ユダヤ問題(2)

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1.反・反ユダヤの本

こんな本があります。

『ユダヤ人陰謀論(日本の中の反ユダヤと親ユダヤ)』デイヴィッド・グッドマン/宮澤正典(講談社)

この本は、「日本の中の反ユダヤ主義」を扱ったもので、作者によると、

「反ユダヤ主義」という言葉は、ユダヤ人の国イスラエルの国策を批判する立場を指しているのではない。単なる外国人ぎらいを意味しているのでもない。たとえこれらの考え方が大いにまちがっていると考え、そういう思想は、ともすれば反ユダヤ主義の繁栄しうる状況を作りだし、補強しがちだと思うことがあっても、反ユダヤ主義と私は呼ばない。本書で「反ユダヤ主義」という言葉が使われるとき、それはユダヤ人が日本を滅ぼし、世界を滅亡させる陰謀を企てている。ユダヤ人は諸悪の根源であるとする空想・錯覚のことを指している。

この本は、たいへん学術的に書かれており、日本の反ユダヤ主義と親ユダヤ主義-日猶同祖論について概観するのによくできています。反ユダヤ的な思想を持っている人も一読すればよいでしょう。
そして、この本はたいへん頭のよい人が書かれたようで、それに対して反論しようとかすると、感情的な面でやるのはいいですが、論理的にはかなり難しいことになると思われます。だから、ここで取り上げるのは、反ユダヤ主義のもととなった、江戸末期の反キリスト教主義についてです。
なお、私はこの本に書かれている内容でこのWebページに引用したものに疑問を持っている立場です。そして、これに対していくつか疑問を呈しようと思っています。その際、この本は、大変学術的にかかれているので、要約、一部引用をすれば、内容を改ざんするような気がします。そこで、かなり長く引用することになると思いますので、申し訳ありません。


2.排外主義

以降、引用中の色つけは狭依彦。 

まず。日本のユダヤ観は、日本にはユダヤ人は住んでいなかったのだから、欧米のユダヤ観とは違うこと。そして、それらは、欧米の輸入もあったが、主に、日本人の外国人への態度から生れたと述べられています。

P.52 日本文化の「独自性」とユダヤ人観 

(歴史上では、日本では外国人は畏怖の目で見られるか、あるいは反対に軽蔑の目で見られるかのどちらかだった。つまり、外国人を異様なイメージで描くということだ) 

 二十世紀の日本におけるユダヤ人についての論議もこうしたパターンをうけついでいる。つまりおおかたの論議は日本人の特質を明らかにする目的をもち、ユダヤ人とは無関係なところで独善的に行われてきた。しかもユダヤ人の特質をさまざまな形で借用してもきた。
 日本の文化がユダヤ人のイメージをつくるのに作用した例として、第二次世界大戦中に桃太郎伝説がもちだされたことがあげられる。大きな桃からうまれた桃太郎は川を流れていって、子のない老夫婦にひろわれる。そしてあっという間に、驚くべき力と知恵をもつ武者に成長して、異界の「鬼ヶ島」から攻め入ろうとしていた侵略者どもをやっつけにでかけ、みごとに祖国を防衛した。鬼を征伐した桃太郎は宝物と、鬼たちの日本への永劫の忠誠の誓いをたずさえて、凱旋行進する。
 大戦中、戦争の支持者たちはひんぱんにあの戦争を桃太郎の戦いにたとえ、それは汚れなき日本と外国の侵略者との死戦であると説いた。ユダヤ人はそのなかでももっとも恐るべき、悪い鬼として描かれていた。清らかな日本と悪魔的なユダヤ人との空想の決闘が、委細をつくした言葉と絵で語られたものだ(ただし悪魔的ユダヤ人の代表として槍玉にあげられたのは、ユダヤ人ではないフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトだったのは、おかしなことだったが……)。

次に、江戸末期の日本の外国への態度が語られます。

P.53 日本精神の崩壊と排外主義

 日本人は外国人一般について、既成の観念をもっている。当然、ユダヤ人に対する態度も、そのような一般的な外国人観の影響をうけて形づくられてきたが、近代日本のユダヤ人観の形成に見られるのは、それだけではない。さらに特別の来歴がある。
 ヨーロッパの反ユダヤ主義が日本に伝わる以前に、排外主義の思想をもっていた者たちはすでに、異国の「邪教」の信徒たちが日本を滅ぼそうと世界規模の陰謀を企てている、という説をたてていた(「邪教」の信徒とは、本書の立場からいえば、「原型的ユダヤ人」である)。
 十九世紀初期、日本は二つの危機に直面する。その一つとしていつもあげられるのは、外からの挑戦、西洋がつきつけてきた挑戦である。
 一八四二年、イギリスは阿片戦争で中国を破り、不平等な条約を締結して、準植民地化した。戦力をもって「夷敵を撃退する」ことができると確信していた日本の指導層に、これは深刻な衝撃を与えた。そこで指導層は決断した。中国がうけた屈辱をさけるには、日本は西洋と同じ水準の軍事技術と産業技術を獲得することはもちろん、西洋の社会機構思想と様式をも採用せざるをえない、と。この決意が日本の近代化をうながし、推し進めた。
 しかし、西洋の脅威に深刻なおそれを感じる以前に、じつは日本はそれよりずっと根本的な危機に直面していた。それは日本人自身の精神の危機だった。十八世紀以降の歴史を推し進め、日本の西洋観の形成に影響を与えたのは、まさにこの危機だった。日本精神の崩壊がすぐそこにせまっている、という危機感である。
 排外主義はこの危機感に抗するための一つの自衛法だった。現実の、また想像の外国の脅威が大声でいいたてられ、それは日本人の精神と思想を刺激した。そして、十九世紀初頭に起こった、このような自衛のための排外主義が、その後にうまれた反外国主義思想の性格を決定することになった。反ユダヤ主義もその影響をうけておこったものである。
 十九世紀はじめに、このような精神の危機に見舞われた原因は、長いあいだ日本の精神世界を形成していた宗教の思想と慣習の衰弱だった。千年以上にわたって日本人の死生観を形づくってきた仏教が衰えはじめて、すでに二百年もたっていたことは、とりわけ見逃せない事実である。尊ばれてきた仏教はさかんにけなされるようになり、すっかり弱くなっていた。一八六〇年代には、五、六年のうちに仏教を禁止する勅命が下るだろうと予想していた僧もいた。一八七〇年代になると、徳川時代にあった寺の三分の二は幕府が黙認していた暴力によってすでに壊されていた。
 このような状況と時を同じくして、徳川時代には広く信奉された朱子学でさえ、人間の生の究極的な問いに答えるには合理的すぎると考えられるようになっていた。キリスト教が禁止されたのは一六三〇年代だったが、キリスト教に対する激しい攻撃も相変わらずやんではいなかった。そして天皇と日本固有の神神を崇める神道だけが勢いをもちはじめていた。神道を唱道したのは、他の宗教はすべて異国から入ってきた、日本人には害になる信仰である、と非難した国粋主義者たちである。
 日本人が精神の危機に見舞われている兆しはいたるところに見られた。民衆は混乱していた。
 十九世紀のはじめには、黒住教、金光教、天理教などの、救済や病の療法をうたう新興宗教がいくつもうまれる。そればかりか、明らかに宗教的な性格をもつ集団暴動がしばしば起こり、それは一八六七年の明治維新前の十年間には、大衆暴動に変化した。一八六六年だけを見ても、少なくとも百六件の農民一揆が起こっている。多くが「世直し」を求めるユートピア的な発想をもっていた。
 それまで守られるべきとされていた道徳を否定する立場がはびこり、それは女装、病的な興奮や恍惚状態をともなう行動などに、表現の道を見出す。このような変化は、世は末である、従来の道徳にはもうなんの意味もない、破局はすぐそこまできている、と広く信じられていることを示していた。

この論でゆくと、日本の明治維新を推し進めるための思想となった攘夷思想は、江戸時代の日本精神への崩壊への危機感-それに対処するものとして排外主義を持ち出した、ということでしょうか。これは、今、一般的に学校の歴史で教えられていることにも一致していると思います。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。外国の侵略-特にアヘン戦争を知り、日本が同じように侵略される、と考えたところから攘夷思想は始まったのではないでしょうか。
私は良くは分りませんが、少なくとも、吉田松蔭を読む限り、アジアが侵略されている状況をしっかり把握していたように思うのですが。

また、『異国の「邪教」の信徒たち』と書かれていますが、アジアを侵略し、日本を侵略しようとしている人たちはキリスト教徒ではなかったですか。そして、キリスト教が、それらの政治的侵略の露はらいをした歴史的事実はなかったでしょうか。
だから、このように書くのではなく、
異国の者どもが日本を滅ぼそうと世界規模の陰謀を企てている。その中で、キリスト教も協力している
と書くべきではないでしょうか。

また、「神道を唱道したのは、他の宗教はすべて異国から入ってきた、日本人には害になる信仰である、と非難した国粋主義者たちである」と書かれていますが、唱導したのはそうでも、ほとんどの日本人(日本に住んでいる人々)はそれを信じていたはずだから、そうなると、その時点では、狭い意味での国粋主義者という用語を使う必要はないと思います。昭和時代について言うならこの言葉は使うべきかも知れませんが。


3.会沢正志斎

次に会沢正志斎が語られます。
私が、読んだ本のなかでは、会沢について述べられている中でも詳しいものです。

P.55 反ユダヤ主義の土台をつくった会沢正志斎

 知識人はこのような精神的な危機と、それが孕む危険をはっきり見てとった。たとえば水戸藩士で儒学者だった会沢正志斎(一七八二~一八六三)は『新論』(一八二五年)で、精神の虚無を「心、外に放たれて、内に主なければなり」と説明し、それは思想の滅亡を招きやすい状態である、ゆえに最大の弱点である、とのべている。
 一八四〇年の阿片戦争をさかのぼること十五年、会沢は当時はまだ、日本には外国からの軍事的な脅威に立ちむかう力が十分あると信じていたから、かれが深刻に憂えていたのは西洋の軍事や経済の脅威ではなく、日本人の思想の堕落と文化的服従の危険である。

(中略) 国家神道と「国体」思想に対する会沢の影響
 
 会沢はキリスト教を「妖教」と呼び、恐れていた。その恐怖感に立ちむかうために、かれはいろいろと考えた。近代にはさまざまな形の排外主義が見られたが、会沢が到達した思想は、日本型の反ユダヤ主義もふくめて、排外主義の基本的な思考様式を確立する過程でじつに重要な役割をはたした。
 会沢の背景についてはほとんど知られていない。生まれの身分は高くはなく、父の代ではじめて侍になった(遠い先祖の会沢総兵衛は藩主の餌差だった)。会沢の文体は緊迫した警告調のものだが、それは身分の低いことを克服するために使われたのかもしれない。徳川時代のきびしい身分制度の社会では、かれは幕府の政策決定に直接加わることはできなかった。外国の脅威を声高に警告することで、権力者の注意をひこうとしたのかもしれない。
 会沢は、西洋が日本とちがうのは、信仰が単一であることだ、と信じていた。フランシスコ・ザビエルが一五四九年、日本にキリスト教を伝えて以来、キリスト教に対する攻撃がやむことはなかったから、会沢はキリスト教のことを知っていた。かれは考えた。だれもがキリスト教を信仰しているから、西洋の力は絶大である、そして西洋はキリスト教を外国の人民を滅ぼす手段にもしている。そこで「虜は妖教・詭術を用ひて、以て人の民を誘ふ」、つまり西洋人は邪な宗教と悪辣な手段を使って、他国の人びとを誘惑している、と警告したのである。「万一、彼をして我が民を引きて、以てその勢を援けしめば、すなわち彼の寡と我の衆と、またいづくんぞ恃むべけんや」、すなわち西洋人が日本の民衆を説得することに成功したら、西洋に支配される人口は膨大な数になるぞ、というわけだった。

(中略)

 会沢はさらに考えた。日本が他のアジアの諸国があった非運を、さいわいにもそれまで免れてきたのは、ひとえに「明君賢佐、其奸ヲ洞察シ、誅鋤夷滅」することのできた「徳沢」によっていた。天皇が賢明に西洋人の悪だくみを見破って、野蛮人の敵を滅ぼしてきたおかげである、というわけだ。しかしいまや日本もついにねらわれることになり、脅威は危急をつげている。
 「妖教ヲ假リテ以テ諸国ヲ巓滅スル、其宇内ヲ呑ンデ之ヲ尽サント欲スル、日タルコト久シ」
 つまり長いこと、邪教をもって他国を服従させ、最後には世界制覇を企ててきた西洋の蛮人どもは、いよいよ日本のすぐ近くに迫っているのである。
 このように、キリスト教こそが西洋の脅威の骨子である、というところから、会沢の解釈は出発していた。日本の思想が滅ぼされる恐れについて、あるいは交易は西洋の日本征服の遠大な計画の最初の一歩にすぎないという確信について、きわめて率直にのべているところを要約すると次のようである。
「キリスト教は邪で、浅薄な宗教で、語るに値しない。しかし基本の教義は単純で、よく工夫されているから、愚かな民衆はかんたんに騙されてしまう。天を欺くことがすなわち天を敬うことである、などという詭弁を弄するほどである。
 かれらが他国を征服するときの手はつねに同じで、まず貿易をして、その国の地理と軍備について調べ、弱いと判断したら、軍隊を送りこんで侵略する。強いと判断したら、キリスト教を広める。キリスト教を信じるようになった者たちは西洋の野蛮人を大手を広げて迎えるからである。そうなったら、もうおしまいだ。野蛮人どもはかれらの神の名において略奪をはたらく。これがかれらの常套手段である」
 会沢はこのようにキリスト教を恐れるあまり、西洋のものはすべて拒絶する立場を擁護することになった。西洋のものにかぶれる者は「処スルニ造言乱民ノ刑ヲ以テ」すべきである。つまり、西洋の品々はすべてただちに焼きすて、輸入品の販売や使用は厳重に禁止せよ、犬や羊をいやしむごとく、外国人をいやしめ。イノシシやオオカミをきらうごとく、外国人をきらえ。
 しかし会沢は排外主義者であると同時に、現実主義者でもあった。外国人を直接訊問する機会をもった、数少ない一人だったから、当時としては世界情勢についてずいぶん知識をもっていた。だから、西洋の力は強大で、攻めてこられたら、そうかんたんには追い払えないとわかったとき、かれは立場をかえて開国主義者になる。日本が滅ぼされることを恐れながらも、西洋の学問をとりいれて、日本の利になるよう利用すべきである、と主張するようになったのである。
 しかし実際に西洋の技術がとりいれられると、会沢のいだいていた不安が一部現実になったのも事実である。西洋の技術をとりいれることはとりもなおさず、やはり西洋の思想や価値観を一緒にうけいれることを意味したからである。

ここでは、作者は会沢の思想を批判していますが、茶色の部分は攘夷思想の持ち主には共通の認識だと思いますが、これは本当に間違いだったのだろうか。
自分のPoorな歴史認識からは学術的に反論できません。また、この時期の帝国主義のアジア・アフリカなどの侵略を記した本もあまりないのでなんとも言えませんが、キリスト教がこのように利用されたことはなかったのだろうか?あったような気がしてなりません。

また、会沢の身分のことを言っていますが、別に身分のことを言う必然性はないのではないでしょうか。
作者は身分の高いことが良いと考え、会沢を貶めようとしているとしか読めません。
だから、この頁では、長い引用をする必要があるのです。また、いつか、ここで書かれていることを検証できたらよいと思います。

ここで、王仁三郎も霊界物語で会沢について語っていますのであげてみましょう。

物語47-0-11923/01 舎身活躍戌 序

「太陽は、日本の太陽だ、世界は、日本の太陽のお蔭で生きてゐるのだ、それゆゑ、日本をヒノモトといふのだ。世界を人体にたとへてみると、日本は頭にある、小さいけれども、身体全部を支配する脳髄を持つてゐる。
 欧羅巴は手足に当る、それだから、汽車、汽船その他便利な機械を発明して、足の役目を勤め、また種々の文明利器を発明して、手の役目を勤める。また亜米利加は胴に当るから、大きいことは大きいが馬鹿である」
といふやうなことを真面目に書いてあつた。水戸の会沢伯民といふ儒者の作つた書物新論にかぶれた連中は、まだわが国民の中には多少あるらしい。今日はモハヤこんなことをいつても通用しない。しかし日清、日露の両戦役に勝利を得てから、日本人はますます自負高慢となり、近来の日本人の思想感情の中には、この新論に類した誇大妄想狂が少なくないと思ふ。ことに神を信仰する人々のなかには、著しくこの思想と感情が擡頭してゐるやうに思はれる。西洋は物質文明の国、日本は精神文明の国である、と識者の間にはしばしば称へられてゐるが、その精神文明といへども、今日のところでは、西洋に劣ること数等下位にありといつてもよい。物質文明には、泰西人に先鞭をつけられ、いままた精神文明においても、かれ泰西人の後へに瞠若たるの浅間しい有様である。

 日本は霊主体従と謂つて、精神文明すなはち神霊の研究には、他に優れてゐなければならないはずだ。研究すべき材料も比較的豊富に伝はつてゐるのだ。しかるに、今日のわが国の学界の趨勢をみれば、実に惨澹たるものではないか。また日本は武力については、ことに自負高慢の度が強く、この武力をもつてすれば、何事でも意のごとく解決し得らるるものと思つてゐるものも少なくないやうだ。大本の筆先にも「日本の人民は、支那の戦争にも勝ち、また今度の露国との戦争にも勝ちたと申して、大変に慢心をいたしてをるが、いつまでもそんなわけにはゆかぬぞよ」と示されてある。油断をしてゐると、どんな事になるか分つたものでない。頑迷固陋な国粋論者は、何時までも愛国心の誤解をして、かへつて我が国を滅亡に向かはしむるやうな言論を吹きたて、独りよがりの態度を持してゐるのは、実に国家のために悲しむべきことである。この物語もまた決して日本のみに偏重したことは述べてない。世界一統的に神示のままに記述してあるのだ。まだ新論的迷夢の醒めない人々は、この物語を読んで、不快に感ずる人もあるであらうが、しかし真理は石の如く鉄のごとく、感情や意志をもつて枉ぐることはできない。神道も仏教も耶教も、時代と地方との関係上、表面別々の感があるやうだが、その最奥をきはむれば、同一の神様の教であることを覚り得らるるのである。ゆゑに神の道を研究する人は、広き清き偏頗なき心をもつて、真面目にかかつていただきたいものであります。
大正十二年一月八日


4.現代の陰謀論につながるもの

この後、同書では、排外主義者の例として、京都知恩院の七十五代目大教正鵜飼徹定(一八一四~九一)の反キリスト教主義と、徳川時代の大橋訥庵(一八一六~六二)があげられています。
あまりに長い引用になるので引用しませんが、「愚かな」排外主義の例としてとりあげられています。

P.61 十九世紀にはすでにあった陰謀論

(前略)

 このように、大橋の著述のある一節を見てみるだけで、徳川時代の反キリスト教主義論議と二十世紀の反ユダヤ主義が類似していることがはっきりする。原文を口語になおし、大橋が「妖教」といったところを[ユダヤ教]に、「西洋諸戎ノ者」を[ユダヤ人]におきかえてみよう。するとこれは古典的ともいえる、激しい反ユダヤ主義の主張そのものになる。
 大橋いわく。

 さて貿易を振興する[ユダヤ人]の意図は強く憎むべきであるし、恐れるべきでもある。
 前にもいったとおり、かれらの意図はかれらが信じる[ユダヤ教]にその基礎がある。[ユダヤ人]の根本の目的は万国を併合して、国体も制度も宗教も統一しようというのである。この目的を達成するために、[ユダヤ人]はまず生活のあらゆる面に入りこんできて、人びとの心を支配する。
 まず、「万国の人民は同じ天をいだき、同じ地を歩いている兄弟である。たがいに親切にしあうことこそ、神の意志である」などといっては、無知の者に影響を与え、耳目を喜ばせるためにはさらに巧妙な手を使う。したがう者たちには宝貨などを与えるから、無知蒙昧な大衆だけでなく、良識ある者までもが闇にひきこまれてしまう。尊敬の念をいだかせるのは、かれらの悪だくみの一端である。
 (中略)かくして年月がたつうちに、人びとの心をとらえ、よってきた大衆を改宗させる。日用必需品など、くだらない物を与え、その国の精髄を食いつくして丶比類ない国力を弱める。あげく、その国がもっとも制しやすいと見える時期が到来すれば、あっという間に、征服してしまうのである。

 このようにして見ると、二十世紀になって、ユダヤ人が世界制覇の陰謀を企て実行に移しているという、いわゆる「猶太禍」が説かれるようになった事情も理解できる。キリスト教という語をユダヤ教におきかえさえすれば、「猶太禍」論は、キリスト教が禍をもたらすという徳川時代の説と、なんらかわらないことがわかる。
 大橋は五つの点を強調していたが、そのすべてが一九二〇年代に、こんどは反ユダヤ主義の衣をまとつて再登場した。
(1)日本は異国の、邪教の脅威にさらされている。
(2)この邪教は世界制覇の陰謀を、裏で操っている。
(3)この邪教の教えは世界制覇の陰謀に、理論的な裏づけを与えているだけでなく、日本文化のあらゆる面において、精神的衰亡をはかる手段でもある。
(4)貿易と財政が、陰謀のおもな方便である。
(5)陰謀の究極の目的は、日本の国の独自性を破壊し、邪教の信徒たちが操る単一の世界秩序をうちたてることである。
 このように、かのもっとも悪名高い反ユダヤ主義の偽書、『シオン賢者の議定書』が日本に紹介される百年も前に、日本人はすでに日本の滅亡を企てる世界規模の陰謀があると思い、それについて、自前の理論をもっていたのである。

ここで、一番気になることは、『大橋が「妖教」といったところを[ユダヤ教]に、「西洋諸戎ノ者」を[ユダヤ人]におきかえてみよう。』というところです。
時代背景が違う場面で、そんなことをする必然性があるのでしょうか?
確かに、反ユダヤ主義には問題がある-と私も思います。
しかし、江戸末期の反ユダヤではなかった場面に、「反ユダヤ」を当てはめようとしている意図は。
私は、私達の先人の江戸時代末期の大変動に対する認識、行動を矮小化しようとしているようにしか感じられません。


5.結論

たぶん、この本に書かれていることは私達の教えられた(革新的)歴史認識と一致していると思います。
「学問的」には正しいのでしょう。

しかし、それは本当に正しいものだろうか?
なぜ、私達はペリーさんに親近感を持っているのだろうか。
維新で死んでいった人々は、みんな国粋主義者で、そんなに狭い排外意識しか持っていなかったのだろうか。

維新史を学び直さなければならないと、教えられた本でした。

第1.1版(一部修正)2015/01/02



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