狭依彦とうろー小史


1.基本的スタンス

出口王仁三郎師は昭和23年に亡くなっています。

朝日新聞
「出口王仁三郎氏(元大本教教祖)十九日午前七時四十七分京都府下亀岡町の自宅で脳内出血のため死去、七十八歳」

出口王仁三郎師が現界におられた(生きていた)時には、王仁三郎師に直接教義を聞かなくても、王仁三郎師の側(そば)、つまり教団に居れば、私たちは王仁三郎師の思想に触れることは可能であったでしょう。

ところが、王仁三郎師が亡くなった後やそれ以前に教団や王仁三郎師の後継と称する人々は分裂をくりかえし、教団では、大本教団、大本信徒連合会、愛善苑など、また、グループとして大本裏神業系、日月神示などの王仁三郎後の神示を信ずる人々などがあります。

普通なら、王仁三郎の意志を一番受け継いでいるのは、血筋の教祖のいる大本教団系ということになりますが、大本教は出口直教祖と出口王仁三郎師のダブル・スタンダードで来ていることもあり、一筋縄ではいきません。

霊界物語を読んでみたら分かりますが、開祖の系統(国常立尊)に重きを置く人びとと、王仁三郎(素盞嗚尊)に重きを置く人びとが大別されます。私は、大本の最初から「分裂」の種はずっとあるのではと感じます。

王仁三郎のフアンとしてではなく、大本教の信者としてなら、当然、二代、三代、四代の教祖の言葉を護ってゆけばよいでしょう。

ところが私のように、信者の家に生れたのではなく、後から来て、出口王仁三郎に興味を持った者は、結局、どこにも属していないけど、出口王仁三郎は好きだということになるのです。

私は、1980年代後半に、初めて王仁三郎に出会い、それからずっとご無沙汰していて、2003年より思い立って「うろー」のサイトを作りはじめ、それから王仁三郎の著作などを勉強してきました。

その頃から、基本的に、下記のように考えています。

 王仁三郎の残した著作の相互間で内容が首尾一貫していない場合がある。また、霊界物語も83巻と長いし、記述形式が原因で、その言いたいところを読者が捉えられるかどうか疑問である。

王仁三郎の残した公開された著作から王仁三郎の本音・思想を捉えるのは不可能かも知れない。

こう考えると、著作の内容が一貫していないこと、霊界物語の長さは、王仁三郎の残した罠(後世への仕組み)なのかも知れない。

特に王仁三郎や大本教をテーマとした文章では、「王仁三郎は言っている・・・・・・・・」と、出典を明示していないものが多く、著作集・全集などから文章を見つけられないものが多。

また、非公開文書、弟子○○さんの話なども多く出てくる。これは、教団関係、予言関係、大本裏神業関係、いろいろな本で見られることです。

最近の一般書では、公開された文章を引用するより、上記の非公開の文書・弟子の話の引用が王仁三郎を語る論考の中心になっている場合が多いことも確かです。

このことから、もしかしたら、王仁三郎の思想に触れるには、先人のフィルタ(教団・教派)を通してしかないのかも知れない。そのフィルタが気に入ったら信じればよい。

これまで、霊的に王仁三郎が懸かった人の話もありましたが、それこそが王仁三郎の本音を表しているのかも・・・・・と、こう考えられることもありました。

しかし、私は、疑い深いのでなかなか信じられません。

例えば、公開された著作を読む限りでは、教団系の各派は、王仁三郎の尊王思想、マッソンというものをすべて削除している。正面から取り組んで結論を出しているのではなく、日本の歴史記述のように、都合の悪いものは触れないというように感じられていました。

こう考えて来ましたが、宗教として信じていれば、神様のことだけを思っていればいいのかも知れません。最近では、そう思えるような年に到達した感じがしています。

本音を言えば、どっかのグループに属して王仁三郎師の話をしたかったのですが、そうもいきませんでした。

下記に述べているように、私が「うろー」を作ったのは、王仁三郎なのか邪神なのか誰からか分りませんが「呼ばれた」と感じているので、論考を発表してきましたが、ここ数年は滞り気味です。

 

2.うろー小史(1) 出会い

出口王仁三郎に出会ったのは、私が31歳になったころ、1986年頃です。当時私は、たぶん予言関係の本で王仁三郎を知りました。それまでには、大本事件は最大の宗教弾圧であることは知っていたのですがあまり興味はありませんでした。

最初に読んだのが、「出口王仁三郎著作集」でした。特に、この本の第3巻が好きになりました。「狭依彦」のメニューにある2つの話が特に好きです。

その後、十和田龍「出口王仁三郎」「大地の母」を読み、若い王仁三郎が大好きになりました。

また、村上重良「出口王仁三郎」などの解説書も読みました。もちろん、予言に関する本や、泉田氏の本なども読みました。

そうしているうちに当然のこととして霊界物語が読みたくなったのですが、その時代は霊界物語は図書館にはありませんでした。

そこで、当時の「いづとみづ」の会に連絡をとって霊界物語を貸してくれる人を紹介してもらいました。なぜ「いづとみづ」の会だったかというと、その当時「いづとみづ」の会に関する本が出ていたのと、私は大きな権威が嫌いなので、小さい「いづとみづ」の会が好もしく思えたのです。

名古屋在住のある人から昭和20年代に出た薄い本を一回に5冊くらいずつお借りして読みました。とても良い本だったように思います。

ただ、私の身魂が物語を理解できるところまで行っていなかったのか、表面をなぞっただけで、一部は当時の私の気持に合致したところもありましたが、多くの部分では「中身のない物語だ」と感じました。

また、何度か「いづとみづ」の会の拝読会にも参加させていただきました。とても良い雰囲気でした。

しかし、結局私は、信者にはなりませんでした。その理由はいくつかあります。

(1)霊界物語口述後の王仁三郎の活動が理解できなかった
  ●なぜ、満州へ行ったのか。完全に戦争のお先棒かつぎではないのか?
  ●昭和神聖会の活動と当時の天皇中心の立場がよくわからなかった?

(2)王仁三郎が神だとは思えなかった
  ●これは、神が存在するとは思えなかったと同じことかもしれません。
  ●霊界物語余白歌で、何度も何度も、自分はミロク神だとか救世主だとか歌っているが、それが嫌だった。

(3)どこの組織に参加してよいかわからなかった?

その後、仕事を変わったこともあり、王仁三郎を生きる灯台とは思いながらも、だんだん離れてゆきました。

だだし、天声社から霊界物語が出ていたので、毎月取っていましたが積読だけでした。

2003年年頃までは、一年に一回くらいは霊界物語を読もうという気が起きるのですが、まったくだめで、一冊読み終わることもできない状態が続きました。

また、一年に一回くらいは図書館で王仁三郎関係の本を借りて読むことは読んでいました。

だから、1990年代の、大本の事、王仁三郎の事には全く無知でした。日月神示に関しても、2003年にWebで検索していて初めて知った状態でした。

 

3.うろー小史(2) 再会

王仁三郎とほとんど無縁の生活は2003年8月にWebを立ち上げる4ヶ月ほど前まで続きました。

一年に一回くらいは王仁三郎関係の本が読みたくなるのですが、その状態になったので、名古屋の鶴舞の図書館で本を借りました。出口和明「霊界の最高機密」と、出口京太郎「出口王仁三郎の示した未来へ」です。

それまで、出口和明氏の本はよく読んでいたのですが、出口京太郎氏の本は読んだことがありませんでした。

続いて出口京太郎「巨人 出口王仁三郎」が読みたくなりました。読んでみて、「もっと早く読んでおくべきだった」と思いました。

私のよくわからなかった部分、霊界物語口述後の聖師の活動についてたくさん触れられていたからです。また、この本のいろいろなエピソードによって、私はまたまた王仁三郎が好きになりました。

この時48歳の私は、年齢から来る自分の衰えも感じており、その観点からすると、王仁三郎の私の年齢以後の活躍は目をみはるものがありました。

それから他の本も読みたくなり、他の本を検索するためにインターネットから愛知県立図書館の検索を行いました。

それまでは、図書館で本を検索する時は「出口王仁三郎」と入力していました。しかし、その日は「大本」と入力してみようとひらめいたのです。

この検索により、「大本資料集成」と「大本70年史」が愛知県立図書館で読めることを知りました。そこには、私の疑問を調べるための資料、つまり昭和3年以降から第二次大本事件までの資料がかなりあったのです。

特に、「大本資料集成 3」の第二次大本事件の裁判記録は貴重でした。私は、この資料は、王仁三郎を知るためには重要なものだと思っています。

資料によると、裁判では霊界物語が不敬罪の焦点となっています。また、弾圧前には、警察がプロジェクトチームを作って、何ヶ月も物語を研究して、どの部分が不敬になるかを研究したそうです。裁判官も、物語を精読しています。彼等は、初めから、不敬罪という結論を持って物語を読んだのですが、その色眼鏡を利用してやれば、私達はこれらの資料からも物語に近づくことができるのではないかと思うのです。

そこで、この資料を読むためには霊界物語を読んでおく必要があると、霊界物語に帰ることになったのです。

また、私は英語を勉強しているので、英語検定を受けつづけていました。会話の二次試験がまったくだめだったからです。

試験には時事問題をスピーチする必要があるので、毎日いろいろな話を新聞の読者投稿欄などからとって話していたのですが、3ヶ月ほど前、どうせなら「霊界物語を訳して話そう」と思ったのです。

また、翻訳仕事がしたいので、日本語を書く練習として本の筆写もしていたのですが、「霊界物語を筆写してみよう」となったのです。この筆写で、物語のすごさを知ることができました。

また、その後「どうせ文章の練習をするのだから、霊界物語のあらすじを書いてやれ」と思ったことから、霊界物語のデータベースを作ることにしたのです。

また、その頃、私の部屋に大ムカデが出て、本棚の裏に隠れてしまい、本棚の本を全部出して大捜索を行いました。結局、ムカデはどこでも発見できず、積読状態だった霊界物語が巻順に整理できて読めるようになりました。後で読んだら霊界物語ではムカデは神の使いでした。  「海洋万里巳 大蜈蚣」参照

2003年7月には自分の家もやっとADSLにしました。これが、自分でも「王仁三郎のページを作ってやれ」と思ったきっかけになりました。

文章中の、時間が少し前後していますが、ホームページを作りはじめたのは、2003年の8月始め頃からでした。

そして、2004年5月頃に、霊界物語Onlineからダウンロードして拝読の部分をCDにして聞くことにしました。

拝読を聞くのはよいものです。黙読では感じられない部分もあることがわかりました。特に、女性の拝読が気に入りましたが・・・・・・

 

4.うろー小史(3) 霊界物語が来た

2003年の8月初旬、ページをWebに上げた日に、なんとBook Offで八幡書店の霊界物語を見つけたのです。数日前に行ったときには無かったのです。

値段は1冊1000円のBook Off値段。しかし、元が高いため大変な買い物でした。10分ほどは買うか買わないか迷いました。しかし、「これは私が買わなければならない本だ、運命だ」と妻を説得して買うことにしました。

そこで、当時は、私は霊界物語を2セット持っていました。前に持っていたものは、修補版だったので、登場人物をチェックするために、赤く汚してしまいました。

 

5.うろー小史(4) 猿世彦

自分は「どこのグループにも属していない」として、ページを作っていたので、自分の解釈がどんなものか、教義的には「正しくない」かも知れないと思っていました。

また、「教団外の者が教祖の解釈をしてよいか?」などと思っていましたが、何でも良いので、どんどん進めることにしました。自分は自分の道を行くのだ。

そう考えているうちに、霊界物語のどこかに、ウラル教から改心して、自分の解釈で三五教を宣伝している人の話があったことを思い出しました。

どこか忘れたので、考えていたら「なんとかの滝」という地名が浮かんだので、データベースから検索して、第8巻の8章「改心祈願」であることが分りました。

そこには、「猿世彦は三五教の教理にはうといが一生懸命神に祈ったので、彼の教理は矛盾脱落に満ちていたが、誠の神は神徳を授けた。」のようなことが書いてあります。

Web管理者のWebネームの猿世彦についての説明です。
 
たまたま、あるサイトの掲示板に書き込もうとしていたときに、猿世彦の部分を読んでいて、自分も大本教には門外漢で、脱線的なことを書くのではないかと思い、このWebネームにしました。

王仁三郎師のことを深く知っていなくても、いても、いろいろ発言してもいいじゃないですか。大事なのは、自分が王仁三郎師と、その教えをどう思っているかでしょう。

ところで、私はまだ外見は猿世彦ではありません。まだ毛はあります。

ということで、データベースで調べると、

猿世彦の初出は、第2巻25章、常世会議の場面です。

26章では、元照彦を追いかけていって、美濃彦の部下の港彦に、スペリオル湖の舟上で脅され裸にされ、寒気で凍りミイラになってしまいます。

27章では言霊別命に助けられ、常世姫宛てに「悔いるように」と書いた信書を持たさせられます。

28章では、高白山に行き、駒山彦と組み、策略をめぐらせ、息子の清照彦が元照彦の部下により殺された恨みをついて荒熊姫に取り入ります。

そして、8巻で再度登場。

1章。朝日丸の船上です。船上で猿世彦、駒山彦、清彦が言い争っている。清彦は三五教の宣伝使と自称していたが、女が宣伝の話を聞かせてくれとせがむ。猿世彦は清彦の過去をばらします。

2章、3章で日の出神とのやりとりがあり、4章で、まず、清彦が改心して日の出神の弟子となります。その後、6章で清彦が日の出神の神徳を受け飛び去って、駒山彦と二人で後に残されます。

そして、7章、ここからです。


霊界物語第8巻 第七章 蛸入道(357)

 たちまち闇の中に光明赫灼(かくしゃく)たる神姿を現はしたる清彦は、絶対無限の神格備はり、仰ぎ見るに眼も眩むばかりに全身輝き渡りけり。猿世彦、駒山彦は、この姿に慴伏(せふふく)してしばし息を凝らしゐたるに、清彦の姿は、バツタリ消えうせ、闇の中より耳を裂く如き大なる声聞え来たる。

 『猿世彦、駒山彦、よく聞けよ。吾は汝の知るごとく、今までは八頭八尾の大蛇の霊魂に誑かされ、曲事のあらむ限りを尽くしたることは、汝らの熟知する通りなり。されど吾は三五教の大慈悲の神の教を聞きてより、今までの吾が身の為しきたりしことが恐ろしく且つ恥かしくなり、日の出神の後を追ひ、真人間になりて今までの悪に引かへ、善一筋の行ひをなさむ。悪も改心すればこの通りといふ模範を、天下に示すべく日夜、神に祈りゐたるに、神の恵みは目の当り、不思議にも名さへ目出度き朝日丸に乗り込み、日の出神様にめぐり会ひ、結構な教訓を賜つて、吾が霊魂は、神直日大直日に見直し聞き直され、今は清き清彦が霊魂になりて世界の闇を照らす日の出神の御名代、汝ら二人は吾が改心を手本として、一時も早く片時も速やかに悪を悔い、善に立ち帰り、世界の鏡と謳(うた)はれて、黄泉比良坂の神業に参加せよ。汝の改心次第によつて、吾は再会することあらむ。汝らが心の雲に隔てられ、遺憾ながら、吾が姿を汝らの目に現はすことは出来なくなりしぞ。駒山彦、猿世彦、さらば』

といふより早く、またもや四辺を照らす大火光となりて中空に舞上り、智利の都を指して中空をかすめ飛び去りける。

猿世彦『オイ駒公、本当に清彦は日の出神となりよつたな。もうこれから清彦の悪口は止めにしようかい。吾々を山の奥へ連れて行きよって、放とけぼりを喰はした腹立まぎれに、心を鬼にして、どこまでも邪魔をしてやらうと思ったが、たうてい悪は永続きはせないよ。お前と俺とが船の中で、あれだけ拳骨を喰はしてやつても、俺の体は鉄ぢやといひよって、痛いのを辛抱して馬鹿口を叩いて笑ひに紛らしてゐたのは、一通りの忍耐力ではないよ。思へば馬鹿なことを吾々はしたものだナ。日の出神様はあの時に俺らの行ひを見て、なんと端たない奴だ、訳のわからぬ馬鹿者だと心の中で思ってござったぢやらう。俺はソンナことを思ひだすと情なくなつて、消えたいやうになつてくるわ』

駒山彦『それなら、これから何(ど)うするといふのだイ』

猿世彦『まあ、改心より仕方がないな。清彦のやうに立派な日の出神になれなくても、せめて曲りなりにでも宣伝使になつて、今までの罪を贖ひ、身魂を研いて、黄泉比良坂の神業に参加したいものだ。どうでトコトンの改心はできはしないが、せめて悪口なと云はないやうにして、世界を助けに廻らうぢやないか。さうして一つの功が立つたら又、清彦の日の出神が会ふてくれるだらう。その時には立派な宣伝使だ、天の御柱の神の片腕になつて働かうとままだよ。これから各自に一人づつ宣伝することにしようかい』

駒山彦『よからう、よからう』

と二人はここに袂を別ち、何処(いづこ)ともなく足にまかせて宣伝歌を覚束なげに歌ひながら進み行く。夜はほのぼのと白み初めぬ。猿世彦は南へ、駒山彦は北へ北へと進み行く。

 猿世彦は光った頭から湯気を立てながら、カ一ぱい癇声(かんごえ)をふり搾(しぼ)つて、海辺の村々を歌つて行く。ある漁夫(りようし)町に着きけるに、四五人の漁夫は猿世彦の奇妙な姿を見て、

甲『オイ、この間からの風の塩梅で漁が無いないといつて、お前たちは悔んでゐるが、天道は人を殺さずだ。あれ見よ、大きな蛸が一疋歩いて来るわ。あれでも生け捕って料理をしたらどうだらうかナア

乙『シーツ、高うはいはれぬ、聞いてゐるぞ。聞えたら逃げるぞ逃げるぞ』

甲『蛸に聞えてたまるかい。なんぼいふても聞かぬ奴は、彼奴は耳が蛸になつたといふだろ。かまはぬかまはぬ、大きな声で話せ話せ。オイ、そこへくる蛸入道、俺はな、この村の漁夫だが、この間から漁が無くて困つてゐたのだ。貴様の蛸のやうな頭を俺に呉れないかイ

猿世彦『ああ、あなた方はここの漁夫さまですか。蛸は上げたいは山々ですが、一つよりかけがへのないこの蛸頭、残念ながら御上げ申すわけには行きませぬ

丙『なにをぐづぐづ云ふのだイ。聞かな聞かぬでよい、くれなくれぬでよい。みな寄つてたかつて、蛸を釣つてやるぞ。

猿世彦『それは結構です。各自に御釣りなさい。蛸が釣れるやうに祈って上げますから

甲『お前さまが祈る。これだけとれぬ蛸が釣れますかい』

猿世彦『釣れいでか、そこが神さまだ。釣るのが邪魔くさければ、お前さまも、わしの云ふやうに、声を合して宣伝歌を歌ひなさい。蛸はヌラヌラと海から勝手に這い上つて、お前さまの持つてをる笊(ざる)の中に這入(はい)つてくれる。そこを蓋をしめて家へ持つて帰るのだ』

猿世彦は、口から出まかせに、コンナことを言つてしまひける

乙『おい、蛸の親方、本当にお前のいふ通りにすれば、蛸は上つてくるかい』

甲『そら、きまつたことだよ。何分親分が言はつしやるのだもの、乾児(こぶん)が出てこぬことがあるかい。それだから貴様たちもこの親分のいふことを聞けといふのだ。俺が呼んでも来たり来なかつたり、貴様らは不心得な奴だぞ。もしもし蛸の親方、蛸を呼んで下さいな』

 猿世彦は海面にむかひ、癇声をしぼりながら、宣伝歌を歌ひはじめ、漁夫はその後について合唱したり。海面には処々に丸き渦を描きて、蛸入道の頭がポコポコとあらはれ来たりける。

猿世彦は、

『来たれ、きたれ』

と蛸に向かつてさしまねけば、蛸はその声の終るとともに、笊の中に数限りなく飛びこみけり。このこと漁夫仲間の評判となりて、猿世彦を日の出神と尊敬することとなりぬ。それよりこの漁村は、蛸取村と名付けられたり。

 蛸取村より数十町西方にあたつて、アリナの滝といふ大瀑布あり。猿世彦はそこに小さき庵を結び、この地方の人々に三五教の教理を宣伝することとなりける。

(大正十一年二月六日 旧一月十日有田九皐録)


WEB管理者・狭依彦の名前に関する重要な章です。狭依彦が重要だと思う箇所に色をつけてみました。
 漁夫は猿世彦の言霊によりて、蛸の意外なる収獲を得、今まで軽侮の念をもつて遇してゐたる猿世彦に対し、尊信畏敬の態度をもつて望むことになり、アリナの滝に草庵を結びて猿世彦の住家となし、尊敬の念をはらひ、三五教の教理に悦服したり。されど俄(にわか)宣伝使の猿世彦は、未だ三五教の教理には徹底しをらず、ただ神を祈ることのみは一所懸命なりき。それゆゑ平然として彼が説くところの教理は、矛盾脱線に満ちゐたれども、誠の神は彼が熱心に感じて神徳を授けられたるなり。この村は無智朴訥なる漁夫のみなれば、あまり高遠なる教理を説くの必要もなく、また漁夫どもは神を祈りて豊な漁を与へてもらふことのみを信仰の基礎としてゐたり。しかし掃溜(はきだめ)にも金玉あり、雀原(すずめばら)にも鶴の降りて遊ぶがごとく、この村の酋長に照彦といふ立派なる男ありけり。彼は猿世彦の熱誠なる祈祷の効力に感じ、歌を作りてこれを讃美したりける。
 
朝日眩ゆき智利の国           御空の月も智利の国
猿世の頭も照の国            昼は日照の神となり
夜は月照彦となり             吾らを照らす宣伝使
かかる尊き救ひ宣使(がみ)      またとアリナの滝のごと
その名は四方に響くなり         その名は四方に響くなり。
 
と村人に歌はせたり。猿世彦は得意満面に溢れ、天晴れ宣伝使となりすまし、法外れの教理を説きゐたり。されど朴訥なる村人は誠の神の尊き教とかたく信じ、涙を流して悦び、信仰を怠らざりける。
 
アリナの滝より数町奥に不思議なる巌窟あり。巌窟の中には直径一丈ばかりの円き池あり、清鮮の水を湛へ、村人はこれを鏡の池と命名けゐたり。猿世彦は村人をあまた随へ、この鏡の池に禊をなさむと進み行きぬ。まづ酋長の照彦に鏡の池の水を掬(すく)ひて洗礼を施し、つぎつぎにこれを手に掬ひ、老若男女にむかひ一々洗礼を施し、この巌窟の鏡の池に向つて祈願を籠めにける。
 
『ああ、天地を御造り遊ばした国治立の大神様、太陽のごとく月のごとく鏡のごとく、円く清らかなるこの鏡の池の水晶の御水のごとく、酋長をはじめその他の老若男女の身魂を清く研かせたまふて、この水の千代に万代に涸(か)れざるごとく、清き信仰をどこまでも繋がせたまひて、神様の御膝下(おひざもと)に救はれますやうに、又この尊き、清き御水を鏡として、吾々はじめ各自(めいめい)のものが何時までも心を濁しませぬやうに、御守り下さいますやう御願ひいたします。私は今日まで鬼城山に立て籠り、木常姫と共々に大神様の御神業を力かぎり、根かぎり妨害いたしました其の罪は、天よりも高く、千尋の海よりもまだ深いものでございます。しかるに貴方様は大慈大悲の大御心をもつて、吾々のごとき大罪人に対し満腔の涙を御注ぎ下さいまして、畏れおほくも天教山の猛火の中に御身を投じ玉ふたことを承りました。そのことを聞きましてから私は、昔の悪事を思ひだし、起つても坐(い)てもをれぬやうな心持になりました。ああ、一日も早く改心したいと思ひますと、私の腹の中から悪魔が「馬鹿々々、何をソンナ弱いことを思ふか」と叱りますので、ついウロウロと魂が迷ひ、心ならぬ月日を送つてをりました。たまたま私は常世の国を逃げ出して、筑紫の洲をあちらこちらと彷徨(さまよ)ふうち、日の出神といふ立派な宣伝使が、智利の都へ御出で遊ばしたと聞いて、朝日丸に乗って此処へ渡ります其の船の中に、有難くも日の出神様が乗つてをられ、いろいろ結構な御話を聞かして下さいました。これも全く貴方様の御引合せと有難く感謝をいたします。この清き鏡の池の水は、円満なる大神様の大御心でありませう。このコンコンとして湧き出づる清き水は、大神様の吾らを憐れみたまふ涙の集まりでありませう。この水の清きは、大神様の血潮でありませう。願はくば永遠に吾らの魂を、この鏡の池の円満なるがごとく、清麗なるがごとく守らせたまはむことを、村人と共に御願ひいたします。惟神霊幸倍坐世、惟神霊幸倍坐世』
 
と真心を籠めて祈願したり。数多(あまた)の人々も異口同音に、「惟神霊幸倍坐世」を唱へて神徳を讃美したりけり。
 
(大正十一年二月六日 旧一月十日森良仁録)


それでWebネームを猿世彦にしました。

このネームは、2004年になり、拝読している物語で、猿世彦(さるよひこ)が狭依彦(さよりひこ)に変っていたので、狭依彦に変えました。

海洋万里辰 懸橋御殿

 

6.うろー小史(5) 新しい出会い

2003年12月も終り頃、「すめらみち」サイトのことを日月神示の掲示板で知り、サイト管理人さんの伊都能売神諭のデータ化に共鳴して、いくつか協力しました。

2004年1月には急に思い立って、あたためていた企画、王仁三郎データのデータベース化を始めて、見出しデータの入力と、データベースプログラムの作成をしました。

そして、2004年2月に、Googleで検索していたら「王仁三郎資料センター」(現在のオニド)を発見し、このサイトの管理人さんが、私と同じ2003年8月に思い立ってWebページを作り始めたことを知りびっくりしました。

これから考えて、「やはり、私は呼ばれた」と認識を新たにしました。

また、「王仁三郎資料センター」のデータを使い、かなりの量のデータを私のデータ・ベースに取り込みました。それではずみがつき、私も色々な文献をデータ化しました。

たぶん、一人では何もできなかったと思います。

また、2004年3月頃には、データ化の協力者を募りましたがもう一つでした。今では、オニドに協力者が何名かあるそうです。

その後は、ブログを作ったりしながら、基本的には無所属で一人でやっているということです。

また、ひょんなことでデーヴィッド・アイクの『大いなる秘密』を知り、アイクの思想に触れ、王仁三郎に対する解釈も少し変わってきました。

デーヴィッド・アイクさんと王仁三郎に共通点を感じで、HPを作っていたら、編集者から連絡があり、最終的には2008年5月に『霊界物語の「竜」と「爬虫類人」 』を出すことができました。

 

7.うろー小史(6) 最近

「うろー」というのは霊界物語で神などを称える「ウロー」からとっているのだけれど、「うろー」だけでは短すぎてなんだか分からないと思い、当初は「うろー・おに・うろー」としていました。「おに」は王仁三郎のつもりでした。

それでも、いつからか「うろー」で通るようになったので、今は「うろー」にしています。

2007年にはページ全体をXOOPSを使ったものに作り変えました。

また、2007年に仕事を変わり、それから使える時間が少なくなり、「デーヴィッド・アイクの情報」の方に力を入れていました。

「デーヴィッド・アイクの情報」は、英語の力を維持するためと、やはり「現実を見る目」を持ち続けるためです。

「陰謀論」(世の中は権力を持った少数者の陰謀によって動かされている)は、情報の入らない日本では、世界を見る目を持つには良い情報だと思います。ただし、話は多くて半分に聞いておかないと、やはり何も見えないままです。

「陰謀論」から、権力を持った少数者(「奴等」と呼びます)がなぜそうしているかが分かるか?これは、無理だと思います。

私は、飛行機で重金属を撒いて人間の数を減らそうとしている「ケム・トレイル」の存在を信じていますが、これをやらせている奴等はいったい何なのか?ただの権力者なのか、宇宙人なのか、神なのか、は分かりません。

正しい神が「人減らし」をしていても、論理的には問題はないでしょう。

そこのところを、霊界物語から知ることができる。そう、信じています。


その「デーヴィッド・アイクの情報」も最近サボり気味です。

現在行っているのは、
(1)霊界物語を形態素解析をして、読み上げソフトで読ませて、mp3にすること。これの派生で、英語の前訳をするソフトも作り始めました。
(2)縄文の勉強をすること。縄文時代の土偶や土器を使った祈りに思いをはせること。土器や土偶の絵を描くこと。
(3)占星術の勉強。

これらに加えて、やはり、「奴等」の正体を知るために、霊界物語を「研究」し続けたいと思っています。

当然、「奴等」の正体が分かっても、現実がどうなっているかを知るには「陰謀論」も続けるべきでしょう。

最近、記憶力の衰えを感じますが、できる限り続けたいとは思っています。

 

8.私が王仁三郎を好きなわけ

いちばんは「(好きということに)そんなの理由なんかないわ」(ユージン:これ書いたのが『冬ソナ』が大ブレークするちょっと前なので)なのですが、具体的にいくつか述べておきます。

上の表現は、非常に時代を感じる表現ですね。

(1) 王仁三郎の語り口には反感を抱かない

王仁三郎の“忍耐”とか“勇気”の語り口などは反感を抱くことがなく、いいですね。

(2) 霊界物語でも他の文章でもエロとか汚いところに引かれる

(注) “エロ”は死語かも知れないの辞書などで調べてください

私が「霊界物語」に打ちのめされたのは、物語17-1-1『黄金の衣』です。これは、“エロ”ではなく“汚い”なのですが。

この後の、「羽化登仙」が恐ろしい場面であるだけに、効果抜群です。

こんなことを書く奴は信頼できる。だから「霊界物語」は信頼できる。となったわけです。

あと、今回「全集(8)」(ダウンロードのページ)で発表できましたが、王仁三郎の若い頃の行動が大好きなのです。

1. 女との交渉

   一番好きな女性は、多田琴。

   一番好きな歌は、

  犬が飛びいたので、女がおどろいて抱きついた時の歌

  鼻先にぷんとにほひて体臭の忘らえがたき身とはなりぬる

  好きな、エピソードは16歳の歌舞の師匠さんにゆまり(小便)をかけられたこと。もっと詳しく知りたい。

2. おかしな行動

   今回発表したのでは、醤油飲み比べ大会で醤油を五合飲んだ。その後病気になり苦しんだ。

   他の解剖とか、ラムネで損をしたとか、みんな感動しています。

こんなことで、

このおっさんの言うことは信じられるぞ、霊界の存在もね。

となっているわけです。


自分もかなりの年齢となりましたが、やはり、上記のことは若い頃から変わっていません。

少しだけ、進んだと思われるが、『天祥地瑞祥』の最初の二巻くらいの、ソフト拝読を聞いて、和歌ばかりのストーリーの「硬質な美しさ」を微かに感じたことです。

 

9.デーヴィッド・アイク

王仁三郎を好きだったのなら、なぜ、大本に入らないの?そう言われると思います。

その答えは上に書いたと思うのですが、私の興味は、ずっと、神様(独一真神)ではなく、バラモン教、ウラル教にあります。

デーヴィッド・アイクの情報でいろいろな記事を訳していて思うのですが、アイクの言うイルミナティが霊界物語バラモン教であると思っています。

じゃあ、三五教は?これが、何なのかはいまだにわかっていません。大本関係の教団でないとは思いますが……。

今、いちばん強い可能性が、三五教なんていうのは存在していない。未来に存在するのだ。ただ、個々の宣伝使は存在して、その一人が私であるなら。これは、ちょっと思い込みが過ぎるでしょうか。

アイクと王仁三郎の思想の類似点については、本にすることができました。

これからも、新しいことをやりたいと思っています。



第1版  2004/07/12
最終更新  2015/01/02

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