人種論


物語02-0-2 1921/11 霊主体従丑 総説

 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始は、国大立命、稚桜姫命が最初であり、稚桜姫命は日月の精を吸引し、国祖の神が気吹によつて生れたまひ、国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿の神様である。それよりおひおひ神々の水火によりて生れたまひし神系と、また天足彦、胞場姫の人間の祖より生れいでたる人間との、二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、その性質において大変な相違がある。天足彦、胞場姫といへども、元は大神の直系より生れたのであれども、世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従の罪によつて、人間に差別が自然にできたのである。
 されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、尊体卑心の身魂に堕落してゐるのであつて、今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。

物語04-4-28 1921/12 霊主体従卯 武器制限

 かくして武装を除去されたる竜族は、漸次に進化して人間と生れ、あるひは神と生るるにいたるものなり。また獅子、虎、豹、熊、狼なぞは、世とともに進化して、人間と変じ、牛馬と生れ、犬猫などと生れ変りたるなり。その中に百獣の王たりし、獅子や虎豹なぞはその身魂の善進したるものは人間と変化したり。ゆゑに人間、ことに或る人種のごときはその容貌いまに獅子や虎、豹などの痕跡を止め居るなり。かかる人種の性質は、いまに太古の精神までも多少遺伝して、人情冷やかく、色食の慾にのみ耽り、体主霊従の行動を取り居るもの多し。

物語11-3-17 1922/03 霊主体従戌 大気津姫の段(3)

『陰に麦生り』といふことは、西洋人は麦を常食とするといふ意義であります。日本およびその他の東洋諸国は陽の位置にある国土であるから、陽性の食物たる米を常食とするのが国土自然の道理である。西洋は陰の位置にある国土であるから陰性の食物たる麦を常食とするのが国土自然の道理である。ゆゑに西洋人は麦で作つたパンを食ひ、東洋人、ことに日本人は米食をするのが天賦の本性である。しかるに、今日の日本人は、上流になるほど西洋崇拝者が多くあらはれ、文明人らしき顔付をして、自慢でパンに牛酪などをつけて、無味ものを美味さうに平気で喰つてゐるが、麦は日本では牛馬の喰ふべき物ときまつてゐるのである。ゆゑに日本人は米を喰ひ、陰所たる西洋に生れた人種は、麦を喰ふことになるのが、『陰所に麦生り』といふのであります。

物語11-4-23 1922/03 霊主体従戌 保食神

 黄泉比良坂の戦に、常世の国の総大将大国彦、大国姫その他の神人は、残らず日の出神の神言に言向け和され、悔い改めて神の御業に仕へ奉ることとなりたり。そのため八岐の大蛇や金毛九尾の悪狐、邪鬼、・醜女、探女の曲神は、暴威をたくましうする根拠地なるウラル山に駈け集まり、ウラル彦、ウラル姫をはじめ、部下に憑依してその心魂をますます悪化混濁せしめ、体主霊従、我利一ぺんの行動をますます盛んに行はしめつつありたり。悪蛇、悪鬼、悪狐等の曲津神はウラル山、コーカス山、アーメニヤの三ケ所に本城をかまへ、ことにコーカス山には荘厳美麗なる金殿玉楼をあまた
 建てならべ、ウラル彦の幕下の神人は、ここにおのおの根拠を造り、酒池肉林の快楽にふけり、贅沢の限りをつくし、天下をわが物顔に振るまふ我利々々亡者の隠処となりてしまひぬ。かかる衣食住に贅をつくす体主霊従人種を称して、大気津姫命と言ふなり。

物語15-2-11 1922/04 如意宝珠寅 大蛇退治の段

以上の御本文を言霊学の上より解約すると、吾が守護する大地球上に生息する、息女即ち男子や女子は、八男と女と云つて、種々の沢山な神の御子たる人種民族が有るが、年と共に人民の霊性は、鬼蛇の精神に悪化し来り至粋至醇の神の分霊を喫ひ破られて了つた。高志の八岐の遠呂智と云ふ悪神の口や舌の剣に懸つて歳月と共に天を畏れず地の恩恵を忘れ、不正無業の行動を為すものばかり、人民の八分迄は、皆悪神の容器に為れて、身体も霊魂も、酔生夢死体主霊従に落下し、猶も変じて八岐の遠呂智の尾となり盲従を続けて、天下の騒乱、国家の滅亡を来しつつ、最後に残る神国の人民の身魂までも、喫ひ破り亡ぼさむとする時機が迫つて来たので如何にしてか此の世界の惨状を救ひ助け、天津大神に申上げむと、心を千々に砕き天下国家の前途を思ひはかりて、泣き悲しむなりと答へ玉うたと曰ふことなり。

物語15-4-20 1922/04 如意宝珠寅 五十世紀

 向ふの方より、身の丈二尺ばかりの男女五人連、手を繋ぎ乍ら、ヒヨロヒヨロと此方に向つて進み来るあり。
玉彦『ヤア小さいお方が御出でたぞ。此処は小人島の様だな。天国にはコンナ小さい人間が住まつて居るのですか。ナア松彦サン』
松彦『何、神界許りか、現界も此通りですよ。一番図抜けて大男と云はれるのが三尺内外一尺八寸もあれば一人前の人間だ。顕幽一致、現界に住まつてゐる人間の霊体が此高天原に遊びに来てゐるのだ。ああやつて手を繋いで歩かないと、鶴が出て来て、高い処へ持つて上るから、其難を防ぐ為、ああやつて手を繋いで歩いて居るのだ』
玉彦『ハテ益々合点が往かなくなつて来た。吾々三人は、常世の国を振出しに、世界各国を股にかけ、現界は大抵跋渉した積りだが、何程小さき人間だと云つても六尺より低い男女は無かつた。赤ん坊だつてあれ位の背丈は、現界の人間なれば持つてゐますよ。貴方、何かの間違ひではありますまいか』
松彦『六尺以上の人間の住まつて居つたのは、今より殆ど三十五万年の昔の事だ。貴方が河鹿峠で帰幽してからは、最早三十五万年を経過して居るのだ。現界は二十世紀といふ、魂の小さい人間が住まつて居た時代を超過し、既に三千年暮れてゐる。現界で云へば、キリストが現はれてから五十世紀の今日だ。世は漸次開けるに伴れて、地上の人間は労苦を厭ひ、歩くのにも電車だとか、自動車、汽車、風車、羽車等に乗つて天地間を往来し、少しも手足を使はないものだから、身体は追ひ追ひと虚弱になつて最早五十世紀の今日では、コソナ弱々しい人間になつて了つたのだ。併し乍ら、十九世紀の終りから二十世紀にかけて芽を吹き出した、三五教の教を信じ不言実行に勉め、労苦を楽しみとしてゐる人間の系統に限つて、夫れと反対に六尺以上の体躯を保ち、現幽神界に於て、神の生宮として活動してゐるミロク人種もありますよ

物語20-99-1 1922/05 如意宝珠未 霊の礎(六)

一、第一天国たる最高最勝の位置を占めたる天国の天人の姿は、実に花のごとく、黄金のごとく、瑠璃光のごとく、かつ金剛石の幾十倍とも知れないやうな、肌の色を保つてをる天人ばかりである。そして大抵は有色人種、殊に黄色人種が多く、白色人種はその数においてよほど少数である。これを第二、第三の天国の住民より仰ぎ見る時は、ただ単に像が強力なる光輝を放射してゐるやうで、充分に見分くることが出来ない。また第二、第三の天国には白色人種も多数に住み、有色人種も多数に住居してゐる。そして白色人種は白色人種で団体を造り、ここに集合し、有色人種は比較的に少いやうである。

物語29-3-14 1922/08 海洋万里辰 カーリン丸

去年の今頃だつた。高姫に仕へて居つた鷹依姫、其息子の鼻の素的滅法界に高い竜国別、それに一寸人種の変つた、鼻の高い細長い、色の少し白いテーリスタンとかカーリンスとか云ふ四人連れが、アリナの滝の……何でも近所に鏡の池とか云ふ不思議な池があつて、そこに長らく居つた所、俄にどんな事情か知らぬが、居れなくなつて、たうとうアリナ山脈を越えて、ウヅの国の櫟ケ原を横断し、アルの港からヒルへ行く途中、誤つて婆アはデツキの上から海中へ陥没し、皆目姿がなくなつて了つた。そこで息子の竜国別が、婆アさまを助けようとドブンと計り飛込んだが、これも亦波に捲かれて行き方知れず、テ、カの二人も続いてドブンとやつたが、此奴もテンで行方が知れなくなつて了つた。

物語32-1-1 1922/08 海洋万里未 万物同言

 日本人は円満清朗なる七十五声を完全に使用し得る高等人種である。之れ全く国魂の秀れたる所以にして、人種として又優等なる所以である。人種に依つては二十四五声或は三十声内外より言語を使用し得ざるものあり。而して其声音は拗音、濁音、鼻音、半濁音、獣畜音等が混入してゐる。されど神と同じく七十五声を使用し得る人種も今は全く心の耳塞がり、心の眼閉ぢたれば、到底神諭にある如く、一を聞いて十を悟るが如き、鋭敏なる心の耳目を欠き、百言聞いて僅に一二言を悟り得る位の程度まで耳目活用の能率が低下し、他の動物と殆ど選ぶ所なき迄に到れるなり。実に天地経綸の司宰者たる人として浩歎すべきの至りならずや。

物語32-2-13 1922/08 海洋万里未 平等愛

 古の怪しき獣は、今日に比ぶれば、其数に於て其種類に於て最も夥しかつた。併しながら三五教の神の仁慈と言霊の妙用によつて、追々に浄化し、人体となつて生れ来ることとなつた。故に霊の因縁性来等に於て、今日と雖も、高下勝劣の差別を来たすこととなつたのである。併しながら何れも其根本は天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したるものなれば、宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、何れも兄弟同様である。
 同じ人間の形体を備へ、同じ教育をうけ、同じ国に住み、同じ食物を食しながら、正邪賢愚の区別あるは、要するに霊の因縁性来のしからしむる所以である。
 或理窟屋の中には、総ての人間は同じ天帝の分霊なれば、霊の因縁性来、系統、直系、傍系などの区別ある理由なしと論ずる人がある。斯の如き論説は、只一片の道理に堕して、幽玄微妙なる霊魂の経緯を知らざる人である。人の肉体に長短肥瘠、美醜ある如く、霊魂も亦これに倣ふは自然の道理である。要するに人間の肉体は霊魂のサツクのやうなものであるから、人間各自の形体は霊魂そのものの形体であることを悟らねばならぬ。霊魂肉体を離れ、霊界に遊ぶ時は、其脱却したる肉体と同様の形体を備へ居る事は、欧米霊学者の漸く認むる所である。
 物質文明の学は泰西人に先鞭をつけられ、霊魂学の本場たる我国は亦泰西人に霊魂学迄先鞭をつけられつつあるは、天地顛倒、主客相反する惨状と云はねばならぬ。我々は数十年来霊魂学の研究につき、舌をただらし、声をからして叫んで来た。されど邦人は如何に深遠なる真理と雖も、泰西人の口より筆より出でざれば、之を信ぜざるの悪癖がある。故に如何なる高論卓説と雖も、一旦泰西諸国に輸出し、再び泰西人の手を借りて、輸入し来らざれば、信ずること能はざる盲目人種たることを、我々は大に歎く者である。此物語も亦一度泰西諸国の哲人の耳目に通じ、再び訳されて輸入し来る迄は、邦人の多数は之を信じないだらうと予想し、且つ深く歎く次第であります。

物語36-1-1 1922/09 海洋万里亥 二教対立

 釈迦はこの島より仏教を、印度、西蔵、安南、シヤム、支那、朝鮮と、その教勢東漸して、つひに自転倒島の我が日本国にまで、その勢力を及ぼしたのである。仏教は概して、有色人種の宗教となつてゐる。これに反してキリスト教は、大部分白色人種の宗教となつてゐる。土耳古、希臘のごときコーカス人種もまた、仏教の感化を受けたこと最も大なるものがあつた。

物語36-3-15 1922/09 海洋万里亥 眩代思潮

竜雲は嘲笑ひ、
『何を言つても同じ穴に棲む貉だから、この責任は二人で分担せなくてはならないのだ。しかしながら今の世の中は、奸者侫人、悪逆無道を敢行するだけの器量ある者を称して、英雄豪傑、紳士紳商、国民の選良と持てはやすのだ。現代思潮の真髄を極端に体験したるわれわれ両人は、実に現代における勇者だ、覇者だ。善悪といふものは、時と所と地位とによつて変るものである。人間も肉体のある限りは、何といつても衣食住の完全を望まなければ、人生は嘘だ。下らぬ古き道徳観念にとらはれ、半死人的行為をなすをもつて至善の道と迷信してゐるやうな人物は、もはやこの世界に生存の価値もなければ、見識もない馬鹿の骨頂だ。それだからこの竜雲は、無抵抗主義を標榜する人類愛善の教の三五教や、人間の階級を三段に分けて、上中下三流に対し社会的待遇を異にするやうな矛盾を、平気でやつてゐるバラモン教はなほさら嫌ひだ。すべて世界の人種は有色無色を問はず、一切平等に神の恩恵……語を換へて言へば、自然の天恵は偏頗なく均霑さるべきものだ。今日の矛盾不合理きはまる社会の習慣を打破し、智者をしてその智をふるはしめ、勇者をしてその勇を活躍せしめ、自由競争をもつて社会の原則となさねばならない。さすれば力一杯の大活動もすることが出来、野に叫ぶ聖人は頭を抬げて、平素懐抱せるその妙智妙案を発揮するやうになるのが、いはゆる一切平等、偏頗なき自然の神慮にかなつたものである。さうだから姫も今までの旧慣をスツカリ放擲し、日進月歩の今日だから、わが教に従つて、世界第一の新しき女となつて、その驍名を竜雲とともに、世界に輝かすだけの覚悟を持つてもらはなくちやアならない。この夫にしてこの妻あり、諺にも鬼の夫に蛇の女房といふことがある。これは取りも直さずこの世界を造り玉ふた盤古神王さまが、比喩を作つて、世界万民の口に知らず知らずの間に伝へさせ玉ふたのである。これほど鬼大蛇悪魔の蔓延る世の中に処するには、それ以上の強圧力がなくてはたうてい駄目だ。鬼と蛇との夫婦が現はれて、世界を統一するといふ予言を神さまがしておかれたのだ。その予言の体顕者はすなはち吾ら両人だ。自由自在に行使すべき独特の権能者だ。たとへ根の国底の国が仮りにありとしても、この現幽神の三界は残らず盤古神王様の掌握したまふところ、盤古神王の御意に叶ふた行動をなす者が、どうして罪になるものか。姫も少しは胸に手を当てて、よく考へて見たがよからう。善悪不二、正邪一如といふではないか。人の体だつて前後ろがある。わが背中の鬼の斑紋は、わが唯一の守護神が顕現したのだ。前から見れば実に円満具足の好男子、真善美の極致に達した立派な竜雲王である。裏面より見れば、すなはち悪鬼羅刹の首魁である。床の間の掛物を見てもさうではないか。あの通り美しい絵画が描かれてあるが、かの軸の裏面は実に粗末な紙ばかりの殺風景な品物ではないか。人間の同じ一つの体にも、清浄無垢にして日月にも比喩ふべき両眼のあるとともに、汚穢きはまる大小便の噴出口があるであらう。この噴出口が汚穢だといつて取り去つてしまふものなら、たうてい全身の安静を保つことはできない、従つて何ほど美しい両眼もたちまちその光明を失つてしまふであらう。葱の白根を見てもさうではないか。土にかくれた汚い臭気のあるところに、かへつて無限の味がある。屍のあるところには鷲集まり、濁れる水には数多の魚集まり来たる。これくらゐな天地の道理が分からなくて、どうして神地の城の花形役者となつて、世に時めくことが出来るであらうか。チツとそなたも改心をしてもらはねば、この竜雲の社稷はたうてい保たれないぢやないか』
『そんなら盤古神王さまのお為になること、お心に叶ふことならば、人の認めて悪逆無道とするところも、敢へて神さまはお咎めなさらないのですか。そんなら一つ伺ひますが、それだけ智謀絶倫、神力無双の竜雲さまの危ふき生命を助けたエームスは、なぜ牢獄へ投ぜられたのです。エームスは言つてゐたぢやありませぬか……人の生命を助くるのは、人間として最善の行ひだと思ふ.、しかるに思はざりき、人を助けて罪人となり、暗き獄舎につながれて、日夜苦悶をつづけねばならぬならば、吾々は最早この社会に手も足も出すことはできない……と言つてをりましたでせう。それはどういふ解釈になるのでせう。一向この点が合点が参りませぬ。盤古神王さまの御為に働きながら、またもや盤古神王のために、根底の国の牢獄に身魂を投げ込まれるやうな悲惨なことは出来はしますまいか』

物語39-98-1 1922/10 舎身活躍寅 大祓祝詞解

△白人胡久美 白昼姦淫のこと。白日床組といふ醜穢文字を避け、わざと当字を用ひたのである。淫慾は獣肉嗜好人種に随伴せる特徴で、支那、欧米の人士は概してこの方面の弊害が多い。日本人も明治に入つてから大分その影響を受けてゐるが、元来はこの点においては世界中で最も淡白な人種である。淫慾の結果は肺病となり、また癩病となるゆゑに、白人胡久美を第二義に解釈すれば、白人は肺病患者、または白癩疾者を指し、胡久美は黒癩疾者を指す。

物語40-0-3 1922/11 舎身活躍卯 総説

 印度とは、月の意義であるが、印度全体を通じては月とはいはずして、婆羅門国と謂つてゐたのである。婆羅門教徒の主唱するところによれば、
「大虚空上に、大梵天とも梵自在天とも大自在天とも称ふる無始無終の天界が在つて、その天界には、大梵王とも那羅延天とも摩首羅天とも称する大主宰の天神があつて、これもまた無始無終の神様なるがゆえに、無より有を出生せしめて是の天地を創造し、人種はいふもさらなり、森羅万象一切の祖神である」
と語り伝へてきたのである。

物語64上-1-5 1923/07 山河草木卯 至聖団

『ただいま聖師のお話によつて、今回の聖地御出向も了解いたしました。この団員も定めて私と同じ御意見だと思ひます。個々分立して日に夜に争闘の絶間がなかつたといふ高砂島が、今より五十年以前において統一せられ、また厳瑞二柱の救世主が現はれたまふたのも、メシヤ再臨世界一体の大神様の深遠なる御経綸でございませう。国内の凡ての障壁が取り除かるることによつて、今日の向上と繁栄を来たすことになつた以上は、なほも進んで世界中が争闘を止めて相親愛し、各国各人種などといふ根本的敵愾心を取り去ることによつて、人類の文化は神聖なものとなり、これと同時にその福利の程度も大変に高めらるること疑ひなき真理であります。要するに吾々お互ひの親愛の範囲の大小によつて、野蛮ともなり文明ともなるのです。世界の平和を来たさむがため、すなはち五六七の神政出現のためには、各国国民間の有形と無形の大障壁を第一着に取り除かねば駄目です。この挙に出でずして世界の平和、五六七神政の成就を夢みるは恰も器具を別々にして、水の融合を来たさうとするものと同様の愚挙ではありますまいか。それゆゑ吾々団体員は世界に率先して平和の真諦を示し、メシヤ再臨の準備に従事してをるものでございます。今日は高砂島の聖師の御来着によつて、私は神界の御経綸の洪大無辺なるに感喜のあまり、ここに一言蕪辞を述べ御挨拶に代へました。どうか団員諸氏もこの聖師と共に空前絶後の大神業の完成に尽されむことを希望いたします』

物語64上-3-15 1923/07 山河草木卯 大相撲

『到底人間の分際として神様の御経綸は分りませぬが、私がルートバハーの教示により、おかげを頂いてをりますのは、将来の国家を永遠に統御すべき人種は決して常世の国人ではなからうと思ひます。二千六百年、亡国の民となつてをつた讃美郷の人々は、先達の大戦争によつて神から賜はつたパレスチナを回復し、今や旭日昇天の勢ひでございます。そしてその人種の信仰力、忍耐力ならびに霊覚力といふものは、到底世界に比ぶべきものがございませぬ。私は先申しました二大勢力よりも、も一つ奥に大勢力が潜み最後の世界を統一するものと神示によつて確信してをります。

物語66-1-5 1924/12 山河草木巳 愁雲退散

ジヤンク『只今バルガン城のトルカ王様よりの御勅使によれば、「印度の国を守るべき大黒主様の軍隊大足別将軍なるもの、トルマン国の城下の民を脅かし、民家を焼き婦女子を奪ひ人種を絶やし、なほ飽き足らず王城を攻め落とし、国王を放逐せむとする勢ひでございますれば、この際国民は男子は十八才より六十才以下のもの、一人も残らず国難に殉ずべし」との御厳命でございますれば、私も本年は五十八才、老耄たりとはいへ、まだ適齢がかかつてゐます。もはや娘の事は断念いたしました。華々しく軍に従ひ、国家のために屍を山野に曝す覚悟でございます』

物語入蒙-1-6 1925/08 出征の辞

 まづ第一に合衆国のごとき異人種憎悪に富んでゐる国土の外、メキシコや、南米や、南洋諸島を目的としてゐるやうですが、国家万年の長計からすれば、此等の遠隔の諸地方へ農耕移民を送つたばかりでは済みますまい。我接境の比隣には国家としての支那や露西亜があり、相互の関係は善にもあれ、悪にもあれ到底離るべからざるものがあるのであります。また我領土内には朝鮮あり、その将来については所謂識者と言はるる人々が不断に頭をなやましてゐるやうです。我皇国がその永遠存立を安全ならしめ、関係諸国と共に共存共栄の福利を楽しまむとすれば、是非とも之に添ふべき一大国策を樹立せなくてはなりませぬ。いはゆる帝国の満蒙政策は即ちこの目的精神から立てられたものであります。


人類愛善新聞 0 病気と病体

今の医者は、たとえば足にすこし大きなけがでもした場合、腐るといつてじきに切つたりなんかする。けれども、日本人はふつう腐らない。肉食する人種は肉が弱いから、どうしても腐りやすいが、菜食人種や米を食うている者は、そうやたらに腐るものではないのである。
 日本人の衛生は米菜魚食をとつて、なんでも働くにかぎるのだ。病気、病体ともにけしとんでしまう。

瑞祥新聞 0 樹下所見

しかし現代の世相を考えてみると、けつして蟷螂の雌のみにかぎつたことではない。人種人種の争い、国家と国家との争い、民族と民族との争い、団体と団体との争い、個人と個人との争い、そしてなかには共食いをする。最愛なるべき夫を食う妻君もあり、妻君を食う夫もあり、親は子を食い、子は親を食い、朋友を食う。利己心、自己愛のためには、蟷螂にもひとしき人間社会の惨状である。

著作集(2) 1904/05 道の栞第三

六四 日本が露西亜を討つは、人種問題の為めにあらず、遼東半島の讐討ちの如き小さい遺恨の為にあらず、サガレン島の意趣返しの為にあらず。是等は、露西亜を討つ目的の一部分なり。露西亜の建国の専制政治と押し奪り主義とを憎むが故なり。

神霊界 1917/03/01 大正維新に就て

国運発展の本は、国家家族制度に基因するのである。之を固持する時は必ず栄え、これに違反する時は必ず亡ぶのである。皇典垂示の国家家族制度の経綸は、実に国運発展の基本にして、世界万国之を仰ぎて亦与に真文明の恵沢に浴し、世界生民の福利を弘通するに至るのである。現代我国の経綸は、全然欧米模倣の制度である。現在の世界的大戦争は、彼等半獣人種に経済的根本革命の斧鉞を加へ給へる我皇祖御稜威の顕現であることは、開祖の二十五ケ年間の御筆先に因って証明する事が出来るのである。

神霊界 1918/11/15 古事記の事ども

高天原は中央アジアにあるとか、中央政府のこととか、アルメニヤなりといい、大和高市郡にありといい、あるいはギリシャにありといい、或いは高千穂なりといい、或いは常陸の国にありなどと称し、又は我皇祖は海外より渡来せしとか、野蛮人種なりとか、殊にはなはだしきは、天武天皇を非難し奉りて、天皇が己の非行を隠蔽せんが為に、殊更偽作し玉へるものなりとさへ称するものあり。これらの学者は不敬不忠の最たるものである。

神霊界 1919/11/01 随筆

 日本人は黄色人種だ。西洋人は白色人種だから文明の程度が高とか、黄色人種は劣等じやとか言つて居る外人が在るのみならず、日本人自からも斯く信じて居るものが在るが、冠履転倒も甚はだしと言はねばならぬ。日本は金色人種であり、洋人は銀色人種であり、印度人は銅色人種なり、亜弗利加人は鉄色人種である。是れを今日礦物学上の価値から言っても、銀よりも金の方が幾十倍尊貴なか知れぬではないか。亦た銅鉄よりは銀の方は余程価値が貴いのは勿論である。故に日本人は性質上から見ても、品格上から見ても、言霊の円満具足せる上から見ても、決して白色人に劣るもので無い。否な幾十倍も貴い人種である事を自覚して、各自天賦の人格を研き、世界各国の人民を治め導かねば成らぬ天職を、惟神的に具備して居る事を悟り、夢にだも外人を畏れては成らねのであるが、現代の日本人には指で数る程より斯の理を弁知したものが在りませぬ。故に神諭にも、斯の尊い日本神国の人民が、我の身分を忘れて他国人に化かされ、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めぬ、困つたもので在るぞよ、と出て居るのも、無理なき事と思ふのであります。

豊葦原中津国の瑞穂に稔る日本米を常食とする神国民は、他の肉食人種に優りて非常なる勇気を持つて居るものである。併し半搗米で無いと、精製した雪の如うな白米を常食にすると、却つて勇気が無くなるものである。米は大体陽性の植物であるから、楽天主義の元素であり、且つ清潔主義の元素である。又た日本の河海池沼等に産する魚類を常に食用する時は、智を養ふ効力がある。魚肉と雖も余り毎日食用すれば、却つて血液が濁り、精神状態に又肉体に変調を来たす恐れがあるから、魚肉は一週間に一度位ゐが、智力を養ふ点から見れば適当であります。又た魚肉を絶対に廃する時は、智力の減退を招く如うになるものであります。

瑞祥新聞 1925/10/01 新宗教を待つ

いつの世にも、政治上、経済上、社会上、各人種の間に闘争と焦慮と苦悶とは、地上いたるところに行なわれている。ことに宗教の間には、とくにはなはだしき闘争が継続されてきたようである。宗教の世界連合も人類の宗教的同盟も、その名のみは立派に存立するけれども、その実際の活動にいたつては容易に行なわれていない。
 往昔、宗教といえばたいへんな勢力で、国家のいつさいを挙げてその所説を実践せんとしたものだが、近代の宗教は、いずれも形骸ばかりがいたずらに存するのみで、なんの役にも立たないのみか、かえつて社会に害毒を流す傾向がたくさんにあるようだ。現今、既成宗教の力というものは、数千年の惰力によつて虫の息で動いているほか、なんらの新しき生命の萌芽も見いだすことはできない。そしてその惰力は人心を邪悪の方面に導くのみで、天国的信仰の萌芽の発達を妨害する有害物となつている。仏教、キリスト教その他の宗教もみな同一状態にあるごとく感ぜらるるのだ。
 ゆえにかかる既成宗教は一日も早く改善するか、さもなくばのこらず崩壊せしめ、宗教本来の生命をかがやかし、平和のため安心立命のため、既成宗教の殻をぬいだ新宗教を樹立せなければ、とうてい今日の乱れきつた人心を救うことはできないと思う。各宗教家が時代の推移に眼をさまし、キリスト教は仏教の意義と相通じ、仏教はキリスト教の教義と一致する点に気がつき、衆生済度の精神がたがいに相映写し、信真と愛善の本義をさとり、世界同胞の真意義が了解されなくては、もはや宗教はだめである。
 この真諦が宗教家に真に理解されたならば、ここにはじめて形相の上にも、闘争や、苦悶や嫉視が止んで、たがいにその精神の実現につとむることになつてくる。これさえできれば、今日の経済上、政治上、人種上の争闘も、ひつきよう無意義のものだということが分明になる。どうしてもここまで漕ぎつけねは、社会の真実の霊的、知的進歩は期せられない。社会いつさいの争闘は、すべて真の宗教によつてのみ解決せらるるものである。

神の国 1926/05 人類愛善の真義

一寸聞くと人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえて居ります。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になって居りますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変って来る。単に「人類」と丈謂えば世界一般の人類或は人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。併し日本の言霊の上から謂えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止るという事である。そうして「人」という宇は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになって居る。神というものは無形のものであるが、併し神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止まる処の肉体が必要であります。それで神の直接内流を受る処の予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、此の霊(神)の止まるのが人(ヒト)である。それは神の顕現・神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来て居る。人間というものは、善悪混淆した普通のものであるが、人というと神の止まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣うのである。

神の国 1926/09 日本人の肉体

日本人の肉体は、他の人種よりも組織が余程完全に出来上つて居るから、創をしてもすぐ肉が塞がつて仕舞ふものである。肉が刃物に吸ひつく位な力がある。だから指など切つて落しても、直拾つてくつつけて繃帯でもしておけば附着して仕舞ふが、西洋人は組織が弱いからさうは行かぬ、かういふ現象の起るのは食物の関係であつて肉食と菜食との相違から来るのである。かく日本人の肉体組織は完全であるから、腫物などが出来ても切開せずに癒るが、西洋人は切開して手当をせねば癒らぬのである。かういふ風に肉体が違ふのを知らずして、西洋人の真似をするのは間違つて居る。日本人の生肌断はいけないが、西洋人は止むを得ない。

神の国 1928/11 日本人目覚めよ

オイツケンがどういつた、マルクスがかういつたのと、個々の人々の抱いた思想について、深くこれを究める事は専門家の仕事であつて、総ての人間が専門家同様の研究を重ねんとするのは無理である。普通の吾々などは、各学者の学説を通観しただけで常識的の頭を作らねばならぬ。少なくとも一瞥しただけでその取捨選択を誤らないだけの常識を持つてをらねばならぬ。政治の経過に於ても政治的歴史からみてもたいていわかることで、西洋諸国には古来幾回かの人種の大移動を繰り返して来た。前の人種を後の人種が全滅する、優等人種が出てこれに代はり、転滅戦につぐに全滅戦をもつて今日に至つたので、残虐の継続が今日を築き上げたものとみられる。そして西洋思想は実にここから生まれてゐる。

月日記(2) 1929/02/05 第二回人類愛善会総会における出口総裁のお話

神の方から見ると世界は一視同仁である。一つの神さまがあって世界をお造りになり、各人種をお造りになつておつて、そうして同じように愛していられますが、人間は生活の上から国を樹て、あるいは郷里を大切にする。自分の国を人の国より大切にせなけれはならない。これは人間としてはやむをえない。日本人が日本の国を愛する、これは現実界としてあたりまえのことですが、神の眼から見れば得手勝手である。で、絶対の愛ではない。

神の国 1931/09 十ケ月暦

【いにたけりやお帰り、帰りのみちに油一升こぼして、白絽の犬と黒絽の犬がさつぱりねぶつた】と云ふのは、撤回すべきものは撤回したがよいが、油をこぼして、さつぱり改暦は明を失つて暗雲となつて仕舞ひ、白色人種も有色人種も即ち世界中の人が五里霧中に彷徨するやうな有様になると云ふ事である。【その犬どうした】と云ふのは、それから世界の人達がどうなつたかと云ふので、【太鼓の皮に張つた】と云ふのが、太鼓は月の形即ち三五十五夜の姿であつて、我大本の十ケ月暦、一ケ月三十五日案の出現となると云ふ意なのである。

人類愛善新聞 1931/11/03 歓びいさめ

心魂の汚れかつ曲がりたる者を清め直し、善に導くのは神の愛であります。すべての人を偏り見ることがありません。国の内外をとわず、人種の異同を論ぜず、ひとしく愛するのは神の愛であります。

神の国 1932/11 泥金の日本人

日本人種は元来人種中最上のものなのだが、今は嘘つきで根性が悪く、全く泥金になつてしまつてゐる。だが満洲事変のやうな国家的一大事があると、もともと表面が泥にぬられてゐるだけだから、直ぐ地金が出て大和魂に立ちかへり、慰問袋なども盛んに送るが、暫くすると又元の通りになつてしまふ。すつかり泥によごれきつてしまつてゐるからである。

昭和 1933/02 出口王仁三郎氏に挙国更生を聞く(2)

鴛海『アジアには非常に沢山の人種が色々に住んでゐる様に聞いてゐますが、それ等の人種と、どういふ風に聯絡すればいゝのでせうか』
出口氏『人種の聯合といふものは心配せんでもひとりでにやつて来る。こつちが強かつたらひとりでに出来る。先づ日本の国が更生することぢや。さうすれば光は東方よりだからナ──火をとぼしておけば虫でもなんでもそこへ飛んで来るやうなものだ。東方の光をもつと/\強くしておくと皆外国も寄つて来る。アジア丈ぢやない』

神聖 1935/11 優秀・日本

余は四十年来、日本人は世界第一の優秀民族であつて、今に必ず全世界に驚異的飛躍をなす時代が出て来るといふことを明言し、白色人種の立てた文明は当然行詰り、終に崩壊混乱の世を出現するものであることを力説したのである。
 所が奇妙なことには、日本人の中に余が日本人は世界第一の優秀民族であることを主張することを、極度に嫌悪し妨害した者が沢山あつたのである。
 政治家の中にもあつた、学者の中にもあつた、宗教家の中にもあつた。
 だが余は其の当時から斯る人間を、今日銀座辺を跳ね廻つて居るフラツパと同様、一種の思想的モダンボーイ位にしか考へて居なかつたのである。