差別と平等

1.平等・差別

2.無差別的平等主義

3.平等・博愛

4.一般的な用法

5.目的は平等だが手段に差別

6.血脈による差別と平等

7.平等愛と差別愛

8.不平等としての差別

9.神は差別なし


1.平等・差別

辞書的な意味からみてみましょう。

■差別   (名)スル

(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
「いづれを択ぶとも、さしたる―なし/十和田湖(桂月)」

(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。
「人種―」「―待遇」

(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。

王仁三郎は差別の語をほとんど(1)の意味で使用しています。

■平等 (名・形動)[文]ナリ

(1)
差別なく、みなひとしなみである・こと(さま)。  「―に扱う」

(2)
近代民主主義の基本的政治理念の一。すべての個人が身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有すること。 「自由、―、博愛」

(3)
〔仏〕 真理の立場から見れば、事物が独立しているのではなく、同一の在り方をしていること。

平等は(2)自由・平等の意味で使っているところはほとんどありません。この場合はこれまで見たように否定的意味で使われます。

(1)平等=わけへだてないという文脈で使いわれています。

王仁三郎の文章では、平等と差別が組み合わせて使われている場合が多く見受けられます。


2.無差別的平等主義

この文脈で差別と平等が使われる場合は、悪平等という意味で使われます。悪平等は当然、マイナスの意味を持っています。

神霊界 1920/02/01 随筆

  体主霊従の無平等主義が、忌々しくも発展して、猫も杓子も、普通選挙とやらの叫び声は、小田の蛙の鳴く音よりも熾烈を極て来た。
 今度の大阪に於る労働団体の、大々的示威運動に対して、尾崎氏、今井博士等は実に素晴らしい勢であつた。右両氏等の指導は、真に苦境にあると称する労働階級を、幸福なる生活に導かむとする、良心とやらの閃か。それ共、資本家特権階級を叩き潰して、彼等の横暴とかを匡正するのが目的か。何にしても、上下通じて好調に進ませて貰いたいもので在るが、稍ともすれば、利己主義、四ツ足主義を発揮して、他人はどうでも能い、労働階級だけの幸福を増進させるのが、目的らしくも在るやうだ。果して斯な工合に成つて来ると、労働者と資本主との対抗で、一番極端に成ると、○乱が起らぬとも云へぬ。今にして何んとか双方から妥協互譲の途を講じ無ければ、労資共倒の惨事を招来せなければ止まぬであらう。皇道大本の信者の中にも、多少の労働者も在るであろうが、諸君等は、常に神様の誠の教を遵奉して居られる、忠実なる臣民であるから、滅多に取違いは在るまいけれ共、万々一にも右等の問題や運動に没頭する様な不都合が、仮にも在つたとすれば、神界と国家に対して、一大叛逆であるから、充分に御注意を願ひます。夫で無くても、世の立替、立直しを唱導しつゝある、大本を誤解して、社会主義だとか、共産主義だとか謂ふ、分らず屋がある社会だから飽く迄も言行を慎んで欲しいもので在ります。
これは友清天行の文章ですが、分りやすいので参考に。友清は第一次事件後に大本教を離れ、それ以後は敵対者となります。
参考 神霊界 1918/09/01 一葉落ちて知る天下の秋 友清天行

 今度の新理想世界には貨幣制度撤廃で、且つ貨幣に代用すべきものも無いと云ふ事に就て疑問をいだく人があるやうでありますが、それは決して不可能事ではない、左りとて昔の物々交換の不便を繰り返すワケでも有りませぬ。今度の世では各人の職務は何れも神勅によつて決定せられ、私有財産なるものは絶対に認められませぬ。即ち新世界の経営は人民の私有財産全部を天皇陛下に奉還する事より始まるので、家屋の如きは其人の職業、地位、家族の数等に適当したものが提供せられるし、其他生活需要品等一切適当の方法と組織との下に適当に配給されるので、何の不安も心配もなく、そんなら人間に競争心、奮闘心が無くなつて、怠け者の世の中になりはせぬかなぞ考へる人もあるが、それこそ無要の心配で、人々何れも其の天分を知つて安んずると同時に、各人何れも其の天職に精励するやうに出来て居ります。社会主義者どもが主張するやうな差別もありますが、其の職業の価値に等級は認められませぬ。併しイクラ理想時代と云つても貨幣、若くは此れに代用するものが無くては、汽車に乗るのは何うするか、宿屋に泊るのは何うするかと考へ込む人がありますが、そんな事は要らぬ心配で何も彼も都合よく出来て居ます。何しろ此世界の経綸者たる国常立命が結構な世として許される世界なのですから、今日より人間の小智を以て彼れ此れ詮義する丈愚で有ます。元来人間には私有財産なるものは無い。
 
■悪平等が生れた理由

人間には神の直系の人間と、アダム・エバの胤とがあり厳然たる差別(区別)がある。しかし、現代ではどの系統も、ほとんどの人間が体主霊従におちいったから、平等を叫ばなくてはならなくなった。
物語02-0-2 1921/11 霊主体従丑 総説

 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始は、国大立命、稚桜姫命が最初であり、稚桜姫命は日月の精を吸引し、国祖の神が気吹によつて生れたまひ、国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿の神様である。それよりおひおひ神々の水火によりて生れたまひし神系と、また天足彦、胞場姫の人間の祖より生れいでたる人間との、二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、その性質において大変な相違がある。天足彦、胞場姫といへども、元は大神の直系より生れたのであれども、世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従の罪によつて、人間に差別が自然にできたのである。
 されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、尊体卑心の身魂に堕落してゐるのであつて、今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。
ここでは、悪平等について、平等を叫ぶ者は、自分より下の者が平等を叫ぶと抑圧するとあります。この指摘は当たっているのではないでしょうか。
物語63-1-2 1923/05 山河草木寅 妙法山

乙『吾々は文化生活というものを転用して人格問題に当てたいと思ふのだ。バラモン教徒は煩悩即菩提だなどと気楽さうな事をいつてゐるが、それは悟道の境地に立ち至つた上根の人間のいふことで、普通の人間はソンナ軽々しいわけにはゆかぬ。とても人格を磨いて向上する事は不可能事だよ。絶えず内観自省して、肉的本能を征服しておかねばならない。霊体共に自然であることは無論だが、この両者を並行さす事は困難だ。瑞の御霊の聖言には、「体慾に富める者は神の御国に入ること難し。富貴の人の神の国に入るよりは、蛤を以て大海を替へ干す方却つて易かるべし。人は二人の主人に仕ふること能はず。故に人も、神と体慾とに兼ね仕ふることを得ず」と教へられてある。実に深遠なる教訓ではあるまいかなア』
甲『神さまもチト判らぬぢやないかエーン。よく考へて見よ。吾々のやうな貧乏人は、聖典を研究いな研究と言つては勿体ないかも知らぬ、拝誦して心魂を磨く余裕がないが、富者となれば日々遊んで暮す暇があるのだから、自由自在に聖典を拝誦したり、又その密意を極め得るの便宜があるから、神の国に入るものは、富者であることは当然の帰結ではないか
乙『ソウ言へばさうだが、人間といふものは吾々の考へ通りにゆくものではない。得意時代の人間は到底そんな殊勝な考への浮ぶものではないよ。「家貧しうして親を思ふ」とか謂つて、吾々のやうなものこそ、精神上の慰安を求め、向上もし、神に縋らむとするものだが、容易に得意時代には貧乏人の吾々だとて、そんな好い考へは起るものではないよ。勿論瑞の御魂様だとて、絶対的に富そのものを無視された訳ではなからうが、こんな教訓を与へなくてはならない所以は、人間の弱点といふものは凡て物質の奴隷となり易いからだ。同じ富を求むるにしても、我慾心を満足さすために求むるものと、神の大道を行はむがために行ふものとは、その内容においても、その精神においても、天地霄壌の相違があるだらう。苟くも人間としての生活に、物質が不必用なる道理は絶対にない。どこまでも経済観念を放擲することは所詮不可能だ。然るに凡ての神教の宣伝使が、口を揃へて禁慾主義や寡慾主義を高潮してをるところをみると、そこに何等かの深意を発見せなくてはなるまいと思ふのだ』
甲『君の説にも一理あるやうだ。しかし吾々は何とか努力して人並みの生活だけはせなくてはならないが、「倉廩充ちて礼節を知り、衣食足りて道を歩む」とかいふから、肉的生活のみでは、肉体を具へた人間としては実に腑甲斐ない話だ。吾に「先づパンを与へよ、然して後に大道を歩まむ」だからなア』
乙『「人はパンのみにて生くるものではないと共に、霊のみにて生くるものにあらず」と吾々も言ひたくなつて来るのだ。しかしそこは人間としての自覚が必要だ』
甲『自覚も必要だが、現代の人間の自覚なるものは、果して人並み以上に立脚してゐるだらうか。霊的自覚に立つてゐるだらうか。それが僕には杞憂されてならないのだ。今日の人間の唱ふる自覚といふ奴は、月並式の自覚様だからなア』
乙『君のいふ通り有名無実の自覚、月並みの自覚だとすれば、忽ち自覚と自覚とが互ひに相衝突を来たして、平和を攪乱することになるだらう。現代のやうに各方面に始終闘争の絶え間がないのは、自覚の不徹底といふことに帰因してゐるのだらう。しかし凡ての物には順序があり、階段があるからして、自覚の当初は何れにしても、幾何かの動揺と闘争とは免れないといふ点もあるだらう
甲『さうだから僕は現代の自覚様には物足らなくて拝跪渇仰することが出来ないのだ。人格の平等だとか個性の尊重だとか、やかましく騒ぎまはる割合に、事実としての態度が実際に醜うて鼻持ちがならないのだ。しかし中には一人や二人ぐらゐは、立派な態度の人間もあるだらうが、概括して見ると、賛成の出来ない人間ばかりだからなア』
乙『ウンそれもソウだねー。現代人の唱ふる人格の平等といへば、高位の人間を低い所へ引き下ろして、「お前と俺とが同格だ、同じ神の分霊だ分身だ」といつたり、甚だしいのは、上流者や官吏の前に尻を捲つて、威張ることだと考へたりする奴が多いのだ。そのくせ自分より下位の人間からそれと同じやうな事をしられると、「人を馬鹿にするな、侮辱を加へた」と言つて立腹する奴ばかりだ。自由といへば厭な夫を振り捨てて好きな男と出奔したり、法律も道徳も義理も人情も踏み蹂ることだと思つてゐる奴ばかりだ。しかもそれほど自由を要求したりまた主張したりするのなら、他人に対した場合でも自由を与へるかといふと、事実は全然その反対のことを行るものばかりだ。アナーキズムを叫ぶくらゐなら、自分の家に泥坊が這入つても歓待してやりさうなものだのに、真先に警察署に訴へに行く奴ばかりだ。「経済組識は、コンミユニズムに為なくてはいけない」といつて、やかましく主張してゐるから、「それなら先づ君の財産から放り出せ」と言ふと、「それは真平御免」といふやうな面付きで素知らぬ顔をして、他人に出させて共産にしようと言ふ奴ばかりだ。ある二人の青年ソシアリズム崇拝者が、鶏肉のすき焼を食ひにいつてその割前を支払ふ時に、相手の一人が「金が足りないから、君の金を出して支払つて済ませてくれ」と言つたら、「ソンナ事は出来ない」と断わつたので相手の一人が、「それは君の平素の主張に悖るではないか」と突込むと、「いやそれと是とは別問題だ」と言つて逃げてしまつたといふ話だ。とかく人間といふ奴は、人に対しては種々の要求を起すが、その要求を自分にされたら何うだらう。果して応ずるだけの覚悟を持つてゐるだらうか。自分の立場が無産階級にあるからと言つて共産主義を叫ぶのでは本当のものでない。筆や舌の尖ではどんな事でも立派に言はれるが、事実その事件が自分の身に降りかかつた時に実行することが出来るだらうか。十中の十まで有言不実行で、日頃の主張を撤廃せなくてはならぬやうになるのは、可なり沢山な事実だからなア』


3.平等・博愛

王仁三郎は平等に対しては価値を認めていますが、場合によって分かれています。上から与える平等については認めています。しかし、下からの革命的な平等は認めていません。

例えば、下の衡平運動だけを見て、最終的には王となるべく定められた人が仁政を布くという結論部分は、王仁三郎の本意でしょうか、それとも本意ではないのでしょうか。
私の場合は、何年王仁三郎を読んでいても、頭では分かっていても、なかなか王となるべく定められた人が仁政をひくところは認めがたいです。

下の文章では、平等・博愛を唱える人々はほんとうにそれを目指して唱えているのではないことを言っています。

物語65-4-23 1923/07 山河草木辰 義侠

乙『何といふても天与の産物を独占する者があつたため、吾々は苦しんできたのだ。かうなつたら村に苦情も起らず、愛神愛人の道も完全に行はるるであらう。なにほど信心せよといふても、今日食ふ飯もないやうの事では信心も出来ず、人がなにほど困つとつても助けることも出来ず、人の持つてゐるものでも、叩き落として取りたいやうに思ふものだが、かうして平等になつた以上は、悪事悪念は断たれるであらう。テーラの奴、村中の憎まれ者だつたが、善悪不二といふて、あの奴があんな悪事を企みよつたものだから、吾々はこんな結構になつたのだ。悪人だつて憎めぬよ。悪が変じて善となり、善が変じて悪となるといふのは、大方こんな事をいふたのだらうよ』

(中略)

乙『馬鹿いふな、四民博愛と、同情の仮面を被りて胡麻かす贋君子、贋聖人ばかりだ。あの比丘尼様こそは本当に吾々の救世主様だ』
物語67巻、68巻のタラハン国では、王が平等・博愛の政治を布き、乱れていた国が治まります。
ここでは、正しい王が政治を取る前の民衆運動を描いています。バランスは女性で、民衆運動の先頭に立っています。
バランスについては、王仁三郎は愛情を持って書いていると思います。この後、正しい王が仁政を布き、バランスは右守(総理大臣)の妻となり、王に協力することになります。
物語68-3-9 1925/01 山河草木未 衡平運動

  有志の各団体は罹災民救護のため、東西南北に駈けまはり、米麦野菜などをあさつて、一時の急を救はむとすれども、到底その一部の要求を充たすにも足らなかつた。流言蜚語盛んに起こり、人心恟々として安からず、今にタラハン国は滅亡の悲運に向かふべしなどと人々の口に依つて喧伝された。かかる所へ肉体美に過ぎた大兵肥満の女一人現はれ来たり、札ビラを路上に撒き散らしながら
声高々と何事か唄ひながら、碁盤の目の街を彼方此方と駈けめぐつてゐる。
女 『神が表に現はれて    人と鬼とを立別ける
天には黒雲塞がりて      月日の影も地に照らず
天が下なる人草は       優勝劣敗日をかさね
強きは高く登りつめ      栄耀栄華の有りたけを
尽して下の難儀をば      空吹く風と聞き流し
貧しき民を虐げて       生血を絞り脂をば
力限りに吸ひ取れば      痩せ衰へて餓鬼の如
骨と皮とに成り果てぬ     神が此世に在す上は
何時まで許し玉はむや     此世の中は神様が
万の民を平等に        楽しく嬉しく暮させて
天国浄土の神政を       布かむがための思召し

しかるに何ぞ計らむや     上は左守を始めとし
富有連や長者等が       勝手気儘に振れまひて
下国民を苦しめし       報いは忽ち目の当り
思ひ知つたか左守司      その他百の司達
今に心を直さねば       打てや懲らせと民衆が
鬨を作つて攻め寄せる     その凶兆はありありと
今より伺ひ知られたり     ア丶民衆よ民衆よ
必ず憂ふる事なかれ      至仁至愛の神さまは
必ず汝が窮状を        何時まで見捨て給はむや

必ず一陽来復の        春を迎へて永久に
安き楽しき神の国       この世の中に樹て玉ひ
今まで下に苦しみし      清き正しき汝等を
高きに救ひ給ふべし      天は降つて地と成り
地は上つて天と成る      有為天変の世の中は
何時まで大名小名の      自由の振舞許さむや

あ丶惟神惟神         神は汝と倶にあり
吾等は神の子神の宮      いよいよ時節が参りなば
今まで此世に落ち居たる    百の正しき神さまは
数多の神軍引率し       悪を亡ぼしよこしまを
平らげ尽し給ふべし      勇めよ勇め民衆よ
時は来たれり時は今      
神政復古の暁ぞ
不意に起つた大火災      是ぞ全く人間の
力に及ぶ術でない       何れも貴き神様の
悪に対する警戒ぞ       如何に大名小名や
富有連が覇張るとも      彼等が覇張る世の中は
最早末期と成りにけり     勇めよ勇め皆勇め
民衆を苦しむ悪人を      片つ端から踏み躙り
怯めず臆せず堂々と      火の洗礼を施せよ

血汐を以て世を洗へ      向日の森の茶坊主が
館に後妻と化けすまし     三年以来身を潜み
富有連に出入する       彼に付き添ひ富有連の
事情を査べゐたりしが     最早時節も充ちぬれば
数多の部下に命令し      火の洗礼を為せたのは
大兵肥満の此女        富有連中が何恐い
大名小名糞喰へ        取締役や目付役が
怖くてこの世に居られうか   勇めよ勇め民衆よ
女ながらも吾が部下は     タラハン国の山に野に
幾十万の生身魂        腕を撫して待つてゐる
いよいよ命令一下すりや    四方八方の隅々ゆ
ドンドン狼火が上るだろ    今の好機を逸せずに
汝等世界の改造を       命の綱と信じつつ
振へよ立てよ立上がれ     民衆団の頭目と
世に聞えたるバランスは    即ち吾が身の事なるぞ

ア丶勇ましや勇ましや     この惨状を見るに付け
下人民の傍杖は        実に涙の種なれど
大小名の狼狽の        その状態を眺めては
少しは虫も治まらむ      更生院が何に成る
これも矢つ張り富有等の    汝等民衆一般の
生血を絞る手品ぞや      必ず迷ふな迷はされな
思へば思へば村肝の      心の神が踊り出す
あ丶惟神惟神         御霊幸はひましませよ
奸侫邪智の輩の        目玉飛出しましませよ』

 十字街道に待ち構へて居た数百の目付隊は、有無を言はせずバラバラと駈け寄つて手取り足取り、取縄をもつて雁字搦みに縛り付け、バランスを荷車に乗せて横大路の取締所へと運び込むでしまつた。
 民衆に化けて居た彼の子分はバランスを取返さむと潮の如く押寄せ、目付と団員との闘争が演出された。目付隊は既に危ふく見えた時、喇叭の声も勇ましく二千人の侍は押寄せ来たり、銃を擬して威喝を試みたり。素より完全な武器を有つて居ない民衆は歯がみを為しながら、見す見す大棟梁を奪はれしまま、退却するの止むを得ざるに立至りける。
 バランスは目付頭の前に引出され、厳重なる訊問を受けた。バランスは少しも怯む色無く滔々として目付頭に食つて掛つた。
目付頭『其方の姓名は何といふか』
バランス『俺の名はバランスといふ者だ。民衆救護団の大頭目だ。有名なバランスの面を今まで知らぬようなウツソリした事で、どうして大目付頭が勤まると思ふか、あまり平等を欠いだ強食弱肉の現代だから、バランスを取るためにバランスと命名したのだ
タラハン国物語の結末の部分です。
物語68-5-21 1925/01 山河草木未 祭政一致

 スダルマン太子は宣伝使に送られ、一行と共に無事タラハン城内に立ち帰り、父の大王に面会し、今までの不都合を謝し、かつ今後は心を改めて、父の後を継ぎ、国家万機の政事を総攬せむ事を誓つた。カラピン王は太子の姿を見るより、喜びのあまり気が緩み、ガツカリとしたその刹那、忽ち人事不省に陥り、四五日を経て八十一才を一期となし、此世に暇を告げた。太子は父王の位を継承しカラピン王第二世と称し、天下に仁政を布き、国民上下の区別を撤回し、旧習を打破し、国民の中より賢者を選んで、それぞれの政務に就かしめ、下民悦服して皷腹撃壌の聖代を現出した。

 アリナおよびバランスは国法の命ずる所に従い、一時牢獄に投ぜられたが、太子が王位に即くと共に大赦を行ひ、両人は僅に一週間の形式ばかりの牢獄住居を遁れ、アリナは天晴れ右守司となつて国民上下の輿望を担ひ、輔弼の重任を尽し奉つた。そして民衆救護団長たりし大女のバランスを妻に迎へ、アリナの家は子孫代々繁栄した。またバランスはスダルマン太子の即位と共に民衆救護団の必要なきを感じ、部下一般に対して、解散の命を下した。

(中略)

 いづれも新王が民意を容れ、博愛の政治を布き給ひし恩恵として、子供の端に至るまで其徳を慕ひ、不平を洩らす者は只一人もなかつたといふ。即位式の状況については茲に省略し、祝歌のみを紹介する。

また、物語69巻の南米物語は、この平等・博愛についてよくわかる物語ではないでしょうか。


4.一般的な用法

■男女平等論

この部分だけでは男女平等論に肯定ですが、全文では肯定なのか否定なのかよく分りません。

物語54-4-15 1923/02 真善愛美巳 愚恋

 『さうですとも、よく考へて御覧なさいませ。現在の社会組織といふものは、すべてが貴族本位、資産家本位は申すに及ばず、男子本位で強い者勝ちでございませう。特に男女の関係については、今日の制度は何もかも男に取つては有利な事柄ばかりです。そして女に対しては何らの特権も与へられてをりませぬ。実に不公平至極な社会制度で、女に取つてこれほど不利益な悲惨な事はありませぬ。なぜかうした不公平を、男と女の間に設けておかねばならないのか、その理由を知るに私たちは苦しむ者です。ですから一度夫婦間にある事情から離婚問題が持上がつたが最後、何時も男は有利の位地に立ち、女はその反対の立場におかれて、泣寝入の体ですよ。女は自分に正当の理があつても、男の立場になつて、しかも男にのみ有利に定められた現代の法律では、少しも女の正当な申し出でを聞入れてくれませぬ。どこまでも女は男に従属したものだといふ観念の下に、かうした問題に対しても、男の方を上にして断定を下すことになつてますが、はたしてこれが正しいといはれませうか。道徳でも法律でも、男女差別が勝手に設けられたのですから、いはば無理非道な公平を欠いたものといはねばなりませぬ。だから女は女としての権利があります。その権利を女の方から、そんなに遠慮したり、自分みづからを卑下したりするには当たらないと思ひます。どこまでも一個の人間として、男と同等の考へで押し進んでゆけば、それでいい事ぢやありませぬか。そこに女としての生命があり、自由があり、幸福があるので、それこそ女としての本来の持つべきものなのです。男女関係ばかりでなく、今日の制度は弱肉強食、優勝劣敗の悪制度が行はれてをりますから、吾々はカウントの家に生れたのを幸ひ、誤れる古き道徳や形式を打破して、新しい社会の光明となる考へで、女一人としての本能を発揮したばかりです』
次の文章では、平等=同等 差別=違いの意味です。
物語08-6-43 1922/02 霊主体従未 言霊解(五)

 イフヤザカの五言霊を約言する時は善悪正邪の分水嶺であります。
 男神の伊邪那岐命と女神の伊邪那美命と、互ひに自分の住し、かつ占有する国土を発展せしめむと丶強く思ひ合ひて争ひたまふところは同じく差別もなく、ただただ施政の方針に大なる正反対の意見あるのみ。されど女神黄泉神の御経綸は惟神の大道に背反せるが故に、つひに海外の某々の如く、悉く大動乱大破裂の惨状を露出したのは、近来事実の確証するところであります。

5.目的は平等だが手段に差別

目的は平等だが手段に差別あり。下の風呂と酒や火鉢の例と同じことを言っているのでしょうか。
神霊界 1918/07/15 宗教の害毒

差別を生ずるに至る」と。
手段に差別のある例。火鉢や酒で温める <=> 全員を大風呂に入れる
神霊界 1918/05/01 宗教と政治(二)

寒くば火鉢に暖まれという、火鉢で足らねば暖炉にせよという、暖炉を設けて重ね着して尚お寒くば何とする。酒でも飲んで炬燵に暖まれという。実に注意周到な御教示である。併し私には炭火もあり、重ね衣する衣服も有れど、貧困者は何としよう。私は炬燵に這入て居って暖くとも、隣の杢兵衛は夫れが出来ない。大家の旦那は酒を呑んでストーブに暖まって居るが、私には暖炉の設備が出来ませぬ。酒も嫌いです。そんな事は世の中に何程もある。

大風呂を沸して、向い三軒両隣の人々を招いて、素裸にしてその大風呂ヘブツ込んで見給え。十人でも二十人でも一時に暖まつて、誰彼の平等のものはない。誰の羽織が絹物で、誰の衣服が木綿物だと議論する必要がない。一様に温かい湯は、誰にも同様に温かいに相違ない。吾人は、炭火を用意せよ、着物を重ねようという教を小乗と謂い、風呂へ入れる教を比較的大乗だと仮りにいうて見たいと思うのである。


6.血脈による差別と平等

ここは私にとっては承服できないところです。

天と地との差別。 神の直系の人間と、アダム・エバの胤の差別でしょうか。

物語11-3-15 1922/03 霊主体従戌 大気津姫の段(1)

 世には絶対の平等があるのである。蒼々として高きは天である。茫々として広きは地である。かくのごとくにしてすでに上下あり、何人か炭を白しと言ひ雪を黒しと言ふものがあらうか。
 政治家も宗教家も教育家も、この時この際、平等なる天理天則を覚知し、もつて天下万民のために、汝のたくはふる高慢なる城壁をのぞき、もつてその大切に思ふところの鬚を切れ。その暴力にもちゆる手足の爪を抜き去り、もつて不惜身命、天下のために意義ある真の生活に入れ。かくのごとくにして始めて天壌無窮の皇運を扶翼したてまつり、御国を永遠に保全し、祖先の遺風を顕彰し、もつて神国神民の天職を全うすることが出来るのである。 
また、王仁三郎は天皇は万世一系で人民とは差別(区別)があると言っています。これも、血脈が違えば、差別があるのは当然だ。その中で平等を考えるということでしょうか。
神霊界 1918/05/01 国教樹立に就て

 理は等しゆうすと雖ども、事は自から本末の差がある、正傍の厳格なる差別がある。
神漏岐、神漏美の無始本来の当時より、一系綿々たる君臣、上下の差別がある。宇内の君権は、決して何者の野望をも決して許さないのである。高天原の教権は唯我一人の相承である。大日本皇帝以外に、何ものも教権の権威を保つべきものは無いのである。
 基督は神の子であるという事は、一切の衆生は悉く神の子であるという義であろう。基督一人のみ神の子であるという義ではなかろう。
 「今此三界皆我有、其中衆生悉皆吾子」という釈迦の言は、一切衆生が神に出でたることを謂うたものであろう。一切衆生は神より出で、一切衆生は神の子である。この義は仏耶両教の等しく認むる所である。
 神は一面に平等の愛である。同時にまた他面には差別は血脈本来の根本から、天爾に発生する所の約束である、分限である、神約である。この神誓神約を犯すことが、根本の罪悪である。


7.平等愛と差別愛

ここでは普遍の愛である平等愛と、一人を愛する偏狭な恋愛などのような差別愛について述べています。

物語47-1-3 1923/01 舎身活躍戌 寒迎

 『もし、先生様、差別愛だと聞いてをりますが、どちらから出発点を見出だせばよいのでせう』
平等愛とは普遍的の愛だ。いはゆる神的愛だ。今一つ駄句つてみよう』
と治国別は、
『生来の差別愛より
神的なる
平等愛に進む径路は
実に
惨憺たる血涙の
道を行かねばならぬ
これが
不断煩悩得涅槃の
有難い消息が秘められてあるのだ。

下記の文章も理解しがたい所ではあります。

古の怪しき獣は、今日に比ぶれば、其数に於て其種類に於て最も夥しかつた。併しながら三五教の神の仁慈と言霊の妙用によつて、追々に浄化し、人体となつて生れ来ることとなつた。故に霊の因縁性来等に於て、今日と雖も、高下勝劣の差別を来たすこととなつたのである。併しながら何れも其根本は天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したるものなれば、宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、何れも兄弟同様である。」

宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、何れも兄弟同様であるが、霊の因縁性来等に於て差別を来たすようになった。これはどういうことでしょうか?同根でも同じ性向を持っていないので方向が変る?もしくは、外部からの力(邪霊の憑依など)によって因縁性来が変るのでしょうか。

物語32-2-13 1922/08 海洋万里未 平等愛

 如何に猛悪なる獅子、虎、狼、熊、大蛇、豺、豹と雖も、口腹充つる時は、決して他の獣類を犯す如き暴虐はなさないものである。只飢に迫り、其肉体の保存上、止むを得ずして他の動物の生命を奪り食ふのみである。
 然るに万物の霊長たる人間は、倉廩満ちても猶慾を逞しうし、他人を倒し、只単に自己の財嚢を肥し、吾子孫の為に美田を買ひ、決して他を憐み助くるの意思なき者、大多数を占めてゐる。併し乍ら、神代は社会上の組織、最も簡単にして、物々交換の制度自然に行はれ、金銭と雖も珍しき貝殻、或は椰子の実の種をいろいろの器になし、之を現今の金に代用し、又は砂金などを拾ひて通貨の代用にしてゐたのである。さうして一定の価格も定まつてゐなかつた。それ故神代の人は最も寡慾にして、如何に悪人と称せらるる者と雖も、只々情慾の為に争ふ位のものであつた。時には大宜津姫神現はれて、衣食住の贅沢始まり、貧富の区別漸く現はれたりと雖も、現代の如き大懸隔は到底起らなかつたのである。
 大山祇、野槌の神などの土地山野を区劃して占領し、私有物視したる者も出で来りたれども、これ亦現代の如くせせこましき者にあらず、実に安泰なものであつた。

(中略)
 これより其律法を遵守し、月の大神の宮に詣でて赤誠を捧げたるものは、一定の肉体の期間を経て帰幽するや、直に其霊は天国に上り、再び人間として地上に生れ来ることとなりぬ。
 又此律法に違反したる各獣は、其子孫に至る迄、依然として祖先の形体を保ち、今に尚人跡稀なる深山幽谷森林などに、苦しき生活を続けてゐるのである。あゝ尊き哉、月の大神の御仁慈よ。
 国治立大神は、あらゆる神人を始め禽獣虫魚に至る迄、其霊に光を与へ、何時迄も浅ましき獣の体を継続せしむることなく、救ひの道を作り律法を守らしめて、其霊を向上せしめ給へり。故に禽獣虫魚の帰幽せし其肉体は、決して地上に遺棄することなく、直に屍化の方法に依つて天に其儘昇り得るは、人間を措いて他の動物に共通の特権である。猛獣は云ふも更なり。烏、鳶、雀、燕其外の空中をかける野鳥は、決して屍を地上に遺棄し、人の目に触るる事のなきは、皆神の恵に依りて、或期間種々の修業を積み、天上に昇り、其霊を向上せしむる故なり。只死して其体躯を残す場合は、人に鉄砲にて撃たれ、弓にて射殺され、或は小鳥の大鳥に掴み殺され、地上に落ちたる変死的動物のみ。其他自然の天寿を保ち帰幽せし禽獣虫魚は残らず神の恵によりて、屍化の方法に依り天上に昇り得る如きは、天地の神の無限の仁慈、偏頗なく禽獣虫魚に至る迄、依怙なく均霑し給ふ証拠なり。只人間に比べて、禽獣虫魚としての卑しき肉体を保ち、此世にあるは、人間に進むの行程であることを思へば、吾人は如何なる小さき動物と雖も、粗末に取扱ふ事は出来ない事を悟らねばならぬ。其精神に目覚めねば、真の神国魂となり、神心となることは到底出来ない。又人間としての資格もない。
 斯く曰はば人或は云はむ、魚を捕る漁師なければ吾等尊き生命を保つ能はず、獣を捉ふる猟夫なければ日常生活の必要品に不便を感ず、無益の殺生はなさずと雖も、有益の殺生は又已むを得ざるべし。斯かる道を真に受けて遵守することとせば、社会の不便実に甚しかるべしとの反対論をなす者がキツト現はれるでありませう。併し各自にその天職が備はり、猫は鼠を捕り、鼠は人類の害をなす恙を捕り喰ひ、魚は蚊の卵孑孑を食し、蛙は稲虫を捕り、山猟師は獅子、熊を捕り、川漁師は川魚を捕り、海漁師は海魚を捕りて、其職業を守るは皆宿世の因縁にして、天より特に許されたるものである。故に山猟師の手にかかる禽獣はすでに天則を破り、神の冥罰を受くべき時機の来れるもののみ、猟師の手に掛つて斃れる事になつてゐるのである。海の魚も川魚も皆其通りである。
 然るに現代の如く、遊猟と称し、職人が休暇を利用して魚を釣り、官吏その他の役人が遊猟の鑑札を与へられて、山野に猟をなすが如きは、実に天則違反の大罪と云ふべきものである。自分の心を一時慰むる為に、貴重なる禽獣虫魚の生命を断つは、鬼畜にも優る残酷なる魔心と云はなければならぬ。人には各天より定まりたる職業がある。之を一意専心に努めて、士農工商共神業に参加するを以て、人生の本分とするものである。

(中略)

 古の怪しき獣は、今日に比ぶれば、其数に於て其種類に於て最も夥しかつた。併しながら三五教の神の仁慈と言霊の妙用によつて、追々に浄化し、人体となつて生れ来ることとなつた。故に霊の因縁性来等に於て、今日と雖も、高下勝劣の差別を来たすこととなつたのである。併しながら何れも其根本は天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神の陰陽の水火より発生したるものなれば、宇宙一切の森羅万象は皆同根にして、何れも兄弟同様である。
 
同じ人間の形体を備へ、同じ教育をうけ、同じ国に住み、同じ食物を食しながら、正邪賢愚の区別あるは、要するに霊の因縁性来のしからしむる所以である。
 
或理窟屋の中には、総ての人間は同じ天帝の分霊なれば、霊の因縁性来、系統、直系、傍系などの区別ある理由なしと論ずる人がある。斯の如き論説は、只一片の道理に堕して、幽玄微妙なる霊魂の経緯を知らざる人である。人の肉体に長短肥瘠、美醜ある如く、霊魂も亦これに倣ふは自然の道理である。要するに人間の肉体は霊魂のサツクのやうなものであるから、人間各自の形体は霊魂そのものの形体であることを悟らねばならぬ。霊魂肉体を離れ、霊界に遊ぶ時は、其脱却したる肉体と同様の形体を備へ居る事は、欧米霊学者の漸く認むる所である。


8.不平等としての差別

差別思想について述べられている一例です。
 
神の国 1932/08 葛の葉の子別れ

 狐が恩義に報ゆる為め、仮に人間の女と身を変じ、夫婦の契を結び、子までなしたる仲なれど、情なや秘したる身の素性を見露はされ、
 恋しくば尋ね来て見よ和泉なる
  信田の森のうらみ葛の葉
と一首の歌を書き残して元の古巣に逃げ帰つたと云ふ、哀れにもグロテスクな物語は、誰知らぬもののない有名な話であるが、葛の葉と名告る女は決して狐の変化では無いのであつて、実は○○の娘なのである。差別思想の甚だしい時代の出来事なので、狐といふ事にして仕舞たのである。

バラモン教も差別といえるかも知れない。
物語39-0-2 1922/10 舎身活躍寅 総説

 また印度の人民には四種の差別がある。まづ、
 第一を刹帝利といふ。これは代々王となるべき家柄で、すなはち五天竺七千余国の国々の王となつてゐるのである。
 第二を婆羅門といふ。これを翻訳すれば、浄行といふことで、すなはち浄き行と書く詞、で、国柄相当に有り来たつた学問をして代々家を伝へるものである。
 第三を毘舎といふ、これは商人である。
 第四を首陀といふ。これは農業を営むもので、いはゆる百姓である。霊界物語第一巻に婆羅門には三階級あることを口述しておきましたが、それは太古の神代のことであり、印度四姓の第二位のバラモンの部族内に出来た階級である。釈迦の出現した時代にも、地方に由つて行はれてゐたのである。

現代の基準から見ると王仁三郎は障害者差別とか部落差別的な発言をしていたらしい。
らい病に対しては霊界物語にも差別的な表現が見られる。
霊界物語も差別的表現を取り払ったという修補版が出ているくらいです。
時代に捉われた表現を、後からどう評価するのか。難しいところではあります。


9.神は差別なし

神は差別をしないという文脈は少ないですが一部あります。

この表現は、第二次大戦後の大本では王仁三郎の差別に対する態度を代表するものとされていました。しかし、この反対の文脈で書かれている文章の方が多いように思います。
神の国 1925/09/08 道の栞第一巻下(二)

五二 天帝が人種を世界に降し給ふや、黄色い人種もあり、白き人種もあり、黒き人種もあり、赤銅色の人種もあれども、天帝の慈を垂れ給ふ事に於ては、別け隔て無し。皆同じ神の子であるから、何の人種は可愛、何の人種は憎いとの差別を為したまふ道理なし。
五三 然るに其の天帝の御心をも弁へずに、自惚心を起して、日本人のみ神の直系の尊いものなど云ふは、主神に対し奉りて仇となるのであるから、神の道にあるものは、最も慎まねばならぬ。
五四 日本の国の尊き訳は、此の世界を治め給ふ霊の現はれました故である。夫故に殊更に神の御国と称ふと雖も、神は日本許りでなく世界中一様に守護遊ばし玉ふ。

神の国 1925/09/08 道の栞第二巻上(一)

四四 感情と恩愛の故を以て、真理を曲げる時は、之れ真理は奴隷となりて、神の正道は破るゝなり。神の道では、我が子人の子の差別を以て、愛に隔てをなすベからざるものである。

ここでは、上流、中流、下流の差別は否定しています。天皇一人+人民の構図でしょうか。
神霊界 1919/05/01 皇道我観(五)

(二)上流社会と称して、美衣、美食、酒色に耽溺して、大厦高楼に起居し、尸位素餐、閑居不善を極むる者あり。中流社会と称し、営々として子女を教養し、租税の醸造的機関たる枢軸的階級あり。下流社会と称して、家族を挙げて、生活の物資を得るに、汲々乎として奔走し、以て生命糊口を凌ぎつつある者あり。
 由来上中下流と称するも、人間として何の差別あるに非ず、人生の目的は、必ずしも生活するが為に生れたるに非ず。更に禽獣と相等しく、生活の物資を得るために、奔走すべきものなるの理由は断じて無かるべし。物資、財力、権威等の獲得を以て、現代人生経綸の本旨と為し、以て大は国際的の競争と、中は政権争奪に党を結び、小は個人として、各営利の為に相競争し、各自相凌轢しで、世に処するの状態は、是二千六百年以前に、神武天皇の詔給へる、所謂『遼遠之地猶未[#レ]霑[#レ]於[#二]王沢[#一]遂使[#下]邑有[#レ]君、村有[#上レ]長、各自分[#レ]彊用相凌轢』此世態と幾許の差異あらんや。

天界の差別は善徳の性相の程度のいかんによる。この部分は味読すべきだと思います。
物語48-3-13 1923/01 舎身活躍亥 月照山

 高天原の天界において、一切を統合するものはすなはち善徳である。この善徳の性相の程度のいかんによつて、天界に差別を生ずるに至るものである。さうしてかくのごとく諸天人を統合するは、決して天人が自作の功に非ずして、善徳の源泉たる大神の御所為である。大神は総ての天人を導き、これを和合し、これを塩梅し、またその善徳に住するかぎり、これをして自由に行動せしめたまふのである。かくて大神は、天人をして各々その所に安んぜしめ、愛と信と智慧と証覚を得て、その生涯を楽しましめたまふのである。ゆゑに大神のお側へは容易に進むことは出来ない。

ここでは皇神の前には差別はないと言っています。これが、王仁三郎の真意だといいのですが。なお54巻は「差別」という言葉が何度も登場します。いつか、巻全部を読み解いてみたい。
物語54-2-8 1923/02 真善愛美巳 祝莚

治国別は祝歌を歌ふ。
『神代の昔伊邪那岐の     皇大神は伊邪那美の
神ともろとも高天原にて    天の御柱巡り会ひ
妹背の道を結びまし      山川草木の神までも
完全に委曲に生み玉ひ     此世を安く美はしく
造り給ひし雄々しさよ     その神術に習ひまし
ビクトリヤ城の奥の間で時代に 目覚めたアールさま
上下の障壁撤回し       耕奴の家に生れます
ハンナの姫と合衾の      式を挙げさせ玉ひしは
これぞ全く天地の       尊き神の御心に
かなひ奉りし吉例ぞ      尊き卑しき差別をば
神の御子たる人草に      つけて待遇に差別をば
作るといふは皇神の      心を知らぬ曲業ぞ
一陽来復時いたり       至仁至愛の大神の
大御心のそのままに      妹背の道を開きまし
国人たちにその範を      示させ玉ふ尊さよ
かくなる上は国民は      王をば誠の親となし
主と崇め師となして      心の底より真心を
捧げて仕へまつるべし     神が表に現はれて
善と悪とを立別ける      此世を造りし神直日
心も広き大直日        ただ何事も人の世は
直日に見直し聞直し      世の過ちは宣り直す
皇大神の御前に        今まで道に違ひたる
形式差別を撤回し       上下心を一にし
御国のために国民が      力を協せ心をば
一になして君の辺を      弥永久に楽しみて
守り仕へむ惟神        神はさぞさぞこの式を
諾ひまして永久に       妹背の道を守りまし
ビクの国をば弥栄に      栄え賑はせ玉ふべし
あ丶惟神惟神         神の御前に誠心を
捧げて祝ひ奉る』

この部分も発言者の立場に立っていると思います。
物語54-1-5 1923/02 真善愛美巳 万違

『そこでダイヤ姫様がおつしやるには、……人間としての婦人ならば、すべての欠陥と不備とを見て、避け得らるるだけの害悪はこれを排除しやうと努めねばならない。この努力を惜しむやうな婦人は卑怯者だ。卑怯者でなければ怠惰者だ、怠惰者でなければ馬鹿者だ……といつてゐられましたよ。……かういふ卑怯者や馬鹿者、怠惰者の絶えないうちは世間は一歩たりとも進むことは出来ない、何事も改造されてゆく時機だから、吾々は何事も率先して上下階級の差別を撤廃したい……と、年にも似合ず、それはそれは舌端火を吹いてまくしたてられましたよ。私もそのお説と弁舌にスツカリ共鳴いたしました、実に姫様のお言葉には千釣の重みがあるだありませぬか。改造のないところには向上も進歩もあるものではない。そんなことでは何時まで経つても、天国の門戸はエターナルに開けるものだありませぬ。そして真善美の光明は遂に地上に輝くことは出来ないでせう』

68巻総説。この巻では階級問題、上下差別がとりあげられていると言います。いずれ巻全体を読み解きたいと思います。
物語68-0-2 1925/01 山河草木未 総説

本巻は前巻の後をうけて、印度タラハン王国の太子スダルマンを中心とせる、同国の祭政一致の維新に至る波乱重畳たる経路を口述せられたるものにして、太子および旧左守の娘スバール姫の燃ゆるがごとき初恋の描写より、太子唯一の寵臣アリナの活躍に依つて、深山の名花はタラハン市の片ほとり、茶の湯の宗匠タルチンが離れ座敷に移植されて、満足せられたる両人の恋の焔は、ますます暴威を揮ひて、太子の変装脱出、アリナの身代り太子などの苦肉策は却つて滑稽味を帯び、アリナもまた魔の女信夫の毒手に危ふく翻弄せられむとする折柄、予て特権階級資本家などの横暴に反抗して立てる謎の女バランスの率ゆる民衆団の爆発暴動となり、民衆怨嗟の炎は城下の過半を焼き尽し、タラハン城下は阿鼻叫喚の地獄道と急変し、太子はスバlル姫と駈落ちして右守の魔手に捉はれ、大王は城下内外変乱を焦慮して病重態に陥り、アリナの脱走より、右守司サクレンスの大陰謀はこの機にその効果を収めむとする時しも、三五教の宣伝使梅公司の出現によつて善悪は立別けられ、正邪は各その処を得、大王の国替へ、太子の即位ならびに結婚披露、旧左守シヤカンナの復活、アリナ、バランスの登庸、大宮山の神殿造営などを主たる問題として、滅亡の淵に瀕せしタラハン王国は、階級打破、上下無差別、祭政一致の理想的地上天国と蘇生したる綱領を、恋愛問題、貞操論乃至奇想天外的の滑稽諧謔をもつて潤飾せられたる教訓、情味津々として尽きざる神示の物語であります。神意の存する処は何時もながら、読者の各自各様に会得せられることと思ひます。惟神霊幸倍坐世。



第1版 2004/08/21
第1.1版(一部修正)2015/01/02

メニューは画面上部の左端の三本線のボタンをクリックします。

メニューを閉じるには、コンテンツの部分をクリックしてください。下の画像では、赤い部分です。