王仁三郎明治時代(3) 明治後半

1.出口直 8.長女誕生と雌伏の日々
2.喜三郎の初参綾 9.日露戦争
3.綾部入りと金明霊学会 10.布教の旅と皇典講究所
4.上谷での霊学修行 11.建勲神社と御岳教
5.出口澄との結婚 12.大日本修斎会
6.出修 13.教勢伸張
7.弥仙山ごもり 14.明治時代まとめ
 
1898年 明治31年 28歳 10月 出口直を訪問するが不調に終わる
1898年 明治31年 28歳 10月 園部に会合所を数ヶ所開設
1899年 明治32年 29歳 1月 静岡に長沢雄楯を訪問
1899年 明治32年 29歳 2月 (旧1月1日)出口直に信書を送る
1899年 明治32年 29歳 7月 出口直の命を受け、四方平蔵が喜三郎を迎えにくる
1899年 明治32年 29歳 7月3日 喜三郎綾部入り。ただちに金明会を結成
1899年 明治32年 29歳 7月 幽斎修行場を裏町の伊助の倉から中村竹造宅へ移す
1899年 明治32年 29歳 7月 神紋を十曜と定める
1899年 明治32年 29歳 7月 筆先に二代の世継は出口澄と出る
1899年 明治32年 29歳 7月 筆先に喜三郎を世継とすると出る
1899年 明治32年 29歳 8月 霊学会を組織する
1899年 明治32年 29歳 8月 修行場を上谷の四方菊兵衛門宅に移し、本格的に霊学研究を始める
1899年 明治32年 29歳 11月 大島景僕(元屋敷)の屋敷を購入
1900年 明治33年 30歳 1月31日 (旧1月1日)出口澄と結婚
1900年 明治33年 30歳 7月 冠島開き
1900年 明治33年 30歳 8月 神界で「出口おに三郎」と定まる
1900年 明治33年 30歳 8月 沓島開き。二度目の沓島開きで激浪にあい、引き返す
1900年 明治33年 30歳 8月 穴太の義弟西田元教の奇病を治す
1900年 明治33年 30歳 10月 鞍馬山出修
1900年 明治33年 30歳 秋 『玉の礎』の執筆を始める
1900年 明治33年 30歳 旧9月 静岡の長沢雄楯を訪問
1900年 明治33年 30歳 11月 広前に初めて神代造りの新宮をつくる
1901年 明治34年 31歳 4月 元伊勢、水の御用
1901年 明治34年 31歳 4月 穴太の上田家全焼、家族が綾部に来る
1901年 明治34年 31歳 7月 出雲、火の御用
1901年 明治34年 31歳 10月 大本を法人化するために奔走
1901年 明治34年 31歳 10月 静岡の長沢雄楯訪問からの帰途、伏見で危難に会う
1901年 明治34年 31歳 10月 出口直、弥仙山に岩戸ごもり
1902年 明治35年 32歳 3月 長女出口朝野(三大・出口直日)出生
1902年 明治35年 32歳 5月 弥仙山岩戸開き
1902年 明治35年 32歳 9月 この頃、京都で人造精乳会社を起す
1903年 明治36年 33歳 7月 『筆のしずく』執筆開始
1904年 明治37年 34歳 1月 『本教創世紀』執筆開始
1904年 明治37年 34歳 5月 二女出口梅野出生
1904年 明治37年 34歳 5月 『道の栞』執筆開始
1904年 明治37年 34歳 9月 上田王仁三郎と改名
1904年 明治37年 34歳 2月6日 (日露戦争勃発)
1905年 明治38年 35歳 1月 『道の大本』執筆開始
1905年 明治38年 35歳 3月 宇治、園部方面へ宣教に出る
1905年 明治38年 35歳 5月 出口直沓島こもり
1905年 明治38年 35歳 9月 宇治地方へ宣教
1905年 明治38年 35歳 9月5日 (日露講和条約、日露戦争終結)
1906年 明治39年 36歳 9月 京都の皇典講究所教育部本科二年に入学。
1906年 明治39年 36歳 11月 皇典講究所「秋津会」の幹事になり、月刊誌「このみち」の主筆となる
1907年 明治40年 37歳 3月 皇典講究所教育部卒業
1907年 明治40年 37歳 4月 京都府の神職尋常試験を受け合格
1907年 明治40年 37歳 5月 別格官幣大社建勲神社主典となる
1907年 明治40年 37歳 12月 建勲神社を辞し、伏見の御嶽教西部教庁の主事となる
1908年 明治41年 38歳 3月 伏見より大阪へ。御嶽教大阪大教会会長となる
1908年 明治41年 38歳 3月17日(旧2月15日) 高熊山修行完成の10年目、御嶽教を去り綾部へ帰るよう、神示を得る
1908年 明治41年 38歳 3月 湯浅斎次郎、王仁三郎を訪ねる
1908年 明治41年 38歳 3月 妹上田君、宇津の小西松元の息子小西増吉と結婚
1908年 明治41年 38歳 8月 金明霊学会を大日本修斎会と改称
1908年 明治41年 38歳 9月 最初の機関紙「本教講習」創刊。文書による布教活動開始
1908年 明治41年 38歳 9月 御嶽教大本庁理事ならびに教師検定委員、評議員、大阪府教区庁長となる
1908年 明治41年 38歳 12月 御嶽教を辞し綾部へ帰る
1909年 明治42年 39歳 2月 大本の機関紙『直霊軍』発刊
1909年 明治42年 39歳 5月 三女出口八重野出生
1909年 明治42年 39歳 8月 神殿斧始祭
1909年 明治42年 39歳 11月 弥仙山より神霊を迎え、神殿竣成式および遷座式を行う
1909年 明治42年 39歳  (新聞紙法公布)
1910年 明治43年 40歳 7月 大日本修斎会役員選挙
1910年 明治43年 40歳 12月 出口家への養子手続きを終え、出口王仁三郎と改名
1910年 明治43年 40歳 8月 (日韓併合)
1910年 明治43年 40歳 11月 (大逆事件)
1911年 明治44年 41歳 1月 出口澄との婚姻届を提出
1911年 明治44年 41歳 8月 四女出口一二三出生
1911年 明治44年 41歳 11月 出口直隠居、王仁三郎が戸主となって出口家相続
1911年 明治44年 41歳 10月 (辛亥革命)
1912年 明治45年 42歳 4月 出口直らとともに、伊勢神宮(内宮、外宮)、御香良州神社参拝
1912年 明治45年 42歳 5月 修斎会員の修斎等級発表。当時の会員数、全国で約2万
1912年 明治45年 42歳 5月 祖霊社新築
1912年 明治45年 42歳 7月 本教研究の趣意、大本教学則、大本信条発表。梅田信之、教統となる

1.出口直

喜三郎が出口直に会う前に、出口直のここまでの人生を概観しておきます。

なおの前半生は出口澄の「幼ながたり」で読むことが出来ます。これは「オニド」にルビ付きがあります。

■苦しい人生

出ロ直は、1836年(天保7年)旧12月16日、天保の大飢饉のさなかに、福知山の大工、桐村家に生まれました。10歳で父を失い、17歳で綾部の叔母出ロユリの養女となりました。1855年(安政2年)四方豊助(のち出口政五郎)を婿にむかえました。

直の結婚生活は、苦難の連続でした。夫の政五郎は、人の好い腕ききの大工でしたが、大酒呑みの浪費家で、出口家はつぎつぎに田地、家屋敷を手放して没落の一途をたどりました。

直は、47歳で五女すみ(澄)を産むまで、25年間に11人の子を産み、そのうち8人が成人しました。大工仕事のわずかな収入では、とうてい政五郎の浪費に追いつかず、直夫婦は子供たちを住込み奉公や徒弟に出さざるを得ませんでしたが、1884年(明治17年)にはついに一家は破産状態に陥ります。

政五郎は酒のために中風になり、本格的な大工仕事は無理な身体となっていたのです。そこで、まず、直はまんじゅう屋を開きましたが、翌年、政五郎は仕事場で重傷を負い、そのまま寝ついてしまいました。悪いことは重なるもので、大工の徒弟に出ていた長男竹蔵が、仕事のつらさに耐えかねて、自殺をはかり、重傷を負つて帰されて来ました。直は2人の重病人をかかえ、3人の幼児を育てるために、ボロ買いの重労働や糸ひきの賃仕事で生活を支えねばならなかつたのです。

政五郎は1887年(明治20年)に病死し、直は53歳で未亡人となります。子供達も悩みのたねでした。長男竹蔵は、傷が癒えると家をとび出し、かなり後まで消息を絶つていました。次男清吉は、素直な男子だったのですが徴兵にとられました。長女よね(米)は、ばくち打ちの大槻鹿造のもとに奔り、直の怒りを買つて絶縁状態となりました。次女ことは、京都に出奔しました。三女ひさ(久)は、八木の人力車夫の福島寅之助に嫁ぎ、夫婦で金光教の信者となっていました。この久によって、王仁三郎と直が会うわけです。家には、幼い四女りょう(竜)と五女がのこつていました。 

苦労ばかりの生活だった直ですが、夫にはどこまでも従順に仕え、万事に控え目で忍耐強い、封建社会の模範的な女性でした。 

■神がかり

1890年(明治23年)9月、三女福島久は、産後の肥立ちがわるく、逆上してあばれ出し、座敷牢に入れられて、神の幻影を見ます。翌年旧12月には、長女大槻米が発狂します。当時は精神病の医療も欠けていましたから、発狂者が出ると、家族はひたすら世間の眼をおそれ、恥じて座敷牢に閉じこめるのが普通でした。米の狂乱ぶりは、とくにはげしく、人にいろいろ噂をされ、直も毎日悩みつづけました。

このような発狂という環境のもとで、1892年(明治25年)旧正月5日(2月3日)の新暦節分(旧正月十日ともいう)に、直は、突然はげしい神がかりに陥ります。直は、大声をあげ、驚く娘の竜と澄に、「姉(米)のところへ行って、三十六お灯明をあげて、お題目を唱えい」と威厳にみちた態度で命じました。直はこの後13日間、断続して神がかりに陥りました。この何物かは自分は「艮の金神である」と名乗り、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になつたぞよ。この神でなければ世の立替えは出来ぬのじゃ。天理、金光、黒住、妙霊先走り。(とどめ)(うしとら)之金神が現われて三千世界の大洗濯を致すのじゃ。これからなかなか大謨(たいもう)(大きな目的)なれど、三千世界を一つに丸めて万劫(まんご)末代続く神国の世に致すぞよ」という有名な宣言をします。

大本神諭の最終バージョンとでも言える真善美愛亥 三五神諭 その一の一番最初である明治25年旧正月にも収録されている、初発の神諭と同じような内容でしょう。

また、このあたりのことが出口澄のおさながたり二一 霊夢に書かれています。

13日間つづいた神がかりがややおさまると、直は、世を立て替える偉大な神が、自分にかかったことが信じきれず、算易の占い師を訪れたり、法華僧に憑きもの封じの祈祷をしてもらつたりしますが、4月には、福知山の金光教会を訪れました。教会長・青木松之助は、タヌキつきであると言います。

直の生活は、神がかりを境に、大ぎく変わります。幼い竜、澄姉妹も、奉公へ出されます。ひとり暮しになつた直は、紙の行商の途次、神を開こうともします。6月には、2か月足らず、亀岡に糸ひきに行っています。このおりには、金光教のいろいろな教会で神がかりを調べてもらっています。直は、金光教の強い影響下で、宗教者としての歩みを始めることになったのです。

亀岡から帰宅してほどなく、9月には、二度目の神がかりが十日ほど続きました。行商は続けていましたが、深夜、直は神のことばを聴き、さまざまな不思議を見て、神の道へ進んでゆきます。

1893年(明治26年)、初旬には綾部の町で、原因不明の出火が数ありました。直は日ごろ「世界のことを見て、改心いたされよ、いまのうちに改心いたさねば、どこに飛び火がいたそうともしれんぞよ」と、大声で繰り返していたため嫌疑を受けて警察に留置されました。これは、真犯人が分かったので放免されますが、年来の直の神がかりに手を焼いていた婿の大槻鹿造が、警察に願い出て、直を狂人として座敷牢に閉じこめてしまいます。

■筆先

座敷牢の生活は、40日ほど続きましたが、神の命ずるままに、落ちていた釘を拾い、柱に文字を書きつけます。直は、もともと無筆であり、字も読めませんでしたが、柱にはひらがなで文章らしいものが刻まれていました。これが大本開祖・出ロ直の筆先の始まりでした。

大槻は、直の家を売り払うことを条件に座敷牢から出し、自宅へ引き取りました。大槻は、家屋はもとより、直の家財道具類も売りとばし、直の手元には、使い古した石臼と3つ重ねの盃だけが残りました。直は、ふたたびボロ買いに精を出すようになりましたが、病気直しの祈祷もするようになり、「綾部の金神さん」の評判が、しだいに周囲に広まつてゆきます。

■日清戦争

山家村の四方平蔵をはじめ、出口実太郎、西村庄太郎らはとくに熱心で、1894年春には、信者は30人たらずに拡大しました。7月には日清戦争が始まりますが、それ以前に、直は日清戦争の開戦を予言しています。

 6月、直は「(から)ヘ行け」との神命を受け、唐がどこかは分かりませんでしたが、とりあえず亀岡を経て京都に出て、天理教河原町分教会を訪れました。直は、はげしい神がかりに陥り、天理教の教師から「これは狐狸ではない、狗嬪(ぐひん)(天狗の類)だろう」と言われますが、神から「もうよい」との指図があつたので、そのまま綾部に引き返しています。

日清開戦とともに、綾部では、直が日清戦争を予言したということが、町の話題になり、拝んでもらいに来る者が急増しました。10月には、山家村の農民西村文右衛門の神経障害をなおしたのが縁で、直の布教活動は大きく進展することになりました。これが縁で、金光教との関係が深まり、亀岡金光教の大橋亀次郎は布教師の奥村定次郎を直の元に送ってきました。

■金光教奥村定次郎

奥村は綾部ヘ来ると、四方平蔵と協議して、綾部、西原、鷹ノ栖から十一名の世話人を選びました。教会には、何鹿郡長・大島伝一郎の襲座敷の六畳間を月額一円で借り、11月、金光教の天地金乃神と、鬼門(艮)の金神を併祀して広前としました。これが大本教の最初の宗教施設です。世話人たちは、広前の開設費用45円、月の維持費用約10円を分担して負担しました。  

奥村と直の金光教会は、順調に発展し、翌1895年(明治28年)元日には、広前が斜め向かいにある四方源之助のところに移っています。このころから直は、半紙に筆先を書くようになりました。四方平蔵は、ほとんど仮名で綴られた筆先を、渡されるごとに判読していき、直の教えが、しだいにその全貌をあらわしはじめました。

表面的には教会は繁盛しているようでしたが、奥村は直を下女のように扱い、艮の金神も金光教の神「天地金乃神」「生神金光大神」(教祖の神号)よりも下位に併祀されていましたので、直と奥村の間はうまくいっていませんでした。

1895年(明治28年)4月、日清戦争後の近衛師団の台湾“征討”に参加した出口清吉は、台湾で戦病死します。このショックが引き金となったのか、直は、6月、世話人の止めるのも聞かず、奥村に屈従する生活を嫌つて、八木に糸ひきに出かけてしまいました。その後も、奥村の教会には寄り付かず、直のいない教会はさびれてしまいました。

奥村はさびれる一方の教会を投げ出してしまったので、1896年(明治29年)7月、直が戻ると、信者がふたたび集まつて来ましたが、警察が「金光教の先生がいない布教所は許可できない」と干渉して来ました。当時は、宗教は政府に公認された宗派しか布教できなかったのです。(金光教は準公認)

■金光教足立正信

そこで、京都の金光教会は、新たに布教師の足立正信を綾部に送つてきて、直も、金光教のもとで布教をつづけることを、やむなく了承し、東四ツ辻の広前で暮らすことになりました。 しかし、足立も直を使用人同様に使いました。例えば、足立一家は奥座敷で暮らし、直は広前の隅の板の間で寝たくらいです。翌1897年(明治30年)に入ると、足立と直の対立が爆発し、4月、直は、裏町の梅原伊助の倉に移り、ここに艮の金神を祀りました。 

警察は、直のグループに、くりかえし干渉を加えていましたが、形の上にせよ、金光教という背景をもつている直の活動を、頭から禁止することはできませんでした。直は、世話人と信者たちに守られて、梅原の倉に立てこもり、足立と睨みあつていました。こんなところに、上田喜三郎が登場するわけです。


2.喜三郎の初参綾

■福島久

さて、喜三郎は園部への途中、船井郡に入る虎天堰 ( いね ) まで来ると、金光教の祭壇のある茶店があつたので、腰をおろしました。喜三郎は、ひと目で行者とわかる変わつた風態をしていましたので、福島久は「神様のことをする人か、印地(亀岡近郊)の里のタヌキをしらべる人か」と聞きました。喜三郎が「神を見分ける役だ」と答えると、久は、奥から文字を書いた三、四枚の半紙を出して来ました。福島久は、出ロ直の三女で、筆先を、神様のことがわかる人に見てもらおうと、茶店に持って来ていたのです。

喜三郎は、仮名書きの筆先に眼を通すと、世の中が替わること、神がこれまでにしてきたことなどが書いてあるので、みずから抱いていた霊界、神界の姿と共通するものを強く感じました。久は、この若い行者に、「ぜひ綾部へ行つて母に会つてくれ」と頼み、喜三郎は「行つてあげましょう」と答えました。

■初訪問

それから1ヶ月くらいして、1898年(明治三十一年)の10月に、喜三郎は初めて綾部を訪問しますが、足立たちの反対もあり、また喜三郎が稲荷講社であったので、直が稲荷下げの一種だと思い込み拒否反応を示し、2、3日で綾部を去っています。

物語37-4-22 1922/10 舎身活躍子 大僧坊

 喜楽の入綾に先立ち茲に一つの珍話がある。明治三十一年の八月、八木の福島氏に二三回頼まれて、園部黒田の会合所から、はるばると山坂を越え、参綾して教祖に面会し、四方すみ子、黒田きよ子、四方与平氏などの大賛成を得、出口教祖と共に、艮の金神様のお道を広めようとした時、足立氏や中村氏の猛烈なる反対に遭ひ、教祖より……時機尚早し、何れ神様の御仕組だから、時節を待つて御世話になりますから、一先づ帰つて下さい……と云はれて、是非なく園部黒田の会合所へ帰り、それよりあちら此方と宣伝に従事して居た。

■園部近辺での布教

村上重良氏によると、その後は、園部、北桑田郡で霊学会の布教をしていました。この霊学会については、この時期に設立されたかどうかは、霊界物語では分かりません。

霊学会は、稲荷講社本部で学んだ神道教義に基づいて、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビのいわゆる造化三神を祀り、忠孝の国民道徳を説いていましたが、実際の布教活動は、病気なおし等の現世利益や神がかりの修行が主軸であつたといいます。このときのエピソードが舎身活躍子 大僧坊舎身活躍子 海老坂に書かれています。

また、喜三郎は当時の布教で金光教と対立していたという話もあります。

■出口直への親書

明治32年2月10日に、喜三郎は出口直に親書を送っています。  書簡PDF

下記のように、「(たて)(よこ)」、「瑞能御魂(みづのみたま)厳能御魂(いづのみたま)」という言葉を使っているところが興味深いです。これは、後に大本の教えの根幹になります。

織機(はた)(たて)糸と(よこ)糸とに由りて初めて織り上がるなり。

瑞能御魂(みづのみたま)
と現われて、厳能御魂(いづのみたま)の宿らせ玉える開祖刀自の御許に、赤心を書き送り()べる。

3.綾部入りと金明霊学会

■四方平蔵の迎え

出口直の意を受けて四方平蔵が喜三郎を園部まで迎えに来たのは1899年(明治32年)7月、喜三郎29歳(満27歳)のことでした。四方は扇屋旅館で喜三郎と懇談しました。四方が来ることは、事前に手紙で知らされていたので、喜三郎は、稲荷講社本部に手紙を出して、綾部での活動の許可を求めていました。二日後の7月3日朝、喜三郎と四方は、ひどい雨のなかを綾部に向けて出発し、午後3時過ぎに到着しました。

■7月3日

3日の夕刻には、稲荷講社本部から、直を中監督(五等役員)、四方を少監督(七等役員)に任命するとの辞令が届きました。直は、四方の尽力に深く感謝し、「平蔵殿、おん手柄」との筆先を記して渡しました。

出口澄が喜三郎に会ったのはその夕方のこと(引用文赤字)で、幼ながたり 二五 不思議な人に感想が書かれていますが、この文章は、王仁三郎の姿を写しているようで(引用文緑字)、興味深いので紹介しましょう。

 明治三十二年の梅雨もそろそろあけかける頃のことでありました。私は大原のお茶よりの仕事がすんで、裏町の教祖さまのもとに帰ってきました。
 そのおり私は、不思議な人を見ました。その人は年齢は二十七、八ぐらい、男のくせに歯に黒くオハグロをつけ、もうそろそろ夏に入ろうとするのに、お尻のところでニツに分かれているブッサキ羽織というものを着て、ボンヤリ縁側から空を眺めていました私は変わったその姿をみながらも何処かで一度見たことのあるような気がして来ました。「安達ガ原」という芝居に出てきた、お公卿さんの姿の貞任に、そっくりの感じでした。
「うちに来ている人、芝居の貞任にそっくりやなア」
 これが、初めて会ったときの、先生に対する印象でした。(註 私は夫─王仁三郎師─のことを、昔から先生、先生と呼び慣れてきました)
 先生の様子は、本当に変わっていました。暇さえあれば、いつもボンヤリ空や、星ばかり見ている人でした。また、冬に単衣ものを着せても、夏に袷を着せても、知らん顔をしていましたし、紐のしめ方一つにしても、一回キュッとしめるだけで、下に長くブランと紐の端をぶら下げたまま、少しも気付かぬ様子でした。
 ある日、教祖さまが私を呼んで、
「おすみや、お前はあの人の嫁になるのやで、そうして大望の御用をせんならんのや、神様がいつもそう私に言われるのや」
とおっしゃいました。しかし私は教祖さまに、そう言われましても、とりたてて別に、どう気持ちの動くということもありませんでした。
 私の気性としては、どちらかというと、気の利いた、サッパリと男らしいような人が好きでしたが、そうかといって、先生に対する私の気持ちは、別に嫌いということはありませんでした。
 ある時、私が使いに行きまして、町を歩いていますと、向こうから先生のやって来るのが見えます。よいお天気ですのに高下駄を履き、コーモリ傘をさして、しかもその傘のさし方がモッサリしたさし方で町の家並みの軒先を一軒一軒、じいーと、表札でも見るような恰好で、のぞきもって歩いて来ます。「何をしているんじゃろ、この人阿呆かしらん、きっと私の来るのが判らんやろう」とそう思いながら近づきますと、やっぱり知っていたとみえて、
「アヽ、おすみさんですかあ……どこ行きなはるう……」
と間のびした声で呼びかけました。

 一面そうではありましたが、神様のことや、霊眼などの霊覚については大したものだと、みんなが噂しておりました。私はその頃、家にブラブラしておりましたので年頃の娘なみに、京か大阪へ家を飛び出して、奉公でもしに行こうかと、ひそかに思っていました。田舎者なので京や大阪というと、大そう珍しく、華やかなところというように憧れを抱いていたのです。そんなことを考えていましたが、あの人は眼をつぶると、十里先、百里先の出来ごとでも、手にとるようにわかるということだ、すると、いくらコッソリ抜け出しても、スグ見つかってしまうと思い直してやめたことがありました。
 そうした先生に対する私の気持ちは、前と大して変わることなく、嫌いではないが、別に好きになるというところまでは行きませんでした。しかしおだやかな、温か味のある、何だかぬくい感じのする人だとは、何時も思っていました。

■金明会の組織

喜三郎は、ただちに組織づくりに着手して、直を教主、喜三郎を会長、足立を副会長とし「金明会」を組織しました。役員の中には足立を排斥する空気がありましが、喜三郎は足立との合作を強く主張したのでした。

7月5日に、広前を世話掛の中村竹蔵宅に移転。10日の遷座祭で、大本教の十曜(とよう)の神紋が定められましたた。喜三郎は、稲荷講社の指示で、金明会を「金明霊学会」と改め、8月1日付で本部の認可を受けました。

金明霊学会」については、村上氏、上田正明氏は改称したと書いていますが、出口和明氏によると「霊学会を設置した」とあります。霊界物語では金明会という名前で出てきますので、ここでは、金明会、霊学会の二つの組織(実態は同じ組織の二つの名前)があったとしておきます。

この金明会は、組織上は、直、喜三郎、足立と四方ら世話掛の寄り合い世帯であり、その教えの主眼は、筆先に示された艮の金神による世の立替え立直しに置かれていました。信者は、当時は200名にも足りなかったのですが、これが大本教の旗あげでした。

この間の経緯は、舎身活躍子 参綾に書かれています。また、幼ながたり 三 天眼通にも、出口澄の目を通してみた当時のことが書かれています。


4.上谷での霊学修行

■幽斎修行の開始

喜三郎は8月には山家村鷹ノ栖の四方平蔵宅と四方祐助宅で幽斎の修行を開始しました。その後修行場は上谷(うえだに)に移ります。上谷での幽斎の修行には、信者20余人が参加しましたが、17歳の四方春三をはじめ、黒田きよ、塩見せい等、発動する者が続出するようになりました。

その間、喜三郎は、四方平蔵とともに静岡県へおもいていますが、その留守中、上谷の修行場では、ほとんどの修行者が手のつけられない神がかりの状態に陥り、なかでも福島寅之助は、「丑年生まれの寅之助で、丑寅の金神だ」と叫びつづけ、喜三郎が戻って、ようやく静めることができました。

これらの神がかりは、すべて邪神の神がかりであったと、霊界物語では書かれています。このあたりの経緯は、舎身活躍子 神助舎身活躍子 妖魅来に書かれています。足立も反旗をひるがえし、金明会は四分五裂になってきたといいます。

■祖母の危篤

上谷で苦心しているときに、穴太から「老母危篤すぐ帰れ」という電報が来ます。穴太に帰ると、祖母は「すぐ綾部に戻り、道のためにつくせ」と言いますが、親戚一同が許しません。しかし、奇跡的に祖母が平癒して、喜三郎は弟幸吉を連れて綾部に戻ります。  38巻、舎身活躍丑 帰郷舎身活躍丑 誤親切

■邪神の憑依

上谷に戻ると滅茶苦茶な状態が続きます。38巻、舎身活躍丑 三人組舎身活躍丑 曲の猛に詳しく書かれていて、舎身活躍丑 火事蚊では次のように書かれています。

物語38-1-7 1922/10 舎身活躍丑 火事蚊

今日の大本へ修行に来る人間は、大部分中等や高等の教育を受けた人が多いから、此時のやうな余り脱線的低級な霊は憑つて来ない。が大本の最初、即ち明治卅二年頃の神懸といつたら、実に乱雑極まつたもので、丸で癲狂院其儘の状態であつた。其上邪神の奸計で、審神者たる者は屡危険の地位に陥る事があつて、到底筆や口で尽せるやうな事ではなかつた。

上谷での修行者は金光教の人間が多かったから、憑霊は金光教の神の名前をかたったそうです。上の引用文の今日は大正11年10月。大正11年の時点でも、王仁三郎に対する反抗は止むことはありませんでした。


5.出口澄との結婚

■神の意思

喜三郎が綾部入りしてすぐ、筆先に「二代の世継は出口澄」と出ていますし、「喜三郎を世継とする」とも出ています。これらは何度も出ていたようです。

直は、艮の金神を世に出すために役立つた喜三郎の活動と稲荷講社の存在を大いに徳としていましたが、神がかりをすると喜三郎の神をはげしく非難し、喜三郎も大声でやり返すのが常でした。神がかりが去ると、二人は何事もなかつたように談笑していましたが、直は、喜三郎と自己の行き方には本質的に相容れないものがあると感じていたのではないでしょうか。しかし、直は、筆先の神命にまかせます。

■幹部の暗躍

幹部の中では、足立正信、中村竹造、四方春三が大本に養子に入ろうと暗躍していました。足立、中村は妻帯者であったので、妻を離別してでも養子になろうとしていたのでしょう。 38巻舎身活躍丑 三ツ巴

村上氏によると次のような状況でした。

 幹部のなかでも、次男の戦死後、跡とりをもとめているナオの信用をかちとつて、出口家に入ろうとしていた中村竹蔵や四方春三は、ひとり者の若い喜三郎の登場を敵視していたし、足立は、喜三郎を追放して金光教へ復帰しようと考えていた。中村、四方、足立らは、ひそかに反喜三郎の同盟を結んだ。上谷の修行場では発動者があばれまわり、弁当もちで村人が見物に来る有様なので、ニヵ月ほどで上谷を引きあげざるをえなかつたが、神がかりを体験して、喜三郎の追放運動に自信をもつようになつた四方春三らは、神のことばに託して喜三郎を攻撃しはじめた。
 足立は、静岡県まで出かけて長沢を訪れ、「喜三郎にかかつている霊は金毛九尾のキツネで、駿河国からこの会を奪うために遣わされた者だ」と触れまわったという。

■吉崎仙人

また、38巻舎身活躍丑 吉崎仙人では四方春三には盤古大神が憑いていると書かれています。吉崎仙人については次の文章が重要ではないでしょうか。

物語38-1-2 1922/10 舎身活躍丑 吉崎仙人

其仙人の書いた筆先は、大本の教祖のお筆先と対照して見ると、余程面白い連絡がある。其筆先の大要は先づザツと左の通りである。
『今日迄の世界は、吾々邪神等の自由自在、跳梁する世界であつたが、愈天運循環して、吾々大自在天派の世界はモウ済んで了つたから、これからは綾部の大本へ世を流して、神界の一切の権利を、艮の金神に手渡しせなくてはならぬ』
といふ意味の事が沢山に書いてある。又出口教祖の古き神代からの因縁などもあらまし書き現はしてある。

■澄の霊力

38巻舎身活躍丑 稍安定では澄の霊力で、邪神がおさまり、金明会内部がやや安定したことが書かれています。喜楽は喜三郎です。

物語38-2-9 1922/10 舎身活躍丑 稍安定

一同は一生懸命に喜楽の前に立ち塞がり、両手を組んでウンウンと力一杯息をつめ鎮魂で縛らうとしてゐる、其可笑しさ。何程ウンウンと気張つても喜楽の体はビクともせない。一同は一生懸命になつて益々ウンウンを続けて居る。そこへ澄子が現はれてウンと一息呼吸を込めて睨むと、二十余人が一時にバタバタと将棋倒しになり、身体強直して動けぬ様になつて了つた。足立、中村、四方春三の三人は顔色を蒼白に変じ、許しを乞ふ事頻りであつた。澄子は只一言、
澄子『改心すれば許す』
と言つた言霊の妙用忽ち現はれ、一同は元の体に帰つた。

■結婚式

このような反対運動がありましたが、1900(明治33年)旧元日、満29歳の上田喜三郎は直の五女で18歳の澄と結婚しました。式は東四ツ辻の広前で挙行され、四方平蔵が媒酌人をつとめました。澄は喜三郎を別にに好きでも嫌いでもなかったと「幼がたり」で記しています(3で引用)。喜三郎は結婚後も上田姓のままで、戸籍上出口姓となるのは、1910年(明治43年)12月のことです。

喜三郎排斥に失敗した足立は、翌月、金明会から身を引いて浜松に去りました。


6.出修

喜三郎が澄と結婚した1900年(明治33年)から翌年にかけて、直は、家族と幹部を従えて、一連の出修と呼ばれている旅行を行っています。

■冠島・沓島開き

1900年(明治33年)7月には冠島開きを行っています。30歳のことでした。

直は、喜三郎、四方平蔵、四女竜の夫木下慶太郎を従えて、丹後半島沖の日本海に浮かぶ無人の小島・冠島に渡りました。島には漁民の神、老人(おびと)島明神が祀られていました。この模様は、舎身活躍丑 冠島に書かれています。

つづいて8月には、直は一行9人で、無人島の()島に参拝した。一行はまず冠島で、木下以下4名を降ろして、直、喜三郎、澄、四方平蔵、福島寅之助の5名が沓島に向いました。危険をおかして島へ上陸して、高所にある平たい岩に、運んできた小祠を建て、国常立尊、竜宮の乙姫、豊玉姫、玉依姫を祀りました。 舎身活躍丑 沓島

豊玉姫、玉依姫は、記紀では、海神の姉妹なのですが、神武天皇の祖母と神武天皇の母です。霊界物語でも大きな働きをしていますので、解明が待たれるところです。

8月、他の幹部が沓島参拝を企てます。激浪にあい沈没の危機を喜三郎持っていた本田親徳の巻物の神力で助かったのですが、この参拝には喜三郎を亡き者にしようという計略があったといいます。 舎身活躍丑 怒濤

また、8月には筆先に「出口おに三郎」と出ています。役員達は「おに」に「鬼」の字をあてて鬼三郎と言いました。喜三郎自身も穴太で昔無意識に鬼三郎と署名したことを思い出します。これが王仁三郎の名前のもととなります。

■鞍馬山出修

同じく、1900年(明治33年)8月には、穴太の義弟西田元教が呪い釘で呪われ奇病となりそれを直しています。  舎身活躍丑 呪の釘

穴太から帰ると、役員会議で喜三郎の排斥が決定されており、喜三郎の荷物がまとめられていましたが、直の一言で、鞍馬山に行くことになります。 舎身活躍丑 旅装

この経緯は村上重良氏によると次のようなものです。

この留守中に、幹部のあいだでは、会長の喜三郎を追放して四方春三を会長にする謀議がすすめられていた。
 喜三郎が綾部にもどつてみると、所持品のいつさいが、荒縄でからげて投げ出してあつた。クーデターの意思表示である。喜三郎は大いに憤激し、ようやく四方平蔵の謝罪で、事がおさまつた。

鞍馬山へ旅立ったのは10月のことでした。直は、喜三郎・澄夫妻と四方春三のみをともない、他の幹部たちには、随行を許しませんでした。一行は途中で待ち受けていた福林安之助を人足として加えると、八木から汽車で京都の花園まで出て、鞍馬山に登りました。ここで四方春三が、恐しい体験します。そして、この出修を境に、体力も気力もにわかに衰え、1ヶ月ほど後に19歳の若さで病死してしまいます。  舎身活躍丑 鞍馬山(一)  鞍馬山(二)

また、11月には広前に初めて神代造りの新宮をつくっています。大本の最初の神殿造営でした。

■元伊勢

1901年(明治34年)4月には元伊勢、水の御用を努めています。元伊勢は、丹波の加佐郡にある古社で、天照大御神を祀っている。ここの禁制の水を汲んできて、幹部の井戸に注いだ後、丹後沖の竜宮海に注いでいます。 舎身活躍丑 元伊勢

なお、丹波には元伊勢として有名なところに、籠神社がありますが、今回の元伊勢は違う場所です。ただし、籠神社は冠島・沓島と関係してます。また、出口家とも血縁的に関係があるようですから、大本とは大きな関係があると思われます。

また、同4月には穴太の上田家全焼して、家族が綾部に来ることになります。あまり良い扱いは受けず、1902年には園部へ、そして穴太へ帰っています。  舎身活躍丑 呪の釘

■出雲

1901年(明治34)7月には出雲、火の御用が行われています。  舎身活躍丑 金明水

直は大社に特に願って、消えずの神火、御饌井の清水および社殿下の土をもらいうけ綾部に帰着しました。神火は後に天に預けるとして、ろうそくに移されました。また神水は敷地内の井戸に注いで、元伊勢の水と一緒にされ金明水と名前をつけられました。


.弥仙山ごもり

■直の変化

出雲への出修のころから、直の喜三郎に対する態度がきびしくなりました。霊界物語では次のように書かれています。

物語38-5-28 1922/10 舎身活躍丑 金明水

出雲参拝後は教祖の態度がガラリと変り、会長に対し非常に峻烈になつて来た。そして反対的の筆先も沢山出るやうになつて来た。澄子が妊娠したので、最早会長は何程厳しく云つても帰る気遣はないと、思はれたからであらうと思ふ。それ迄は何事も言はず何時も役員が反対しても弁護の地位に立つて居られたのである、いよいよ明治卅四年の十月頃から、会長が変性男子に敵対うといつて、弥仙山へ岩戸がくれだといつて逃げて行つたりせられたので、役員の反抗心をますます高潮せしめ、非常に海潮、澄子は苦心をしたのであつた。それから大正五年の九月九日まで何かにつけて教祖は海潮の言行に対し、一々反抗的態度をとつてゐられたが、始めて播州の神島へ行つて神懸りになり、今迄の自分の考が間違つてゐたと仰せられ、例の御筆先まで書かれたのである。

■静岡行き

さて、金明会への警察の干渉は、日増しにひどくなり、広前の前に巡査が張り番に立つほどで、そのために信者も減っています。取締りの強化に対抗するため、喜三郎は、稲荷講社の線で皇道会という法人組織をつくることを計画し、1901年(明治34年)10月静岡ヘおもむきます。

■山籠もり

これを知って激怒した直は、喜三郎の出発4日後の10月19日、綾部の東北方にある弥仙(みせん)山のヒコホホデミノミコトを祀る神社に籠もつてしまいました。

喜三郎が綾部に戻ると、またもや追い出そうと荷物が片付けてあって、警察が直を拘引しようとしていました。喜三郎は、社寺の女人結界を禁止した明治四年の太政官布告などを楯に反論し、なんとか逃れました。 舎身活躍丑 思ひ出(一)

■暗殺の危機

また、この時期に、上谷の近くの地獄谷で暗殺の危機に合います。舎身活躍丑 思ひ出(二)では、この他に、便所から逃げ出したことも書かれています。


.長女誕生と雌伏の日々

■朝野誕生

1902年(明治35年)3月には長女出口朝野(三大・出口直日)が出生します。この時には、喜三郎は園部に宣教に出かけていました。舎身活躍丑 日の出によると、次のような事情になっています。

物語38-5-26 1922/10 舎身活躍丑 日の出

 明治三十二年の夏、上谷の修行場にて幽斎修行の最中審神者の喜楽に小松林命神懸せられ、
『如何なる迫害や圧迫があつても綾部を去つてはならぬ。兎も角明治卅五年の正月十五日までは綾部で辛抱をせよ
とのお諭しであつた。それで喜楽はあらゆる迫害と侮辱を隠忍して卅五年を待ちつつ、神妙に神様の道を修行して居た。愈卅五年正月十五日が来たので、
喜楽『今後如何しませうか』
と伺つて見た所、
明日の朝からソツと園部の方面を指して行け
との神示が降つたので軽装を整へ、只一人澄子に其意を告げ布教伝道の途に上つた。澄子は初めての妊娠で已に臨月であつた。何時出産するかも知れない場合である。自分も大変に初めての子の出産であるから気にかかつて仕方がない。けれども一旦神様に任した身の上、妻の為に神務を半時でも疎にする事は出来ぬと決心し、夫婦相談の上出立したのである。

また、直が疱瘡を拒んだため、罰金を払った事件がありました。 舎身活躍丑 思ひ出(三)

出口澄は娘の出産のことを次のように語っています。  四 直日のこと

喜三郎と澄との結婚で落ち着いた日々は少しだけだったようです。  五 夫婦らしい暮しの日

■大阪宣教

喜三郎は3月一旦子供を見に帰りますが、直や幹部に文句を言われます。家族がそろつて弥仙山に参拝し、頂上の宮で岩戸開きの神事を行なっています。しかし、また5月に園部に出かけ、大阪にまわり、9月頃に京都で人造精乳会社を起しています。  

■焚書

外遊をしていた時に、幹部が訪ねてきて仕事を邪魔したため、11月頃綾部に戻ります。この綾部を留守にしている間にに、これまで喜三郎が書いていた書物、500冊が焼かれていました。その際、「神」の字だけは焼くわけにはいかないと一々切り取ってあり、みかん箱何杯にもなっていたと言います。

これ以後、離れの6畳に蟄居して、古典を研究したり著作をして、明治38年の8月まで、綾部に腰を据えて、時を待ったとあります。

これまでの経緯は、舎身活躍丑 日の出に書かれています。


.日露戦争

1904年(明治37年)2月、日本は、旅順港奇襲と仁川上陸によつて帝政ロシアと開戦しました。

■信者の減少

日露戦争をはさむ数年、教団は信者が減ってどん底の苦境に落ち込み、出口家の生活も逼迫して、三度の食事にもこと欠く有様でした。直が、食用にカシの実を拾つて来て、わずかに飢えを凌いだこともあり、筆先を記す半紙や筆墨も買えない日が続いていました。直をはじめ幹部たちは、縄ないの手仕事をしたり、人夫に出て、かろうじて生計をたてていました。

■大本内部の様子

直の筆先にロシアとの戦争が書かれており、この戦争を立替へ立直しだと考えた日露戦争時の大本の幹部の様子は、舎身活躍丑 凄い権幕舎身活躍丑 難症などに書かれています。

■著作など

1904年(明治37年)5月には二女出口梅野が出生しています。また9月には上田王仁三郎と改名しています。この時期は、王仁三郎は雌伏の時期で、この時期の著作は後まで残っています。明治36年7月 『筆のしずく』、明治37年1月『本教創世紀』、明治37年5月 『道の栞』、1905年1月 『道の大本』などです。

これらの著作は、後に神霊界で発表されたバージョン、または元の原本から起こしたものが出口王仁三郎著作集(1)出口王仁三郎著作集(2)出口王仁三郎著作集(5)で読むことができます。

■北桑田宣教

霊界物語では明治37年に、澄の姉の竜の助けで、綾部を抜け出し、北桑田へ宣教に行ったとあります。この部分が霊界物語の2巻の言霊別命が夜具のトンネルを残したシーンと重なっているようです。  舎身活躍丑 思ひ出(三)

■直の沓島ごもり

日露戦争下の1905年(明治38年)5月、直は十日間の沓島ごもりを行ないます。これは、直の“とどめの行”すなわち最後の出修で、前月、神示を受けた水行を廃したのにつづく、世に落ちている元の神を表に出すための最後の荒行でした。島では、直がロシアのスパイと間違われ、一騒動ありました。  舎身活躍丑 禁猟区


10.布教の旅と皇典講究所

■布教の旅

直と教団幹部から圧迫されて雌伏していた王仁三郎は、意を決して綾部を去り、布教の旅に出ることにしました。1905年(明治38年)3月、王仁三郎は、綾部をあとに園部、亀岡の信者宅を泊り歩き、さらに嵯峨に出て、京都一帯の信者の家をまわつて布教しましたが、綾部から追つて来た幹部の妨害をうけ、綾部に戻らざるをえませんでした。   舎身活躍丑 仇箒

9月には、ふたたび宇治に出かけて布教しました。王仁三郎は、年を越すと、二月から質美におもむき、この地に半年間とどまつて、綾部の生活からますます遠ざかつたのです。  舎身活躍丑 狐狸狐狸

■皇典講究所入学

綾部の窮境を体験し、京都近辺で布教の旅を重ねていた王仁三郎は、京都の一条烏丸に皇典講究所の分所が設置され、神職養成機関として学生を集めているのを知ります。王仁三郎は今後の身のふりかたを考えていたので、神職の資格を得て、他日を期そうと考えました。

そこで、王仁三郎は、1906年(明治39年)9月皇典講究所の国史・国文科(翌年から教育部と改称)に入学しましたた。興味深いのは、公式には2年間の修養期間でしたが、その高等科(二年)に2学期から途中入学して6ヶ月で卒業しようとしたのです。

エピソードとして、王仁三郎は、綾部で妻子に別れを告げて、わずか五銭を懐中に京都へ向かいましたが、澄とともに途中まで送つてきた朝野、梅野の両女児に、二銭で菓子を買つてやり、残りの三銭だけで出立したといいます。

王仁三郎は、朝野菜の行商をして生活費をかせぎ、昼からは熱心に勉学したといいます。11月には、科内の文芸クラブ秋津会の幹事になり、月刊誌「このみち」の主筆となつて、健筆をふるいました。王仁三郎は半年後の1907年(明治40年)3月、京都府皇典講究分所教育部を、かなりの好成績で卒業しました。  辻説法  何よりも楽しみ  角帽の階級打破  卒業試験答案  うかれある記  このみちの記事  妻への思い

この時期のことは霊界物語には書かれていません。裁判記録では大本祝詞をこの時期に卒業論文の代わりに作ったと言っています。裁判記録1  裁判記録2  


11.建勲神社と御岳教

■神職資格

卒業後、京都府の神職尋常試験がありました。王仁三郎は、これに第一号で合格して神職の資格を得ました。また、好成績であったので三等司業を授けられました。

■建勲神社

1907年(明治40年)5月、別格官幣大社建勲神社主典となりました。この神社は京都にある織田信長を祀る別格官幣社で、当時は神道は国家の管理の元にあったので、下級宗教官僚で手当金三十円という比較的めぐまれた待遇でした。しかし、王仁三郎は自分の布教活動を行っていて、信者が神社を訪ねてくるようになり、神社に居づらくなります。

この当時の事情は、舎身活躍丑 難症の後半と舎身活躍丑 雑草の前半に書かれています。

■御嶽教

そこで、12月には建勲神社を辞し、伏見の御嶽教西部教庁の主事となりました。この御嶽教西部教庁というのは伏見稲荷のことです。

御岳教は、明治初年、東京浅草の油商で御岳行者の下山応助が組織した御岳教会に始まる木曽御岳信仰の宗教で、教派神道の独立教派の一つでした。御岳教では、かねてから王仁三郎の説教上手と病気なおしの実績を知つていて、神職をやめたのを機に、教団幹部として招いたのでした。

御岳教は公認宗教であり、しかも国常立尊を祭神としていることから、王仁三郎も、同教の系列に属して合法的に皇道霊学を広めようという大きな抱負をもつて、教団入りをしました。王仁三郎は中教正に任ぜられ、翌1908年(明治41年)3月には、御嶽教大阪大教会長として、生玉御岳大教会詰めとなりました。

御岳教時代のことは、舎身活躍丑 雑草の後半に一部書かれています。

この時代で重要なことは、王仁三郎の真の弟子が現われてきているということだと、出口和明氏は語ります。

「十年目の弟子」湯浅仁斎が王仁三郎を訪ねています。王仁三郎の妹のの縁談の取り持ちでした。湯浅は王仁三郎が留守の間に、王仁三郎の著作を読み入信を決意したと言います。和明氏は「教義に触れて大本に入信したのは湯浅が始めてであったろう」と言っています。

1908年(明治41年)3月17日(旧2月15日)、神宮管長の口を借りて、高熊山修行完成の10年目、御嶽教を去り綾部へ帰るよう、神示が出されます。そこで、翌18日には、綾部に帰ることにしました。だだ、御嶽教については、代わりの人が見つかるまで、綾部と伏見を往復しつつ仕事をすることで同意していました。(出口和明氏

このあたりは、村上重良氏は、この神示の話は出さず、違った書き方をしています。

王仁三郎は、御岳教に入ると、信者たちとの連絡をいつそう密にするとともに、綾部での布教活動を合法化するために、苦心を重ねた。六月には、綾部に御岳教大本教会を設催して京都の御岳教教師・中村保次郎を受持教師とした。王仁三郎は、このおりに御岳教理事にのぼった。教団が、「大本」の教名を用いるようになつたのは、明治三十年代末からのようであるが、正式にこの名称が用いられたのは、御岳教大本教会が最初であつた。これと並行して、王仁三郎は教派神道の大成教にねがつて、綾部に大成教直轄の直霊教本院を設置した。こうして当時の大木教は、活動を合法化するために、やむなく稲荷講社、御岳教、大成教にそれぞれ所属するという復雑な形をとることになつた。

御岳教での王仁三郎は、同教がもともと修験道に立つ山岳信仰の講社の連合体であり、各講の先達の行者が教団幹部を占めていたこともあつて、教団経営者としてめぎめき頭角をあらわした。九月には、同教大本庁理事、教師検定委員、評議員、大阪府教区庁長と重職を兼ねることになつた。御岳教管長・神宮爲寿は、王仁三郎の活動ぶりを見て、一夜、神前によび、「君は天理教における中山新治郎(初代真柱)の地位にあるものなれば、帰りてナオを困窮より救うべし」と諭したという。やがて王仁三郎は、御岳教の内部の無気力な空気につよい不満をもつようになり、同年十二月には、御岳教を辞任して綾部にもどることになる。

この時期から12月に辞表を出して完全に綾部に戻るまでは、出口和明氏は綾部が中心、村上重良氏は御岳教が中心ということになります。

今は、どちらが正しいかは決められませんが次のようなことは言えるでしょう。

王仁三郎は、綾部では、ほとんど力を発揮する余地がありませんでした。御岳教の幹部となつた王仁三郎は、魚が水を得たように、教団経営に才腕をふるい、教団内での役職が稀にみる速度で累進しています。公認宗教で関西をはじめ中央の宗教界に多くの友人、知己を得たことも、後年のための貴重な収穫でした。


12.大日本修斎会

■綾部と御嶽教

綾部の現状はひどくさびれていました。出口和明氏によると、「この時点でともかくも信仰を続けていた役員信者は、子供までふくめてわずかに49人」という状況で、生活の困窮はたいへんなものでした。

物語38-2-12 1922/10 舎身活躍丑 思ひ出(三)

幹部の連中は立替立直しは三十七八年の日露戦争だと誤解して居たのだが、さうでなかつた為に、一人減り二人減り、野心家の中村竹蔵は死に、四十二年頃には教祖様の外には四方与平、田中善吉のみが残つて、後は皆ゐなくなつた。モウ大丈夫と考へたから自分も帰つて来て、熱心に布教に従事し、今日の大本の土台がだんだん出来て来る様になつたのである。

1908年には3月に綾部に行き、湯浅斎次郎(仁斎)が綾部を訪ねています。そして妹君が、宇津の小西松元の息子小西増吉と結婚しています。この湯浅斎次郎は宇津村の地主で材木商を営む妙霊教会信者で王仁三郎を財政的に後援することになります。

8月には金明霊学会を大日本修斎会と改称、9月には最初の機関紙「本教講習」創刊するなど着々と準備を開始しています。

そして、1908年(明治41年)12月には正式に御嶽教を辞し綾部へ帰っています。これについては、出口和明氏は最初の約束、村上重良氏は次のように言っています。

九月には、王仁三郎はさらに御岳教での役職があがつたが、大日本修斎会のほうで、教派神道をはげしく攻撃している王仁三郎にとつては、御岳教ヘの関心はうすれる一方であつた。十月、中村受持教師が王仁三郎の言動を御岳教の教理に背反していると批判したことから、御岳教大本教会は綾部におくことができなくなり、宮津に移された。翌月、王仁三郎は御岳教に辞任を願い出て受理され、十二月、名実ともに綾部に帰参した。

■再建への道

大日本修斎会は、金明霊学会のように経費を役員が負担する制度をやめ、全会員に会費納入と機関誌等の購読を義務づけて、教団の経費に充てた新しいものでした。

1908年(明治41年)12月8日には、大成教直霊教会の開教式と大本秋季大祭があわせて行なわれ、約百名の参拝者がありました。王仁三郎が綾部に戻り、教勢は回復のきざしを示しはじめたのです。しかし、会の財政は、あいかわらず困難をきわめていました。

しかし会員の増加は、会の活動の規模拡大になかなか追いつかなかつたし、湯浅の出資を加えても、財政はきわめて苦しく、王仁三郎は、資金の調達に走りまわらなければなりませんでした。

警察の干渉を避けるためには、公認教の力を借りるしかなく、教会では、大成教の祭壇を広前の階下におき、階上に大本教の神を祀つて警官の眼にふれぬように配慮したこともあります。機関誌「本教講習」は、警察の圧迫のため、四回発行しただけで、12月には廃刊のやむなきにいたつています。

直霊軍

1909年(明治42年)に入ると、活動はにわかに活発となり、2月には機関誌「直霊軍」が創刊されました。月刊8ぺージ建てでした。

「直霊軍」は王仁三郎が執筆し、直の筆先を四回にわたつて連載しています。筆先は世の立替え立直しをうつたえていました。

「直霊軍」の発行部数は、8月には1500部に達し、この発展に対応して組織が改組され、斎務、講究、伝導、会計、起業、出版、造営、内事、庶務、救護の各部が置かれています。

裁判資料では、この時期の思想が分かりやすく述べられています。筆先の掲載については言葉をにごしています。

問 直霊軍、敷島新報の発行の目的は、どう云ふ点に、あるのか。
答 私は御嶽教に居りました時に、御嶽教で矢張り機関紙を出して居た。それで直霊の霊、直霊の霊と云ふことは極く良い魂であります。
問 発行の目的はどう云ふ点にありますか。
答 それは教を拡げる為めに……。
問 大本の?
答 所謂日本の道を──古事記、日本書紀、にあるのを綜合して、其の精神をこめて、又教祖の言ふて居る教も一緒くたにやつたのです。教祖の教を拡げる為めに、又、日本の教もそれを知らすと云ふ意味やつたのです。
問 出口ナカの筆先は是等の機関紙に掲載したやうなことはなかつたか。
答 それはありまへぬ、其の機関紙にはないと思ひます。
問 ないと思ふか。
答 はい、あるかも知れませぬけれども、余りはつきり覚えて居りませぬ。

大日本修斎会

大日本修斎会については、大本の機関紙『神霊界』に「大日本修斎会創立要旨」という記事があります。また『直霊軍』に載せられた「皇道研究の趣意」でも、会の趣旨が触れられています。しかし、非常に難しく、裁判で語っている程度でよいのではないかと思います。

霊界物語のストーリーでも大日本修斎会が出てきます。この場面は、王仁三郎に擬していると考えられる国依別(卑族)が素盞嗚尊の娘(貴族)と結婚を勧められて断っている場面です。

物語32-4-22 1922/08 海洋万里未 橋架

『から買ひも豆腐買も、厄介も喧嘩買も、法螺貝もドブ貝も心霊研究会も、大日本修斎会も、議会も日本海も皆目ありませぬワイ。正真正銘の偽りなきあなたの御言葉、国依別、実に光栄に存じます。併しながら貴族と卑族との結婚は提灯に釣鐘、釣合はぬは不縁の元ですから、要らぬ苦労をさせずに、どうぞ体よく断つて下さい』

■教勢の伸張

1909年(明治42年)には、本格的な神殿を創建することになり、八月に斧始祭、11月22日、弥仙山より神霊を迎えて、神殿竣成式と遷宮式が行なわれました。このときから八雲琴が使われるようになったといいます。

神殿造営にあたつては、後に大本教の最高幹部の一人となつた梅田常次郎(信之)をはじめ、当時、入信して間もない信者たちから、多額の献金が寄せられました。神殿竣成式の翌日、大本秋季大祭が行なわれ、京阪地方をはじめ各地から参拝者が集まつて、かつてない盛況を呈したようです。この梅田は、第二次事件の際、起訴になっておらず、裁判で弁護士から「出口遙、梅田信之、中野岩太には特別の事情があったのか」と問われています。

1910年(明冶43年)には、京都府下では九つの支部があり、兵庫県でも宣教が始まりました。同年8月、山陰線の京都・綾部間が開通しています。

当時の大日本修斎会は、特別賛助会員約100名、会員約1万名を公称していましたが、やはり財政的には行き詰まつていました。会員の実数は公称数の1割にも達していなかつたようで「直霊軍」の大半は、結果的には、宣伝用の無料配布というのが実状だったようです。

1910年(明冶43年)6月、「直霊軍」は第十四号で一時休刊してしまいます。


13.教勢伸張

■出口家との関係

結婚したのは1900(明治33年)旧元日、満二十九歳でしたが、正式に出口家への養子手続きを終え、出口王仁三郎と改名するのは1910年(明治43年)12月で40歳のことでした。1911年(明治44年)1月にやっと、出口澄との婚姻届を提出し、同年11月に出口直が隠居、王仁三郎が戸主となって出口家を相続しています。

これは当時の戸籍法では、戸主が他家の養子となることは不可能であったためで、上田家から隠居して、出口家に養子縁組の手続きをしています。

■会員数2万人へ

出口家の戸主となった1910年(明治43年)12月には、王仁三郎は大日本修斎会では会長という地位で、すでに大本教の中心的指導者であり、教義上でも坤の金神の身魂で変性女子とさだまり、安定した地歩を築いていました。

本部には、参拝の信者があふれ、熱気がたちこめていましたが、やはり、公認教の力を借りる必要がありました。

最初の御岳教とは、王仁三郎が辞任し、疎遠になり、大成教とは、「直霊軍」誌上で攻撃したことから破門されてしまいました。そこで、王仁三郎は大社教に願って、1911年(明治44年)1月、大社教本宮教会本院の設置を許されました。

1911年(明治44年)8月には、大日本修斎会の役員改選で、湯浅仁斎が会長に選出され、役員が81名となっています。1912年(明治45年)5月には、同会の会員数は2万人と発表されています。

この時期の教勢拡大を支えた主要な力は、もつぱら生活に結びついた現世利益鎮魂帰神による霊の体験であつた。村上重良氏は次のように言います。

 病人には、“お土”“ご神水”“お松”“おひねり”等が授けられ、奇蹟的な治癒の“実話”がつぎつぎに広められていつた。“お土”は、聖別された場所の土を水でやわらかくして患部につけるもので、“お松”は神前に供えた松葉を煎じて服用する一種の民間療法であつた。厚おひねり”はナオが神に祈念して「うしとらのこんじん」と墨書した紙片をたたんでひねつた御封(ごふう)で、病人に服用させた。ナオは、生き神として信仰され、“おひねり”の霊験譚はもとより、いつしょに入浴してくれただけで死病が快癒した老婆の話などが、信者とその周辺に、口からロヘと伝えられ、おかげ信心にょる入信者が続出した。

本部、各支部それぞれでの鎮魂帰神の実習も活発化する一方でした。

■香良洲神社参拝

1912年(明治45年)4月に、直は王仁三郎夫妻以下120余名の幹部とともに、伊勢におもむき、内宮、外宮を参拝した後に、香良洲神社を参拝ました。

香良洲神社の祭神ワカヒメギミノミコトは、筆先では、出ロ直の身魂と同じとされていることから、この参拝は、時節が来て、直がみずから稚姫君命を迎えにいったものとされています。この神は霊界物語でも重要な働きをします。

1912年(明治45年)5月には祖霊社を新築しています。


14.明治時代まとめ

王仁三郎の明治時代は、出生から高熊山、高熊山修行、綾部の大本での雌伏、そして大本で王仁三郎の反対派をふくめ信徒が全くいなくなった状態から、大本教を作りあげてゆく胎動の時と、いろいろ時期を区切ることができると思います。

私狭依彦は、王仁三郎の人間が好きで、特に高熊山までの王仁三郎が好きなので、回顧歌を中心に紹介してみました。多田琴については、かなり考察することができたのではないかと思います。

高熊山修行については、やはり自分が有栖川宮の落胤であることを知ったことから始まったのでしょうか?私は、社会の下層で育った頭が良く努力も惜しまない男が、社会を改造すべく、大本を興していったと考えたいのですが、諸処の状況証拠を見る限り、やはり、落胤であることが重要なのかも知れないと、しぶしぶ認めざるを得ません。

霊界物語を読んでも、上下の別ということがよく取り上げられ、改革も上と下からのものが多いので、やはり人間には上に立って支配(指導)するものと、下で支配されるものに分かれるのでしょうか?

王仁三郎の言う、とは人間的に優れており、道徳もあり、倫理観念もある人で、現実の明治・大正時代の支配階級とは違っていた、理想の上流階級であると思います。そして、とは利己主義に陥り、付和雷同し、支配階級の操作に陥りやすいものであることも分かります。それでも、いまだに、私は、上が下を治めてゆくのが理想の社会であるとは考えたくありません。

狭依彦の迷いはともかく、王仁三郎を知るには、残された文献を読んでもだめでしょう。この論考でも少し紹介していますが、とても難しく全くの国家主義としか思えない文章もあります。

王仁三郎に触れるには、やはりエピーソードで王仁三郎に触れておくべきでしょう。この論考では、そのエピソードは省いています。ぜひ、皆さんも出口和明氏の『大地の母』などで、王仁三郎とそれを取り巻く人々のエピソードに触れてから、まとめの意味で、この論考を読まれると、よく分かると思います。霊界物語を読むのはその後の方が良いのではないでしょうか。

参考資料 

『オニサブロー ウーピーの生涯』十和田龍(出口和明) 新評論 1987年

『出口王仁三郎』村上重良(新人物往来社) 1975年


第1版 2005/09/24
第1版(校正) 2015/01/01



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