王仁三郎の死刑廃止論

1.王仁三郎の考え

2.人に審判の権利はない

3.肉は殺しても魂魄は滅ぼせぬ

4.刑法改正問題

5.霊界物語では


1.王仁三郎の考え

王仁三郎は人が人を裁くことはできないと言っています。

人に審判の権利はない

人生には絶対的の善もなければ、また絶対的の悪もない。善悪の真の区別は、人間はおろか、神といえども、これを正確に判別したまうことはできない。善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみその権限を有したまい、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対にない。

次の文章では、魂は生き続けなので、死んだとしても、再度生まれ変わることを言っています。

王仁三郎の思想では、人間は一度死んだら中有界へ行き、そこで天国、地獄、現界に再生することが決まります。それで、同じ魂が再生すれば同じことを繰り返すわけです。

肉は殺しても魂魄は滅ぼせぬ

人の肉体は滅ぼすことができるが、魂は滅ぼすことができない。悪者でも、善者でも、その人を殺して肉体を滅ぼしても、魂は別の人に憑依をしてより以上の働きをする。悪者の場合は、絶対的に改心させなければならない

王仁三郎は次のように死刑反対の論を展開しています。

殺した人ばかりの罪とはいえない。それは人を殺したからというて死刑に処すると、その人の霊がまた人にかかって人を殺さしめ、死刑になるような事をしでかすので、こういうことを繰りかえしておってはしがたがない。元来刑法の目的は遷善改悟にあるので、復讐酌であってはならない。殺してしまっては改善の余地がなくなるではないか。人を殺したから殺してしまうというのは、復讐的で、愛善の精神に背反するもので、じつによろしくないと思う。

2.人に審判の権利はない

例えば、対抗している2つの勢力があるとします。そこで戦争が起こった。勢力Aに対しては、勢力Bを殲滅することは正義であるが、勢力Bではその反対となります。つまり、善悪を決める場合、基準があり、その基準というのは、ある勢力に都合のよいものにしかならないということです。

人に審判の権利はない(瑞祥新聞 大正14年5月)

 智慧暗く、力弱き人間は、どうしても偉大なる神の救いを求めねば、とうてい自力もつて、わが身の犯せる身魂の罪をつぐなうことは不可能である。ゆえに人はただ神を信じ、神にしたがい、なるべく善を行ない悪をしりぞけ、もって天地経綸の司宰者たるべき本分をつくさねばならぬのである。西哲の言にいう、「神はみずから助くるものを助く」と。しかり、されどそは絶対のものにあらず。人間たるもの、とうてい永遠に身魂の幸福を生みだすことは不可能である。人は一つの善事をなさんとすれば、かならずやそれに倍するの悪事を、しらずしらずなしつつあるものである。ゆえに人生には、絶対的の善もなければ、また絶対的の悪もない。善中悪あり、悪中善あり、水中火あり、火中水あり、陰中陽あり、陽中陰あり、陰陽善悪相混じ美醜明暗相交じって、宇宙のいつさいは完成するものである。ゆえにある一派の宗教の唱うるごとき、善悪の真の区別は、人間はおろか、神といえども、これを正確に判別したまうことはできないのである。

 いかんとなれば、神は万物を造りたまうに際し、霊力体の三善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有したまい、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対になきものである。大元をもってこれを創造したまう。霊とは善にして体とは悪なり。しかして霊体より発生する力はこれ善悪混交なり。これを宇宙の力といい、または神力と称し、神の威徳という。ゆえに善悪不二にして、美醜一如たるは宇宙の真相である。重くにごれるものは地となり、軽く清きものは天となる。しかるに大空のみにては、いっさいの万物発育するの場所なく、また大地のみにては、清新の空気を吸収することあたわず、天地合体、陰陽相和して、宇宙いっさいは永遠に保持さるるのである。また善悪は時、所、位によりて、善も悪となり、悪もまた善となることがある。じつに善悪の標準は、複雑にして、容易に人心小智の判別すべきかぎりではない。ゆえに善悪の審判は、宇宙の大元霊たる大神のみ、その権限を有したまい、吾人はすべての善悪を審判するの資格は絶対になきものである。

 みだりに人を審判(さば)くは、大神の職権を侵すものにして、僭越のかぎりといわねばならぬ。ただただ人はわが身の悪を改め、善に遷ることのみを考え、けっして他人の裁きをなすベき資格はなきものなることを考えねばならぬのである。われを愛するもの、かならずしも善人にあらず、われを苦しむるもの、かならずしも悪人ならずとせば、ただただ吾人は、善悪愛憎のほかに超然として、惟神の道を遵奉するよりほかはないのである。


3.肉は殺しても魂魄は滅ぼせぬ

魂が新たな人々に憑依して、新たなテロリストを生むというところでしょうか。
 
肉は殺しても魂魄は滅ぼせぬ(人類愛善新聞 昭和10年9月3日)

 不安なる内外の世相に当面して、余はひろく人々に告げておきたいことがある。それは人の肉体は滅ばすことはできるが、その魂をも殺すことはできないということである。もちろんこれはだれでも口にする、すこぶる平凡なことであるが、ほんとうにその意義を理解し、正しくその精神にもとづいて行動する人が、いまの世にはまことにすくないようである。

 たとえば、国家社会の実状を憂うる者が、世を茶毒すると信ずる元兇を殺害するとしても、またその反対に、真に祖国のために奮闘する士が、氏衆の誤解のために、あるいは時の勢力によってことごとく斬伐されるとしても、その魂は間もなく新たなる人々に憑依して、前以上の力を発揮するものである、ということに気がつかねばならない。それは七生報国の忠臣の魂が生きとおしであると同様に、逆臣の魂といえども、人間の力でこれを殺滅することはできないものである。

 ゆえに皇道運動はあくまで思想の善導であり、魂を悔い改めしめる運動であらねばならない。かつて水戸公が、孝の道を知らない罪人に孝道を教うること三年、道を悟らしめて、しかるのちに刑を行なったというが、まことに立派なことである。ゆえに共産主義者を手あたりしだいに獄に投じ、また重刑に処したとしても、それによってその思想を永遠にほうむりさることは絶対にできないものである。刑罰をもって社会善導の第一義とするのは、まちがった考えである。

 現在の経済組織にもいくたの矛盾があるであろう。政治機構にもすくなからぬ誤謬があるであろう。だがそれらの指導的立場にある人物を殺害することによって、あやまれる経済組織、政治機構を変改することができると思うのは、たいへんなまちがいである。

 ながい間わが国は、日本固有の大精神を忘却した欧米流の教育がほどこされてきた。ゆえにかかる指導精神にはぐくまれて、その経済組織、政治機構の下に自已の名をあげ栄えをえようと焦慮している、いわゆる思想的予備軍が国内に充満しているのである。もし今日のわが国の各般にわたる組織機構の欠陥を是正しようとするのならば、そのよってたつ思想の本源を糺弾して、正道に内かわしめなくてはだめであって、一部の革命思想家の考えているような一人一殺主義は、かえって新進気鋭の後備軍を前線にぞくぞくと誘導して、味方を不利におちいらしむるにすぎないものであることに気づかねばならないのである。

 それから今一つ注意すべきことは、たとえ巷間の流説を妄信して兇暴をあえてした者にたいしても、当局は水戸公の精神をもってこれにあたるべきものであって、本人の魂を言向け和すことをなさず、いささかでも政略を混じてこれを処断することがあつてはならないものである。祖国の非常時局に際して、いわゆる急進派といわるる人たちも、また穏健派と唱うる人々も、共に国を思う赤誠にかわりがないのならば、よくよくこの点に留息して、霊主体従の大精神に基脚して皇道維新に邁進すべきものであることを、余は強調するのである。


4.刑法改正問題

これは、現代の刑法改正問題ではなく、昭和5年時点での刑法改正についてです。

ここで、「人手にかかって殺されるというのも、多少の不注意からくるので、たらぬところがあるからである。」といっています。現代でこの言葉を言えば大問題でしょう。今の無差別殺人に対して、この言葉を述べたなら、これはだめです。私は、現代にこの文を書いたなら、王仁三郎はこんな風には書かないことを信じます。

王仁三郎がこれを書いた時代には、因果関係のある殺人がほとんどだったのではないでしょうか。

戦争による殺人は殺人と認めていなかったし、5.15事件のようなテロなどは殺された政治家にも因果関係があったと考えていたのでしょうか。

刑法改正問題(神の国 昭和5年2月)

有婦姦処罰、死刑廃止等の問題が、きたる議会に提出せられんとするようだが、それはけつこうなことである。女子だけに有夫姦の制裁があるのはかわいそうである。これは男女を通じて同じであるべきであると思う。死刑を廃止することもしごくけっこうなことで、悪いことをしても、死刑にするというのはあまりにかわいそうなことである。人手にかかって殺されるというのも、多少の不注意からくるので、たらぬところがあるからである。殺した人ばかりの罪とはいえない。それは人を殺したからというて死刑に処すると、その人の霊がまた人にかかって人を殺さしめ、死刑になるような事をしでかすので、こういうことを繰りかえしておってはしがたがない。元来刑法の目的は遷善改悟にあるので、復讐酌であってはならない。殺してしまっては改善の余地がなくなるではないか。人を殺したから殺してしまうというのは、復讐的で、愛善の精神に背反するもので、じつによろしくないと思う。


5.霊界物語では

霊界物語では、死刑自体に触れているところはありません。

物語54-4-16 1923/02 真善美愛巳 百円

『医者は人を殺しても、別に法律には触れませぬよ。それが医者の特権です。普通の人間が人を殺せば、たちまち死刑の処分を受けねばなりますまい。医者は堕胎をしようが手足を切らうが、堕胎罪にもならず傷害罪にもならず、一種の特権階級だから、お前等に大罪人呼ばはりをされるはずがない、かまうて下さるな。ヘン、お前は顔が赤い、チツと逆上せてござるな。チツと古いけれどセメンエンでも上げませうか。陳皮に茯苓、ケンチアナ末にアマ仁油、重曹に牡蠣、何なら一服召し上がつたらどうだい』

次の場面は、エルサレムの風景描写の一部です。

物語64下-1-1 1925/08 山河草木卯 復活祭

 十日は聖の金曜であつて、イエスが十字架に上り死刑に処せられた日である。米国あたりでは午後一時から三時まで、即ち其刑の執行時間を、皆店を閉ぢ商売を休む習慣の所もあると云ふことである。

次の場面は、革命運動にも擬せられる首陀向上運動の指導者レールに対して、妻が離縁状を渡す場面です。レールは、国の改革に努めて、国の王からも信頼され、この離縁状によって、晴れて国を思っている女性軍人と結婚できるようになります。

物語70-3-21 1925/08 山河草木酉 三婚

前文御免……「何ぢや失敬な、挨拶もせずに前文御免とけつかるわい。夫を馬鹿にしてけつかる」……エー、妾こと不思議の御縁によりまして、貴方様の妻となり子までなしたる間柄でございますれども、貴方は万民の忌み嫌ふ向上運動だとか、免囚運動だとか反逆人のやうな行ひを遊ばすので、兄弟親類近所合壁より排斥し、妻たる私までが非常な圧迫を受けますのみならず、日夜番僧どもの凄い目で睨めつけられ、かよわき女の身として到底耐へ切れませぬ。しかるに貴方は今度、畏れ多くも王妃の御輿に対し不隠の御行動を遊ばし、重大事件を引き起し、囚はれ人とおなり遊ばしたのも、全く天地の神に見離され給ひしことと推察いたします。かかる重大事件を犯せし上は、もはや貴方は死刑は免れますまい。それゆゑ今の中にどうか妻子が可愛いと思召さるるなら、私を離縁して下さるであらうと、堅く堅く信じます。何事も因縁因果の廻り合ひとお締め下さいませ。そして此の子は幸ひに貴方が出獄されるやうな事がありましたらお返しいたします。また御不幸にして極刑におなり遊ばすやうな事があれば、是非なく貴方の忘れ形見として育てますから、御安心下さいませ。たとへ無罪になつてお帰り遊ばすとも、私は断じて貴方と夫婦となる事はいたしませぬ。よつて兄弟親族と相談の上離縁状を差上げますから、宿世の因縁とお締め下さいませ。
      妻マサ子より
                             レール殿



第1版 2004/07/14
第1.1版(一部修正)2015/01/02

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