと)(おい)経営(けいえい)し、()の後同新聞(しんぶん)には霊界物語(れいかいものがたり)中小説(せうせつ)のやうな箇所(かしよ)を連載したことがあります。同新聞(しんぶん)経営(けいえい)は、王仁三郎(おにさぶらう)()の以前から大本(おほもと)言論機関(げんろんきかん)がなければならぬと言うて()つたので、買収(ばいしう)して経営(けいえい)することにしたのであります」と、(これ)()いか。

 それから、「昭和五年七月に教主(けうしゆ)殿に伊佐男、井上、高木、東尾が集つて同会議(くわいぎ)を開き協議(けふぎ)結果(けつくわ)大本(おほもと)発展(はつてん)を図る(ため)には大本(おほもと)の東京進出(しんしゆつ)が必要であるから、()の前提として先づ大本(おほもと)の外廓団体(だんたひ)である人類愛善会(じんるゐあいぜんくわい)東洋(とうやう)本部を東京市へ進出(しんしゆつ)せしめ、同時に人類(じんるゐ)愛善(あいぜん)新聞社(しんぶんしや)を東京市に移し、同新聞社(しんぶんしや)は東京市に(おい)発行(はつかう)することゝ決めました。右会議(くわいぎ)には御田村(およ)岩田は参加(さんか)しませぬでしたが、それは両人(りやうにん)は既に亀岡(かめをか)(おい)て、両人(りやうにん)(およ)伊佐男間に(おい)て、右事項の協議(けふぎ)済であつたからであります。()の東京進出(しんしゆつ)()の頃直ちに実行(じつかう)しました。それから、矢張(やつぱ)り、昭和六年二月教主(けうしゆ)殿に伊佐男、井上、高木、東尾が会合して最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、協議(けふぎ)の末、開教四十周年記念(きねん)事業(じげう)として信者(しんじや)を五倍に、分所(ぶんしよ)支部(しぶ)を三千に増加せしむる為、梅花(ばいくわ)運動(うんどう)を起し、()の第一期として一箇年間に支部(しぶ)の数を千五百個所とすること、()の事は、同年(どうねん)二月の節分祭(せつぶんさい)に各信者(しんじや)に指令して(これ)実現(じつげん)を図ることと決定(けつてい)し、実行(じつかう)に移しました。()結果(けつくわ)分所(ぶんしよ)支部(しぶ)は千九百八十七個所となり、信者(しんじや)当時(たうじ)の倍足らずになりました」と、(よろ)しいか。

 それから、「昭和六年の十一月に矢張(やつぱ)同所(どうしよ)(おい)て伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、人類(じんるゐ)愛善(あいぜん)新聞(しんぶん)百万部(ひやくまんぶ)突破(とつぱ)に付て協議(けふぎ)し、信者(しんじや)を激励して最初(さいしよ)は三十万を目標(もくひやう)順次(じゆんじ)五十万、七十万に増加せしめて、百万部(ひやくまんぶ)に達するやう努力せしむることゝ定め、同年(どうねん)秋の大祭(たいさい)(おい)()の事を信者(しんじや)に発表しました。()の百万突破(とつぱ)に付ては、王仁三郎(おにさぶらう)和歌(わか)を作つたこともあり、(また)王仁三郎(おにさぶらう)私等(わたくしら)幹部(かんぶ)に、『百万を突破(とつぱ)せねばならぬ』と話したことがありますので、右決議をした次第(しだい)であります。同決議の結果(けつくわ)、各信者(しんじや)は同新聞(しんぶん)多数(たすう)配布(はいふ)に努力し、各地(かくち)方の支部(しぶ)等に(おい)ては同新聞(しんぶん)の一部売を()し、(また)本部より主会、聯合会(とう)に対し同新聞(しんぶん)配布(はいふ)の責任部数を割当て、実現(じつげん)に努力させました。それが為、昭和九年三月には目的の百万に達しましたが、()の後、(また)順次(じゆんじ)に減少し、最後(さいご)には三十万足らずになりました。」

 私もそれを()かれて()ります。

 私の調書にも書いてありまつしやろ。

 だけれども、()の方が(くは)しいから……。

 私のは好い加減(かげん)に……。

 簡単ですからね。

 覚えて()りまへぬから、好い加減(かげん)申しました。

 それから上州時報(じほう)……丹州(たんしう)時報(じほう)か、()の点もあるのですがね。

 「昭和七年一月綾部(あやべ)穹天閣(きうてんかく)(おい)て高木、岩田、東尾が協議(けふぎ)の上、丹州(たんしう)時報(じほう)買収(ばいしう)して大本(おほもと)(おい)経営(けいえい)することになりました。(これ)王仁三郎(おにさぶらう)が高木に、『丹州(たんしう)時報(じほう)は地元の新聞(しんぶん)でもあるから買収(ばいしう)して、大本(おほもと)(おい)経営(けいえい)したい』と云ふ話があつたので、右協議(けふぎ)をするに至つたものであります、該協議(けふぎ)結果(けつくわ)、高木が買収(ばいしう)交渉(かうせふ)をして二万円内外(ないぐわい)で同時報(じほう)大本(おほもと)買収(ばいしう)し、伊佐男が社長となり、後には吉野光俊も同時報(じほう)記者(きしや)となり、同時報(じほう)には大本(おほもと)大祭(たいさい)記事(きじ)(とう)(かか)げて()りましたが、昭和十年一月頃に王仁三郎(おにさぶらう)から注意(ちうい)があつたので、()の後からは同時報(じほう)大本(おほもと)の主張、昭和青年(せいねん)会の主義(しゆぎ)主張(とう)記事(きじ)(かか)げて発行(はつかう)しました。」

 それは、実は、丹州(たんしう)時報(じほう)から何か金借りに来たので、到頭(たうとう)金貸(かねかし)して、さうして()の金を返して()れぬものやからしやうがないので、こつちが(ただ)のやうになつたのです。

 ()の意味か。

 それで、高木さんか何か知らぬが、「(これ)は必要やから、こちらに買うて置かなければならぬ」と言うたのです。


歴史 皇道大本と改称、出口王仁三郎全集

 それから、「昭和八年一月、亀岡(かめをか)瑞声閣に伊佐男、高木、岩田、東尾が集合して最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、伊佐男の提案した皇道(こうだう)大本(おほもと)名称(めいしよう)を使用する事、大本(おほもと)の組織の改革(とう)に付協議(けふぎ)し、近来(きんらい)世間(せけん)(おい)皇道(こうだう)熱が盛になつて来たから、(これ)からは大正(たいしやう)十年事件以来(いらい)使用することを遠慮(ゑんりよ)して()つた皇道(こうだう)大本(おほもと)なる名称(めいしよう)に使用すること、是迄(これまで)瑞祥会(ずゐしやうくわい)があつて、同会と大本(おほもと)との関係が複雑になつて()るから、瑞祥会(ずゐしやうくわい)廃止(はいし)して大本(おほもと)に合流せしめ、(これ)からは皇道(こうだう)大本(おほもと)(おい)て、大本(おほもと)に関する一切(いつさい)のことを統制すること。皇道(こうだう)大本(おほもと)の総本部を綾部(あやべ)に置き、本部を亀岡(かめをか)に置き、総本部に(おい)ては祭祀(さいし)と出口家の事務とを取扱(とりあつか)ひ、()の他の大本(おほもと)の事は全部(ぜんぶ)亀岡(かめをか)(おい)取扱(とりあつか)ふこと、と決定(けつてい)し、()決定(けつてい)したる事項は王仁三郎(おにさぶらう)の許可を得て、総務会議(くわいぎ)提出(ていしゆつ)し、大本(おほもと)信条(しんでう)は昔出来(でき)たままになつて()るから、信条(しんでう)改正(かいせい)すると共に、大本(おほもと)規約を改正(かいせい)することゝし、前回御示しの大本(おほもと)事務便覧に掲載(けいさい)信条(しんでう)(およ)規約を制定(せいてい)し、それから、()の次は、昭和八年一月中旬頃光照殿(くわうせうでん)に、伊佐男、井上、高木、岩田、栗原、有田、湯浅、西村、桜井同吉、松並高義、東尾等が集合して総務会議(くわいぎ)を開き、右皇道(こうだう)大本(おほもと)名称(めいしよう)使用、大本(おほもと)組織改革(とう)に付協議(けふぎ)し、最高(さいかう)幹部(かんぶ)会に()ける議決の通り決定(けつてい)し、()の議決事項は同年(どうねん)二月上旬の節分祭(せつぶんさい)信者(しんじや)に対して発表して、()の頃議決の通り実行(じつかう)し、それから昭和九年一月東京の文士で大本(おほもと)信者(しんじや)の楠田敏郎が亀岡(かめをか)に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が万有(ばんいう)社と云ふ書籍(しよせき)店を開業することゝなつたから、王仁三郎(おにさぶらう)全集を万有(ばんいう)社から発行(はつかう)させて(もら)ひたい、同全集を大本(おほもと)以外(いぐわい)普通(ふつう)書籍(しよせき)店から発行(はつかう)して()ると云ふことは大本(おほもと)の宣伝上にも好都合(つがふ)であると思ふ故、是非(ぜひ)発行(はつかう)させて()れ』と言ひました。当時(たうじ)王仁三郎(おにさぶらう)伊豆(いづ)の湯ケ島温泉に行つて()りましたので、同人の意見を()くことゝ()し、楠田が伊豆(いづ)に行つて王仁三郎(おにさぶらう)交渉(かうせふ)し、王仁三郎(おにさぶらう)万有(ばんいう)社から王仁三郎(おにさぶらう)全集を発行(はつかう)することを承諾(しようだく)したので、全集発行(はつかう)に関する契約は東京に()る御田村に一任し愈々(いよいよ)発行(はつかう)することゝなつたので、同年(どうねん)二、三月頃瑞声閣に(おい)て伊佐男、高木、東尾が協議(けふぎ)の上、元男を王仁三郎(おにさぶらう)全集編纂委員長に、岩田を同編纂主任に、井上、高木、御田村、山口利隆、桜井重雄、吉野光俊、東尾を同編纂委員と定め、()の後委員等協議(けふぎ)の上全集は合計八巻発行(はつかう)することとし、二巻分は霊界物語(れいかいものがたり)から、()の他は王仁三郎(おにさぶらう)の著述した単行本(たんかうぼん)全部(ぜんぶ)(およ)王仁三郎(おにさぶらう)の作つた原稿(げんかう)から材料を採ることゝし、王仁三郎(おにさぶらう)の承認を経て、井上留五郎が()の材料を取調べて、訂正(ていせい)せねばならぬ所は王仁三郎(おにさぶらう)の意見を()いて訂正(ていせい)し、桜井重雄が主として材料を史実課より集め、私は王仁三郎(おにさぶらう)作歌(さくか)中から作歌(さくか)選択(せんたく)して全集第七巻に掲載(けいさい)することゝしました……。

 其処(そこ)の所がちよつと(ちが)ひます。

 私がちよつとも訂正(ていせい)して()りまへぬ。()(まま)を……

 先に書いてあつた通りです、訂正(ていせい)も何も(いた)しまへぬ。

 先に弁解して()つたね。

 それから、「同全集は第四巻(まで)万有(ばんいう)社より発行(はつかう)しましたが、同社は経営(けいえい)困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に(おい)て伊佐男、高木、岩田、東尾が協議(けふぎ)の上、第五巻以下(いか)天声社(てんせいしや)(おい)発行(はつかう)することとし、()の後第五巻乃至(ないし)第八巻を発行(はつかう)しました。同全集は、第一巻は五、六千部売れ、第二巻乃至(ないし)第四巻は四、五千部売れ、第五巻乃至(ないし)第八巻は約三千部売れました」と、()の所で、「(これ)は自分が取調べて委員会を作つて、訂正(ていせい)した時には違ふ」と()う云ふのだね。

 さうです、それはして()らぬと思ひます。


歴史 宣伝使の組織

 それから特派宣伝使(せんでんし)の点だが、昭和九年三月瑞声閣に、伊佐男、高木、東尾が会合して最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、東尾が提議して特派宣伝使(せんでんし)の件に付き協議(けふぎ)し、従来各地(かくち)方に派遣して()つた特派宣伝使(せんでんし)(およ)駐在(ちゆうざい)宣伝使(せんでんし)制度(せいど)支部長(しぶちやう)依頼心(いらいしん)を起させるから同制度(せいど)(これ)廃止(はいし)し、必要に応じて宣伝使(せんでんし)を派遣し得るやう本部に無任所宣伝使(せんでんし)を置き、平常は大祥殿(たいしやうでん)()ける講演(かうえん)を受け持たせ、別に昭和青年(せいねん)会の指導(しだう)員を選任し各地方に派遣して同青年(せいねん)支部(しぶ)指導(しだう)(およ)会員(くわいゐん)の獲得運動(うんどう)奨励(しやうれい)せしむること、決定(けつてい)し、該決定(けつてい)は直ちに実行(じつかう)せしめ」、(これ)(よろ)しいね。

 ()の通りです。

 それから、「昭和九年春頃(はるごろ)瑞声閣に(おい)て伊佐男、高木、東尾の三人で最高(さいかう)幹部(かんぶ)会を開き、大本(おほもと)の財政は臨時の支出(ししゆつ)を除きても一箇年に約二、三万円不足するので、信者(しんじや)中の生活に余裕(よゆう)のある者から一人に付約千円以上(いじやう)の金を預つて大本(おほもと)の経常費に融通(ゆうづう)し、出金者に対しては公債の利息と同額の利息を支(はら)ひ、預り金は出金者の請求(せいきう)に応じ一時(はら)(また)は分割(はら)ひにて弁済することを協議(けふぎ)決定(けつてい)し、()結果(けつくわ)高木が勧誘して福岡(ふくをか)の平川小秀から一万円預り、東尾が勧誘して亀岡(かめをか)の伯耆と云ふ女より一万円と、細田東洋男より五千円とを預り、()の他に信者(しんじや)の勧誘に()り」──(これ)()の通りだね。

 それはね、私初めて予審でそんなことがあつたかと知りました位で、()の取決めがあつたことは聞いて()りまへぬ。


歴史 映画の製作

 それから、「昭和十年三月、亀岡(かめをか)の透明殿に伊佐男、貞四郎、下位春吉、大深、高木、岩田、深町、東尾が集合して昭和神聖会(しんせひかひ)の参謀会議(くわいぎ)を開き、協議(けふぎ)結果(けつくわ)同会の宣伝の為、春季大祭(たいさい)直後に各地(かくち)方の主会に(おい)て五日間皇道(こうだう)講座を開催(かいさい)して、皇道(こうだう)を標傍して大本(おほもと)主義(しゆぎ)主張(とう)を講義すること。同講座の講師は追つて決定(けつてい)し本部より派遣すること。神聖会(しんせひかひ)に映画部を設けて映画宣伝を()すこと(とう)決定(けつてい)し、()の後大本(おほもと)最高(さいかう)幹部(かんぶ)等が協議(けふぎ)して、貞四郎、井上、岩田、栗原、大深、有留、桜井重雄、芦田、細田、西村、土井、上野、山口、菅谷、松浦(とう)を同講師に選定し、講師は光照殿(くわうせうでん)(おい)て試演会を(もよほ)し、講師は同年(どうねん)六月頃より各地方へ出張して皇道(こうだう)講座を開いて講義しました。映画部は東京の玉川に設けましたが失敗に終り、試写だけで公開するに至りませぬでした。映画部が失敗に終つたので、昭和十年八月頃王仁三郎(おにさぶらう)の直接指導(しだう)の下に神劇部を設け、大祭(たいさい)の時神劇を(もよほ)し、(また)王仁三郎(おにさぶらう)直接指導(しだう)の下に同人の一代記を映画にしましたが、(これ)も試写の程度(ていど)で公開するに至りませぬでした……。

 公開する暇が(ひま)なかつた。

 それ(まで)()の事件が起つてしまつた。それから玉川へ行きますと、面白(おもしろ)うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです。

 だからまあ失敗したと言ふのだね。

 (とて)下手(へた)な映画です。