民主主義と自由・平等 

1.王仁三郎と民主主義・自由・平等

2.王仁三郎の民主主義観

3.自由

4.共和制

5.平等・自由

6.まとめ


1.王仁三郎と民主主義・自由・平等

今、自由(フリーダム)、民主主義(デモクラシー)という言葉を聞いてどう思われますか?

私は戦後教育を受けているので、自由と民主主義は根本的に善なることと思って生きてきました。それで、保守党である自由民主党がなぜ、自由と民主という言葉を使うのか、とても疑問に思い、言霊の違反ではないか、と感じてきました。

しかし、今、アメリカの言うデモクラシーと、私たちが思い浮かべる民主主義とはイコールでしょうか。
デモクラシーの名の下に、派兵し、デモクラシーの名の下に、誤爆(?)し、人々を殺し続けるアメリカ。
議会制民主主義の名の下にはあるが、多くの人が選挙には参加せず、一部の「自由」勢力によって国の方向が決まる現代日本。

そこで、王仁三郎を調べてみると、王仁三郎はどんな著作でも民主主義は認めていません。自由もいわゆる私達が使う意味では使っていません。

私たちのイメージするような、「平和・文明・自由・独立・人権を破ぶる者に向って、飽くまでも戦う精神。無理非道なる強き悪魔を倒して、弱き者の権利を守る精神」は日本魂(やまとだましい)と呼んで、民主主義とは区別しています。

ここでは、王仁三郎の言う民主主義・自由・平等を原文に即して考えてみたいと思います。

なお、この論考では、言葉だけを考察しているので、霊界物語の各物語については考察から省いています。王仁三郎の最終的な思想については、物語のストーリーから考えなければならないでしょう。


2.王仁三郎の民主主義観

どんな文献を見ても、王仁三郎はいわゆる民主主義・デモクラシーを否定しています。 

いくつかあげてみましょう。ここにあげてある文章のそれぞれ全文は「うろーDB」で見ることができます。

民主主義 = 外国の精神

神霊界 1919/03/15 伊都能売神諭
 
今の世界の人民の精神を改造いたして置いて、世界の改造に掛る経綸であるから、日本の人民は一日も早く神の洪恩を弁へ、皇室の尊厳と国家の大使命と国民の天職を覚つて、誠の日本魂に立帰り、一番に此の神国を修斎し、次に国民一致の神力で外国を平らけく安らけく与らねば成らぬのが、日本人民の神から与へられた大使命であるなれど、今の日本の人民は肝心の国体の精神を忘れて、外国の精神に誑されて了ふて居るから、日本の国では絶対に天地が潰れても用ゐられん、民主々義を唱ヘる鼻高が出来て来て、何も知らぬ日本の人民が学者の申す事を信じて、夫れに附和雷同して約らん事を致すやうに曇りて了ふて居るから、今が世界の正念場であるから、神が永らく苦労いたして、人民に気を附けるので在るぞよ。
 
神霊界 1919/06/15 皇道我観(七) 

鳴呼皇国は、天神地祗の佑護に成れる、建国以来の歴史によりて、克く其の国粋を保ち、時に精華を開きたりと雖も、現代の風潮は、漸く妖蘖の兆を醸成し、国民思想の根底は、油水の浸潤するが如く、腐敗蝕すること、元寇の禍害に幾百倍し、外来思想の伝播は妖僧の如く、皇道を無視し且つ軽侮し、祖神が以て、天壌無窮なりとして依さし給へる神国の基礎、また以て不測の禍根なきを保ち難からむとす。見よ、上下生活難を絶叫するは何の為ぞ、安分の念なくして、虚栄浮華に奔るを以てなり。六親相怒り、郷呂相鬩ぐは何の為ぞ、誠敬の心無くして、自他相欺くを以てなり。父子の情殆ど絶え、君臣の大義将に滅せむとす。於是乎社会共産主義あり、自然主義あり、民主々義あり、共和主義あり、厭世主義あり。
 
神霊界 1919/08/15 随筆

世界の風潮に順応せよと訓示する為政者が出来た。今やデモクラシーの風潮は全世界を風靡して居る。併かし何程全世界の思潮でも、我国に決して斯かる思潮を採用する事は出来ない。万世一系の皇統を戴き、天壌無窮の皇運を扶翼し奉つて、祖先の遺風を顕彰し、世界万国を神皇の徳沢に浴せしむる如う、各自に努力せねばならぬのである。
  
神の国 1933 国家の権威

教育勅語に「克ク忠ニ克ク孝ニ」と陛下は勅を降されてある。こんな権威のあることを勅される国は世界何れの国にもあるまい。日本のみである。皇道の本義を真解せざる者には判らないし、民主的の思想を持てる外国人は唖然とするであらう。皇威の尊厳にして、炳乎たる所が判るまい。又日本は一団の国家である。国が一家を為してゐる。外国は国家と云へぬ。只国である。それから仏教でも、キリスト教、其他既成教の経典には「国」と云ふ文字が無いのもあれば、あつても亦僅少であるのもある。大本の神諭の中には「日本の国」と云ふ文字や「神の国」と云ふ文字が頗る沢山ある。如何に国と云ふ観念が強く入れてあるかと云ふことが判る。即ち大本の教は国家的思想が経典の基礎を為して居ると云つてもよい。

次の文章の文脈からみると、デモクラシー=石屋の陰謀の一部となります。

神霊界 1919/11/01 随筆

 デモクラシイは現今の一大流行物と成て居る。学者は一も二も無く之を謳歌し、次に宗教家までが驥尾に附随して得意がつて居るとは、実に神国の国体上から見て怪しからぬ次第である。九分九厘と一厘と云ふ神諭が出てあるが実に外国の思想及び行動は、日本人を駆つて、九分九厘まで此主義に心酔せしめて了うた。我々は飽く迄、天祖の神勅を遵奉し、且つ実行して、祖先の遺風を顕彰すべき天賦の職責ある事を、片時も忘れては成りませぬ。上下混乱の極に達せる現代を救ふは、神の御子と生れ出たる日本人の天職であるから、将来に於て如何なる思想が蔓延して来ても、亦た如何なる不祥事が頻出しても、皇祖の神の神勅と、一天万乗の大君様の御事は、造次にも顛沛にも忘却する事は出来ぬのであります。
 万々一にも此の事を忘れて、外来の思想に迷つたならば、最早や日本神国の人民とは申されませぬ。神界に対し奉り、天地容れざる逆臣逆賊であります。其故に艮の金神、大国常立尊は、世界の中心地の高天原なる下ツ岩根の竜宮館に出現遊ばして、変性男子の身魂を機関として、石屋の世界を攪乱しつつある悪の陰謀を、日本の人民に警告されたので在ります。悪神の計略に甘々と乗せられ切つて居る。国民は盲目や聾と同じく、誰一人として真実に耳を藉すものも無く、眼を開くものも無かつたので在りますが、今や神諭の実現は時々刻々に顕著に成つて来ましたから、一日も早く覚醒して頂き度いものです。
下の文章では、尾の崎の八尾の玉= 尾崎行雄は八頭八尾 と言う意味。
尾崎行雄

神奈川県に生まれる。慶応義塾中退後、新聞記者を経て政治活動に入った。
明治23年の第1回総選挙に出馬して以来、当選25回を重ねた。東京市長、大隈内閣の司法大臣をつとめた。大正デモクラシーの時代には、普通選挙運動の先頭にたった。
第二次大戦中は翼賛政治の批判を繰り返した。
戦後は平和主義、世界連邦主義を唱えた。
 
神霊界 1920/02/01 随筆

 斯かる国家の現状で、何して我祖神の、以て天壌無窮と依さし玉ひし、神国を保持し、進展せしむる事が出来るであろう乎。上の守護神も下の守護神も、十中の八九までは、皆四ツ足に成り下つて了ひ、飯綱狐、一名管狐、又は尾崎狐と日ふて、手品師の懐に居つて、種々の悪業を為す豆狐の守護神が、汽車中で今日のデモクラシーに反対する如うな団体こそ、危険思想団体であると吠えて居る。実に吾人は呆れて物が言へぬのである。共和の二言で、高い処から引き落された様な守護神は、何時に成つても落ちぬと見へる。是は大本の鎮魂術でも容易に落ちぬ。
 慢性的狐愚病者であるから、斯う言ふ狐憑病者に魅せられた天下の愚蒙者が、尾の崎の八尾の玉の振り行く雄に盲従して、普選問題を担ぎ廻はり、デモクラ酒に泥酔して、千鳥足に大地を迂路つき、終には泥溝ヘ陥落する迄は、気が付かぬとは、実に情け無いではないか。最早今日と成つては、在来の宗教でも、教育でも、倫理学でも駄目だ。皇祖皇宗の神霊を信じ、且つ千古不磨の御遺訓を奉戴し、以て神の真の教を遵奉し、皇大神の大前に拍手敬礼を怠らざる、至誠、至忠、至敬、至真の大本団体の神力に依拠せなければ成らぬ、国家危急存亡の秋である。夫れ故に、昔から「眼の無い千鳥手の鳴る方へ」と云ふ俗謡が、誰れ云ふとなく伝はつて居るのは、我が皇道大本の出現を予告したものであると思ふ。
霊界物語の中では、デモクラシーとか民主主義について評価は下していません。
物語08-6-40 1922/02 霊主体従未 言霊解(二)
 
頭に成りませるとは、すなはち上の方はいらぬといふて、今日のデモクラシーのごとく、人類は平等に天の恵を享くるといふ説で、階級撤廃などといふ思想が起るといふことであります。
 
物語54-4-15 1923/02 真善愛美巳 愚恋 

『決して恥づかしとは思ひませぬ、男としてこれくらゐ名誉はないと心得てゐます。よく考へて御覧なさい。貴族だとか、門閥だとか、富豪だとか、人為的の階級を楯に取り威張り散らしてる、一方には没分暁漢があり、驕慢不遜の奴があり、一方には泥坊にも等しき上流社会を、一生懸命に尊敬し、一文の御厄介にもならぬ貴族に対して、米搗バツタよろしく、頭を下げ腰を曲げ尾をふり、追従タラダラ至らざるなき愚痴妄眛の人間に対し、一種の刺激剤ともなり、覚醒剤ともなり、興奮剤ともなりませう。決して男女の関係は、権門や門閥や財産や地位や古き道徳によつて、左右し得べきものでないといふ標本を示した犠牲者でございますから、世問の人間は、……この六助を男の中の男だ。大丈夫の典型だ。ラブ・イズ・ベストの擁護者だ。貴族に対する警戒だ……といつて賞讃してくれてるでせう。今回の六助の行動によつて、キツと社会の亡者連もやや目を醒ました事でせう。貴族だつて、平民だつて、運転手だつて、同じ人間です。思想観念に決して変りはありますまい。それゆゑ私は暗黒なる社会の光明となつた考へでございます』
『何とマアえらい権幕だなア。よほど娑婆の教育も、デモクラチツク化したとみえるワイ』
『私は恋愛に悩む世間の男女のために犠牲になつたのです。平民階級の娘ならば少しばかり自由が利きますが、上流階級の娘とくると、それはそれは悲惨な者でございます。上流の娘のために、今まで閉ざされたる天国の道を開鑿した大慈善者でございます』
針灸思想の背景

ある国の皇太子が、ある娘に新思想をふきこまれ王位を去りたいと言い出した。そこで、その娘とその父が議論を戦わせます。

ここでは、共産主義と平民主義=民主主義が同置されています。それを批判している老人は専制主義を主張しているようにも見えます。王仁三郎がどちらの立場に立っているかはこの文章では不明ですが、これまでの他の著作から、やはり老人の側に立っていると見るのが自然でしょう。

しかし、この文章だけからみると、王仁三郎は平民主義に立っているものとも思われます。

物語67-4-21 1924/12 山河草木午 針灸思想   「老人」・「娘」は狭依彦

老人 『不忠不義とは何たる暴言ぞ。貴様こそ万代不易の王家を覆へさむとする悪逆無道の曲者だ。不忠不義の逆賊だ。共産主義や平民主義を太子殿下に日夜吹き込んだ売国奴め、黙言おろう』
 『お父さま、天帝より賦与された私の言論機関を行使するのは、私の自由の権利でございます。今日の不完全極まる貴方の作つた法律でさへも、言論集会の自由を認めてゐるぢやございませぬか。左様な解らぬ事をおつしやいましては、耄碌爺といはれても弁解の辞はありますまい。矛盾混沌、自家撞着もここに至つて極まれりといふべしです。あなたは一体個人の人格を無視せむとしてゐられますが、国民としても、個人としてもその個性を十分発達させ、天地の分霊としての働きを十二分に発揮させ、その自由の権を十分行使させねばならぬぢやありませぬか。それだのに、あなたは圧迫や威喝をもつて之を妨げむとするのは、時代に疎い癲狂痴呆者といはねばなりますまい
老人 『お前は年が若いから政治の枢機に参加した事がないから、左様な小理窟をこねるのだ。しかしながら理論と実際とは大いに違ふものだ。今頃の政治家を見よ、野にある時は時の政府の施設に対し、どうのかうのと極力反対を試み、民衆を煽て上げ遂に政府を乗つ取り、さて国政を執つてみると俄然と調子が変つてきて、野にあつて咆哮した主義主張もケロリと捨て、いな放擲せなくてはならぬやうになるものだ。それだから世の中は議論と実際とは大いに径庭のあるものだ。その間の消息も知らずに青二才の分際として、小田の蛙の鳴くやうにゴタゴタいうても納まらないぞ。総て政治の秘訣は圧迫に限るのだ』
 『どこまでもお父さまは解らないのですな。理窟はどんなにでもつくものですよ。専制と圧迫を唯一の武器として治めてゐたスラブはどうです。チヤイナはどうですか。既に已に滅亡したではありませぬか。世界各国競うて共和主義をもつて治国の主義となし、次から次へと王政が亡びてゆく趨勢を見ても、時代の潮流は共和主義に向かつて、急速力を以つて進んでゐるぢやありませぬか、個人個人を無視するやうで、どうして国家を治める事が出来ませうか。賢明なる太子殿下は早くもこの点に気付かれ、王位を去つて庶民となり、個人として、人間らしい生活をやつてみたいと望んでゐらつしやるのですよ。もうお父さま、あなたも好い加減に骸骨をお乞ひなさい。あなたが一日国政を料理さるればさるるだけ、それだけ国家は滅亡に向かふのです。国民の多くは-…頑迷固陋の左守が、一日も早くこの世を去れば、一日だけ国家の利益だ……と言うてをりますよ』
老人 『お前は個人個人というて盛んに個人主義をまくし立てるが、個人主義が発達すればするほど専制政治が必要ぢやないか。完全なる個人主義が発達し、生活し得る力が出来たところで、ほんの小つぽけな砂のやうなものだ。二十万の国民が、二十万粒の砂になつたやうなものだ。個々別々になつた砂は何ほど堅固でも団結力はあるまい。個人としてはよからうが、国家および団体としては実につまらぬものぢや。そこで、カラピン王家といふ大きな革袋が必要なのだ。この革袋に二十万粒の砂を入れ袋の口を固く縛り、横槌などで強く叩きつけてこそ初めて一つの国家団体が固まるのぢやないか。革包の破れた袋はいはゆる支離滅裂何の力もない。それを貴様は破らうとする極重悪人だ。賢明なる殿下のそれくらゐの道理のお解りにならない筈はないのだが、貴様が常に悪い思想を吹き込むものだから、あのやうな悪い精神におなりなされたのだ。いはば貴様はタラハン国を覆へす悪魔の張本だ。ア丶もう仕方がない。死ぬにも死なれず、伜は何ほど説き聞かしても頑迷不霊にして時代を解せず、政治を知らず、何とした苦しい立場であらう』

吉岡発言は王仁三郎の民主的精神を表したものとされますが、注意深く読むと民主主義を手放しで礼賛したものでは【ない】と思われるのですが・・・

大阪朝日新聞 1945/12/30 吉岡発言    全文

自分はただ全宇宙の統一和平を願ふばかりだ、日本の今日あることはすでに幾回も預言したが、そのため弾圧をうけた〝火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ〟のお告げも実際となって日本は敗けた、これからは神道の考へ方が変ってくるだらう、国教としての神道がやかましくいはれてゐるが、これは今までの解釈が間違ってゐたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない、たゞほんたうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた、殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀ってゐることが間違ひの根本だった。

ここだけは民主主義を肯定しているように感じられます。

新月の光(下) 1946 神様は民主主義

問 聖師様を友達のようにしては、いけませんね。

答 いやこの方が王仁は好きじゃ。神様は民主主義じゃからな。


3.自由

ここでは王仁三郎の「自由」に対する態度を見てみます。

■辞書の説明

自由 (名・形動)[文]ナリ

(1)
〔freedom; liberty〕他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。

(ア)
哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。

(イ)
社会学的な意味では、社会集団が個人の自律的な判断・決定能力を発展させる構造的条件を備えていること。基本的人権のほか価値・規範体系の整備なども含む。
「―な社会の実現」

(ウ)政治的・歴史的には、時代によって異なる内容をもつ。古代ギリシャでは奴隷などと区別されたポリス市民固有の属性、すなわちすぐれたものへの洞察力を意味したが、中世ヨーロッパでは身分的特権の別名であった。近代のリベラルな自由概念は一七世紀の宗教戦争以来成立し、市民革命を経て強化・確立され、宗教的自由から思想・信条の自由が、さらにそこから言論・出版の自由が要請された。この過程で、権力と対立しこれを制約する自由という視点も出てくる。マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律が真に達成されることが重要視される。

(2)物事が自分の思うままになるさま。

(3)
わがまま。気まま。

■王仁三郎の用法

王仁三郎は基本的に次のような使い方をしています。

(1)の自由については難しいところですが、ブッシュの言う自由、自由民主党の自由、たぶん共産主義で言う自由など民主主義と関連する自由なら否定的です。

(2)についてはは、自由に○○する、自由自在、自由行動のように、「束縛されずに」という意味が多いです。ほぼ肯定です。

(3)のわがまま、気ままにについては、自由競争、自由思想などは、自分勝手にわがままに競争する、自分勝手な思想などの意味で使っています。たぶん、否定的立場です。

また、宗教の自由信仰の自由言論の自由はなど一般的な用語としても用いています。これについては肯定。


**民主主義に関連する自由**

王仁三郎は民主主義を否定しているので、「自由」、「平等」等の用語も否定しているということでしょう。自由・平等=外国の悪思想と何度も言っています。

直霊軍 1910/12/10 皇道研究の趣意

見よ、上下生活難を叫喚するは何の為ぞ、安分の念なくして虚栄浮華に奔るを以てなり、六親相怒り郷閭相鬩ぐは何の為ぞ、誠敬の心無くして自他の相欺くを以てなり、父子の情殆ど絶ゑ、君臣の義将に滅せんとす、於是乎、社会主義あり、自然主義あり、厭世主義あり、日く吾人の意思は自由にして、人権は平等なり、故に共和政治は最も人生に適す、日く天は人を平等に生み、平等に愛す、須く共産主義を行ふべし、曰く人は自然に生れ、死するも亦自然なり、故に自然的情慾を恣にして無政府なるべし、日く人生は猶火宅の如く身を焼ひて止まず甚だ厭ふ可しと、或者は豺狼の如く或者は羊豚の如くにして民心常に薄冰を践むが如く、国家亦常に深淵に臨むが如し、噫思ふて茲に至れば、現時は是一大乱世に非らずや、若其れ家貧にして孝子出で、国乱れて忠臣顕はれ、天下道無くして、聖人起るとせば、今を措て他ある無し。

次の文章では、自由=民主主義と同じ意味でしょう。
神霊界 1919/11/01 神諭

 自由も平和も来るものでないぞよ。日本には天照大神様の万古不易の動ぬ神教があるから、此の教を忘て、向ふの国の悪神の行り方を致したら、到底世界は安神して暮す事は出来ぬから、日本神国の人民は、一人も残らず天照大神様の御血筋を立て、麻柱の誠を貫いて行かねば成らぬ、大い天からの責任があるので在るから、国の権力や神の稜威を無視するやうな、悪神の計略にかゝらぬ様に致して下されよ。

自由平等=マツソンの悪思想。
神霊界 1920/01/15 随筆

フエドロフ氏は日本は是までは彼等の秘密結社から全く除外されて居たと云ふて居るが、それは氏の誤解である。マツソンの最後の目的は矢張日本に在つたのである。只だ時期が到来せなかつたが為に今迄手が延び無かつたのである。併し彼等の自由平等だのと得意に成つて騒ぎ廻つて居るのである。日本国には天地開闢の太初より惟神の大道が開かれて在るのだ。今日までは神界の摂理で和光同塵の神策を採つて来た日本国も弥々天運循環して五六七神政の成就に近づいたのであるから、一日も早く真の日本人に立返り、日本神国臣民の使命を自覚して天地に代る大功を永遠に立てねばならぬのである。

米国と自由。

物語42-0-1  舎身活躍巳 序文に代へて

ケマル・パシヤ一たび小亜細亜の風雲に叱陀して長剣を撫し咆哮怒号するや、欧洲列強ことごとく震駭し、さすがの大英帝国宰相ロイド・ジヨージもその地位を失墜して一平民となり、幾度となく死を報ぜられたレーニンは再び健康を恢復して、奇策を欧亜の天地に揮ひ、依然として一敵国の感をなし、日露の会議はその効を収むること能はずして、武器問題倏忽として起り、日本海の波浪これがために騒がしく、印度また叛乱勃発し、支那には独立軍威を振ふあり、米国は自由と正義を標榜しつつ全国にわたりて軍事教育を施し、海相デンビーをして伊仏両国の海軍条約に批准せざる間は、一艦たりとも之を破却せずと宣告し、その仮想敵国の何れにあるかを疑はしむ。

外国の自由主義。

神の国 1933/07 勇往邁進

日本国は万世一系の天皇陛下を戴く尊い国柄であるが、日本臣民も亦同じく万世一系で、いや次ぎ次ぎに栄えゆきて、子、孫、曾孫とつづくのが目出度いのである。外国は禅譲、放伐、自由、協和、共産等の政体、日本は万世一系の大家族主義の国体である。
 何か過失があると、すぐ逐出して仕舞うて新しい人にかへると云ふ思想、やり方は面白くない。之は外来思想である。やり方が悪くばよく言ひ聞かせて、改めさすやうにするのが家族主義のやり方である。

個人主義=自由主義、明治の初めに外国から入ってきた。思想の混乱を招いた。

1935/03/12 昭和神聖会台湾発会式に於る挨拶

明治維新の天業は此の御詔勅の精神により駸々乎として旭日昇天の勢で、進展して参りましたが、明治四年の末つ頃より、海外の文物制度が輸入さるゝにつれ、個人主義自由主義の思想が我が、国に流れ込みましてより、折角の明治天皇陛下が国民に賜うたところの御詔勅の精神は、次第々々に薄らいでしまひ、行はれなくなつてしまひまして、明治五年、早くも神祗官が廃され、明治八年には、此の皇道宣布の機関たる教部省迄も、廃止されるのやむ無きに立至りました。其処で神仏合併院たる大教院を興され、又皇道の宣布に従事せしめられつゝありましたが、之も間も無く、外来思想の為に廃止されるに立ち至つたのであります。若も此の御聖慮にして、今日迄行はれて居りましたならば、現在の如き海外に行き詰りもなく、超非常時も無く、又、我国の超非常時なるものも招来しなかつたと思ふのであります。何故なれば此の道は古今に通じて誤らず中外に施して悖らざる天地の大道なるが故であります。


**自由競争**

自由競争は、上で見た外国の悪思想を実現するために実際に行われる行動です。当然王仁三郎は否定的です。

次の文章では、
自由競争 否定
資本家や地主が自由に資源を所有すること 否定
人類の多数は生活の自由と衣食の平等を求めんが為  マイナスの意味

本教創世記 1904/01

神教え諭し玉うよう、「汝宜敷吾言葉を聞くべし。抑々(そもそも)現し世(うつしよ)の状態は如何と思うぞ。真理は深く包まれて一点の光もなく、徳義は破れて人心は腐敗し、自由競争の悪習は最早頂点に達したり。このままにに放任しおかんか、世界の滅亡を招くに至るべし。因りて神界より汝を卑しき農夫の家に降して、善く世の辛酸を嘗(な)めしめ千辛万苦を与えて、世の救主と為さんとの神慮なり。汝は今迄成し来りし事は皆天の為さしめ玉う所なり」と教え玉いければ、余は驚きと喜びとに打たれて、暫時無言のままに神の方をのみ視守り居たりけり。

夫(そ)れを地主や資本家なる者が、自由に壟断したり占有して居るのは、人類全体の生活を左右し死命を制する所以(ゆえん)であるが、彼地主や資本家や、果して何の理由があり、何の徳があり、何の権利が有って、之を壟断し、専有し、増大し、以て、数多人類の幸福なり平和なり進運なりを蹂躙するのであろうか。一挙手の苦、一投足の労も無くして、飽食暖衣、放逸歓楽をほしいままにして、多数人類の労働の結果を略奪せしめて、しかも吾人は彼等の道義的盗賊を放養して、以て其専恣掠奪に任して置いて、一方には、多数の人類が常に飢餓凍死の域にこん転して、満足すべきものであろうか。考えれば考うる程、不理と矛盾とが充満してる如くに思われて、怪しき限りであったのである。
 而して、宗教はあって博愛を鼓吹するとも、未だ現世を救うに至らず、只死後の楽園を想像せしめて、吾人の心中にわずかに慰安を与うるにすぎない。現世の大矛盾を改めて、天国に到遠せしむるの器具ではないか。教育は、以て多大の智識を付与すると難も、未だ吾人の為に半日の衣食をも産出するものではないなり。法律なるものは、よく人の行為を責罰すれども、人類をして天国の人となさしめるの要具ではない。陸海の軍備は充実するも、人をよく屠殺して、地主、資本家を保護するのみで、多数飢凍の人類を安全に生活せしむるの利器ではない。鳴呼、如何にせば此の矛盾せる社会を一掃して天国となさしむる事が出来ようか。世界人類の苦痛と飢凍は、一日一日と急迫して来る。人類の多数は生活の自由と衣食の平等を求めんが為めに、一切の平和と進歩と幸福とを犠牲にせざればならぬのであるか。ああ、人生なるものは、果して如此(かくのごとく)不完全なるものであろうか。

自由競争=盤古神王の思想
次の文章では、竜雲はウラル教の宣伝使ですから、竜雲の思想はウラル教の思想と言ってよいと思います。
竜雲は後には改心して三五教となりますが、この時点では悪役です。その思想とは自由競争です。
「今日の矛盾不合理きはまる社会の習慣を打破し、智者をしてその智をふるはしめ、勇者をしてその勇を活躍せしめ、自由競争をもつて社会の原則となさねばならない。」

物語36-3-15 1922/09 海洋万里亥 眩代思潮

竜雲は嘲笑ひ、
『何を言つても同じ穴に棲む貉だから、この責任は二人で分担せなくてはならないのだ。しかしながら今の世の中は、奸者侫人、悪逆無道を敢行するだけの器量ある者を称して、英雄豪傑、紳士紳商、国民の選良と持てはやすのだ。現代思潮の真髄を極端に体験したるわれわれ両人は、実に現代における勇者だ、覇者だ。善悪といふものは、時と所と地位とによつて変るものである。人間も肉体のある限りは、何といつても衣食住の完全を望まなければ、人生は嘘だ。下らぬ古き道徳観念にとらはれ、半死人的行為をなすをもつて至善の道と迷信してゐるやうな人物は、もはやこの世界に生存の価値もなければ、見識もない馬鹿の骨頂だ。
 それだからこの竜雲は、無抵抗主義を標榜する人類愛善の教の三五教や、人間の階級を三段に分けて、上中下三流に対し社会的待遇を異にするやうな矛盾を、平気でやつてゐるバラモン教はなほさら嫌ひだ。すべて世界の人種は有色無色を問はず、一切平等に神の恩恵……語を換へて言へば、自然の天恵は偏頗なく均霑さるべきものだ。今日の矛盾不合理きはまる社会の習慣を打破し、智者をしてその智をふるはしめ、勇者をしてその勇を活躍せしめ、自由競争をもつて社会の原則となさねばならない。さすれば力一杯の大活動もすることが出来、野に叫ぶ聖人は頭を抬げて、平素懐抱せるその妙智妙案を発揮するやうになるのが、いはゆる一切平等、偏頗なき自然の神慮にかなつたものである。
 
さうだから姫も今までの旧慣をスツカリ放擲し、日進月歩の今日だから、わが教に従つて、世界第一の新しき女となつて、その驍名を竜雲とともに、世界に輝かすだけの覚悟を持つてもらはなくちやアならない。この夫にしてこの妻あり、諺にも鬼の夫に蛇の女房といふことがある。これは取りも直さずこの世界を造り玉ふた盤古神王さまが、比喩を作つて、世界万民の口に知らず知らずの間に伝へさせ玉ふたのである。これほど鬼大蛇悪魔の蔓延る世の中に処するには、それ以上の強圧力がなくてはたうてい駄目だ。鬼と蛇との夫婦が現はれて、世界を統一するといふ予言を神さまがしておかれたのだ。その予言の体顕者はすなはち吾ら両人だ。自由自在に行使すべき独特の権能者だ。
 たとへ根の国底の国が仮りにありとしても、この現幽神の三界は残らず盤古神王様の掌握したまふところ、盤古神王の御意に叶ふた行動をなす者が、どうして罪になるものか。姫も少しは胸に手を当てて、よく考へて見たがよからう。
 善悪不二、正邪一如といふではないか。人の体だつて前後ろがある。わが背中の鬼の斑紋は、わが唯一の守護神が顕現したのだ。前から見れば実に円満具足の好男子、真善美の極致に達した立派な竜雲王である。裏面より見れば、すなはち悪鬼羅刹の首魁である。
 床の間の掛物を見てもさうではないか。あの通り美しい絵画が描かれてあるが、かの軸の裏面は実に粗末な紙ばかりの殺風景な品物ではないか。人間の同じ一つの体にも、清浄無垢にして日月にも比喩ふべき両眼のあるとともに、汚穢きはまる大小便の噴出口があるであらう。この噴出口が汚穢だといつて取り去つてしまふものなら、たうてい全身の安静を保つことはできない、従つて何ほど美しい両眼もたちまちその光明を失つてしまふであらう。葱の白根を見てもさうではないか。土にかくれた汚い臭気のあるところに、かへつて無限の味がある。屍のあるところには鷲集まり、濁れる水には数多の魚集まり来たる。
 これくらゐな天地の道理が分からなくて、どうして神地の城の花形役者となつて、世に時めくことが出来るであらうか。チツとそなたも改心をしてもらはねば、この竜雲の社稷はたうてい保たれないぢやないか』

自由放漫もマイナスの意味です。
物語01-0-2 1921/10 霊主体従子 発端

されど神明には、毫末の依怙なく、逆行的神業なし。一度手を降したる神業は昨日の今日たり難きがごとく、弓をはなれたる矢の中途に還りきたらざるごとく、ふたたび之を更改するは、天地自然の経緯に背反す。ゆゑに神代一代は、これを革正すること能はざるところに儼然たる神の権威をともなふのである。また一度出でたる神勅も、これを更改すべからず。神にしてしばしばその神勅を更改し給ふごときことありとせば、宇宙の秩序はここに全く紊乱し、つひには自由放漫の端を開くをもつてである。古の諺にも『武士の言葉に二言なし』といふ。いはんや、宇宙の大主宰たる、神明においてをやである。

ここの自由も平等もマイナスの意味です。「草の片葉に至るまで言問」は大本の祝詞、神道の祝詞にも出てくると思います。
物語04-0-2 1921/12 霊主体従卯 総説

 そしておのおの神の意志を表白するために、第一の生命ともいふべき言霊の神器を極力応用されたのであります。現代のごとく自由だとか、平等だとか言つて、誰もかれも祝詞にいはゆる「草の片葉に至るまで言問」すなはち論議するやうになつては、神界現界ともに平安に治まるといふことは望まれないのであります。

自由思想、自由結婚、マイナスの意味。

東北日記(4) 1928/08/26 無題

 それでも因習を厳守する有産階級や特権階級の間においては、かなり家柄だとか財産が相当するとかいつて、聞き合わせなどにそうとう手間どるものがあるが、近世自由思想のみなぎるにしたがつて、ようやくそれが、人間自体の本旨に、比較的縁の遠いものだということに考えられてきたので、青春の男女の間においては、家柄だとか、財産だとかいう問題は、それほど重大視されなくなつた傾向がある。
 これらいくたの曲折を有した過去の経緯から考えて、近来はそういう形式から脱して、いわゆる人格意志の結合というものを尊重してきたようである。意志の結合と共鳴があつて、そこに結婚の意義が存在するのだ。むかしの人は野合だなどといつて、ずいぶんけなしたり軽侮の眼をもつて過したものである。それが時の潮流におされて、自由結婚だなぞと肩で風を切り、天下を澗歩するからすさまじいのだ。


**自由がプラスの意味で使われている個所**

次の文章ではプラスの意味で使っています。

敷島新報 1916/01/20 現代の精神的堕落

然れども教育方針の改革・学風の一新は、寧ろ学制問題以上に重要なりと云わざるべからず。従来の注入教育に代うるに啓発教育を以てし、良民教育に代ゆるに偉大国民教育を以てし、自由雄渾の思想を鼓吹して、以て下劣俗悪なる利己的観念により靡爛せる我国民の心腸を一洗するは、実に今日焦眉の急ならずや。然れども凡庸なる当局に対して、吾人は望みを嘱するの愚を演ぜざる可し。

ここもプラスの意味。
物語23-99-1 1922/06 如意宝珠戌 霊の礎(八)

一、また卑賤無智にして世道人情を弁(わきま)へなかつた悪人は、光明と愛と自由のない地獄に落ちて苦しむものである。生前すでに不和欠陥、闇黒苦痛の地獄に陥った人間は、現界にある間に悔い改め、神を信じ、神を愛し利已心を去り、神に対しての無智と頑迷を除き去らなければ、決して死後安全の生活はできない。現世より既に已(すで)に暗黒なる地獄の団体に加入してゐるものは、現界においても常に不安無明の生活を続けて苦しんでゐるものである。一時も早く神の光明に頑迷なる心の眼(まなこ)を開き、天国の団体へ籍替(せきがへ)をなすことに努めなければならぬのである。

ここでは、自由については評価していません。むしろプラスの意味でしょうか。
物語30-99-3 1922/08 海洋万里申 デモ国民歌

デモ国民歌
日本人は日本人を       善悪正邪にかかはらず
賞賛すれば良民と       認めてくれるが苟くも
欠点挙げて論ずれば      眼をば怒らせ肩を張り
非国民種と扱はる       これは果たして日本人の
清き態度と言はれうか     公平無私で自分らの
身の欠点を非難して      自省せなくちやならうまい
愛神愛民称ふれば       ただちに赤化非国民
解放自由もその通り      国民滔々自覚して
文化運動に共鳴すれば     これまた直ちに非国民
日本に日本人なしと      慷慨悲憤を装ふなり
元来日本の神民は       寛仁大度同化力
なければならぬ神の裔     見よや国祖の大神は
皇運隆々天壌と        共永久と詔り玉ひぬ
天地を広く開拓し       自国の短所を取り除き
他国の長所を採用し      六合を斉うすべきなり
決して内訌や小競合      なすべき時代に非ざらめ
吾が欠点は喜んで       根本的に改善し
民は君をば本として      誠を啓き人類を
愛撫し国利を興さしめ     世界共通の幸福を
一つにするは日本人の     天地自然の道ぞかし
国民外交の真意義を      忘れむとする国人は
世界の国より排斥を      受くるも何の辞かあらむ
七千余万の同胞の       革正すべきは今なるぞ
アゝ惟神惟神         御霊幸はへ坐しませよ。

霊界物語などによく出てくる、女の自由=女権拡張です。これはたぶん、プラスの意味で使っています。

物語47-1-6  舎身活躍戌 美人草

『元始女性が、太陽だらうと雌猿だらうとかまはないが、人間が胎生動物であつて、女が子宮といふ、立派な製人器を持つてゐることは間違ひない。いやなら児は産まないでも、それは御勝手だが、する仕事は不器用だし、恋をしても浅薄だとなると、女の生きてゐる甲斐は、どこにもないぢやないか。所詮女は、男に隷属すべきものだからなア』
『俺は、女は、男に隷属したものだとは考へられないと同時に、独立したものだとも思はない。それはちやうど、男が女に隷属したものでも、独立したものでもないのと同じことだ。しかし俺は、決して女の自由であることを祈るものだ』
女の自由を叫ぶのは怪しからぬぢやないか。思想、感情、習俗、生活などを、自分のものにしようとする謀叛だ、男のおせつかいから、引き離さうとするのだ。一切の権利を女の方へ引つたくらうとする、野望なのだ。女らしくなるのを嫌つてゐるのだ』

神が人間に与えた自由。
物語48-2-9  舎身活躍亥 罪人橋

しかるに現代は、遠き神代の黄金時代は何時しか去り、白銀時代、赤銅時代、黒鉄時代と漸次堕落して、今や混沌たる泥海世界となつてしまつたのである。これも人間に、神より自由を与へて、十二分の神的活動を来たさしめ給はむとしたまうたのを、人間が次第次第に神に背き、八岐大蛇や曲神などの捕虜となり、つひに自ら神に反き、神の存在をも無視するに至つたために、かかる暗黒無明の世界が現出したのである。しかしながら、物窮すれば達するといつて、至仁至愛にして無限絶対の権力を具備したまふ大神は、何時までもこれを看過したまふべき。ここに大神は、現幽神三界の大革正を遂行せむがために、予言者を地上に降し、ある一定の猶予期間を与へて、愚昧兇悪なる人間に対し、神の愛を悟らしめ、勝手気ままの行動を改めしめむと劃策したまうたのである。これを思へばわれわれ人間は、大慈大悲の大神の神慮を奉戴し、造次にも顛沛にも精霊を磨き、改過遷善の道を挙ぐるに力めねばならぬのである。

自由を得る=束縛を解かれる。

物語63-3-13  山河草木寅 蚊燻

これに反し精霊の内面が悪に居つたものは、今や外面的状態を脱れてしまひ、その行動は痴呆のごとく狂人のごとく、現世に在つた時よりも層一層の癲狂状態を暴露し、醜悪なる面貌を表はすものであります。彼精霊の内面悪なりしものは今や自由を得て、表面を飾る外面情態の繋縛を離れたからです。 

言論の自由。権利としての自由。プラスの意味。

物語67-4-21 山河草木午 針灸思想

『お父さま、天帝より賦与された私の言論機関を行使するのは、私の自由の権を十分行使させねばならぬぢやありませぬか。それだのに、あなたは圧迫や威喝をもつて之を妨げむとするのは、時代に疎い癲狂痴呆者といはねばなりますまい』

自由=何物にも囚われないこと。プラスの意味。
神の国 1930/01 淋しいといふこと

 私は昔から淋しいと思つた事が無い。心細く淋しいといふ感が起るのは、霊性に塞がつて居る部分があるのである。囚はれて居るからである。何物にも囚はれない自由豁達な心で居れば決して淋しいものでは無い。囚はるる心には悪霊がやがて感応して来る。例へば人間が縛られて居ると、小さな蚊に刺されても、それを打払ふ力がなくて、大なる苦痛を感ずるのと同じである。両手が空いて居れば打払ふのにも手間暇はいらぬのである。囚はれた心は一寸した悪霊にも苦しめられて、それを打払ふ事が出来ない、あまり小さい事に囚はれて居ると、人間はだんだん心が小さくなつて終りには気が変になるやうな事にもなる。囚はれない、執着しない、大きな心に淋しみなんか湧いて来るもので無い。人の悪口など恐がるやうでは駄目だ、大きなものには大きな影がさす、出る杭は打たれる、じつとしてさへ居れば人にかれこれ言はれる事は無いけれど、問題にせられる位の人でなければ駄目だ。霊性の一部が塞がつて居る人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承はつて居る人は、殊更物語を拝読して置かぬと霊性が塞がつてをつては、本当の御用は出来ない。

次の文章では、神と天皇から与えられる自由だけが許されるとあります。
「小人は平等と秩序を愛す。英雄は自由と創造を愛する。」では自由と平等が対置されています。
ここの自由はプラスの意味で使っているのではないかと思います。

しかし、天皇から与えられる自由が果たして「自由」であるか?そう考える私は、まだ、自分に染み付いた自由を引き剥がすことができないでいます。ただし、王仁三郎の使っている「天皇」は現実の天皇ではなく、理想天皇である可能性もあります。
ここは、「皇上」ということで現実の天皇くさいですが・・・

1934/10/10 統管随筆第一篇

 非常時とは英雄の出現を待望する国民の鬨の声だ。皇運発展の題目だ。日本更生の響だ。神政成就の提唱だ。外国の非常時とは窮乏のどん底、没落の悲鳴だ。一は積極的で一は消極的だ。
 秩序の名によつて所有妨害を加へんとするのは古今東西歴史の通則である。何となれば小人は本能的に平等と秩序を愛し且つ欲求する。又英雄はその止み難き胸奥の欲求によつて自由と創造を愛するからだ。
 今や日本が世界混迷の狂瀾怒涛を押し切り四囲迫害の暴風雨を冒して、輝かしき皇道の彼岸に到達せんとする悲壮なる姿こそは、燦として古今の歴史に独歩すべき英雄的努力である。

 全日本のプロレタリアは国民主義化されねばならぬ。金融資本と株式取引所と百貨店とは全国民の血を搾りつゝあるのだ。光輝ある日本民族の伝統は何処に行つたか。大和魂の血潮は汝等が血管内をモハヤ流れて居ないのか。日本国民に自由だけが許されるのだ。


4.共和制

共和制についても民主主義と同じく認めていないようですが、物語で1箇所だけ、為政者が自分で財産・権力を投げ出して共和制(リパブリック)を布いたと認めているところがあります。
バーチルは、猩々と夫婦になるなど、不思議な体験をしたあと、三五教の宣伝使に救われます。そして、自分の財産をすべて投げ出して、神の司として神の森を守ることになります。

物語60-1-2 1923/04 真善愛美亥 神森

『世はおひおひと更まり    専制制度を破壊して
新し人の御世となり      ソシアリズムやコンミユニズム
海の内外に擡頭し       天地の雲行一変し
天国浄土を地の上に      築かむ時とぞなりにけり
此の家の主バーチルは     世界思想の傾向を
早くも悟り玉ひつつ      ソシアリズムを発揮して
巨万の富を里人に       いと平等に分与しつ
上下睦びて世を送る      至誠を発揮し玉ひけり
これぞ全く皇神の       平等愛の発現か
ただしは人の覚醒か      もしくば時代の賜物か
実にも尊き限りなり
      もしもこのまま頑として
昔のままに地の上の      宝を独占するならば
四民の怨府となり果てて    如何なる凶事が見舞ふやら
図り難なき正念場       よくも改心なされました
これこそ私の御主人だ     アナーキズムやニヒリスト
その外百の主義党派      現はれ来たるを防止して

この美はしき天地を      完全無事に開きつつ
マイトレーヤ(弥勒)の神の世を 楽しみ祝ふ魁と
現はれたまひし猩々彦     猩々の姫の真心を
世人に代はり慎みて      ここに感謝し奉る
あ丶惟神惟神         御霊の恩頼の尊さを
仰ぎ敬ひ祝ぎ奉る』
ここではリパブリックを認めているようです。下からの革命を伴わない共和制ならいい、ということでしょうか。 ここでは、民主主義と共和とは同意です。反対の立場です。
物語60-2-7 1923/04 真善愛美亥 方便

 元来スマの里は何れも山野田畠一切、バーチルの富豪に併呑され、里人は何れも小作人の境遇に甘んじてゐた。しかしながら日歩み月進み星移るに従ひて、あちらこちらに不平不満の声が起こり出し、ソシアリストやコンミユニストなどが現はれて来た。中には極端なるマンモニストもあつて、僅かの財産を地底に埋匿し、吝嗇の限りを尽す小作人も現はれてゐた。然るにこの度、アヅモス山の御造営完了と共に、一切の資産を開放して郷民に万遍なく分与することとなり、郷民はいづれも歓喜して、リパブリツクの建設者として、バーチル夫婦を、口を極めて賞揚することとなつた。にはかにスマの里は憤嫉の声なく、おのおの和煦の色を顔面にたたへて、オブチーミストの安住所となつた。
 サーベル姫は村人の代表者を十数人膝元に集めて、一切の帳簿を取り出し、快くこれを手に渡し、自分は夫と共に永遠に、アヅモス山の大神に仕ふることを約した。ここに又もや郷民の祝宴は盛大に開かれ、夫婦の万歳を祝し合ふた。
物語15-4-19 1922/04 如意宝珠寅 第一天国

男『無論の事、コンナ畸形児的鳥類は、神界には一羽も有りませぬ。此れは要するに閻魔の庁より、高天原には珍らしいと云つて、神界のお慰みの為に、輸入されたものです、言はば、舶来ですな。アハヽヽヽ』
厳彦『兎も角も妙なものだ、此奴等は娑婆に居る時には、自由恋愛だとか、共和だとか、民衆だとか何とか言つて、沢山な娑婆の亡者を煽動した何々長とか云ふ怪鳥でせう。併し此綺麗な天国浄土に糞をひりさがされては、又もや娑婆の様になりはしますまいかなア』
男『イヤ大丈夫です、此奴の尻は最早糞詰りですから……娑婆に居る時には、何事も知つて知つて尻抜いた様な事を言つて、長い嘴を振りまはし、囀つては喰つて居ましたが、モウ娑婆でも此嘴が間に合はなくなつて口は詰り、尻は塞がり、行詰りの悲境に陥つてる代物です。娑婆でもあまり喰へないので、糞をこく種もなし、清潔なものですよ』
ここは、対立する思想を持った父子の対話です。王仁三郎がどちらに立っているかは微妙ですが、ガンヂーの立場だと共和政治は否定です。
しかし、アリナの発言から見ると、アリナの立場に立っているようにも見えます。
物語67-4-21 1924/12 山河草木午 針灸思想

 左守の伜アリナは、評議の結果一ケ月の謹慎を命ぜられ、父の館に閉ぢ籠められてゐた。左守司のガンヂーも別に王からの咎めはなけれども、殿中を騒がし右守と刃傷したその責任を負ひ、自ら門を閉ぢ謹慎を守つてゐた。
ガンヂー『オイ伜、貴様は何といふ不埒な事を致したのだ。貴様がいつも太子の君を煽て上げ、共産主義だとか、人類愛善だとか、ハイカラ的の新思想を吹き込むものだから、あんな御精神におなり遊ばされ、万代不易の王統を継ぐ事をお嫌いなされ、殿内を飛び出し、上は大王殿下を始め奉り、この父や老臣共に心配をかけ、上下を騒がしたその罪はなかなか浅くはないぞ。これから心を改むればよし、今までの料簡でゐるならば太子のお側付は許されない。さうして吾が家にも置く事は出来ない。ちつとは親の心にもなつて見てくれ。王様の宸襟を悩まし奉り、老臣共に心配をさせ、殿内を騒がしたぢやないか』
アリナ『ハイ、いかにも父上のお言葉の通り、大王様に御心配をかけ、老臣を驚かせ殿内を騒がしましたのは事実でございます。しかし私は同じ殿内を騒がしても、父上のやうな刃傷などの乱暴は致しませぬ。お父さま、私に御意見下さるのならば、先づ貴方のお尻を拭ひ、自分の顔に留まつた蜂を払ひ、真面目になつて御教訓を願ひます。此の親にして此の子あり、親子が一致して、大王殿下の宸襟を悩まし奉り殿内を騒がしたのも、何かの因縁でございませうよ』
『エ丶、ツベコベと訳も知らずに屁理窟を言ふな。お前と俺とは同じ殿内を騒がしたにしても訳が違ふのだ。天地霄壤、黒白、月鼈の差違があるのだ。かれ右守のサクレンス奴、王家の専制政治を廃し、共和政治を立てやうなどと、大それた国賊的機略を弄し、殿下の宸襟を悩ませ奉つたによつて、俺は命を的に奸賊を誅伐せむと彼れ右守に斬りつけたのだ。貴様のやうに、大切な太子に種々のハイカラ的思想を注入し、太子の精神を惑乱し、遂には国家の一大事を惹起せむとするやうな悪逆無道の行為とは比べものにならぬのだ。確りと性念を据ゑて父の言葉を聞いたらよからうぞ。大王様は金枝玉葉の御身をもつて、汝一人の為に有るにあられぬ御苦心遊ばしてござるのだ。その伜の父たるこのガンヂーが、どうしてノメノメと生きてをられやうか。お前がどうしても悔い改めて、太子の御心を翻さぬにおいては、もはやこの父は自害して申し訳を立てねばならぬ羽目となつてゐるのだ。不忠不義の極悪人とは貴様の事だ。どうしてまアこんな極悪人が俺の胤から生れたものだらうなア』
 
(中略)
 
『どこまでもお父さまは解らないのですな。理窟はどんなにでもつくものですよ。専制と圧迫を唯一の武器として治めてゐたスラブはどうです。チヤイナはどうですか。既に已に滅亡したではありませぬか。世界各国競うて共和主義に向かつて、急速力を以つて進んでゐるぢやありませぬか、個人個人を無視するやうで、どうして国家を治める事が出来ませうか。賢明なる太子殿下は早くもこの点に気付かれ、王位を去つて庶民となり、個人として、人間らしい生活をやつてみたいと望んでゐらつしやるのですよ。もうお父さま、あなたも好い加減に骸骨をお乞ひなさい。あなたが一日国政を料理さるればさるるだけ、それだけ国家は滅亡に向かふのです。国民の多くは-…頑迷固陋の左守が、一日も早くこの世を去れば、一日だけ国家の利益だ……と言うてをりますよ』


5.平等・自由

自由・平等と使われているところは、民主主義と同じく否定的意味で使われます。

 
神霊界 1919/11/01 神諭

 自由も平和も来るものでないぞよ。日本には天照大神様の万古不易の動ぬ神教があるから、此の教を忘て、向ふの国の悪神の行り方を致したら、到底世界は安神して暮す事は出来ぬから、日本神国の人民は、一人も残らず天照大神様の御血筋を立て、麻柱の誠を貫いて行かねば成らぬ、大い天からの責任があるので在るから、国の権力や神の稜威を無視するやうな、悪神の計略にかゝらぬ様に致して下されよ。

平等については別の論考で考察しています。


6.まとめ

これまでみたところでは「王仁三郎は民主主義者か?」と問われたら「No」と答えるより他ないのではないでしょう。
第二次大戦後の発言では民主主義を認めるようなニュアンスではあります。 吉岡発言他

大本教団系では、「戦前は天皇制の制約があり自分の本心は言えなかった。戦後における発言が本当のものである」と王仁三郎は民主主義に近かったように言っています。
私たちは、もう一度民主主義の本質に戻って考えるべき時にきているのではないでしょうか。



第1版 2004/08/16
第1.1版(一部修正)2015/01/02

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