王仁三郎明治時代(1) 高熊山まで

1.生まれ 9.園部で獣医を志す
2.小学校と代用教員 10.園部での生活
3.久兵衛池事件 11.獣医試験
4.労働の日々 12.事業と安達志津江との恋愛
5.初恋 13.斉藤いのとの恋愛と百日離婚
6.徴兵検査と冠句 14.多田琴と父の死
7.赤毛布 15.侠客修行
8.狂女と亀山城  

この文章では、王仁三郎の人生を資料から概観します。各記事に関係しているオリジナル資料が主にデータベースの記事などから読めるようになっています。王仁三郎の人生の概略だけを知りたい方は、リンクの資料は読まずに進まれるとよいと思います。

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1871年 明治4年 1歳 8月27日 京都府亀岡市曽我部町穴太に上田吉松・上田世祢の長男として出生。本名上田喜三郎
1871年 明治4年 1歳 12月 祖父上田吉松帰幽
1872年 明治5年 2歳 
1873年 明治6年 3歳 
1874年 明治7年 4歳 1月 弟上田由松出生
1874年 明治7年 4歳  脾肝の病気にかかる
1875年 明治8年 5歳 1月 いろりに落ち、祖父の霊に救われる
1876年 明治9年 6歳 
1877年 明治10年 7歳  秋、漆にかぶれ寝込む
1877年 明治10年 7歳  (西南戦争)
1878年 明治11年 8歳  漆かぶれのため、小学校入学を見送る
1878年 明治11年 8歳  祖母より言霊学を学ぶ
1879年 明治12年 9歳  漆かぶれのため小学校へ入学できず
1879年 明治12年 9歳 3月 弟上田幸吉出生
1880年 明治13年 10歳  偕行小学校入学
1880年 明治13年 10歳  半年休学し金剛寺の夜学に通う
1881年 明治14年 11歳 
1882年 明治15年 12歳 3月 妹上田雪出生
1883年 明治16年 13歳  タダアイ事件で小学校を中退 *{タダアイ事件}
1883年 明治16年 13歳  偕行小学校の代用教員となる *{代用教員時代}
1883年 明治16年 13歳 2月3日 出口澄出生
1884年 明治17年 14歳  代用教員をやめ、農事手伝い、醤油売り
1884年 明治17年 14歳 11月 弟上田正一出生
1884年 明治17年 14歳  (農民の階層分化、秩父事件、加波山事件)
1885年 明治18年 15歳  斉藤源治家に奉公
1886年 明治19年 16歳 春 久兵衛池事件 *{久兵衛池事件}
1886年 明治19年 16歳 春 斉藤家の奉公を辞め、隣の小島家に奉公
1886年 明治19年 16歳 秋 相撲をとって腰を痛め、奉公先を追い出される
1886年 明治19年 16歳  (内閣制度発足)
1887年 明治20年 17歳  京都方面へ荷物運搬の車引きをする
1888年 明治21年 18歳  
1889年 明治22年 19歳  (大日本帝国憲法発布)
1890年 明治23年 20歳  (第一回衆議院総選挙、教育勅語発布、第一回帝国議会)
1891年 明治24年 21歳 春 徴兵検査を受ける、乙種
1891年 明治24年 21歳 秋 冠句サークル偕行社結成
1891年 明治24年 21歳 秋 初恋の斉藤蘭が結婚、失恋に悩む
1892年 明治25年 22歳  恋愛(性)におぼれ、ドンファン的行動 *{赤毛布}
1892年 明治25年 22歳 2月 出口直綾部で帰神
1892年 明治25年 22歳 9月 妹出口君出生
1893年 明治26年 23歳  八木弁との恋愛
1893年 明治26年 23歳 夏 園部に行き、牧場で働きつつ獣医学の研究
1893年 明治26年 23歳 夏 南陽寺で岡田惟平に国学を学ぶ
1893年 明治26年 23歳 8月 八木弁との恋愛頓挫する
1894年 明治27年 24歳 夏 一時穴太に帰る
1894年 明治27年 24歳  岡田惟平、園部を去る
1894年 明治27年 24歳 7月 (日清戦争開始、対外強硬論)
1895年 明治28年 25歳 1月 有栖川宮熾仁親王帰幽
1895年 明治28年 25歳 4月 獣医学試験(筆記:合格、実技:不可)
1895年 明治28年 25歳 4月 巡査試験、監獄看守試験に合格
1895年 明治28年 25歳 6月 園部でラムネ製造販売会社設立
1895年 明治28年 25歳 秋 安達志津江との恋愛
1895年 明治28年 25歳 冬 マンガン鉱探しに熱中するが失敗
1895年 明治28年 25歳 4月 (日清戦争終結、三国干渉)
1896年 明治29年 26歳 1月 穴太で精乳館を開業
1896年 明治29年 26歳   斉藤いのとの恋愛。いのは大阪へ。
1897年 明治30年 27歳 春 斉藤しげのと結婚。斉藤家の養子となるが、百日で離婚 *{百日離婚}
1897年 明治30年 27歳  多田琴と内縁関係となる
1897年 明治30年 27歳 7月 父、上田吉松帰幽
1897年 明治30年 27歳  侠客修行をはじめる *{侠客修行}
1897年 明治30年 27歳  大本三大学則の啓示を受ける
1897年 明治30年 27歳 10月 夜道で河内屋勘吉に襲われる
1897年 明治30年 27歳  (足尾鉱山鉱毒事件)
1898年 明治31年 28歳 1月 家督を相続し、上田家の戸主となる

1.生まれ

王仁三郎は、1871年(明治4年)8月27日現在の亀岡市穴太(あなお)に上田吉松(きちまつ)・上田世祢(よね)の長男上田喜三郎(きさぶろう)として生を受けています。

生まれについては、有栖川宮の落胤という説があり、出口和明氏らが詳しく論証しています。この場合、母世祢が京都に働きに出ているときに、有栖川宮の子供を孕んだことになります。

父、吉松は上田家に養子に入ったものです。

故郷の28年によると、「王仁は祖先が源平で在ろうと、藤橘(とうきつ)であろうと、将又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要は無い。」と言っており、この藤橘は母の血筋のことで、藤原氏に源を発しているということです。これは、画家の円山応挙(上田主水(もんど))の子孫の関係で述べたもので、子供時代には応挙の書き損じが家にあったそうです。また「天皇」のところは、有栖川宮を匂わせていると述べる論者もあります。

祖父上田吉松は喜三郎が生まれてすぐに帰幽しますが、この祖父についても、裕福だった上田家を、貧困に落とすために、博打ばかりしていたという話があります。これは、王仁三郎が、貧困のうちに育つための準備というようなものだったでしょうか。  故郷の28年

2.小学校と代用教員

7歳の秋に漆指しの民間療法に失敗して、漆にかぶれ寝込むことになります。ちょうど、西郷隆盛の西南戦争の時代でした。このため、小学校へ入学できず、祖母宇能(うの)より勉強を習うことになります。

漢字は自然と読めたようで、村の大人に新聞に書かれた西南戦争の戦況を読んで聞かせています。 西南戦争と私

祖母宇能は言霊学者の中村孝道の娘で喜三郎に言霊学を教えたようです。

10歳になってやっと偕行(かいこう)小学校入学に入学していますが、生来の頭の良さと、祖母から勉学を習っていたため、飛び級で進級しています。

この間に、弟由松(よしまつ)幸吉(こうきち)、妹(ゆき)が出生しています。

喜三郎13歳の時に、学校の教師が授業中に大岡忠相(ただすけ)のことを「ダダアイ」と読んだだめ、喜三郎は「ダダスケ」であると訂正しました。これが問題になり、教師からいじめられ、小学校を中退することになります。この時代の喜三郎の家は貧しく、それを教師からかなりからかわれたのですが、喜三郎は竹の棒に糞を付けて教師に向かってゆきます。喜三郎らしいエピソードです。

時の校長先生は、粋な処分をします。教師を退職させて、喜三郎を代用教員として雇ったのです。この代用教員は14歳まで続きます。  13歳から16歳まで


3.久兵衛池事件

代用教員をやめると、農事の手伝い、醤油売りと苦しい労働の日々が続きます。

15歳で隣家の斉藤源治家の奉公人となりますが、16歳の春に事件が起こります。

上田家は、当時は落ちぶれていましたが、昔は裕福だったの灌漑用の池を持っていました。しかし、その池に子供がはまって危険であると、父吉松が池を埋め立てようとします。これを、村の人々が権力をかさにやめさせようとします。喜三郎は、父の代わりに村の有力者と戦い、論戦で勝利しました。

これを久兵衛池事件と言い、王仁三郎が、社会の矛盾に目覚めた事件であるとされています。

しかし、結局、この事件の余波で、奉公先斉藤家の辞め、小島家に奉公することになりますが、それも、16歳の秋に、相撲をとって腰を痛め追い出されることになります。  下僕  相撲


4.労働の日々

17歳の頃は京都まで荷車を引いて行商に出かけます。

朝早くから家を出て、亀岡と京都の境の老の坂を荷車を引いて越えます。重労働。荷車を谷に落としたこともありましたし、山賊に襲われたこともありました。

後に、この時代のエピソードで「敬愛の心からでる言葉は、表現はまずくとも、善言美辞となってあらわるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは阿諛諂佞となり、欺言、詐語となる」の例に、この時代の労働者言葉をあげています。

また、後に醤油売りをしていたときに感じた、「人間に悪人はいない」ということを暖かい筆致で書いています。

荷車エピソード   醤油売りエピソード  荷車


5.初恋

初恋は17.8歳の頃でした。相手は、元奉公先の娘斉藤蘭で、代用教員時代の教え子でした。

しかし、プラトニックラブで、自分との身分さでも感じていたのでしょうか。後に次のような歌で回想しています。

労働の汗臭き肌をはぢらひて君恋ふるとはいひかねにける
プロの家に生れたる身は若き日も人恋ふるさへためらひにけり

しかし、この淡い恋は、蘭が婚約者の子を宿し、結婚したことでやぶれてしまいます。21歳のことでした。想っていた神聖な女性が、結婚もしていないのに子を宿すことにはショックを受けたようです。  初恋

また、雨で増水した川から橋を守ろうと、橋に打ち付ける材木を鳶口で外そうとしてたところ、川に落ちて流されましたが、鳶口を離せば助かるのに、村の共有財産だからと離さず、死にかけたこともあります。

村の仲間ともよく遊びまわり、いたずらも数限りなく行ったようです。

学習は、金剛寺で夜学に出たりしていましたが、そこもいたずらで追い出され、矢島という教師から日本書紀、日本外史などを学んでいるようです。

また、猟師に追われた鹿を友と一緒に殺し、その肉を食べて病気になったこともありました。当時の喜三郎には殺生の概念はなかったようで、後でも、色々なものを殺して食べています。

夜遊  合図  悪友  獲鹿  転石  背輪


6.徴兵検査と冠句

当時の青年としての義務、それは徴兵でした。1891年(明治24年)21歳の春に徴兵検査を受けましたが、乙種でした。「適齢」という言葉は現在では、結婚適齢期を想像してしまいますが、当時は徴兵適齢ということでした。  適齢

20歳、21歳の頃も生活は厳しかったのですが、大衆芸能は楽しんでおり、冠句サークル偕行社を結成したりしています。面白いのは、喜三郎が最優秀賞を独占していたことで、後で調査したところによると、自分の投稿した句を自分で選をしていたのではないかとのことです。

偕行社については、後で、裁判で、「陸軍省の偕行社の「偕」です」と答えています。

冠句については後に水鏡で書いています。  冠句は大衆文芸

王仁三郎の作品です。  冠句・瑞句・狂句

1892年(明治25年)22歳のとき、9月に妹出口君が出生します。

友人は「何時までも吾が父母は子を産む」と怒っています。兄弟が増えると自分に厄介がかかるというのです。

喜三郎は「貧乏の上塗りしてもかまはない子を産む元気の親が嬉しい」とやさしい気持ちでした。  同胞  

このころ、喜三郎は貧乏で働いてばかりいましたが、結構趣味をもっているし、夜学で学んでもいるようなのですね。もしかしたら、心までも縛り付けられ、夜遅くまで会社で働かなければならない人のいる今の時代より自由であったのかなと想像することもあります。

喜三郎は、絵を描くこと、本を読むことが好きだったようですが、百姓にはそんなことは必要ではなく、父にとめられ、スモウばかりしていたと歌っています。  趣味  祭礼  麦飯  


7.赤毛布

明治24年、21歳の秋、初恋の斉藤蘭が結婚。プラトニックラブだった喜三郎は失恋に悩み、猛烈に性におぼれ、ドンファン的行動を取ります。

ある女のくれた赤毛布(あかげっと)を、他の女に使っていると言われている話が次の歌では歌われています。また、後年、女の所に夜這いするには小便を戸の敷居にかけて音がしないようにしたものだと語っています。

毛布晩秋は物語になっています。ある女と恋仲になり、屋外でHをするために下に敷く毛布をもらった。 その毛布を使って、他の女とHをしていたら、毛布をくれた女が闖入してきた。 女は毛布を持ち去った。寒い日、稲の番をする小屋に泊り込んでいたら、 女がやってきて、「寒いだろうから毛布を返す」という。 そこでまた燃え上がった。

この女性の名前は判明していません。また、当時は、年代もいろいろな女性と関係を持ったようです。その中には、人妻も含まれていたようで、明治時代当時の農村は性に関しては自由で、催すと屋外でも「した」という古老の言葉が残っています。

王仁三郎は出口澄と結婚してからは女の影はないと王仁三郎研究者はいいますが、心は、女好きであったようで、女の歌はいろいろ読んでいます。また、「吾わかき時より神の守りけむいまだ女難にかかりしこと無し」と自慢だろうか、後年歌っています。

この「女好き」が、第二次事件ではいろいろと噂を立てられ、当局のでっち上げ記事を新聞でも書かれています。  新聞記事

全集7での後年(60代)での女の歌と、動物と子供の歌を紹介しておきましょう。若い王仁三郎、やさしい王仁三郎に触れられると思います。   女の歌

動物と子供の歌

■子供の歌

幼児(おさなご)(いく)つと問えば小さき手の指()つ折りて微笑(ほほえ)めりけり

父さんもすき母さんもまた好きと顔見くらべて幼子がいふ

乳汁(ちち)貰ひ歸る夕べの雪道にもの云はぬ子とかたるさみしさ

背なの子に椿の花を折りやれば手に持ちし菓子捨ててつかめり

(やぶ)あとのほそきたけのこ爭ひてぬく子等(こら)の聲居間に聞えく

若松のみどりの花のけむらへる花粉ちらすと子等(こら)ゆすり()

朝はやみいちごの(はた)にささやける子等(こら)のおもては輝けるなり

青草(あおぐさ)のうへに芭蕉(ばしょう)の葉をしきてままごとしてる子のいとけなさ

里の子の見つけしものかぐみの枝折りたるがここだ散らばりてあり
(注) ここだ:たくさん(万葉集で使われている)

茱萸(ぐみ)のあかあかみのる神苑(かみその)に町の子供らあつまりあそぶ

()ゆるとも死ぬは()しけれ末の子のまだ(とつ)がずてあるを思へば

あがなひし松かさ人形()にならぬ手輕(てがる)きものも(おさな)らがため

わが()くぼわが子にもあり孫にさへ同じくあるを見いでたりけり

蒲公英(たんぽぽ)の花の茎をくはへながら茶碗(ちゃわん)の水に(あわ)をふかしてゐる子ら

クローバの花のましろに咲く庭に辨當(ベんとう)ひらきて遊ぶ子のあり


■動物の歌

馬も牛も湧き()づる湯に浸りゐて珍らしきかな湯ケ島の里

ひねもすを(うまや)につなぐ牛の仔を夕べ(はな)てばよろこびはしるも

蕗畠(ふきばたけ)ひととこゆれて大いなる(かわず)一匹飛び出しにけり

()ゆる夏の夕べをぢぢと鳴く鈴虫のこゑは(おさ)なかリけり

をさな()のしひたぐるまま猫の仔はかすかになきておとなしく居る

町人(まちびと)(もら)ひし仔猫(こねこ)なきながらわが朝餉(あさげ)するそばにあまえつ

文殿(ふみどの)に雨の音きくゆふぐれを一人さびしく猫とたはむる

親猫(おやねこ)を忘れたるらし吾が膝にこころおきなく眠る仔猫は

一匹の蛆虫(うじむし)にも神の精靈のはたらきを感じてゐる

なれなれしく(ひざ)にのぼつてくる仔猫(こねこ)にもひそかな愛を感じてゐる

暖かい冬晴(ふゆばれ)(えん)の障子に(はね)のよわい(はえ)(まり)をつく眞昼(まひる)

庭の()の石をめくればふくれたる(かわず)()でたり風寒き冬

雨の庭を(ふき)の葉かげにひそみつつ(にわとり)(ひな)ちちと鳴きをり

里の子らは(つど)(きた)りて金網の(おり)(からす)にたはむれてをり

ゆかりなき(からす)ながらも人に()れて()()ふさまの(めず)らしきかも

馬に乘つて通る村男(むらおとこ)がある、五月(ごがつ)の馬の匂ひはよい

水あせし河のほとりにもくもくと牛の仔草をはみて遊べる


8.狂女と亀山城

敬神の心は、当時からあったようで、産土の神社に夜参ったりしています。

そんな神参りの夜です。神社で心身を喪失した女が待っています。喜三郎は喜楽と名乗っていましたが、「喜楽、喜楽」と追いかけてくるのです。喜三郎は一生懸命に逃げ、橋の下に隠れますが、女が追いかけてきて「人臭い、ここらにおるのか」と探し回ります。喜三郎は脅えて、ついには川に飛び込んで逃げてしまいました。

このエピソードを歌った歌にも、「失恋の果てに狂女となりにける彼女の姿すさまじかりけり」とあり、社会を見ている眼のようなものを感じます。

その後、産土の神社で、白馬の神人にまみえることになります。  神詣

亀岡には明智光秀の城がありました。亀山城と呼ばれていました。この城跡が商人に買われて、城の石は売り飛ばされ、木も伐られてしまいます。氏族達はそれを嘆き、涙石として、巨石を形原神社に持ってゆきます。喜三郎も、城跡が荒れるのを見て、おおいに嘆きます。

亀山の城跡は、その後持ち主(城主)が転々として、1919年(大正8年)王仁三郎が49歳の時、大本教の手に入ります。その後、1925年(大正15年)『天恩郷』と命名され、宣教の拠点となります。  城跡  亀山城  


9.園部で獣医を志す

23歳の夏八木弁と恋愛します。その恋愛と軌を一にして、喜三郎は獣医を志して、園部で園部殖牛社を経営している従兄の獣医・井上直吉のもとに住み込みます。

しかし、八木弁との恋愛も、園部より一時穴太に帰ったときに、弁の伯母にさまたげられて頓挫してしまいました。  観音堂

獣医を志しているとはいえ、仕事は牧場で牛の世話。一日中休む暇なくこき使われました。  搾乳

井上直吉もケチなようで、喜三郎の待遇は悪く、井上ところからは、何度か飛び出しているようです。

あるときには、友人と1円の懸賞金をつけて醤油呑み比べして五合飲み病気になっています。  麦蒔

喜三郎は井戸の水脈を見つけるのが上手で、村人に頼まれて探しています。やはり霊感があったのでしょう。また、発明もしていたようで、自動米搗機を発明したつもりですが、散々な出来で、父親に叱られています。大口をたたいて、おかしなことをやる。村人には笑われ、綽名を付けられています。  米搗


10.園部での生活

園部でも女の影はつきまといます。月の夜です、牧場に一人寝ていると、女が忍んできます。16歳。山本という姓だけが記録に残っています。  靴音

獣医の修行で興味深いエピソードは、南陽寺の飼い犬が死んだときに、井上は気管支炎と診断しますが、喜三郎は心臓糸状態虫と診断します。

その診断を確かめるために、夜中に墓地に行き、犬の屍骸を掘り出し解剖してしまうのです。闇の中で自分の診断が正しく、ニヤット笑う顔。それを、便所から見ていた僧が腰を抜かしてしまいます。その心臓を持って帰って井上に見せて勝ち誇ります。  解剖  徒然草

井上とは波長が合わずぶつかってばかりいました。ある時などは、井上が蚕を飼ったのですが、南陽寺から蚕を食べる猫を借りてきて蚕を食べさせてしまいます。  病牛  

また、家畜医範十六冊五千頁を残らず写して、だいたい暗記してしまったと本人は言います。忙しい牧場の生活、女もあったろうに、いろいろできるものですね。でも、王仁三郎の超人の影には大きな努力があったと思います。たぶん、この話も真実だと、私は思っています。また、園部の南陽寺で岡田惟平に国学や和歌を学んでいます。  歌会

いろいろ面白いエピソードが続きます。米を持ち上げる競争をしていて、人に言われた重さを信じて、持ち上げたら、知っていたら絶対に持ち上げることのできなかった重さであったこと。また、軽石をはじめて見て、それで、顔を洗って血だらけになり、「軽石」とあだ名をつけられたことなどです。  腕力


11.獣医試験

井上が妻をもらったことがきっかけとなり、一時、穴太に帰ります。  帰郷

しかし、喜三郎がいないと牧場がやっていけないので井上が叔父の佐野清六に頼み連れ戻します。  牧場

日清戦争がはじまり、井上は従軍獣医に呼び出され、喜三郎は船井郡の仮獣医となりました。仕事は、屠殺される牛の検査をすること。この時に、獣医はいやだと思い始めます。  獣医

また、これらの歌には犬や猫を研究のため解剖して、その肉を食べてしまった話があります。

犬も猫も(いたち)(ねずみ)もことごとくわが解剖刀にたふれぬ
四つ足で食はないものは炬燵(こたつ)ばかりと得意になつて鼻うごめかす

気持ちが荒んでいたのでしょうか、それとも、この時代にはこれで普通だったのでしょうか。王仁三郎の若い頃には、このようなエピソードがかなりあります。

井上は獣医を不合格となり戻ってきます。この頃には、喜三郎は獣医はあきらめて牧畜を勉強しはじめています。 生業   逃牛

玉鏡では王仁三郎が愛情を込めて牛を育てていた話もしています。  愛の力

最初の宗教は妙霊教会で、叔父の佐野清六が関係していたため喜三郎も布教師になれと勧められます。  信仰  妙妙

獣医試験は筆記試験は合格したのですが、蹄鉄術の試験があり、習ったことがなかったので不合格となってしまいました。また、巡査と看守の試験を受けて合格したのですが、結局、公務員にはなりませんでした。1895年(明治28年)喜三郎25歳の4月のことでした。  試験


12.事業と安達志津江との恋愛

獣医試験の後、喜三郎は、井上の元を去り、牧畜の道を究めるため京都へ向かいました。井上は喜三郎と一ケ月三円支給の約束をしていたのですが、三年勤めて一円だけくれました。非常にケチだったのですね。

その後、1895年(明治28年)6月(25歳)、園部に戻ってラムネの製造販売を始めましたが失敗します。ラムネでも、他の薬品と間違えて硫酸を飲んでしまったという失敗談があります。

ラムネの後は、1896年(明治29年)、1月、園部と穴太で牧畜業(牛乳販売)をはじめました。  開業

穴太は精乳館という社号でした。写真が残っています。

その前の明治28年の秋にはマンガンを探して、野山を飛び回っています。  満俺鉱

明治28年の秋には、安達志津江との恋愛がありました。この女性は17歳、俳諧の席で出会い、女性から手紙を送ることで関係が始まりました。37歳の未亡人の娘で、結局、志津江はお金のため他の男に嫁がされます。 相思

その後、志津江から牛乳の注文が入り届けることになります。当時は牛乳は貴重品で、薬として使われていたほどです。志津江も牛乳は飲まずに捨てて、喜三郎に会いたいだけだと言っています。その後も、配達のたびに、志津江の家で休んでいたのか話し込んでいたようで、ある日、喜三郎がいるときに、夫が帰ってきて、「牛乳屋さん吾が家に入りて一時間たちし」と言われ、一騒動もちあがりました。   留守  逆耳

志津江は、そんなことで離縁されたのか、京都の呉服屋に奉公に出され、喜三郎に手紙を送ってきます。喜三郎は会いに行き、呉服屋に飛び込むのですが志津江はいません。またの機会に、京都に行き別の呉服屋に行くのですが、やはり会えませんでした。手紙も来ないし、結局、それで沙汰止みになってしまったのですが、喜三郎は諦められず苦しい思いをしています。

なぜ、志津江に会えなかったのか。落ちがあります。喜三郎の住んでいた穴太には呉服屋は1軒くらいしかなく、町には多くても2軒くらいだろうと思い込んでいて、京都に行って、店名を確かめずに見つかった呉服屋に入っていたのです。当時、京都の呉服屋は数えられなくくらいあったのではないでしょうか。喜三郎のウブさというか、田舎者さを表すエピソードでしょう。  血潮  夢現


13.斉藤いのとの恋愛と百日離婚

1896年(明治29年)喜三郎26歳、今度は斉藤いのと恋愛です。色の白い女性で、父親からは農家には向いていないと反対されます。いのは大阪へ行ってしまい、強制的に結婚させられてしまうのですが、喜三郎に「結婚の日に入水する」と手紙を送ってきます。同時に、いのの姉からは、いのを思い切るよう依頼してきます。結局、喜三郎は恋を捨て、いのに結婚するように説得します。周りからは、甲斐性なしと言われ喜三郎は傷ついて、浄瑠璃の稽古にはげむことになります。

回顧歌では次のような感想があります。

黄金の万能力の社会には南瓜(かぼちゃ)も美人をめとりて澄ませる
地位と金とばかりが結婚すなる世は今業平(いまなりひら)の君ももてなく

相聞  紅筆  名残

この失恋の痛手も、1897年(明治30年)27歳、春、斉藤しげのと出会うことで解消されたようです。

王仁三郎は次の歌を60歳くらいで書いているのです。この歌に表れている若さには驚かされます。

ただ二人默したたずむ足もとにどろ足の犬きたりとびつく
飛びつきし犬に彼女はおどろきてあつと叫びて抱きつきたり
鼻先にぷんとにほひて体臭の忘らえがたき身とはなりぬる

このしげのは農婦のような感じだったのでしょう、父も気に入ったようですが、斉藤家では一人娘で嫁に出せなかったため、喜三郎が養子に入ることになりました。  養子

養子には入ったものの、養家の両親とはうまくいかず、上の歌のように体は燃えたのですが、冷静になってみると、しげのはこれまでの女性より容姿も知性も劣っていたようで、「あら」が見え始めます。すると、喜三郎は、牧場に泊まり込み、養家には寄り付かず、結局百日で養家を追い出されることになります。  百日

しげのについての後日談を出口和明氏が語っています。

 しげのは、その後、別の男と結婚して平安な生涯を送った。
 喜三郎と恋愛したすべての女がそうであるように、彼女もまた喜三郎を忘れかねている。喜三郎の妹君とは晩年まで親しくつき合っていたが、顔あわすたびに「喜三やん、どうしとってや」と懐かしげに聞くのだった。

14.多田琴と父の死

百日離婚の後は歌舞を習い始めます。また、酒は飲めない体質でしたが、酒を飲んだり、芸者遊びもやっています。  歌舞

牛に餌をやる鍋で牛肉を煮て食べて、同じ鍋で牛の餌を作ったら、牛が食べずに苦労したエピソードもあります。  落角

女との関係はまだまだ続きます。不特定多数の女性と関係していたような歌もあります。  忍路  意馬

夜な夜なにわが見し夢は花のゆめ紫のゆめ桃色のゆめ

そこへ、多田琴が登場します。王仁三郎の内縁の妻となった女性です。  後姿

浄瑠璃(じょうるり)夜半(よわ)に逢ひたる中村のをみな(とぶら)ひ来ぬ夏の夕暮
背は高く身体は()えて色白く夕べのわが目に(うるわ)しかりけり
今日からは炊事裁縫(さいほう)手伝ふと女房気どりて彼女言ひけり

大女で色白という点は頭にいれておきましょう。


■概略

『オニサブロー ウーピーの生涯 明治編』(十和田 龍)では次のように書かれています。

○中村(亀岡市)のうどん屋多田亀吉の一人娘。
○1876年生れ。王仁三郎より5歳下。
○1893年に婿養子を迎えたが、一年足らずで追い出す。喜三郎(王仁三郎)と出合ったときは独身であった。
○上田家に住み着き、内縁の妻となる。
○喜三郎の高熊山修行後の鎮魂帰神の研究にも参加。巴御前が憑依する。
○喜三郎とは人生の方向の違いを悟り、喜三郎とわかれて大阪に移るが、病気になって数年後中村へ帰る。
○1908年4月20日没。多田亀吉、琴の墓は中村の厚禅寺にあり、王仁三郎が永代供養している。


■登場以降の関係の回顧歌

琴が登場してからの回顧歌を抜粋しておきます。1897年(明治30年)27歳の頃です。多田琴と内縁関係となりました。

押掛

今シヤンがしのんで来たと若者がわが牧場のまへにささやく
つぎつぎに若者つどひ人垣をつくりて庭にささやきあへり
さすがにも吾はづかしく夜具かぶり息をこらして黙しゐたりき
豪胆な彼女は表戸ひきあけて皆さんお這入りなされと招く
若者は潮のごとく門ぐちを押すな押すなとみだれてぞ入る
こりや喜楽馬鹿にするなとぞめきつつ座敷にのぼり吾が夜具をはぐ
こりや助平何をさらすといひながら吾いきどほりはね起きにけり
あははははこりや面白いおもしろい喜楽怒つたと友は手を拍つ
彼の女すつかり度胸を落ちつけて妾や喜楽の女房だといふ
女房を貰うて何故披露せぬ祝うてやらうと水ぶつかける
何をする乞食犬ではあるまいに水をかけるとはあまりとなじる
ここにゐる現在美人が女房だと証明してるにとぼけるなと友言ふ
やむを得ず酒を一斗米五升雑魚三升買うてふれまふ
若者は牛の餌焚く大鍋に米と雑魚とをぶちこんで煮る
一斗の酒に若者舌もつれくだらぬくだを巻きはじめたり
若者の下戸はやにはに雑魚飯を腹につめこみころがりうめく
おひおひに酔ひがまはりて若者はそろそろ殴りあひを初めし
おひおひに酒がまはりて怒る奴笑ひつ泣きつ騒がしき吾が居間
円滑な彼女の舌にまきこまれ喧嘩もやうやくをさまりにけり
朝まだき村上氏きたりこの体をながめて眉に深皺よせる
村上氏舌打ちしつつ喜楽さんお目出度くない馬鹿よと罵る
次ぎ次ぎに欺し欺され何んのざま又欺すのか欺さるるのか

侠客の多田亀と会います。

親子
夕暮に吾が住む舘にたづね来しをみなをおくる真夜中の道
小幡橋わたるころより雪降りて吹く風さむく家路にともなふ
約二里の彼女がやかたへ雪の道高下駄はきておくり着きたり
中村の彼女の父はおどろきてお前は何処の馬骨かと訊く
侠客の名を売つてゐた多田亀は一人むすめの彼女の父なる
多田亀は吾が首筋を押へつけこれでもどうだと拳骨ふりあぐ
吾が家の一人娘を貴様等の自由にさせぬと声高に呶鳴る
僕ばかり悪いのではないお互ひよと首押へられつ言ひかへしたり
ふりあげたその拳骨を如何するかお前の可愛い娘の男よ
多田亀はプツと吹き出し手をはなしお前は度胸が太いとほめる
俺とこの養子になるならこの娘やつてもよいと微笑みて言ふ
百日目に養家を出されたこの男これでもお気に入るかと吾云ふ
そんなこととくの昔に聞いてゐる俺は娘のこころ次第だ
彼の女両手をついてお父さん貰つておくれよ一生の願ひだ
これからは侠客の道教へてやるなどとそろそろ喧嘩の話す
盃を片手ににこにこ多田亀は穴のあくほどわが顔をみる
一寸気の利いた男よ侠客になればかならず名を挙げるだらう
多田亀といへば丹波の山中で押しも押されもせない侠客
脊はたかく身体はふとく力強く一寸見てさへおそろしき男
鬼とでも組みつくやうな侠客も娘の愛におぼれしとみゆ
やがてもう夜があけるから穴太まで送つてあげよ彼女に父いふ
親と子の縁を結びの盃を重ねてひよろひよろ雪道かへる

多田亀の家からの帰り道、琴が送ってきます。喜三郎は、雪の中の道を歩いていて、田んぼに落ちてしまい、倒れてしまいます。それを心配した琴に、喜三郎は駄々をこね、背中に負わせます。夜明けの雪道、男を背負って歩く大女、しばらくすると「恥ずかしい」と言い出す。

私はここのシーンが王仁三郎の歴史でもジーンとくるシーンの一つです。

これは、他の研究者はどう言っているかわかりませんが、琴は、物語67、68巻でのタルマン国物語に、民衆団の団長のバランスという大女が出てきます。この女は最初は袋という名で、茶坊主のタルーチンの妻となっていますが、そこを飛び出し、民衆団の団長として、人民の救済に活躍します。

左守の息子のアリナは、体制に反対したため、追われる身となり、河に落ちて、死にそうになったところを、このバランスに介抱され、最後には三五教の梅公に助けられます。

バランスは大女ということになっており、助けたアリナを背負って歩いています。
「一方アリナは体中、肉付のよいブクブクとした柔らかな背中に負はれ、何となく妙な気分がして来出した。そしてバランスもまたアリナのどこともなく男らしく、凜々しい姿に、この男ならば……といふやうな妙な気になつてゐた。」

この後、バランスは政権に迎えられ、アリナの妻となり国のために尽くします。

この場面を読んだ時に、多田琴のことを歌った歌を思い出しました。

大力の女わが身を背に負ひて人里近くあゆみつきたり

また、霊界物語2巻に突然登場する乙女の天使絹子姫という神は、物語を最初に読んだときから、ストーリーとは合わないような気がしていましたが、最近、多田琴のことを表しているのではと思い始めました。  (論考・乙女の天使絹子姫

髪梳

(このやりとり心ひかれます)

友禅の派手な蹶出しを冬の風にまくらせ彼女は吾を送れり
高下駄を穿ちて雪道かへるさの田圃のなかに転げ落ちたる
起きるのは容易なれども彼女の手に抱かれむ為そのままにをり
彼の女悲鳴をあげてわが身体力にまかせ抱きおこしたり
雪道はもう歩けない負うてくれ
と駄駄こねてみし夜明けの野路に
大力の女わが身を背に負ひて人里近くあゆみつきたり
喜楽さんもう夜が明ける恥しいここから歩いておくれ
と女のいふ
こんなこと恥しやうで神聖の恋出来るかとわらひつなじる
どうなつと勝手におしよ知りませぬこれから家へ帰ると泣き出す
左様なら一人で穴太へ帰りますと下駄を手に持ち跣足で走る
走りつつふり返り見れば彼の女跣足になりて追ひかけきたる
川上の村にかかれば流石にもうら恥しく消えたく思ひぬ

    ○
牧場にかへりてみれば時おくれ村上技手のすごき顔付
これからは心得ますと頭掻けば村上にやりと笑うて顔みる
ついて来た彼女は軒にたたずみて恥しさうに泣きわらひせり
村上氏彼女にむかひ寒いのに御苦労さまと皮肉言ひ居り
この頃はどうかしてゐる喜楽さんを気をつけなされとやじる村上
こら親爺かまうてくれなと言ひながら薪ふりあげて吾は鍋を打つ
叩きたるはづみに鍋の耳とれて村上爺さん舌打ちいかりぬ
門口から小便はこく鍋は割るえゝえ餓鬼やなーとまたも舌うち
彼の女三日四日と流連し母の宅までたづねて行きぬ
お母さん私は喜楽の妻ですと初めて逢うた人にかたる彼女
ああさよかお前が伜の女かとすましがほなる気楽な母上
お母さん髪をとかして下さいと母の黒髪くしけづりをり
女房になるのは可いが吾が伜欺す注意と母いらぬこと言ふ
喜楽さんにだまされましても満足と彼女も気楽なことを云つてる


■父の死

喜三郎は琴を妻として迎える気はなかったようで、「内縁の妻はあれども一生の妻見あたらない」と母親に言っているところを琴に聞かれてしまい、琴は実家に帰ってしまいます。しかし、父が死んで、その葬式のときには琴は参加しています。1897年(明治30年)7月のことです。

野送

この日頃病に臥せるわが父はどれなと女房にきめおけといふ
内縁の妻はあれども一生の妻見あたらずと吾こたへけり
わが生命もう長からじ一日もはやく安心させよと父言ふ
大いなる希望ある身はやすやすと会心の妻見当らざるなり
父と吾の話をそつと立聞きて彼女はたちまち泣きいだしたり
しまつたと心をののき次の間にたち出でみれば彼女のかげなし
裏口の戸をあけみればわが母は彼女の袖をひきとめてをり
喜楽さんの心の底が見えましたあきらめましたと泣き泣き逃げゆく
心には少しかかれど男子の身追ひかけゆくを恥ぢらひてやむ

    ○
吾が父の病おもりて親戚に危篤の電報いそぎ打ちたり
京都市や亀岡園部河内など親族おのおのあつまりきたる
吾が父は吾に抱かれてやすやすと眠るがごとく息絶えにけり
吾が父の国替さへも知らずして母は炊事にいそしみませり
母の名を呼べばおどろき来給ひし時には既にこときれてをり
わがが父は五十四歳を一期としかへらぬ旅にやすやすつきぬ
一生の別れを父と告げにけり吾二十七歳になれるはつ秋
金剛寺住職たのみ仏式で西山墓地に野送りなしたり
野送りの後にひそひそ随ひて泣き泣き彼女も加はりてをり
垂乳根の父に別れし悲しさに吾が浮きごころとみに沈まる
貧乏な世帯の主となる身ぞと思へばしばし恋にとほざかる
雨のおと風のひびきも何となくさびしくなりぬ秋の夕暮
大任の身にふりかかりし心地して貧乏世帯の主人となりぬ
祖母と母弟妹五人を如何にして養はむかと思へば寂しき
亡き父の借金返せと村人のきびしき談判に吾悩みつつ
はたらきて弁済すると吾が宣れば鼻であしらふ金貸の男
碌でない女にうつつ抜しつつ金返せるかと危ぶむ金貸


■上田家相続

父の死後は喜三郎に家を支える負担がのしかかります。喜三郎はそのためか捨て鉢になって浄瑠璃にふけったりします。その後、侠客修行を始めます。この侠客のまね事が高熊山につながってゆきます。

その父が死んだ後の時代、多田琴は上田家にいつづけたようです。しかし、喜三郎は、その監視の目を盗んで、他の女と関係を持っていたようです。

捨鉢

稲みのる秋の田の面に親鳥にはなれて一人鎌もつ若き日
霜のあした雨の夕べをひしひしと淋しさ迫る父なき吾には
稲みのる秋の田の面に茫然と鎌握りたるままにたたずむ
あかあかとうれたる柿の梢にも心いためぬ亡父を思ひて
霜降りしあしたは思ふたらちねの父と大枝の坂越えし日を
白梅の花もみ空の月かげも観る気にならず親なき吾には
野に山にいそしみ給ふははそはの母のすがたの何かさびしも
八人の家族のこして神さりし父のこころをしのびてなみだす

    ○
世の中の一切萬事いやになり捨鉢気分で浄瑠璃にふける
節のなき根深太夫とそしられてなほこりずまにうなる浄瑠璃
目の見えぬ吾妻太夫の家に通ひ無精矢鱈にうなりつづけし
めしひたる吾妻太夫は大阪の文楽座よりくだり来しひと

    ○
親戚のひとびと来り正式の妻をめとれと勧めてやまず
正式も准正式もあるものか自由結婚せむとてこばみぬ
親戚の言葉きかねばこれからは勝手にせよとて怒る治郎松

仮面

田舎には気のきいた女一人もなしと思へば淋しくなりぬ
甲の女と結婚すれば乙の女が茶茶いれるかと思ひわづらふ
甲も乙も丙丁戊も土臭く気に入らぬとてさまよふ結婚
侠客のむすめ一人吾が家に流連なしてかへるともせず
乙丙の家を訪はむと思へども彼女にさまたげられて意を得ず

    ○
要領を得むとおもひて不断から不得要領の仮面をかぶる
山に寝ね草に伏しつつ若き日の人目をしのぶラブ・グロテスク
若き日のラブイズベストをとなふれど会心の者なき田舎かな
玉の緒の命のラブはうばひさられやむを得ずして屑のみ拾ふ

    ○
搾乳もそろそろいやになりにけり仔牛の心おもひはかりて
肝腎の乳はしぼられひよろひよろと瘠せたる仔牛に涙こぼるる
糯米の粥などたきて牛の仔に朝な夕なに喰はせけるかな
数頭の仔牛に夜はおそはれて幾度となく床はね起きたり

    ○
うばたまの暗き淋しき薮小路も雨ををかして通ふ君許り
田の中の溜池のそば忍びゆけば青き火燃えてぱつと消えたり
人魂は三個ならびてまた出でぬ竹 辰 萬の溺死の亡霊
人魂を淋しき野辺に一人見て胸をののきぬ足はふるひぬ
淋しさと恐さ忍んでたどりゆく夜半の恋路はあさましかりけり

人並に恋は知れども吾若き日は余りにも忙しかりけり


この続きも、誘惑では女から手紙が来て出かけていますし、寝巻では15歳の女に小便をかけられています。

その夜は歌舞(かぶ)の師匠の家にとまり寝巻の(そで)尿(ゆまり)かけらる


■多田琴霊界物語での登場

多田琴は霊界物語でも登場します。父の死後の話です。

物語37-1-2 1922/10 舎身活躍子 葱節

 之を聞いた自分は腹が立つて堪らず、火事場に使ふ鳶口を担たげて、河内屋の勘吉が賭場へ只一人、夜の八時頃飛び込み、車坐になつて丁半を闘はして居た弟の帯に鳶口を引つかけ、二三間引摺り出した。そうすると親分の勘吉が巻舌になつて、
『男を売つた勘吉の賭場へ賭場荒しに来よつたのか、素人の貴様にこんな事しられて黙つて居つては男が立たぬ。……オイ与三公、留公、喜楽をのばして了へ』
と号令をかけて居る。自分は逃ぐるが奥の手と、尻を後へつき出し二つ三つポンポンとたたいたきり、一目散に牧場に逃げて帰つて来た。そして門の閂を堅く締めて、若しも戸を打破つて這入るが最後、打ちのばしてやらうと、椋の棒を持つて外の足音を考へて居た。
 其夜は何の事も無かつた。勘吉も口程にない奴だと安心して牧場に眠つて居ると、夜の十時頃、二三の乾児を連れて門口へやつて来た。そして、
『オイ喜楽、一寸用があるから外へ出て呉れ』
と呶鳴つて居る。流石に先方も、迂闊に這入つて鳶口でやられては堪らぬと思ふたか、門口に立つて誘ひ出してゐる。自分は故意とに作り鼾をして寝たふりをして居た。そして樫の棒を寝床の横に置いてあつた。暫らくすると女の声で、
あんたハン、立派な侠客サンぢやおまへんか、たつた一人の、あんな弱々しい喜楽サンに喧嘩に来るなんて、男が下りまつせ、さアあんたハン、一杯桑酒屋へ飲みに行きまほ
と勘吉の頬辺をピシヤピシヤたたいて居る音が聞えて来た。此女は中村の多田亀と云ふ老侠客の娘で、多田琴と云ふ女である。或機会から妙な仲となつて居つた。其琴が中村から遥々とやつて来て、門口で河内屋に出会ふたのである。流石の侠客も、横面をやさしい声で殴られてグニヤグニヤになり、五六丁下の吉川村の桑酒屋へ酒を飲みに行つて了つた。


■本教創世記

本教創世記第9章に妻について書かれている、部分があるのですが、後年の確定した聖師伝とは違った表現になっています。

●西への旅立ち

 富士の眷属の芙蓉坊が「西に行け」と命じた。妻や母が心配するだろうから遺書を残した。

 王仁三郎の内縁の妻は多田琴であったそうですが、ここの妻もそうでしょうか。後の聖師伝では妻のことは出てきません。

 物質的文明に心酔している現社会の人民は、強食弱肉を以て天理の如く思考し、無慈悲で、殺伐で、利己主義である。悪魔同様である。

 現社会は黄金国ではない、地獄である。文明ではない。野蛮の頂点に達して、一も二もなく生物を殺して喰う猛獣国である。此(この)ままに放任して置いたなれば、此の世界は肉食の為めに破滅を来たさねば止まぬ。此肉食の為めに偽文明の人民が皆気が強くなり、勢が激しくなり、ナトリウムの為めに、始終肉体は火気を保って、活気は十分あるが、それに引き替え、慈悲心は断滅し、生存競争は益々狂烈になり、その所へ向けて無神論なぞの馬鹿の智識が東漸して、日本民族の日本的精神を変化させて、人民を小利口にし、小理窟を云う者斗りになって、神国たる事を全然忘却して、愛国を減少し、競うて異邦の道を尊重し、国体の神聖なるを解せずして、奇怪千万なる倫理説に迷うて、宗教なり道徳を疑い、社会の政令法度を馬鹿にし、敦厚なる風習を嘲り、大地震が揺らずとも、大戦争が無くとも、大暴風や大火災の為めでなくとも、此社会は自然に破滅する様に成って往くから、今の中に此大不都合なる社会の風潮を一掃して、精神的文明を鼓吹して、惟神の徳性を拡充し、以て世界人類の為めに身心を尽して、神界に祈請しつつあったが、今や天の時到りて、余の身は出世間の人となりたから、神教のまにまに円満芙麗なる天国に到り、心魂を清めて宇内の為めに奉ぜんとす。

 今や余が身は、余の自由にならざると同時に、余の心身は、毫も余の所有物にあらざるを覚悟したのであるから、天下公共の為めに、天の命を奉じて、天津神国に欺道(しどう)の大義を探究せんとするのである。而して余が身は、俗界を脱したる神の住み玉う城郭となったから、一時、母の事やの事、妹や弟の事等は忘れねばならん。必ず天下公共を救う為めの修業であるから、案じて呉れない様に。不在中は、神前に燈火を献じて、余が首尾よく神命を遂げて帰宅するのを祈って下さい。

この後の多田琴については次の論考で触れています。


15.侠客修行

侠客修行をはじめ喜三郎でしたが、親戚の上田次郎松が美人局(つつもたせ)に会い、それを仲裁するために乗り出し、結局夜道で河内屋勘吉に襲われることになります。10月のことでした。

物語37-1-3 1922/10 舎身活躍子 破軍星

物語37-1-4 1922/10 舎身活躍子 素破抜

物語37-1-5 1922/10 舎身活躍子 松の下

 斯う云ふ事が何回も重なり、河内屋や若錦の身内から敵視されて、八九回も大喧嘩が始まり、何時も喜楽は袋叩きにやられ勝であつた。何時も叩かれもつて、心に思ひ浮かんだのは斯うである。
『何だか自分は、社会に対して大なる使命を持つて居る様な気がする。万一人に怪我でもさせて法律問題でも惹起したならば、将来のためにそれが障害になりはせないか?』
と云ふのが第一に念頭に浮かんで来た。其次には、
『人に傷つけたならば、屹度夜分には寝られまい。自分は何時も真裸になつて、石だらけの道で相撲をとるが、力一杯張りきつた時は、如何な処へ真裸で打ち投げられても少しも傷もせぬ、痛みもせぬ、之を思へば、全身に力を込めてさへ居れば、何程叩かれても痛みも感じまい』
との念が起り、指の先から頭の先迄力を入れて、身体を硬くして敵の叩くに任して居た。……もう叶はぬ、謝まろか……と思つてる間際になると、何時も誰かが出て来て、敵を追ひ散らし、或は仲裁に入つて、危難を妙に助けて呉れた。それで、
『人間と云ふものは、凡て運命に左右されるものだ。運が悪ければ畳の上でも死ぬ。運がよければ、砲煙弾雨の中でも決して死ぬものでは無い』
と云ふ一種の信念が起つて居た。それ故人に頼まれたり、頼まれなくても喧嘩の仲裁がし度くなつたり、或時は、
『思ふ存分大喧嘩をやつて……偉い奴だ! 強い奴だ! と云はれ度い。そうして強い名を売つて、仮令丹波一国の侠客にでもよいからなつて見たい』
と云ふ精神が日に日に募つて来た。其為めに二月八日の晩にも、若錦一派の襲来を受くる様な事を自ら招来したのである。

こうやって、侠客のまねをしていました。これが高熊山に通じて行きます。

なお、この河内屋には後日談があります。

1924年冬のことでした。53歳になっていた河内屋の養子夫婦に子供が授かります。しかし、赤ん坊を宿した嫁のきみがリユウマチにかかり、手足が動かなくなり床にふしてしまいます。どんな医者に見せてもだめでした。

当時、喜三郎は宗教家出口王仁三郎となっていました。河内屋は王仁三郎に助けを求めます。王仁三郎は昔の恩讐を忘れ、きみの病気を治します。孫も無事に生まれました。その翌年、河内屋は大本に入信して、丹波地方に王仁三郎の徳を伝えて回ったといいます。(出口和明氏)



参考資料
 『オニサブロー ウーピーの生涯』十和田龍(出口和明) 新評論



第1版 2005/09/17
第1版(校正) 20150/01/01



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