出口王仁三郎全集7 短歌集(1)

全集7にある歌の感想をブログで連載していたものです。

記述 2004年11月26日~2005年2月2日

※2015/1/2現在リンクで切れているものがありますが、過去の記事を生かすために、そのままにしてあります。


第一次事件の回想

眞宗(しんしゆう)の書籍ばかりを讀まさるる獨房(どくぼう)さびし霖雨(ながあめ)の降る


第一次事件の回想でしょうか。


稲と稗

苗代(なわしろ)に目立ちてそよぐ(みだ)()をひきぬき見れば(ひえ)のやはもえ


稲の苗代に雑草が目立っていた。引き抜いてみたらそれは雑草ではなく稗だった。
「やはもえ」の意味が分らないが、「ああ、稗だったのか。元気だな。別に育てて食ったるぞ」というところだろうか。

温泉

幸多き今日の吾が身ぞ思ふこと一つもあらず温泉(いでゆ)にひたる


湯ヶ島温泉に行かれた時の歌。
何も考えず、温泉にひたる。最高!

馬も牛も

馬も牛も湧き()づる湯に浸りゐて珍らしきかな湯ケ島の里


馬も牛も・・・・・・
のどかな光景です。
今や、牛も馬も、管理された食肉製造機または、ギャンブルのコマ。
昔は、と言っても、最近まで、牛も馬も人間の近くにいたのですね。

ときじく

火産霊(ほむすび)の神の御息(みいき)かときじくにけむりを吐ける大阿蘇(おおあそ)の山


ここでは、「ときじく」と平仮名を使われていますが、『天祥地瑞』73巻では非時と漢字が使われ、何回か出てきます。漢字を使うと、非時のような響きを想像してしまいます。

ときじく」いつも

>>国語辞典

ときじくのかくのこのみ 【非時】

「ときじく」は形容詞「時じ」の連用形。いつも芳香を漂わせる木の実の意。タチバナの実の異名。 「―を求めしめたまひき/古事記(中)」

「時じ」(古語) (1)その時節にはずれている。(2)時節に関係ない。いつもある。

雲仙嶽

この(まき)に草はむ馬のここだゐて()つつじの花ふみにじられつ

ここだ(副詞)たくさん。数多く。(万葉集に使われている)


雲仙嶽の風景です。たくさんの馬が草を食べている。
活気にあふれている。
でも、つつじが踏みにじられて、赤い花びらが土にまみれている。

いい歌ですね。この現世を見る目を感じます。

羊蹄山

山脈(やまなみ)のやまのみねみね雲おほひ羊蹄山(ようていざん)の今日は見えずも


北海道の旅のひとこま

木を伐る

(ふるき)()はみな()()られ植えし木の若木が茂る膽振(いぶり)國原(くにはら)


「伐り伐られ」に人間の開発の貪欲さを感じるのですがどうでしょうか。それでも、若木をとりあげているのは、人間の将来を祝福しているのかもしれない。
ここに、ただ、自然だけを見るのではなく、人間だけを見るのではなく、どちらも見ている、大きな目を感じます。

天の河

たまさかに逢ふ夜は明けて歸りゆく君の(なさけ)の思ひやらるる


若い頃の思い出を歌ったと思うのですが、どうでしょうか。「情」にいろいろな意味がこもっています。

プロレタリア短歌

恐ろしい煙突の吐く黒い煙はプロレタリアの俺たちの息だ

背の低いのが氣にかかリシヤッターのおりる瞬間のび上つてみた


プロレタリアは労働者階級ということ。しかし、この語も何年か後には死語になるんだろうな……
王仁三郎はこんな歌も作っている。たぶん、この時代に、短歌界でこんな歌がはやっていたのではないか、それを取り入れたと思います。

霊界物語でも、トロッキーが出てくるところがあり、これらの短歌と同じような調子の歌があります。(データベースで検索する時は、小さい字は基本的に大きくしていますので、トロキーではなしにトロキーでする必要があります)
王仁三郎がレーニンやトロッキーをどう考えていたか、共産主義が消えゆく現在、再度、考察する必要があるでしょう。

百姓の顔

寢ながらに月かげが見えるあばら()の淋しいくらしだ、螽蜥(きりぎりす)が鳴いてゐる

不景氣風吹きまくつてゐる今年の秋は庭の萩など見る氣にならず

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が赤赤と咲いてゐる田の(くろ)!憂鬱な百姓の顔を見ろ


この歌を歌った昭和5年か6年は、農民は貧困に喘いでいました。王仁三郎は大本教としても、農業の改良、陸稲の栽培などに取り組みます。『昭和』誌などを見ると、農民の問題は大きく、いつもとりあげられていたようです。

新月のかげ

眞葛(まくず)の花見わかずなりし夕暮の空につめたき新月(にいづき)のかげ


王仁三郎の言行録である、木庭氏が書いた『新月の光』という本があるのだけど、このばあいの読みは「しんげつのかけ」です。
この歌の読みは「にいづきのかげ」。『天祥地瑞』でも「新月の光」というのは出てくるけど、「しんげつのひかり」と読んでいるものが多いのではないかな。くわしく調べたわけではないけれど。

秋雨

日日(かか)なめて長雨(ながめ)降りしく秋の田に見るかげもなく立つ案由子(かがし)かな

王仁三郎の時代、昭和5年の案由子ってどんなんだろうか。
また、秋雨が、疲弊した農村に、静かに降って、体の芯まで冷たくさせたのだろうか。
現代の、バンバンと降ってくる雨とは違う感じがします。


曼珠沙華

あまりにも月のよろしさ(おも)ふどち曼珠沙華(まんじゅしゃげ)咲く野路(のじ)をひろひぬ


月がきれいなので、連れ立って、曼珠沙華=ひがん花の咲く野道を逍遥した。
月の光の中のひがん花は見たことがありません。太陽の下では真赤だけれど、どんな色合いになるのだろうか。

曼珠沙華は万葉集では「いちし」

(11-1480)
路の辺の壱師(いちし)の花のいちじろく人皆知りぬ我が恋妻は

私があの女に恋していることは誰でも知っている。という、情熱的な恋歌。

天恩郷雜詠

あかときにピアノの音の起りたり光照殿(こうしようでん)の奥深きあたりに

今日もまた櫟林(くぬぎばやし)をさまよひて兎の墓に花手向(たむ)けたり


今日は2首。

上のピアノの歌はよく出てくるんじゃないかな。
朝早く、ピアノの音が聞こえる。誰が弾いているのか。大本は神道系の教団で、祝詞とか、八雲琴とかを考えると、ピアノの音は合わないように思うけど……けっこう、新しかったということでしょう。
誰の曲だったのでしょうか。私はショパンのような気がします。
また、聖師の誕生日のお祭りで、「レコードに合せて舞い躍る女性」が出てきます。これも、モダンダンスだと思われます。

兎の歌

王仁三郎の細かなやさしさが感じられます。『巨人出口王仁三郎』にも、「食事中、二代にないしょで、高級魚の刺身を、そっと猫に食べさせる」というエピソードがありました。私は、王仁三郎のそんなところに一番ひかれています。

亀岡城趾

舊城趾(きゅうじょうし)銀杏(いちょう)の下にたたずみてわれ回天(かいてん)の偉業をおもふ

回天 天下の形勢を一変させること。衰えた勢いをもりかえす意に用いる。 「―の事業」


『大地の母』か『出口王仁三郎』に、少年の王仁三郎が亀岡城趾で将来の夢をふくらませる場面があったような気がします。
亀岡は明智光秀の城であったし、足利尊氏が京に向かって出陣した土地でもあります。天下の三大悪人のうち二人と関係があった土地。
しかし、王仁三郎はどちらも悪人とは見ていません。

また、この歌は昭和5年に歌われたものらしいですが、自分の未来についての感慨も含まれているような気がします。

壱岐

木の葉みな秋陽(あきび)しみじみ吸ひてをり眞昼(まひる)の森のひそやかにして

何処(どこ)へ行つても黒い顏の蜑女(あま)ばかりゐる壹岐の島がさみしくなる


上の歌は、自然をそのまま歌っていて、美しいと思います。

下の歌は王仁三郎らしいと言えば、王仁三郎らしい歌です。「黒い顔のあま」、現代では差別的な表現とされるかも知れません。これは冗談なのか、心から「白い顔の女がいい」とさびしく思っているのか、どちらでしょうか?

琉球の旅

ひさごなす緑青(りょくせい)のそらを新しきいろと仰ぎみて心すがしき

*ひさご ゆうがお、ひょうたん、とうがんなどの総称。


ひさごなすは緑青という色を形容したものではないでしょうか。緑青色の空。こんな空の色はじめてだ。これは、新しい色!
なんという、瑞々しい感性であることか。この歌を歌った時は、60歳近くだったはずなのに、若い。



わが居間の(えん)の障子をかすめつつかげの過ぎゆく庭雀(にわすずめ)かも


障子に「かげの過ぎゆく」雀が映っている。
それを見ている王仁三郎の心をいろいろ想像させるとても繊細でいい歌です。
自由短歌?

贈賄!
收賄!
何をいつてやがるんだ
その金からして一体どこから持つて來たんだ!


これは、どんな分類になるかわかりませんが……
これを書いたのは昭和5年。
今も同じようなことは後をたちませんが、こんな歌うたい、このように考える人の数は減ってしまったのじゃないかな。
無関心。もしくは、贈収賄はあたりまえになったということか。

あられ

ひとり()の夢を()ましてはらはらと窓をうちつつ(あられ)()げゆく


タン・タンという音に目が覚めた。そとは、風音が聞こえ、窓に何か打ち付けている。ふーん、霰だ……と思っているうちに、再び眠りに落ちる。

年末

貧しけれどむかふる春をことほぎて街に物買ふこの年の市


今日は自分狭依彦に一首ささげましょう。

霜柱

街道のつちは凍れり吾が乘れる駒のひづめのあやふさ思ふ

漬けおきし米は氷に(とざ)されて(かし)ぐよしなし朝の寒きに


ここからは昭和六年(1931年)の歌になります。

馬で移動していた。水に漬けておいた米が凍って炊けなくなっている。この時代、まだまだ、自然の中で生活してのですね。
王仁三郎師のことを想う時には、頭の片隅に置いておかなければならない情報です。

台湾の歌(1)

竹竿(たけざお)を手に握りつつ島人(しまびと)家鴨(あひる)を追ひてかへり()く見ゆ

桂竹(けいちく)のえだざわざわと風ありて台湾からす一羽(いちわ)とびゆく

水面(すいめん)にあまた浮べるあひるをば小舟に追ひて女かへりぬ

牧童(ぼくどう)に見まもられつつ清川(きよかわ)に水牛あまたあそぶしづけさ

生蕃(せいばん)のやま焼くけむり炎炎(えんえん)と大空を焼くいきほひを見す

水牛と話しながら島人の家路(いえじ)にかへる黄昏(たそがれ)しづけし


昭和6年に台湾を訪れたときの歌です。
私が昔王仁三郎に興味を持った時、以前から台湾の歴史に興味があり、これらの歌を読み、より王仁三郎が身近になっていったのでした。
これらの歌でも、水牛が入っているものは、「のどかさ」「静けさ」を感じますが、もっと深い意味も入っているのかも知れません。

「台湾のことども」
短歌に台湾の歌が出てきますので、ちょっと台湾のことを書きます。
台湾は、霊界物語でも一つのまとまった物語としてとりあげられています。
「台湾物語を読む」というコンテンツが「霊界物語」メニューにあります。
台湾は明治日本の最初の植民地となった場所で、原住民系の人と大陸系の人が住んでいます。

■台湾の歴史

http://www.tabitabi-taipei.com/kihon/basic/history.php

http://www.wufi.org.tw/jpn/jng13.htm

王仁三郎が台湾を訪れた昭和6年の人口構成(昭和4年末調査)
内地人(日本人)  22万(5%)
本島人(大陸系) 420万(92%)
生蕃人(原住民)   8.6万(2%)
外国人        4.3万(1%)

 昭和5年末に原住民の反抗事件の最大のものである「霧社事件」が起こっています。
人口構成を見ても分るように、台湾の歴史はほとんど大陸系の人々の視点から書かれています。
 原住民は高砂族と呼ばれ、いろいろな種族がありました。彼らは、狩猟を生業としており、銃を所持していました。また、種族によっては、宗教的な首狩りの風習があるところもあり、恐れられていました。
 日本が日清戦争後台湾を支配してからは、鉄条網、地雷などを使い囲い込みを行い、帰順した者達には教化政策をとっています。ある資料によれば、最大30万人のうち、数年間で5,6万人を殺した、5人に1人は殺したというものもあります。

 そんな台湾に王仁三郎が訪れるわけですが、原住民を思わせる言葉を使っている歌もあり、王仁三郎は原住民たちをどう思っていたのでしょうか。聞いてみたいところです。

 今の台湾で、日本の植民地支配を「文明をもたらしてくれた」と良く言う人々は生き残った人々なのです。死んだ人々のことは考えなくてもよいのかな?
 「日本は台湾を文明化してやった」と言う人々には、「まつろわない人々は殺して」というフレーズは全く存在しないのだろうな。

 イラクなどでのアメリカのやり方を同時進行的に見ていると、そんなことを考えさせられます。


台湾所見

()が軒をながるる小川に台湾娘(チャボラン)(きぬ)あらひ居り()はうららにて


いい歌ですね。でも、本当に女が好きなおっさんだ!
この台湾娘「チャボラン」は大陸系だろうか原住民系だろうか?
この歌の前後に草山の風景が歌われているので原住民系だと思うのですが。
ここで紹介している『出口王仁三郎全集7』と、戦後出された『出口王仁三郎全集4』では載っている歌がかなり違いますが、この歌は、両方に載っています。

お願い

『出口王仁三郎全集7』P.123で次の二首が不完全です。


朝庭(あさにわ)の千兩の實はあかあかと目にしみ**宿にして
相思樹(そうしじゅ)のはやしの梢吹く風に**硫黄温泉(いおうおんせん)の庭

水牛と白鷺(台湾)

水牛の田を()くなべに白鷺(しらさぎ)のつぎつぎに群るる見つつあかなく


人間(水牛を使って田んぼを耕している)、水牛、白鷺がおりなす風景。私達が失ってしまった風景。美しい。
今、白鷺は道路に落ちて、車に轢かれたのを多く見ます。

生蕃人(台湾)

天孫民族の(おもかげ)(しの)ばれる、生蕃人(せいばんじん)のたくましい顏


生蕃人は台湾の原住民のこと。この歌の雰囲気では、王仁三郎は原住民に悪い印象は持っていないような気がするのですが、どうでしょうか。

春の一日

幼児(おさなご)(いく)つと問えば小さき手の指()つ折りて微笑(ほほえ)めりけり

昨日(きのう)見し田芹(たぜり)()まむとゆきみれば()きかへされぬ一日のまに


どちらも日常の小さな光景ですが、王仁三郎の気持ちが伝わってくるようです。

蒲公英

蒲公英(たんぽぽ)のはなはなつかし未決監(みけつかん)のにはに一輪咲きてゐし花


第一次大本事件の際の回想です。
これに関しては下の文章が好きだな。いつも、心しずんだ時にはよく読みます。再び立ち上がろうという気持ちをかきたてられます。
  (ちい)さい蒲公英(たんぽぽ)

 大正(たいしやう)十年(じふねん)二月(にぐわつ)(ころ)(みな)()つて()(とほ)(わたし)京都(きやうと)監獄(かんごく)()つた。或日(あるひ)散歩(さんぽ)に、枯草(かれくさ)(なか)()いて()一輪(いちりん)蒲公英(たんぽぽ)見出(みいだ)した。ああ(その)一輪(いちりん)(はな)、それによつて(わたし)はどの(くらゐ)(なぐさ)められたか(わか)らなかつた。(なん)()(あい)らしい(はな)であらう。(ふゆ)(さむ)(なが)(あひだ)百草(ももぐさ)()れて、(なに)()いやうに()える(この)(はな)が、(はる)(ひかり)()びると、(ねむ)つた(ごと)()えた()からは(あを)()()で、()()び、やがてはあの豊醇(ほうじゆん)(ちち)()つた(うつく)しい黄色(きいろ)や、(しろ)(はな)()くのである。(なん)だか(わたし)境遇(きやうぐう)()()るやうである。(わたし)(おも)ふた。たとへ此度(このたび)(こと)によつて大本(おほもと)(つぶ)れたとて、五十七才(ごじふななさい)になつたら(また)(もと)六畳敷(ろくじようじき)から(はじ)めやう、教祖様(けうそさま)五十七才(ごじふななさい)にして(はじ)めて()たれたのだから……。

 かくこの一輪(いちりん)(はな)によつて(なぐさ)められつつ、()(おく)つて()(うち)、やがて(はる)最中(さいちう)になつて、そこら一面(いちめん)蒲公英(たんぽぽ)(はな)をもつて(うづ)めらるるやうになつて()た。何等(なんら)(なぐさ)めをも()たぬ囚人達(しうじんたち)如何(いか)(この)(はな)によつて(なぐさ)められた(こと)であらう、(あした)(ゆふべ)(はな)囚人(しうじん)唯一(ゆゐいつ)(あい)対象物(たいせうぶつ)であつた。(しか)るに(こころ)なき園丁(ゑんてい)掃除(さうぢ)をするのだと()つて、(みな)(この)(はな)()きむしつて仕舞(しま)つた。

神の国 1926/06


湯ケ島温泉

うばたまの小夜(さよ)のくだちにただひとり温泉(いでゆ)にひたりて心しづけし


王仁三郎師が温泉に入っている写真が霊界物語にあったような気がしますが、露天風呂ではなく、木の五右衛門風呂みたいなものだったと記憶していますが、どうでしょうか。
私も、2年ほど前までは、よく、日本秘湯の会の温泉に行って、夜、ひとりで浸かっていたのですが、「うろー」をやりはじめてからは行っていないな。

蒲公英

朝庭の露を跣足(はだし)に踏みながら心すがしも蒲公英(たんぽぽ)のはな


湯ヶ島温泉に療養中の歌。
王仁三郎はタンポポ好きですね。

霊能者

隣室(りんしつ)におそはれなやむ人のこゑよびさまさむと(せき)一つしぬ


襲っているのは、いわゆる悪魔(邪霊、曲津)といわれるものでしょう。たぶん、悪夢を見ている。苦しみの声が聞こえてくるのでは。
咳一つで悪魔を払うことができる王仁三郎の霊力。これは、王仁三郎が天才であることと共に、誰もが認めることだと思います。
王仁三郎が他の多くの現代の霊能者と違うところは、「依頼」されなくても、悪魔を払ってやるところでしょうか。

蒲公英

白白(しろじろ)春陽(はるび)かがよふひとすぢの道の()に咲く蒲公英(たんぽぽ)の花


昔はこんな光景はどこにでもあったのだろうな?咲いているのは古来の日本のタンポポ。道は当然、土の道。道の両側は、草むらでしょうか。
私達日本人が心と共に失った風景の一つでしょう。



わが軒の一本(ひともと)櫻咲きしより人足(ひとあし)しげくなりしこの頃

贈られし忍冬(にんぞう)のさけ友と飮みて櫻かざしみぬからの徳利(とくり)

街燈のあかりをうつしてひとところ櫻の枝のあかるかりけり

うら山の櫻手折(たお)りて病めるきみの心(なぐ)さむと床にさしけり


日本では春の花と言えば桜だけれど、大本では花と言えば梅です。出口ナオ教祖が明治二十五年に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け鬼門の金神守るぞよ」と獅子吼されてからずっと梅のイメージです。
「万葉集」でも春の花は梅なのですね。ちょうどその頃輸入されて植えるのがはやっていたらしく多くの歌があります。(ちょっと不確か)
ここでは王仁三郎の桜に対する気持ちが出ていると思います。今なら、桜の花を手折って、病人の枕もとにさす、なんてことはしないでしょう。

オリオン

うすらかすむみ空の奥にオリオンの星かげ遠し春の夜()くる


オリオンは王仁三郎にとっては重要な用語です。
ここでは暗喩ではなく、そのままオリオンを見上げています。
一般的に王仁三郎は、短歌として歌を書いた場合は、暗喩は使わない、そのため、普通の歌として読めばいいのではないかと考えますが、いかがでしょうか。



ひねもすを(うまや)につなぐ牛の仔を夕べ(はな)てばよろこびはしるも


こんな時代にはBSEなんてなかっただろうに。こんな歌を読むと、我々(特に日本人)と牛の関係が全く変ってしまったことを実感します。
肉食の問題は王仁三郎や現代の精神関係の大きなテーマだけれど、私達は昔から引き継がれた生命に対する観念を捨てさせられた(捨ててしまった)と思います。

保津川下り

保津(ほづ)(たに)くだる左右の岸のべに河鹿(かじか)(うぐいす)きそひてなくも


保津川は亀岡から京都方面に流れている川。王仁三郎は亀岡に住んでいました。この時代の「保津川下り」もレジャーの一つだったのでしょう。普通我々は近くの景勝地にはあまり行かないから、誰かを案内して舟に乗ったのでしょうか。
 「河鹿鶯きそひてなくも」のところがいいですね。

夜空を眺める

一つ(ぼし)かすかにひかる空をみつつ心淋しもひとりゐの軒


ここでは、一つ星は、「ひとり」を象徴するものとして使われています。
一つ星は一般的には金星(宵の明星)を指す。他にも、北極星は「北の一つ星」と呼ばれるし、みなみのうお座のフォーマルハウトは「秋の一つ星」と呼ばれているらしい。
ここでは、「かすかにひかる」となっているから金星以外の星を指していると思われます。

「霊界物語」にも星に関する記述は多いです。

須藤アキオ氏は、「霊界物語は占星学の書」でもあると言っています。どうでしょうか?


身辺雜唱

街に出て煎餅(せんべい)買へば新聞紙のふくろにがさがさ入れてくれたり

たまさかに街に()づれば()らぬもの許許多(ここだ)買ひたくなりし吾かな


他の人が詠んでいたならただの情景描写でしょう。でも、『大地の母』などで王仁三郎の若い頃の生活を知ってから読むと、下の歌など、なにか深い情感を感じるのですが……。王仁三郎の若い頃のことを知るには、『大地の母』『出口王仁三郎』(新評論)が小説形式で一番よいと思います。あと、うろーのダウンロード全集8に一部紹介してある『故山の夢』が、若い頃の生活を感じさせます。

追懐(子供)

父さんもすき母さんもまた好きと顔見くらべて幼子がいふ

乳汁(ちち)貰ひ歸る夕べの雪道にもの云はぬ子とかたるさみしさ

背なの子に椿の花を折りやれば手に持ちし菓子捨ててつかめり


自分の子供のことを歌っているのだと思います。日常の光景をそのまま歌っているのですが、情感が感じられます。

日常吟

親しかる友のしたしみつづけむと心ひらきてわが()るものを

男子(おのこ)てふものの力のありたけを(つく)せしわれに悔ゆることなし

誤解多き人の世なればただただに(もだ)して生きむ(おし)にあらねど

いたらざるひとに對するあらそひを恥ぢらひて(もだ)幾年(いくとせ)()けむ


出口王仁三郎ではなく、上田喜三郎としての述懐ではないかと思います。下の二つの歌は、聖師の人生は出口王仁三郎としての行動ばかりで、上田喜三郎としては何も語ってこなかったという意味でしょうか?

土じめり

庭土のしめりを素足(すあし)に踏みながら草ひきて()る朝の(すが)しさ

素足で土の上に立つことも私達の忘れてしまったことの一つでしょう。アスファルトの上に、靴をはいて、靴の中には靴下。これでは、大地の気と交信することもできないですね。ついでに、空中は電波で一杯。私達の体内のエネルギーは乱れる一方……。

子供

(やぶ)あとのほそきたけのこ爭ひてぬく子等(こら)の聲居間に聞えく

若松のみどりの花のけむらへる花粉ちらすと子等(こら)ゆすり()

朝はやみいちごの(はた)にささやける子等(こら)のおもては輝けるなり

青草(あおぐさ)のうへに芭蕉(ばしょう)の葉をしきてままごとしてる子のいとけなさ


いちご畑の子供達、いちごを盗み食いしようとしているんじゃないかな。小さい声でささやいているんだけど、興奮で声が大きくなってしまっている。王仁三郎が物陰から覗くと、輝いた子供達の眼。大人と子供のコミュニケーションが成り立っていた時代。ほんの80年くらい前ですよ。
いたずらをしてこそ子供。つい最近までは、子供のいたずらが大事故につながることもなくて、いたずらも時と場所をわきまえたもので、大人も、放任というか大きな目でみていたのではないでしょうか。

私の中では、この歌、土門拳の子供達のイメージです。
土門拳記念館の中のメニュー「土門拳について」の作品の一部の「こどもたち」の中の子供です。(FLASHなのでリンクできない)

飛行機

飛行機から飛び()りて自殺を企てた男がある、五月(ごがつ)の空はすばらしく青い


新聞記事を読んでから、屋外に出て、空を見上げて想像したのでしょうか?
この頃以降の「昭和青年」誌「昭和」誌には飛行機、航空の記事が多く出てきます。

また、「天祥地瑞」にはエアポケツトという言葉が出てきます。その頃からあった言葉なのですね。

カエル飛び出す

蕗畠(ふきばたけ)ひととこゆれて大いなる(かわず)一匹飛び出しにけり


王仁三郎の状景描写が巧みではないでしょうか。
ただカエルが飛び出しただけなのに、-見ている私が何をしていたのか?カエルがそれからどうしたのか?-いろいろ想像させます。

南桑

光秀(みつひで)が築城の石を掘りしとふ金岐(かなげ)の山ははげところどころ


小見出しは「南桑原野展」となっていますから、亀岡の天恩郷から見た風景でしょうか。
望金岐は現在の亀岡市。亀岡の歴史を見ていたら、縄文時代と関係のある地名のようです。

また、光秀は明智光秀で、王仁三郎は光秀を評価していました。

夏ぐみ

(ほり)ばたの水田(みずた)(くろ)を夏ぐみの枝もたわわにみのりたるかな

里の子の見つけしものかぐみの枝折りたるがここだ散らばりてあり

(注) ここだ:たくさん(万葉集で使われている)

茱萸(ぐみ)のあかあかみのる神苑(かみその)に町の子供らあつまりあそぶ


ぐみ


グミ科グミ属の植物の総称。落葉または常緑の低木または小高木。全体に星状毛があり、葉は全縁。花は白色または淡黄色で小さく、葉腋(ようえき)に少数束生して下垂する。果実は赤く熟し、渋みのあるものが多いが食用になる。ナワシログミ・アキグミ・ツルグミ・トウグミなど。[季]秋。

開けていた神苑。町の子供達が遊ぶ神苑。ぐみを取っても、どなったりはしない王仁三郎。いいな。

白雲のゆくへ

夕靄(ゆうもや)にほのめく軒の一つ()を力に一人通ふ野の(みち)

君待ちて川べに立てば小夜(さよ)ふけの千鳥亂れて鳴く聲かなし

あひ見れど()らはぬ思ひしみじみと身に迫るかなくちなしの花

いたづきに瘠せたる君の(おも)ざしに故知らぬ涙こぼれ落つるも

わが庭のひともと松に風たちてしづ心なし君待つ夜半(よわ)

砂利をふむ足駄(あしだ)のおとのきこゆなりこの小夜更(さよふけ)を君の來にけむ

ひそやかに裏戸(うらど)()でて帰りゆく君を送りぬ夜嵐(よあらし)の音

人の世の定めあらそひがたくしてわが思ふ君は嫁ぎたまひぬ

生垣のかげにしろじろ茶の花の匂ふ夕べを君は來ませり

稻刈りて歸る夕べの野の辻に(ちぎ)りし君はいまや世になき

指折りて別れたる日をかぞふれば餘りにながきなやみなるかな

高熊にかよふ山路の芝原を見ればなつかし昔ごころに


一連の回想歌。これを書いたとき王仁三郎は61歳。瑞々(みずみず)しいてですね。
これは誰のことを歌っているのでしょうか。

夏、くぬぎ林

青葉かげに夏を(すず)みし庭の()(くぬぎ)はあはれ()られけるかな

青葉ひかるくぬぎ林に風もなく夕やけぐものあかきしづもり


私達の時代は、「木」に触れることが少なくなったので、「くぬぎ」と言われても、イメージが全く湧かないのではないでしょうか?木はどれくらいの高さなのだろうか?幹の太さは?葉っぱはどれくらいあって、空を隠しているのだろうか?

下の歌は、いい歌だと感じるのですが、「くぬぎ林」のイメージがもうひとつなので、違ったイメージにとってしまいそうです。

月と五位鷺

()(もと)銀杏(いちょう)のかげに月を仰ぐわが眼かすめて渡る五位鷺(ごいさぎ)


「わが眼かすめて渡る」というところで、五位鷺に意思があるかのように読んでいます。これによって、風景が生き生きとしてきます。鳥の動きまでが想像できませんか?
 私は和歌のことはくわしくないのですが、こんなテクニックがあるのかも知れません。もし、テクニックがあるのなら、王仁三郎はそれを自分のものにしていると思います。

夕立

夕立の雨(きた)るらしアカシヤのこずゑもみつつ風すぐるなり

道のべの(よもぎ)下葉(したば)よごれをり土をたたきて降る夕立(ゆうだち)


夕立そのものを「すごい、ひどい、強烈な、恐ろしい、荒れ狂う」などと歌うのではなく、雨以外の状景で夕立を表そうとしています。上の歌では、「アカシヤのこずゑ」をわたる風、下の歌では、「蓬の下葉」の汚れ。
王仁三郎は結構、歌のテクニックにもたけていたのでは?

楽焼

焼きあげしこの楽焼(らくやき)のいろの()え見ればいみじくほほゑましかり


この歌は昭和6年の歌ですが、13年後の昭和19年に本格的に焼物に取り組み、耀碗というすばらしい芸術を完成させることになります。

夏雜歌

夕暮の花壇を一人さまよへば庭の()あかきサルビヤの花

()ゆる夏の夕べをぢぢと鳴く鈴虫のこゑは(おさ)なかリけり


いい歌!

日本ライン

川舟(かわぶね)に春さむ(がお)のをみなゐてころも洗へり日本(にほん)ライン川(がわ)


「をみな」は「おんな」、女性です。王仁三郎は日本ライン下りの舟の上にいる。岸につないだ小さな川舟で洗濯をしている「おんな」が見える。寒そうだ。
というところでしょうか。それにしても、王仁三郎は女には目が早い!

音頭

踊りたく音頭とりたく思ふかな比叡(ひえ)高嶺(たかね)月下(げっか)の庭に


王仁三郎の歌った音頭が残されていて愛善苑の関係などで販売しているはずですが、愛善苑のサイトでは聞けないようですね。
王仁三郎の音頭、ほんとうに昔の盆踊りのような音頭なのですが、何度も聞いていると結構楽しくなってきます。たぶん、日本人の基本リズムなのでしょうか。

君ゆえに

国国(くにぐに)の玉をつらねてくびかざり勾玉(まがたま)つくりかけて見しかな

君ゆゑにこころは苦しきみゆゑに心はたのしおもひ絶えねば

かがやける君がおもてのみだれ(がみ)ただひとすぢに命つなぐも

しほなはのはかなき戀と知りながら君とあふ夜の樂したまゆら

酒を飲むわれにしあらば君の前にたわけて見たく思ふ此頃(このごろ)



「このごろ」とあるから、現在の恋を歌っているのでしょうか。それとも、ただ、歌だけなのか。それにしても情熱的です。王仁三郎、61歳。

松かさ人形

()ゆるとも死ぬは()しけれ末の子のまだ(とつ)がずてあるを思へば

あがなひし松かさ人形()にならぬ手輕(てがる)きものも(おさな)らがため

わが()くぼわが子にもあり孫にさへ同じくあるを見いでたりけり


神でもなく、世界改造業者でもない、人間王仁三郎が出ていると思います。私が一番感動するのは、恋を歌ったり、ぼそっと人間味を見せる、こんな王仁三郎です。

テープ

なげてもなげても思ふ人が握つてくれない、もどかしいテープだ

デツキから投げつけたテーブを(しっ)かり握つた對手(あいて)の顏を見つめてゐる


船が出港するときにテープを投げる、あれでしょう。私は、直接は知らないけれど、映像では見たことがあります。
たぶん、陸にいる相手は若い女でしょう。おっさん、ええかげんにせいよ!!!
でも、私は、こんな王仁三郎だから、好きだし、信じられるのです。

宗教家の塗料

(なに)()行詰(ゆきつま)つた世の中だと云つてゐる、俺は自由に展開して行くのだ

(つまず)いた石をかへりみて、腹立(はらだ)ちまぎれに蹴つてみる自分が、ふとをかしくなる

三年前に作つた眼鏡(めがね)()かなくなつた、老眼(ろうがん)の淋しい秋!

硝子窓に頭をぶつつけてゐるやんまの(さびし)(はね)の音をぢつときいてゐる


宗教家の塗料という意味がもうひとつよくわかりません。老眼は私もそうですのでよくわかります。また、最後のやんまの歌はとても悲しくなります。



若き日のわがいたづらを(しの)ぶかな萩にみだるる風のゆふべを

咲きそめし萩のやさしき花のいろに昔こひにし(いも)をおもへり

(注) は「あの子」「あなた」


若き日の回想シーン。私はおだやかな気分を感じます。
王仁三郎の若き日には、たくさんの女性が登場します。これは誰なのでしょうか。
私、狭依彦が紹介したいのは、緊張した顔をしている王仁三郎ではなくて、こんな王仁三郎です。

御祖を偲ぶ

背を出せば教御祖(おしえみおや)は子のごとく喜びてわれに負はれ(たま)へり

わが御祖(みおや)せなに()はれつ変りゆく世のありさまを語りたまへり

注 御祖は大本開祖出口ナオのこと


開祖を背負って歩いたというのはいろいろな本に出ています。これは王仁三郎自身の回想として貴重なものでしょう。
負われた開祖は背中から何を語ったのでしょうか。今(その当時の現在)の世の中の批判でしょうか。それとも、未来の予言でしょうか。興味のわくところです。

紫苑の花

文机(ふづくえ)のうへに紫苑(しおん)のはな活けて秋をすがしく客とかたらふ


「紫苑の花」をグーグルでイメージ検索してみました。インターネットの便利なところでしょう。

http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&c2coff=1&q=%E7%B4%AB%E8%8B%91%E3%81%AE%E8%8A%B1

聖観音

伊都能賣(いづのめ)聖觀音(せいかんのん)のおん前にかしは()ひびく雨はれの庭

雨も風も知らぬ(がお)なる露天佛(ろてんぶつ)聖觀音(せいかんのん)のみ姿(すがた)すがし


この聖観音は、『裏金神』でとりあげられているものだと一瞬思ったけれど、そうではないようですね。

かささぎ

()きとほる空の(すが)しさ見つつあれば神苑(みその)を低う(かささぎ)わたる

(かささぎ)の聲すみきれる朝庭(あさにわ)の霜を照らして日は山を出でぬ


鵲について調べてみました。下の結果を見ると、二つの歌で歌われている鳥とは違うような気がするのですが、どうなのでしょうか?わからない。

かささぎ  【鵲】

(1)スズメ目カラス科の鳥。全長約45センチメートル。腹・肩・翼の先が白く他は黒く、尾は長くて緑黒色。樹上に小枝で大きな丸い巣を作る。日本へは一六世紀末頃朝鮮から持ち込まれたとされ、筑紫平野で繁殖し、天然記念物に指定されている。カチガラス。朝鮮烏。[季]秋。

イメージ検索。どれが鵲であるのか、よく分らない。

http://images.google.co.jp/images?q=%E9%B5%B2&hl=ja&lr=&c2coff=1&rls=GGLD



この庭の土やせたるかわか松の幾年(いくとせ)()るもおほきくならず


松を植えたのだけれど大きくならない。土のせいなのかな。
詠ったというよりは、ただ、述懐しただけのことだけど、何か読む者に迫ってきませんか?

入れ歯

ゆで(ぐり)の皮のかたさにわが義齒(いれば)はづれむとする旅のさびしさ


歌の小見出しに「蝦夷の旅」とついています。北海道まで行かれるのに、琵琶湖から北陸を回って行かれたようです。その北陸金沢か福井くらいで詠んだ歌だと思われます。
王仁三郎師は入れ歯だったのですね。

仔猫

をさな()のしひたぐるまま猫の仔はかすかになきておとなしく居る

町人(まちびと)(もら)ひし仔猫(こねこ)なきながらわが朝餉(あさげ)するそばにあまえつ

文殿(ふみどの)に雨の音きくゆふぐれを一人さびしく猫とたはむる


『巨人出口王仁三郎』に、妻(二代出口すみ)に隠れて、猫に高級なさしみをあげる話があるのですが、この歌はその関係だろうか。
私は、一つ目の「をさな児」の歌、ジーンときました。いい歌だ!

仔猫(2)

親猫(おやねこ)を忘れたるらし吾が膝にこころおきなく眠る仔猫は


これもいい歌です!

秋の日

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花は(しお)れて田の(くろ)秋陽(あきび)さびしくさしそひて居り


曼珠沙華はひがん花。咲いているときは美しいのですが、枯れたときは、黒くなってちょっと悲惨です。その状景を歌った歌。目のつけどころが違いますね。

女学生

汽笛(きてき)()近く聞えて女學生の停車場道(ていしゃばみち)をあわただしくゆく


「高台にて」と表題がついています。並んでいる歌に濠とありますから、これは亀岡でしょうか。亀岡の神苑から駅が見えた。列車に遅れそうな女学生が小走りに急ぐ。
王仁三郎の若い女を読んだ歌はいいですね。ただし、読む人は、今の女学生ではなく、自分のイメージの女学生を重ねなければなりませんね。

見のあかぬかも

もみぢにはまだ早けれど十和田湖の島のながめは見のあかぬかも


万葉集によく出てくる表現で「見れど飽かぬかも」というものがあります。32もの歌に使われています。それを意識していることは明らかでしょう。「見の」の「の」は、同じような用法があったような気がしたので、少し調べてみましたが分りませんでした。

過ぎし日

すぎし日の戀を語りて得意氣(とくいげに)に笑へるわれの老いにけるかも

法被(はっぴ)着しわが若き日の写真見つつおもひいづるはふるさとの山

思ふことなかば成らずに人生のわれはなかばを過ぎ去りにけり


これらは人間王仁三郎の回想です。私は神としての王仁三郎より、人間としての王仁三郎に引かれていますから、こんな歌を読むと、ジーンときます。
これらの歌が昭和6年で王仁三郎は61歳、これからまだまだ波乱が続きます。

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狭依彦自戒

ささやけき怒り押へて(とが)りたるひとのことばを(もだ)し聞きをり


狭依彦のひとり言
感情を押さえなければならないときは、押さえなければ。これで、人生、何度失敗したか・・・。

酔った女

淺ましき思ひするかな女子(おみなご)の酔ひてすべなきことを言ふ時


この歌、何度か見たことがあるので載せておきます。

天地

はてしなきこの天地(あめつち)のなかにゐてゆきつまれりとなげく弱虫

天地(あめつち)は(めぐ)りめぐりて果てしなし元津御神(もとつみかみ)()きぬ力に


「ゆきずまった」と嘆くのは弱虫なのですね。進展主義で行かなければ。

妻の顔

障子(しょうじ)のつぎ()りをしてゐる妻の顔に、何かかがやかしさがある


「朝のヴェランダ」という表題のついた歌の中の一つです。歌自体はとてもいい歌だと思います。
王仁三郎の妻澄への思いは、結婚する時からかなり複雑なものがあったのではないかと思うのですが、誰かが研究して本かどこかに書かれているのかな。

東路の旅

満蒙(まんもう)の記事の新聞ひらきつつこころ(せわ)しき東路(あづまぢ)のたび

内外(うちそと)の國の騷ぎを思ひつつわれはひそかに東京に()

東京に(のぼ)りて十日たちにけり思ひたること(なかば)ならずて

今は世に立つべき時にあらねども御國(みくに)の上に心はなれず

(きた)るべき運命なりとわれはただ神にまかせて心いそがず

満蒙事変(まんもう)国難(こくなん)(らい)(たれ)かいふ我が()(もと)更生(こうせい)(とき)

満州(まんしゅう)の空にとどろく飛行機の爆音きこゆる心地(ここち)する(あき)

やすらかにふしどにありて(とり)の聲聞きつつ思ふ北満(ほくまん)の空を

大和男子(やまとおのこ)わが立つ時の近めりと雲の流れを見つつ思へり


満州事変は昭和6年9月18日に勃発。ここでは王仁三郎は「我が日の本の更生の秋」と歌っています。
満州は大正13年(1924年)の2月13日の入蒙など王仁三郎とは深い関係にあります。

人類愛善主義

武力で(しず)めた後をどうするつもりか、支那の巨大な胴体が眼の前にある

滿洲の悲惨な鮮人(せんじん)を救つてやり()い心が自分の老躯(ろうく)(むちう)

人類愛善主義の(ため)に荒凉とした満洲に()かうといふ悲壯(ひそう)な心だ

人類愛にもゆる自分の(ふところ)はいつも氷点下だ、何といふ矛盾だ


これの前の記事の満州事変の続きです。「悲惨な鮮人を救ってやりたい」というところ、検討の余地がありそうですね。王仁三郎は、日本の朝鮮併合をどう見ていたのだろうか?

第1.1版(一部修正)2015/01/02

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