王仁三郎大正時代

1.大正初期 10.エスペラントと紅卍字会
2.第一次世界大戦開戦の頃 11.入蒙準備
3.神島開き 12.入蒙
4.知識人の入信 13.入蒙の評価
5.全国的な発展と直の帰幽 14.入蒙後
6.大正維新 15.入蒙記
7.大正日日新聞 16.万教同根
8.第一次大本事件 17.まとめ
9.霊界物語口述  
 
1914年 大正3年 44歳 3月 肝川に行く
1914年 大正3年 44歳 8月 機関誌『敷島新報』創刊
1914年 大正3年 44歳  金龍海第一期工事完成
1915年 大正4年 45歳  各地への宣教つづく
1916年 大正5年 46歳 4月 横須賀、東京へ巡教~5月
1916年 大正5年 46歳 6月25日 神島開き
1916年 大正5年 46歳 10月4日(旧9月8日) 出口直はじめ81名、神島参拝
1916年 大正5年 46歳  開祖見真実
1916年 大正5年 46歳  嵯峨に八重垣神社(祭神・神素盞嗚大神)完成
1916年 大正5年 46歳  『大本略義』著述
1917年 大正6年 47歳  『神霊界』刊行。浅野和三郎編輯主幹
1917年 大正6年 47歳  『神霊界』に神諭発表
1917年 大正6年 47歳  浅野和三郎、鎮魂帰神法を講座などに導入
1917年 大正6年 47歳  軍人の参綾多い
1917年 大正6年 47歳  神武館竣成し、演武場とする
1917年 大正6年 47歳 11月 金龍海に大八洲神社完成
1917年 大正6年 47歳  『大正維新に就て』著述
1918年 大正7年 48歳 8月18日(旧7月12日) 75日の修業
1918年 大正7年 48歳 11月6日 出口直昇天
1918年 大正7年 48歳 11月11日 (第一次世界大戦終わる)
1918年 大正7年 48歳  全国からの修業者増加
1918年 大正7年 48歳  『太古の神の因縁』『国教樹立に就て』『宗教の害毒』著述
1919年 大正8年 49歳 2月25日 本宮山を買収
1919年 大正8年 49歳 11月18日 亀山城の買収
1919年 大正8年 49歳  警察の干渉、新聞での攻撃が激しくなる
1920年 大正9年 50歳  各地(東京、京都、大阪、神戸等)で大講演会
1920年 大正9年 50歳 8月 亀岡大道場で夏期講習
1920年 大正9年 50歳 8月 大正日日新聞買収。9月25日から再刊
1920年 大正9年 50歳 9月15日 王仁三郎、五六七殿で『弥勒の世に就いて』の講演
1920年 大正9年 50歳 10月 当局より開祖の奥津城の改修令~11月
1921年 大正10年 51歳 2月12日 大本第一次弾圧事件はじまる
1921年 大正10年 51歳 5月 予審決定。メディアの大本攻撃はじまる
1921年 大正10年 51歳 6月 126日ぶりに責付出所
1921年 大正10年 51歳 10月5日 第一審判決。不敬罪で懲役五年。控訴
1921年 大正10年 51歳 10月18日 霊界物語口述開始
1921年 大正10年 51歳 10月20日 本宮山神殿破壊される
1922年 大正11年 52歳  霊界物語口述
1922年 大正11年 52歳 2月 霊界物語の神劇実演
1922年 大正11年 52歳 3月30日 大八洲彦の神霊を五六七殿の神劇舞台に鎮祭
1922年 大正11年 52歳 3月8日 天津祝詞、基本宣伝歌、誠の信仰などレコード吹き込み
1922年 大正11年 52歳 9月 バハイ教徒来訪
1922年 大正11年 52歳  幹部の離脱多い。浅野和三郎、谷口雅春など
1923年 大正12年 53歳 2月 大正日日新聞休刊
1923年 大正12年 53歳 6月28日 大本エスペラント研究会発会
1923年 大正12年 53歳 8月 熊本県杖立温泉に。御手代はじまる
1923年 大正12年 53歳 9月1日 (関東大震災)
1923年 大正12年 53歳 11月 世界紅卍字会(道院)の使者来綾。提携成立
1923年 大正12年 53歳 12月 朝鮮の普天教と提携
1923年 大正12年 53歳  霊界物語口述47巻~65巻(7月中旬)
1924年 大正13年 54歳 1月 大本博愛医院設立
1924年 大正13年 54歳 2月 王仁三郎『錦の土産』執筆
1924年 大正13年 54歳 2月13日 入蒙の途へ
1924年 大正13年 54歳 6月 パインタラの難
1924年 大正13年 54歳 7月 責付取り消しで入監
1924年 大正13年 54歳 11月 保釈出所
1925年 大正14年 55歳 1月 神教宣伝使(宣伝使)任命
1925年 大正14年 55歳 2月 亀岡の天恩郷開拓
1925年 大正14年 55歳 3月 (普通選挙法)
1925年 大正14年 55歳 3月21日 宣伝使服制定
1925年 大正14年 55歳 3月22日 月の輪台竣成
1925年 大正14年 55歳 4月22日 (治安維持法公布)
1925年 大正14年 55歳 5月22日 世界宗教連合会、北京で発会
1925年 大正14年 55歳 6月9日 人類愛善会発会
1925年 大正14年 55歳 6月11日 西村光月、万国エスペラント大会出席のために渡欧
1925年 大正14年 55歳 6月30日 瑞霊真如聖師の称号
1925年 大正14年 55歳 10月1日 人類愛善新聞創刊
1925年 大正14年 55歳 10月 光照殿完成
1925年 大正15年 56歳 1月 パリでエスペラント文『国際大本』創刊
1926年 大正15年 56歳 2月 天恩郷内に窯を作り楽焼きをはじめる
1926年 大正15年 56歳 3月 大正日日新聞の債務問題。5月に解決
1926年 大正15年 56歳 5月 『真如の光』に「歌日記」連載開始

1.大正初期

■大正2年、3年

大正初年から出ロ直の筆先では、立替え立直しの切迫が頻繁に述べられるようになっています。

1913年(大正2年)7月には、大日本修斎会の会則を部分的に改め、「大本教教則」を作りました。これが、「大本教」の教名が正式に用いられた最初でしたが、大日本修斎会の名称は従来どおり用いられていました。

1914(大正3年)の節分には、「大本教教則」を「大本教教規」と改め、同時に、「大本教学則」(三大学則)、「大本教信条」15力条、「大本教教信徒誓約」12カ条を制定しました。「信条」と「誓約」は、すでに1921年(明治45年)7月に定められていた「皇道大本信条」「皇道大本誓約」に修正を加えたものでした。

1914年3月、大本教の地方組織として、京都本部をはじめ、分所、支部、事務所、会合所が、京都府、兵庫県その他に設けられ、綾部でも、金竜殿が、9月に竣工し、また時を同じくして、神苑内に掘られた金竜海(池)の第1期工事も完了しました。金竜海については、『巨人出口王仁三郎』にエピソードがあります。

また、同3月には肝川を訪れています。肝川は竜神が祀られており、大本裏神業の立場では重要な場所のようです。 肝川資料

■妻との生活

王仁三郎夫妻の間には、1913年(大正2)8月、初めて男子が生まれ、六合大(くにひろ)という名をつけましたが、わずか七ヵ月余で夭折してしまいました。王仁三郎はひどく悲しんだそうです。  再生

王仁三郎と澄は、当時十三歳の長女直日以下、二女梅野、三女八重野、四女一二三があり、のち一九一五年(大正四)には五女尚江をもうけましたが、結局、男児には恵まれなかつたようです。

男子としては1915年(大正4年)5月に、京北町周辺に住む有力信者、吉田竜治郎の三男で11歳になる兌三を養子に迎えています。兌三は、六合大にかわる子として大二(ひろつぐ)と呼ばれ、大正12年6月18日に直日と大二の結婚式が行われていますが、すぐに破局しています。


2.第一次世界大戦開戦の頃

■第一次世界大戦

1914年(大正3年)7月、ヨーロツパで第一次世界大戦が勃発しました。日本は8月にドイツに宣戦を布告して、大戦に参加しました。

大戦中に日本では資本主義が発達し、一方では未曾有の好況となりますが、同時に、物価に騰貴悩まされ、多くの国民の生活を圧迫しました。労働者が激増し、賃上げを求める労働争議が頻発しました。農村では、小作争議が激化しました。大戦中の労働運動、農民運動の高揚を背景に、普通選挙を要求するデモクラシー運動が発展し、近代的な市民意識が根づき始めたといえるでしょう。

王仁三郎は、この日本社会の曲がり角で、宣伝につぐ宣伝を繰り返し、激動する日本社会に独自の世直しと救済の教義を投げかけました。それは、皇道論大正維新論として展開され体系付けられた、新しい大本教教義でした。

1914年(大正3年)8月には機関誌『敷島新報』が創刊されています。これは、月二回刊、さらに旬刊となります。

■直霊軍

1914年(大正3年)9月 布教のための行動組織として「直霊軍」が結成され、翌1915年(大正4年)から本格的な活動を開始しています。

直霊軍は、全国各地での街頭布教のための組織で、本部に本営、地方機関に分営をおくという軍隊式の組織でした。

直霊軍のメンバーは、壮年層の男女がほとんどでしたが、男子は、羽織袴にタスキをかけ、長髪に菅笠、わらじばきで脚絆をつけるという人目をひく風態で、幟を立て、太鼓を打って、各地の街頭で布教しました。綾部では、団体行動の訓練と宣伝のために、町を四列縦隊で行進しました。

1916年(大正5年)には、直霊軍の別動隊として、少年の白虎隊、少女の娘子軍、幼児の幼年軍、青年の青竜隊の各組織が結成されています。

直霊軍の進軍歌の一節には「ヒラヒラヒラと神軍旗/ヒラヒラヒラーと革正旗/先頭に押立てて立ち向う/悪魔の軍勢と戦いて/勝ちどきもろともあぐるまで/命を惜しまず進みゆく……」とありました。この歌を歌って、綾部を行進していると、「軍勢」を「グンゼ」と聞き違えた、グンゼ製糸の社員とトラブルになったというエピソードがあります。

■飯森正芳

1915年(大正4年)11月、大本教は、最高人事を一新しました。教主・出口王仁三郎のもとで、大本教教統兼根本学社社長に梅田信之、大日本修斎会会長兼根本学社学長に飯森正芳などが新たに任命されました。

飯森正芳は霊界物語に相応する登場人物があります。飯森は予備役の海軍機関中佐で、先に入信していた予備役の海軍中佐・福中鉄三郎にすすめられて、1915年(大正4年)に入信しています。“赤化中佐”といわれた人物で、トルストイ主義を奉じ、無政府主義者、社会主義者とも親交があったと言います。

この後、海軍の上級軍人が相次いで大本教に入信しています。飯森は、入信後ほどなく、軍艦「香取」の艦上で、250名の乗組員に、湯浅斎次郎とともに大本教についての講演を行ない、大本教の軍隊布教が初めて実現しています。

その後は、福島久や星田悦子とともに八木で変性女子(王仁三郎)に反抗するようになります。霊界物語では、その様子が福島久が高姫、星田悦子が黒姫、飯森がイモリ別として出てきます。

■皇道

1916年(大正5年)2月、綾部では「大本家族制度」が実施されました。これは、大本教の聖地での、信仰によつて結ばれた共同体の集団生活の開始と言えます。

同1916年(大正4年)4月、大本教は「皇道大本」と改称しました。

安丸良夫『出口なお』では、当時の思想を次のように言っています。

この発展のなかで、大本教の教義は、多義的に解釈されていったが、しかしその基本線は、(1)天皇制国家主義(国家神道説)、(2)鎮魂帰神による神霊の実在の確証、(3)立替え立直し思想という三つの要因の複合にあったものと思われる。

この(1)に当るのが当時の文献に書かれた皇道思想ではなかったでしょうか。ただし、公式の文献でない部分でどうとらえられていたかは判明していません。

例えば当時の皇道については吾人の至誠などで読むことができます。世界の縮図世界の経綸(一)世界の経綸(二)世界の経綸(三)も当時に執筆されているようです。

この皇道という言葉は、年を経るごとに、深められて、霊界物語では、現実の天皇制からは離れて、理想天皇のような存在となってゆきます。この天皇と皇道の問題は、未だに論者の結論が一致するところではないようです。


3.神島開き

■神島開き

1916年(大正5年)6月神島開きが行なわれました。

神島は兵庫県播州高砂の沖にある上島と呼ばれる無人の小島で、家島諸島の東端に位置しています。この地方では、島が丸く伏せたような形であることから、ほうらく(ほうろく)島、牛島ともよび、古くから島そのものが信仰の対象となつていました。

神島開きは、王仁三郎が艮の金神の妻神である坤の金神として、権威を確立するための重大な神事でした。

6月25日、王仁三郎は、総勢60名で3隻の船に分乗して神島に上陸しました。この時は持参した祠に神島の大神である坤の金神を鎮祭しました。そして、綾部に帰着し、坤の金神を竜宮館に迎えました。

また、9月と10月にも神島に渡っています。これらの意味は、幼がたりがわかりやすそうです。  

また、38巻舎身活躍丑 金明水では、神島開きで出口直ははじめて王仁三郎の神格を覚ったといいます。このことがを開祖見真実と言われています。

 出雲参拝後は教祖の態度がガラリと変り、会長に対し非常に峻烈になつて来た。そして反対的の筆先も沢山出るやうになつて来た。澄子が妊娠したので、最早会長は何程厳しく云つても帰る気遣はないと、思はれたからであらうと思ふ。それ迄は何事も言はず何時も役員が反対しても弁護の地位に立つて居られたのである、いよいよ明治卅四年の十月頃から、会長が変性男子に敵対うといつて、弥仙山へ岩戸がくれだといつて逃げて行つたりせられたので、役員の反抗心をますます高潮せしめ、非常に海潮、澄子は苦心をしたのであつた。それから大正五年の九月九日まで何かにつけて教祖は海潮の言行に対し、一々反抗的態度をとつてゐられたが、始めて播州の神島へ行つて神懸りになり、今迄の自分の考が間違つてゐたと仰せられ、例の御筆先まで書かれたのである。

例の筆先というのは次のようなものです。

大正五年十月五日
 五六七神様(みろくさま)(れい)は皆上島(かみじま)へ落ちて居られて、未申(ひつじさる)の金神どの、素盞烏尊(すさのをのみこと)小松林(こまつばやし)(れい)が、五六七神(みろくのかみ)御霊(おんれい)で、結構な御用がさして在りたぞよ。
 ミロク様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。
 二度目の世の立替に就ては、天地の先祖が(ここ)までの苦労を致さんと、物事成就いたさむから、永い間皆を苦労させたなれど、(ここ)までに世界中が混乱(なる)ことが、世の元から能く判りて居りての経綸(しぐみ)でありたぞよ。
 天地の開ける時節が参りて求たから、守護神に改心が出来んと、人民には判りかけが致さんから、変性男子が現はれて、世界の実地を分けて見せるなり、次に変性女子が現はれると、ビツクリを致して、世界中が一度の改心を致さな、成らんやうな神事(こと)が在るから、改心が一等ぞよ。

 今度上島(かみじま)へ坤の金神の身魂が御参りに成りたに就て、変性女子の御苦労な御用の事実(こと)を顕はすぞよ。
 変性女子が現はれると、坤の金神どのの神力(ちから)が出るから、誠の心で願へば何事でも直ぐに聞済みあるぞよ。
 天の御先祖様が世に落ちて御出ましたゆへ、地の世界の先祖も、世に落ちて居りたから、世界中が暗黒(くらやみ)同様に(なり)(しも)ふて、()の世の立替いたすのには、中々に骨が折るなれど、何彼の時節が参りたから、是から変性女子の身魂を表に出して、実地の経綸(しぐみ)を成就いたさして、三千世界の総方様(そうほうさま)へ御目に掛るが近よりたぞよ。
出口直八十一歳の時の筆記(しるし)

見真実(顕真実)と未見真実(未顕真実)という言葉は、このように「開祖が王仁三郎の神格を覚った」という意味で使われます。世間では誤用というか拡大用法が多いので、この意味で限定して使うべきでしょう。


4.知識人の入信

■浅野和三郎

王仁三郎は、英文学者の浅野和三郎(1873-1935)という有力な共働者を教団に迎えることに成功しました。

浅野は横須賀の海軍機関学校の教官で、海軍少将・浅野正恭の弟でした。浅野は、長男の病気を横須賀の女行者の祈疇で治してもらつて以来、宗教に関心をもつようになっていました。この女行者の縁で飯森、福島久と出会い、1916(大正5年)4月、夫妻で綾部を訪れました。

王仁三郎は、4月末には、帰宅する浅野夫妻と同道して横須賀におもむき、海軍機関学校校長・木佐木少将夫妻をはじめ、同校の教官や軍人に鎮魂の実修を行ない、浅野に審神者の資格を授与して綾部に戻っています。

浅野は夏の休暇の約一ヵ月を綾部で過ごし、鎮魂帰神で、神霊の実在を確認し、筆先から「世の立替え立直し」の実現を信ずるにいたり、年末、浅野は職を捨てて、一家5人を挙げて綾部に住みつきました。

神霊界

浅野を迎えた王仁三郎は、機関誌を充実強化するために、1917年(大正6年)1月、浅野を主筆兼編集長として『神霊界』を発刊しました。『神霊界』は、これまでの機関誌「敷島新報・このみち」を受けつぎ、月刊から月二回刊からさらに旬刊となりました。

『神霊界』は、大本教としては最初の、一般社会に本格的に呼びかけた機関誌でした。1917年(大正6年)2月号から1920年(大正9年)9月号まで、全体の5分の1から3分の1を費して「神諭」が発表され、大きな社会的反響を呼びました。

神諭は出ロ直の膨大な筆先を、王仁三郎が撰択して、加削訂正を加え、漢字を宛てたものでした。世の立替え立直しを訴えた呼びかけは、教団内外の読者の心に感動を与え、第一次大戦末期から戦後の大本教のめざましい進出に力を発揮しました。  

神霊界の見出し及び一部の記事を読むことができます。

神霊界  (1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (6)  (7)  (8)  (9)

■軍人・知識人の入信

浅野の綾部在住を機に、浅野の兄の浅野正恭中将をはじめ、海軍少将・秋山真之らの将官をはじめ、佐官、尉官の入信者が続出しました。

軍人のみでなく、医学博士・岸一太ら知識層のあいだにも、皇道大本に関心をもち、研究のために綾部を訪れて、入信する者がふえました。

■上流階級の人々

1917年(大正6年)4月、子爵・水野直、同岩下成一と、男爵夫人で昭憲皇太后の姪にあたる鶴殿ちか子が相次いで綾部を訪れました。鶴殿ちか子は、熱心な信者となり、教内では大宮守子と名乗って、のち宣伝使(布教師)となりました。

1919年(大正8年)には、久邇宮家の宮務監督でのちの皇后・久邇宮良子の養育をした宮中顧問官・山田春三が入信しました。

これらの入信を宣伝に使ったため、国家権力との摩擦の一要因になってゆきます。


5.全国的な発展と直の帰幽

■全国的な発展

王仁三郎の一元的な指導下で、大本教は全国的な発展をつづけ、綾部の修業者は連日50人をこえる盛況となりました。1917年(大正6年)12月には、新たに旬刊の「綾部新聞」が創刊されました。

1918年(大正7年)には、さらに綾部への参拝者が急増し、信者の中には台湾、朝鮮、満州から来た者もあつたといいます。地方支部も充実し、特に松江、鳥取など山陰地方への教勢拡大が目立ちました。

■出口直の帰幽

1918年(大正7年)11月6日、開祖・出ロ直は老衰で83歳の生涯を閉じました。死後ただちに昇天奉告祭が執行され、柩は天王平にうつされました。一カ月後、盛大な神葬が営まれ、教主・出口王仁三郎と夫人澄に道統継承の「火継の神事」が行なわれました。

開祖の墓は、天王平に奥都城(おくつき)として石でおおつた墳丘が築かれました。しばらくして、奥都城の右後方に稚姫神社が創建されました。この墓が、第一次、第二次大本事件で改葬命令のために何度も暴かれることになります。

■教主輔王仁三郎

1919年(大正8年)11月25日、開祖の一周年祭が行なわれ、これを機に、王仁三郎は、教主を出口澄に譲り、みずからは教主輔となりました。開祖の直系の女子が、宗教上の権威を相承し、その夫が、教主のもとで、組織上、教団行政上の最高指導者を努める、宗教的権威と、教団運営上の権力との分業と言っていいでしょう。それ以後、大本教は女系相続となっています。

■綾部での生活

第一次世界大戦は1918年(大正7年)11月11日に終わっていますが、当時の綾部には続々と人々が集まっていました。陸海軍の将校、小中学校の教員、企業家、農民、学生等が世俗的な地位や職業捨てて綾部に移住して、宗教的共同生活を続けていたのです。

日々の生活は、強い反文明、反近代主義で貫かれており、男はふつう長髪で木綿の和服をつけ、いつさい獣肉を摂らず、菜食主義を守つていました。朝の水行、礼拝から、日中は神殿造営の土木工事に奉仕したり、農耕にはげみ、夜は筆先を読み学びました。寒中も火気を近づけず、粗食に耐えて、はりつめた空気のなかで、修行が続けられていました。これらは出口直の生活に学んだものです。


6.大正維新

■大正維新論

当時の大本教には、異常な緊迫感がみなぎっていましたが、それは開祖出口直が予言した立替え立直しを信じて疑わない集団からきたものだったのでしょう。

王仁三郎は、明治維新を王政復古にすぎなかつたと批判し、大正維新こそ神意による神政復古であると規定しています。大正維新論には、(1)国教の樹立、(2)金銀為本(いほん)経済の撤廃、(3)世界家族制度の実施などが挙げられています。  大正維新について  国教樹立に就て(1)  国教樹立に就て(2)  国教樹立に就て(3)  

■全国宣教

1918年(大正7年)8月には、全国的に米騒動が起こりました。暴動は、東北の一部と沖縄県以外の全国に波及し、軍隊が出動して鎮圧することも多かったのです。第一次大戦末期の不況は、戦後は恐慌状態となり、労働者、農民、小市民の生活は暗いものでした。

大本では、この時期に1919年(2月25日)本宮山を購入し、五六七(みろく)殿、黄金閣、教主殿等の中心的施設の造営がはじまつていました。

1919年(大正8年)10月、「綾部新聞」が「大本時報」と改題され、宣教の武器として拡充されました。

1919年(大正8年)11月18日には亀岡の亀山城を買収して、翌1920年(大正9年)4月、第二の聖地として開いています。亀山城で立つことは王仁三郎の積年の夢であり、それが実現したと言えるでしょう。

1919年暮れには全国各地で皇道大本の講演会が活発に開かれ、大盛況を呈しています。この後、1920年(大正9年)初旬には東京、大阪、京都などで大講演会を開き、数千人の聴衆が押しかけたといいます。

教勢は飛躍的に伸びています。綾部に参集する修業者は一ヵ月で7、800名を越えることもあつたといいます。この時期には組織の改革も行われていますし、鎮魂帰神の行法についても改良されています。

教勢が伸びるに従って、当局の干渉も強くなっていたことも忘れてはなりません。警察は、1919年(大正8年)5月には、大本教に対して第一回の警告を発しています。世の立替え立直し、神政復古、世界統一、世界大家族制度、私有財産の否認、貨幣制度の廃止等の宣伝をやめ、鎮魂帰神の運用に細心の注意を払うように要求していたのです。


7.大正日日新聞

■大正日日新聞

1920年(大正9年)8月に大正日日新聞を買収して、9月25日から再刊しています。

大正日日新聞は米騒動の翌年に創刊された日刊新聞で、白虹事件の責任を負つて朝日新聞を退社した鳥居素川らの記者が集まつていましたが、ひどい経営難に陥つていたのです。大本教は同紙を50万円で買収し、出口王仁三郎が社主、浅野和三郎が社長となり、旧社員の他に大本教側の社員を加えて、再刊が実現する運びとなっていました。再刊号は48万部発行されています。

大正日日新聞はマスメディアを使って、大本教の主張を天下に訴え、大正維新を実現するための宣伝紙でした。紙面には、「大本神諭」の解説や神秘的な現世利益の実例が載り、同社の主催で「大正維新皇道講演会」が、各地で開かれました。

しかし、新聞は日刊紙でありながら、官公庁関係、一般の各種団体から取材を拒否され、地方の通信・販売網も、警察と他新聞の圧力で動きがとれなくなってゆきます。記事の面での行き詰まりは、そのまま発行部数の減少なつてあらわれ、発行三ヵ月後には、部数は20万台に落ちてしまいました。

経営は破局的な大赤字となり、翌1921年(大正10年)1月、社長・浅野以下の役員が、責任をとつて総辞職しました。王仁三郎は、みずから社長となつて大阪梅田の同社に乗り込み、経営の建て直しに当たっています。

過去の失敗  

■この時期の論調

1920年(大正9年)9月15日、王仁三郎は五六七殿で『弥勒の世に就いて』の講演を行っています。これは、わかりやすい資料であると思います。

この時期の大本教の論調は、後に大本反対派にまわる友清天行 一葉落ちて知る天下の秋 (1918/09/01)などで雰囲気が分かるでしょう。

教団内部では。大正10年に立替えがあるという考えが蔓延していたのです。王仁三郎はこの立替え説は否定しています。

■開祖の墓改修命令

1920年(大正9年)10月、当局より開祖の奥津城を改修するように命令が出されています。

警察は、開祖・出ロ直の墓の形状が皇陵に類するとして、外形の変更を強要してきました。この墓の形式は古代の日本で広く行なわれており、天皇・皇族に固有の墳墓形式ではないはずでしたが、直の墓を方形三段に変形させたのでした。当局は、さらに墓にある「大本教祖」の文字を削るように要求しました。王仁三郎は憤慨する信者をなだめて、やむなく当局の命令を受け入れています。

弾圧の予兆

反大本キャンペーンも張られており、中村古峡の『学理的厳正批判・大本教の解剖』などが出版されています。ここでは、同中村古峡の『大本教について』を読むことができます。

内務省は1920年(大正9年)8月、『大本神諭・火の巻』を、不敬と過激思想を理由に発売禁止処分とし、同月17日、王仁三郎を綾部警察署に召喚して、第二回目の警告を与えています。

1920年(大正9年)11月、もと大本教信者の加藤確治が、皇道大本を内乱予備行為で告発し、大審院で受理されています。加藤の告発には、内乱のため槍、刀剣、弾薬、食糧を貯蔵していること、王仁三郎がみずからを天皇になぞらえていること、大本教内部で犯罪が行なわれ、紙幣が贋造されていること等が挙げられていました。

事態はすでに弾圧の実行を待つだけの段階に来ていたのです。


8.第一次大本事件

■事件勃発

1912年(大正10年)2月12日朝、200余名の警官隊が綾部の皇道大本本部、町内の幹部宅などを襲い、綾部全町の要所要所を封鎖しました。指揮者は京都府警察部長藤沼庄平と、京都、大阪の各裁判所の判・検事15名でした。政府側の意思決定者は検事総長・平沼騏一郎でした。

捜査の容疑は不敬罪、新聞紙法違反でした。王仁三郎は大阪の大正日日新聞社で私服の刑事に連行され、曾根崎署に留置されたのち、同日、京都府警察部に送られました。浅野和三郎は、綾部の自宅を捜索され、翌13日、京都監獄未決監に収容されました。

綾部の本部では、澄をはじめ幹部たちが、怒る青年信者を制止し、警官隊とおだやかに応対しました。

捜索は、翌13日にかけて、くまなく行なわれ、さらに、後日、3回に分けて繰り返されました。

当時の噂では、大本教が内乱を企て竹槍十万本や爆裂弾があるとか、死体が隠してあるということでしたので、当局は懸命の捜索を行いましたが、結局何も発見されませんでした。しかし、当局は本部や幹部宅から貨車一両にもなる証拠品を押収して京都に運びました。

当時、大本教の内部では、大正10年に何か大変事があると語り合われていました。信者たちの多くは、立替え立直しと思っていたでしょうが、実際には、大本内部の立替え立直しが起こったのです。

■事件の推移

当局は大逆事件につづく大事件として、内乱予備罪を適用しようと企図していましたが、武器も弾薬も軍資金も出なかつたので、浅野らは、不敬罪新聞紙法違反で起訴され、ただちに予審が開始されました。

5月10日、予審が終結し、大本不敬事件の記事が解禁となると、東京、大阪の主要日刊紙は号外を発行し、大本不敬事件をセンセーシヨナルに扱いました。当局が裏で操っていたとも言われます。

王仁三郎は、拘留中の5月21日、大日本修斎会会長と大正日々新聞社社長を辞任しました。

また、王仁三郎は不本意ながら筆先の焼却も含む「大本教改良の意見」を発表しますが、澄が教主として筆先の焼却は許さないと言明し、王仁三郎の真意が後に伝えられ、今後は「神諭」を教典として使用しない方針が決定されました。

6月には「神霊界」が第138号で廃刊になっています。

6月17日、王仁三郎と浅野は、126日ぶりに責付出所となり、同日夜、綾部の本部に元気な姿を見せました。

弾圧後も、本部と地方機関は、祭儀、講習、修行等を平常どおり続け、出版活動も行なつていましたが、当局は裁判と並行して次々と弾圧を加えてきます。

6月には開祖・出口直の墓の改築が再度強要されました。六月、本部は墓所を改築して墓の後ろにあった稚姫神社を焼却しています。

1921年(大正10年)10月5日には第一審判決が異例のスピードで下されています。王仁三郎は不敬罪で懲役五年でした。以下、浅野は十ヵ月、「神霊界」発行人・吉田祐定に禁錮三ヵ月、罰金百五十円の有罪判決でしたが、大本側は控訴しました。

当局は本宮山神殿の破壊を急ぐ当局は、判決の翌日、王仁三郎に対して本宮山神殿の取り壊しを通告しました。本宮山神殿は、同年八月に完成したばかりの神明造りの神殿で、その総工費は60万円という当時では巨額なものでした。この建築様式が伊勢神宮の正殿や宮中の建物と同型式であったので、取り壊しを命ぜられたのです。

10月13日、大日本修斎会の全役員は、神殿取り壊しの責任をとつて総辞職し、翌14日、出口王仁三郎と澄は、教主輔、教主の地位を退き、長女の出口直日が三代教主となりました。皇道大本は「大本」の旧称に復しました。


9.霊界物語口述

■本宮山神殿破壊

1921年(大正10年)10月20日、本宮山神殿の破壊が始まりました。京都の大丸組が750円で落札しました。破壊作業は、警官、在郷軍人に加えて福知山と篠山の連隊から派遣された武装兵が警備する中進められました。

王仁三郎ら全被告は控訴中でしたが、本宮山神殿の破壊によつて、第一次の大本教弾圧は、事実上終了しました。

なお、事件は、1925年(大正14年)7月10日、大審院で前判決が破毀されましたが、結局は、大正天皇の崩御により、大赦令が施行され、昭和2年5月17日に大審院で免訴となっています。

■内部対立

弾圧までの数年間に、大発展してきた教団の指導層のあいだでは、様々な対立の芽がありましたが、その対立は、王仁三郎と浅野の手で、巧みに統御されていました。しかし弾圧という非常事態を迎えて、内部対立が一挙に表面化しました。

王仁三郎の周囲には、「大先生」とよんで王仁三郎に傾倒している多数派と、浅野グループがあつて、主流派を形成していましたが、内争が進むと、福島ひさを中心とする少数派と一部の軍人グループが、王仁三郎の指導そのものを拒否するようになりました。また主流派の内部でも、浅野、岸一太ら知識層の幹部は、弾圧の衝撃で動揺を深め、王仁三郎直系とのあいだに異和感をつのらせていきました。

■方向転換

王仁三郎は教団を守るために、少なくとも表面上は国家権力の好むような方向転換をせざるを得ませんでした。これにより、内からの反対や妨害が起こり、多数の幹部が、王仁三郎の指導に不信の念を表明して、大本教を去つていきました。

浅野和三郎は、弾圧の翌年1922年(大正11年)7月、今後は社会的事業経営に従事すると宣言し、1923年の4月、一家をあげて東京に去りました。岸一太も、同時期に去っています。「神霊界」の編集にたずさわつてきた早稲田大学中退の文学青年・谷口正治(雅春)は、終末観的な立替えの日の到来を信じていましたが、“その日”が来てもついに何事もおこらなかつたことから信仰が動揺し、大本教を去って、のちに新宗教・生長の家を開きました。

■霊界物語口述

1921年(大正10年)10月20日、本宮山神殿の破壊の日に戻ります。霊界物語の一番最初、「」は大正10年10月20日午後一時という日付が入れられています。

実際の口述は、10月18日から始まっているようです。王仁三郎は、綾部の由良川畔にある中野岩太宅の松雲閣に静坐して、新教典『霊界物語』の口述を開始しました。

『霊界物語』の構想は、王仁三郎の裡では、すでに弾圧前から熟していたようで、弾圧直前の『神霊界』大正十年二、三月号に「回顧録」を発表しています。この「回顧録」が霊界物語第1巻の元になったのですが、実際の物語と「回顧録」の間には相違があり、これは、当時まだ在籍していた浅野らの幹部が霊界物語第1巻の原稿を書き直させたものだと言われています。

『霊界物語』は、大本教の新教典として、総体で1728巻、当面、120巻でその大要を述べるという、桁外れの雄大な構想をかかげていました。

口述とは筆記者が王仁三郎の語る言葉を聞きながら筆記してゆく形で、王仁三郎の口述は、ふつう身体を横たえてよどみなく延々と続けられ、一巻分(400字詰め原稿用紙で約300枚)が平均3日間という、驚くべき速度で進められました。1921年(大正10年)12月には第一巻が刊行され、1922年(大正11年)末には、もう第46巻の口述が終わっています。

述作の目的は「」につくされているでしょう。表題の「霊界」は、たんに神霊界の意味ではなく、顕、幽、神の三界すべてを指しており、王仁三郎は、この新教典を、みずから「弥勒胎蔵経」「大本の一切経」と称しました。

『霊界物語』は、大正末年までの間、次々に刊行され、王仁三郎は皆生温泉、伊予、丹後由良、天の橋立の各地に旅行して、口述を続けました。1926年(大正15年)末には第72巻で、ひとまず中断されています。

幹部の間では、新教典『霊界物語』の刊行に対する根強い反対があり、とくに知識層の幹部たちは、これを低俗視して攻撃を加えました。これは、霊界物語を読んでいると総説などに幹部の反対の話がよく出てくることからも伺えます。


10.エスペラントと紅卍字会

■神劇・レコード吹き込み

1913年(大正11年)は霊界物語一色と言っていいでしょう。2月には霊界物語の神劇を実演していますし、3月30日には大八洲彦の神霊を五六七殿の神劇舞台に鎮祭しています。また、メディアでの布教も目指していたようで、3月8日には天津祝詞、基本宣伝歌、誠の信仰などレコードを吹き込んでいます。このレコードは現存しており、大本教関係でCDなどの形で手に入るのではないでしょうか。

■エスペラント

この1913年(大正11年)は幹部の離脱が多かった時期です。

9月には前年の出口澄の偶然の出会いが縁となってバハイ教徒が綾部を来訪しています。 

このバハイ教がエスペラントを使っていたことから、大本教団としてエスペラントを採用することになりました。1923年(大正12年)6月28日には「大本エスペラント研究会」が発会しています。

エスペラントと同時にローマ字も採用されています。

バハイ教についてとエスペラント・ローマ字運動については論考で取り上げています。

■九州巡教

1914年(大正12年)8月には熊本県杖立温泉を訪れています。杖立温泉の土産の竹の杓子に歌を記し、署名して拇印を押したものが御手代のはじまりです。  御手代の由来  祈りの声が聞える

また、その後続いて九州にいたのですが、9月1日に関東大震災が起こります。同日は熊本の山鹿町の旅館で、地震が起こる前の時間に、信者に『霊界物語』の大地震のところを読ませています。(海洋万里午 大地震海洋万里午 救世神

■世界紅卍字会(道院)

1923年(大正12年)11月、世界紅卍字会(道院)の使者が綾部にやって来ます。

道院は、中国の山東省の浜県で、1916年(大正5年)頃に、浜県知事の呉福林と駐防営長の劉紹基が、神託をうけたとして開いた新宗教です。1912年(大正10年)には宗教団体の道院となりました。

道院は、至聖先天老祖を最高神とし、五教同源として、その元に老子(道教)、シヤカ(仏教)、キリスト(キリスト教)、マホメツト(イスラム教)、項先師案(儒教)を祀っています。道院の特色は、フーチとよぶ占いで、信者はフーチによつて神示(壇訓)をうけて行動ししました。紅卍会は道院の慈善等活動を行うための外郭団体でした。

関東大震災の救援活動のため、紅卍字会は3名の人間を東京に派遣し、白米二千石と銀二万元を見舞いとして贈りました。つづいて一行は、11月、綾部を訪問し、王仁三郎夫妻と会見して、提携の話合いはただちにまとまりました。

『巨人出口王仁三郎』によると、提携は、日本である宗教と提携せよという神示が出ていたのですが、相手が大本と分からず日本に来て、偶然、新聞で大本を見つけたということになっています。

村上重良氏によると次のように、政府・軍の後押しがあったことになっています。

 第一次世界大戦後、中国大陸へ強圧的な進出をつづけていた日本政府は、出先機関や在住日本人をつうじて、中国の民間団体との接触と懐柔工作に意を注いでいた。道院・紅卍字会は、日本の中国大陸への進出には多分に迎合的であつた。南京に駐在していた領事で大本教信者の林出賢次郎は、道院と接触して、日本の大本教との交流の可能性を示唆した。(中略)

 大本教と道院・紅卍字会との提携が、手まわしよく急速に実現したのは、すでに林出らをつうじて、両教を結びつける下工作が十分に行なわれていたからであり、政府関係者のほか、陸軍部内にも、この提携を推進した分子があつたようである。

この道院によって、大本教では、かねてから求めていた中国大陸への宣教の機会が得られ、満州、華北方面に進出する有利な条件を作ることができたわけですから、ここの解釈は重要でしょう。

狭依彦は、偶然というよりは、村上氏の指摘のほうが理屈に合うと思います。

また、1923年(大正12年)12月には朝鮮の普天教と提携しています。


11.入蒙準備

■定まらない評価

王仁入蒙の意味については、論者によって評価が定まっていません。ここでは、『巨人出口王仁三郎』の記述を中心に教団系の解釈とし、村上重良氏の意見もとりあげてみましょう。

■満蒙の政治状況

第一次世界大戦後の、日本の大陸政策の中でも、特に“満蒙は日本の生命線”とよばれて重視されていました。

モンゴルは、当時の社会主義国ソ連と、中国の軍閥との衝突の場でした。王仁三郎の帰国四ヵ月後の1924年(大正13年)11月には、モンゴル人民共和国の成立が宣言され、アジア大陸の内陸部に、歴史上二番目の社会主義国が誕生しています。このため、王仁三郎が入蒙を果たした時期には、中国の各軍閥と日本は反革命のために、あの手この手で工作を続けていたと言っていいでしょう。

当時、中国では、各地に軍閥が割拠し、外国の勢力と結んで買弁的な政治支配を行なつていました。なかでも、イギリスとアメリカに支援された直隷派軍閥はもつとも有力でした。

満蒙を支配する張作霖は、一時は直隷派と提携していましたが、日本と結び直隷派と対抗しています。直隷派は、、1922年、第一次奉直戦争で張作霖の軍を破りました。張作霖は奉天にひきあげ、中央政府からの離脱と東三省(満州)の自治を宣言しました。

日本陸軍は伝統的に北進論があり、満州とモンゴルを支配して中国本土を制圧し、シベリアに侵攻する戦略であつたので、満蒙を支配する張作霖には援助を惜しみませんでした。

ここに国民党と共産党がからんでいますから、満蒙の政治状況は非常にややっこしくなっています。また、いわゆる「歴史認識」で解釈が全く変わってしまいます。今、これを書いている状況では、自信を持って書けないので、問題点だけ出しておきます。この解釈は、『巨人出口王仁三郎』(以下『巨人』と省略します)の出口京太郎氏と村上重良氏では全く違っていると言っても過言ではないでしょう。

(1)日本の大陸政策。軍部の活動は、植民地を得るためだったのか、アジアを解放するためだったのか。

(2)大陸浪人、右翼系の人は、大陸で何を目指していたのか?

(3)社会主義、革命の問題。当時は本当に人民のための革命であったのか?これは、現在の状況から考えてはならないでしょう。あくまでも当時の状況で、軍閥と革命派と日本のどれが、最も人民を救おうとしていたかの視点から考えるべきでしょう。

次の文章は村上重良氏の入蒙の解釈です。

 満蒙の事態は、日本帝国主義にとつて日ごとに緊迫の度を加えていた。第一次国共合作の成立と、モンゴル革命の勝利は、日本の中国支配と北進の戦略の前途に立ちふさがる巨大な人民の壁にほかならなかつた。出口王仁三郎を、この渦中にひき出す計画は、こういう抜きさしならぬ政治的軍事的情勢のなかで急遽、実現のはこびとなつた。この奇抜な発想は、おそらく奉天の大本教信者・矢野祐太郎をはじめとする軍人出身の信者グループあたりから出て、奉天軍閥を操つている陸軍の上級工作員たちの検討を経て採用されたものであろうし、対モンゴルおよび対張作霖工作の奇手、妙手として、その奇襲的成果が、期待されていたのであろう。

■日野強の影響

王仁三郎自身が、いわゆる満蒙問題に関心を寄せたのは、信者の日野強の影響によるものでした。日野は、日露戦争に先立つて満州、朝鮮を踏査し、日露戦後には、少佐に進級して、中国新疆地方のイリ、カラコルムからヒマラヤを越えてインドに達する大探検をなしとげ、記録として『伊犁紀行』著わしています。仕事は諜報、いわゆるスパイ活動と言ってよいでしょう。

日野は上官と争つて退役となり、第一次大戦の時期には、中国の青海で罐詰業を営んでいましたが、綾部にやって来て入信しました。入信後は王仁三郎の相談相手を努めましたが、陸軍きつての大陸通で、国際的にも知られた探検家である日野の感化で、王仁三郎はアジア大陸の情勢に強い関心を抱くようになっていました。この日野は大正9年に56歳で亡くなっています。

■入蒙の目的と肇国会の働きかけ

王仁三郎の入蒙の目的はモンゴルに理想的な宗教国家を建設し、日本の過剰人口や朝鮮人の生活問題をすべて解決するとともに、対中国政策の基礎を満蒙において、日中の親善を実現するというものでした。

大陸浪人の岡崎鉄首が属していた肇国会の“高麗国”建設論も頭にあったと思われます。肇国会は、1922年(大正11年)に末永節がつくつた右翼団体で、アジアを救うため、満州、モンゴル、バイカル湖以東のシベリア地域に、世界的な中立国“高麗国”を建設するという考えで、犬養毅、内田良平らの支持をうけていました。

霊界物語特別編を見ると、肇国会から働きかけがあったのは事実のようです。  特別編入蒙記 微燈の影  特別編入蒙記心の奥

■準備

入蒙の具体的な準備は、すでに道院との提携が成立した前年11月以来、道院の一行を中国まで送って行った北村隆光によって続けられていました。

また、奉天で三也商会という武器商を営む大本信徒で退役海軍大佐の矢野祐太郎が、現地で王仁三郎受入れ工作が進めていました。矢野は軍閥の張作霖の関係者と面識があつた矢野は、旧知の大陸浪人・岡崎鉄首と組んで、当時、張作霖の部下で、満蒙独立運動を何度も試みてきた盧占魁と連絡をつけることに成功しました。


12.入蒙

■入蒙直前

出発に先立つて、王仁三郎は、綾部で家族、教団幹部、信者等を集めて告別の演説をしています。  特別編入蒙記 出征の辞

また、出発に先立つて、娘婿の出口伊佐男に「錦の土産」と題する手記(遺書)を渡しています。

■日本脱出

1924年(大正13年)2月13日、出口王仁三郎は、責付出所中(保釈中)の身で日本を脱出し、法学士の松村真澄、合気道の創始者・植芝盛平、名田音吉らの幹部を従えて、朝鮮経由で奉天へ向いました。 

王仁三郎一行は、綾部を汽車で出発し、関釜連絡船で朝鮮に渡り、朝鮮鉄道を利用して、2月15日、奉天に到着しまた。

これについて、村上重良氏は「ことさら秘密裡にということもなく、保釈中の身で日本から脱出できたのは、当局上層部とのあいだに暗黙の了解があつたと見るほかはない」言っています。

奉天では、北村隆光、萩原敏明に迎えられ、岡崎鉄首らと会つて、はやくも同日、王仁三郎と盧占魁の第一回会談が行なわれました。

これも村上氏は「奉天軍閥が盧を迎えた背後には、かねてから盧の利用を考えていた日本陸軍の貴志機関の工作があり、王仁三郎と盧の提携も、貴志機関が終始、その推進にあたつたことはいうまでもない」と言っています。

■奉天

王仁三郎と盧の第二回会談で、神軍の創設が話し合われました。(1)張作霖の了解のもとに十個旅団作る、(2)募兵には哥老会があたる。(3)軍旗・司令旗には大本更始会の紋章である日月星の宇宙紋章を用いること。これらが決められました。

なお、第二回会談の日本人側の出席者は、王仁三郎以下、岡崎鉄首、佐々木弥市、大石良、矢野祐太郎の5名であつたといいます。この中の大石については『巨人』では大陸浪人とだけ書いていますが、村上氏は「大石は貴志機関の有力メンバーで、奉天軍第三旅長の軍事顧問兼教官であつた」としています。

また、霊界物語に入蒙記「聖雄と英雄」では、王仁三郎は大本ラマ教の経文を盧の公館内でしたためたとあります。

村上氏によるとその後も貴志機関が張作霖に圧力をかけたりしています。

特別編入蒙記 奉天の夕

■王仁三郎の名刺

一行は、すべて中国名を名乗り、中国服を着けていました。

王仁三郎は、特大の名刺をこしらえ、「日出国大本教教主 世界語普及会会長 中国五大教責任統掌 朝鮮普化教教総 那爾薩林喀斎喇額都(ナルザリンカチラオト) 弥勒下生達頼喇嘛(ダライラマ) 素尊汗 日本姓名源日出雄瑞月 朝鮮姓名王文泰天竜 民国姓名王文祥尋仁 出生地蒙古国」と印刷しました。

ナルザリンカチラオトはモンゴル名で、「素尊」は素盞嗚尊のスソン、「尋仁」とあるのは道院から与えられた道名でした。この「尋仁」が後に天皇の名に近いので問題となっています。

■内陸部へ移動

3月3日、一行は奉天を出発して自動車でモンゴル東部の洸南に向かいました。3月8日挑南、3月26日にはモンゴルの国境近くの町公爺府に着き、そこで一ヶ月滞在しています。

物語入蒙記15章では、公爺府に着く手前で、大ラマに牛乳の煎餅を貰ったときに、「左の掌から釘の聖痕が現われ、盛んに出血し淋漓として腕に滴った。しかし日出雄(王仁三郎)は少しの痛痒も感じなかった」とキリストに関係したエピソードがあります。

4月には『和蒙作歌辞典』を書きはじめています。

この公爺府滞在中には、鎮魂で病気なおしなどをしたので、モンゴル各地から人々が救世主到来と集まって来たそうです。また、覚束ない蒙古語で教えも説いたといいます。

■索倫山

3月31日、張作霖の命令で戦闘をしないようにと命じてきました。しかし、盧占魁の軍は、張作霖の命令を聞かず、外モソゴルヘの進攻を準備していました。

四月下旬には、500名の兵士が、モーゼル銃、機関銃、軽機関銃で武装し、基幹部隊ができあがりました。

4月26日、王仁三郎一行は公爺府を出発し、二日後に下木局子(索倫山)に着いています。慮軍はここに本営を置き、「内外蒙古独立救援軍」を編成しています。王仁三郎は太上将として全軍の大将にまつりあげられています。

出口太上将と松村上将は、活仏であるとの理由で武器を持たず、他の日本人はすべて銃で武装していました。王仁三郎以下の指揮官は、みな白馬にまたがり、広漠たるモンゴルの大草原を進んだといいます。

■西北興安嶺に移動

さて、盧軍は6月3日(2日)に西北興安嶺に向って移動しています。

この原因が『巨人』と村上氏では全然違っています。

村上氏は、張作霖が、索倫山に蟠踞する盧軍の動向を、奉天軍閥への反逆と断定し、5月中旬にいたり、討伐軍を送った。張作霖は、5月23日、奉天の日本総領事に、出口王仁三郎以下の日本人の逮捕を申し入れたと言います。6月2日、奉天軍側が襲撃してくるとの急報が届き、劣勢な廠軍は、西北興安嶺に向かつて移動したとあります。つまり逃走です。

『巨人』では、6月3日、独立軍は西北興安嶺にむかってついに行軍を開始した。王仁三郎以下日本人の一行はいっさい武器をおびず、盧の兵隊には略奪暴行を禁じ、貧窮者には米塩を与えて進んでいった。道々、宣教や医療活動もおこたらない。それで現地人の間に王仁三郎の人気がどんどんあがってゆくのである、とあります。

なお、『巨人』でも張作霖の討伐軍と、日本人の逮捕の件が出てきますので、張作霖の動きは村上氏の書かれていることでよいのでしょう。『巨人』は、王仁三郎一行はその動きを承知していたが、張作霖の軍とは戦う気持ちはなく、はぐらかしておけば王仁三郎・盧軍が強力になれるだろうという戦略だったとしています。

そして、王仁三郎の勢力が民衆に人気があり、活仏や大英雄や救世主を王仁三郎に独り占めされ、蒙古の果てからチベットの山奥までひとなめにされてしまうのではないか。王仁三郎に大陸の王者になってしまわれたら、満州の独裁者(張作霖)でもそれこそあがったりだ、というわけで、張作霖はおどろきあわて、かつ、おこりだした、とあります。

■パインタラ

『巨人』では自分達の進路に、ロシアの赤軍が駐屯していることを知り、来年になるには万近い兵が盧軍に集まるはずなので越冬して力を蓄えようと会議で決まり、チャハルに向うこととなった。その途中のパインタラという街の旅館に泊まっているときに、寝込みを兵隊に襲われたとあります。

村上氏は次のように書いています。

 五日には、盧軍は方向を南に変え、十一日、熱河特別区に入つた。敗走する盧軍からは脱走者が続出し、五百名たらずに減つた慮軍は、二十日、ついに奉天軍に包囲された。この間に、岡崎をはじめ特務機関員は、井上をのこして姿を消した。王仁三郎を使つての盧占魁かつぎ出しという奇策の失敗は、すでに明らかであつたから、貴志機関は、いちはやく手を引き、証跡をくらましたのであろう。
 奉天軍は、パインタラ(通遼)に入る条件として、盧軍に武装解除を要求した。慮軍はこれに応じて二十一日、パインタラに入つた。身の危険を感じた盧は、脱出を決意したが、同日夜、全員が就寝中を捕縛された。
 盧と幹部は、即刻、銃殺され、日本人は足かせをはめられて通遼公署に監禁された。
 このときの受難が、いわゆる“パインタラの法難”で、日本では伝説化して伝えられている。
 一行は、町をひきまわされ、銃殺ときまって、王仁三郎は辞世の歌を詠んだが、銃殺寸前に、機関銃が故障したという、日蓮の竜ノロ法難に似た奇蹟譚も伝わつている。その辞世は「身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも日本男子の品はおとさじ」「いざさらば天津御国にかけ上り日の本のみか世界まもらん」「日の本を遠く離れて吾は今蒙古の空に神となりなむ」の三首である。
 この法難の話は、どこまでが事実か疑わしい点が少なくない。町をひきまわしてからという以上、“銃殺”は翌二十二日の昼間のことであろうが、盧軍に日本人がいることは、すでに周知の事実であり、馬賊の私兵や地方小軍閥の軍隊ならばともかく、中将が率いる正規軍の現地奉天軍が、一存で日本人を処刑することは、まず考えられない。日本と結ぶ奉天軍閥は、内心で日本人の横行や陰謀を不快としていても、処刑すれば、そのはね返りを覚悟しなければならないからである。かりに機関銃を向けたとしても、それは脱走を防止するための配備であつたろうと思われる。辞世の歌にも、さして悲壮感は感じられないし、処刑前に写したとされる一行六名が並んだ写真では、足かせをつけているだけで両手は自由であり、素手の武術・合気道の創始者である植芝だけが両手を縄でしばられている。王仁三郎以下の表情も、行軍と監禁中のやつれは目立つが、とくに緊迫しているようには見えない。
 法難の経緯には、なお不明の点が多いが、二十三日には、鄭家屯の日本領事館の書記生がパインタラに現われ、知事に引渡しを依頼した。王仁三郎は、日本国内での評価はべつとして、すでに高名な人物であり、しかも公判中の身であつたから、その一身の安全を守るために、終始、日本の出先当局と軍の特務機関によって細心の手がうたれていたのであろう。逮捕の二日後に、手まわしよく日本の領事館員がかけつけたことが、その間の事情を雄弁に物語つている。二十七日には、奉天から矢野と奉天の在住信者で軍人出身の広瀬義邦が差し入れに来た。
 王仁三郎らは、二十八日、通遼知事法廷で取調べをうけたのち、三十日、鄭家屯に移された。
 七月三日、奉天の日本総領事は、奉天交渉署長にあてて、王仁三郎らの引渡しを申し入れた。引渡し依頼書には、王仁三郎は「不敬事件刑事被告人として現に大阪控訴院にて継続責付中に依るもの」で、『かれらは「深く蒙境に入りて検挙上困難いたし」ているとの理由を挙げ、「此際同人を至急我方に御引渡相成度」と申し入れている。政府の出先当局と貴志機関では、すでに利用ずみの王仁三郎らを、至急日本に送りかえすことに意見がまとまつていたのであろう。五日、王仁三郎らは鄭家屯の日本領事館に引き渡され、翌日、奉天領事館にうつされて、三カ年の“退支”処分を申し渡された。王仁三郎は二十二日に大連を出航し、二十五日、門司に帰着した。

『巨人』では、事実関係は同じようなものですが、「そのうちに銃殺がやめになり、兵士達は一行を通遼公署へ引き立ててゆき、監獄の中へ放りこんでしまった。まさに危機一髪、死線を越えたわけだ。これは、王仁三郎の一行とは全然関係のない一日本人が、王仁らの遭難を鄭家屯の日本領事館に急報したたためである、としています。このときに、御手代が一行を救ったという話があります。また、『巨人』では、『王仁蒙古入記』を引用して機関銃の故障説を取り上げ、待ったの命令がとどく数分前の時点では、たしかに銃殺刑の火ぶたが切られていた、と言っています。

さてどちらが正しいのでしょうか。


13.入蒙の評価

■村上重良氏

村上氏は次のように言っています。

この事件は、モンゴル人のラマ教信仰と大本教を悪用した政治的軍事的策謀であり、日本の大陸侵略の歴史のうえでも前後に例のない露骨な宗教利用策であつた。主観的意図とはベつに、すすんでこの宗教利用に身を投じた出口王仁三郎にとつても、神意を理由にこの行動を正当化したり、政治的社会的に無答責では済ますことのできない性質の行動であつたというベきであろう。

■出口京太郎氏

出口京太郎氏は『巨人』で、大正12年1月の「神の国」の記事を引用したあと、次のように言っています。

王仁三郎が太白星に導かれての入蒙であったが、彼は彼の奉じる神命を完うできなかったようだ。王仁三郎がどこに神意を感じたかはさておいて、とにかく、超理の世界のあるものをこの世の問題にもちこむのだから、いろいろ難儀がおこってくるのも当然だろう。(中略)

紅卍字会とのつながりの発生が、たしかに入蒙をうながす一つの動機となったけれど、それがすべてではない。紅卍字会と大本との連携ができたのは大正十二年の十一月だから、それよりまえから「その足跡のおよぶところ、わずかに本土の内にかぎれり」ではだめだ、と主張し、海外をめざしていたことがわかるのである。(中略)

王仁三郎が西王母の法衣を風になびかせつつ、盧占魁の兵に『物語』を積んだ車をひかせ、天山北路や南路をへて聖地エルサレムにいったり、メシアの再臨としてくだろうとした気持ちが、なんだかわかってくるようになるからふしぎである。つまり、のちに入蒙時に示す、彼の一連の奇抜な言動も、彼なりにつじつまが合い筋のとおったものなのだ、ということが理解できるのである。

なお、『巨人』には入蒙時のエピソードが満載されています。

■愛善苑関係

○入蒙記との関連
 入蒙記6章「出征の辞」にある天体現象と、78巻口述の際に現われた天体現象との相似が78巻に紹介されている。月と太白星の天体現象。
  最初は大正10年2月12日、第一次事件勃発時。第二の天体ドラマが3年後の大正13年2月12日「楕円形の月と太白星が白昼燦然と輝き出す」現象を見て聖師は蒙古への出発を決意される。第三が78巻口述中の昭和8年12月20日。(78巻6章) 
 月と太白星は共に救世主のシンボルだ。三つの現象に共通するのは救いのドラマの開始を告げているということ。

○入蒙記第一章には入蒙が火の洗礼であることが書かれている。聖師がされようとしたのは、精神的、霊的に枯れ野化したアジアの地に、新たな光と熱を与えようとされたのだと思う。(出口三平)

○入蒙記の解釈は、開祖・聖師の神格問題もある。エルサレムを目指されながらアジア各地で主神への信仰を回復させようとした聖師の思いを大事にしてゆきたい。朝鮮半島では普天教、中国では紅卍会、さらにラマ教等、アジア全体に響く霊的なものがある。ベトナムのカオダイ教もそのころにはじまっている。

78巻の天体現象については、天祥地瑞巳 焼野の月の最後の部分と、天祥地瑞巳 天降地上に書かれています。この天体現象は書かれているのに加え、グランド・クロスを作り出しています。

狭依彦は出征の辞の天体現象もホロスコープを作りました。王仁三郎と占星術の天体現象とは縁が深いようです。 王仁三郎のホロスコープ

■西郷武士氏

『裏金神』の西郷武士氏は、入蒙を型の神業の一つと捉えています。

帰国後王仁三郎は「あれは、成功だった」と入蒙は成功だったことを述べています。

また、『巨人』にも書かれていますが、王仁三郎はパインタラで神力で雨を降らせています。この雨はしかし盧占魁を救うには遅すぎました。

そこで、西郷氏は、王仁三郎が中国の地で「水のご用」を仕組んだ、そして、次に日本という地で残りの「火のご用」を実演したのではないかと言っています。また、関東軍の張作霖爆殺事件について、「王仁三郎に手を下そうとした張作霖は、まるで艮の金神の怒りにでも触れたかのように、最後は関東軍により乗車している列車ごと爆破され、非業の死を遂げる」としています。

そして、数字の象徴をとりあげています。

入蒙で収監されてから保釈されたが、その保釈された日。11月1日、午後1時11分。「1」の並び。これは、神島開きで9の数字を連発しているので、神島開きは九分九厘の型、そして王仁三郎が一厘のみ霊であり、両方足すと十となり、王仁三郎の弥勒菩薩誕生の謎を解き明かす、としています。

また、入蒙では、126の数字を繰り返しているとしています。126はキリストに水の洗礼を施すヨハネが荒野をさまよった日数1260日を縮めた数字だそうです。

(1)最初の第一次弾圧で、王仁三郎が獄に投じられ、責付出獄するまでの獄中期間が126日。

(2)奉天到着の2月5日から、パインタラに追い込まれる前日の6月19日まで、救世主として奇蹟を行った日数が126日。

(3)3月3日奉天出発から、日本領事館に護送される7月6日までが126日。

(4)護送中を収監日数として数えないで計算すると、6月21日にパインタラの地で捕まり、7月21日から27日までを大阪拘置所に拘留され、11月1日、保釈されるまでも126日間。

(5)第一回目の入獄から入蒙して、最後入獄の前日まではヨハネ時代のユダヤ歴の一ヶ月が丁度30日として計算すると丁度42ヶ月で1260日となり、最後はヨハネの荒野をさまよった日数と同じものになる。

この後、ヨハネの型とキリストの型と満州の関係が述べられていますが、本論考では紹介しません。


14.入蒙後

■収監と民衆の熱狂

7月25日の王仁三郎の帰国は、大本教の役員、信者また一般の大衆によつて盛大に迎えられました。王仁三郎は、門司から山陽道の警察を経て、7月27日、大阪刑務所の北区支所未決監に収監されました。

各新聞は、満蒙での王仁三郎の活動や、バインタラの遭難をおもしろおかしく書き立てたので、王仁三郎が着いた駅では、群衆が集まり、凱旋将軍を迎えるような熱狂的な騒ぎであつたようです。入蒙は民衆の間に、王仁ブームをまきおこしました。

これを村上氏は「当時、流行の『馬賊の歌』にいう『せまい日本にゃ住み飽きた』行き詰まつた民心に投じ、大陸支配の夢をかきたてる英雄の役割を果たしたといえよう」と言っています。

また、入蒙の挙にたいして政治家の鳩山一郎と向井忠晴は、「出口は偉大である」と讃えたといいます。

王仁三郎は、11月1日、98日ぶりで保釈となっています。

■大正日々新聞の借金

収監中の8月下旬には、「大正日々新聞」の社債とその利子合計約2万4千円の返済要求の裁判が起こされています。債権問題の裁判は、翌々年1926年(大正15年)5月に支払いを完了して落着しています。

■大正14年

1925年(大正14年)1月には、大本と大本瑞祥会の組織の抜本的改革が行なわれ、王仁三郎は、大本総裁に就任し、神教伝達使(のち宣伝使と改称)を新たに任命しました。

2月には、亀岡の亀山城址の建設を開始し、「天恩郷」と命名しています。3月には、天恩郷の「月の輪台」が竣工しています。


15.入蒙記

霊界物語の口述は1922年(大正11年)末には第46巻の口述が終わっています。

47巻から51巻が1923年(大正12年)1月、52巻から54巻が同2月、55巻から58巻が3月、59巻から60巻が4月。61巻から63巻が5月となっています。

64巻は上下に別れているが、64上巻は大正12年7月に口述されています。下巻は大正14年8月です。これは後で巻数を変えられています。

65巻は大正12年7月、69巻が大正13年1月です。69巻の最後が1月25日。ここで、ストーリーは大団円を迎えています。  山河草木申 有終

ここで、入蒙が行われます。

その後、66巻が大正13年12月15日から12月17日、67巻が12月19日から12月29日、68巻が大正14年1月28日から1月30日、70巻1章が大正14年2月13日、これは前年入蒙に出発した日です。 

そして、霊界物語特別編となる入蒙記(記述時は67巻)が大正14年8月15日に第1章から第8章があり、残り大正14年8月とだけされていますが、66巻(記述時は68巻)の序文には12月1日に口述を始めたとあります。次に64下巻となる巻が、8月19日から8月21日。70巻2章以降は8月23日から8月25日となっています。

入蒙記の口述順序については、たぶん、8月15日を強調する意図があったのではないでしょうか。

71巻は大正14年11月から大正15年2月まで、日を置いて口述されています。最後の72巻が大正15年6月29日から7月1日です。

この巻の流れから言うと、64巻上で王仁三郎のエルサレム入りを示唆していますし、また、入蒙記の後が64下となり、エルサレムの続きですから、やはり入蒙はエルサレムを目指していたと考えるべきでしょう。

また、66巻の序文では、入蒙記について触れた後、「本巻よりは照国別のいよいよ活動となり、やや軍事的趣味を帯ぶることとなりました。無抵抗主義の三五教が軍事に関する行動を執るのは、少しく矛盾のやうに考へる人もあらうかと思ひますが、混沌たる社会においては、ある場合には武力を用ふるの止むなき場合もあります。」とあるので、入蒙の意味とかかわっているのかも知れません。

67巻序文68巻序文も重要でしょう。

また、入蒙記に入蒙余禄として附加されている文章も紹介しておきましょう。

大本経綸と満蒙世界経綸の第一歩蒙古建国蒙古の夢


16.万教同根

■世界宗教連合会

1925年(大正14年)5月22日には世界宗教連合会が北京の北京悟善社で発会しています。参加したのは、大本教、道院、普天教、道教、救世新教(悟善社)、仏陀教、イスラム教、仏教、およびキリスト教の一部で、総本部を北京、東洋本部を亀岡におきました。後にドイツの心霊主義運動団体の白旗団が加わっています。

日本人で連合に関係した人名をあげておきます。岡崎鉄首、内田良平、秋山定輔、田中義一、頭山満、箕浦勝人。また、白系ロシア人の将軍セミヨーノフ(反革命側)も加わっています。

この顔ぶれから、村上重良氏は「王仁三郎の宗教的理想は、日本の大陸政策、端的には、中国の諸宗教にたいする懐柔利用の政策によつて裏打ちされていた。大陸浪人と右翼が下工作に奔走したことでも明らかだ」としています。

これについては、歴史の深い認識が必要であるので、これ以上はとりあげません。

■普天教

世界宗教連合会に参加した朝鮮の普天教の動きは興味をそそられます。村上重良氏の書かれたもので紹介します。

 入蒙のさい使用した王仁三郎の名刺には、「朝鮮普化教教総」の肩書きがあるが、普化教とい名の宗教との交流は、大本側の記録にもないから、おそらく普天教のことをさすものと思われる。
 普天教は、朝鮮の慶尚南道に本部をおく新宗教で、教祖は甑山大法天師である。日本支配下の朝鮮では、キリスト教系、儒教系をはじめ習合的な多数の新宗教が活動していたが、そのなかには、ひそかに反日独立を説く宗教が少なくなかつた。とくに万歳事件(一九一九年)の流血の大弾圧につづく関東大震災における在日朝鮮人ヘの集団テロを経て、朝鮮民族の独立の要求は、ますます熾烈となつていたから、これらの新宗教は、朝鮮民族の独立ヘの願望にまつたく背を向けて教勢を拡大することは不可能であった。普天教も、その種の“危険”性があるとして、朝鮮総督府からひそかに監視されていた。こういうなかで、大本教とのあいだには、普天教から前年九月、収監中の王仁三郎への見舞いのためとして、幹部の金勝攻が綾部を訪れるなど、しだいに人の交流が活発化し、大本教からは松村真澄らが同教本部を訪問した。この交流と時期を同じくして、一九二五年(大正十四)に入ると、普天教は教主出世の祭典を行ない、朝鮮各地で積極的な布教に乗り出した。普天教では時局大同団という行動組織をつくり、同教の「一心相生、去病解怨」の教義を強調して、日鮮融和をよびかけるようになつた。この親日ヘの突然の転回は、朝鮮の民衆の怒りを買い、三月には、釜山で普天教反対の市民大会が開かれ、参集した八千余の民衆は、釜山の普天教正教部を襲撃し、聖殿を破壊した。大本教のアジア論が、基本的に日本の大陸支配への道を肯定するものである以上、その路線は、朝鮮における日鮮融和、すなわち日本の植民地支配の容認と支持に落ち着かざるをえない。大本教と普天教との密接な交流は、普天教の反動的役割への急転回のばねとなつたと見るのが妥当であろう。万教同根は、ひとつの宗教的理想にはちがいなかつたが、こと東アジア地域の宗教にかんするかぎり、それは、客観的には日本帝国主義のアジア侵略を、宗教の面で補完する役割を演ずるほかはなかつたのである。

■万教同根

世界宗教連合会は、関係者の顔ぶれからその政治的位置はともかくとして、王仁三郎の思想である万教同根を実現するための組織といえます。

王仁三郎の考え方としては、霊界物語に霊主体従巳 万教同根という章があります。また、信仰は異なるともでも考え方が分かります。

■万国信教愛善会

 北京の世界宗教連合会に呼応して、国内では、5月25日、神戸道院で万国信教愛善会が発会しました。神戸を中心とする同会には、大本教、道院、生田神社その他の神社、神戸市仏教連合会をはじめ、浄土宗、真宗、禅宗、時宗、真言宗、天理教、神戸YMCA、ハリストス正教会、ヒンズー教等の各宗教の関係者、阪神駐在中国領事館、在日華僑団体等が名をつらねました。

■人類愛善会

1925年(大正14年)6月9日、万教同根と世界平和の実現をはかるための外郭団体として人類愛善会を立ち上げました。

王仁三郎が翌大正15年4月18日に亀岡の光照殿で人類愛善会第一回総会における演説を人類愛善の真義で読むことができます。

さて、人類愛善会は、総本部を綾部神苑内の月光閣におき、規約等を整えて国内、国外への人類愛善思想の普及に乗り出しました。

6月30日には、王仁三郎を「瑞霊真如聖師」と称えることになりました。聖師さんの聖師です。

10月1日には、月刊機関紙「人類愛善新聞」が創刊されました。

ここでも、時代相と関係した村上重良氏の見方を紹介しておきましょう。

日本の軍国主義化は、大陸進出の路線を強化するかぎり必然的な成り行きであつたが、こういう日本の状況下で旗上げした人類愛善会は、第一次世界大戦後、国際的に高まつた平和とヒユーマニズムの風潮にこたえる平和主義と人類同胞観を高くかかげていた。しかし、この人類愛善思想は、実践化して行けば、とうぜん現実の国内的国際的な矛盾との対決を迫られることになり、日本の軍国主義化と大陸侵略の進展とともに、平和主義の実践という本来の役割に加えて、日本の侵略を人類愛の名でおおいかくすという、いまひとつの性格を帯びることになつた。

■西村光月

西村光月は1925年(大正14年)6月、スイスのジユネーブでひらかれた万国エスペラント大会に出席して、それ以後2年余にわたつてパリに滞在し、ヨーロツパ各国で大本教を布教しました。

1926年(大正15年)には、パリで「国際大本」(エスペラソト文)が発刊されました。

なお、この西村は霊界物語64巻にブラバーサという名前で登場します。

■海外進出

1926年(大正15年)からは、ブラジル布教が始まり、在住日本人とブラジル人の入信が続きました。昭和初年には、メキシコ、ペルー、カナダで支部が誕生しました。特ににブラジルにおける教勢の発展はめざましく、1931年(昭和6)には、サンミグエールの郊外にブラジル愛善堂が作られています。ブラジルの布教については『巨人』にエピソードが載せられています。

■国内宣教

1925年(大正14年)12月の山梨県下での支部設置によって、全道府県に大本教の支部が置かれました。


17.まとめ

大正時代は、遊学から戻り、ほとんど信者のいないところからはじめ、教団の組織作りをして、躍進してゆく時代。そして、知識人や軍人の入信を経て、全国的な教団に拡大してゆく時代。そのような躍進時代に開祖・出口直が帰幽します。

その後は、立替え立直しをエキセントリックに叫ぶ人々もあり、第一次大本事件が勃発してます。

第一次事件後は、霊界物語の口述、考え方の違う幹部達の離脱があり、保釈中に入蒙というとんでもない事業を行います。

ここまでの大正時代のまとめ的なことが、霊界物語特別編・入蒙記の神示の経綸金剛心に書かれています。

その後、教団は「人類愛善」を旗印に、国内、国外でも大躍進をとげています。

ただし、入蒙についても、その後の世界宗教連合会についても、日本の国家および「右翼」の影がちらついていて、「歴史認識」の問題になりそうです。

 

参考資料 

『出口王仁三郎』村上重良(新人物往来社) 1975年

『巨人出口王仁三郎』出口京太郎(講談社)1967年(現在は天声社)


第1版 2005/09/24
第1版(校正) 2015/01/01



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