ザメンホフとエスペラント

1.エスペラントと大本

2.エスペラントに関する資料

3.英西米蘭統作歌集

4.ローマ字日夜苦人一愁

5.ザメンホフの人生

6.斎藤秀一

7.長谷川テル


1.エスペラントと大本

エスペラント

1887年ポーランド人ザメンホフにより作られた国際補助語。28の字母(母音5、子音23)をもち、文法体系は簡単。語彙(ごい)はゲルマン語・ロマンス語系統のものから共通性の高いものを採り、基礎語1900。
エスペラント運動は、民族解放思想、反差別思想、平和思想と互いに影響し合い、多様な側面をもつ。日本では1906年(明治39)に日本エスペラント協会が設立された。エス語とも言う。

■大本との関係

大本では、1924年(大正12年)5月27日に採用した。大正9年春、大本が東京各所で講演を行っていたところ、エロシェンコ(盲目のロシア人の詩人)と繋がりができて、エロシェンコは綾部にもやって来た。大正11年に、エスペラントを国際語として採用しているハバイ教のフインチと、二代教主の澄が偶然知り合い、これがもとで大正12年の採用となった。王仁三郎は、大正12年8月に『エス和歌作歌辞典』の原本を作っている。


2.エスペラントに関する資料

霊界物語では何箇所かエスペラントが出てくる。
 
物語57-0-2 1923/03 真善愛美申 総説歌

エスペラントやバハイ教    紅卍字教や普化教も
残らず元津大神の      仕組み給ひし御経綸
そのほか諸々の神教は     この世の末に現はれて
世を立直す為ぞかし      国会開きが始まりて
十二の流れ一時に       清く流るる和田の原
底井も知れぬ海潮の      深き思ひぞ計れかし

ブラバーサは64巻の主人公。エスペラントにも精通していたと書かれている。

物語64上-1-2 1923/07 山河草木卯 宣伝使

四十歳前後の、一人の眼のクルリとした色の浅黒い、どこともなしに凛々しい東洋人らしき宣伝使は、高砂島から派遣されて数十日間の海洋を渡り、メシヤ再臨の先駆として神の命によりはるばる出て来た、ルートバハーの教主ウヅンバラ・チヤンダーに先だつて来た、ブラバーサといふ紳士なり。ブラバーサは世界各国の言語にも通じ、かつ近来流行のエスペラント語にも精通しゐたり。それゆゑ特にルートバハーの宣伝使として抜擢され、万里の海洋を打ち渡り、異域の空に聖跡を尋ねてメシヤ再臨の先鋒として赴任したのである。このブラバーサには郷国高砂島に一人の妻と一人の愛娘が残つてゐる。ブラバーサは窓外の際限もなく広く展開せる砂漠を眺めて、聖者の古の事蹟を思ひ浮べ、感慨無量の体で吐息を漏らしゐたり。
 隣席に控えてシガーを燻らしてゐた白髪の老紳士は、ブラバーサの傍近く寄つて、さも馴れなれしげに握手を求めた。ブラバーサは海洋万里の不見不識の国で、同じ車上において握手を求められたのは実に意外の歓びに打たれざるを得なかつた。ブラバーサは直ちに立つて老紳士と握手を交へた一刹那、百年の知己に逢つたような懐しさを覚えた。

エスペラントの雑誌を発行して海外に送った。

物語68-0-1 1925/01 山河草木未 序文

大正甲子は古来稀なる変つた年であつた。世界にとつても、大本にとつても、また著者自身にとつても、大革新の気分の漂うた不思議な年である。まづ世界の出来事はさておいて、大本の過去一年間の活躍史を見れば、エスペラント語をもつて綴りたる大本雑誌を世界四十八力国に発送し、かつ世界の各地より大本を求めて来る者もつとも多く、次いで大本瑞祥会を亀岡より綾部に移して、教務の統一を計り、役員職員を新任し、規約を制定して、大いに神人愛のため鵬翼を張つて天下に高翔せむとする機運に向かつた。次いで黒竜会との精神的提携、普天教との関係はますます濃厚の度を加へ、支那道院紅卍字会と提携して神戸に道院を設け、広く各宗の信徒を集め、宗教統一の大本が理想の実現に着手した。また回教徒吾が派遣したる公文直太郎氏の復命をはじめ、田中逸平氏の参綾、支蒙学者の石山福治氏その他数多名士の参綾となり、大本は愈この年より復興革新の曙光を認むることとなつた。

エスペラントはハバイ教は深い関係にある。ローマ字もエスペラントと同精神で広める。

神の国 1924/01 宗教不要の理想へ

大本には色々の思想の人が集まって居るが、『霊界物語』を始めてから大分一変して来たけれども、まだ極旧いもの、中位のもの、新しき人と混合している状態である。みろく会を開く事も、これらの覚りの準備の役に立てねばならない。然るに各地方では、そろそろ変性女子が暴れ出して「がい国」にしてしまうと、憤慨している者もある。エスペラント・バハイ教・支那の宗教と、もの喰い上手のワニが、第二の大本事件を惹起すかも知れぬと言って居る。
 然し乍ら、大本は世界的のものであって、神は万有を愛するのが主意であるから、固すぎて孤立する事は駄目である。日本は世界に孤立し、大本は日本から孤立している現状である。此点は大本が悪いのである。闇がりにいるからである。大きな目が開けていないからである。時代に棄てられては、醒る頃には世に遅れてしもうて、折角醒ても世の中の役に立たぬことになってしまうのである。吾々は之を憂えて、根本から変化の必要を感じているのである。
 エスペラントを奨励して、世界的に進んで行かねばならぬのであります。先ずローマ字やエス語を知り、余力を以て日本人全般に押し拡げ、やがて世界各国に此運動を及ぼしたいと覚悟しているのである。今年は準備時代であるが、来年は学校を起し、支那・朝鮮・欧米まで逆輸入をせねばならぬのである。学校の資金等の事に就ても、色々考えているが、神意だから大丈夫と思って居る。此後どんな事になるか、使命は後にならねば解らぬから、如何なる事があっても心配して止めないように願います。併し深い考えのある時には、直接忠告をして貰いたい。取締を通じて話して貰っても結構である。万事にかけて意思疎通して貰って、互に了解し合い、根なし草を生やして身魂を汚すような事のないようにせねばならぬ。また次に、皆の者が神の事が真実に解って居ない。大本の旧い人の意思が害をなしている。唯一つの「誠」が一列一体に伝わらねば、別れ別れの考えを有っている間は、一つの真に達していないのである。そんな事では駄目である。すべての宗教にしても、時代々々に応じて、それ相応の感化の必要に基づいて居るのであるが、時代が進むに随って、旧宗教にも採るべきものと、採るべからざるものとがあるのは自然の道理である。こんな訳で、大本はすべての事に相応し、利用が出来るように教え導きて、其基を打立ねばならぬ。

(中略)

斯る次第で、神は元は一つの神に統一されているのであるから、別々に争うベき筈のものでない。すべての争い・悪み・妬みを止めて、善書美辞を以て言向け和さねばならぬから、世界を言向くる世界共通語のエス語を第一に研究せねばならぬ。ローマ字も亦真の善言美詞の日本語を保存して行く上に、大なる必要があるのである。総じて前述の世界愛・万有愛の神の愛に押し拡げて、大きな精神になって貰わねばならぬのであります。

エスペラントの精神は人類愛善。

真如の光 1935/08 人類愛善の世界的使命

人類愛善
 曩に大正十年の七月からは、エスペラントをこしらえたのでありますが、その精神は言葉でなくして、本当の目的は、人類愛善にあったのであります。

最後の目標は日本語を世界共通語にすること。

第二回信者総会に於て 昭和八年四月一五号真如の光誌

一昨夜のエスペラントが出来ましてから僅かの間に、今日のやうに世界中にエスペランチストが沢山出来たことを見れば、神国日本の明晰なる日本語が国際語にならない道理はないのであります。
 併し今日の日本語では非常に複雑で字と口で云ふのと意味が違つたりします。悪いことも字で書けば巧く書く様な工合で、今の日本語は文字を見ないとわからぬ様な言葉が沢山にあります。又漢字やアクセント等が難かしくて西洋の人にはわかりにくい。それをよくわからす為にはローマ字曾と云ふものがあつて非常に都合がよいのであります。今日のところではエスぺラントも必要であるが、やはり最後には日本語が世界共通語になる。日本語を世界の者に知らすにはローマ字を以てすればよいのであります。かう云ふ工合に神界から承はつて居りますので、大本にエスペラントの普及等はもの好きでやつてゐるのではなく、必要なものであるから神様から命ぜられてゐるのであります。この神業の忙しいのに、何の役にもた、ないローマ字見た様なものしないでもえゝと思つて居る人がありますが、さう云ふ意味ではないのでありまして、日本語を世界共通語にするには、エス語もローマ字も最も必要なのであります。併し今日の日本語では之でも行かないが、日本が神界の経綸通りになり世界に君臨する様になつたら、日本語がどうしてもかうしても世界の共通語になるのであのます。その考へでエス語なり又ローマ字を研究して貰ひ度いと思ふのであります。

エスペラントを取り入れた経緯。加藤明子が聖師の命令で最初学んできた。ここでも日本語が国際語になる、エスペラントはつなぎであると言っている。
 

エスペラントとローマ字の夕に於て 昭和八年四月十五号真如の光

 今年は大本ヘエスペラントを採用して世界へ普及することは非常に時宜に適したことであると思つて探用した次第です。
 
言葉の世界に通用する国が世界を支配するものであります。今日の英国があの通り大きくなつたのも英語のおかげが余程あるのでありますが、将来は日本語を以って世界共通語とするのが神様の思召しであります。それ迄の利用策としてエスペラントを学び、又これによつて大本の海外宣伝はたすけられて居るのであります。
 このエスペラントの始まりの間は非常に困難であり、ザメンホフ博士も発狂者と云はれ、多くの人の迫害を受けてやうやく今日のやうな世界の国際語として普及されるに到つたのであります。これより見れば言霊の幸はふ国の日本語が世界共通語になれない筈はなく、なり得ると云ふことは明かな事実であります。併し、それも世界の大峠がすんでからですから、二十年後のことであります。日本の国運発展と共に日本語は国際語となるベき運命を持つてゐるのであります。それまでの代用品としてエスペラントは今日の英語の様な地位になると思ひます。


■新聞の評価

第二次大本事件の際に出された新聞です。

「第一次不敬事件でわが国民に容れられなくなつた苦しまぎれに海外へ延びる一つの手段であつた」としています。

西村光月は上で出ているブラバーサのモデルとされている人物です。

東京日日新聞 1935/12/13 昭和10年12月13日【夕刊】p2

大本教がエス語の普及に力を入れるに至つたのは第一次不敬事件でわが国民に容れられなくなつた苦しまぎれに海外へ延びる一つの手段であつた「エス語独習の手引」を出したり人類愛善のエス語宣伝文をバラ撒ゐたり、大正十五年一月にはフランスで「国際大本」と題するエスペラント大会には宣伝使を特派して内外に活躍したものだ

3.英西米蘭統作歌集 

エスペラントを覚えるための歌です。『出口王仁三郎著作集5巻』より

王仁新輯辞典

記憶便法 英西米蘭統(エスペラント)作歌集(その壱)(抄)

本書は大正十二年八月十五日より同十八日迄四日を費やして作り上げたり。而して八木氏著の『エスペラント講習読本』より金玉の語を選出して提供したるは加藤女史なり。本書は歌としては何の価値だもなし。(ただ)心に記憶し易からしめんために、和歌の調などは(かえり)みず口から出任(でまか)せに(しゃべり)りおく。読者幸いに(りょう)ぜられんことを。

大正十二年八月十八日 瑞月誌

エスペラント語

エスペラント国の人の差別(けじめ)も立てず天の下に開き行かなん英西米蘭統(エスペラント)

(この作歌集は八木氏著『エスペラント講習読本』による。揚音はーを以て示し、LとRを区別する為、Lの方には「らりるれろ」の平仮名を使用す)

第一課

エン の中に、内へ(en)
足音をそつとしのばせ泊り客に気がねしながら【中エン】(中縁)を行く

アる に、の方へ(al)
何々に又何方へと通ふ語はおなじ道をば【アる】(歩)くなりけり

イーウ 誰か、ある人(iu)
傾城(けいせい)に誠無しとは【誰か】イーウ(云う)た比翼塚をば知らぬ馬鹿者

トウイ 直ちに(tuj)
トウイ(遠い)国【直ちに】達す今の世は【通意】即達光線のごとし

カーント 歌(kanto)
【歌】会でカーント(巻頭)得たる嬉しさは予選に入りし時の心地す

ポーモ りんご(pomo)
ポーモ(坊も)桃一つ慾しいと云ひながら【りんご】畠に飛び込むクナーボ(子供)

ツエーろ 目的(celo)
ツエーろ(杖老(つえらう))の身さへ【目的】あるものをなど若人の希望なからん

シエーろ 貝殻(selo)(注 sに^あり)
【貝がら】を高く吹き立て夜もすがら二人の守衛楼(しゆえいろう)(シユエーろ)門を守る

セーろ 鞍(selo)
セーろー(青楼(せいろう))の主人と客との板ばさみ居た丶まらずして鞍がえをする

パーヂヨ (ページ)(pago)(注 gに^あり)
りープロ(書籍)のパーヂヨ(頁)幾度も読み数へ夏の一夜をあかしけるかな

パーゴ 支払ひ(pago)
【支払】ひの時には立派倣(りつぱごう)(パーゴ)然と只与(ただや)るやうに威張る商人

ホーロ 時間(horo)
ホーロー(放浪)の旅を続けて暮す身は【時間】の観念半時もなし

コーロ 心(koro)
アークヴオ(水)の流れはすこし濁れどもコーロ(心)のちりを洗ふやうなり

ビールド 鳥(birdo)
ビールド(ビール筒)を半ダースあまり呑みほして足もと【鳥】のごとくひよろつく

ヂヤルデーノ 庭、花(ぞの)(gardeno)(注 gに^あり)
【花苑】にいとうるはしき女子の箒手にしておヂヤルデーノー

ピーア 敬神な(pia)
【敬神】なまめ人ばかりあつまりてやしろの前にピーアのを(かな)づる

トローア 甚だしき(troa)
軽便鉄道上滑り行く運搬のトローア(トロは)【甚だしき】音立っるなり

ピエード 足(piedo)
雪のみち遠くあゆみて我が【足】は氷のごとく冷通(ひえとほ)(ピエード)しなり

スインヨーロ 紳士、君(sinjoro)
【君】はまた紳士なりせば信用あり新要路(スィンヨーロ)に用ゐられなん

エードゾ 夫(edzo)
草枕旅に出たるエードゾ(夫)の身よ安かれと朝夕祈る

エードゾ(夫)にこの明月を見せばやと座頭の妻のしのびねに泣く
エウローポ 欧羅巴(Europo)(注 uに⌒の反転したものあり)

アウ 或いは(au)(注 uに⌒の反転したものあり)
アデイーアウ 左様なら(adiau)(注 uに⌒の反転したものあり)
アウ(逢ふ)事の或は【あらん】エウローポ(欧羅巴)
アデイァウ(亜細亜の洒落(しやれ))の国探しまはりて

バらーウ 掃け(balau)
【掃け】と云ふ命令受けて下男庭のすみずみ蜘蛛の巣バらーウ(払ふ)

カーポ 頭(kapo)
はげ【頭力ー】(蚊)が止まれば手をあげて力限りに【ポー】と打つなり

(附字記憶法)

エクスポズイツイーオ 博覧会(ekusupozico)英工敷邦随智偉多(エクスポズイツイーオ)

アエロプらーノ 飛行機(aeroplano)

天遠路風羅鳴呼悩男(アエロプらーノ)

フイズイオろギーオ 生理学(fiziologio)
不意随欧露偽異応(フイズイオろギーオ)

べーら 美しい(bela)
美麗(べーら)

ドーモ 家(domo)
堂模(ドーモ)

ぺーツオイ 数片(peco)
兵強(ぺーツオ)

第二課

パートロ 父(patro)
カイ そして、又、と(kaj)
フラート 兄弟(frato)
カイ【そして】(会葬して)【又】パートロ(父)パトリーノ(母)フラート(兄弟)【と】ともに泣くなり

れオーノ 獅子(leono)
れオーノの吼ゆるが如き谷川のたけき水音(みなおと)ゆめを破りぬ

エースタス あります、ある(estas)
天上に【あります】神の右に坐し罪【ある】人をエース(イエス)タス(助)くる

べースト 獣(besto)
いろいろとベスト(べースト)つくす智者学者つゐに【獣】の魂となりぬる

コろームボ 鳩(kolombo)
のりをつけほうせほうほうと古宮の森にひそみてコろームボ(鳩)啼く

グラーンダ 大きい(granda)
グラーンダは合衆国の大統領()にも【大きい】ホーモー(人)と知れ

サーナ 健康(sana)
あ【サーナ】さな(朝な朝な)早く起き出で清鮮の空気を吸へば【健康】となる

ハーヴアス 持つて居る(havas)
びんづるに花も実も無いハーヴアス(葉蓮)をしぶい顔して【持つて】居るなり

フろーロ 花(floro)
何時までも【花】の姿を保つ人を不老々(フろーロ)とてオーニー(世人)羨む

チウ か?(cu)(注 cに^あり)
こうです【か?】違ひます【か?】と問ふて見るチウは【注】意のチウとこそ知れ

エース 然り、左様(jes)
エースとは【然り左様】と云ひながらヱビス顔して承認の声

コールボ 籠(korbo)
肩の凝る棒(コールボ)を通した【かご】かつぎブラリブラリと山道のぼる

ヴイーダス 見る(vidas)
名人の画を【見る】たびに面白きすぐれた箇所を見出す(ヴイーダス)なり

(「神の国」大正十二年九月十日号)

4.ローマ字日夜苦人一愁

百人一首の替え歌をローマ字で詠んだ物です。
 
ローマ字研究日夜苦人一愁(ひやくにんいっしゆう)(抄)
Hyakunin Issyu
月の家和歌麿Tukinoya-Wakamaro
〇は原歌,ローマ字は替え歌
〇秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつ丶
Aki no Ta ni karihosu Ine wo nusumarete,
waga Ko mo Namida no Tuyu ni nure tutu.

○春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
Hara tatedo naite nakarezu Siri makuri,
koketu marobitu Atama Kakuyama.

O奥山に紅葉踏分け啼く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき
Otonasiku Momide sinagara naku Musume,
Koziki sasu towa aware narikeri.

○かさ丶ぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
Kakamuraya Wagamama bakari,Okuyama no
siroki Kitune ni yokumo nisi kana.

○忘らる丶身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
Wareyosi no Mi wo osimi tutu,tikayokuni
Hito no Mono made hosiki yatu kana.

O浅ぢふの小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき
Akimekura onoga Siriaka sirazusite,
asamasikumo mata Hito wo kobotitu.

O吹くからに秋の草木のしほるればうべ山風を嵐といふらむ
Huyu no Yo no Anma no Hue no simizimito,
utiyobu Hito no aranu Awaresa.

昭和2年4月4日
(「月明」日召和2年5月第4号)

5.ザメンホフの人生

■ザメンホフについての一般的な理解

ザメンホフは、ビヤリストク(現在はポーランド領)に住むユダヤ人の子として1859年に生まれた。大学を出て眼科医になった。当時その辺りはロシア皇帝の支配下で多くの民族が住んでおり、学校ではロシア語が強制され、ポーランド語は、日本支配下の韓国語のように学校では教えることを禁じられていた。ユダヤ人の言葉はそれ以下で、ユダヤ人であること自体が罪悪だった。

ザメンホフは、言語の違いによる誤解で人々が争い、結局は弱い民族が苦しむ日常を見て、それをなくすためには、習い易くてハッキリと考えが伝えられる中立の言葉が必要だと考え、いろいろの言葉を参考にして新しい言葉を作り、1887年「エスペラント博士の国際語」として発表した。

『ザメンホフ』小林司 原書房 を読んだので、少しだけ抜書きをしてみます。

ザメンホフはエスペラントの創設者、大本は王仁三郎の指示でエスペラントを習い、エスペラントで機関紙まで出しているのにエスペラントの本ではあまり取り上げられていないのではないでしょうか。事実、この本の著者は、日本エスペラント会の上層部の人だけど、大本は出てきません。

上で紹介した本のまとめのような部分です。
 

人類愛への成長 P.251~P.253
『ジャン・クリストフ』の作者ロマン・ロランはつぎのように述べた。

「ザメンホフが偉かったのは、彼がエスペラントを発明したからだとか、それをひろめる運動をはじめたからだ、という点だけではない。それよりも、まず、彼は新しく力強い社会の要求をはっきりと示したのであった。時代が人類をゆさぶっている深い熱望を彼は読みとったのだ。この点が偉かったのだと思う。自分たちを一つにつなぎ合わせてくれる炎が燃え上がるのを、全世界に散らばっているたくさんの人びとが『今やおそし』と待ちこがれていたちょうどその時に、エスペラントが現れて活動し始めたというのも、エスペラントが成功した一つの理由である」
(ユニマテ紙一九二二年一〇月二一日)

ここであらためてこの人類の予言者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフの一生を簡単にふりかえってみよう。

ロシアやドイツ、トルコなどの強大国にとり囲まれたために、何回もあちこちの国に占領された悲劇の国ポーランドにユダヤ人の子として生まれたザメンホフは、各種の民族が争いながら暮らすビヤウィストクに住んで、その争いとユダヤ人に対する差別に幼い心を痛めていた。こうした苦しみから人びとを解放するには、自国語のほかにもう一つ、人類全員に共通の言葉があればよいのではないかと考えて国際語エスペラントを考案する。国際語をもちたいという、ライプニッツ以来の人類の理想が、社会の近代化や社会的矛盾の激化という状況のもとに、ザメンホフの平和を愛する情熱によって、一挙に結晶して生まれ出たものこそエスペラントに他ならなかった。

そのころちょうど、産業革命の波がポーランドにもおし寄せ、国際交流が盛んになるとともに西欧の近代化思想が入ってきて、ポーランドを支配していたロシア帝政を民主化しようという運動がおきる。その具体化の一つであったアレクサンドル二世暗殺事件は、ポグロムの嵐をよびおこし、それに対する反応として、ユダヤ民族をシオニズムへと走らせた。ザメンホフもユダヤ民族解放のためのシオニズムの先駆者の一人として奔走しているうちに、シオニズムがユダヤ民族主義に他ならぬことを悟り、シオニズム運動から手をひいた。

そしてユダヤ民族を本当に解放するためには、国際語だけでは諸民族間の憎しみがなくならぬことを知って、ユダヤ教と他の宗教との橋渡しをする国際的宗教が必要だと思うようになった。そこで「ヒレル主義」を考えついたが、先に発表した国際語エスペラントの運動を通じて、ザメンホフが当初に抱いていたユダヤ民族への愛情は真の人類愛へと高まっていき、「ヒレル主義」を「人類人主義」と改めて、人類全体を差別から解放することをめざすこの主義の普及こそ生涯の目的だと考えるにいたった。

しかし、その目的を達しないうちにザメンホフは亡くなってしまい、あとで述べるように子どもたちもナチス・ファシズムの手にかかってザメンホフ一家は滅亡の憂き目にあう。このことによっても明らかなように、国際語や人類愛の精神だけでは世界に平和をもたらすことはできない。けれども、それらは経済的その他の諸条件とともに、人類を平和な世界に向かって一歩前進させるために大きな役割をはたすものであって、ザメンホフによる人類解放の精神は永久に美しく輝いている。

不屈の抵抗を支える情熱と、太陽のように人類全体にふりそそぐ愛情とは、病弱で控え目なザメンホフに国際語エスペラントを生み出させ、エスペラントを通じて彼の生命を不滅のものとしたのである。


■略年譜

1859年 誕生 ラザル・ルドヴィコ・ザメンホフ ポーランドのビャウィストク

1878年 国際共通語<リングベ・ウベニサーラ>(エスペラントの前進)を学友に発表

1879年 モスクワ大学医学部入学 (入試では語学が抜群の成績)

1881年 経済的困難からワルシャワ大学へ転校

1882年 シオニズム運動に関わる

1885年 大学卒業 医師となる。

1887年 クララと結婚
       エスペラントをロシア語で発表、世間にはじめて公表した

1889年 エスペラント学習者1000名を越す

1891年 ディケンズの「生命の闘い」エスペラント訳

1893年 家族を連れてグロドウノで眼科医開業(生活は苦しい)

1894年 エスペラント改造案、否決される。
       「ハムレット」エスペラント訳

1895年 トルストイの「理性か信仰か」を「エスペランティスト」誌に掲載したため、ロシア国内への搬入禁止処分を受ける

1898年 フランスでエスペラント普及協会設立

1901年 ワルシャワで「ヒレル主義」ロシア語版を匿名で出版

1905年 第一回世界エスペラント大会(この後毎年開催)

1908年 ヘクター・ホドラーが世界エスペラント協会を設立

1912年 第8回世界エスペラント大会でエスペラント運動の主導的立場からの引退を表明

1915年 「旧約聖書」エスペラント訳完成

1917年 ラザル・ザメンホフ58歳で死去 


■家庭環境

ザメンホフはポーランドのユダヤ人の家庭に生れた。ザメンホフの生れた家庭環境は、祖父が教師、父も教育家で実務を教えるギムナジウムの先生になった。 

妻クララの家は、製造業を営んでおり、資産家であった。ザメンホフは妻の持参金でエスペラント活動を始めることができた。

■ユダヤ人として

当時、ユダヤ人の教育機会は限られていた。総人口の何%しか高等教育は受けられないと決められており、その割合が、ロシア人やポーランド人に比べて極端に低かった。しかし、ザメンホフは優秀で、特に語学がよく出来て、モスクワ大学まで入学することができた。

当時、ヨーロッパでは、ポグロムというユダヤ人の殺害が猛威を振るっており、ロシアでもポーランドでもポグロムで多くのユダヤ人が殺された。これに対して、パレスチナに回帰するというシオン主義が起こり、最初はザメンホフもその運動に参加した。しかし、後には離れた。

■宗教 ヒレル主義

ユダヤ人を救うために考えた中間宗教。ユダヤ人のラビヒレルが200年ほど前に考え出したもの。

一つの宗教と他の宗教の間のかけ橋としての中間宗教。たとえば、ヒレル主義のカトリック教徒とか、ヒレル主義のユダヤ教徒といった調子になる。

ザメンホフは最初はエスペラントと結びつけて考えていたが、実際にはエスペラントと切り離して広めようとしていた。


6.斎藤秀一

エスペラントを直接広めたというのではないが、ローマ字運動に取り組んだ。

ローマ字運動は大本教も取り組んでいて、この文章はローマ字に対する当時の世相を知ることができる。ローマ字は危険なものだったのだ。

P.258

斎藤秀一は、一九三七年六月に「国際ローマ字クラブ」を自宅に創立し、「ラティニーゴ(ローマ字化)」という全文エスペラントの雑誌を出し始めた。そこにはマライ、インドシナ、モンゴル、ソビエトなど世界中のローマ字運動のすすめかたや経験がエスペラントに訳されて載っている。これだけレベルの高い国際的な雑誌を独力で編集発行できたのは、なみなみならぬ実力と熱意があったからだ。

一九三八年、「斎藤秀一のところに外国ことに中国からときどき手紙がくる。スパイではないか」という投書が酒田警察署に舞いこんだ。砂田周蔵特高係がさっそく秀一の自宅を捜査して調べてみると、カナ文字、ローマ字、エスペラント、など一連の言語改革を研究していることがわかった。それで一一月二一日に治安維持法違反で検挙し、秋田刑務所に囚われの身となった。神聖なる万世一系の天皇が治める言霊の国の言葉に変革を企てるなどということはもってのほかだ、というわけである。

彼はたいへんなきまじめ人間であって、取り調べの警官が「なぜ日本エスペラント学会の会員を辞めたのか」と訊いたところが、「学会は中立思想の団体であって、自分の考えとは相いれないから退会した」と答えたという。
そのうち寒い北国の獄中で肺結核にかかり、一九四○年四月重症になったので刑務所を仮出所して自宅静養を許されたが、九月五日、結核性腹膜炎を併発して三二歳の若さで亡くなった。

日本エスペラント学会は一九一九年につくられてからずっと中立主義を唱え、一九二三年以降はザメンホフの人類人主義を表面的に採り入れてはいたが、しだいに時流におし流されて、朝鮮や台湾で民族語使用が禁じられて日本語使用が強制されたり、日本国内でエスペランティストの大杉栄らが政府の手によって虐殺されたりしても、知らぬ顔でひとことの抗議もしないような体質に陥っていた。

まして、日本政府の帝国主義的侵略や他民族弾圧に対して抵抗を示すことなど思いもよらなかった。一九三二年頃の日本プロレタリア・エスペラント運動が日本政府の弾圧によってつぶされたあと、日本ではザメンホフがエスペラントを創った時の「民族間の友愛と正義」という根本精神が失われて、エスペラントの文法的骨ぐみと実用主義だけが残っており、エスペラントによって日本の中国侵略を正当化する宣伝文を外国に送った「エスペラント報国同盟」さえつくられた。

このような時期に、斎藤秀一は民衆の立場に立って、大日本帝国にただ一人で立ちむかって倒れた。彼の肉体は滅びたけれども、そのおおしい精神と、言葉に対する今なお新鮮な考え方とは、よみがえって私たちを永久に励ましている。

正義と民衆のために闘うエスペランティストとして秀一は、差別をなくすためにエスペラントを創ったザメンホフの精神をまもったのであった。


7.長谷川テル 

この人はよく取り上げられる。中国で反日本の宣伝放送を行った人。「国賊」と呼ばれた。

下にあげた手紙は、日本のエスペランティストであれば誰もが知っているという。感動的な内容だ。

P.263~265

おのぞみなら裏切り者と呼んでください

長谷川テルは、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)在学中にエスペラントを学んだ。一九三六年、中国の留学生エスペランティスト劉仁と結婚し、翌年四月に日本を脱出して中国各地で日本の侵略戦争に反対するラジオ放送その他の宣伝活動をおこなった。

当時の日本の各新聞は彼女を「国賊」と呼んでいる。

テルがエスペラントで書いた『嵐の中のささやき』という本に収められている「中国の勝利は全アジアの明日へのカギである」という一九三七年に書かれた一文を、いま日本のエスペランティストで知らない人は一人もいない。それは、この年から中国侵略を始めた日本帝国にいるエスペランティストたちに宛てた手紙という形式をとっている。

「友よ!自分がどんな民族の一人であろうとも、人間らしい気もちと澄んだ理性とをもっている人ならば、中国に同情しないではいられません。私は動物ではありませんし、正義とは何かということも学びました。したがって、私はいったい何をなすべきなのか、という問題がいつも頭を離れないのです。ある同志たちのように戦場におもむくべきなのか、または、婦人の同志たちのように難民や負傷兵たちのために働くべきなのか?けれども、私にはそれができないのです。中国語さえもろくに話せない、か弱い女性なのですから。

友よ、たださいわいにして、わたしはエスペランティストです。そうです。『さいわいにして』と私は言います。なぜなら、エスペランティストであるおかげで、日本帝国主義に対してのこの革命的なたたかいの中で小さなもち場を私は見つけることができたからです。

いまや、わたしたちは、国際的な武器としてエスペラントをもっとも有効に活かさなければなりません。『エスペラントを使って中国解放のために!』というのはなにも紙の上だけの美辞麗句ではないのです。

「中国は吼える」誌やその他のエスペラント雑誌のために協力することは、わたしにとっては、薄っぺらな雑誌を出すのに一人の外人エスペランティストが貧弱な腕まえを役立てる、というだけの意味ではないのです。ペンをもてば、ねじ曲げられっ放しの正義を思って熱血が煮えたぎり、野蛮な敵に対する火のような怒りが燃えあがるのです。また、私は中国の民衆とともにあるのだ、という喜びでいっぱいになるのです。

もしおのぞみならば、裏切り者と呼んでください!平気です。そんな呼び名を恐れるよりは、むしろ、私は恥ずかしい気もちでいっぱいなのです。他国の領土を侵略するだけでなしに、何の罪もない無力な難民たちをこの世の地獄のようなめにあわせてもあたりまえ、といった顔をしている人たちと同じ日本人だということが恥ずかしいのです。

ほんとうの愛国心は、人類の進化と対立するものではありません。もし対立するようなら、それは愛国心ではなくて排外主義なのです。戦争でなんとたくさんの排外主義者が日本に生まれたことでしょうか!

友よ、人間というものは、こんなにやすやすと良心を一かけらも残さずに捨てることができるものなのでしょうか。しかし、友よ、わたしはあなたがたを信じています。あなたたちがこうした排外主義者にただの一歩も近よらないだろうと確信しています。なぜなら、進歩的なエスペランティスト、真の国際主義者であるあなたたちだけが、この戦争がどんな意味をもっているか、また、自分がどちらを向いて行動すれば正しいか、ということをいちばんよくわかっているはずなのですから。

中国と日本の二つの民族の間には根本的な敵対感情などは全くないのです。歴史をひもといてごらんなさい。(中略)

友よ、わたしたちはいますぐにあなたがたの援けがいるのです。中国民衆はあらゆる種類の協働を必要としています。(中略)

友よ、この中日戦争で中国が勝つことは、たんに中国民族の解放を意味するばかりでなく、日本をも含めての全極東地域で虐げられているすべての民衆の解放を意味するのです。それは、実に、全アジア、全人類の明日へのカギなのです。

友よ、こんな時にどうしてためらっておれましょうか?この時期には何もしないということもまた許すことのできない罪悪になるのだということを記憶しておいてください。(中略)

圧迫されている隣国の民衆を討ちに出かけて、いたずらに自分が倒れてしまう……友よ、エスペランティストにとって、いったいこれ以上の悲劇があるでしょうか。

一九三七年九月上海にて」



第1版 2005/03/03
第1版(校正) 2015/01/01

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