うろーおにうろー

裁判記録(2)

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裁判記録

○ここでは、小学校から28歳くらいまでの経歴がとりあげられています。
○内容は公式の聖師伝と同じです。

原文はカタカナ書き。カタカナはひらがなに改めた。
また、読点を適宜句読点に改め、なるべく短い段落となるように改行した。意味のまとまりごとに標題を付加した。

経歴 青春時代まで

 ちよつと()きます。それぢや()づ経歴のことを()かなければならぬ。

 王仁三郎(おにさぶらう)の経歴に付てはですね、決定に()りますと、決定の内容(ないよう)()りますと、借行小学校を卒業(そつげう)し、家事手伝の傍ら漢籍、神道(しんだう)、国学に(くわん)する書籍を繙読(はんどく)して研究(けんきう)したと、()()うことになつて()りますが、本当(ほんたう)ですか。

 (これ)()(あひだ)申上(まをしあげ)げました大久保吉春先生から()りて神道(しんだう)の本を読みました。

 借行小学校と云ふのは尋常か、(あるひ)は高等か。

 ()の時分には尋常も高等もなかつた。唯小学校と(しよう)して()り、偕行校とも()ひました。陸軍省の偕行社の「偕」です。

 ()の漢籍、神道(しんだう)、国学に(くわん)する研究(けんきう)をした顛末に付ては、予審の第二回調書の一問答に(おい)て述へて()るが、(これ)()の通り()いて(よろ)しいか。

 さう云ふ履歴の所は()の通り(まを)して()ります。

 ()の通り()いて(よろ)しいね。

 はい。

 それから被告人が大本(おほもと)と云ふものに関係(くわんけい)する(まで)の経歴は、予審の第二回()問調書に見えて()るが、()の通り()いて()いか。()内容(ないよう)(つま)り念の()めに()いて置きますが。

 ちよつと読んで見て(くだ)さい。

 上田(うへだ)吉松(よしまつ)の長男として(うま)れ、旧名を上田(うへだ)喜三郎と言ひ、九歳の時より十三歳(まで)京都(きやうと)府南桑田郡穴太(あなを)村の偕行小学校(がくかう)()き、同校卒業(そつげう)後一年半程同校の下級生徒を教へて()りましたが、それを辞めて()の後は私方の百姓(ひやくしやう)及醤油小売商の手伝をして()りました。

 私は十歳(くらゐ)から十六歳位の時(まで)居村金剛院の住職に就いて四書五経、十八史略、文章規範等を習ひ、御経の本も習つた。

 (また)十三(じふさん)歳の時からは、兵庫県多紀郡春日江村の神道(しんだう)(めう)(れい)会の先生(せんせい)から延喜式の祝詞(のりと)(およ)神道(しんだう)の本を数冊借受けて(これ)を読んだ。

 (これ)神道(しんだう)の方の研究。二十三歳の時から岡田惟平と()ふ国学の先生(せんせい)から国学の本を数冊借受けて読み、神道(しんだう)(およ)国学の本は引続き最近(まで)読んで居た。それから家事の手伝をして居る(かたはら)ら、(ひま)の時には荷車引もして居た。

 二十三歳の時から牧場を経営(けいえい)して居る所の井上直吉の助手となり獣医のことも研究したり、牛乳を(しぼ)つたり、(あるひ)(また)牛乳の配達などもして居つた。

 二十(にじふ)六歳になつて穴太(あなを)に帰り、上田(うへだ)正完外一人(いちめひ)と共同して牧場の経営(けいえい)をして牛乳の販売をし始めて、明治(めいじ)三十一年二月に(これ)も止めてしまつた。

 (これ)だけが職業上の経歴になつて居るが、(これ)間違(まちが)がないのですか。

 ()の通りです。

 ()の通りか、(つけ)加へることはありませぬか。

 それに間違(まちが)ひありませぬ。

 それから──二十一年の四月、それから──二十一年の四月静岡県の清水(しみづ)……。

 下清水(しみづ)です。

 其処(そこ)稲荷(いなり)講社総本部の永沢雄楯に付て、鎮魂帰神(ちんこんきしん)の法を習つた。神道(しんだう)講習、病気平癒(へいゆ)祈祷(きたう)等を()して居た。


繙読 はんどく 書物をひもとくこと。


経歴 高熊山修行の経緯

 そこのところがちよつと()けて居ります。

 私は十三(じふさん)の時から一生懸命(いつしやうけんめい)水をかぶつたりして神(かか)の術を習つて居りました。

 さうしたら二十六の年から私は牧畜をやるやうになりまして、余裕(よゆう)出来(でき)ましたから、夜の十一時(ごろ)から朝の四時(よじ)(ごろ)(まで)一人(ひとり)で神(がか)修業(しうげふ)をやりました。

 三十一年の四月、旧の四月(しぐわつ)の八日頃だと覚えて居りますが、私の親類に次郎松と()ふ男がありまして、「博奕打の河内屋の女を取つたと()ふので二百両(ひやくりやう)貸せ、貸さなかつたら地獄(ぢごく)川へ簣巻にして打()む」と言つて来たので、それで仲裁を私の所に(たの)みに次郎松が来た。

 私は侠客(けふかく)(こは)いけれども親類のことであるし、金も二、三円借りて居りましたから、義理(ぎり)で行かんならぬと思うて行きました。

 さうして話をして仲直りをすることにして、河内屋から十五円と次郎松から十五円と出して、(これ)一杯(いつぱい)飲まう(笑声)。

 それは()いぢやないか。

 ちよつと()いておくんなはれ、(これ)が元なんですよ、神様(かみさま)の……

 (ところ)が河内屋と()(やつ)侠客(けふかく)だから、「侠客(けふかく)的な仁義を以てやらう」と()ひ、こちらは素人だし、そんなことが出来(でき)ないと言つてごた/\した。

 (ところ)が、結局(けつきよく)河内屋と()(やつ)が、十五円の金も(はら)はないでしまつた。

 関係が一体(いつたい)あるのですか。

 エゝ……言うて(よろ)しうございますか。

 う。

 其処(そこ)で、私は長吉と三人(さんにん)連れて家へ帰りました。

 (ところ)三日(みつか)程したら私が浄瑠璃(じやうるり)を語つて、次に『現れ出でたる武智光秀(みつひで)』と言つて居る時に、ほんまに河内屋が現れて来て、自分を表へひつ()り出した。

 家の前の桑畑へ連れて行つて、私を(なぐ)つた。私は桑の木の──古い木の下に(かく)れたから、対手が(なぐ)つても余り私には当らなんだけれども、頭に傷が出来(でき)たり、血が出た。

 さうすると朝になつても私は頭が上らぬ。牛は鳴くし、乳を(もら)ひに来ても(しぼ)つても居られないから、本宅の母の方へ訪ねて行きました。母が出て来て見たところ、私の顔を見てわつと泣いた。「去年(まで)は家のお父つあんが居つたから家の子を呶鳴(どな)りもせぬだつたのに、母親一人(ひとり)になつたから──と」()ふので泣きました。

 「さうぢやない私は己むを得ざる事情(じじやう)(ため)(なぐ)られたので、父が居なくなつたからやられたのぢやない、()()ふ理由があるのだから」と言つた。

 (しか)し母に済まぬことぢやと思つた。

 さうしたら八十歳になつた祖母が出て来て一生懸命(いつしやうけんめい)泣きました。「侠客(けふかく)なやうな者の対手になるな、親が大事と思ふならさう()ふことをして()れるな」、と()う申されました。

 さう()経緯(いきさつ)から私は高熊山(たかくまやま)修業(しうげふ)に行きました。


経歴 稲荷講社

 さう云ふ経緯(けいゐ)からだね。

 それから私は神憑になりまして、四月の三日になりますと静岡から永沢雄楯先生の弟子(でし)であるお(ぢい)さんが()まして、あんたのことをちよつと聞きまして(たづ)ねて()ましたが、「あんたちよつと調(しら)べさして(もら)ひたい」と言つたので、私は()うしてちやんと(鎮魂(ちんこん)の姿勢をとる)手を(あは)せながら(すわ)りました。

 すると私の体が飛上つて色々のことを(まを)しました。

 さうすると、「(これ)は儂の手に()はないから、永沢先生の所に()かう」と言うて、一緒(いつしよ)に四月十五日に()きました。

 三日に発つて十五日に()いた。()の時には金がないので仕様(しやう)がないから、私は山やら家を抵当に置きまして五十円の金を()りて()れられて()つて、静岡の先生の所に()つたら、人が見て(もら)ひに()()た。

 さうして永沢先生が色々と私の神(がか)りを御調になられた。さうして本田(ほんだ)先生、副島先生の「神道(しんだう)問答 」、それから「言葉(みち)大本(おほもと)」と云ふものを(くだ)されまして、(これ)()く教へて(くだ)さつた。さうして、私に、毎日(まいにち)鎮魂(ちんこん)帰神(かみがゝり)修業(ぎやう)をして(くだ)さいました。

 先生が言ふに、「私は五千人弟子(でし)を持つて()るが、御前(をまへ)のやうな(めづら)しい者はない。御前(をまへ)愈々(いよいよ)本当(ほんたう)の神(がか)りだ」と云ふので、得業証と云ふ証状(まで)(もら)ひました。

 さうしてそれから日露戦争や世界(せかい)戦争、色々なことを皆神様(かみさま)が教へて()れたが、それはちよつとも(ちご)ふて()らしまへぬ。

 それは前に(まを)して()らなかつたか。

 それは神様(かみさま)のことを()うたら、胡魔化(ごまか)すなと高橋さんは呶鳴(どな)る。それで涙を零して、拳固を振()げて、おのれおのれと言ふ──最前(まを)したやうに、神様(かみさま)修業(ぎやう)観念(くわんねん)もなければ、霊学の観念(くわんねん)もない。人に申上(まをしあげ)げても胡魔化すとより(ほか)思はれない。それで(まを)さなんだのであります。

 暑い……。


経歴 鎮魂帰神

 清水に()つて、稲荷講社の永沢雄楯から鎮魂帰神(ちんこんきしん)の法を(なら)つて、得業証を(もら)つて、それから穴太(あなを)(かへ)つてからは矢張(やつぱ)病気(びやうき)平癒、祈祷(きたふ)などもして()つたのか。

 穴太(あなを)(かへ)つてからは、(あま)りさう()うことはして()りませぬ、四月に(かへ)りまして、(すゑ)(かへ)つたのでありますが、さうした所が私が(かへ)りまして永沢先生に教へて(もら)つた鎮魂帰神(ちんこんきしん)(わざ)を多田琴やとか、上田(うへだ)幸吉やとか、七、八人の連中(れんちう)に教へまして、先生から教へて(もら)うた鎮魂(ちんこん)をやつて見た。

 さうしましたら皆神憑になりまして、私は何の神とか(まを)し、それから私は非常(ひじやう)(うれ)しくなつたから、一遍先生に報告して、「短時日の修業(ぎやう)でこんなに七、八人の者が一遍に神(かか)りになるのは不思議(ふしぎ)だ、先生に()いて見よう。(しか)もそれが止らない、私の力で()めることが出来(でき)ない。」先生に今一遍()いて来ようと思つて、(また)清水へ()つた。

 多田琴は、「儂は稲荷や」とか、「白滝大明神である」とか云ふて穴太(あなを)の村を歩いて、「御前(をまへ)の家は()う云ふ悪いことをした、改心(かいしん)せい」と云ふやうなことを言つて歩いた。

 村の人は、「彼奴(こやつ)(おぼ)えが()いから、方々(はうばう)の家のことを知つて置いて、教へて置いて言はして()るに(ちが)ひない」と言つて、村の者が()()て私の家を攻撃(こうげき)した。

 それで家から早う(かへ)つて()()れと()つて()たので、私は清水から(かへ)つて()た。そして発動を抑へることを教へて(もら)つて(かへ)つて()たので、それを抑へてしまつた。

 それから、神憑りと云ふものは()る程ひどいから恐しいものだと思つて、それからは(あま)りやらなかつた。

 それが五月、六月の時分で、七月、八月は暑うございまして、あつちやこつちやの稲荷さんから「見に()()れ」と云ふから、其処(そこ)()つた。

 亀岡(かめをか)には研究(けんきう)がてら()つて()つた、静岡の稲荷講社とはどれ程法が(ちが)ふかと思つて()つて()つた。

 それから(あき)の小口になりまして、それから一遍何しに()かうと思うて園部の井上直吉の所に()つて来ようと思つて……。

 (べつ)病気(びやうき)の平癒の祈祷(きたふ)はしなかつたか。

 (あま)りしませぬでした。

 鎮魂(ちんこん)の方は。

 苦しんで()つたのを抑へるのに(こま)つて()つた。

 霊学会で神様(かみさま)(まつ)つて()つたのぢやないか。

神様(かみさま)(まつ)つて()りました。霊学会と云ふものは、永沢先生の所に、私はそれの会長になつて()りましたが、それを持つて(かへ)つたのです。