うろーおにうろー
裁判記録(20)
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裁判記録
○神聖会は国民精神総動員
○決定機関で会議にかけて実行したこと
○更始会
○新聞買収
○皇道大本と改称、出口王仁三郎全集
○宣伝使の組織
○映画の製作
原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。内容のまとまりごとに標題を付加した。
争点 神聖会は国民精神総動員
午前十時三十分開廷
裁判長
辛棒
(
しんぼう
)
出来
(
でき
)
るか。
出口
倒
(
たふ
)
れる迄行きます。
問
さう
云
(
い
)
ふことでは困る。
悪かつたらなんとかしますから、腰を
掛
(
か
)
けて……。
答
立ちまへぬと、耳がちよつと
具合
(
ぐあひ
)
が悪いものですから、十年から──こつちへ来てから
耳掻
(
みみかき
)
を使はして
貰
(
もら
)
へぬものだから、
斯
(
か
)
うせぬと(
身体
(
からだ
)
を前に延しながら)聴へまへぬ。聴えにくいことがあるのです。
問
訊
(
き
)
かなければなりませぬけれども、
斯
(
か
)
う
云
(
い
)
ふことは準備で認めて
居
(
を
)
つた点だから略しても
宜
(
よ
)
いかも知れないが、
又
(
また
)
弁解でもあれば
訊
(
き
)
かうと思ふから、念の為に
訊
(
き
)
くのですがね。
答
それから、あの、
神聖会
(
しんせひかひ
)
のことで、なんで
神聖会
(
しんせひかひ
)
を起したかと
云
(
い
)
ふことに付て高橋さんが、「
是
(
これ
)
は
団体
(
だんたひ
)
を作つて東京へ
押寄
(
おしよ
)
せて行つて、陛下に譲位を
迫
(
せま
)
るのやらう、さうでなかつたら
武力
(
ぶりよく
)
を以てやるのやらう」なんとか
云
(
い
)
ふやうなことを言うて、
非常
(
ひじやう
)
に無茶なことばかり言ふので、「
違
(
ちが
)
ひます」と言うたらどづかれましたし、もうしやうがないから向ふの書かはる通り
一一
(
いちいち
)
黙
(
だま
)
つて
居
(
を
)
つたのです。
それが、
矢張
(
やつぱ
)
り、予審迄ずつと同じやうに響いて
居
(
を
)
りますけれども……。
問
予審ではそんなことは出て
居
(
を
)
りませぬ。
答
出て
居
(
を
)
りませぬか。私はそれで
終
(
しま
)
ひ迄……。
問
書いとりませぬ。さう思つて
居
(
を
)
りませぬ。
それはまあ
宜
(
よろ
)
しい。
答
初めにさう
云
(
い
)
ふことを言はれて、私はびつくりしてしまひました。
是
(
これ
)
は……。
問
宜
(
よろ
)
し。
昭和
神聖会
(
しんせひかひ
)
に付て
訊
(
き
)
いて置くがね、「
武力
(
ぶりよく
)
を以てなんとか
云
(
い
)
ふことは思つて
居
(
を
)
らぬが、昭和
神聖会
(
しんせひかひ
)
に
於
(
おい
)
て、
若
(
も
)
しも千万人の賛同者が
出来
(
でき
)
るやうになれば一つの与論と
云
(
い
)
ふものが出て来て、
大本
(
おほもと
)
の目的を達する
為
(
ため
)
には
大変
(
たいへん
)
都合
(
つがふ
)
好いやうになる」と
云
(
い
)
ふやうな考は、有つて
居
(
を
)
らなかつたのか。
答
それは、
一つの与論が
出来
(
でき
)
て来たならば、さうしたら与論に
依
(
よ
)
つて、
此
(
こ
)
の日本の本当の
皇道
(
こうだう
)
を
発揮
(
はつき
)
して、さうして本当の
天祖
(
てんそ
)
の教へ給うた国体=
政体
(
せいたい
)
が
実現
(
じつげん
)
すると云ふやうなことは思うて
居
(
を
)
りました。
問
目的は
訊
(
き
)
いて
居
(
を
)
りますがね。
答
併
(
しか
)
し、
大本
(
おほもと
)
がさうやからと言うて、それだけの人に
依
(
よ
)
つて、
政治家
(
せいぢか
)
にならう、と云ふやうなことは思つて
居
(
を
)
りまへぬ。
政治家
(
せいぢか
)
になるならば、私は
代議士
(
だいぎし
)
には
何時
(
いつ
)
でもなれると云ふことを、
何辺
(
なんべん
)
も人から
奨
(
すす
)
められたり、固つて
一所
(
ひとところ
)
に
信者
(
しんじや
)
の
団体
(
だんたひ
)
があるのですから、
何時
(
いつ
)
でもなれるのです。
さうやから、それは日本の正しい国論を
国民
(
こくみん
)
一般に知らしめてやると云ふ点は、
詰
(
つま
)
り、
今日
(
こんにち
)
の
国民
(
こくみん
)
総動員のやうなことになるのが目的になつて
居
(
を
)
つたのです。
国民
(
こくみん
)
精神総動員のやうな意味に考へて
居
(
を
)
つたのです。
歴史 決定機関で会議にかけて実行したこと
問
それで、
今度
(
こんど
)
は……
まあ、
神聖会
(
しんせひかひ
)
のことはそれで打切ります、
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会と総務
会議
(
くわいぎ
)
に
掛
(
か
)
けて
実行
(
じつかう
)
に移した
具体的
(
ぐたいてき
)
の
事実
(
じじつ
)
はだね、
斯
(
か
)
う云ふ
事実
(
じじつ
)
とくがあつたのぢやないか、と云ふことを東尾が
詳
(
くは
)
しく述べて
居
(
を
)
る。
それを、今
大体
(
だいたい
)
要旨を
訊
(
き
)
きますから、それに付て認否をして
貰
(
もら
)
ひたい。
答
東尾が
詳
(
くは
)
しく言うて
居
(
を
)
りますか。あの人の方が私より
詳
(
くは
)
しいのです。
問
詳
(
くは
)
しく述べて
居
(
を
)
るがね、弁解があれば
訊
(
き
)
かなくちやならぬが。
宜
(
よ
)
いかね。腰を
掛
(
か
)
けて
居
(
を
)
つて
宜
(
よろ
)
しい。
答
ちよつと聴えぬのです、腰を
掛
(
か
)
けると──。
問
あゝさうか。
東尾の第二十回の四問答です。
「昭和三年八月二十四日
教主
(
けうしゆ
)
殿に
於
(
おい
)
て総務
会議
(
くわいぎ
)
を開き、伊佐男、井上、四方、高木、湯川、湯浅、出口慶太郎、東尾、
是等
(
これら
)
の人が出席して
天声社々長
(
てんせいしやしやちやう
)
等
(
とう
)の選定に付
協議
(
けふぎ
)
し、第一天声社長を岩田、社長補を瓜生、第二天声社長を御田村、同社長補を吉原常三郎と
決定
(
けつてい
)
しました。
是
(
これ
)
は、
当時
(
たうじ
)
、
北海道
(
ほくかいだう
)
に
旅行中
(
りよかうちう
)
の
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
から
天声社
(
てんせいしや
)
長を推薦せよ、との
通知
(
つうち
)
があつた
為
(
ため
)
であります。」
答
それは
間違
(
まちが
)
ひありまへぬ。
歴史 更始会
問
それから、「昭和四年五月二十四日、
教主
(
けうしゆ
)
殿に、伊佐男、高木、岩田、四方、湯川、湯浅慶太郎、桜井同吉、栗原七蔵、東尾が出席して、更始会の組織
確立
(
かくりつ
)
に付ての総務
会議
(
くわいぎ
)
を開き、
協議
(
けふぎ
)
の
結果
(
けつくわ
)
更始会規約を議決し、
且
(
か
)
つそれ
迄
(
まで
)
に
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
から宇宙
徽章
(
きしやう
)
を
貰
(
もら
)
つて
居
(
を
)
る者を取調べて、
其
(
そ
)
の者を更始
会員
(
くわいゐん
)
とし、
今後
(
こんご
)
の入会者からは入会金
一円
(
いちゑん
)
宛を納付せしめて宇宙
徽章
(
きしやう
)
を渡し、各
会員
(
くわいゐん
)
は毎月
応分
(
おうぶん
)
の金を更始会に納付し、更始会に集つた金は
大本
(
おほもと
)
本部の費用に
充
(
あ
)
てる事と決めました。」
「宇宙黴章は
大正
(
たいしやう
)
十三年に
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
蒙古
(
もうこ
)
入をする以前に渡しましたが、更始会は有名
無実
(
むじつ
)
で
其
(
そ
)
の組織は
出来
(
でき
)
て
居
(
ゐ
)
なかつたので、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が伊佐男に更始会の組織を
確立
(
かくりつ
)
せよ、との命令があつたので、
其
(
そ
)
の
結果
(
けつくわ
)
右総務
会議
(
くわいぎ
)
を開き更始会の組織を
確立
(
かくりつ
)
したのであります。更始会の
会長
(
くわいちやう
)
には伊佐男がなつて、
会員
(
くわいゐん
)
は
順次
(
じゆんじ
)
増加し、
最後
(
さいご
)
には一万二千人位となり、
会員
(
くわいゐん
)
からの
醵金
(
きよきん
)
は、一箇月約千円
位
(
くらゐ
)
になりましたと。それは
宜
(
よろ
)
しと、それから昭和四年の七月二十四日
教主
(
けうしゆ
)
殿に、伊佐男、井上、高木、四方、岩田、湯川、慶太郎
及
(
および
)
東尾が出席して、伊佐男の提議に
依
(
よ
)
り
大本
(
おほもと
)
瑞祥会
(
ずゐしやうくわい
)
の
亀岡
(
かめをか
)
移転に付て総務
会議
(
くわいぎ
)
を開き、
協議
(
けふぎ
)
の
結果
(
けつくわ
)
大本
(
おほもと
)
瑞祥会
(
ずゐしやうくわい
)
を
亀岡
(
かめをか
)
に移し、
同年
(
どうねん
)
八月十六日
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の
生誕
(
せいたん
)
祭を期し名実共に
亀岡
(
かめをか
)
を
大本
(
おほもと
)
の宣伝
活動
(
くわつどう
)
の中心地とする事と
決定
(
けつてい
)
し、
其
(
そ
)
の頃議定通り
実行
(
じつかう
)
しました。
是
(
これ
)
は
大正
(
たいしやう
)
十四年
以来
(
いらい
)
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
は主として
亀岡
(
かめをか
)
に
居
(
を
)
り、
且
(
かつ
)
亀岡
(
かめをか
)
の諸設備が整つたのと、宣伝
活動
(
くわつどう
)
の中心地が
綾部
(
あやべ
)
と
亀岡
(
かめをか
)
の双方に在つては統制も取れず
不便
(
ふべん
)
である為、
活動
(
くわつどう
)
中心地を
亀岡
(
かめをか
)
に移したのであります」と。
醵金 きょきん 〔「拠金」とも書く〕ある事をするために複数の者が金を出しあうこと。また、その金。
歴史 新聞買収
宜
(
よろ
)
しいか、それから、「昭和四年の十一月頃
教主
(
けうしゆ
)
殿に伊佐男、高木、岩田、東尾が会合して
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、北国夕刊
新聞
(
しんぶん
)
を
買収
(
ばいしう
)
して
大本
(
おほもと
)
に
於
(
おい
)
て
経営
(
けいえい
)
することを
協議
(
けふぎ
)
決定
(
けつてい
)
し、伊佐男と岩田とが
買収
(
ばいしう
)
の衝に当つて、
其
(
そ
)
の頃同
新聞
(
しんぶん
)
を
買収
(
ばいしう
)
して
大本
(
おほもと
)
に
於
(
おい
)
て
経営
(
けいえい
)
し、
其
(
そ
)
の後同
新聞
(
しんぶん
)
には
霊界物語
(
れいかいものがたり
)
中小説
(
せうせつ
)のやうな
箇所
(
かしよ
)
を連載したことがあります。同
新聞
(
しんぶん
)
の
経営
(
けいえい
)
は、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
其
(
そ
)
の以前から
大本
(
おほもと
)
の
言論機関
(
げんろんきかん
)
がなければならぬと言うて
居
(
を
)
つたので、
買収
(
ばいしう
)
して
経営
(
けいえい
)
することにしたのであります」と、
是
(
これ
)
も
宜
(
よ
)
いか。
それから、「昭和五年七月に
教主
(
けうしゆ
)
殿に伊佐男、井上、高木、東尾が集つて同
会議
(
くわいぎ
)
を開き
協議
(
けふぎ
)
の
結果
(
けつくわ
)
、
大本
(
おほもと
)
の
発展
(
はつてん
)
を図る
為
(
ため
)
には
大本
(
おほもと
)
の東京
進出
(
しんしゆつ
)
が必要であるから、
其
(
そ
)
の前提として先づ
大本
(
おほもと
)
の外廓
団体
(
だんたひ
)
である
人類愛善会
(
じんるゐあいぜんくわい
)
東洋
(
とうやう
)
本部を東京市へ
進出
(
しんしゆつ
)
せしめ、同時に
人類
(
じんるゐ
)
愛善
(
あいぜん
)
新聞社
(
しんぶんしや
)
を東京市に移し、同
新聞社
(
しんぶんしや
)
は東京市に
於
(
おい
)
て
発行
(
はつかう
)
することゝ決めました。右
会議
(
くわいぎ
)
には御田村
及
(
およ
)
岩田は
参加
(
さんか
)
しませぬでしたが、それは
両人
(
りやうにん
)
は既に
亀岡
(
かめをか
)
に
於
(
おい
)
て、
両人
(
りやうにん
)
及
(
およ
)
伊佐男間に
於
(
おい
)
て、右事項の
協議
(
けふぎ
)
済であつたからであります。
此
(
こ
)
の東京
進出
(
しんしゆつ
)
は
其
(
そ
)
の頃直ちに
実行
(
じつかう
)
しました。それから、
矢張
(
やつぱ
)
り、昭和六年二月
教主
(
けうしゆ
)
殿に伊佐男、井上、高木、東尾が会合して
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、
協議
(
けふぎ
)
の末、開教四十周年
記念
(
きねん
)
事業
(
じげう
)
として
信者
(
しんじや
)
を五倍に、
分所
(
ぶんしよ
)
支部
(
しぶ
)
を三千に増加せしむる為、
梅花
(
ばいくわ
)
運動
(
うんどう
)
を起し、
其
(
そ
)
の第一期として一箇年間に
支部
(
しぶ
)
の数を千五百個所とすること、
其
(
そ
)
の事は、
同年
(
どうねん
)
二月の
節分祭
(
せつぶんさい
)
に各
信者
(
しんじや
)
に指令して
之
(
これ
)
が
実現
(
じつげん
)
を図ることと
決定
(
けつてい
)
し、
実行
(
じつかう
)
に移しました。
其
(
そ
)
の
結果
(
けつくわ
)
、
分所
(
ぶんしよ
)
支部
(
しぶ
)
は千九百八十七個所となり、
信者
(
しんじや
)
は
当時
(
たうじ
)
の倍足らずになりました」と、
宜
(
よろ
)
しいか。
それから、「昭和六年の十一月に
矢張
(
やつぱ
)
り
同所
(
どうしよ
)
に
於
(
おい
)
て伊佐男、高木、岩田、東尾が集つて
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、
人類
(
じんるゐ
)
愛善
(
あいぜん
)
新聞
(
しんぶん
)
百万部
(
ひやくまんぶ
)
突破
(
とつぱ
)
に付て
協議
(
けふぎ
)
し、
信者
(
しんじや
)
を激励して
最初
(
さいしよ
)
は三十万を
目標
(
もくひやう
)
に
順次
(
じゆんじ
)
五十万、七十万に増加せしめて、
百万部
(
ひやくまんぶ
)
に達するやう努力せしむることゝ定め、
同年
(
どうねん
)
秋の
大祭
(
たいさい
)
に
於
(
おい
)
て
其
(
そ
)
の事を
信者
(
しんじや
)
に発表しました。
其
(
そ
)
の百万
突破
(
とつぱ
)
に付ては、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
和歌
(
わか
)
を作つたこともあり、
又
(
また
)
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
私等
(
わたくしら
)
幹部
(
かんぶ
)
に、『百万を
突破
(
とつぱ
)
せねばならぬ』と話したことがありますので、右決議をした
次第
(
しだい
)
であります。同決議の
結果
(
けつくわ
)
、各
信者
(
しんじや
)
は同
新聞
(
しんぶん
)
の
多数
(
たすう
)
配布
(
はいふ
)
に努力し、
各地
(
かくち
)
方の
支部
(
しぶ
)
等に
於
(
おい
)
ては同
新聞
(
しんぶん
)
の一部売を
為
(
な
)
し、
又
(
また
)
本部より主会、聯合会
等
(
とう
)
に対し同
新聞
(
しんぶん
)
配布
(
はいふ
)
の責任部数を割当て、
実現
(
じつげん
)
に努力させました。それが為、昭和九年三月には目的の百万に達しましたが、
其
(
そ
)
の後、
又
(
また
)
、
順次
(
じゆんじ
)
に減少し、
最後
(
さいご
)
には三十万足らずになりました。」
答
私もそれを
訊
(
き
)
かれて
居
(
を
)
ります。
私の調書にも書いてありまつしやろ。
問
だけれども、
此
(
こ
)
の方が
詳
(
くは
)
しいから……。
答
私のは好い
加減
(
かげん
)
に……。
問
簡単ですからね。
答
覚えて
居
(
を
)
りまへぬから、好い
加減
(
かげん
)
申しました。
問
それから上州
時報
(
じほう
)
……
丹州
(
たんしう
)
時報
(
じほう
)
か、
此
(
こ
)
の点もあるのですがね。
「昭和七年一月
綾部
(
あやべ
)
穹天閣
(
きうてんかく
)
に
於
(
おい
)
て高木、岩田、東尾が
協議
(
けふぎ
)
の上、
丹州
(
たんしう
)
時報
(
じほう
)
を
買収
(
ばいしう
)
して
大本
(
おほもと
)
に
於
(
おい
)
て
経営
(
けいえい
)
することになりました。
是
(
これ
)
は
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が高木に、『
丹州
(
たんしう
)
時報
(
じほう
)
は地元の
新聞
(
しんぶん
)
でもあるから
買収
(
ばいしう
)
して、
大本
(
おほもと
)
に
於
(
おい
)
て
経営
(
けいえい
)
したい』と云ふ話があつたので、右
協議
(
けふぎ
)
をするに至つたものであります、該
協議
(
けふぎ
)
の
結果
(
けつくわ
)
、高木が
買収
(
ばいしう
)
の
交渉
(
かうせふ
)
をして二万円
内外
(
ないぐわい
)
で同
時報
(
じほう
)
を
大本
(
おほもと
)
に
買収
(
ばいしう
)
し、伊佐男が社長となり、後には吉野光俊も同
時報
(
じほう
)
の
記者
(
きしや
)
となり、同
時報
(
じほう
)
には
大本
(
おほもと
)
の
大祭
(
たいさい
)
の
記事
(
きじ
)
等
(
とう
)
を
掲
(
かか
)
げて
居
(
を
)
りましたが、昭和十年一月頃に
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
から
注意
(
ちうい
)
があつたので、
其
(
そ
)
の後からは同
時報
(
じほう
)
に
大本
(
おほもと
)
の主張、昭和
青年
(
せいねん
)
会の
主義
(
しゆぎ
)
主張
等
(
とう
)
の
記事
(
きじ
)
を
掲
(
かか
)
げて
発行
(
はつかう
)
しました。」
答
それは、実は、
丹州
(
たんしう
)
時報
(
じほう
)
から何か金借りに来たので、
到頭
(
たうとう
)
金貸
(
かねかし
)
して、さうして
其
(
そ
)
の金を返して
呉
(
く
)
れぬものやからしやうがないので、こつちが
只
(
ただ
)
のやうになつたのです。
問
其
(
そ
)
の意味か。
答
それで、高木さんか何か知らぬが、「
是
(
これ
)
は必要やから、こちらに買うて置かなければならぬ」と言うたのです。
歴史 皇道大本と改称、出口王仁三郎全集
問
それから、「昭和八年一月、
亀岡
(
かめをか
)
瑞声閣に伊佐男、高木、岩田、東尾が集合して
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、伊佐男の提案した
皇道
(
こうだう
)
大本
(
おほもと
)
の
名称
(
めいしよう
)
を使用する事、
大本
(
おほもと
)
の組織の改革
等
(
とう
)
に付
協議
(
けふぎ
)
し、
近来
(
きんらい
)
世間
(
せけん
)
に
於
(
おい
)
て
皇道
(
こうだう
)
熱が盛になつて来たから、
是
(
これ
)
からは
大正
(
たいしやう
)
十年事件
以来
(
いらい
)
使用することを
遠慮
(
ゑんりよ
)
して
居
(
を
)
つた
皇道
(
こうだう
)
大本
(
おほもと
)
なる
名称
(
めいしよう
)
に使用すること、
是迄
(
これまで
)
は
瑞祥会
(
ずゐしやうくわい
)
があつて、同会と
大本
(
おほもと
)
との関係が複雑になつて
居
(
を
)
るから、
瑞祥会
(
ずゐしやうくわい
)
を
廃止
(
はいし
)
して
大本
(
おほもと
)
に合流せしめ、
是
(
これ
)
からは
皇道
(
こうだう
)
大本
(
おほもと
)
に
於
(
おい
)
て、
大本
(
おほもと
)
に関する
一切
(
いつさい
)
のことを統制すること。
皇道
(
こうだう
)
大本
(
おほもと
)
の総本部を
綾部
(
あやべ
)
に置き、本部を
亀岡
(
かめをか
)
に置き、総本部に
於
(
おい
)
ては
祭祀
(
さいし
)
と出口家の事務とを
取扱
(
とりあつか
)
ひ、
其
(
そ
)
の他の
大本
(
おほもと
)
の事は
全部
(
ぜんぶ
)
亀岡
(
かめをか
)
に
於
(
おい
)
て
取扱
(
とりあつか
)
ふこと、と
決定
(
けつてい
)
し、
其
(
そ
)
の
決定
(
けつてい
)
したる事項は
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の許可を得て、総務
会議
(
くわいぎ
)
に
提出
(
ていしゆつ
)
し、
大本
(
おほもと
)
信条
(
しんでう
)
は昔
出来
(
でき
)
たままになつて
居
(
を
)
るから、
信条
(
しんでう
)
を
改正
(
かいせい
)
すると共に、
大本
(
おほもと
)
規約を
改正
(
かいせい
)
することゝし、前回御示しの
大本
(
おほもと
)
事務便覧に
掲載
(
けいさい
)
の
信条
(
しんでう
)
及
(
およ
)
規約を
制定
(
せいてい
)
し、それから、
其
(
そ
)
の次は、昭和八年一月中旬頃
光照殿
(
くわうせうでん
)
に、伊佐男、井上、高木、岩田、栗原、有田、湯浅、西村、桜井同吉、松並高義、東尾等が集合して総務
会議
(
くわいぎ
)
を開き、右
皇道
(
こうだう
)
大本
(
おほもと
)
の
名称
(
めいしよう
)
使用、
大本
(
おほもと
)
組織改革
等
(
とう
)
に付
協議
(
けふぎ
)
し、
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会に
於
(
お
)
ける議決の通り
決定
(
けつてい
)
し、
其
(
そ
)
の議決事項は
同年
(
どうねん
)
二月上旬の
節分祭
(
せつぶんさい
)
に
信者
(
しんじや
)
に対して発表して、
其
(
そ
)
の頃議決の通り
実行
(
じつかう
)
し、それから昭和九年一月東京の文士で
大本
(
おほもと
)
信者
(
しんじや
)
の楠田敏郎が
亀岡
(
かめをか
)
に来て、伊佐男、高木、東尾に対し、『東京の伊藤靖と云ふ者が
万有
(
ばんいう
)
社と云ふ
書籍
(
しよせき
)
店を開業することゝなつたから、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
全集を
万有
(
ばんいう
)
社から
発行
(
はつかう
)
させて
貰
(
もら
)
ひたい、同全集を
大本
(
おほもと
)
以外
(
いぐわい
)
の
普通
(
ふつう
)
の
書籍
(
しよせき
)
店から
発行
(
はつかう
)
して
居
(
を
)
ると云ふことは
大本
(
おほもと
)
の宣伝上にも好
都合
(
つがふ
)
であると思ふ故、
是非
(
ぜひ
)
発行
(
はつかう
)
させて
呉
(
く
)
れ』と言ひました。
当時
(
たうじ
)
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
は
伊豆
(
いづ
)
の湯ケ島温泉に行つて
居
(
を
)
りましたので、同人の意見を
聴
(
き
)
くことゝ
為
(
な
)
し、楠田が
伊豆
(
いづ
)
に行つて
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
と
交渉
(
かうせふ
)
し、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
が
万有
(
ばんいう
)
社から
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
全集を
発行
(
はつかう
)
することを
承諾
(
しようだく
)
したので、全集
発行
(
はつかう
)
に関する契約は東京に
居
(
を
)
る御田村に一任し
愈々
(
いよいよ
)
発行
(
はつかう
)
することゝなつたので、
同年
(
どうねん
)
二、三月頃瑞声閣に
於
(
おい
)
て伊佐男、高木、東尾が
協議
(
けふぎ
)
の上、元男を
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
全集編纂委員長に、岩田を同編纂主任に、井上、高木、御田村、山口利隆、桜井重雄、吉野光俊、東尾を同編纂委員と定め、
其
(
そ
)
の後委員等
協議
(
けふぎ
)
の上全集は合計八巻
発行
(
はつかう
)
することとし、二巻分は
霊界物語
(
れいかいものがたり
)
から、
其
(
そ
)
の他は
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の著述した
単行本
(
たんかうぼん
)
全部
(
ぜんぶ
)
及
(
およ
)
び
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の作つた
原稿
(
げんかう
)
から材料を採ることゝし、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の承認を経て、井上留五郎が
其
(
そ
)
の材料を取調べて、
訂正
(
ていせい
)
せねばならぬ所は
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の意見を
聴
(
き
)
いて
訂正
(
ていせい
)
し、桜井重雄が主として材料を史実課より集め、私は
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の
作歌
(
さくか
)
中から
作歌
(
さくか
)
を
選択
(
せんたく
)
して全集第七巻に
掲載
(
けいさい
)
することゝしました……。
答
其処
(
そこ
)
の所がちよつと
違
(
ちが
)
ひます。
私がちよつとも
訂正
(
ていせい
)
して
居
(
を
)
りまへぬ。
其
(
そ
)
の
儘
(
まま
)
を……
先に書いてあつた通りです、
訂正
(
ていせい
)
も何も
致
(
いた
)
しまへぬ。
問
先に弁解して
居
(
を
)
つたね。
それから、「同全集は第四巻
迄
(
まで
)
は
万有
(
ばんいう
)
社より
発行
(
はつかう
)
しましたが、同社は
経営
(
けいえい
)
困難となつた為、昭和九年九月頃瑞声閣に
於
(
おい
)
て伊佐男、高木、岩田、東尾が
協議
(
けふぎ
)
の上、第五巻
以下
(
いか
)
は
天声社
(
てんせいしや
)
に
於
(
おい
)
て
発行
(
はつかう
)
することとし、
其
(
そ
)
の後第五巻
乃至
(
ないし
)
第八巻を
発行
(
はつかう
)
しました。同全集は、
第一巻は五、六千部売れ、第二巻
乃至
(
ないし
)
第四巻は四、五千部売れ、第五巻
乃至
(
ないし
)
第八巻は約三千部売れました
」と、
其
(
そ
)
の所で、「
是
(
これ
)
は自分が取調べて委員会を作つて、
訂正
(
ていせい
)
した時には違ふ」と
斯
(
か
)
う云ふのだね。
答
さうです、それはして
居
(
を
)
らぬと思ひます。
歴史 宣伝使の組織
問
それから特派
宣伝使
(
せんでんし
)
の点だが、昭和九年三月瑞声閣に、伊佐男、高木、東尾が会合して
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、東尾が提議して特派
宣伝使
(
せんでんし
)
の件に付き
協議
(
けふぎ
)
し、従来
各地
(
かくち
)
方に派遣して
居
(
を
)
つた特派
宣伝使
(
せんでんし
)
及
(
およ
)
駐在
(
ちゆうざい
)
宣伝使
(
せんでんし
)
の
制度
(
せいど
)
は
支部長
(
しぶちやう
)
に
依頼心
(
いらいしん
)
を起させるから同
制度
(
せいど
)
は
之
(
これ
)
を
廃止
(
はいし
)
し、必要に応じて
宣伝使
(
せんでんし
)
を派遣し得るやう本部に無任所
宣伝使
(
せんでんし
)
を置き、平常は
大祥殿
(
たいしやうでん
)
に
於
(
お
)
ける
講演
(
かうえん
)
を受け持たせ、別に昭和
青年
(
せいねん
)
会の
指導
(
しだう
)
員を選任し各地方に派遣して同
青年
(
せいねん
)
会
支部
(
しぶ
)
の
指導
(
しだう
)
及
(
およ
)
同
会員
(
くわいゐん
)
の獲得
運動
(
うんどう
)
を
奨励
(
しやうれい
)
せしむること、
決定
(
けつてい
)
し、該
決定
(
けつてい
)
は直ちに
実行
(
じつかう
)
せしめ」、
是
(
これ
)
も
宜
(
よろ
)
しいね。
答
其
(
そ
)
の通りです。
問
それから、「昭和九年
春頃
(
はるごろ
)
瑞声閣に
於
(
おい
)
て伊佐男、高木、東尾の三人で
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
会を開き、
大本
(
おほもと
)
の財政は臨時の
支出
(
ししゆつ
)
を除きても一箇年に約二、三万円不足するので、
信者
(
しんじや
)
中の生活に
余裕
(
よゆう
)
のある者から一人に付約千円
以上
(
いじやう
)
の金を預つて
大本
(
おほもと
)
の経常費に
融通
(
ゆうづう
)
し、出金者に対しては公債の利息と同額の利息を支
払
(
はら
)
ひ、預り金は出金者の
請求
(
せいきう
)
に応じ一時
払
(
はら
)
ひ
又
(
また
)
は分割
払
(
はら
)
ひにて弁済することを
協議
(
けふぎ
)
決定
(
けつてい
)
し、
其
(
そ
)
の
結果
(
けつくわ
)
高木が勧誘して
福岡
(
ふくをか
)
の平川小秀から一万円預り、東尾が勧誘して
亀岡
(
かめをか
)
の伯耆と云ふ女より一万円と、細田東洋男より五千円とを預り、
其
(
そ
)
の他に
信者
(
しんじや
)
の勧誘に
依
(
よ
)
り」──
是
(
これ
)
も
其
(
そ
)
の通りだね。
答
それはね、私初めて予審でそんなことがあつたかと知りました位で、
其
(
そ
)
の取決めがあつたことは聞いて
居
(
を
)
りまへぬ。
歴史 映画の製作
問
それから、「昭和十年三月、
亀岡
(
かめをか
)
の透明殿に伊佐男、貞四郎、下位春吉、大深、高木、岩田、深町、東尾が集合して昭和
神聖会
(
しんせひかひ
)
の参謀
会議
(
くわいぎ
)
を開き、
協議
(
けふぎ
)
の
結果
(
けつくわ
)
同会の宣伝の為、春季
大祭
(
たいさい
)
直後に
各地
(
かくち
)
方の主会に
於
(
おい
)
て五日間
皇道
(
こうだう
)
講座を
開催
(
かいさい
)
して、
皇道
(
こうだう
)
を標傍して
大本
(
おほもと
)
の
主義
(
しゆぎ
)
主張
等
(
とう
)
を講義すること。同講座の講師は追つて
決定
(
けつてい
)
し本部より派遣すること。
神聖会
(
しんせひかひ
)
に映画部を設けて映画宣伝を
為
(
な
)
すこと
等
(
とう
)
を
決定
(
けつてい
)
し、
其
(
そ
)
の後
大本
(
おほもと
)
の
最高
(
さいかう
)
幹部
(
かんぶ
)
等が
協議
(
けふぎ
)
して、貞四郎、井上、岩田、栗原、大深、有留、桜井重雄、芦田、細田、西村、土井、上野、山口、菅谷、松浦
等
(
とう
)
を同講師に選定し、講師は
光照殿
(
くわうせうでん
)
に
於
(
おい
)
て試演会を
催
(
もよほ
)
し、講師は
同年
(
どうねん
)
六月頃より各地方へ出張して
皇道
(
こうだう
)
講座を開いて講義しました。映画部は東京の玉川に設けましたが失敗に終り、試写だけで公開するに至りませぬでした。映画部が失敗に終つたので、昭和十年八月頃
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
の直接
指導
(
しだう
)
の下に神劇部を設け、
大祭
(
たいさい
)
の時神劇を
催
(
もよほ
)
し、
又
(
また
)
、
王仁三郎
(
おにさぶらう
)
直接
指導
(
しだう
)
の下に同人の一代記を映画にしましたが、
是
(
これ
)
も試写の
程度
(
ていど
)
で公開するに至りませぬでした……。
答
公開する
暇が
(
ひま
)
なかつた。
それ
迄
(
まで
)
に
此
(
こ
)
の事件が起つてしまつた。それから玉川へ行きますと、
面白
(
おもしろ
)
うなかつたから、私が止めてしまへと止めさしてしまつたのです。
問
だからまあ失敗したと言ふのだね。
答
迚
(
とて
)
も
下手
(
へた
)
な映画です。
前
次