王仁三郎昭和時代

1.昭和2年 9.昭和10年(第二次事件前)
2.昭和3年 10.第二次事件
3.昭和4年 11.保釈から昭和20年敗戦まで
4.昭和5年 12.耀碗
5.昭和6年 13.吉岡発言
6.昭和7年 14.昇天まで
7.昭和8年 15.まとめ
8.昭和9年  

1.昭和2年

1927年 昭和2年 57歳 1月 中矢田農園を買収し、大本理想社農園と命名
1927年 昭和2年 57歳 1月 明光社結成。冠句会の月光会と和歌の月明会を合併
1927年 昭和2年 57歳 5月 第一次大本弾圧事件、大赦令により原審破棄免訴
1927年 昭和2年 57歳 8月 『明光』発刊
1927年 昭和2年 57歳 12月 台湾、琉球、奄美に巡教

926年12月25日(大正15年)大正天皇が崩御されます。この日から短い昭和元年が始まります。

■中矢田農園

1927年(昭和2年)1月には亀岡の中矢田農園を買収し、大本理想社農園と命名しています。この農園は第二次弾圧後も大本になんとか残されて、王仁三郎一家はここで暮らすことになります。

■明光社

同、昭和2年1月に短歌の明光社を結成しています。 この明光は明智光秀ちなんだ名前だそうです。

8月には雑誌『明光』を発刊しています。この創刊の辞が読めます。

■第一次事件免訴

大正天皇の大葬で、大赦令が出され、第一次大本事件の裁判は、1927年(昭和2年)5月、原判決を破棄し免訴となりました。

大審院の裁判長は、有罪判決を予定していたといわれています、このように大赦による免訴というかたちで、大本不敬事件は、いちおうの解決をみることになりました。

■南の島巡教

王仁三郎は、自由に動ける身の上となり、ただちに中国、九州をはじめ全国各地へ巡教の旅を始めました。

1927年(昭和2年)末から翌年1月にかけて、王仁三郎は、出口伊佐男、高木鉄男、岩田久太郎らの随行で、台湾、沖縄、奄美大島を巡教し、大きな反響を呼んでいます。台湾は当時日本であったことに注意しておきましょう。

この旅で、1928年(昭和3年)1月14日、喜界島の宮原山を訪問しています。この島は、坤の金神が退隠された場所と言われており(三段の型艮坤二神の御歌)重要な場所です。


2.昭和3年

1928年 昭和3年 58歳 1月14日 喜界島の宮原山訪問
1928年 昭和3年 58歳 3月3日 満五六歳七ヵ月。みろく大祭執行
1928年 昭和3年 58歳 5月 四国巡教
1928年 昭和3年 58歳 7月からにかけ、北陸、東北、北海道、樺太、千島地方巡教(~11月)
1928年 昭和3年 58歳 秋 月宮殿完成
1928年 昭和3年 58歳 12月 神しゅう別院(日吉津)完成

■出口日出麿

1928年(昭和3年)2月には、三代教主を継ぐ長女の出口直日と高見元男との結婚式が挙行され、王仁三郎の命名により、高見は出口日出麿と改めました。

■みろく大祭

1928年(昭和3年)3月3日、王仁三郎は、綾部の五六七(みろく)殿で、みろく大祭を挙行しました。この日で王仁三郎が満56歳7ヵ月に達するので、仏教の56億7千万年で救世主弥勒菩薩が下生する説から、王仁三郎は自分がみろくの化身であり、救世主であることを教団内外に表明したのでした。

祭典では、王仁三郎先達となつて神言を奏上した後、「万代の常夜(とこよ)の闇もあけはなれみろく三会(さんえ)の暁きよし」をという歌を朗詠しました。続いて、神饌の中から、自分はリンゴ三個、妻澄に大大根と頭イモ、出口家一同には大根と頭イモ、総務には頭イモ一個ずつを与ました。これは、みろく下生を記念する神秘的な暗喩をこめた象徴的な儀式でした。

しかし、この行事が後に第二次事件での治安維持法違反の根拠となります。 裁判記録では(14)、(15)、(16)でこの件についての質問と応答が記録されています。

この日、教主以外の全役職員が辞任し無役となり、翌日付で、王仁三郎は、大本総裁、天恩郷主事、瑞祥会会長、天声社社長に就任しました。王仁三郎はみろく大祭を境に、教義上でも絶対の地位を確立したのです。

■月宮殿

1928年(昭和3年)は、5月以降に全国を巡教しています。

1928年(昭和3年)11月には、天恩郷神苑内に月宮殿が完成しました。王仁三郎がデザインした総石造りの神殿でした。第二次事件では、この月宮殿を破壊するために、1500発以上のダイナマイトが使用されています。

霊界物語では何箇所か「月宮殿」という言葉が出てきますし、狭依彦は如意宝珠申 月休殿ではこの月宮殿が破壊されることを予言しているように思えます。地上に移写すオリオン星座では、月宮殿はオリオン星座を地上にうつすものだと言っています。

オリオン星座は三つの星が囚われた形をしており、第二次事件後の回想歌集「朝嵐」で何度も出てきます。また、王仁三郎の背中には、このほくろがあったようです。


3.昭和4年

1929年 昭和4年 59歳 4月 「出口王仁三郎作品展」 (金沢、徳島、名古屋、米子、松江……全国各都市で)
1929年 昭和4年 59歳 5月26日 信州巡教
1929年 昭和4年 59歳 6月3日 皆神山を訪れる
1929年 昭和4年 59歳 7月 蓮月亭(楽焼制作所)完成
1929年 昭和4年 59歳 夏 みろく踊りを本格化
1929年 昭和4年 59歳 10月12日 王仁三郎夫妻、朝鮮、支那、満州へ巡教

1929年(昭和4年)3月には、支部総数は772に達しました。

■出口王仁三郎作品展

4月頃より、全国各地で出口王仁三郎作品展が頻繁に開催されました。大本教への関心は高まり、王仁三郎の芸術に共感する賛同者がつぎつぎに現われました。

■皆神山

1929年(昭和4年)5月26日より、信州へ巡教に出ていますが、6月3日に皆神山を訪れています。 信濃国皆神山  言霊奏上について  噴火口と蓮華台  八十平甕

また、『巨人』には王仁三郎が松代大本営の計画と関わっていたという話がでてきます。

■朝鮮、支那、満州へ巡教

1929年(昭和4年)9月、中国から紅卍字会の一行18名が来日し、綾部、亀岡を訪問したのち、大本教の拠点である大阪と東京に、それぞれ紅卍字会総院を開設しました。東京総院では、王仁三郎が道院の儀式用の道服を着用して、開院式を司宰しました。翌10月、一行の帰国に同行して、王仁三郎と澄は、井上留五郎、岩田久太郎らを伴い、朝鮮、満州を約二週間にわたり巡教し、月末に帰国しています。

王仁三郎一行は、朝鮮では、釜山、ソウル、平壌、鎮南浦等の各地に立ち寄つています。満州では、道院と交流し、満鉄沿線を北上して、奉天、長春、ハルピンの各地を巡教しました。

巡教中の10月12日、満鉄地方事務所長の発意で、満州で活動している教化団体、宗教団体を結集して連盟を組織することがきまり、長春で発会式が行なわれました。大本教・人類愛善会の代表は、それぞれ委員に選ばれました。この交流で大本教と道院・紅卍字会の一体化が本格的に進み、大陸における大本教・人類愛善会の活動は、道院・紅卍字会の教勢の基盤の上で進められるようになりました。


4.昭和5年

1930年 昭和5年 60歳 3月8日 京都宗教大博覧会(岡崎公園)で大本館を特設
1930年 昭和5年 60歳 3月18日 大祥殿にて「弥勒殿」の大額を揮毫
1930年 昭和5年 60歳 4月 穹天閣(本宮山)完成
1930年 昭和5年 60歳 5月20日 熊山訪問
1930年 昭和5年 60歳 5月25日 『昭和青年』創刊
1930年 昭和5年 60歳 5月27日 前田夕暮来訪
1930年 昭和5年 60歳 『庚午日記』刊行

■宗教大博覧会

1930年(昭和4年)、3月には宗教大博覧会が京都で開催され、大本館を特設して、多くの来場者がありました。

■道院との関係

宗教大博覧会の視察を兼ねて、紅卍字会の代表が来日し、亀岡の大祥殿と綾部の五六七殿で、道院の壇を開壇しました。大本教と道院は、教義上でも密接不可分の関係で結ばれてきました。

この大本教と道院の関係について、村上重良氏は次のように批判しています。

関東大震災後にはじまる道院との提携は、昭和初年の大恐慌による国内の不況と社会不安の増大とともに、日本が大陸進出の歩度を速めるのに比例して、急速に密度を濃くした。世界平和のための神意による世界経綸、東亜経綸という王仁三郎の壮大な構想は、大陸における大本教・人類愛善会が、日本軍国主義の大陸支配の野望にたいして、いかに対応するか、いいかえれば、日本侵略者の側に立つか、被圧迫民族の側に立つかという、ぎりぎりの局面に立たされていた。
 “満州事変”前夜の大本教は、日本の大陸侵略の延長線上で、満州と華北における基盤を確立し、拡大しつつあつた。

■熊山

5月20日には王仁三郎は岡山の熊山を訪問しています。王仁三郎は素尊御陵「熊山の山頂にある戒壇は、神素盞嗚大神様の御陵である」と言っています。

この時のことについては、加藤明子が熊山にお伴してという文章を残しています。再び素尊御陵について探湯の釜にも熊山のことが書かれています。

■教団組織改変

1929年から教団の組織が改変されています。1930年(昭和5年)の改定では、大本教と大本瑞祥会の規約が改められ、大本教の教主輔、総裁等の役職名を廃して、総統、総統補、主理等をおき、総統に出口王仁三郎、同補に出口日出麿、主理に井上留五郎が就任しています。

9月には、大本教、大本瑞祥会、人類愛善新聞社の規約が改められて、綾部に大本本部がおかています。

■昭和青年発刊

1929年(昭和5年)5月、雑誌「昭和青年」が創刊されました。すでに亀岡で亀岡昭和青年会が結成されていて、各地でも昭和青年会設立の動きがありましたが、「昭和青年」の発刊により、青年信者による統一的な行動組織の結成が進められます。

■王仁三郎と和歌

1930年(昭和5年)5月27日には歌人の前田夕暮が来訪しています。

王仁三郎の和歌にはいろいろな側面があります。

例えば日記としての歌。王仁三郎は巡教の行く先々で歌を詠み、膨大な巡教の『歌日記』が残されています。王仁三郎は生涯で約8万首の歌を詠んだと言われています。これほど沢山の歌を詠めたのは、王仁三郎は、歌はつくるものではなく、歌うものであるという信念があって、口をついて出たそのままを記録させ、ぜつたいに推敵をしなかつた、と言われています。

王仁三郎の和歌に対する考えは、雑誌『月明』の創刊の辞和歌について作歌の法明るいのが歌歌人などで知ることができます。

また、全集(7)全集(8)、霊界物語などでいろいろな歌を見ることができます。いろいろな種類の歌があり用途によって使い分けていたようです。

また、歌壇にもよく投稿していたようで、1931年(昭和6年)8月には、歌壇進出が100社を越えています。


5.昭和6年

1931年 昭和6年 61歳 6月 みろく音頭ふきこみ。レコード化
1931年 昭和6年 61歳 8月 更生祭(還暦祝い)
1931年 昭和6年 61歳 8月 歌壇進出100社を越える
1931年 昭和6年 61歳 8月 更生館(作品展示室)完成
1931年 昭和6年 61歳 9月8日 鶴山山頂に石碑(神声碑、教碑、歌碑)建立
1931年 昭和6年 61歳 9月18日 (満州事変)
1931年 昭和6年 61歳 10月18日 (霊界物語口述十周年)天恩郷に昭和青年会本部設置。王仁三郎、会長に
1931年 昭和6年 61歳 秋 (大凶作)
1931年 昭和6年 61歳  台北に別院、ポナペに支部。奉天に別院。満州在理会、回々教シベリア協会などと提携
1931年 昭和6年 61歳  『更生日記』、『花明山』『彗星』『霞の奥』『東の光』『故山の夢』など刊行

■みろく音頭

1931年(昭和6年)6月、みろく音頭をレコードにふきこんでいます。このレコードは現在も残されており、聞くことができます。昔の盆踊りの音頭のようで、王仁三郎が歌うと、「ヨーイセイ・ヤットコセ」と合いの手が入ります。

■更生祭

1931年(昭和6年)8月、還暦祝いの更生祭が行われています。 これは、昭和青年の記事によって、臨場感たっぷりに読む事ができます。 聖師更生祭 歓呼祝呼に充たされた四日間

■満州事変

1931年(昭和6年)9月8日、かねてから用意して鶴山山頂にねかしてあった石碑(教碑、神声碑、歌碑)を建立します。

教碑 ()万物普遍の霊にして 人()天地経綸()大司宰也
神人合一()(ここ)に無限()権力を発揮()
神声碑 <うぶごえ>三ぜんせかい いちどにひらくうめのはな もとのかみよにたてかえたてなおすぞよ すみせんざんにこしをかけ うしとらのこんじんまもるぞよ
 めいじ二十五ねんしょうがついつか で九ちなお
歌碑 盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを()
よしやみは蒙古のあら野に(くつ)るともやまと()の子の品は落さじ
昭和六年七月十二日 出口王仁三郎

上のグリーンで色をつけたものは入蒙時のパインタラでの辞世の歌でした。そして、「これから十日後に大事件がおき、それが世界的に発展する」と言ったのです。

予言の9月18日には、満州の柳条溝で張作霖の鉄道爆殺事件がおこり、満州事変の発端となりました。この事件は、関東軍の謀略的な挑発でしたが、この事件により、日本軍は満州、華北への全面的な侵略を開始するのです。

王仁三郎は、事変にあたって、奉天駐在日本憲兵隊には道院の人々の保護を願う電報、満州各地の紅卍字会と、大本教・人類愛善会にも、「安全を神に祈る、神の守りがある」むねの電報を送っています。

また、総統補・出口日出麿を満州へ派遣しています。日出麿は、現地に到着するとただちに紅卍字会員、人類愛善会員による難民救済を指示しています。満州各地では、食糧などの救援物資を積んだトラツクに、人類愛善会旗と紅卍字会旗を立てて、救済の活動がすすめられました。

■八の字のめぐりあわせ

この八という日は、その後の日本にとって大事件の起こる日になっています。これが、大本事件の節目とシンクロしているわけです。

第二次大本事件勃発  昭和10年12月8日 太平洋戦争勃発 昭和16年12月8日
第二次事件の大審院判決 昭和20年9月8日 サンフランシスコ対日講和条約 昭和26年9月8日

■昭和青年会の改組

各地の昭和青年会は、満州事変の勃発によって、いったん解散して、後に全国的な統一行動組織として再発足しました。本部を亀岡天恩郷に、主部を綾部におき、各地に支部を設置しました。

同会は「人類愛善の大精神にもとづき、昭和の大神業のため献身的活動奉仕をなす」ことを目的にかかげ、十五歳以上の男女を会員とし、壮年、老年も入会できることを定めています。

このあたりの事情は昭和青年会弁論大会挨拶で読む事ができます。

昭和青年会は、大本教の行動組織と言ってよいでしょう。この結成により大本教の社会的実践は、格段に規模を拡大し、全国的な運動を組織的に展開できる態勢が整ったと言えます。

昭和青年会の会長には出口王仁三郎、会長補には出口伊佐男と東尾吉雄が新たに就任しました。本部には、統務、雑誌、弁論、武術、代理の各部がおかれ、総務部主任に、伊藤栄蔵が任命されています。


6.昭和7年

1932年 昭和7年 62歳 3月 (満州国樹立)
1932年 昭和7年 62歳 2月 大阪満蒙博に愛善館を特設(4月京都)
1932年 昭和7年 62歳 5月15日(五・一五事件)
1932年 昭和7年 62歳 5月 北海道別院に神生歌碑
1932年 昭和7年 62歳 6月18日 ラマ教と提携
1932年 昭和7年 62歳 7月 喜界島に神声歌碑を建立
1932年 昭和7年 62歳 夏 満州各地で出口王仁三郎作品展
1932年 昭和7年 62歳 7月26日 大日本武道宣揚会創立。王仁三郎、総裁に。植芝を会長に
1932年 昭和7年 62歳 7月 天恩郷で航空展
1932年 昭和7年 62歳 10月7日 王仁三郎、昭和青年会分列式で訓示
1932年 昭和7年 62歳 10月30日 大本大祭。挙国更生徹底の大運動を起こす
1932年 昭和7年 62歳 10月31日 鶴山山上にて昭和青年会全国支部旗樹立式
1932年 昭和7年 62歳  『壬申日記』『霧の海』『白童子』『青嵐』刊行

昭和7年年頭の人類愛善新聞には次のような記事が掲載されています。昭和7年を想ふ

■満州とのかかわり

1932年(昭和7年)3月には満州国が樹立されています。

この満州国の建国は西郷武士『裏金神』で「満州国建国の型」としてとりあげています。西郷氏は、第一次大本事件が満州国の建国が型、第二次大本事件が日本の敗戦の型としています。詳しくは同書をお読みください。

また『巨人』では、昭和6年9月28日、大陸浪人の川島浪速と東洋のマタハリ川島芳子が大本を訪ねたことから始まる、宣統帝擁立運動への王仁三郎の関わりについて書いています。

■挙国更生運動

1932年(昭和7年)5月には5・15事件が起こり首相・犬養毅の暗殺が国民に衝撃を与えました。

この時期、農村恐慌による不況で、農民大衆の窮乏は眼をおおうばかりの惨状を呈していました。大本教では、すでに食糧問題と農家自活の解決策として、陸稲の多収穫栽培の普及に力を注いでいましたが、挙国更生運動では、昭和7年11月10日から一年間にわたつて、挙国更生祈願の神社参拝をよびかけ、また全国各地の地方都市、農村で講演会、座談会を催しました。 農村座談会  農漁村の蘇生法  随筆

当時の社会は、生糸相場の暴落による養蚕農家の破局的状況をはじめ、野菜の暴落や米価の下落によつて、農村は疲弊の極にあり、娘を売る農民が続出していました。

出口王仁三郎氏に挙国更生を聞という座談会記録が読めます。

■防空運動

1932年(昭和7年)7月、天恩郷で航空展を行っていますが、その後翌年にかけて、昭和青年会は防空運動を展開しました。防空運動については出口王仁三郎氏に挙国更生を聞く(2)に少し触れられています。王仁三郎が水上飛行機で移動したという話もあったと思います。

また、昭和青年会では軍隊式の分列式を行い、そこで王仁三郎は訓示をしています。この軍隊式の訓練は、裁判で取り上げられています。

■大日本武道宣揚会

1932年(昭和7年)7月26日には、大日本武道宣揚会を創立しています。王仁三郎が総裁、植芝盛平(守高)が会長にになっています。この第一回総会の演説を読む事ができます。

植芝は合気道の開祖で昭和7年牛込に皇武館道場を開くとありますから、兼務していたのでしょうか。

■昭和坤生会

昭和青年会の改組につづいて、全国的な婦人組織として昭和坤生(こんせい)会がつくられることになり、1932年(昭和7年)11月に結成式が挙行されました。会員は15歳以上の女性で、これまで昭和青年会に属していた女子会員がほとんどでした。昭和坤生会は、昭和青年会と連携して会員に団体訓練を施しました。

■国家主義的傾向

このように、昭和青年会、坤生会の結成は、大本教内の空気を大きく変え、満州事変による国内の危機感の増大と結びついて、信者の間では国家主義的風潮がにわかに高まりました。

これは昭和青年の見出しを読んでも、国家主義に傾いていることが分かると思います。

昭和青年について

7.昭和8年

1933年 昭和8年 63歳 2月1日 中之島梓亭(弓場)完成
1933年 昭和8年 63歳 2月4日 節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に改め、速佐須良比賣の大神として瀬織津姫の先頭に立ち和知川に
1933年 昭和8年 63歳 3月26日 みろく大祭、国体闡明運動をはじめる
1933年 昭和8年 63歳 3月27日 (日本、国際連盟を脱退)
1933年 昭和8年 63歳 7月 亀岡で防空展を開き、各地へ
1933年 昭和8年 63歳 9月28日 七福神扮装写真撮影
1933年 昭和8年 63歳 10月4日(旧8月15日) 「天祥地瑞」口述開始
1933年 昭和8年 63歳 10月 観音・乙姫・達磨等、国常立尊・豊雲野尊・素盞嗚尊等の扮装写真撮影
1933年 昭和8年 63歳 10月27日(旧09月09日) 神島参拝。大正五年の神島開きから十八年目のこの夜、みろくの大神の神霊を高天閣から月宮殿に遷座
1933年 昭和8年 63歳 11月10日 島根県八雲山山頂の八雲山歌碑除幕式
1933年 昭和8年 63歳 11月25日 天恩郷東光苑に教歌碑、追憶歌碑の二基除幕
1933年 昭和8年 63歳 12月27日 伊豆・関東へ出かける(昭和9年4月16日帰綾)
1933年 昭和8年 63歳  『公孫樹』『浪の音』『山と海』刊行

■皇道大本へ復帰

1933年(昭和8年)旧元日(2月3日)、大本教は節分祭を期して「皇道大本」の教名に復帰しました。

皇道大本への復帰は、あらゆる意味において、大本教の全活動が国家主義とフアシズムヘ急傾斜したことを表明するものだったと思われます。教名の復帰にともない、「皇道大本規定」が定められ、これを機に、大本瑞祥会は廃止されました。

当時、大本教は、金沢の「北国新聞」をはじめ、舞鶴の「丹州時報」、東京の「東京毎夕新聞」等の一般紙を経営し、新聞、雑誌、講演会、座談会等を通じて、ひろく国民に皇道大本の主張を訴えています。

この時期の大本について、村上重良氏は次のように厳しく批判しています。

 日本独占資本が、大恐慌以来の国内の不況を切り抜け、際限ない利潤の拡大をもとめてアジア大陸に侵略の手をのばして、十五年戦争に突入したこの時点で、王仁三郎は、神の世界経綸の礎は東亜経綸であり、東亜経綸の基は“満蒙”経綸であると説き、客観的には、日本帝国主義の大陸侵略を思想的にも実践的にも支持し、これに全面的に同調する役割を演じた。“神”の経綸が、もともと全人類の繁栄と平和をめざすものであつたにせよ、現実には、王仁三郎の“満蒙”論においては、日本の軍事的経済的侵略に苦悶する中国、朝鮮の民衆の立場は意識の外に置かれていたことは否定するべくもない。この点に、一九三〇年代前半をつうじて、日本社会で大きな反響をよんだ大本教のめざましい国内国外の活動の最大の問題点があつたし、その社会的政治的役割は、こんにちあらためて、きびしく批判されねばならないであろう。

■国体闡明運動と国聯脱退

1933年(昭和8年)3月には国体闡明(せんめい)運動をはじめています。皇道と国体でその目的が、また新しき日本にそれを歌った歌があります。

伊勢神宮参拝、神社参拝をはじめ、各地で全国遊説講師百七名による講演会、座談会が開かれ、活気に満ちた宣伝活動がくりひろげられました。

同3月には日本は国際聯盟を脱退していますが、王仁三郎は国際聯盟は認めておらず、国の決断を支持した歌を残しています。

天祥地瑞

1933年(昭和8年)10月4日(旧8月15日)に『天祥地瑞』の口述が開始されています。

『天祥地瑞』は、『霊界物語』の最終編となつた述作で、口述は、翌年8月15日まで断続してつづけられ、全9巻(第73~81巻)が完成しました。

旧8月15日から8月15日までの口述です。入蒙記も8月15日という日付がありますから、確実に、王仁三郎は8月15日とういう日付を意識していたと言えるでしょう。8月15日は昭和20年太平洋戦争が終わった日付です。

『天祥地瑞』は、大半が和歌体で、幽の幽界の生成発展の様子を物語る神秘的な内容の作品でした。この口述のために、和歌を解する筆録者を養成して、最初の口述は以前の霊界物語に比べてかなりの日数がかかったようです。

『天祥地瑞』の序文と口述日を紹介しておきましょう。81巻は「序」はありません。

序文 口述開始 口述終了
73巻 昭和8年10月 4日 旧 8月15日 昭和8年10月18日 旧 8月29日
74巻 昭和8年10月19日 旧 9月 1日 昭和8年10月31日 旧 9月13日
75巻 昭和8年11月 1日 旧 9月14日 昭和8年11月30日 旧10月13日
76巻 昭和8年12月 5日 旧10月18日 昭和8年12月 8日 旧10月21日
77巻 昭和8年12月10日 旧10月23日 昭和8年12月17日 旧11月 1日
78巻 昭和8年12月20日 旧11月 4日 昭和8年12月25日 旧11月 9日
79巻 昭和9年 7月16日 旧 6月 5日 昭和9年 7月20日 旧 6月 9日
80巻 昭和9年 7月26日 旧 6月15日 昭和9年 7月31日 旧 6月20日
81巻 昭和9年 8月 4日 旧 6月24日 昭和9年 8月15日 旧 7月 6日

『天祥地瑞』は非売品で、『霊界物語』を第72巻まで読了した信者に限り下付し、一冊ごとに見返しに王仁三郎のスの拇印が押されていました。

■歌碑

年表にもありますが、王仁三郎は日本全国に歌碑を48基立てています。これは全集(7)で読む事ができます。

この歌碑は、王仁三郎の思想と芸術のモニュメントという評価のしかたもありますが、蟇目の法で「日本を守るために」霊的に重要な場所に建てたという解釈もあります。


8.昭和9年

1934年 昭和9年 64歳 3月8日 人類愛善新聞、3月3日号をもって100万部拡張達成
1934年 昭和9年 64歳 6月3日 『出口王仁三郎全集』(皇道編)第一巻出版
1934年 昭和9年 64歳 7月22日 昭和神聖会発会式を東京九段軍人会館で開催
1934年 昭和9年 64歳 8月23日 穴太瑞泉郷の神聖歌碑除幕式
1934年 昭和9年 64歳 秋 各地の昭和神聖会発会式参加
1934年 昭和9年 64歳 10月1日 『神聖』創刊
1934年 昭和9年 64歳 秋 当局の内偵本格化

■宣伝の高揚

1934年(昭和9年)3月には、人類愛善新聞百万部発行を達成しています。

また、6月、東京の万有社から『出口王仁三郎全集』(全8巻)が刊行されています。

『全集』は、皇道編、宗教・教育編、霊界物語編(上、下)、言霊解、入蒙記、歌集、我が半生の記、の8巻から成っていて、各冊が定価1円50銭、約600ページでした。全国紙には1ぺージ大の広告も出しています。売れ行きは良かったようです。

全集1  全集2  全集3  全集4  全集5  全集6  全集7  全集8

■昭和神聖会

王仁三郎は1934年(昭和9年)7月22日「昭和神聖会」を結成し、東京・九段の軍人会館で、三千余人を集めて発会式を挙行しました。

団体の基盤は、昭和青年会、坤生会が主体でした。

役員としては、出口王仁三郎が統管、王仁三郎と親交のあった内田良平および出口伊佐男を副統管とし、現職大臣、政治家、将官級の陸海軍人、実業家、学者、右翼団体の代表者等多数を賛同者としました。

内田良平の『神聖』の記事皇道経済考も読む事ができます。

綱領は次のようなものでした。解説は肇国皇道の大精神で読む事ができます。

一、皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す。
一、天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す。
一、万邦無比の国体を闡明し、皇道経済、皇道外交の確立を期す。
一、皇道を国教と信奉し、国民教育、指導精神の確立を期す。
一、国防の充実と農村の隆昌を図り、国本の基礎確立を期す。
一、神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す

組織としては、総本部を東京に、地方本部、支部を全国各地におき、機構として、神祗、政治経済、外交、思想教育、国防、遊説、統制、経理の八部を設けました。

昭和神聖会の発足にともない、人類愛善会は主として海外の運動を担当することとなり、国内での大本教の実践運動は、すべて昭和神聖会を中心に進められることになりました。

王仁三郎は各地の神聖会の発会式に参加しており、そのときの話の一つが昭和神聖会台湾発会式に於る挨拶です。

また、昭和10年に書いた『神聖運動』とは何かでも運動の概要が分かるでしょう。

1934年(昭和9年)10月1日には雑誌『神聖』が創刊されています。神聖の見出し、記事の一部を読む事ができます。


9.昭和10年(第二次事件前)

1935年 昭和10年 65歳 1月 各地の昭和神聖会発会式参加(~3月)
1935年 昭和10年 65歳 2月7日 瑞泉郷の石の宮・神聖神社鎮座祭を臨席のもと、大吹雪の中で執行
1935年 昭和10年 65歳 2月7日  透明殿完成
1935年 昭和10年 65歳 2月27日 天皇機関説排撃運動
1935年 昭和10年 65歳 3月上旬 特高警察、大本文献を極秘裡に調査開始
1935年 昭和10年 65歳 4月 関東から綾部、亀岡に戻る
1935年 昭和10年 65歳 6月5日 万祥殿斧始式
1935年 昭和10年 65歳 7月22日 昭和神聖会結成一周年記念 賛同者800万突破
1935年 昭和10年 65歳 8月11日 万祥殿祭典。敷地に急造の天幕を張り祭典執行。大祥殿にて王仁三郎脚色の第一回神聖歌劇を公演。天之峰火夫の神に扮して出演。三幕四場
1935年 昭和10年 65歳 8月22日 「昭和の七福神」撮影。25日まで
1935年 昭和10年 65歳 9月下旬  長髪や髯を切らせる
1935年 昭和10年 65歳 10月13日 穴太にて十六神将の野外撮影
1935年 昭和10年 65歳 10月27日 大本大祭。長生殿斧始式
1935年 昭和10年 65歳 10月28日 長生殿祭。長生殿敷地で。みろく殿にて第二回神聖歌劇公演
1935年 昭和10年 65歳 10月31日 明光殿にて第一回歌祭り執行
1935年 昭和10年 65歳 11月17日 北陸別院にて地方で最初の歌祭り

■神聖会の活動

昭和神聖会の実践活動は、次のような運動を行っています。

(1)農村救済運動
(2)ワシントン海軍軍縮条約廃棄運動
(3)天皇機関説撃滅運動 (皇国日本は天立君主立憲国なり

昭和神聖会は、結成後一年で地方本部25、支部414、賛同者800万人の大組織に成長し、全国各地での講演会は2889回、入場者はのべ100万人を超えています。昭和神聖会台湾発会式に於る挨拶に800万人について触れている箇所があります。

■弾圧への動き

昭和神聖会が結成された1934年(昭和9年)秋には、当局の内偵が本格化します。この時期から弾圧は避けられないものだったのでしょう。

第二次弾圧の理由はいろいろあげられていますが、一つは「型」として王仁三郎が国家権力を挑発して起こしたもの、また、歴史的な状況から考えると村上氏の言われていることもしっかり検討する必要があります。

村上氏の当時の状況分析です。

 王仁三郎は、昭和神聖会をつくることによつて、客観的には、宗教者から政治指導者ヘと大きな転換をとげたといつてよい。宗教上の信念から発していても、すでに王仁三郎は、教祖すなわち民衆の精神的指導者である以上に、民衆の政治指導者であった。“協導団”構想から昭和神聖会への歩みは、一九三〇年代なかばの日本社会で、有数の宗教指導者であった王仁三郎が、いまや一個の政治指導者として全国民の前に登場したことを意味した。近代天皇制国家の支配者たちは、王仁三郎が、政治指導者として、軍服に似た統管服を着け、サーベルを下げて広範な国民を率いることを、絶対に容認することはできなかつた。
 王仁三郎は、いつかいの農民から出発して、巨大な“新興類似宗教”皇道大本を率いる有数の指導者として大を成したが、大日本帝国のトツプ・レベルの支配層にとつては、しょせん異質で得体の知れない“怪物”であつた。王仁三郎の“協導団”構想が実現しなかつたのも、教団外の一般人である各界の有力者たちは、皇道大本の強固な大組織や豊窩な財力には魅力を感じても、出口王仁三郎の指導性をうけいれて、その思想に立つ国内革新運動に踏み切る決意など、はじめからなかつただけでなく、この人物の将来性に、危惧を抱き不安を感じていたからにほかならなかつた。とくに、政界上層部に密着していた有力者たちは、皇道大本ヘの再度の弾圧の可能性を知悉していたはずであり、在野の右翼、国家主義者以外は、もともと王仁三郎の首唱する実践運動に本気で身を投ずる可能性はなかつた。昭和神聖会には、大臣をはじめとする政府、軍部の指導層が賛同者として名を連ねていたが、それはこの新興の“国家主義”運動への形式的な挨拶にすぎなかつた。

1935年(昭和10年)初頭、大本教撃減の密命をうけた内務省の薄田は、京都府警察部長に赴任し、極秘裡に弾圧の準備作業に入っています。

同年3月には、内務省の首脳は、大本教幹部の検挙の準備をすベて終え、この民衆宗教の発展に憎悪の念を燃やす若手の天皇制官僚たちを、相次いで警察、特高、検事局の関係部門に赴任させています。

9月中旬には、大本教関係の膨大な全刊行物についての半年がかりの検討が完了した。滋賀県大津市には、当局の秘密アジトが設けられ、10月中旬には、京都府特高課は、検挙のための具体的な計画を仕上げています。

■七福神

1935年(昭和10年)8月22日から25日までに「昭和の七福神」という映画を撮影しています。また、1933年(昭和8年)9月28日には七福神扮装写真撮影などをしています。これらの写真は霊界物語で見ることができます。

七福神については山河草木辰の最終章で不思議な場面がとりあげられています。この場所がエルサレムのゲッセマネの園なのです。ここに至る4章、5章も何かを予言しているような雰囲気です。一部紹介しましょう。山河草木辰 危母玉山河草木辰 道歌山河草木辰 七福神

■弾圧直前

年表に見るように、弾圧前は神聖歌劇を行ったり、歌祭りを行ったりしています。

弾圧2ヵ月前の1935年(昭和10年)10月の雑誌「神聖」に、「回顧四十年」を発表して自分の決意を表明しています。

■統管随筆

この時期、ファシズムとか独裁の意味は現在考えるようなマイナスではなかったと思います。次の文献では、ファッショという言葉を使っています。

『神聖運動』とは何か  文武の日本  躍動する感情  旅の徒然

この時代の随筆があります。

統管随筆  統管随筆第一篇  統管随筆第二篇


10.第二次事件

1935年 昭和10年 65歳 12月8日 大本第二次弾圧事件。巡教先の松江で検挙される
1935年 昭和10年 65歳 12月  出口家、天恩郷から中矢田農園へ移転を命じられ、八重野、尚江、住之江の三世帯同居
1936年 昭和11年 66歳 1月16日 被疑者65名に対する警察訊問・取調べ開始。王仁三郎の取調べには警部・高橋誠治が担当
1936年 昭和11年 66歳 1月20日 大本の全出版物を発禁
1936年 昭和11年 66歳 1月29日 王仁三郎、京都中立売署より五条署に移され、拷問に
1936年 昭和11年 66歳 2月24日 王仁三郎、検事局に送局される
1936年 昭和11年 66歳 2月26日 (二・二六事件)
1936年 昭和11年 66歳 2月頃 出口日出麿、過酷な取調べにより精神障害に。京都の日赤病院に入院
1936年 昭和11年 66歳 3月9日 夜、栗原白嶺、中立売署獄中で縊死
1936年 昭和11年 66歳 3月11日 六本指で無罪をサインする王仁三郎の写真が撮影された日
1936年 昭和11年 66歳 3月13日 林頼三郎法相、起訴を決裁。王仁三郎と高木鉄男が不敬罪・治安維持法違反、その他は治安維持法違反で、8名がまず起訴。大本関係八団体に解散命令。内務省は大本本部および地方をふくむ全教団建造物強制破却処分を発令
1936年 昭和11年 66歳 3月14日 王仁三郎、五条署から中京区刑務支所(未決監・京都市中京区竹屋町通柳馬場東入菊屋町合一番地)に収容される。予審訊問開始。
1936年 昭和11年 66歳 4月17日 綾部・亀岡の聖地を強制売却
1936年 昭和11年 66歳 5月11日 王仁三郎、山科刑務所未決監に
1936年 昭和11年 66歳 5月11日 綾部・亀岡の神苑破壊(~6月12日)
1936年 昭和11年 66歳 7月2日 出口澄子を中京区刑務支所に
1936年 昭和11年 66歳 9月21日 岩田久太郎、中京刑務支所で獄死
1937年 昭和12年 67歳  山科の未決監在監
1938年 昭和13年 68歳 1月25日 30人の予審終結決定が発表される
1938年 昭和13年 68歳 1月29日 大本弁護団の会合開催。事務所は京都市中京区高倉通丸太町下る赤塚源二郎宅。2月23日から事務開始
1938年 昭和13年 68歳 4月30日 王仁三郎の予審終結決定
1938年 昭和13年 68歳 5月16日 公判準備手続きはじまる
1938年 昭和13年 68歳 8月10日 第一回公判。京都地方裁判所刑事部第一号法廷にて事実審理に。この時、獄中に勾留されていた者は、王仁三郎はじめ三九名
1939年 昭和14年 69歳 7月24日 事実審理終了。第一回公判以来約一年、検挙から三年八カ月
1939年 昭和14年 69歳 8月24日 京都地方裁判所検事局あて、弁護団全員の名前で、証人警察官を偽証罪で告発
1939年 昭和14年 69歳 9月3日 (第二次世界大戦はじまる)
1939年 昭和14年 69歳 10月18日 小野検事による論告。19日に総論。21日求刑
1939年 昭和14年 69歳 11月10日 弁護人弁論。12月20日まで
1940年 昭和15年 70歳 2月29日 第一審判決。京都地方裁判所陪審大法廷で判決。治安維持法違反、不敬罪有罪。王仁三郎の無期懲役の判決、即日控訴
1940年 昭和15年 70歳 4月18日 大阪北区刑務支所へ移送
1940年 昭和15年 70歳 10月16日 第二審(大阪控訴院)公判開始
1941年 昭和16年 71歳 12月8日 (太平洋戦争開始)
1941年 昭和16年 71歳 12月22日 検事論告はじまる
1942年 昭和17年 72歳 2月12日 弁護人弁論。4月16日まで
1942年 昭和17年 72歳 7月31日 第二審判決。治安維持法違反は無罪。不敬罪、出版法違反、新聞紙法違反は有罪
1942年 昭和17年 72歳 8月2日 王仁三郎以下九人、大審院に上告。翌日、検事側も上告

第二次事件当時の新聞を湯川原さんがデータ化してあるので、読む事ができます。

朝日新聞   読売新聞  東京日日新聞

■一斉検挙

1935年(昭和10年)12月8日未明、警官隊は綾部、亀岡の両本部を襲い、午前5時には早くも大阪から判事、検事一行が現地に到着して、捜索が始まりました。両聖地では、一時は不穏な雰囲気になりましたが、かねてから弾圧を予想していた幹部たちの制止で、平穏裡に官憲を迎えました。警官隊は信者約500名を軟禁し、三代教主補・出口日出麿ら幹部約300名を検挙しました。

出口王仁三郎、澄夫妻は松江市赤山にある島根別院の大祭のため、前日に松江に来ていたが、午前4時、島根県下の約280名の武装警官隊が島根別院を襲いました。

警官隊の突入に、王仁三郎は身を起こして、隣室にいた澄がつけてくれた火で、煙草を一服吸つたといいます。悠々と紫煙をくゆらす王仁三郎の周りには、いきりたつ信者もおり、緊張した空気がみなぎつたが、指揮官の島根県特高課長は、ポケツトに手を入れ、わざとピストルを握つているような格好を示して、「騒ぐな、騒げば聖師さんの生命がないぞ」と叫んで、信者たちの動きを未然に封じたといいます。

王仁三郎は、ただちに松江署に連行され、奪還を恐れる当局の配慮から、松江駅よりも二つ京都寄りの揖屋駅で一番列車に乗せられ、京都の二条駅でおろされ、中立売署に留置されました。

東京でも、昭和神聖会総本部などで出口伊佐男らが検挙されています。

捜索は、6日間にわたつてつづけられ、筆先、霊界物語をはじめ、押収された物品の総数は5万点以上になったといいます。神殿、本部事務所等などは、鉄条網をめぐらして立入りが禁止されました。聖地に住む一般信者は取調べが終わると強制的に帰郷させられました。

地方機関も、ひきつづき捜索を受け、各地の幹部44名が京都に護送されて留置されました。

■でっちあげ

当局は、弾圧を正当化するために、不敬の事実をつぎつぎにつくりあげ、マスコミに流しました。

「信者から献納されていた日本刀は、武器隠匿の証拠。古鏡と剣が神前にあつたことが、三種の神器を真似ていた。居室で白馬にまたがつた王仁三郎の写真額を見つけた当局は、不敬の動かぬ証拠である」と大々的に宣伝しました。

当局は王仁三郎の寝室に蒲団を敷き、性的な絵画等をわざと持ち込んで、新聞記者団に公開し、王仁三郎の“色魔”ぶりをアピールするという、あくどい工作もやっています。

有力新聞は第一次事件の際と同様に、こぞつて大本教攻撃の論陣を張っています。

■軍部への配慮

当局は大本教を右翼や「革新」将校グループの有力資金源と目していました。これが大本弾圧の原因だったという説もあるくらいです。北一輝と関係があったという話もあるくらいです。

このため、検挙から数カ月間、当局は各方面からの反撃を極度に警戒し、「弾圧の理由は大本教の教義そのものであって昭和神聖会の政治運動ではない」とくりかえし強調し、右翼団体、国家主義団体、軍人グループの反撃を未然に防止しようとしました。

当局が弾圧を続行しようとしていた、1936年(昭和11年) 2月26日、突如二・二六事件が勃発したため、内務省の役人は東京に取って返しています。二・二六事件は、わずか4日で鎮圧されました。

■起訴

1936年(昭和11年)3月13日、出口王仁三郎、澄以下教団幹部61名が起訴されました。

全員に治安維持法違反が、さらに王仁三郎ら十一名には不敬罪が併合罪とされています。

起訴理由は、大本教が国体の変革を目的として結社を組織し、政権の奪取を企てたというのが中心点でしたが、その結社の成立を、1928年(昭和3年)3月3日のみろく大祭としていました。

起訴決定の日、拘禁中の王仁三郎は、長髪を刈りとられた姿で、面会に来た信者の前に姿を現わし、無言で、右手の指一本、左手の指五本を伸ばして、「六」すなわち無罪を暗に示したといいます。その写真が残っています。

■聖地の破壊

内務省は裁判の開始も待たずに、大本教の全施設の破却を命じました。

1936年(昭和11年)5月、京都府の指示で、綾部、亀岡の大本教施設の破壊が始まりました。綾部の神苑では警官の監視のもとに人夫が施設を破壊しています。

綾部の神苑は瓦礫と木材の山と化しました。人工池の金竜海は、周囲の樹木を伐り、島を崩して埋められてしまいました。

開祖・出ロナオの墓は三度目の受難に会いました。また、信者の墓石からは、「宜伝使」「修斎何等」などの大本教と関係のある文字が削り取られ、死者までも凌辱しています。

亀岡の天恩郷でも完璧な破壊が行われています。

だだし、大理石等の石材と鉄筋コンクリートでつくられた月宮殿の破壊は、簡単には進みませんでした。月宮殿の堅牢さに手を焼いた当局は、鉄筋を焼き切り、前後二十一日間をかけ、ダイナマイト1500本を用いてようやく破砕しています。

綾部でも亀岡でも、壊したあとの用材は、再建を恐れて、すべて三尺以下に分断し、月宮殿のコンクリート塊も、人夫を動員してさらに粉々に砕くという念の入れようでした。

天声社の工場にあった書籍、雑誌などの出版物は、残らず周囲の空堀に投げ捨てられました。天恩郷内に立てられていた地蔵、観音等の石像も首を切りおとされたり、砕かれたりしました。

大本教と関係のないとされた家具、用具類、美術品はすべて売却され、大本教関係があるとされた膨大な点数の物品は、月宮殿下の空堀に積み上げられ、焼却されました。その炎は夜空に映え、幾日もくすぶりつづけて、亀岡町一帯に多量の灰や塵が降つたと言われています。

これらの破壊に要した費用は、3万余円にのぼりましたが、当局は全額を大本教側に負担させています。

■土地の売却

大本教は綾部、亀岡両町に5万坪に及ぶ広大な所有地がありましたが、当局は、賃貸価格程度の常識はずれの安値で両町に強制的に売却させました。

この場面を裁判記録の高橋証人 裁判記録で読む事ができます。ここで出口澄が(「天皇陛下様の御前(ごぜん)ではないか」と云(い)ひ奇声を発し暫(しば)し止まず)と、神憑りしたことが記録されています。

これについては後に民事訴訟を起こしており、最終的には綾部・亀岡の町から無条件で返還されています。

■地方での弾圧

地方での検挙を免れた大本教と関連団体の幹部も、警察に召喚されたり、警察官の来訪をうけ、説諭を加えられたうえ、始末書や棄教の宣誓書にほとんど強制的に署名させられました。

末端での弾圧ぶりは、人権などまつたく意に介さず、信者宅に土足で踏み込んで、家財を手当たり次第に戸外に投げ出し、靴で踏みにじつたり、たたきこわして火をつけるというすさまじさでした。

1936年(昭和11年)中で、大本教関係の検挙者は987名、検事局への送致者は318名と伝えられますが、実際の被検挙者は3000名を上まわつたと推定されています。

信者たちには、地域社会からの差別があり、「国賊」「非国民」と呼ばれ、単なる侮蔑や嘲笑にとどまらず、生活そのもを脅かされています。村八分、失職、取引きの停止による廃業、雇傭の取消し、借家の立退き等々、圧迫が加えられています。

しかし、信者たちの多くは、苦難のなかで大本教の信仰を守り続けています。裁判費用と救援資金のための献金活動もねばり強くつづけられています。

このあたりの信者のエピソードは感動を誘うものがあります。

■予審

1938年(昭和13年)8月、京都地方裁判所で大本教事件の第一審が開廷されていますが、当時は予審という制度があって、それをもとに裁判が行われましたから、第一審までに時間がかかっています。

検挙直後から一審開廷にいたるまでの警察や予審での取調べは苛酷をきわめています。

検挙当初、王仁三郎は、取調べのさいに長髪をつかまれて引きずりまわされ、幾度も失神しています。被告の中には、足を括られて廊下を引きずられたり、焼火箸を尻に当てられた者もあり、革靴で一時間も頭を踏みつけられた者、仰向けに寝かされて鼻と口から水を注ぎ込まれ、あるいは竹刀がささらのようになるまで顔面を打たれた者もあつたと言います。

激しい取調ベがもとで、栗原七蔵は自殺、岩田久太郎、宮川剛らは病死しました。当時39歳の出口日出麿は拷問で、ついに精神に異常を来たしました。

■裁判

京都地裁の第一審の模様は、裁判記録で読む事ができます。

王仁三郎はこの裁判で予審で述べたことを全面否定し、さらに、大阪で行われた第二審では、この第一審で述べたことを否定していますから、この裁判記録をすべて信ずるわけにはいきませんが、これまで王仁三郎の歴史を呼んでこられた皆さんには興味深いものだと思います。

みどころとしては、1928年(昭和3年)3月3日のみろく大祭についての「イモ大根問答」。第二審では、王仁三郎は、この「イモ大根問答」で述べたことはでたらめである、祭りのあと直会で供え物を分けるのは日本古釆の習慣で、とくに意味はない、と前言をひるがえしています。

また、出所後に、「この事件はイモ大根事件や」と語つたと伝えられています。

裁判記録を読むと、確かに、話をはぐらかせて逃げていると思われるところも見受けられます。

大本教側は、信者の弁護士に、清瀬一郎、高山義三、林逸郎ら、より抜きの弁護士を加えて弁護団を結成しています。

1940年(昭和15年)2月には第一審の判決が言い渡されました。判決は、治安維持法違反、不敬罪とも全員有罪で、王仁三郎の無期懲役以下、全員に15年から2年にわたる懲役刑というものでした。

■第二審

大本教側はただちに控訴し、1940年(昭和15年)10月から大阪控訴院で第二審の審理が開始されました。

第二審の判決は1942年(昭和17年)7月にあり、治安維持法違反は無罪、不敬罪、出版法・新聞紙法違反は有罪となりました。刑は、王仁三郎が不敬罪の最高刑である懲役5年、以下8人の被告にたいして、有期懲役が言い渡されました。

不敬罪有罪の二審判決にたいして、大本教側はただちに上告し、一方、検察側も、治安維持法違反の無罪を不服として上告しました。

■出口澄

出口澄の『幼ながたり』で、「監房へ」から「獄中の歌」までは、この裁判での拘置中のことが書かれています。この大本二代教主の大きさが分かる文章です。ぜひ、読まれることをお勧めします。

■回顧歌集

第二次事件の回顧歌集『朝嵐』の第一部を読む事ができます。 朝嵐PDF


11.保釈から昭和20年敗戦まで

1942年 昭和17年 72歳 8月7日 王仁三郎、澄子、出口伊佐男、保釈出所。6年8ヵ月ぶり。2435日。
1942年 昭和17年 72歳 9月 事件回顧歌「朝嵐」を詠む
1942年 昭和17年 72歳 9月24日 天王平の共同墓地の開祖の墓参り
1942年 昭和17年 72歳 10月19日 穴太に。小幡神社参拝
1943年 昭和18年 73歳 5月 これより『月照山』に収録された歌を詠む
1944年 昭和19年 74歳 6月9日 王仁三郎、兵庫県籠坊温泉に入湯、20日間滞在して29日帰宅
1944年 昭和19年 74歳 6月16日 (マリアナ沖海戦。日本海軍、空母、航空機の大半を失う)
1944年 昭和19年 74歳 7月7日 (サイパン島陥落。日本全土がB29の爆撃圏内)
1944年 昭和19年 74歳 7月18日 (東条内閣総辞職)
1944年 昭和19年 74歳 7月22日 (小磯国昭内閣)(小磯、米内内閣)
1944年 昭和19年 74歳 8月4日 (学童集団疎開はじまる)
1944年 昭和19年 74歳 12月7日 (東海大震災)
1944年 昭和19年 74歳 12月28日 亀岡の佐々木松楽宅で楽焼き開始
1945年 昭和20年 75歳 1月1日 楽茶碗に鳥の一筆画。ゆう薬を塗り、六十個の楽茶碗を焼く
1945年 昭和20年 75歳 2月10日 楽茶碗の他に水指し、杓立て、蓋置き、香炉、香合、皿、菓子鉢、建水湯のみ、神笛、等々を造りはじめる
1945年 昭和20年 75歳 4月4日 (小磯内閣総辞職。7日鈴木内閣成立)
1945年 昭和20年 75歳 8月6日 (広島に世界初の原子爆弾)
1945年 昭和20年 75歳 8月15日 (終戦)王仁三郎「こうならぬとこの神は世に出られぬ」

■保釈

1942年(昭和17年)8月、王仁三郎は6年8ヵ月ぶりに保釈出所となりました。澄、出口伊佐男も同時に出所し、亀岡の中矢田農園に落ち着きました。

9月には事件回顧歌「朝嵐」を詠んでいます。

■大審院と終結

大審院では、上告から1年余を経た1943年(昭和18年)10月、担当の裁判官と検事を決定、1944年(昭和19年)10月、大審院で公判が開始され、検察側と弁護団の間ではげしい応酬がくりかえされました。

しかし、昭和20年8月15日、日本は敗戦。大審院は敗戦直後の9月8日最終審の判決を言い渡しました。この判決で、上告棄却、不敬罪、出版法・新聞紙法違反の有罪が確定し、10年にわたる第二次大本教事件の裁判は、王仁三郎ら9名の有罪で結末を告げました。

判決翌月の10月17日、東久邇内閣のもとで大赦が行なわれ、王仁三郎ら大本教事件関係全被告は刑を免除されました。最後は、米進駐軍の命令ではなく、あくまでも天皇の名で大赦されたわけです。

昭和10年12月8日から事件解決までの間、拘置中あるいは保釈後に死亡した幹部、信者の犠牲者は16名にのぼつています。

■亀岡での生活

保釈後の亀岡の生活は、警察に監視されたものでしたが、信者もこっそり訪ねてきたりしました。また、広島の原爆を予言して信者に疎開するように指示をしたり、出征する信者に「我敵大勝利」と書いたお守りを渡したりしたエピソードが残っています。

これは木次次守『新月の光』でいろいろなエピソードを読むことができます。

8月15日には「こうならぬとこの神は世に出られぬ」と語っています。


12.耀碗

1926年 大正15年 56歳 2月 天恩郷内に窯を作り楽焼きをはじめる
1944年 昭和19年 74歳 12月28日 亀岡の佐々木松楽宅で楽焼き開始
1945年 昭和20年 75歳 1月1日 楽茶碗に鳥の一筆画。ゆう薬を塗り、六十個の楽茶碗を焼く
1945年 昭和20年 75歳 2月10日 楽茶碗の他に水指し、杓立て、蓋置き、香炉、香合、皿、菓子鉢、建水湯のみ、神笛、等々を造りはじめる

王仁三郎は保釈での出所後、2年余の休息期間の後に、1944年(昭和19年)12月29日から、激しい情熱で、作陶に取り組んでいます。

資材が何もかも不足している中で、多いときには一日に3、40点、2年後の1946年(昭和21年)8月に病床につくまでの短期間に3600点という作陶をなしとげています。

作陶をはじめたのは1926年(大正15年)2月に天恩郷内に窯を作り楽焼きをはじめた時です。1929年8月の神の国には「信濃国皆神山」という文があり「往昔素盞嗚の尊がこの山(皆神山)で比良加を焼かれたのが陶器の初めである。私も帰るとこれを記念に新しい窯を築いて陶器を初めるのである」とあります。

王仁三郎の作陶は後に耀碗(ようわん 「わん」は該当する字がコンピュータにないので「碗」を当てた)と名付けられています。これらの耀碗は、原色をまじえた明るく奔放な色調で輝いており、その形姿も自由でのびのびとしていると言われています。耀怨の一つ一つには「天国」「瑞垣」「さくや姫」「緋牡丹」等の銘が付けられており、「天国」の名を持っち「天国」何番と命名されたものが多くあります。

耀碗はやがて芸術作品として高い評価を受けるようになり、芸術家・出口王仁三郎の真価を示す一代傑作と讃えられるようになりました。

愛善苑のサイト、大本信徒連合会のサイト等で耀碗の写真を見ることができます。


13.吉岡発言

1945年 昭和20年 75歳 9月8日 大審院判決。上告棄却。治安維持法無罪。不敬罪有罪
1945年 昭和20年 75歳 9月下旬 出口王仁三郎、弁護士団による補償提起を拒否する
1945年 昭和20年 75歳 10月 酵素利用の農業講習会
1945年 昭和20年 75歳 10月17日 大赦令で不敬罪消失
1945年 昭和20年 75歳 10月 綾部、亀岡の土地返還される
1945年 昭和20年 75歳 12月8日 第二次大本事件解決奉告祭
1945年 昭和20年 75歳 12月10日 王仁三郎、綾部を出発、鳥取市外吉岡温泉に入湯へ
1945年 昭和20年 75歳 12月28日 朝日新聞鳥取支局通信員織田正三記者が吉岡温泉に取材に
1945年 昭和20年 75歳 12月30日(日) 「吉岡発言」公表

■大赦令

敗戦直後、1945昭和20年)9月の大審院判決での不敬罪有罪確定につづいて、翌10月の大赦によつて、王仁三郎は青天白日の身となり、完全に行動の自由を獲得しました。

大赦令は、連合軍の占領によつて始まつた民主化の嵐のなかで、占領軍当局による政治犯、思想犯の釈放に先手を取つて、天皇の名で罰した「重罪人」を、天皇の名で赦すという、国体護持のための苦肉の策でした。

■国家補償権の放棄

大審院の判決直後、弁護団からは、破壊と長期拘留の被害にたいする国家補償を要求すべきである、との声があがりました。弁護団の見積もりでは当時の金額で約3億円のでしたが、しかし王仁三郎は、「弾圧は神の恩寵である、敗戦で生活に苦しんでいる国民から金をとるようなことをしてはならない」と述べて、国家補償を求める権利のすべてを放棄しました。

被害をうけた信者たちは、自由意志に任されましたが、信者達も王仁三郎にならいました。

また、綾部、亀岡の土地は両町当局から、大本教側に無条件で返還されました。

■大本事件解決奉告祭

解決奉告祭の当日は、敗戦による混乱と荒廃のさなかにもかかわらず、全国各地から1500人余の信者が参集した。食糧も乏しく、列車の切符も手に入らない中を、ようやく綾部にたどりついた信者たちは、たがいに再会を喜び、久しぶりに王仁三郎、澄の元気な姿に接して感激を新たにしたといいます。

同日、唯一残された建物である彰徳殿において、大本教の新生を神に感謝する祝詞の斉唱につづいて、事件物故者の慰霊祭が行なわれ、終わつて王仁三郎、澄を先頭に、参列者一同は本宮山の山上に集まり、高らかに祝詞を奏上しました。

このあたりのことが出口英二『大本教事件』に感動的に書かれています。

■吉岡発言

1945年(昭和20年)12月から翌1月にかけて、王仁三郎は、保養のため鳥取県の吉岡温泉におもむきました。同地で新聞記者の来訪をうけた王仁三郎は、自己の所信をつぎのように語っています。これが吉岡発言とされているものです。「大阪朝日新聞」昭和20年12月30日付で発表されています。

新しい世をひらく

 自分は支那事変前から第二次世界大戦の終わるまで、囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を、全部叩き壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は、再建せずして再建されている。ただこれまでのような大きな教会は、どこにもたてない考えだ。
 治安維持法違反は無罪となったが、執行猶予となった不敬罪は実につまらぬことで、「御光は昔も今も変わらぬが、大内山にかかる黒雲」という、浜口内閣時代の暴政をうたったものを持ち出し、「これはお前が天皇になるつもりで、信者を煽動した不敬の歌だ」といい出し、「黒雲とは浜口内閣のことだ」といったが、どうしても通らなかった。
 自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、その、ため弾圧をうけた。「火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ」のお告げも、実際となって日本は敗けた。
 これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合(つごう)のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官・国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。
 しかし大和民族は、絶対に亡びるものではない。日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に因難が加わり、(とら)年の昭和二十五年までは駄目だ。
 いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として、尊い使命が含まれている、本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。
(談話、「大阪朝日新聞」昭和二十年十二月三十日)

翌々日の、1946年(昭和21年)元日、天皇のいわゆる人間宣言が行なわれています。


14.昇天まで

1946年 昭和21年 76歳 1月1日 (天皇人間宣言)
1946年 昭和21年 76歳 2月7日 愛善苑設立者会合を開き、設立趣意書・定款および役員がきまる
1946年 昭和21年 76歳 3月 茶碗つくり、この月まで。36回3000個
1946年 昭和21年 76歳 5月 出雲、鉢伏山など巡教
1946年 昭和21年 76歳 6月4日 綾部神苑の月山不二の鎮祭
1946年 昭和21年 76歳 6月26日 西本願寺法主大谷光照伯および内室部長、真渓・牧野両顧問来苑、記念撮影後城跡を参観
1946年 昭和21年 76歳 7月中旬 和歌山県熊野地方に巡教
1946年 昭和21年 76歳 8月9日(旧7月12日) 誕生祭。本宮山で祭典
1946年 昭和21年 76歳 8月26日 王仁三郎、脳出血の第1回目の発作
1947年 昭和22年 77歳 1月20日 宗教法人令に基づく宗教法人化。23日教団設立届け
1947年 昭和22年 77歳 4月23日 祖霊社復活
1947年 昭和22年 77歳 8月27日(旧7月12日) 生前最後の聖誕祭・「瑞生祭」
1948年 昭和23年 78歳 1月18日(旧12月8日) 容態急変
1948年 昭和23年 78歳 1月19日 午前7時55分、昇天。76歳5ヵ月

■愛善苑

1946年(昭和21年)2月7日、大本教は「愛善苑」の名称で再発足しました。王仁三郎は、みずから苑主となり、新発足の愛善苑を率いて、ふたたび布教活動を開始しました。「苑」の字は、囲いのある「園」を避けたものだといいます。

1946年(昭和21年)5月、山陰巡教。弾圧の地、松江の島根本苑を訪れています。

同5月23日には、陸の竜宮の奥の院として、兵庫県(播磨国)の鉢伏山を開き、大本教の霊場としました。

同年6月には、綾部の本宮山上に、至聖所月山富士が完成しました。これは、綾部の神苑にある破壊された礎石や石片を集めて、本宮山上の長生殿あとに積み、これに土盛りをして築いたもので、創造神である天の三体の神を祀りました。

続いて7月、王仁三郎は和歌山県の熊野地方を巡教し、事件物故者の慰霊祭を行ないましたが、この熊野への旅が王仁三郎にとつての最後の巡教となりました。

8月には、亀岡の天恩郷に、至聖所月の輪台が完成しました。月の輪台は、王仁三郎が設計した石組みの聖所で、月照山上に築造されました。王仁三郎は、ほとんど連日、みずから現場で指揮して完成を急いだといいます。

8月26日、王仁三郎は脳出血の第1回目の発作に襲われています。

昭和21年の日記の一部を読む事ができます。 日記PDF

■昇天

1946年(昭和21年)12月には、愛善苑の活動も軌道に乗り、組織が整備されるとともに、亀岡に常設の道場講座が開設されました。

1947年(昭和22年)に入ると、王仁三郎の肉体には老衰のきざしが濃くなり、みずから陣頭に立つて教団を率いることは、難しくなりました。

1948年(昭和23年)1月19日朝、出口王仁三郎は、亀岡の天恩郷で76年余の生涯を終えました。当日の亀岡は薄雪におおわれていたといいます。

■葬儀

1月20日、亀岡で招魂祭が行われました。

続いて、柩は徒歩で亀岡から綾部ヘ移されました。信者たち400余人は、太い綱で曳かれる霊柩車を先頭に、雪に埋つた丹波の険しい山路を、1月30日同日午前1時から夜を徹して進み、夕刻、綾部の梅松苑に到着しました。60キロ以上の道のりでした。

2月2日、本葬祭。そして王仁三郎の遺体は、綾部天王平の奥津城に埋葬されました。


15.まとめ

入蒙から昭和神聖会そして第二次弾圧までの歴史は論者によって解釈がいろいろあります。

大きく分けると、ここで主にとりあげた村上重良氏のように、時流が読めなかったという説があります。弾圧は予測していたが、これほど大きなものではなく、第一次弾圧のようにまた乗り切れると考えていたというものです。

また、第二次弾圧を挑発して引き起こさせたという説があります。これは、日本を守る(破壊する・再生する)ための「型」として第二次弾圧を引き起こさせたというものと、大本教が他の宗教教団のように第二次大戦に協力することを避けさせたというものがあります。

「なぜ」なのかは霊界物語に書かれているはずですから、いつか解明したいものです。



参考資料 

『出口王仁三郎』村上重良(新人物往来社)1975年

『巨人出口王仁三郎』出口京太郎(講談社)1967年(現在は天声社)


第1版 2005/10/06
第1版(校正) 2015/01/01



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