王仁三郎明治時代(2) 高熊山から虎天堰

1.高熊山へ

2.有栖川説

3.床縛り

4.霊界の修行

5.布教開始

6.稲荷講社

7.穴太を出る

1898年 明治31年 28歳 2月 浄瑠璃会で暴漢に襲われる
1898年 明治31年 28歳 3月1日 (旧2月9日)神霊に導かれて高熊山に登り、1週間の修行をする *{高熊山修行}
1898年 明治31年 28歳 3月15日 一週間の床縛りの行 *{床縛り}
1898年 明治31年 28歳 4月 斉藤家の離れを借り、幽斎修行を始める
1898年 明治31年 28歳 4月 稲荷講社から三矢喜右衛門が来る
1898年 明治31年 28歳 4月 駿河の稲荷講社本部に長沢雄楯を訪問
1898年 明治31年 28歳 4月 この頃、大阪へ初宣教をはかるが失敗
1898年 明治31年 28歳 5月 稲荷講社に長沢雄楯を再訪、霊学会設置認可を得る
1898年 明治31年 28歳 6月 (旧五月)第二回高熊山修行
1898年 明治31年 28歳 8月 穴太を出奔

1.高熊山へ

高熊山修行の経緯は次のようなものです。

親戚の上田次郎松と河内屋のトラブルの仲裁に入った喜三郎は、村のやくざや侠客の深い恨みを買つていて、旧2月8日の晩、浄瑠璃会で語つているところを、三人の暴漢におそわれました。襲ったのは、宮相撲取りの若錦こと八田弥三郎に村の侠客と若い農民の三人でしたが、河内屋も一枚かんでいたようです。

喜三郎は打たれ続けますが、弟の由松や仲間がかけつけて喜三郎を救い出し、小幡神社の近くの喜楽亭に運びました。家には内緒にしておき、喜三郎は痛さをこらえてその晩は喜楽亭で過ごしました。翌朝、牧場の同僚が精乳館に来て、喜三郎が不在なので、上田家に来ました。祖母と母は、はじめて喧嘩さわぎを知り、けがをして喜楽亭にいる喜三郎のもとへかけつけました。

顔がはれあがつた喜三郎を見て、母は泣き出し、父が死に自分が後家になつたため、息子がこんなひどいめに会わされると嘆きつづけました。八十五歳になる祖母は、喜三郎の不行跡を叱り、心を入れかえて真人間になれと諭しました。

母に泣かれて困つた喜三郎は、神に一心に祈り、祖母と母が帰つたのちは、壁に神名を書いて礼拝をつづけました。この日の夜から、喜三郎の姿は、穴太村から忽然と消えてしまいました。

翌日になって、家族は喜三郎の姿が見えないことに気づきましたが、2、3日は女のところにでも行ったのだろうと気にしていませんでしたが、何日かたつと近所中で大騒ぎとなりました。また、喜三郎の机の上には遺書のような書置きがあったといいます。

一週間後の2月15日、ふたたび村に現われた喜三郎の姿は、見るかげもなくやつれ果てていました。喜三郎は、村にほど近い高熊山で、七日間の修行をしてきたと、ことば少なく語るのみでした。

裁判記録では、河内屋とのいさかいがあった、三日くらい後に河内屋に襲われたことになってます。これは、王仁三郎の記憶が薄れているのでしょうか。

史料集成Ⅲ 1938/08/10 歴史 高熊山修行の経緯
 私は長吉と三人連れて家へ帰りました。
 処が三日程したら私が浄瑠璃を語つて、次に『現れ出でたる武智光秀』と言つて居る時に、ほんまに河内屋が現れて来て、自分を表へひつ張り出した。
 家の前の桑畑へ連れて行つて、私を殴つた。私は桑の木の──古い木の下に隠れたから、対手が殴つても余り私には当らなんだけれども、頭に傷が出来たり、血が出た。
 さうすると朝になつても私は頭が上らぬ。牛は鳴くし、乳を貰ひに来ても搾つても居られないから、本宅の母の方へ訪ねて行きました。母が出て来て見たところ、私の顔を見てわつと泣いた。「去年迄は家のお父つあんが居つたから家の子を呶鳴りもせぬだつたのに、母親一人になつたから──と」云ふので泣きました。
 「さうぢやない私は己むを得ざる事情の為に殴られたので、父が居なくなつたからやられたのぢやない、斯う云ふ理由があるのだから」と言つた。
 併し母に済まぬことぢやと思つた。
 さうしたら八十歳になつた祖母が出て来て一生懸命泣きました。「侠客なやうな者の対手になるな、親が大事と思ふならさう云ふことをして呉れるな」、と斯う申されました。
 さう云ふ経緯から私は高熊山へ修業に行きました。


この間の経緯は、霊界物語37巻の葱節松の下に書かれています。


2.有栖川説

ここは、出口和明氏の有栖川説をみてみましょう。大本では、王仁三郎は有栖川宮の落胤だとささやかれており、戦後、大きくとりあげたのが出口和明氏です。ここでは『オニサブロー ウーピーの生涯 明治編』(十和田 龍)を参考にしています。

出口和明氏は、喜三郎が暴漢に襲われたことは9度もあり、今回が特別ではなかった。今回の事件が高熊山につながったのは、何か特別なことがあるとして、母と祖母に出生の秘密を打ち明けられたのだと解釈されています。

喜三郎が消えたあと、喜三郎の机の上にあった書置きには次のような文章が書かれていました。

次の文は霊界物語からで、この歌の次に「何の意味だか誰も知るものはなかった」と書かれています。

我は空行く鳥なれや
我は空行く鳥なれや
遥に高き雲に乗り
下界の人が種々の
喜怒哀楽に囚はれて
身振足ぶりするさまを
われを忘れて眺むなり
げに面白の人の世や
されども余り興に乗り
地上に落つることもがな
御神よ我れと共にあれ

これについて、王仁三郎は神霊界の「回顧録」の一部として発表された、『実説-本心高熊山』で、「そもそも遺書の文意はいかん。天下国家の一大事、しかも三大秘密。王仁の生母はたちまち火中に投げ入れた。後日の難をおもんばかったのである」と述べています。

ここでの歌は次のようなものです。伏字の十字こそが王仁三郎が有栖川宮の落胤だったという真相を語るものでしょう。

我は空行く鳥なれや
○○○○○○○○○○(原文のママ)
遥に高き雲に乗り
下界の人が種々(くさぐさ)
喜怒哀楽に囚はれて
身振足振りする様を
我を忘れて眺むなり
()に面白の人の世や
されどもあまり興に乗り
地上に落つる事もがな
み神よ我れと(とも)にあれ

出口和明氏は次のように語ります。

一行目の「空行く鳥」の「空」は天つ空(宮中、禁中)、「鳥」は野辺のねぐらを離れて思いのまま飛び立つ姿か。三行目の「遥かに高き雲」に雲上人(殿上人、公家、雲客)、雲居(禁裏、奥深い宮中)への思いを暗示しているかである。そして、その間に秘められた一行(狭依彦注 伏字の部分)こそ、喜三郎の出生の秘密ではないのか。

出口和明氏は伏字に「親を知りたる時鳥」をその著作であてているそうです。

下の部分は、霊界物語にある祖母の訓戒と王仁三郎の反応。出口和明氏の引用部分を赤で示します。喜三郎の驚愕が伺われると言われています。

ここで、祖母が「父」と言わず「実父」と言っていることに注目です。

物語37-1-5 1922/10 舎身活躍子 松の下

 若錦一派に打擲され、頭を痛めて喜楽亭に潜んで居る処へ、母がやつて来て非常に悔まれる。暫らくすると八十五才になつた祖母が、杖もつかずに出て来られた。少し耳は遠かつたが、悪い事は何でもよく聞ゆる人であつた。何時も祖母は勝手聾をして居られるのかと疑ふたが、実は、本当に聞えないのであつた。聞えぬかと思ふて、ド聾とか何とか一言でも悪口を云はうものなら、本守護神が知つて居るのか、但は神様の罰なのか、直に分かるのは不思議であつた。気丈の祖母は此場の様子を見てとり、諄々として喜楽に向つて意見を始められた。祖母の名は『うの子』といつた。
祖母『お前は最早三十に近い身分だ、物の道理の分らぬ様な年頃でもあるまい。侠客だとか人助けだとか下らぬ事を言つて、偶に人を助け、助けたよりも十倍も二十倍も人に恨まれて、自分の身に災難の罹る様な人助けは、チツと考へて貰はねばなるまい。無頼漢の賭博者を相手に喧嘩をするとは、不心得にも物好きにも程がある。お前は何時も悪人を挫いて弱い善人を助けるのが、男の魂ぢやと云ふて居るが、六面八臂の魔神なれば知らぬ事、そんな病身なやにこい身体で居乍ら、相撲取や侠客と喧嘩するとは余り分らぬぢやないか。今年八十五になる年寄や、夫に別れて間もない一人の母や、東西も弁へ知らぬ様な、頑是なしの小さい妹がある事を忘れてはなるまい。此世に神さまは無いとか、哲学とか云つて空理窟ばかり云つて、勿体ない、神々様を無い物にして、御無礼をした報いが今来たのであらう。能う気を落ちつけて考へて呉れ。昨晩の事は全く神様の御慈悲の鞭をお前に下して、高い鼻を折つて下さつたのだ。必ず必ず、若錦や其外の人を恨めてはなりませぬぞ。一生の御恩人ぢやと思ふて、神様にも御礼を申しなさい。お前の実父は幽界から、其行状の悪いのを見て、行く処へも能う行かず、魂は宙に迷ふて居るであらう程に、之から心を入れ変へて、誠の人間になつて呉れ、侠客の様な者になつて、それが何の手柄になるか』
と涙片手に慈愛の釘をうたれて、流石の喜楽も胸が張り裂ける様に思ふた。森厳なる神庁に引き出されて、大神の審判を受ける様な心持がして、負傷の苦痛も打忘れ、涙に暮れて、両親の前に手を合せ、
『改心します、心配かけて済みませぬ』
と心の中で詫をして居た。
 老母や母は吾家を指して帰り行く。あとに喜楽は只一人悔悟の涙に暮れて、思はず両手を合せ、子供の時から神様を信仰して居乍ら、茲二三年神の道を忘れ、哲学にかぶれ、無神論に堕して居た事を悔ゆると共に、立つても居ても居られない様な気分になつて来た。
 夜は森々と更け渡る。水さへ眠る丑満の刻限、森羅万象寂として声なき春の夜、喜楽の胸裡の騒々しさ、警鐘乱打の声は上下左右より響き来り、吾身を責むる如くに感じられた。
『あゝ今が善悪正邪の分水嶺上に立つて居るのだ。左道を行かうか、右道を行かうか』
と深き思ひに沈む。折しも忽然として、一塊の光明が身辺を射照らす如く思はれて来た。天授の霊魂中に閑遊する直日の御霊が眠りより醒めたのであらう。深夜つらつら思ふ。
『あゝ吾は誤解して居た。父ばかりが大切の親ではない、母も亦大切な親であつた。そして祖母は又親の親である。天地広しと雖も親は一人よりない。斯かる分りきつた道理を、今迄体主霊従心の狭霧に包まれて、勿体なくも母や祖母を軽んじて居たのは、思はざる失敗であつた。父が亡くなつた以上は、もう如何な荒い事をしても、心配する親はないと、仁侠気取りで屡危難の場所に出入し、親の嘆きを今迄気づかなんだのは何たる馬鹿者ぞ、何たる不孝者ぞ!アヽ諺にも……いらはぬ蜂は刺さぬ……と云ふ事がある。なまじひに無頼漢位を相手に挑み争ひ、且つ挫かうとしたのは、余り立派な行ひではなかつた。勘公が次郎松に二百円の金を出ささうとしたのも之は決して人間業ではない。次郎松はとられねばならぬ因縁があつたのだ。蛇が折角、艱難辛苦して漸くに蛙を口にし、一日の餌にありついて甘く呑まうとして居る際に、人あり、其蛇を打ちたたき、弱い方の蛙を助けてやつたなら、其蛙は大変に喜ぶであらうが、肝腎の餌食をとり逃した蛇は屹度其人を恨むであらう。掛け構へもない人の商売を構ひ立てしたと怒るのは、人間も同じである』
と云ふ様に考へて来た。本居宣長の歌にも、
 世の中は善事曲事行きかはる
  中よぞ千ぢの事はなりづる
 何事も世の中は正邪混交陰陽交代して成立するものである。別に人の商売まで妨げなくとも、自分は自分の本分を尽し、言行心一致の模範を天下に示せば宜いのだ。自分に迷ひがあり罪があり乍ら、人の善悪を審く権利は何処にあらうか……
と思へば思ふ程、自分が今迄やつて来た事が恥かしく、且恐ろしき様な気になつて来た。
 ……母は吾子の愛に溺れて喜楽が悪いとはチツとも思はず、只父が亡くなつたから、人々が侮つて、自分の子をいぢめるとのみ思はれて居る様だが、父が亡くなつたのは喜楽ばかりぢやない、広い世の中には幾千万人あるか知れぬ程だ。父が亡くなつた為めに世間の同情をよせた人こそあれ、たとへ自分の様に、一部の侠客社会からにせよ憎まれたものは少い、釣り鐘も撞く人が無ければ決して鳴らない、太鼓も打つ人がなければ決して音はせぬ、之を思へば祖母の今朝の教訓は、真に神のお諭しである。自分の心から親兄弟に迄迷惑をかけたか……
と思へば、懺悔の剣に刺し貫かれて五臓六腑を抉らるる様な苦しさを感じて来た。悔悟の念は一時に起り来り、遂には感覚までも失ひ、ボンヤリとして吾と吾身が分らない様な気分になつて来た。


3.床縛り

喜三郎が姿を消して三日、四日と消息がないので、さすがに家族も不安になりました。牧牛場と精乳館の経営も、どうしてよいかわからず、やがて喜三郎の失踪は親類中の大騒ぎになります。手分けして行くえを捜すとともに、占いなどにも頼りました。宮川の妙霊教会では、「言いかわした婦人と東のほうへかけ落ちをした」という神示がありましたが、どれもこれも雲をつかむような話ばかりであつたといいます。

三月七日(旧二2月15日)になつて、喜三郎は突然帰宅します。家族一同は、喜三郎の帰宅に大喜びしましたが、喜三郎は、さすがに疲労しきつており、麦飯を二杯平らげると、そのまま倒れ、翌日16日の午後になつて、やつと眼をさまし、小幡神社に参拝に行きました。

17日の早朝から、手足が動かなくなり、眼も開かず、口もきけなくなりました。家族と親類は、なんとか回復させようと、亀岡から医師を呼び、天理教の明誠教会の布教師や法華僧を連れて来て祈禧しましたが、拝むことばは耳に聞こえても、やはり眼は開かず、口もきけませんでした。医師は、「もう見込みはない」とまで言いました。

親戚の上田次郎松は「喜三郎にはタヌキがついている」と言い、憑物を落とすために、松葉と唐辛子でいぶそうとしましたたが、母が、唐辛子いぶしをおしとどめ、喜三郎の顔をのぞぎ込んで落涙しました。母の涙が喜三郎の顔にかかると、喜三郎は、はつとして手足が動くようになり、ようやく声が出たといいます。23日のことでした。一週間床しばりにあっていたわけです。

物語37-1-6 1922/10 舎身活躍子 手料理


4.霊界の修行

さて、これまでに上げたのは現実世界(現界)のことです。

霊界ではどうなっていたのでしょうか。霊界では、2月8日の夜、いろいろ思い煩っているときに、松岡天使が喜三郎を連れに来たのです。天使とは、キリスト教の天使とは意味が違います。天の使いと考えればよいでしょう。ちなみに、松岡は洋服を着ていました。当時は和服が主流であったと思います。

物語37-1-5 1922/10 舎身活躍子 松の下

 此時芙蓉山に鎮まり玉ふ木花咲耶姫命の命として、天使松岡の神現はれ来り、喜楽即ち今の瑞月王仁を、高熊山の霊山に導き修行を命ぜられた事は、第一巻に述べた通りであるから、此処には省略して置きます。

「瑞月が入道の最初、富士の天使松岡神に霊魂を導かれ、此太古の状況を見せて貰ひ、其肉体は高熊山の岩窟に守られて居つた」というように、肉体は高熊山の岩窟にいて、霊魂だけが導かれていったのです。

霊界物語すべてに、この時に見聞したことが書かれていると言ってもいいでしょう。次のように、霊界物語の中では、王仁三郎は霊界を覗き込んでおり、時々、現実世界に戻るところがあります。

4巻では「たちまち天の一方より峻烈骨を裂くごとき寒風吹ききたるよと見る間に、王仁の身は高所より深き谷間に顛落したりけるより、目を開けば、身は高熊山の岩窟に寒風にさらされて横様に倒れゐたりける」。

5巻では「時しも山上を吹き捲くる吹雪の寒さに、頬も鼻も千切れるばかりの痛みを感ずるとともに、烈風に吹かれて山上に倒れし其の途端に前額部を打ち、両眼より火光が飛び出したと思ふ一刹那、王仁の身は高熊山の岩窟に静坐し、前額部を岩角に打つてゐた。」

16巻では「宮垣内の賤の伏屋に、王仁の身は横たはり居たり。堅法華のお睦婆アが、豆太鼓を叩き鐘を鳴らして、法華経のお題目を唱へる音かしまし」と、床縛りの時も霊界を探訪していたようです。


物語1巻の最初の部分を紹介しておきましょう。

物語01-0-2 1921/10 霊主体従子 発端では、この修行によって「天眼通、天耳通、自他神通、天言通、宿命通の大要を心得」したとあります。

物語01-1-1 1921/10 霊主体従子 霊山修行では開花天皇について書かれています。この修行で「過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事などは数百年数千年の後まで知悉し得られたのである」といいます。

物語01-1-2 1921/10 霊主体従子 業の意義では、業は山林にこもり修行をする行ではない。顕界によって事業につくすのが行である。王仁三郎は27年間俗界で悲惨な修行の集大成として、高熊山で一週間の修行をしたが、これは特別なことであると言っています。

物語01-1-3 1921/10 霊主体従子 現界の苦行では、修行は一時間神界、高熊山に座って霊魂だけで修行、二時間現界の割合。神界の修行の方が何十倍も苦しかったそうです。

物語01-1-4 1921/10 霊主体従子 現実的苦行では、「人は衣食住の大恩を知ると同時に、空気の恩を感謝しなければならない」と悟りました。

物語01-1-5 1921/10 霊主体従子 霊界の修行あたりから、霊界物語はストーリーに入ってゆきます。

こうして、霊界物語は、高熊山から始まり、現実の大本の歴史にあったようなことが出てくるのですが、1巻の20章が、小宇宙である地球界の創造の話で、ここから物語に入ってゆきます。

なお、王仁三郎は、宇宙は天動説的な小宇宙がたくさん集まったもので、地球は大宇宙(宇宙)の中心の小宇宙であると言っています。

高熊山修行については謡曲調で19巻の物語19-1-1 1922/05 如意宝珠午 高熊山にも書かれています。

また、霊界物語では高熊山は、霊鷲山に相応していますので、重要な場面で登場します。


5.布教開始

現実世界へ戻ります。

喜三郎は、一週間ほどでやっと回復すると、家にこもつて「神ながら、神ながら」と声をあげて神を拝し、これを機に精乳館をやめて、布教者としてたつ決心をしました。そして、まず、村内の友人斎藤仲一を、宗教をひらけば儲かるからと、利欲の点から説きつけて、斎藤家の奥座敷に教会所を設けることができました。

この時代の宗教は、まず病気治しです。斎藤は、岩森八重という二年ごしの歯痛で悩んでいる婦人を連れてきて、喜三郎はそれを治してしまいます。鎮魂の術での最初の病気なおしでした。これで、喜三郎の評判が高まりました。

また、多田琴、石田小末、斎藤たか、岩森とく、上田幸吉などが参加して、幽斎の修行を始めました。この時の様子は、37巻舎身活躍子五万円にあります。

また、大霜天狗という天狗に大金を与えるなどとからかわれるのもこの時期です。舎身活躍子 梟の宵企  

舎身活躍子 牛の糞では文字通り牛糞をつかまされます。しかし、これらの失敗は、後で思い起こすと、神さまが天狗を使い、執着を根底より払拭し去り、真の神柱としてやろうと訓戒を与えて下さつたのだと、二十年後に気がつきます。

舎身活躍子 矢田の滝では滝で修行していたときに、外志ハルという神憑りと出会った話で、当時の神憑りの状況がよくわかると思います。

さて、喜三郎に反対する上田次郎松は、喜三郎の修行を、生き神になるための巧みな演出と睨んで、「お前はせつかく牧畜をしているのに、こんなことをして山子(はったり)をはる」と非難し、喜三郎の霊力を試しにかかりました。

次郎松は茶碗のなかに銅貨を入れて厚紙に包み、「これがいくらあるか当ててみろ」と迫ります。喜三郎は、「手品師ではないから」と一度はことわりましたが、次郎松が嘲るので、「一銭銅貨が十五枚」と当てました。すると次郎松は、今度は、「飯綱(いづな)使いだ、ふところに飯綱を入れて、病人の身体につけ、それを退()かして銭儲けをしている」「飯綱を何ぼで買うたか、一円か二円か」などと攻撃するようになり、神前をこわしたり、村中に天狗使いだ、飯綱使いだ、と触れてまわり、反対活動を行いました。

また、弟の由松も次郎松と一緒になって反対しました。  舎身活躍子 松の嵐

キツネの関係の稲荷下げについては、舎身活躍子 邪神憑にあります。

また、4月には、多田亀の元の妻お国が大阪にいるので、多田琴が大阪にいっていたので、それを追いかける形で大阪に宣教を試みますが、琴には会えず、昔の恋人斉藤いのに出会いますが、昔の欲情はきれいさっぱりなくなっていました。

また、大阪で、易者に化身した神から「これからお前サンの丹波に帰つてから十年間の艱難辛苦といふものは、今から思ふても真に可哀相な気がする」と、将来の苦労を予言されています。  舎身活躍子 煙の都

舎身活躍子 夜の山路では、大阪からの帰り道、墓場で夫を失くして悲しむ赤子を抱いた女性と出会い、双方きもを冷やします。この時の驚愕で、この女性石田小末は、赤ん坊を失くし、眼病になってしまいます。

舎身活躍子 盲目鳥では、その小末が偶然にも喜三郎の病気なおしの噂を聞き訪ねてきます。小末は経緯を知りませんが、喜三郎は自分を夫の幽霊と間違えて病気になってしまったと、真心をこめて神に祈り、小末の病気を治します。

舎身活躍子 四郎狸舎身活躍子 狐の尾は、明治の当時、農村で一般的であったキツネやタヌキの話です。当時、キツネやタヌキは人間を騙していたのです。現代では、キツネやタヌキの住むところも少なく、車に轢かれていたりして、動物園でしか見ていない人も多いでしょうが、明治時代当時は迷信がはびこっていたというよりも、当時はほんとうにキツネやタヌキが人を騙していたと考えたいものです。


6.稲荷講社

さて、王仁三郎と宗教の出会いは、叔父の佐野清六との関係から妙霊教会が最初でしたが、本格的には、稲荷講社の長沢雄楯の出会いが大きいと思います。長沢は後年になり、王仁三郎とは敵対する立場になり、大本事件の霊学的鑑定も行っています。しかし、長沢が敵となっても、王仁三郎は一生師として礼を尽くしたそうです。

何よりも楽しみ  敬老尊師

王仁三郎は昭和6年にはこんな歌も残しています

春ふかみ伊佐田の川のかはぐちに白魚あさる漁夫の人垣
師のきみをはるばる訪ひて三保ケ浦に心清しく不ニケ嶺を見る
(以上二首静岡三保ケ浦に長沢師を訪ふ)

長沢との出会いに入りましょう。

布教を始めた喜三郎にとっては、病気なおしは本来の目的ではなく、惟神の道に立つ独立の宗教をひらくことが目的でした。それで、宮川の妙霊教会で「惟神の徳性」と題して演説したり、船岡の妙霊教会で、三百余人の聴衆を前に、同様の演説を行なつたりしています。

喜三郎の布教活動が活発化すると、すぐに巡査がやつて来ます。当時宗教は公認教に属していなければならかなったのです。巡査は、国民教化の線上で、国体の尊厳と神道を説く、という喜三郎の主旨は了解しましたが、集会については、きびしく警告しました。喜三郎は、大日本帝国憲法第二十八条の「信教ノ自由」、第二十九条の「言論著作印行集会結社ノ自由」を楯に反論しましたが、結局、公認宗教の傘下に入つて活動するように説諭されました。

喜三郎は、知人のいる御岳教の教師になるとこときめていましたが、神武天皇祭の4月3目に、稲荷講社の三ツ屋喜右衛門見の訪問をうけました。

稲荷講社は、長沢雄楯(かつとし)(1858-1940)を総長とする習合神道系の新宗教で、静岡県安倍郡不二見村下清水に本部がありました。三ツ屋は、教勢拡張のため、有能な人材を捜していたので、喜三郎に稲荷講社に入るように勧め、静岡に行って喜三郎の神がかりを調べてもらえと勧めます。

ところで、鎮魂帰神法については本教創世記などに書かれていますが、村上重良『出口王仁三郎』によると、これは最初三ツ屋が教えたことになっています。他の本では、独力で鎮魂修行をはじめて、その後4月3日に三ツ屋が訪ねてきたことになっています。修行の詳細については静岡で長沢に学び、本田親徳の書籍などももらっていますから、長沢に影響を受けたことはまちがいないですが、最初についてはどうだったのでしょうか?

さて、静岡行きを決めた喜三郎は、幽斎研究会を放って静岡に行くわけにもいかず、それまで一日8回、毎回30分の修行を、一日12回、一回40分にふやして、特別訓練を施して、審神を養成しました。これで、幽斎研究会の実力は、一挙にあがりました。

喜三郎は、親戚に旅費を出してもらい、4月28日、三ツ屋と同道して静岡に向かいました。留守中は万事を斎藤に任せ、神主は多田琴に預けました。喜三郎は、汽車に乗るのも生まれて初めてでしたが、同日夕刻、清水の本部に到着しました。

当時は稲荷下げとよぶキツネをつかう呪術がさかんに行なわれており、喜三郎も稲荷信仰をいかがわしいまじないとみていて、三ッ屋から稲荷講社の名を聞いたとき、稲荷ではせつかくの布教が誤解を招く恐れがあると、入信を迷ったほどでした。しかし、実際の稲荷講社は、長沢の霊学に基づく神がかりを教えていました。

長沢雄楯は、静岡県の浅間神社宮司をつとめた国学者の本田親徳(ちかあつ)(1823-89)の弟子で、同門に副島種臣(そえじまたねおみ)がいました。本田は水戸学と平田国学の強い影響をうけ、古来の鎮魂帰神法を再興した人です。長沢は、それを継ぎ鎮魂帰神法を広めていました。

喜三郎は、この第一回の静岡行きで、三日間、本部に滞在して、長沢の審神(さにわ)をうけました。長沢は、喜三郎にかかつている神霊は、男山八幡(石清水八幡)の眷属コマッバヤシノミコトと富士山の大天狗芙蓉坊(ふようぼう)であると教えました。

また、長沢は、喜三郎に、本田の『神伝秘書』『道の大原』『神道問対』各一巻の写本を授けました。また、喜三郎の幽斎研究会のおもな者たちを、下級役員に任命してもらい、二人は穴太に帰りました。

穴太に帰ると、三ッ屋は下司という男と一緒になり喜三郎に反旗をひるがえします。

ここまでの話は、だいたい物語37巻舎身活躍子 仁志東に書かれています。

また、多田琴の鎮魂帰神の発動がはげしく、二度目の静岡行きの原因になったようです。

その後、喜三郎は、5月20日に、斎藤をともなつて、二度目の静岡行きを行います。このおりに、喜三郎が計画していた霊学会本部の設置を許されました。鎮魂帰神も進歩し、「鎮魂帰神二科高等得業証」を授けられ、京都、大阪両府下の講社の事務担当を命ぜらました。

そうしていると、穴太から手紙が来て、多田琴ほか三名の神主のために大騒動があり、帰国を促していました。帰郷してみると、斎藤の家の内外はたいへんな人だかりで、中では、多田こと、斎藤しづ、斎藤たか、岩森とくの四人の神主が、はげしい神がかり状態で踊りまわっていました。彼らにはキツネが憑依していたでした。

これが騒ぎになり、修行者の家族たちは、キツネをつけた、だいじな娘を狂人にした、警察ヘ訴える、などと騒ぎ出し、騒ぎを聞きつけて巡査が来て喜三郎を問い糺すこともありました。

多田琴は、眼の角膜に朱点ができて、巴の形になつており、「われは巴御前」などと言つて発動していました。喜三郎は、ようやく四人を鎮静させましたが、この騒ぎで、喜三郎の評判は悪くなりました。

このあたりの騒ぎは、舎身活躍子 奥野操舎身活躍子 逆襲に書かれています。この話では、それで、多田琴が実家の中村に帰ってしまったことになっています。

私は昔から巴御前がここで出てくるのは不思議でした。しかし、巴御前は木曽義仲の本妻ではありませんでした。しかし、大河ドラマ「義経」からの情報ですが、巴は義仲を愛し、義仲も巴を愛していたようです。これも押さえておく必要があるのではないでしょうか。

また、霊界物語第1巻15章でも、琴が出てきます。琴は王仁三郎と弟の幸吉と一緒に神界旅行についてきますが、大蛇になってどこかへ行ってしまったのです。

この象徴が何を表すかは難しいところでしょうが、大蛇については、王仁三郎も大蛇になったと言っているのですから、第20章に見るような世界を創造した神のようなイメージではないでしょうか。

 ともかくもその滝で身を清めたいと、近よつて裸になり滝に打たれてみた。たちまち自分の姿は瀑布のやうな大蛇になつてしまつた。自分はこんな姿になつてしまつたことを、非常に残念に思つてゐると、下の方から自分の名を大声に呼ぶものがある。姿は真黒な大蛇であつて、顔は「」女の大蛇が火を吐きながら、非常な勢で、浪を起して海中に水音たてて飛び込んだ。自分は水を吐きながら、後を追ひかけて同じく海に飛び入つて救ふてやらうとした。されど、あたかも十ノツトの軍艦で、三十ノツトの軍艦を追ふやうに速力及ばぬところから、だんだんかけ離れて救ふてやることができない。そのうちに黒い大蛇はまつしぐらに泳いで遥かあなたへ行つて、黒い煙が立つたと思ふと姿は消えてしまつた。さうすると不思議にも海も山もなくなつて、自分はまた元の扇の要の道に帰つてゐた。

多田琴については続けて7でも触れています。


7.穴太を出る

このあたりの経緯が資料によっては分かりにくいのですが、村上重良氏によると次のような経緯で穴太を出ることになります。

(二度目の静岡行きから帰った後)喜三郎は、多田ことを大阪の実家ヘ帰したが、ふたたびはげしい神がかりになつたので、みずから大阪に出向いて、神がかりを静め、穴太に連れて帰つた。

(中略)

この時期の霊学会は、すでに園部に支所をおいており、園部支所は、内藤半吾らが中心となつて、喜三郎の布教活動の拠点となつていた。しかし、穴太では、三ツ屋が、静岡県からもどつた直後から、斎藤しづの夫で、ばくち打ちの下司熊次郎らと手を結んで、喜三郎と斎藤仲一の排斥運動をはじめた。三ツ屋は、のち一時は詫びを入れたが、また反抗し、一年ほどして和歌山県へ去った。旧六月、喜三郎は、穴太での活動に見切りをつけ、本拠を園部にうつすことを決心した。

「多田琴は、父親が亡くなってから喜三郎と同居していた。喜三郎は浮気をしていたかも知れないが、妻として認め、琴も、喜三郎の霊学修行に協力していた。危険な霊学修行のために、琴は精神を病んでしまった。それで、大阪の実家に行かせたが、また発動したために、穴太に連れ戻した。」大阪行きも、そう考えたほうがつじつまは合いそうです。

そして、閉塞状況を打開するために、園部に行くことにして、本教創世記第9章にある書置きを残したと考えると見事につながります。

(手紙の内容略)
 今や余が身は、余の自由にならざると同時に、余の心身は、毫も余の所有物にあらざるを覚悟したのであるから、天下公共の為めに、天の命を奉じて、天津神国に欺道(しどう)の大義を探究せんとするのである。而して余が身は、俗界を脱したる神の住み玉う城郭となったから、一時、母の事やの事、妹や弟の事等は忘れねばならん。必ず天下公共を救う為めの修業であるから、案じて呉れない様に。不在中は、神前に燈火を献じて、余が首尾よく神命を遂げて帰宅するのを祈って下さい。

霊界物語では松岡天使に西に行くように言われたとあります。

物語37-3-20 1922/10 舎身活躍子 仁志東

其時小松林命喜楽に神懸りして、
『一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前の来るのを待つてゐる人がある。何事にも頓着なく速にここを立つて園部の方へ向つて行け!』
と大きな声できめつけられた。それより喜楽は故郷を離れる事を決意したのである。


村上重良氏
の説から考えた話が正しいのか、霊界物語のような公式の歴史によったほうがよいの分かりにくいところですが、私は「一時、園部に向った」というのが正解ではないかと、現時点では思っています。

多田琴は捨てられたのか?そうだと思わざるを得ませんが、これから出口澄の登場までは、あまり女の匂いはしませんので、道もしくは出世のために、内縁の妻とは別れたということでしょうか。

こう考えると、王仁三郎はひどい人間のようですが、多田琴について書いたものを読むと、私は王仁三郎の琴への深い愛を感じます。どうでしょうか?


とにかく、喜三郎は穴太を後にします。そして、偶然、出口直の娘、福島久に出会います。

物語37-4-21 1922/10 舎身活躍子 参綾

 旧六月の暑い最中であつた。老祖母や修業者に無理に別れを告げて、只一人穴太を離れ北へ北へと進み行く。道程殆ど二里ばかり来た処に、南桑田、船井郡の境界の標が立つて居る。其処には大井川の清流をひいた、有名なる虎天関と云ふのがある。虎天関の傍に枝振りよき並木を眺めて小さき茶店が建つて居た。喜楽は何気なく其茶店に立寄つて休息をして居た。
 三十あまりのボツテリと肥えた妻君が現はれて渋茶を汲んで呉れた。さうして喜楽の異様な姿を眺めて、
女『貴方は神様の御用をなさる方ぢや御座いませぬか』
と云ふ。

参考資料 

『オニサブロー ウーピーの生涯』十和田龍(出口和明) 新評論 1987年

『出口王仁三郎』村上重良(新人物往来社) 1975年



第1版 2005/09/21
第1版(校正) 2015/01/01



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