肝川関係資料


『スサノオの宇宙へ』

○21巻も大正初期の大本教団史と関係が深い。岩根山(兵庫県川辺郡猪名川町)が高春山として書かれている。津田の湖は現在住宅地。鼓の滝は駅名として残っている。岩根山麓に肝川。飯森正芳、友清天行、矢野祐太郎もかかわっている。


『出口王仁三郎三千世界大改造の真相』(中矢伸一)

狭依彦は中矢氏の理論には賛成できません。

兵庫県川辺郡猪名川町、当時は中谷村と呼ばれていた山間部で、車小房という、五人の子を持つ貧農の主婦が、細々と暮らしていた。小房は、大正3年の秋に出口直のような神憑りとなり、大声で叫び出した。これらの神示をまとめたのが『由来記』で、その正統性のほどはともかくとして、大正初期の頃の大本は、この肝川と深く関わりあっている。

小房の神憑りの力と啓示は、次第に大本の信者の間でも評判になり、大勢の人が肝川に集まってきたという。やがて肝川は、大本の支部と位置付けられる。

王仁三郎自身、何度も小房と会っていたことは事実のようである。

開祖昇天後、王仁三郎が直受した『神諭』(狭依彦注 伊都能売神諭 下で引用)にも、肝川の名は多く記されている。

ここまではあらすじ

へたに省略すると意味をそこねますので、ここからは転載します

 小房は、王仁三郎に肝川竜神を見出してもらったことを大変に喜んだ。そして肝川竜神を、王仁三郎の力によって世に出してもらいたいと願った。
 福島久が飯森正芳他2、3名を引き連れて肝川を訪れたのは、大正6年11月のことである。
「直霊軍」の旗上げを肝川で行うので、多忙な王仁三郎の命を受け、代理としてやってきたのであった。
『由来記』によれば、久はこの肝川の地で、肝川竜神を世に出させまいと必死の努力を傾けていた悪霊・草鶴(くさづる)姫の毒牙にかかる。かくして久は、飯森と共謀して肝川竜神の力を借り、大本本部を乗っ取ることを企てた。しかしこの陰謀も、開祖・出ロナオの神眼により見破られ、挫折するに至ったのだという。
 この“肝川騒動”により、王仁三郎は、綾部の本部で大勢の信者たちを前にすべての事情を話し、「肝川にはかくの如き悪霊が根を張っているから、今後自分の許可のない者はけっして肝川に行ってはならぬ」との通達を出す。
 しかし王仁三郎は、以後も小房と個人的には会い、神霊的な話をいろいろと聞いたようだ。
『由来記』には、王仁三郎が「機会あるごとに肝川を訪ね、教祖出ロナオの死後はもっぱら、車小房の啓示によって大本教の基礎を築いたのである」と記されている。
 また、『霊界物語』は、すべて小房が王仁三郎に話したことが書かれてあるのだという。
 真偽のほどは不明である。だが確かに、王仁三郎の筆先には、小房から得た話をもとにしているのではないかと思われる部分もある。
 たとえば、大正8年2月13日の『神諭』には、
「世の元の大御宝を占め固める折に、差添(さしぞえ)に成って活動なされた神は、真道知彦命(まみちしるひこのみこと)青森知木彦命(あおもりしらきひこのみこと)天地要彦命(てんちかなめひこのみこと)の三男神と、常世姫之命(とこよひめのみこと)黄金竜姫之命(こがねたつひめのみこと)合陀琉姫之命(あうだるひめのみこと)要耶麻姫之命(かなやまひめのみこと)言解姫之命(ことときひめのみこと)の五女神、合して三男五女八柱の神を育て上げて、差添の御用を()せなさったのが稚日女岐美尊(わかひめぎみのみこと)であるから、是が九重の花と申すのであるぞよ」
と示されているが、漢字には若干の異同があるものの、これらの神名はほとんどが『由来記』にも登場する神である(青森白木上(しらきじよう)、常世姫、金龍姫、黄陀琉(おうだる)姫、金山(かなやま)姫、若比売君(わかひめぎみ)など)。そして、久に憑かった“義理天上日之出神”なる神の名が出てくるのも、この『由来記』なのである。
 私が思うに、これらの霊的な動きは、広い視野に立って総合的に判断することが重要である。一つのものだけを絶対として取り上げ、他は悪としてすべて排除するような姿勢では、経綸の真相をつかむことはできない。
 大本が善悪の型を示すところであるならばなおさら、福島久や車小房の神憑りについても、冷静に研究する必要がある。その意味では、『日乃出神諭』や『由来記』も、真剣な検討に値する神典であろう。
 ともかく、本書において神経綸の真相に迫る上で重要な神として特に取り上げたいのは、「日の出の神」である。
 この神の正体を解く鍵を握る人物が、昭和3年4月15日、肝川の小房のもとを訪れる。海軍軍人であった矢野祐太郎の妻、シンである。

 矢野祐太郎は、奉天で武器商を経営し、王仁三郎の入蒙を裏で助けた人物であることは先にも触れたが、その後は大本を離れていた。
 小房とはすでに綾部で馴染みであったシンは、この日肝川を訪れると、「肝川竜神を世に出すために働かせていただきたい」と申し出た。そこで小房がシンに、肝川の使命や神より示された責任の重大さなどを説いて聞かせると、シンは「主人と相談の上、必ずその重大使命をやり遂げましょう」と誓ったという。
 こうして、矢野祐太郎は、肝川を訪れるに至るのである。
 王仁三郎の“影の参謀”と言われた矢野祐太郎は、輝かしい経歴を持つエリート軍人であった。少々話が脇道にそれるが、ここで彼の人物像に迫ってみよう。
 矢野は、明治14年3月15日、東京・築地に生まれた。築地中学を出ると海軍兵学校へ進学。同39年12月、大尉の時にシンと結婚し、三男一女をもうけた。
 日本海海戦では、戦艦「三笠」に乗船、参戦したが、この時日本軍の砲弾に不発弾が多かったことを疑問に思い、約2年間を信管の研究につぎこみ、その改良に成功するという功績をあげている。
 大正2年から5年にかけては、軍の特別任務を帯びて大使館付き武官として欧州へ派遣され、イギリス海軍が秘密裡に建造していた異形マストの軍艦の構造を調べる。一方で、世界的な某秘密結社(フリーメーソンのことか)に潜入し、日本包囲伏滅作戦という重大な情報を入手して帰国している。
 王仁三郎は、大正8年12月15日号の『神霊界』誌上において、同年5月10日、某氏より魔素(マツソン)(フリーメーソン)の陰謀・シオンの決議書(シオンの議定書)を手に入れたと語っているが、この某氏とはおそらく矢野のことであろう。
 さらに矢野は、櫓式マストの考案、新合金の試作成功による賂インチ大口径砲の開発、ボタン一つで全艦載砲を自在に操作可能にする電動装置の完成など、英米に比べて劣勢だった日本海軍の戦闘能力強化に大きく貢献し、中佐としては破格の勲三等に叙せられている。
 大正7年より海軍大学校で教官を務め、翌8年には大佐に昇進。まもなく少将に昇進する直前の大正11年、突然海軍を辞して予備役となり、神霊の研究にすべてを捧げるようになる。
 その後大陸に渡り、奉天に武器商の事務所(三矢商会)を構えて張作霖ともパイプを持ち、王仁三郎の入蒙工作を裏で取りしきるが、入蒙事件後、王仁三郎とは喧嘩別れをすることになる。
 矢野は大正14~15年から昭和3年頃までの間、福島久の『日乃出神諭』の研究に没頭する。
 矢野夫妻が小房に接触してきたのは、それからのことであった。
 矢野はもともと史学経典については博学であった。『記紀』はもちろんのこと、『上記(うえつふみ)』『天津金木(あまつかなぎ)』『九鬼(くかみ)文書』及び黒住、天理、金光の各教説、キリスト教は新旧の両聖書に、仏教は八宗の教理に通じていたという。
 矢野は肝川に1年ほど滞在し、研究に取り組むが、ほどなく小房と喧嘩して東京に帰つてくる。
 矢野祐太郎・シン夫妻はどちらも、優れた霊媒的能力を有していたようだ。
 昭和5年11月6日、矢野は“大出口直霊大神(昇天後の出ロナオの御霊の神名だという)”から、「棟梁皇祖皇太神宮へ行け」との勅命を受けた。「それがどこにあるのかもわからず、いろいろと調べた結果、北茨城の磯原にそのお宮があることが判明した」と彼は後に述べている。
 同年11月14日、矢野は皇祖皇太神宮に参拝し、管長の竹内巨麿(きよまろ)と会い、『竹内文書』の研究に取り組むことになる。
 そして昭和7年の節分の夜、矢野祐太郎自身に、『神霊密書』の執筆の神示が降りる。


神霊界 伊都能売神諭(大正7年12月2日)

肝川は八大竜神の守護があるから、大本の分社と致してあるので在るから、肝川には奇(く)しびな神業が見せてあろうがな。

神霊界 1919/02/01 伊都能売神諭(大正7年12月23日)

。大本は時節まいりて五六七の御用を致さす、変性女子の身魂に、大正五年五月五日辰の年午の月に、火水島の五六七の神を祭らせ、大正六年六月には肝川の竜神を高天原、竜宮舘ヘ迎ヘ、大正七年七月には七十五日の修行が仰せ付けてありたのも、皆神界の昔から定まりた経綸が実現してあるのじやぞよ。

神霊界 1919/07/15 伊都能売神諭

肝川の竜神へも勝手に参拝致すと、後になりてから変りた事が身魂に出来て来るから、一寸気を附けておくぞよ。疑ふなら聞かずに行て見よ、其時は何事も無いが後で判る事が出来るぞよ。一度神が申した事は毛筋も違はむぞよ。

神霊界 1919/12/15 随筆

 次に教祖御在世中、神務を帯て参拝せられたる伊勢の内宮、同外宮、同加良洲神社、出雲大社、元伊勢両大神宮、八重垣神社、神島神社、老人島神社、沓島神社、一宮神社、庵我神社、木村の金刀比羅神社、綾部の七社、弥仙山の金峰神社、中宮、三十八社、游与岐八幡神社、鎌倉八幡宮、肝川の八社、兵庫県の官幣大社生田神社、王仁最初修業の霊蹟高熊山に小幡神社、神明神社等の修斎会員有志の団隊参拝は、実に空前の大盛況で在つて、各地の諸新聞雑誌等が、皇道大本教の示威運動なぞと、書き立つるに至りしを見ても、其盛況を知るに足るのである。

 神界の時機切迫と共に、言霊閣の建築完成し、弥々大本神の御経綸なる、言霊実用となり、第一着として、皇国の中心点なる世継王山に登り、王仁を先登に言霊の実験を遂げ、次いで浅野会長以下、各役員の言霊隊を組織して、近江国伊吹山、大和国大台ケ原山を始め、天之真奈井の竹生島に沖の島、日枝の坂本の宮に游与岐の弥仙山、肝川の割岩山等に出陣し、神軍の一大威力を示したるは、天地開闢以来未曾有の大神事で在りました。其後引続き本宮山上の日夜の実習、各地支部会合所の附近登山実習等は、近き将来に於ける大権威発揚の準備とも日ふ可きものである。

朝日新聞 1936/09/01 昭和11年9月1日【夕刊】p2

邪教で送局
海軍予備将校二名
警視庁の邪教摘発の槍玉に上り今春来特高第二課の取調べを受けてゐた目黒区清水町四七二、インチキ宗教『神政龍神会』幹部海軍予備大佐三条比古之こと矢野祐太郎(48)同予備少佐加世田哲彦(52)の両名は調べが一段落付いたので近く『不敬罪』で送局されることとなつた、同人等は元皇道大本の信者であつたが同教が大正十年に当局の弾圧を受けた直後幹部と意見衝突兵庫県川辺郡中谷村肝川支部長車末吉(56)等と共に脱退して神政龍神会なるものを設立信者の獲得に狂奔してゐたものである


朝日新聞 1936/11/19 昭和11年11月19日 p13

大本と天津教をチヤンポン宗教
龍神会首脳近く送局
【既報】目黒区清水町に神政龍神会の看板を掲げ信者獲得に狂奔してゐた同町四七二予備海軍大佐矢野祐太郎(56)同町四七一予備海軍中佐加世田哲彦(40)の両名を大井署から近く不敬罪で送局する事となつた
同署の調によると矢野は欧洲大戦直前海外武官としてロンドンに駐在中「火星からの使」といふドラマを見て刺激され、更に大本教御筆先を見て宗教に興味を持ち任を終へて帰国、退官後の大正七年一家をあげて大本教の本拠京都府下綾部町に居を移し昭和四年迄十数年間熱心な信者として信仰生活を送つてゐた、その間出口王仁三郎が蒙古に神国建設を唱へた際軍事顧問の名目で王天海と名乗り馬賊三百数十名を従へ蒙古入国の直前張作霖の部下に妨げられて目的は達しなかつたがその際大本教の軍資金のイザコザから王仁三郎とはなれ、大阪の同教まさみち道場で一年間同教の教義をはじめ教団経営の秘訣を修得、更に茨城県磯原町天津教を加味した前記神政龍神会といふ新教を樹立し妻しん(51)を神がかりの巫女に仕立て上流階級に働きかけ多数名士の後援を得て兵庫県川辺郡中谷村下肝川に山林二町歩を買占め「地の高天ケ原」と称して本殿建築を計画、布教に奔走してゐたもので
教義内容は日本書紀、古事記等を曲説し「下肝川由来記」「雲の上より」等のパンフレツトに不敬文字を連ねてゐたもの
加世田は元天理教信者で大本教に転じ昭和八年矢野と知合ひ共鳴、昨年十二月退官したもので、本年三月の検挙以来取調べに八ケ月を要し大井署で身柄送局に先立つて一件書類並に証拠書類をトラツク三台に満載送局した

物語38-5-25 1922/10 舎身活躍丑 雑草

 それから小西は京都にも居れなくなり、再び宇津へ帰り中風の気になつて弱つてゐたが、大正六年頃とうとう帰幽して了つた。小西の弟子に小沢惣祐といふ男があつて、これが又江州の貝津へ支部を開きに行き、そこの娘と妙な関係が出来て放り出され、綾部へもやつて来て役員と始終喧嘩許りしてゐたが、遂には綾部を飛出し茨木や肝川などにお広間を建て、暫くすると其土地の役員と衝突して飛び出し、遂には亀岡の旅籠町で京都の大内といふ後家をチヨロまかし、又失敗して大正六年頃綾部へ帰つて来て、元の祖霊社で腹を十文字にかき切り、喉をきつて自殺して了つた。それから杉井新之助といふ男が出て来て、大本を交ぜ返し、自分が全権を握らうとして、二代澄子に看破され、叱りつけられて、柏原の大本の支部へまはされ、そこで大本の反対運動を起し、大社教の教会を建て、今に宣伝してゐるさうである。



第1版 2005/09/24
第1.1版(一部修正)2015/01/02

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