出口王仁三郎全集8 『故山の夢』から

『故山の夢』にある歌の感想をブログで連載していたものです。

記述 2005年5月5日~7月3日


十三歳の教師

十三の教師のわれは何も知らず女工場(じょこうば)の女にからかひつづけし

短歌のデータ化は続けて、『出口王仁三郎全集(8)』回顧歌集に入ります。うろーダウンロードに一部データ化してありますが、その残りをデータ化します。

歌集の続きで、回顧歌集を読むと、全然感じが違う。短歌、道歌とデータ化してきたので、続けて読むと違いが肌で感じられるようです。同じ短歌でも目的によって表現を使い分けていたのでしょう。

ということで、第一回目は教師編。

王仁三郎少年は、子供のときから物知りで、小学校の教師が「大岡忠相」を「おおおかただあい」と間違って読んだのを、「おおおかただすけ」であると抗議をして、教師から怒りを買います。

教師のイジメに、ウンコを棒の先につけてくっつけてやるなどの抵抗をしますが、結局退学するはめに。

ところが、校長先生は立派な人で、教師も悪いとして、王仁三郎を臨時教師に取り立てる、大岡裁き。それで、王仁三郎は小さな先生になります。

狭依彦はこの話は大好きです。

十六歳の頃

人魂(ひとだま)が出ると村中ふれまはし(やぶ)にひそみて()をともしたり

瓦斯燈(かすとう)青紙(あおがみ)はりてつき出せば石なげられて吾が顏傷つく

十六歳の頃は苦しい生活をしていましたが、いたずらだけは忘れませんでした。そして、いたずらの代償を沢山払っています。

スモウ

腰いためながらもわれは辻角方(つじずもう)(めし)より好きといひつつやまずも

小学校の臨時教員をやめた喜三郎(王仁三郎)は、隣家の下男として働きます。あるとき、スモウをしていて腰を痛めます。腰を直すために、近くの村の接骨医に行きますが、「貧乏人がスモウなどするな!」と怒鳴られます。

腰の状態は思ったよりひどく、秋の収穫時の労働も、腰の痛いまま行うようになりますが、無理をしているうちに、なんとか腰は治ります。しかし、「間に合わない」と首になってしまいます。

16歳の頃の話。

荷車

(しも)()一番鷄(いちばんどり)に起き()でて()てたる道を荷車()き行く

十七歳の頃は、他家の奉公から暇を出され、父親と共に亀岡から京都まで、荷車を引いて野菜を売りに出ていました。家を夜明け頃出て、重い荷車を曳いて山を越えてゆくのです。荷車を壊したり、山賊に有り金全部とられたこともありました。

鳶口

流れ來る川の木屑(きくず)鳶口(とびぐち)をあてたるままに(おちい)濁流(だくりゅう)

執着の深いをとこと村びとにあきれられたり鳶口(とびぐち)を見て

村用の鳶口(とびぐち)なれば命にもかへて(まも)らむこころなりけり

大雨で村の川の水嵩が増し、流木がはげしく、小幡橋が危険にさらされた時のこと。喜三郎は足をすべらせて濁流に飲まれてしまった。何とか助けられた時の三首。

普通は命を優先するでしょう。それで鳶口を流してしまっても、この場合は特に文句を言う人もないでしょう。この話は王仁三郎らしい話だと思います。



田に水をひかむと夜半(よわ)畦道(あぜみち)をかよひて(たぬき)の奴につままる

狸がいなくなってから、まだ、50年くらいでしょう。狸はどこに行ってしまったのでしょう。今の、狸は、当時の狸ではない、ただの動物のタヌキです。

日本書紀

金剛寺(こんごうじ)夜学(やがく)の席から追ひ出され矢島教師のもとに走れり

矢島氏の寓居(ぐうきょ)にかよひ毎夜毎夜(まいよまいよ)日本書紀など教へられたる

日本書紀日本外史とつぎつぎに御國(みくに)(まな)びにうつりし若き日

十八歳の頃、昼のきつい労働を終えると、夜学に通っていました。夜学はお寺で行われていましたが、いたずらをして追い出されてしまいます。

その後は、矢島という先生に日本の歴史-日本書紀日本外史などの漢籍を習っています。

ということは王仁三郎は江戸時代から続いている流れの教養を持ったことになります。もし、これらの仏典や日本書紀、日本外史を暗記していたら・・・王仁三郎の文章に出てくる引用も原本を見ずになされている可能性はあります。

現在の私たちの教養とは全く違ったところで育った王仁三郎。江戸時代からの流れの教育。戦前の教育。そして、我々は戦後の教育。我々が霊界物語を読むときにも、それを忘れてはならないと思います。

(「そんなこと考えていたら物語なんて読めんぞ」という声が聞こえます。その通りですよね。どうしたらいいのでしょうかね?)

獲鹿

鹿の腹出刄庖丁(でばぼうちょう)()ち切れば中より(はら)()あらはる夕暮

十八歳か十九歳の頃、よく、山奥へ柴刈りに行っていました。柴をかついだまま、谷底に転落したこともありました。

ある日、柴を刈る喜三郎の前に手負いの鹿が現れます。その鹿を、新池というところに追い込んで殺してしまい、村に持ち帰る。そして、父には叱られたので、親戚の次郎松の家の前で、友人たちと解体しています。

なにか悲しみを感じる歌です。

その後、猟師が現れ「自分が撃った鹿をとった」と、一同から十銭ずつ徴収して謝らせ、肉も皮も持ち去ってしまいました。

ところが、なんの喜三郎、肉を隠していたのです。その肉を友人たちと集まって食べる。うまかったかどうか?そして、翌朝、目の色が変わり万物が黄色く見えます。鹿を殺生した報いだったのか・・・

轉石

柴刈(しばか)りに()きてなぐさめ半分に尾上(おのえ)岩石(がんせき)谷間にころがす

雷鳴(らいめい)(ごと)岩石(がんせき)おとたてて宙をとびつつ谷間に落ち込む

(しば)を刈る老人の(そば)に石落ちてはつとばかりに驚き飛び退()

このことを區長(くちょう)が聞きて(おこ)り出しもとの(ところ)へ岩()げといふ

五六人(しば)友垣(ともがき)あひはかり區長の家に()びてゆきたり

意地悪(いじわる)き區長はなかなか承知せず交番に渡すと意地はりにける

五六人區長のまへに合掌(がっしょう)しをがみたふしてやつとゆるさる

二十歳の頃のことでした。喜三郎は、深く考えずに何かやって、はまってしまうことがよくあったようです。私、狭依彦もこんなことはしょっちゅうなので、とても親近感がわくわけです。

背輪

澤山(たくさん)(どじょう)をとりて村びとに漁師の子よとわらはれにける

魚とりをしても充分生活が出來ると友はあきれゐたりき

背の()をおろせば魚はいくらでもとれるといつて笑ひ答へぬ

王仁三郎が魚取りの名人だったことは、『巨人出口王仁三郎』にも逸話が載っています。歌を見ると、若い頃から、魚取りは好きだったようです。ここで、魚取りが上手な秘訣とは、「背輪をおろすこと」と言っています。背輪とは、生臭いものがきらいな仏のことです。

適齡 二十一二歳の頃

徴兵の檢査に()され()の高さ五尺二寸で乙種(おっしゅ)にまはさる

穴太(あなお)より適齢(てきれい)の者四人ありていづれも丙種(へいしゅ)乙種(おっしゅ)のみなる

悪戯(いたずら)太吉(たきち)は身の(たけ)四尺九寸山椒(さんしょう)は小粒でも(から)いと威張(いば)りぬ

今日では「適齡」と言うと、「結婚適齢期」ということで主に女性に対して使う言葉でしょう。それで、「適齡」の見出しの下には女性関係の歌があるはずだと思っていたら、第二次大戦前までは「徴兵」だったのですね。

王仁三郎の「兵隊」観は、どうだったのでしょうか。あの時代に生まれた者としては当然「兵隊さんはお国のために・・・」と、そんな歌を読んでいてもよさそうですが、DBを検索しても、「兵隊」についての記事はあまりありません。

さて、現代の日本に戻ります。霊界物語の掲示板にあったけど、イラクで遭難した「民間人」と「軍人」に対しての扱いの違い、私もほんとうに気になります。ここの歌にあるような、「甲種であり、お国に対して奉公できることを自慢に思う」という状況が復活することを願っている、この国を動かしている人の無意識の心の動き、そこから生まれているのような感じがするのですが。

それと、霊界物語の掲示板の最初の「悪粋会」さんは私の自作自演ではありませんから・・・。今回の投稿は、意見を言ったというよりも、ちょっとオニペディアの宣伝に利用させてもらいました。

私は、意見があれば、基本的にこのブログに書きます。ただ、気が短いので、たまに何かの投稿に反応することはありますが。

絵と読書

繪をかいて何益(なにえき)になるか極道奴(ごくどうめ)と父はとがつた聲でたしなむ

讀書して親の雪隱(せっちん)(くそ)たれぬ樣になつてはならぬといふ父

世の中の大勢(たいせい)知らぬ百姓の父母にこまりし若き日のわれ


王仁三郎は絵の才能は抜群。残されている絵を見たらとてもすばらしい。

そんな喜三郎も、若き日は、絵も書く事ができず、読書もできず、きつい労働をして過ごしたようです。時代の風潮は「百姓の子は百姓に」が当然。他の道に進もうとすると、それは極道でした。

そんな中、少しずつ読んだ本を一度で覚えて、ずっと後まで覚えていたのかな?それとも、考えられないような努力を積み重ねたのかな?

私は物覚えが悪くなってきた今、50代前半で『霊界物語』を口述した王仁三郎すごさが身にしみます。

投書

あほら誌や團團(まるまる)珍聞(ちんぶん)に投書して記事ののり来る日を待つ楽しさ

龜岡の雜誌公園と眞砂誌(まさごし)をあがなひ投書なしてたのしむ

喜三郎には投稿の趣味があったようです。どんな文章を書いていたのでしょうか。見てみたい気になります。

我々が目にできるいちばん古い文章は、たぶん、『出口王仁三郎著作集』の1巻か2巻の『ふでのしづく』あたりだと思います。それでも、綾部に行ってからの明治30年代の文章でしょうから、宗教に目覚める前のはどんなんだったか。これで、天才だったか、努力家だったか、宗教に目覚めてから神がついたか、そんな問題の参考になるかも知れません。

貧乏神

不愉快な惱み抱きてわかき日を貧乏神(びんぼうがみ)に追ひたてられつつ

このままに老い()ちてゆく身なるかと悲憤の涙しぼりし若き日

身邊(しんぺん)をねらふ無情(むじょう)の風よりもおそろしかりし望みなき生活(くらし)

喜三郎の青春時代は経済的には小作農の息子として厳しいものでした。これらの歌がそれを感じさせます。私としては、この気持ちは、ずっと死ぬまで持ち続けたと思いたいのですが、王仁三郎になってから書いた文章は、この気持ちを感じられないものもあります。それをどう解釈するか、それが問題です。

亀山城

城内に大八車(だいはちぐるま)ひき入れて珍石(ちんせき)(みやこ)へはこぶを()しみぬ

千年の老松(ろうしょう)(けやき)大木(たいぼく)()りはらひつつ(くぬぎ)()ゑをり

金にさへなれば記念の舊城趾(きゅうじょうし)風致(ふうち)なんかはかまはぬ持主(もちぬし)

亀山城は明智光秀の居城でしたが、その後持ち主(城主)が転々として、1919年(大正8年)王仁三郎が49歳の時、大本教の手に入ります。その後、1925年(大正15年)『天恩郷』と命名され、宣教の拠点となります。

城の説明

取り上げた歌は王仁三郎が若い頃の持ち主の話。歌によると、この持ち主は商人で、城の石を売り飛ばし、木を伐ってしまいます。氏族達はそれを嘆き、涙石として、巨石を形原神社に持ってゆきます。喜三郎も、城跡が荒れるのを見て、おおいに嘆きます。

王仁三郎は後年、明智光秀を認めた文章を書いていますが、この時代に、一般に亀山城がどのように見られていたか、興味深いものです。明智の旧城として見られていたのか、その後を襲った、松平氏などの城と見られていたか、どっちでしょうか。

獣医学

牛乳を野犬(やけん)(あた)へて連れ歸り撲殺(ぼくさつ)なして解剖(かいぼう)を学ぶ

猫鼠犬(ねこねずみいぬ)など解剖学(かいぼうがく)のため見付(みつ)け次第に殺して()きぬ

獸醫學(じゅういがく)研究なして(おのず)殺伐気分(さつばつきぶん)ただよひしわれ

王仁三郎はいったん物事を始めると、徹底的にきわめようとします。獣医学を学ぶについては、何千ページもある医学書を全部書写したとも言われています。

解剖した後は、煮て食べていたようで、この後に出てくる歌で、
「四つ足で食はないものは炬燵ばかりと得意になつて鼻うごめかす」というのがあります。

米搗

百姓の夜業(やぎょう)に毎晩米を()(あし)のだるさにくるしみなやむ

どうかして樂に米の()ける機械發明せむと日夜(にちや)焦慮(しょうりょ)

米搗(こめつき)の機械の発明失敗し父にしかられ村びとにわらはる

二十三歳の頃でしょうか、喜三郎は地下水脈を探すことに才能を発揮し、村人は農業用水を掘るときには、必ず、喜三郎の意見を求めるようになりました。

昔は、米も自分で搗いていたものですが、その仕事の厳しさに、自動米搗機械を発明しようとします。そして、たぶん喜三郎のことですから、それに打ち込み、いろいろやってみたのでしょう。でも、結局、失敗、村人に笑われ「米屋」というあだ名を頂戴するはめになります。

家畜医範

家畜醫範(かちくいはん)十六(さつ)五千(ぺーじ)のこらずわれは淨寫(じょうしゃ)なしたり

淨寫(じょうしゃ)せしためにや家畜醫範(かちくいはん)をば大略(たいりゃく)暗記することを()

喜三郎は親戚の井上獣医の元に住み込んで、下働きをしながら獣医の勉強をすることになります。浄写とは「下書きなどを、きれいに書き写すこと」ですから、本をそのまま写したということでしょうか。

5000ページ。今では、そんなことできる人はいないでしょうね。本を買ってしまうでしょう。もしくは、必要な箇所だけコピーでしょうか。こうやって、人間の中にある秘められた力が失われてゆくのかも知れない・・・・

大本がエスペラントを導入した際、勉強会を開いたのですが、53歳で若者と交じって、老眼鏡をかけて机に向かう王仁三郎の写真があります。この時にも、何週間かして『和歌エス辞典』を発表しています。王仁三郎の努力家の一面を伺わせる話です。

あの写真を見ると、5000ページ医学書を写したというのも、まんざらブラフでもなさそうですね。すごい!

軽石

町風呂にはじめて()りて軽石(かるいし)顔面(がんめん)こすりいたみくるしむ

町風呂ゆ歸れば顔は眞赤(まっか)いにただれて血さへにじみゐたりし

それ以後は井上獸醫(じゅうい)(われ)を呼ぶに輕石(かるいし)さんと綽名(あだな)なしたり

初めて銭湯に行って、軽石で顔を洗ってしまい、顔面がただれて血まで滲み出します。それで、「軽石」とあだ名を付けられ、それに怒った喜三郎は、またどじを踏み、穴太の家に帰ることになります。

生業

文助(ぶんすけ)や徳をともなひ町に遊び明け方かへれば牛は()で居り

十頭の牛は殘らず麥畑(むぎばた)()でて麥の穗ぐいぐい()てをり

麥の穂の出かけたところをぐいぐいと牛()は食つて朝寢(あさね)してをり


井上が用務で出かけているときに、喜三郎は代診として、牛の屠殺場で病気が無いか見る仕事をします。そのときに、牛の屠殺人が異常な死-牛の亡霊が憑いたと思えるような死をとげた現場にいて、喜三郎は獣医学の勉強をハタと思いとどまります。

そして、今度は、牛を育てて牛乳を取る仕事をはじめます。牛乳は当時は薬として扱われており、値段も高く、飲む人もあまり多くはありませんでした。

これらの歌は、そんな牧夫になった時に、牛が逃げ出してしまったエピソードの一部です。喜三郎はこれから自分の月給で損害を賠償することになります。

妙霊教会

造化三神(ぞうかさんしん)天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)あさゆふいのる妙靈教會(みょうれいきょうかい)

妙霊教会は園部町船岡長畑35に現存するようです。内容についてはインターネットでは分かりません。HPもないようです。何件かあるGoogle検索結果では、この住所が書かれていたページ以外は、王仁三郎との関係のページだけです。

ということで、造化三神、天照皇大御神は王仁三郎の思想ではおなじみの神です。

井上直吉

獸醫(じゅうい)なる從兄弟(いとこ)井上直吉(いのうえなおきち)は神に(もう)でてかむがかりとなる

井上に憑依(ひょうい)なしたる精靈(せいれい)は人間以下のものにぞありける

()年後に獸醫井上直吉(いのうえなおきち)は精神異状をきたして死せり

喜三郎はいとこの井上直吉のところで下働きをしながら獣医学を学んでいました。この歌集によると、牛の屠殺の検査に立ち会って、獣医を志すのをやめたとなっています。

また、喜三郎と井上直吉はいろいろ対立もあったのですが、霊に憑依されて精神異常をきたして亡くなっていたのですね。

河内十人斬り

内藤の家に(いた)りてやすみをれば河内(かわち)十人斬(じゅうにんぎ)りの歌うたひ來る

十人斬(じゅうにんぎ)りの歌おもしろく門芸者(かどげいしゃ)のあとに終日(ひねもす)したがひてゆく

喜三郎の叔父の佐野清六は妙霊教の布教師。父も、妙霊教の信者となりました。父や叔父は妙霊教の布教師になることを勧めます。しかし、喜三郎は、妙霊教の体質の古さと、狐狸が憑依しているのを見て、布教師になることを拒否し、逃げ回っています。

そんなとき、河内十人斬りの歌を聴いて何日も歌い続けます。

河内十人斬りの歌とは、河内音頭の一つです。明治二十六年に実際に起こった事件を歌ったものだそうです。町田康の『告白』がその事件を取り上げているようですね。歌詞は、インターネットでは見つからないみたい、『告白』に載せられているそうです。

獣医試験

二番目に合格したれど蹄鐵術(ていてつじゅつ)實地試驗にあわを食つたり

ひとたびも蹄鐵術(ていてつじゅつ)をまなびたることなき(われ)には少し無理なる

獣医は断念した喜三郎でしたが、学んできたことを試すために獣医試験を受けます。学科試験は二番で合格しますが、蹄鉄術など一度も学んだことがなかったので、「少し」無理だったのです。この「少し」は歌としてよく効いていますね。「そんなこと。一度でもやっていたら合格したのに」のような気持ちでしょうか?

獣医試験の合格が危ういので、京都府の巡査と監獄の看守の試験も受けていましたが、両方合格、しかし、病気と称して辞退してしまいました。

マンガン鉱

滿俺礦(まんがんこう)さぐらむとして南桑田(みなみくわた)船井(ふない)兩郡(りょうぐん)の山かけまはる

さあ、次なる失敗話は、マンガン鉱。最初は一人で探していたが、同郷の村上氏も一緒に探すことになります。二人で、山へ入った時、村上が崖から落ちてしまいます。喜三郎は、驚いて、村上を探すために谷に下りてゆくのですが、その途中で尻を怪我してしまいます。結局、村上は怪我もなく無事。喜三郎は尻の怪我のため歩けない。

村上は、喜三郎の叔父の佐野清六に知らせると立ち去りますが、一晩待っても助けは来ません。村上は、薄情にも佐野には知らせず、穴太に帰ってしまったのです。翌朝、喜三郎はなんとか自力で、道路まで這い出し、幸運にも従兄弟に助けられます。

穴太に帰った喜三郎は、村上を訪ねて、薄情さをなじりますが、逆に言いくるめられる始末。ついには村上が失敗話を村中に言いふらし、「マンさん」という綽名を頂戴します。

呉服屋

()ごころの(ふみ)見て胸の高鳴(たかな)りのやまぬくるしさ(また)京に(のぼ)

呉服屋の店をふたたび()ひゆきて待てど彼女の聲だも聞かず

二時間()店に待ちしがあきらめてまた袴地(はかまじ)を買ひてかへりぬ

この彼女は、安達志津江。富豪の娘で、富豪に嫁にやるということで、母親が別れてくれと言いに来て、喜三郎は恋をあきらめた。しかし、志津江の方はあきらめきれず、飲みたくもない牛乳を喜三郎に配達させる。それが、問題になってか、志津江は実家に戻り、今度は、京都四条の呉服屋に奉公に出されることになった。その時の歌。

女から手紙が来たので、会いに行ったが一度は会えず、再び、手紙が来たときの歌。

どうして、会えなかったかといえば、自分の郷里の穴太には呉服屋なんて、ないか1軒あるだけくらいだろうが、京都には呉服屋が沢山あるのに、穴太の感覚で店を確かめずに、適当な店に飛び込んでいたからだった。

夢幻

恋人を京阪(けいはん)両地(りょうち)にさらはれて一人さびしく牛飼(うしか)ひにけり

里の()數多(あまた)あれども彼女()にくらべて胸の血は()きたたず

この文章は『出口王仁三郎全集第八巻』をデータ化した部分で、抜けている部分をデータ化しているので、話が飛んでいます。抜けている部分は、

養子

兩親はわしが氣に入らぬわしは(また)(かか)がいやだと駄駄(だだ)()をいひみし

女房は(そば)にしくしく泣ける見て一寸(ちょっと)自分も氣の毒になりぬ

結婚の式()げしより百ケ日(ひゃっかにち)たちし夕暮(えん)きれにけり

喜三郎は、失恋の悲しみの中での浄瑠璃語りの時にみつけた「斉藤しげの」という女性と結婚することになります。「養子」に出ている、「鼻先にぷんとにほひて体臭の忘らえがたき身とはなりぬる」という女性です。

これも、若さの至りか、フェロモンに迷ったか、それとも結婚して心理状態が変わったのか、養子に入った後の歌で、「今までの恋びとに()して背はひくく色淺黒(あさぐろ)きをもの足らず思ふ」と歌っています。

それでかどうか、仕事の牧畜のため、牧場に泊まり込んで、家に帰るのは十日に一度という始末。ついには、婚家の両親と衝突し、百日で縁切れになります。喜三郎の冷たい面かもしれませんね。

王仁三郎は下戸

元來(がんらい)下戸(げこ)なりし(われ)やけになり茶屋(ちゃや)にかよひて一升(いっしょう)の酒()

百日の結婚を解消して、喜三郎は今度は、「歌舞のほかにも望み」を抱いて、佐伯の糸子という女性のところで、歌舞を習い、茶屋通いをはじめます。それでも、牧畜の仕事は一生懸命していたようです。牧畜の事業にも商売敵があり、お客を獲られまいと営業に熱心だったのです。

喜三郎の明治時代の物語を読んでいて、いつも、ある疑問につきあたります。喜三郎は家も貧乏で、本人も失敗することが多いので、かなりハードに働かなければならなかったのではないでしょうか。一日、12時間、いや、もっと多く。それでも、毎晩茶屋通い。睡眠をしていなかったのでしょうか。

もうひとつ考えられるのは、今の我々の生活が苦しすぎるということです。我々が、教えられ、持っている明治時代のイメージは、人々は貧しく、朝から晩まで働いた、というものではないでしょうか。すぐ心に浮かぶのは、工場の女工などの長時間労働。しかし、実際は、現代のように物はあふれていなかったけれど、朝家を出て1時間くらいの通勤+会社で拘束9時間+サービス残業+帰宅通勤1時間、週に何回かは仕事の一環の酒、こんな現代より、太陽が照っている間に仕事は終わり、時間に余裕があったのではないかと思ってしまうわけです。

牛肉

牧揚で青年隊と牛肉を煮て食ひわれは腹をくだせり

牛の()を煮る大釜にて牛肉をたくは無茶(むちゃ)よと村上氏(おこ)りぬ

その鍋をそのまま牛の()を煮れば牛はフンフン()ぎて(くら)はず

()むを得ず川水(かわみず)に鍋洗ひ清め()を煮てやれど(また)牛食はず

輕石(かるいし)をもちて鍋皮(なべかわ)(みが)き上げやうやく牛に()てもらひける

王仁三郎が喜三郎の時は当然肉食していた。ここでは、牛肉を牧牛の餌を煮る鍋で煮て食べた後、その鍋で煮た餌を牧牛が食べなかったことを歌っている。

王仁三郎になってからは当然、肉食は否定している。それほど、厳格に禁止している調子ではなさそうだ。

わかき日

白梅(しらうめ)の花から桃へ櫻へと蝶のごとくにうつらふわかき日

王仁三郎自身の女性遍歴を歌った歌。春の日の情景を思い浮かべると、色彩豊かな歌ですね。最近の私には、だんだん、思い浮かべられなくなっていますが。なぜって?ん~ん、花粉症!

欲望と夢

()()なにわが見し夢は花のゆめ(むらさき)のゆめ桃色のゆめ

これはセックスの欲望を表した夢でしょう。

同胞

何時(いつ)までも()父母(ちちはは)()を産むと友の一人(ひとり)(いか)りてかたる

貧乏(びんぼう)上塗(うはぬ)りしてもかまはない()を産む元気(げんき)(をや)(うれ)しい

上は喜三郎の友人。下は喜三郎の感想です。

ここに述べられているのは、現代とは全く違う心情でしょう。この時代は子供の制限をしていないので沢山生まれた。まあ、沢山死んだのかも知れませんが。これで、100年前くらいでしょうか。全く、人の心の持ちようが違ったかもしれません。

今業平

黄金の万能力(ばんのうりょく)の社会には南瓜(かぼちや)も美人をめとりて()ませる

地位と金とばかりが結婚すなる世は今業平(いまなりひら)の君ももてなく

25歳頃の歌。恋人を大阪にやられ、その恋人が結婚する日に「入水自殺する」というのを止めて、諦めた後、貧しいものは恋もかなわぬと事業に打ち込んでいる時の歌。

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第1.1版(一部修正)2015/01/02

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