第二次大本事件での争点のひとつに、「王仁三郎は天皇制を倒して、自分が独裁者になろうとした」ということがあります。こう結論づけられても仕方がないように、昭和神聖会関係の文書では、何度も「独裁」という言葉が出てきます。
また、王仁三郎は「独裁」という語と「専制」という語を区別して使っています。
専制は王道国に対して使っている言葉です。そこでは、「人は勢を得たときには、君となり、或は主権者となるが、勢を失つた時には奴(やっこ)となり家来となり」、或は殺されてしまつたりします。
ところが独裁はそれに対抗する言葉で、「万世一系の天立君主国で、天皇一人が行う政治上の行動」と言っています。
この論考では、王仁三郎の言う独裁を原文にしたがって読み解いてみましょう。
1938/04/30 予審終結決定
被告人は右昇殿者十八名と共謀の上万世一系の天皇を奉戴する大日本帝国の立憲君主制を廃止して、日本に出口王仁三郎を独裁君主とする至仁至愛の国家を建設することを目的とする、大本と称する結社を組織し、 |
以下裁判記録から
王仁三郎の予審の供述書の内容です。
被告人伊佐男、鉄男、留五郎、貫一、斉治郎、等右教主殿に参集致しました者は、何れも右王仁三郎の慫慂に応じましたので、昭和三年三月三日、綾部町本宮弥勒殿に於て予定の通りにみろく大祭が執行せられたのでありますが、其の際被告人王仁三郎は、みろく菩薩として被告人伊佐男等十八名を従へ、被告人伊佐男、吉三郎、留五郎、貫一、斉治郎、等も亦諸面諸菩薩の一人として、被告人王仁三郎に従つて至聖殿に昇殿致しまして、相共に神殿に於てみろく神政成就の為めに一致団結して捨身活躍せむことを誓ひ、茲に於て、被告人等は他十七名等の者と共に、光輝ある我が万世一系の立憲君主制を廃して、日本に出口王仁三郎を君主とする独裁至仁至愛の国家を建設せむことを目的とする大本──昭和八年一月皇道大本と改称したのでありますが──と云ふ結社を組織したのであります。 |
問 所が此の決定の──予審終結決定の趣旨に依りますと、「ミロク神政成就と云ふのは、我が日本に関する限りに於て、王仁三郎が畏多くも日本の現御皇統を廃し奉り、日本の独裁君主になると云ふことを言うて居る」やうに書いて居るね。 答 そんな畏多いことは申しませぬ。御書きになつたのです。御書きになつて判を捺させられたのです。 問 併しさう云ふ趣旨になつて居るのだがね。 答 それでも、私は申しませぬ、首が千切れても、そんなことは申しませぬ。 |
問 予審の第三十九回の一問答に依りますと、「大本の所謂立替立直と云ふのは、日本の現御皇統を廃止して、王仁三郎が日本の独裁君主になつて、次いで世界の主権者となることを意味する」と云ふことになつて居るやうだが、是は……。 答 そんな馬鹿なことを思うて居りましたら、それは気違ひです。 問 是も判を捺して居るから訊くのだが--るやうだが、是は……。 答 そんな馬鹿なことを思うて居りましたら、それは気違ひです。 問 是も判を捺して居るから訊くのだが──。 答 向ふが勝手に書くのに、それを止める訳に行きまへぬ。三年も五年も掛かられてはあかしまへんから──。 |
王仁三郎 「私は(昭和神聖会)統管として昭和七年の十月十日二統管随筆と題しました単行本を発行しました。」 裁判長 其の中に色々書いてあることをずつと説明して居りますがね、是はちよつと言ひますかね。 答(王仁三郎) はあ。 問(裁判長) 其の四頁には、「絶対服従は天下統治の大本なり。私意を加へ言論を為す者は、断然除名して神聖会の統制を保つ覚悟を要する」と書いてあり、五頁には「天上の月も日も一体だ。地上の主権者も亦一柱なるが真理だ。神聖会亦統制上一人の専制の神国だ」、十九頁には、「大事を為すものは光鋭強化せる一団体の威力だ、どうしても一つの団体が強くならねば駄目だ、さうなれば外の団体は後から付いて来るやうになる」とあり、二十七頁の「会員は憲法の定むる道に依つて多数の国民の賛同と認識を獲得、それに依つて日本国民に相応せる大日本国を造り、此の時期を招来せむとするものである」とあり、二十八頁には、「一千万人の理解ある賛同者を獲得する迄は決して褌を緩めてはならぬ」と書いてありますね。 さう書いてありますね。 答 それは天にも太陽がある如く、此の日本も一天万乗の君がある如くに、団体も矢張り一つの統制者があつて其の者の言ふ通りに聴かなかつたらばら/\になつてしまふ、と云ふ意味であつたのですから、それを妙な方へ取られたのです。 問 予審では斯う云ふことを言うて居る。 「今の説明に付ては、此の四頁から九頁迄に書いて居る点は、神聖会員は私の命令に絶対服従すべきものだ、と云ふ意味であります。」 答 それはさうです。 問 「地球は一人の主権者に依り統治するのが真理であり、神聖会も私一人の独裁と云ふ意味である」、是もさうだらうね。 「帝国議会の制度は駄目である。専制の神国である」と云ふ意味である。 是はちよつと……。 答 私は、其処の所は政党政治の意味やつたけれども、間違つたのです。 「自分の専制にしなければならぬ。君主国にしなければならぬ」と云ふのは、それは違ひます。 詰り、一つの神聖会を率ゆる為に、其処を強く言つたのです。 問 「ミロク神政を成就する為には昭和神聖会を強化しなければならぬ」と云ふことを説いて居るね。 答 ちよつと、ミロク神政を成就する、と云ふのは、此の間言はれたやうに国体変更の意味ぢやないから、其処の所を能く書いて置いて欲しい。 問 だから、其処を専制と云ふことを訊いて居るのでせう。 お前の言うて居る所は、「ミロク神政を成就する為には神聖会を強化しなければならぬ」と云ふ意味で、「大本の説いて居る所の道に依つて、多数の大本の賛同者、信者を獲得し、日本国民に相応せる大日本国、即ち私を統治者とする至仁至愛の国家を建設せむとする意味を暗示したのである。」 是は違ふのだな。 答 それは、「暗示した」と云ふことは違ふのです。其の「暗示」と云ふことから、「即ち」から先が皆違ふのです。 問 それは判りますけれども、七は「一千万人の昭和神聖会の賛同者を獲得する迄は気を緩めちやならぬ」と云ふ意味であると、是も宜いね。 それから、「統管随筆中には、『日本は皇室を戴く家族的制度の国なり、万世一系の御皇室の方々以外には、余は頭上に戴くべき何人もないのだ』と書き、其の他にも、『神聖会は我が日本帝国の国体に反することを目的とするのではない』やうに書いてあるが、それは神聖会は大本信者のみの会でなくして信者以外の会員も沢山居りますから、其の関係上表看板に書いたものであります。」 答 それは違ひます。 問 それは否認だね。 答 私はそんなことは言やしまへぬ。さう御書きになつたのです。 |
王仁三郎は専制についてはどの文章でもNOと言っています。独裁については肯定的な書き方をしているので、専制と独裁は別の概念で考えていたのではないでしょうか。
下記の文章では、皇道国、帝道国、王道国、覇道国が並立されています。専制は王道とされています。昭和 1934/08 万人が心から喜ぶ政治
抑も我が日本皇国は世界無比の皇道国であつて、万世一系天立君主立憲国である。外国には帝道国(立憲君主国)あり、王道国(専制君主国)あり、覇道国(強食弱肉国)あり、為に勢を得たときには、君となり、或は主権者となるが勢を失つた時には奴となり家来となり、或は殺されて了つたりする。さういふ様に殆んど畜類に等しい政体を持つて居る国々であるから、どうしても金とか銀とかいふ様な形のものが無ければ、皆が承知しないのである。 |
人類愛善新聞 1934/08 皇道経済我観
至貴至尊 |
神聖 1935/04
皇国日本は天立君主立憲国なり
皇国の憲法は畏くも天祖より出たる神典の示すがまに/\規定せられたもので、政治も経済も宗教も教育も其他一切が同一の精神で統一され、渾然一体となつて栄え行くやうになつて居るのである。学者を初め多くの人々は、日本を立憲君主国の如くに思つて居るが、これが重大な間違ひである。抑も我皇国は万世一系の天皇が現人神として永遠に統治し給ふ世界無比の神聖皇道国であつて、王道国(立憲君主国)でも無く、帝道国(専制君主国)覇道国(弱肉強食国)では勿論なく、実に地上唯一の天立君主立憲国なのである。 |
下記の文章は、若い頃に書いた文章を再録したものですが、我々が民主主義と聞いて感じるイメージを日本魂とあらわしています。
1904/05 道の栞第三
六四 日本が露西亜を討つは、人種問題の為めにあらず、遼東半島の讐討ちの如き小さい遺恨の為にあらず、サガレン島の意趣返しの為にあらず。是等は、露西亜を討つ目的の一部分なり。露西亜の建国の専制政治と押し奪り主義とを憎むが故なり。 |
物語08-6-39 1922/02 霊主体従未 言霊解(一)
彼方からも此方からも、草の片葉が言問ひをいたしまして、彼方にも此方にも、種々の暗い思想が勃発して、各自に勝手な主義なり意見なりを吐き散らしまして、過激主義だとか、共産主義だとか、自然主義、社会主義がよいとか、専制主義がよいとか、いろいろなことをいふ意味になります。 |
自由宗教を求むる近代人の傾向、「瑞祥新聞」 大正14年5月12日
社会の一般的傾向が、ようやく民衆的になりつつあるとともに、宗教的信仰もあながち寺院や教会に依頼せず、各自の精神にもつとも適合するところを求めて、その粗弱なる精霊の満足をはからんとするの趨勢となりつつある。宣伝使や僧侶の説くところを聴きつつ、おのれみずから神霊の世界を想像し、これを語りて、いわゆる自由宗教の殿堂を各自精神内に建設せんとする時代である。 |
神の国 1929 知識を世界に求む
我国は皇祖皇宗のたてたまひたる万世一系の天立君主国であつて、国民は総て陛下の赤子であり、皇室は国民の本家であり、国民の聖主であり師であり親にましまして、某帝国の帝王の如く人民の代表ではない。外国の国を樹つるや共和、専制あり、禅譲放伐あり、勢を得れば君となり、勢を失へば臣となるが如き変転動揺常なき国家とは実に天壌の差異があるのである。如何に文明国とは云へ、かくの如き国体又は政体を有する国家に行はるる思想や、知識をもつてしては絶対に、天壌無窮の皇紀を振起し奉る事は不可能である。 |
NO 資本家・政治化の独裁 YES 天皇陛下の独裁
昭和青年 1933/01
出口王仁三郎氏に挙国更生を聞く
鴛海『政治の所で御話を承はり度いのですが、今日の金融資本家を背景にする独裁政治が天皇親裁政治に移る過程──移り方はどんな風になるのでせうか』 (中略) 出口氏『国家意識のある宗教といふものは知識階級──魂の向上した人でないと分らん。牛に米計り喰はしたら腹を壊して死んで了ふ、馬には馬の食物があり、猫に猫の食物があり、人間には人間の食物がある。恰度霊魂の食物といふものがそれと同じで、米を喰ふ人種には米が必要であり始終麦計り喰はされたり、野菜計り喰はされて居れば、たとヘ瑞穂の国の日本人でも、俄に米を喰ふと腹が下つたり脚気になつたりする。それはさうした生活になれきつて居るからそんな結果が起るのである。雪隠虫は糞壷の中に住んで居つて、それに安心し、満足して居る、それをあんな臭い所に置いてをくのは可哀想だと言ふので、米の中に雪隠虫を入れてやつても直ぐに死んで了ふ。天国にも第一、第二、第三の段階がある如く、身魂相応である。矢張り人間の霊魂にも階級があり、信仰の程度にも階級があつて、俄にそんな事をしても死んで了ふ。それはその宗教で安心して居り、それを信じて居つて成仏するから。今も云つた様に雪隠虫から糞を取つて了ふと死んで了ふのだから、糞でもなんでもよいから人類愛の上から助けてやらねばならぬ』 |
次の文章では、今までの文脈と違い「日本は君主専制の神国だ」と出てきます。
1934/10/10 統管随筆第一篇
絶対服従 |
次の文章では、天皇陛下だけが独裁の権利を有すると言っています。この発言の背景には独裁にもいろいろな形体があるということです。
神聖 1935/02 随筆
余は神聖運動に就ては必ず独裁制を政治の上に応用せむとするは、陛下の大命を奉ずる政治家と雖も断じて不可であると思ふ。 |
以下、ファシズムを認めていたように聞こえる論調を紹介します。
神聖 1935/07 『神聖運動』とは何か
今や世界には、フアツシヨもナチスも未だ斯の大指導精神を発見し得ざるが為に恐るべき闘争混乱の世界へと歩一歩を進めつゝある。其処に又彼等を指導すベき我等日本民族の重大使命が存在するのである。 |
ここでも、フアシズムを肯定しています。
1932/11/2 文武の日本
国常立尊は文武の神様である。国土を経営されたのも、矢張り矛をもつてなさつたのである。その次の素盞鳴尊も、その次の大国主命も、総て言向けの矛をもつて国土を経営し、蒼生を慰撫し、天下の泰平を来されたのであります。或西洋かぶれの人は、愛善会とか、瑞祥会とか云つて居つて武をねるとか、フアツシヨ式になつたと云ふ様な事で非難し、又信者の中でも陰で、ぐず/\小言を云うて居る人がありますが、剣といふものはどうしてもなければならぬ。大慈大悲を標榜する釈迦の称へた阿弥陀如来は、一方に弥陀の利剣を握つて居り、一方には王を握つて居る。劒といふもの──武といふものは濫りに抜くべきものでないけれども、使ふ時には使はねばならぬものである。我日本の三種の神器は皇祖の御遺訓として最も貴重なる大御宝となつて居る、これは剣と玉と鏡ですが、鏡は神様の円満清朗なる教といふ事でありまして、惟神の道であります。 |
ムッソリーニやヒットラーも認めています。
1934/11/28 統管随筆第二篇
ケマルパシヤー、ムツソリーニ、ヒツトラー等の英雄の心事は窺かに余が常に抱ける思想に酷似したるを見て余は大に意を強うするものである。必ず新しき日本を建設して見せる覚悟である。余は世間の団体員の如く決して空手形は振り出さない。屹度実行して見せる。強大なる組織と偉大なる宣伝力と正義に基づく実行力とによつてだ。 |
第1版 2004/08/08
第1.1版(一部修正)2015/01/02