歴史的人物に対する評価

1.明智光秀

2.足利尊氏

3.西郷隆盛


1.明智光秀

昔の日本の歴史では、道鏡、足利尊氏、明智光秀を三大逆賊などと呼んで悪人扱いしていました。しかし、王仁三郎はこれに対して、別の意見を持っていました。

また、王仁三郎師は、若い頃貧乏の中で、明智光秀の旧城を訪れては、「この城を将来手に入れる」と誓ったといいます。

現代では、明智を評価する人はありますが、80年前、大正時代にこの意見を言った。これは、思い切った意見ではないかと思います。

下記の文章では、光秀の時代は弱肉強食の時代で、他の者も同じようなことをしている。一人、光秀だけが大悪人視されるのは、徳川幕府の体制を守るためだったと言っています。王仁三郎が、亀岡の明智光秀の旧城を手に入れて、天恩郷を建てたときの感想です。

神霊界 1920/08/01 皇道大意

 私は序ながら明智光秀に就て、一言述べて見たいと思ひます。光秀が日向守と称し姓を惟任と改められたのは、織田信長公に仕へてから後のことであります。光秀の祖先を調べて見ると、清和源氏の末裔なる、六孫王経基の子多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫であつて、伊賀守光基と云ふ人があつた。其子の光衡が文治年中、源頼朝より美濃の地を賜ひ、土岐美濃守と称した。その光衡が五世の孫、伯者守頼清其の二子に頼兼なる人があつて、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛の尉光継で光秀の祖父に相当り、光秀は光綱の一子であります。この光綱と云ふのは美濃国可児郡明智の城主で、明智下野守と称へたが、早世したので光秀が尚幼弱なために、光綱の弟兵庫助光康を準養子として、明智を相続せしめたのであります。光康は後に宗宿入道と称した人で、有名な明智左馬之助光春は此人の子であります。故に光秀は其の叔父なる光康に養はれて成人したもので、光康は実父にも優る恩人である。光秀の母徳明院は光綱の死後、間もなく此世を去り(濃州明智蓮明寺に葬る)遺孤として可憐なる光秀は、用意周到なる光康の訓養に依り、幼にして聡明一を聞きて十を知るの明があつたといふ。

 光秀は其叔父の光康と共に、明智の城中に於て死せむとするを、光康が強つての乞ひに涙を呑んで、光康の息子光春及び甥の光忠を拉して諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕へ、後織田氏に聘せられて、幾多の戦場に軍功を積現し、左右に策を献じ、信長をして天下に覇たらしめ、自分は又江州丹波両国五十四万石の大諸侯に列し、君臣の間漆の如く密にして、一にも明智二にも光秀と寵遇厚く、信長の甥の信澄に光秀の四女を嬰らしめたる程であつた。一朝にして武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共に稍驕慢の度を加へ、僅少微細のことゝ雖も立腹して功臣光秀を打擲し、家康の饗応にも再び之を罵倒し侮辱を与へ、終にはその近習森蘭丸をして、鉄扇にて其の面を破らしめ、近江丹波五十四万石の領地を召し上げて、以て中国に放たんとするに至つた。忍びに忍び耐へに耐へたる勘忍袋の緒が断れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起るの止むを得ざるに立到らしめたるも、此間深き理由のあらねばならぬ事であらうと思はれる。後世挙つて光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵る、果して是とすべきものであらうか。
 長岡兵部大輔藤孝は光秀女婿の父である。『叢蘭欲[#レ]茂秋風破[#レ]之、王者欲[#レ]明讒臣闇[#レ]之』と痛歎し、光秀もまた、
  心なき人は何とも云はゝ云へ
          身をも惜まじ名をも惜まじ
と、慨したのであつた。光秀が大義名分を能く明めながら、敢て主君を弑するの暴挙に出づ。已むを得ざる事ありとするも、実に惜むベぎ事である。然し乍ら元亀天正の交は恐れ多くも、至尊万乗の御身を以て、武門の徒に圧せられ給ひ、天下は強者の権に属し、所謂強食弱肉の世の中の実情であつて、九州に島津、四国に長曽我部、毛利は山陰山陽両道に蟠居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達あり、東国には北条等の豪雄があつて、各自に其の領地を固め、織田徳川相合し相和して、近畿並に中国を圧す。群雄割拠して権謀術数至らざるなく陶晴賢は其主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝は其骨肉を殺し、斎藤竜興は父の義竜を討ち、其他之に類する非行逆行数ふるに遑なき時代に際し、独り光秀の此挙あるを難ずるの大にして且つ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりと云ふ事と、戦場が王城の地にして其軍容花々しく、以て人口に会炙することの速なると、加ふるに世は徳川の天下に移り、世襲制度を変ぜしめたる上は、光秀を其侭に付して置く事は、政策上尤も不利益であつたことゝ第二第三の光秀出現せむには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏義なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して批難の声が特に甚しいのではないかとも思はるゝのであります。
 承久の昔、後鳥羽院より関東の軍に向つて、院宣を降し玉ひし当時に於て、関東九万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人本間孫四郎只一人より無かつたと云ふ。応仁以降海内麻の如く乱れ、文教のことは纔に僧侶の輩に依りて、支へられしに過ぎなかつた。況んや元亀天正の戦国時代、将軍義照亡びて、世に武門を主宰すベき人物皆無の時に当り、文学に志し君臣父子の大義名分に通ずるの武士、幾人か在つたであらう。
  神嶋鎮祠雅興催  篇舟棹処上[#二]瑶台[#一]
  蓬瀛休[#二]向[#レ]外尋去[#一]  万里雲遥浪作[#レ]堆
 是れ光秀が雄島に参詣されし時の詩作である。臣下を教ふるに当つては、常に大義を説き、主君が築城の地を問ふに対し、答ふるに地の利にあらずして、其の心にありといふが如き、至聖至直の光秀にして、本能寺暴挙のありしは、深き/\免るべからざる事情の存せしは勿論であるが、然し乍ら主殺しの悪評を世に求むるに至りしは、光秀の為に反がへすも残念な事であります。我々は大にその内容を攻究せずして、猥りに世評のみに傾聴すべきものでないと思ふ。独り光秀が行動の是非を沙汰する斗りでなく、又時代観の相違を知るの必要があらうと思ひます。
 又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食む如き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜の陣羽織を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を為せし美談のみか、臣斎藤内蔵介の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石と仰がれし烈婦春日局とは此の婦人なりしが如き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の如く立派な祖先を有し、家庭また斯の如く美はしく、且つ家系は宗家の控へとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木、美濃の土岐とて足利歴々の名家である。古歌に
  曳く人も曳かるゝ人も水泡の
              浮世なりけり宇治の川舟
で、時世時節なれば止むを得ざるとは云へ、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であつたのであります。明智光秀の波多野秀治を丹波に攻めしが如きは、信長の命に依る所である。波多野兄弟等抗する能はずして、軍に降る。信長許して之を安土に召す。兄弟能く信長の性格を知つて容易に到らず。茲に於て光秀は安土に往復し質を入れて誓うた。兄弟は光秀の心を諒して安土に到るや否や、信長は其遅参を詰つて、慈恩寺に於て切腹せしめた。是信長秀治兄弟を欺くのみならず、光秀をも欺いたのである。
 太閤記に云ふ、秀治信長の表裏反覆常なきを怒ると雖も、今更為すべき様なし、敷皮に直り光秀に向ひ、儼然として曰く、此頃の御懇切は草陰にても忘れ申さず、但飛鳥尽きて良弓蔵めらるゝと云ヘば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は終に非業の死をなし給ふベし云々。秀治の臣下怒りて光秀の質を殺すも、秀治の此言を聞きては、決して光秀母を殺すと云ふべからず。これ疑ふべからざるの事実である。
 然るに中井積善の如きは
『光秀母を餌にして以て功を邀ふ、犬テイも其余りを食はず』とか、又儒者の山形禎なども、『光秀凶逆母を殺し君を弑す、他日竹鎗の誅、天の手を土民に藉りて』云々
と激評せるが如きは、悉く見解を誤れるものである。吾人をして当時の有様より評せしめたならば、『信長無残にして、光秀をして其母を殺さしむるの悲境に立たしむ』と言ひたくなる。
 光秀の質を殺すは秀治の臣下にあらず、将た光秀に非ずして、実に是れ信長なりと言ひたいのであります。
 田口文之、信長を評して日く、
『行[#三]詭計於[#二]其妻[#一]以斃[#二]其父[#一]右府所[#二]以不[#一レ]終』と、新井白石、信長を評して日く、
『信長と云ふ仁は父子兄弟の倫理絶えたる人なり』と。
 平井中務大輔が、孝道の備はらざるを諌めて、死するも宜ならずや。
 其他猜疑の下に、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衛門尉の如き忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介等の如きも、信長の仕ふベき主にあらざるを見て身を退き、秀吉の如きも一日光秀に耳語して日ふ、
 『主君は惨き人なり、我々は苦戦しで大国を攻め取るも、何時までも斯くてあるべきぞ。やがて讒者のために一身危からん、能く/\注意せられよ』云々と。
 菅谷秋水、信長光秀両者を評して曰く、
 『信長は三稜角の水晶の如く、光秀は円々たる瑪瑙の玉に似たり』と、名将言行録に光秀を評して、
 『其敵を料り勝を制し、士を養ひ民を撫す、雄姿大略当時にありて、多く其倫を見ず』云々。
 是も余り過賞の言ではあるまいと思ふのであります。
 以上の所論は信長対光秀の経緯に就て略叙せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺ひ知る事が出来るのであらうと思ふ。信長は光秀の反逆がなくとも、何れ誰かの手に依つて亡ぼさるベき運命を有つて居つたのであります。亦光秀が其実母を質とせし如く論ずるも、光秀の母はその幼時に既に世を去り、遺孤として叔父の光康に養はれしものなる事は前叙の通であつて秀治に質とせしは叔父の妻で、即ち光春の母である。故に質を殺すの原因も亦前陳の如く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、実に気の毒千万の寃罪である。何うか史上より光秀殺[#レ]母の点だけは抹殺したいものであります。
  時は今天が下知る五月蝿かな
 世界各国今や暗黒界と変じ、神代の巻に於ける天の岩戸の隠れの惨状である。吾人大日本人は一日も早く、皇道を振起し、世界二十億の生霊を救はねばならぬ時機に差迫つたのでありますから、世評位に関はつて躊躇して居る場合ではない。吾人に言はしむれば、光秀の城址たる亀岡万寿苑は、実に言霊学上却つて適当の地であらうと思ふ。その亀の名を負ひし地点は、実に万世一系の皇室の御由来を諒解し奉り、万代不易の神教を伝ふるに万寿苑の名また言霊学上何となく気分の悪くない地名である。明智光秀といふ字も、明かに智り光り秀づると云ふことになる。講習会諸氏は、皇道の大本を明かに智られ、神国の光り秀妻の国の稜威を、地上に輝かさんとするには実に奇妙であると思ひます。其れ故に吾人は光秀の城址だからと云つて別に厭な心持もしないのであります。

明智は学問もあり聡明だったと言っています。

神の国 1929/07 学問も必要

明智光秀も太閤秀吉も共に学者であつた。二人とも小さい時から学問をしたものだ。学問がなくてどうしてあんなに偉い仕事が出来るものか。秀吉の書いた字なんか立派なものである。学問なしにあんな字が書けるものではない。私も七つ頃から四書五経を習つた。諸子百家の書もよんだ。文章軌範なども精読したものだ。楊子とニイチエとはほとんど同じ思想だなあ。とにかく昔から名を現はした人たちはみんな相当の学問があつたのだ。

こんなことも言っています。明智光秀=千の利休。

神の国 1926/05 千の利休は明智光秀

 千の利休と云ふ人は、明智光秀は山崎の一戦に脆くも敗れて、遂に名もなき一土兵の為めに竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝へられてあるがあれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知してをつたが、光秀は将士の度々の迎へをうけながら、態とグズグズして居て、遂に勝を秀吉に譲つたのである。実は疾くに光秀と秀吉との間には妥協が成立して居たのである。聡明なる光秀は、たとへ如何なる事情があつたにもせよ、いつたん主殺の汚名を着たものが、天下の将軍となつても永続きがせぬと云ふ事をよく承知して居て秀吉に勝を譲つたのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあつて、天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位迄押しのぼして仕舞つたのである。彼は実に秀吉の好参謀であつたのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。茶室に這入るには丸腰となつてにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、もつて来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であつた。後彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝へられて居るが、全く跡形もない事である。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。

 筆者がこのお話を伺つて、或時の事二三の方々にお話して居りました、偶座に岡山の太田栄子夫人が居られて、この話を裏書する面白い物語をせられましたので、左に御紹介致します。

 太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」と云ふ事を承はつて、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたさうです。さうすると名倉氏はそれを又家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました、すると円能斎氏の顔色がサツと変つて暫くは物も云はれなかつたさうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分つたのですか」と云ふ事であつたと云ふ事です。そして、更に語をついで、「その事こそ、千家に伝はる、一子相伝の大秘密であつて、後を嗣ぐ長男のみが知つて、次から次へと言ひつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無い筈です。どうしてそれが分つたのでせう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によつて分つたのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供へた聖者がありましてその人の霊覚によつて、其秘事が分つて来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚き且感じ入り、遂に執事を派して綾部に参拝せしめ、次で自らも亦参拝せられたさうですが、深くこの事を秘して人に語らなかつた。名倉氏も又秘して仕舞つたのですが、不思議な事には三人が三人共、相前後して同じ心臓病の為め倒れて仕舞つたさうです。


2.足利尊氏

足利尊氏については、「開祖出口ナオが足利家の血筋である」としています。また、明智光秀は足利の血筋を引いている、とあります。王仁三郎は、明智は肯定しているのですから、足利も肯定していると考えるべきでしょう。
神の国 1929/02 歴史談片

 開祖様の母上は足利尊氏の系統をひいて居られる、尊氏と云ふ人は舞鶴線の梅迫駅の附近七百石と云ふ所に生れたので、初産湯の井と云ふのが残つて居る。
 亀岡在に篠村八幡宮と云ふのがある、足利尊氏が願をかけて武運の長久を祈つた神様で、此神様が尊氏を勝たしたといふかどで、外の神様はどんどん昇格しても、此八幡様だけはいつまでたつても一向昇格せぬ。
 七福神のお一柱、昆沙門天と云ふ方は武甕槌の神様の事である。

足利氏も皇裔(天皇の血筋)である。

神霊界 1919/05/01 皇道我観(四)

 我皇国は、外国の国状とは非常に相異ありて、天下は即ち一人の天下にして、皇上は実に、天上の現人神に在し坐し、王侯将相といへども、悉く皆、その胤あるなり。故に古今の豪雄の、将相の位に至つて天下の権を執りし人の、微賤の種なるは、明治の御代に至るまで、曾て在りしこと無し。平相国清盛の如きも、固より皇胤なり。鎌倉の右大将源頼朝及び北条氏、足利将軍、織田右府信長の如きも皆、桓武、清和の皇裔なり。故に豊公の系統も、亦貴き方の胤なる事前述の如し。世に豊公は凡種奴隷の出身なりとするは、大誤解たるを思ふべし。余輩は思ふ、豊太閤の、此事実を妄りに言はざりしは、天皇の太政所に堅く誠めおかれし為に、是を言ふ能はざりしものなるべし。また一説に、太閤は後奈良院の落胤にして、母は持萩中納言保廉卿の尾張国へ配流せられし頃同国御器所村の猟師の娘に逢ひて、産せたりし由縁を以て宮中に奉仕し、遂に竜体に近づき奉りて懐孕に成りしと云へり。吾大本開祖も一時は時運非にして、賤業に就事し給ひしかども、祖先を尋ぬれば、矢張り尊き人の後裔にして、山陰中納言より出で給ひしことは、桐村家の系図に由りて、明白なる事実なり。故に我国は、凡て王侯将相大賢至聖、皆その種ある事を知るべきなり。

明智光秀、は美濃の土岐氏の出だと言われている。

神霊界 1920/08/01 皇道大意

 又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食む如き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜の陣羽織を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を為せし美談のみか、臣斎藤内蔵介の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石と仰がれし烈婦春日局とは此の婦人なりしが如き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の如く立派な祖先を有し、家庭また斯の如く美はしく、且つ家系は宗家の控へとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木、美濃の土岐とて足利歴々の名家である。


3.西郷隆盛

王仁三郎は西郷隆盛は第一級の人物として認めています。

神の国 1926/11 空の星と人間

空の星を見て居る位楽しい事はない。各自の星が皆空にあるのであるが、今の世の中の人々の星は、多く暗星だから、光を放つて居ないから見えぬ。大臣達だつて三等星か四等星である。一等星の人なんか世に出て居ない、歴史上の人物で豊臣秀吉即ち太閤さんは一等星の人であつた。近頃の人では西郷隆盛が一等星であつた。其後一等星の人物は出て居ない。

王仁三郎は西南戦争時に少年で、なぜか字を読むことができたと言います。それで新聞を読んで、戦争の様子を字の読めない大人に聞かせたといいます。

神の国 1927/04 西南戦争と私

西南戦争の頃、私はまだ六つの小さな子供であつたが、漢字で書いた新聞をよく読んだものである。其時の新聞は今の瑞祥新聞の型で、四号活字の大きさであつた。戸長(今の村長)も羅卒(巡査)も読めないので、私の所へ読んで呉れと云ふて持つて来る。難解の漢字ばかりで書いてあるので、読む事は読めても意味が分らぬ所もあるが、読んでさへやれば戸長や羅卒の方で意味はわかるので都合がよい。六才やそこらでどうして漢字が読めたか、自分でも分らぬが、兎に角新聞に向へばズンズン読めたのだ。戸長さん達は聞いて居て、よく分ります、有難う有難うと礼を云うて帰つて行つた。或時羅卒がさも秘密らしく、これは極内しよだが、西郷の戦ひにどうも官軍の勢がよくない、大分人減があるやうだと云ふ。私はそれを聞いて、その事なら何も内しよでも何でもない、それここにちやんと書いてあると新聞を出して見せたので、【アフン】とした事がある。今思ひ出してもおかしい。

西南戦争に対する評価です。

「人間が堕落して奢侈淫逸に流れた時、自然なる母は、その覚醒を促す為に、諸種の災害を降し玉ふのであつて而も地震は其の極罰である」。その地震に比して西郷隆盛の西南戦争を評価しています。

神の国 1929/05 日本人の抱擁性 より
 
人間が堕落して奢侈淫逸に流れた時、自然なる母は、その覚醒を促す為に、諸種の災害を降し玉ふのであつて而も地震は其の極罰である。我国に地震の多いのも神の寵児なるが故である。自然否天神地祇の恩寵を被る事の多いだけ、それだけにその恩寵に背いた時の懲罰は一層烈しい道理である。若し地震が起らなければ、人震が発りて其の忿怒を漏らすに至る。近くは天草天草や由比民部之介、大塩平八郎乃至、西郷隆盛)の如き皆この人震に属するものである。

西南戦争では智恵が足らなかったと言っています。

神の国 1928/03 奇魂の足らなかった南洲翁

 大島から鹿児嶋へと、今度の旅行で西郷南洲翁の跡をたづねてみたが、翁には惜しい哉奇魂が足らなかつた、と云ふ事を痛感せずには居れなかつた。天下に号令せうとするものが、陸路兵を起して道々熊本を通過して東上せんとするなどは策の最も拙なるものである。彼の時急遽兵を神戸大阪に送つて、名古屋以西を扼して仕舞はねばならぬのであつた。当時物情騒然として居て、そんな事は何でもなく出来た事なのである。かくて京都、大阪などの大都市を早く手に収めねば志を伸ぶる事が出来ない事は火を観るよりも明かな事であつた。然るに事茲に出でずして、熊本あたりに引つかかつて、愚図愚図して居たものであるから、事志と違ひ、思ひもよらぬ朝敵の汚名を一時と雖も着ねばならぬやうになつて仕舞つたのである。【奇魂が足らなかつた】。桐野桐野、篠原篠原皆然りである。大嶋に滞在中、三回ばかり西郷翁の霊にあつたが、いろいろ私に話をして居つた。「智慧が足らなかつたなあ」と云ふてやつたら、「全くやり方が悪かつた」と云ふて居つた。

明治維新をまとめた業績を評価しています。

昭和青年 1931/07 国家の将来 より

明治維新のあの大業でも五十人位でやつたんだが本当にやつた人間はタツタ二十人程しかなかつたのだ。あれは全く団結がよく出来てゐたからなんだ。その二十人の力が徳川三百年の礎を破つたのだから……。
 西郷南洲が二十人の者を一つにした為めや。あの四十七士と、この二十人丈が歴史にのこつてゐるもので団結の為めに仕事をやり通したのみで他には一つもそんなのはないのやでよ

ファシズム的論調の文章から。

西郷を楠木と同様に、尊王の権化として最大限に評価しています。

神聖 1935/10 回顧四十年

宇内皇化の天業は、楠公の如く又西郷の如く、内に一点の私心を挿まず、己が身を犠として君国に捧げる至誠奉公の真人に依つてのみ成されるものであつて、而も其の前途には幾多の荊棘が生茂つてゐるものである。

霊界物語でも、西郷の政治姿勢「政とは情の一字に帰する」をとりあげています。

物語11-3-16 1922/03 霊主体従戌 大気津姫の段(2)

 ただただ自分のみの都合をはかり、食色の慾のほか天理も人道も、忠孝の大義も弁知しないやうになつてしまふのである。かういふ人間が、日に月に殖えればふえるほど、世界は一方に、不平不満を抱くものが出来て、つひには種々のやかましき問題が一度に湧いて来るのである。為政者たるものは、よろしく下情に通ずるをもつて急務とし、百般の施設は、これを骨子として具体化して進まねばならぬのである。
 素盞嗚尊はやむを得ずして、天下のために大気津姫神を殺したまひ、食制の改良をもつて第一義となしたまうたのである。西郷南洲翁は、政とは情の一字に帰すると断じまた孟子は、人に忍びざる心あれば、ここに人の忍びざる政ありといつてゐる。しかるに為政者は、果してこの心をもつて、これに立脚して社会改良を企画しつつあるであらうか。政治家なるものを見れば、徹頭徹尾、党閥本位であり権力の闘争であり、利権の争奪である。かくのごとき勢利のみに没頭せる人間によつて組織され、運用される政治なるものは、もとより国利民福と没交渉なるべきは、むしろ当然であらうと思ふ。かくのごとき世界の政治に支配されつつある国民が、不安の終極は、改造の叫びとなつて来るのはこれも当然かも知れぬ。

第1版 2004/12/11
第1版(校正) 2015/01/01

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