うろーおにうろー

裁判記録(3)

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裁判記録

○出口直を出口ナカと言っています。本名はナカでしょう。
○すみと結婚した当時、王仁三郎は静岡の長沢の娘婿になろうと思っていた。
○仏教、聖書も研究していた。

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。意味のまとまりごとに標題を付加した。

経歴 出口直との出会い

 鎮魂帰神(ちんこんきしん)の方はそれ(くらゐ)にして、それから、王仁三郎(おにさぶらう)大本(おほもと)(しよう)して(うしとら)金神(こんじん)を祭り、祈祷(きたふ)禁厭(まじなひ)(とう)()して()つた時から出口(でぐち)直事出口(でぐち)ナカを知るに(いた)つた事情はどうでせうか。

 今言ひ()けて()つたのですが……

 それから園部に()きました。

 さうして園部へ()く時に八木(やぎ)と云ふ所に茶店がある。其処(そこ)出口(でぐち)直の娘の福島久子(ひさこ)と云ふ者が()つて、さうして福島(とら)之助と云ふ者が夫で、人力引をやつて()つた。

 それは金光の信者(しんじや)だつた、私が其処(そこ)()りましたら、私が(めう)な風をして()つて──昔の(かみしも)を着まして、(した)(はかま)を穿いて歩いて()つた。(めう)な風をして()つたので、「あなたは(めう)な風をして()るが、何をするのですか」と言つた。

 「私は、斯()う/\で稲荷さんの所へ()つて()う云ふことを教へて(もら)つて、(うしとら)金神(こんじん)研究(けんきう)したいと思うて、私は研究(けんきう)して()るのだ」と言つたら、「それなら私の母が(うしとら)金神(こんじん)さんと言つて祭つてる。金光教会へ(はい)つて()たけれども(わか)らぬからそれを()()れ」と、私は頼まれた。

 それから福島(とら)之助が、「(わし)が送ります」と言ふので、()の儘送つて(もら)つた。()の時分だつたかしら……それは(ちが)ひました。その時は送つて(もら)はなかつた。「()ぐに()けぬから」と言つて、園部へ()つて、井上直吉方に一月程()つた。そこで(また)、私が(しばら)く前に園部に()たことがあるので、信者(しんじや)出来(でき)ました。

 さうしたら福島に()る処で()()つた。「何時(いつ)()つて()れたか」と()はれたから、「まだ()かない」と言つたら、「私の車に乗つて()つて()れ」と云ふので、それは気の(どく)だと云ふので、私は車を(ことわ)つて歩いて綾部(あやべ)(まで)()つた。

 裏町のたつた六畳の()にお(ばあ)さんが()りまして、其処(そこ)()つた所が、「()くお()(くだ)すつた、私を調(しら)べて()しい」と云ふ。「私は(じつ)は神憑りで(うしとら)金神(こんじん)やと云ふが、私には(わか)らぬ、一つ調(しら)べて(くだ)さい」と云ふ。

 私が鎮魂(ちんこん)をしたらぎゆつと(ちやんと真似(まね)をしながら)飛び(あが)つてびく/\した。こんな神憑は見たことがない、永沢先生に(たづ)ねないと(わか)らぬと思つて()た。

 其処(そこ)に金光教会の足立正信と云ふ者が()つた。(これ)が「祈祷(きたふ)してお(ばあ)さんを援助して()るのに、(これ)を取つたらならぬ」と云ふので、私を帰してしまつた。さうしたら、お(ばあ)さんが、「あ丶言つて足立さんがいやはるからもう(しば)らく待つて()(くだ)さい」と云ふ。

 こう云ふことでお(ばあ)さんと(わか)れて(かへ)つて()ました。さうして、八木(やぎ)の福島に、「()つて()た、あれはいらい神さんで、(また)(こは)い神さんや」と()ふたら、「それはおおきに」と言つて、車に乗せて、私を大林と云ふところまで送つて()れた。


 かみしも 肩衣(かたぎぬ)と袴を組み合わせたもの。肩衣は前代のものより肩幅が広くなり、前に襞(ひだ)を取り、襟は重ねないで羽織る。江戸時代、武士の公服、庶民の礼服として用いた。上下(じようげ)が共布の長上下(なががみしも)・半上下(はんかみしも)と別布の継ぎ上下がある。


経歴 王仁三郎が大本へ行くまでの大本の状況

 それは……。

 それから()の翌年に(また)()つた。

 それぢや(たづ)ねるが、()大本(おほもと)だね、今さつき大本(おほもと)()つたあの大本(おほもと)の発端ですね。

 大本(おほもと)と云ふのはどう云ふ発端か、(また)翌年二度目に直のところに()(まで)()ける大本(おほもと)の中の状況(じやうきやう)()べて見なさい。

 (これ)(あま)心得(こころえ)て……。

 直がどう云ふ状態(じやうたい)でどう云ふことを基本として()つたか、(わか)つて()るだけ──。

 あの人も元は金光教の信者(しんじや)だつたのや。

 さうして()つたところが、(にはか)(うしとら)金神(こんじん)と云ふて呶鳴(どな)()した。

 それは()いたことだね。

 さうです、呶鳴(どな)()しました。

 さうしたら(うしとら)金神(こんじん)……。

 何年です。

 二十五年やと思ひます。

 ()の時に、「(これ)から(うしとら)金神(こんじん)が神さんの御(ゆる)しを()て、さうして地上(ちじやう)神界(しんかい)を輝して()る。それで(すべ)ての神様(かみさま)世界(せかい)を輝して(もら)ふことになるのだ。(これ)から日本(にほん)は、今までは小さい国やつたけれども、今度(こんど)は三千世界(せかい)の梅の花で、日清戦争も起り、「ロシヤ」との戦争も起り、結局日本(にほん)のものに世界(せかい)がなるのだ」と云ふことを(おつ)しやつた。

 「(これ)は気(ちが)ひや」と云ふので、牢に(はい)れられた。さうしたところが、()の後、暮に火事(くわじ)があつた。(ところ)が、直が、「神の悪口(わるぐち)を言ふから、(わし)が焼いたのだぞ」と言ふて、牢の中から言つた。「(おれ)が焼いたのだぞ。儂の神が焼いたのだ」と言ふ。さうして(また)警察へ()れて()きました。さうして牢の中へ()れたら、呶鳴(どな)つて仕様(しやう)がないので、(また)帰して座敷牢へ()れて()ると、(また)呶鳴(どな)つて仕様(しやう)がない。

 さうすると、娘の婿(むこ)の大槻鹿蔵と云ふ者が()()て、「お(ばあ)さん印形を()しなさい。さうしたら()して()げる」と云ふので、お(ばあ)さんは仕様(しやう)がないから()した。

 さうしたら十五日の日に()して()れた。さうしたら家も何も取られてしまつて何もない、あらへん。

 家も何もなくなつてしまつたものだからすみは他所へ奉公に()つた。教祖は教祖で糸引に歩いて()つた。さうして信仰(しんかう)して()つた。

 それから二十七年頃であつたと思ひますが、()の時分に京都(きやうと)市の島原の金光教会をして()る杉田政則と云ふ人が()て、自分(じぶん)弟子(でし)の奥村定吉郎と云ふ者を()越した。

 直をたねにして金光教を(ひら)けと云ふことになつて、奥村定吉郎が()()て家を()りて、力を(あは)してやつて()つたが、直は(うしとら)金神(こんじん)を祭り、奥村は金光教を祭つて祈祷(きたふ)して()た。(これ)ではうまく()かなくて、お(ばあ)さんが家を()てしまつた。さうして(そと)(はじ)めた。

 すると信者(しんじや)がお(ばあ)さんの方へ()つて奥村の方へは信者(しんじや)がちつとも()かなくなつた。

 ()の後杉田先生が、「足立お前()つて()い」と云ふので、足立が()つたが、(また)お直さんと馬が()はぬものですから、お直さんは()てしまつて、裏町の大畳の蔵を借つて()つた。

 信者(しんじや)は皆おばさんのところへ()つて足立さんのところへ()かぬから、食へないから、足立さんはしまつて(かへ)つてしまつた。

 其処(そこ)へ私が()つたから足立さんが(おこ)つて、自分(じぶん)()()した、と云ふことになつたのであります。

 それから足立と手を切つたのは何時(いつ)か。

 それはね……

 三十年に手を切つたのでせう。

 なんですか。

 足立と直が……。

 何んだかさうだつしやろ、三十年かも知れまへぬ。私が()つたのは三十一年でしたから、けれども本当(ほんたう)()つたのは三十二年か三十三年頃です。

 大体(だいたい)それだけ切りか、それ以外(いぐわい)には(わか)らぬか。

 ()(くらゐ)のことで、それは(かへ)つて私よりおすみの方が()く知つて()ります。古い信者(しんじや)は死んて()りやしまへぬから……。


経歴 大本の発端

 大本(おほもと)と云ふのは一体、どう云ふところから()()たのだ。

 それは、元は金神(こんじん)大本(おほもと)やと教祖が書いたのが元です。

 金神(こんじん)……(うしとら)金神(こんじん)大本(おほもと)と云ふ意味(いみ)か。

 さうです、それから金神(こんじん)大本(おほもと)とか、世界(せかい)大本(おほもと)()ひましたり、色々言うて()つたが。

 大本(おほもと)だけになつたのは、王仁三郎(おにさぶらう)関係(くわんけい)してからか。

 唯金神(こんじん)を除けて大本(おほもと)としたのはさうですね、……大分後ですわ。

 王仁三郎(おにさぶらう)関係(くわんけい)したのか。

 (たん)皇道(こうだう)大本(おほもと)やとか、大本(おほもと)と云ふたりしたのは、それは大本(おほもと)……大本(おほもと)と云ふものはお直さんが言うて()つたのは金神(こんじん)大本(おほもと)でしたが。もう一つ……。

 それは後で()きませう。

 さうすると三十年頃に金光教の足立の援助を(ことわ)つた時に、何か集合的の、団体(だんたひ)的のさう云ふものが出来(でき)たのでして、大本(おほもと)と云ふ……。

 それは三十年に切[行]つた時は、唯お直さん一人で、大本(おほもと)大本(おほもと)と言ふて()つたのです。それで近在の信者(しんじや)が五、六十軒あつたのです。それが大本(おほもと)々々と勝手(かつて)に言うて()つたのや。看板もなければ何もなし、唯金神(こんじん)大本(おほもと)々々と言つて()つた。

 宗教(しうけう)団体(だんたひ)と云ふやうな、類似の団体(だんたひ)と云ふやうな所(まで)()かぬのか。

 まだ()つて()らぬのです。

 ()つて()らぬか。

 さうです。

 ()の時は大本(おほもと)の方には、何か教義とか云ふやうな、さう云ふものはないのか。

 何もありまへぬ。筆先(ふでさき)のみでした。

 筆先(ふでさき)はあつたのだな。

 さうです、それはあつたのです。

 筆先(ふでさき)と云ふものだけがあつて、(べつ)(まとま)つた大本(おほもと)の教義と云ふやうなものはなく、病気(びやうき)を直すとか、禁厭(まじなひ)をするとか、云ふだけのものだつたのだな。

 ()う云ふことがあるのです。神さんの言葉(ことば)として、私は(うしとら)金神(こんじん)として、今迄(いままで)(うしとら)に押込められて()つたが、(てん)の御三体の神様(かみさま)の御(ゆる)しを()(ふたた)神界(しんかい)()して(もら)ふことになつたのだから、(これ)からは(うしとら)は決して何をしようが差支(さしつか)ないと云ふことを始終(しじう)教へて()つた。(また)皆それを信じて()つた()の神を信じて()つたから。

 さう云ふこともあつたと、それから宗教(しうけう)類似の団体(だんたひ)と云ふものが。


経歴 金明(きんめひ)

 明治(めいじ)三十二年の七月に(ふたた)出口(でぐち)ナカの頼みに()つて(うしとら)金神(こんじん)(ひろ)めることになつて、宣伝(せんでん)機関として金明(きんめひ)会と云ふものを組織した。

 ()の会長に自分(じぶん)がなつて出口(でぐち)ナカを教(しゆ)と云ふことにして、(これ)を補佐して宗教(しうけう)類似の団体(だんたひ)を組織して病気(びやうき)(なほ)すとか、(あるひ)祈祷(きたふ)、禁厭(とう)()して()つた。

 静岡の先生から許可を戴きまして、金明(きんめひ)会と云ふものを組織した。(つま)りそれ(まで)の直の神(がか)りの状態(じやうたい)を静岡の先生に()う云ふ神(がか)りの状態(じやうたい)ですと云ふて話をして()つて、()し御調になつて()かつたらどうぞ許可して(くだ)さいと(たの)んで置いた。

 さうして綾部(あやべ)、七月に綾部(あやべ)()きまして、中村やとか、足立と云ふ人が反対(はんたい)して仕様(しやう)がないから電報を打つて、早く永沢先生から辞令を送つて(もら)はうと思つて、はよう(ゆる)して(くだ)さいと御願した。

 すると()もなく辞令書が()た、それで足立も反対(はんたい)しなくなり、私も其処(そこ)()ることになつた。さうして私が会長か何かになつたのてす、はつきり(おぼ)えて()りまへぬが、書いてあるものを調(しら)べて……。


経歴 すみとの結婚

 ()の時から宗教(しうけう)類似の形態をなして()た訳だな、それから()の後出口(でぐち)ナカの婿(むこ)養子となつたのは。

 はい、ちよつとなんですけれどー娘一人に婿(むこ)五人と云ふやうな工合で、あつちやこつちやと云ふ状態(じやうたい)であつたのです、私もおすみを嫌ひでもなかつた。

 綾部(あやべ)に──お直さんを使うて、さうして中村竹蔵と云ふのが嫁を()()してしまつて、すみを何しようとして()た。それから(また)南部孫三郎と云ふのが……。

 そんなものは()いぢやないか。

 私は静岡へ()(つも)りだつた。

 静岡の永沢先生の妹はんにひさ子と云ふのがあつた。お(ばあ)さんが、「(これ)婿(むこ)になつて()れ」と云やはりましたから、()(つも)りだつた。

 (ところ)が教祖の筆先(ふでさき)に、「出口(でぐち)すみの婿(むこ)王仁三郎(おにさぶらう)と」書いた。私やと云ふことを書いた。上田(うへだ)殿がと書いた。すみは上田(うへだ)殿と書いた。すみの婿(むこ)ぞよと書いた。それで筆先(ふでさき)()()るのだから静岡へ()くことが出来(でき)ないと云ふことになつた。

 私も(あま)りすみを嫌ひでなかつたものだから、ずるくべつたりに(はい)つてしまひまして、さうして翌年の三十二年の一月に結婚(けつこん)式をしたのです。神前(しんぜん)結婚(けつこん)をしたのです。

 さうした所が、私は兄貴ですから養子に(はい)れない。私は長男ですから、それだから子が出来(でき)ましても出口と云はずに上田(うへだ)──自分(じぶん)上田(うへだ)でしたから、上田(うへだ)あさの、上田(うへだ)王仁三郎(おにさぶらう)でしたから、ナカが気に()らぬ。「どうしても出口(でぐち)にならなければいかぬ」と言ひ、どうしてもならうと思つてもなれまへぬが、弁護士や色々の人を(たの)んで置きました。

 さうしたら、「あんたが婚姻に()つて子(まで)出来(でき)()るのだから廃嫡が出来(でき)る」と言うて()れて、婚姻に()つて出口(でぐち)家に(はい)ると云ふことになつて、明治(めいじ)四十二年頃に出口(でぐち)王仁三郎(おにさぶらう)になつた。

 ()の証拠には明治(めいじ)四十年に建勲神社(じんじや)主典に任ぜられた時は、上田(うへだ)王仁三郎(おにさぶらう)でした。

 明治(めいじ)三十三年十一月に婿(むこ)養子になり、四十四年一月にすみとの結婚(けつこん)届出を()して()るやうだね、明治(めいじ)四十四年一月にすみは結婚(けつこん)届出をして()るね。

 さうだらうと思ひます。

 それからね、四十四年の十二月にナカが隠居(ゐんきよ)して出口(でぐち)家の戸主になつたと云ふぢやないか。

 さうでせう、さう云ふやうに思ひます。間違(まちが)ひはありませぬ。

 結婚(けつこん)した顛末(てんまつ)を今(たづ)いたのだが、被告人は金明(きんめひ)会を金明(きんめひ)霊学会と名前を改称し、大本(おほもと)とした、大本(おほもと)の本部を京都府何鹿郡(いかるがぐん)綾部町(あやべちやう)本宮(ほんぐう)に移したのだね。

 さうです、()金明(きんめひ)霊学会と()ふものは、霊学会と金明(きんめひ)会を一緒(いつしよ)に言つたのです。


経歴 言霊学、仏教、聖書

 それから被告人は()の後言霊(ことたま)、古典、仏典(ぶつてん)、聖書等を研究し、明治(めいじ)三十九年九月には京都(きやうと)皇典(くわうてん)講究所(かうきうしよ)分所(ぶんしよ)に入学し、明治(めいじ)四十年の三月に同分所(ぶんしよ)を卒業して神官になりましたのか。

 はい。

 ()言霊学(げんれいがく)とか、(あるひ)は古典はどう()ふものを研究したのですか。

 言霊学(げんれいがく)は杉庵と()ふ人と中村と()ふ人の言霊学(げんれいがく)をやりました、杉庵の言霊学(げんれいがく)は日本書紀を説いたもの、それから今申しました中村さんのは古事記(こじき)言霊学(げんれいがく)で説いたもの。

 それから、(また)後に、山本(やまもと)()ふ人の弟子で大石凝(おほいしごり)真素美(まそみ)()ふ人があります。()の人が日本(にほん)言霊学(げんれいがく)()ふものを作つた。それは前から伝つて居つた。(これ)は幕末から明治(めいじ)の初に非常(ひじやう)()言霊学(げんれいがく)は勃興したものであります。


 (これ)古事記(こじき)とか万葉集(まんゑふしふ)に、「言霊(ことたま)天照国(あまてるくに)」と()ふことが出て居る。(また)、日本の古事記(こじき)は総て言霊(ことたま)の教典であると()ふこと(まで)先生が言うた、言霊(ことたま)解釈(かいしやく)(いた)しますと。古事記(こじき)でも何でも判るのであります。道が判るのであります。

 それで言霊学(げんれいがく)()ふものが……。

 それから(にはか)明治(めいじ)西郷(さいごう)戦争(せんさう)時分から外国の文物が入つて来たものですから、言霊学(げんれいがく)()ふものなり、国学は失なつてしまつたのです。

 ()の前に矢張(やつぱり)り、本田(ほんだ)先生(せんせい)とか()ふ人や、副島種臣(そえじまたねをみ)さんと()ふ人が言霊学(げんれいがく)一生懸命(いつしやうけんめい)にやつて居つた。

 言霊学(げんれいがく)に付ては能く判りました。古事記(こじき)、日本書紀、万葉集(まんゑふしふ)、本居宣長の著書を読んだと。

 それから──。

 はい、それから篤胤(あつたね)の著書も沢山(たくさん)あります。

 仏教(ぶつけう)、聖書はどんなものを。

 仏教(ぶつけう)は大蔵経とか、(あるひ)金剛(こんがう)教とか色々(いろいろ)ありますが、()(かく)大蔵経などを……。

 一人(ひとり)で研究したのか、師匠(ししやう)に付て居つたのか。

 それは師匠(ししやう)もありました。

 それから(また)大抵(たいてい)仮名(かな)の付いた訳したものばかり読んだ。それでも大抵(たいてい)判ります。

 聖書は──。

 聖書は子供(こども)の時から読んで居ります。

 (これ)師匠(ししやう)に付いて習つた訳ぢやないな。

 さうであります。


経歴 京都出修

 それから神職の試験に合格して、建勲神社(じんじや)の主典(およ)御嶽教(をんたけけう)の主事となつたと()ふが、さうか。

 御嶽教(をんたけけう)の神宮高利(たかとし)()ふ人が、御嶽教(をんたけけう)監督(かんとく)をして居りまして、「儂の所に主事が居らぬから、今それで内務省へ出すにも、経歴のない者を出す訳にいかぬから、あんた来て()れ」と()ふから、私は御嶽教(をんたけけう)へ行つた。

 それで月給も倍も()れると()ふのでしたが、口で言ふばかりでちつとも()れなかつたのですが、私は仕様(しやう)がないからあちらで三年(さんねん)程勤めて居つた。さうして、()の間に、宗教界の情勢を調べて居つたのです。

 何年程()つたか、三年(さんねん)程か。

 三年間──本当の年数(ねんすう)はまる一年で、十二月から行きまして翌々年の四月頃に帰つて来ました、まる一年以上(いじやう)ですかね。


経歴 大日本修斎会と直霊軍・敷島新報

 それから明治(めいじ)四十一年の八月に金明(きんめひ)(れい)学会を大日本修斎会と改称して、機関(きくわん)直霊(ぢきれひ)軍を発行し、次いで同敷島新報(しきしましんぱう)を発行しましたか。

 次に今何でしたやろ。

 四十一年の八月に金明(きんめひ)霊学会と()ふものを……。

 判りました、もう判りました。それで金明(きんめひ)霊学会に役員(やくゐん)があつた、修斎と()ふのです、一等(いつとう)修斎とか、二等修斎とか言ふのです。それ等が集つて修斎会をやつた、それから段々(だんだん)とさう()ふ工合に変つて来た。

 それから直霊(ぢきれひ)軍、敷島新報(しきしましんぱう)は、何時(いつ)から何時迄(いつまで)発行して居りましたか。

 直霊(ぢきれひ)軍は十五号(まで)で、(しま)ひやと思ひましたが。

 四十二年の二月から四十三年の十二月(まで)

 ()の間毎月ぢやないのです。

 敷島新報(しきしましんぱう)大正(たいしやう)三年頃(ごろ)から五年十二月(ころ)

 あ丶、さうです。

 直霊(ぢきれひ)軍、敷島新報(しきしましんぱう)の発行の目的は、どう()ふ点に、あるのか。

 私は御嶽教(をんたけけう)に居りました時に、御嶽教(をんたけけう)矢張(やつぱり)機関(きくわん)紙を出して居た。それで直()(れい)、直()(れい)()ふことは極く良い(たましひ)であります。

 発行の目的はどう()ふ点にありますか。

 それは教を拡げる()めに……。

 大本(おほもと)の?

 所謂(いはゆる)日本の道を──古事記(こじき)、日本書紀、にあるのを綜合して、()の精神をこめて、(また)教祖(けうそ)の言ふて居る教も一緒(いつしよ)くたにやつたのです。教祖(けうそ)の教を拡げる()めに、(また)、日本の教もそれを知らすと()ふ意味やつたのです。

 出口ナカの筆先(ふでさき)是等(これら)機関(きくわん)紙に掲載(けいさい)したやうなことはなかつたか。

 それはありまへぬ、()機関(きくわん)紙にはないと思ひます。

 ないと思ふか。

 はい、あるかも知れませぬけれども、余りはつきり覚えて居りませぬ。

 敷島新報(しきしましんぱう)には。

 それにはなかつたと思ひます。

 (これ)かね。

()の時証拠を示す)

 はい、覚えて居りませぬ、筆先(ふでさき)は発表しなかつたと思ひます。大正(たいしやう)六年(まで)はそれは出して居らぬと思うて居ります、私はさう思うて居ります。

 (かく)たることは判らぬか。

 どつちかと()ふたら出して居らぬと()ふ方が本当だらうと思ひます。