大本略義

1.大本略儀

2.天之御中主神

3.天之御中主神の御神業の四段階

4.幽之幽、幽之顕、顕之幽、顕之顕


1.大本略儀

 大本略儀は大正五年九月に出口瑞名で口述し、大正十四年三月二十九日に成瀬勝男が写しています。これは、神霊界などの雑誌には掲載されていないようです。

「出口王仁三郎著作集 第1巻」(講談社)に所収のものを読みました。

 この文書には、大本の真神である天之御中主神の働きが、幽之幽、幽之顕、顕之幽、顕之顕についてかかれており、霊界物語の霊界観を考えるためには大いに参考になると思います。


2.天之御中主神

(1)天之御中主神とは

◎ 天之御中主神 天之御中主神は宇宙の本体それ自身である。
◎ 霊・体 天之御中主神が、その絶対一元の静的状態から動的状態に移る時に発揮する二元の呼称である。
霊……陽  火
体……陰  水     とも言われる
◎  力とは霊体ニ元の結合の瞬間に発生するもの
◎ 小天之御中主神 天之御中主神は一神であるが、その分霊の小天之御中主神が宇宙には満ち溢れている。すべてのものに小天之御中主神がある。


(2)天之御中主神の御神業の二方面

    ① 理想世界たる神霊界の大成

    ② 理想世界たる人間界の大成

   *明治25年に、天之御中主神は国常立尊に対して、神霊界と人間界の大々的整理を行う命令を下した。
      これが、立替立直しである。

(3)天之御中主神の太陽・太陰・列星の創造

◎ 静的状態

天之御中主神が静的状態におられる時は、天地未剖伴であり、霊・体の区別もない。この状態はあったのであろうが、ほんの一瞬であり、活動を始めたら止まることはないので、哲学的考察の必要はないだろう。

◎ 進左、退右の根本運動の開始

「進」、「退」の語にあまり意味はない。二つの対立する状態を表す。「進」は霊、「退」は体、そこで、霊主体従の本義がある。「進」、「退」が同じ力であれば、均衡してなにも動かない、「進」の方が少しだけ多くなれば、バランスが崩れて動き出す。

進左、退右の運動により、重いものは宇宙の中心に、軽いものは外へ分かれた。中心に集まった重いものから、分かれ天体となった。最後に残ったのが大地(地球)である。

(4)天之御中主神の別名

天之御中主神 = 大国常立尊 = 天照皇大神 (天照大御神とは違うことに注意)

本文 改行を一部変更しています。*のついた節立ては便宜上のものです。
本文の太字、色付けは筆者。

天地剖判

 兎に角、宇宙間に、この「進左退有」の根本運動が開始され、其の結果が天地剖判、日月、地、星辰(せいしん)の顕現という事に成って来るのであるが、この事を理解する為めには、先ず大宇宙の形態に就きて、正確なる観念を有する事が必要だ。大宇宙は吾々人間から客観すれば、時間、空間共に無限であり、無始無終である。

 到底、其窮極、際涯を知る事は出来ない。併し乍ら、天之御中主神から主観され〔ゐ〕れば、無限でも無く、無始無終でもないに決って居る。そして其全体に亘りて、統一あり株序ある進左退右運動を始められたとすれば、無諭其運動には、大中心もあり、又太極もあるに相違ない。一個の大中心から、東西南北、四方八面に向って太極がありとすれば、茲に吾々の頭脳には、髣髴として至大天界の在ることが浮んで来る。

 かくして出来た至大天球の内部は、最初は混沌として天地の区別もなかったが、遊左退右の旋回運動が継続さるる中に、軽く澄みたるものと、重く濁れるものとは次第に分離され、そして軽きものは外周に、重きものは中心に向って凝集して来る。

 是れは吾々が簡単な方法で実験して見ても判る。泥水を円形の器物に入れ、左右の手で、とんとん叩いて旋回運動を与えるなども、一の実験法である。そうして居ると、泥は次第に中央に向って突起したように凝集し、周囲の方は澄んで来る。又立体と平面体との差別はあるが、円盆の上に、豆だの塵だのを載せて掻き混ぜて置き、同様に両手で叩いて見ても判る。軽い塵は周囲に集り、重い豆は中心に集る。農夫などは、惟神に此の天則を知って居って、平生、此方法で塵と穀類との選別をして居る。

 天とは、宇宙の内部で軽く澄みたる所の総称で、科学者はエーテル界などと称える。又地とは、重く濁れるものの総称で、即ち物質世界である。無諭、天も陰陽二元から成り、地も同様である。只陰陽の配合に於て、二者甚だしく趣きを異にする。根本の原質に於て差異はないが、形態機能の上には多大の相違がある。

 天地剖判の初頭に於てば、天に対して地も唯一個であった。旋回運動が継続されて居る中に大地の内部に於ても、重い物と軽い物、澄んだ所と濁った所とが次第に区分され、外周に集合した所の比較的軽く澄んだ所、例えば瓦斯体は、或る時期に於て、中心の固形体、又は液体との共同運動(が)不可能となり、終に分離して了う。そして天の一角に或る位置を占めて、一方宇宙の大運動に伴いつつ、自己も亦独立せる小運動を続ける。これが第一の星である。次に第二の星が分離し、次に第三、第四、第五と次第に分離して、現在見るが如き無数の天体を形成するに至った。

 是等(これら)諸星辰の分離に連れて、無諭地の容積は縮小又縮小、最後に太陽、太陰等と分るるに及びて、現在の大地と成って仕舞った。容積から言えば、天体中には大地球よりも大きいものもあるが、併し宇宙の中心という点から言えば、大地球がそれであらねばならぬ。最早大地は大体出来上って、此上分離するものがなく、例えば充分酒を絞り上げた酒粕の如きものになって居るのだ。


3.天之御中主神の御神業の四段階

幽之幽、幽之顕、顕之幽、顕之顕の働きを四段階同時に行っている。

  働き 古事記の時代では
幽之幽 天地初発の根本造化の経営 伊邪那岐命、伊邪那美命以前
幽之顕 理想世界たる天界の経営 伊邪那岐命、伊邪那美命の活動から三貴神の御顕現
顕之幽 地の神界の経営 天孫降臨から神武天皇以前
顕之顕 現実世界から人間界の経営 現在

 

*一神と多神

 宇宙根本の「力」を体現するものは、既に述ぶるが如く、宇宙を機関として、無限、絶対、無始、無終の活動を続け給う所の全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。此意義に於て、宇宙は一神であるが、宇宙の内部に発揮さるる力は、各々分担が異り、方面が異り、性質が異り、軽重大小が異り、千種万様、典窮極を知らない。そして是等の千種万様の力は、各々相当の体現者を以て代表されて居る。

 此意義に於ては、宇宙は多神に依りて経営され、所謂八百万神の御活動である。由来一神論多神諭とは、相背馳(あいはいち)して並立する事が出米ぬものの如く見なされ、今日に於ても尚お迷夢の覚めざる頑冥者流が多いが、実は一神諭も多神諭も、共にそれ丈では半面の真理しか捕らえて居ない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、之を捲けば一神に集まり、之を放てば万神に分るのである。此の意義に於て、天地、日月、万有、一切悉く神であり、神の機関である。小天之御中主神である

 世人の多数は、現象に捕らえられ、物質に拘泥して、神に就きて正しい観念を容易に有(も)ち得ないが、元釆、言葉の意義から査(しら)べて、神とは「火水」である。即ち陰陽、霊体、火水の二元が結果して、各自特有の「力」を発揮するものは皆神である。それが幽体であろうが、現体であろうが、共に神である事に変りはない、幽と現との区画は、そう分明なものでない。甲の人の眼に映ずるものが、必ずしも乙の人の眼には映じない。換言すれば、甲には現であるが、乙には幽である、という事になる。即ち現体といい、幽体といい、人といい、神といい、単に大小、高下、強弱、清濁、軽重等の差違丈で、根元に於ては同一である。程度の差違丈で、原質の差違ではない。

 自已の肉眼に見えないものは、多くの人は否定したがる、少くとも疑を挿みたがるが、色盲患者が五色を見せられた時に、「これは三色である」、「四色である」と主張するのと、何の相違はない。だから従来、肉眼本位、物質本位の人でも、充分修業を積みて、一旦、霊耳霊眼等が開け出し、所謂神の言葉をきき、神の姿を拝することに成ると、多くは翻然(ほんぜん)として大悟し、「自分が足りなかったのだ」という事が判って来る。現在、地上人類の大多数は、悉く一種の色冒患者であるから、五色を見せられ乍ら、これはたった三色であると主張する所の頑冥者流が多いのである。

顕幽の神称

*古事記の四段階

 『古事記』の解釈は、従来、表面的辞句の解釈に止まり、従って荒唐無槽にして寧ろ幼稚なる一の神話として取扱われて居たが、大本言霊学の活用によりて、漸く其真面目が発揮され、深遠博大、世界独歩の真経典たることが分って来た。

 之によりて観ると、天之御中主神の御神業は、大別して四階段を成して居る。第一段が天地初発の根本造化の経営で、皇典でいえば、伊邪那岐、伊邪那美以前である。第二段が理想世界たる天界の経営で、主として、伊邪那岐、伊邪那美二神の御活動に係り、三貴神の御顕現に至りて、それが一と先ず大成する。

 第三段が地の神界の経営で、天孫降臨から神武天皇以前に達する、第四段が現実世界たる人間界の経営である。此四階段は、決して単に時代の区別ではない。寧ろ方面の区別である。換言すれば第一段が全部済みて第二段の経営に移り、順次に第三段、第四段と成って来たのではなくして、四階段同時の活動であり、経営である。

 そして現在に於ては、何れも未製品で、不整理、不整頓を免れず、又各階段め連絡も充分でない。『大本神諭』の所謂「世の大立替大立直」を待ちて、始めて目鼻がつくという状態に成て居る。無論、天だの、地だの、神だの、人だのが、ごちゃごちゃに同時に出来上ったのではなく、秩序整々、適当の順序を以て発生顕現したのであるから、其点から考うれば、時代という考もなくてはならぬ。矢張り第一段の経営が真先に始まり、第二段の経営が之に続き、第三段、第四段とは成って来たのだ。ただ四階段の経営が、悉く現在まで引続き、そして今後〔度〕も永久に続くのである事を忘れてはならぬ。此事が充分腑に落ちて居らぬと、天地経綸の真相は到底会得なし得ない。現在大活動を為されて居る神々を、歴史的遺物として遇する様な大過誤に陥ちて了う。

 吾々は、説明の便宜の為めに、此階段に名称を付して呼んで居る。即ち第一段が「幽之幽」、第二段が「幽の顕」、第三段が「顕之幽」、第四段が「顕之顕」である。

*従来の宗教

 此四階段に就きての明確な観念を伝えて居るものは、古経典中、独り『古事記』あるのみで、他は、大抵最初の三階段を、ごっちゃに取扱ったり、又は無関係のものの如く取扱ったりして居るから、天地の経綸などという事が到底腑に落ちない。宇宙と天体との関係も分らず、天津神国津神との区別も分らず、宛然(さながら)、暗中模索の感がある。

 従米の宗教などは、其様(そん)な片輪な、不完全な、幼稚なものを提(ひっさ)げて、「之を信仰せよ」と迫ったのだから、随分無理な話だ。頭脳の鈍い者には、迷信も出来ようが、いやしくも健全な理性常識を具えて居る,人には、到底出来ない。十八、九世紀以降、無神、無宗教を唱うる者、年々歳々増加したのは、まことに当然の話である。在来の宗教などを信奉する人は、単にそれ丈で頭脳が健全でない事を証明して居るのだ。或る程度迄、天文、地文学に背反し、考古学に背反し、古生物学に背馳し、歴吏に背馳し、理化学に背馳し、倫理、人道に背馳し、その他諸種の科学や常識に背馳して居る宗教が、何で人類に対し絶対の権威を有し得る筈があるものか。真正の大道は、是等一切の学間を網羅抱擁し、其不完全を補い、典誤謬を正し、尚お進んで其根原に遡り、典出発点を探りて、帰一大成するものでなければならぬ。無諭天地間の秘奥は、人問(の)小智小才を以て探ぐるのみでは、不充分である。人間の推理研究には程度があって、大宇宙の奥底に透徹するなどは思いも寄らぬ。

 凡ての科学、哲学等が大成せぬは、之れが為めである。最高の堂奥は、是非とも偉大純正なる神啓に待たねば分らぬ、昔では、我皇祖皇宗〔祖〕の御遺訓たる『古事記』、今では、国祖国常立尊の垂示し給う『大本神諭』等が、即ちそれである。何れも人間の椎理研究の結果として生れたる産物ではなく、醇正無二の大神啓である。従って議論や理屈を超越して居るが、併し決して正しき議論、正しき理屈、正しき推理研究と背馳しないで、却って之を補成、抱擁して、余俗綽綽たるものがある。理屈から言うても、成程と首肯せざるを得ぬものである。それでこそ、人生に対して絶対の権威ある真正の大道である。自分は、是から皇典に拠りて、四階段の分担方面、及び各階段の関係、脈絡等を説明したい。


4.幽之幽、幽之顕、顕之幽、顕之顕

神界も現界も常に陰陽二系の並立である。

幽之幽 ◎天地初発の根本造化の経営
◎神界の奥の奥に位置する、天地万有発生の基礎を分担する根本の祖神の活動所
◎神は天御中主神他(天御中主神の各方面の働き)

     ┌進左(霊系)  代表 高御産巣日神  国常立神(大地の修理固成)
      │           (主、天、男、表、上、霊界)
二大祖神─┤  
      └体右(体系)  代表 神産巣日神  豊雲野尊(天地の修理固成)
                   (従、地、女、裏、下、現界)
◎三神: 高御産巣日神 神産巣日神 天之御中主神

幽之顕 ◎理想世界たる天界の経営。宇宙内部の理想的細則。
◎便宜的に天の神界と呼ぶ。
◎宇宙を舞台として活動する神々(天津神)の世界
◎八百万の天津神は、形体としては天地創造で作り出された天の月日、星である。

     ┌伊邪那岐命  高御産巣日神の顕現
二大祖神─┤  
      └伊邪那岐命  神産巣日神の顕現


     ┌奇魂 霊の霊
 天地 ─┤          ┌系の天体(荒魂 代表・太陽 霊の体
      └大地幸魂 体の体)┤
                └系の天体(和魂 代表・太陰 体の霊

◎三貴神の誕生

      ┌左眼 天照大御神 霊 高天原の主宰(全宇宙)
      |
伊邪那岐命─┼鼻  須佐之男命 霊体両方 大海原の主催  
      |
       └右目 月読命   体 夜の食国(従)

顕之幽 ◎地の神界の経営
◎ここ大地の内部を舞台として活躍する神を国津神という。
◎大地は特に重要な宇宙の縮図である
◎天と地を対立併称する
◎八百万の天津神の分霊は悉く大地に宿っている、それが八百万の国津神の霊魂である。本霊と分霊は相呼応して活動する。
◎国津神の発生は大地の凝結集成と其の時を同じくし、之を経営すべき使命を帯びて発生した。

        ┌霊系(天)  天照大御神
国津神を生んだ─┤  
         └体系(地)  須佐之男尊
◎上記の関係から、国津神にも水の系統と火の系統がある。

顕之顕 現実世界から人間界の経営

 

幽の幽

 宇宙の大元霊から、陰陽の二元が岐(わか)れ、それが万有の根元であると云うことは、既に説明したが、此原則は何所迄行っても厳格に守られ、神界も現界も、常に陰陽二系の併立を以て終始一貫する

*「幽之幽」の神々

 先ず「幽之幽」から説明するが、『古事記』でいうと「幽之幽」の神々は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇麻志阿志訶備比古遅神、天之常立神、国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、須比智邇神、角杭神、活杭神、意富斗能地神、大斗能弁神、オ母陀流神、阿夜訶志古泥神等である。

 天之御中主神が活動を起して、宇宙内部に進左退右の運動が開始されたとなると、此の「進左」と「退右」という正反対の根本的二大力を司るべきもの、即ち「進左」と「退右」との体現者がなければならぬ。それが即ち高御産巣日神と神産巣日神とである。高御産巣日神は「進左」を司りて、霊系の祖神であり、神産巣日神は「退右」を司りて、体系の祖神である。

 地位、活動等の関係から述ぶれば、前者は主であり、君であり、天であり、男であり、表であり、上であり、そして霊界の経綸に当り玉う。後者は従であり、臣であり、地であり、女であり、裏であり、下であり、そして現界の造営を司る

 宇宙内部の経綸が進むに連れて、霊系、体系共に、無数の神々が顕現するが、皆此二大祖神の分れである。二大祖神の発揮さるる力の一分担者である。霊系に属するものの一切を捲き収むれば、悉く高御産巣日神に帰し、体系に属するものの一切を捲き収むれば、悉く神産巣日神に帰する。更に高御産巣日神と神産巣日神とを捲き収めて、帰一せしめたとすれば、それが即ち天之御中主神である。三神一体、三位一体は、此間の消息を伝えたものである。

 宇麻志阿斯訶備比吉遅神以下、悉く相対的活用を司り、霊体二系、六対の神々に分類することが出来る。即ち比古遅神は、霊系に属し、温熱を供給し、万物を化育する根元の働きを宰り、天常立神。は、体系に属し、水系を集結し、天体を構成整理する根元の働きを宰り玉う。次に国常立神は、霊系に属し、経に大地の修理固成に当り、一貫不変の条理を固守せしむる根本の働きを宰り、又豊雲野神は、体系に属し、緯に天地の修理固成に当り、気候、風土等の如何に応じて、異別的特色を発揮せしむる根本の働きを宰り玉う。現在起りつつある二度目の世の立替立直とても、詰り此二神の根元の働きの連続である。

 国常立神と豊雲野神との働きに就きては、後章に細説することとして、爰では他神の働きに移る。宇比地邇、須比地邇の対神は、宇宙根元の解力ど凝力とを宰り、角杭、活杭の対神は、宇宙根元の弛力(しりょく)と引力とを宰り、意富斗能地、大斗乃弁の対神は、宇宙根元の動力と静力とを宰り、オ母陀流、阿夜訶志古泥の対神は、宇宙根元の分力と合力とを宰る。即ち宇宙間に起る所の八大力は、以上挙げたる八大神の分担に係(か)かるものである。

*古事記と大本神諭

 「幽之幽」は神界の奥の奥に位し、天地万有発生の基礎を分揮さるる根本の祖神の活動所で、「顕之顕」に活動する人間からは、容易に窺知する事小出来ない。霊力体を具えらるる神々であるから、某原質は、敢て人間と違った所はない、言わば人間と親類筋であるが、清濁、大小の差が大変遠う。いわゆる『古事記』に所謂「独神成坐而(すになりまして)、隠身也(すみきりなり)」とある通り、聖眼、之を視る能わず、賢口、之を語る能わざる境涯である。不生不滅、不増不減、至大無外、至小無内の極徳を発揮されて居る。之を仰げば益々高く、之を探れば弥々(いよいよ)深く、之を望めば弥々遠く、其威力は常に不可抗の天理天則と成りて、宇宙万有の上に圧し来る。

 『大本神諭』の所謂「時節」「天運の循環」などという事も、詰まり「幽之幽」の経綸に属する事柄で、それが全一大祖神天之御中主神によりて統一されるから、一糸みだるる事がない。「天道是か非か」なぞというのは、微弱偏小な愚人のたわごとで、天道は是非を超越した絶対の大権威である。宇宙の存在する限り、まぐる事は出来ない。

 二度目の大立替、大立直とても、同じく天道の発現である。宇内経綸の道程に於て、是非通過せねばならぬ関門である。一日の遅速も、一毫の加減も許されない、天地創造以来の大約束であるのだ。されば『古事記』三巻、千百余年の昔に書かれたものであり乍ら、今日の事が其裡に予言されて掌を指すが如く、立直に関する大方針まで明示され、『大本神諭』一万巻、明治二十年代から筆に現れて居るもので、現在世界の変局に処すべき細大の事項を網羅して余うんなしである。人間でも、守護神でも、絶対的服従を迫らるる所以は爰にある。

幽の顕

 「幽之幽」神界は、宇宙内部の各機を掌どる所で、即ち造化の根元は爰に発するのであるが、此所の活動では、現象としては宇宙間に何等の痕跡も現出せぬ。

*天之神界と地之神界

 「幽之顕」神の顕現に及びて、始めて或程度迄、現象にも現われて来る。「幽之顕」界は、即ち宇宙を舞台として活動する神々の世界で、人間界から之を見れば、一つの理想世界である。皇典で天津神と称えるのが、即ち此界の神々を指すので、今便宜上、此界を天之神界と称えて、地之神界と区別する事にした。
 *筆者注  皇典 「古事記」と「日本書紀」

*宇宙の創造と天津神の出現

 自分は前章に於て、神々を力の表現と観て、宇宙内部が次第に整理せられ、天地、日月、大地、星辰剖判する次第を略述したが、取りも直さず、あれが天の神界の創造大成である。即ち客観的には、天地、日月、大地、星辰の出現であるが、主観的には八百万の天津神達の出現である。

 天文学というものは、是等の天津神をば物質的機械的に取扱い、専ら其形態、組織、運行の法則等を推定せんとする努力である。恰かも生理、解剖学者が人体に対して行う所と同一見地に立って居る。一面の真相は、之によりて捕捉する事が出来る。其方面の開拓も、今後益々発達せねばならぬが、単にこれ丈に止まりては、偏頗(へんば)不完全を免れない。

 生きたる人体の全部が、生理、解剖等の力で到底判らぬと同じく、活機凛々たる天津神の活動は、決して天文学のみでは判らない。是非とも、其内部の生命に向って、探窮の歩を進めねばならぬ。それが即ち言霊学であるのだ。『古事記』は、此点に於て至尊至貴のい天啓を漏らし、あらゆる世界の古経典中に、異彩を放って居る。即ち『古事記』上巻、伊邪那岐、伊邪那美二神の御出生から始まり、二神が多くの島々やら草木、山川、風雨等の神々をお産みに成り、最後に天照大御神、月読命、建速須佐之男命の三貴神をお産みになる迄の所は、実は天之神界の経営組成の大神業を描いてあるのであるが、前にも一言せる通り、表面から解釈すれば、頗る幼稚なる神話としか思えない。「大本言霊学」の活用によりて、始めて其裏面に〔を〕隠されたる深奥の意義が闡明される。

*伊邪那岐命・伊邪那美命

 天之神界の経綸を主として担当された神は、伊邪那岐、伊邪那美の二神であるが、伊邪那岐の命は、霊系の祖神たる高御産巣日神の顕現であり、又、伊邪那美命は、体系の祖神たる神産巣日神の顕現である。換言すれば、天地初発の際に、「幽之幽」神として宇宙の根本の造化の神業に活動きれた霊体二系の祖神が、万有の根源たるべき理想世界を大成すべく活動を起され、複雑神秘なる産霊(むすび)の神業によりて、八百万の天津神を産出し玉うたのである。

*天津神

 既に「幽之顕」神と申上ぐる通り、或程度、天津神々の形態は、肉眼にも拝し得る。日、地、月、即ちそれである。しかし、其全貌は到底人間界から窺知し得る限りでない事は、天文学者が最もよく熟知して居る。吾人の生息する大地すら、僅かに泰面の一部を探知し得るに止まり、之に関する人間の知識は、実に浅薄を極めて居る。科学者が査ぶれば査ぶるが、哲学者や霊カ者が究むれば究むる程、奥は深く成るばかりで、決して其際涯を知ることが出来ない。顕は顕だが、大部分は矢張り幽の領域を脱し得ない。「幽の顕」神と唱える所以は爰に存する。

 とかく人間は、兎角自己を標準として推定を下し、神といえば、直ちに人格化せる神のみを想像しようとする。そして自己に比較して、余りに偉大幽玄なる太陽、太陰、大地、星辰等は、一の無生機物であるように思惟したがるが、この幼稚な観念は一日も早く放棄せねばならぬ。人体に寄生する所の微生物には、恐らく人体の全貌を理会想像するカが無いであろうが、人間も亦、うっかりすると同様の短見に陥る。

 あらゆる天体は、霊カ体の渾成せる独立体で、活機凛々、至大天球間を舞台として、大活動を行う所の活神である。遠距離の星辰から人間が享くる所の恩沢は判らぬにしても、少くとも自己の居住する大地、並に太陽、太陰等から、日タ享くる所の恩沢位は、人間に判らねばならぬ。人間がいかに自由を叫んで見た所が、大地の上に支えられ、大地の与うる空気を吸わずには居れぬ。電気や瓦斯で天然を征服したなどと威〔意〕張って見ても、若し三日も日輸の照臨する事なかりせば、何人か気死せずに居れよう。天地の恩沢は、実に洪大無辺である。ただ余りに洪大無辺なるが為めに、却って共恩沢を忘れ勝ちになるのである。人間が之を天体などと云うは、畢寛忘恩と浅慮と無智とを標榜する(も)のである。単に漠然と其形態を認める丈で、其奥に控えたる天津神の偉霊を窺知する能カに欠乏して居る。
 八百万の天津神の霊魂こ(そ)は、取りも直さず、宇宙全一大祖神の大精神の分派分脈である。之を捲き収むれば、根源の一に帰し、之を分ちに分てば、千万無数の心霊作用となり、微妙複雑なる宇宙の経綸を行う。即ち「幽之幽」神界の大成で、宇宙内部の基本大綱が定まり、「幽之顕」神界の大成で、なお宇宙内部の理想的細則が定まる次第である。無論、宇宙内部は尚未製品で、従って「幽之顕」神界としても、従来は絶対的理想には仕上っては居ないが、吾々人間界からは、常に理想の標準を爰に求めねばならぬ。

理想の標準

*「幽之顕」神(天津神)の働き

 天津神、換言すれば天体を機関として活動さるる「幽之顕」神の働きは、細別すれば干万無数に上るが、宇宙造化の根源に於て確立されたる陰陽二系の法則は、爰にも厳守される。

 天地が初めて剖判した時には、宇宙間は、只一個の天に対して只一個の大地を包含するのみである。そして天は陽にして主位を占め、地は陰にして従位を占める。更に此大地は、無数の天体に分裂するが、要するに、これも火系(陽)に属するか、水系(陰)に属するか、決して此二つを出ない。宇宙内部に羅列する無数の天体中で、最も顕著に火系を代表するものは太陽であり、水系を代表するものは太陰である。
 *筆者注  太陰 月のこと

*四魂

 「大本霊学」は、この天、火、水、地の四大を基礎とし、霊魂の研究も常に出発点を爰に求める。霊魂の働きは、之を四分類し得る。即ち奇魂、荒魂、和魂、幸魂の四魂である。

 宇内の経綸は、体から云えば天、火、水、地の四大配置に係るが、用から云えば、奇魂、荒魂、和魂、幸魂の活用に外ならぬ。霊の霊というべきは奇魂の働きで、天に配し、霊の体というべきは荒魂の働きで、火に配し、体の霊と云うべきは和魂の働きで、水に配し、体の体というべきは幸魂の働きで、地に配する。四大と四魂とは、結局、宇宙内部の経綸を、物質と精神との二方面から観察したものに外ならない。

 天を代泰するものは奇魂であるが、これは和魂が其活動の中枢を代奏するということで、無論そのおのおの中には、他の三魂も具備されて居る。割合から云えば、和魂四分五厘、奇魂二分五厘、荒魂、幸魂各々一分五厘位の見当である。他の火、水、地等に於ても同様である。即ち天の中に四魂を配し、火にも水にも,各々四魂を配すれば、十六種の配合を得。更に其十六種の各魂に、復た四魂を配すれば、六十四種となり、更に之を繰り返せば二百六十種となり、更に幾度も之を重ぬれば、六万五千五百三十六種ともなる。

 霊魂の活用は、斯くの如複雑で且つ微妙であるから、推理分析等にたよって見ても、容易その根抵まで究め得ない。例えば天体から放射する光線や温熱にも、必らず神意の発動があるに相違ないが、現在の科学の程度では、殆んど之を捕うるに由なしである。古来行われた星ト術などは、幾分此間の機微を覗ったものに相違ないが、茫洋不正確の憾(うらみ)があったので、いつしか社会から葬り去られて了った。

 我が大本霊学には、之を研究すべき二大分科がある。一は言霊学で一は『神諭』である。前者は霊魂の種類、性質を声音から推究するもの、後者は霊魂の働きを、玉の緒即ち魂線と観て詮鑿(せんさく)するもので、共に神聖無比の根本であるのだが、長年月に亘りて二者共に埋没して居た。華いなるかな、今や是等の二大分科は、神啓により大本教主の手で漸次、復活大成の緒に就きつつある。

*言霊学

一、言霊学は、志ある者の是非とも研鑚を必要とする学科であるが、これも学間と称するのは勿体ない性質のもので、誠心誠意の人、霊智霊覚の優れたる人にして、初めて其堂奥に達し得るものである。

 抑(そもそも)も「声」というは、「心の柄」の義で、心の発作の表現したものである。心と声との関係の、至微至妙で密接不離の関係を有する事は、吾々が日常経験することでよく判る。喜怒哀楽の変化も、甲と乙との心の相違も、常に声音に現われる。無機物でも、松籟と竹籟とは違い、金声と銀声とは違い、三絃と太鼓とは又違う。声音即ち精神、言霊即ち神霊と見て、決して差支えがない所以である。されば天之神界の神々の御出生ということは、つまりは宇宙の言霊の大成ということになる。

 『古事記』三巻、其解釈法は高低深浅種々に分れて、十有二種にも達するが、最も高遠なる解釈法は、一部の言霊学書としての解釈である。伊邪那岐、伊邪那美二神が島を生み、国を生み、山川草木風雨等の神々を生むということも、そはただ表面の辞義であって、内実は五大母音の発生から、五十正音の発達を説き、更に語典、語則の綱要を説明して居るので、言わば一部の言霊学教科書なのである。

 言霊学より岐美二神の働きを解すれば、伊邪那美の命は嶋り鳴りて鳴り合わざる声、即ち「ア」声である。又伊邪那岐の命は鳴り鳴りて鳴り余れる声、即「ウ」声である。岐美二神は、各々「ア」「ウ」の二声を分け持ちて、一切の声を産み出し玉うので、いやしく音韻学上の知識ある人は、一切の声音が此の二芦を基本とすることは熟知する所である。二大基礎音が一たび増加して五大母音となり、二たび増加して五十正音となり、三たび増加して七十五音声となり、四たび増加して無量無辺の音声となり、同時に森羅万象一切は成立する。

 神即ち声音、声音即ち万有、到底是等を別々に引離して考えることは出来ぬ。声音の円満清朗なるは、取りも直さず霊魂の優秀高潔ということで、一方が存在すれば必ず他方が伴うことは、形の影と離るることが出来ぬと同様である。世界の国民中、五十正音の発音者は日本人、蒙古人、殊に中央部の日本人に限る、之に反して、不純音、混合音たる鼻音、濁音、抑音、促音等の発音者は、支那但しは欧米人である。

*「ス」

 無量無辺の声音の変化は、窮極する所を知らないが、之を還源すれば、只一音の「ス」に帰一する。天之御中主神が万有を捲き収めて帰一せる絶対一元の静的状態が、即ち「ス」である。宇宙根源の「ス」は、現に差別界に生息する人間では経験する事は出来ぬが、小規模の「ス」は間断なく経験し得る。万籟(ばんらい)声を潜め、天地間、寂たる境地は、即ち「ス」である。安眠静臥、若くは黙座鎮魂の状態も、同じく「ス」である。

 「ス」は即ち絶対であり、中和であり、統一であり、又潜勢力である。有にあらず、又無にもあらず、有無を超越したる一切の極元である。統べる、皇(すべらぎ)、住む、澄む、済む等は、悉く同一根源から出発した言霊の活用である。既に宇宙の間に八百万の神々が顕現された以上は、是非とも宇宙の大元霊天之御中主神の極仁、極徳、極智、極真、極威、極神霊を代表して、之を統一主宰する一神がなければならぬ。

 換言すれば、「ス」の言霊の表現神がなければならぬ。神典『古事記』には明瞭〔亮〕にこの間の神秘を漏して居る。三貴神の御出生の物語が、即ちそれである。伊邪那岐命の左の御目がら御出生になられたのが、天照大御神である。左は即ち「火垂」で、霊系を代表される。右の御目から御出生になられたのが月読命である。右は即ち「水極」で、体系を代表される。。御鼻を洗われる時に御出生になられたのが、建速須佐之男命である。鼻は即ち顔の正中に位し、気息の根を司り、左右の鼻孔は、霊体二系の何れをも具えて居る。即ち統治の位地にある。

*三神の職責

 尚お『古事記』は、例の神話的筆法で、三神の御分担御職責を一層確定的に描いて居る。天照大御神の知しめさるる所は高天原であるが、大本言霊学で解釈すれば、高天原は全大宇宙である。天の神界の統治権の所在はこれで明白である。月読命の知しめさるる所は、夜の食国であるが、夜は即ち昼の従である。何所までも天照大御神を扶けて宇宙の経綸に当らねばならぬ御天職である。次に須佐之男命の知しめさるる所は海原である。海原とは大地である、即ち須佐之男命は宇宙の中心に位し、陽と陰との天上の二神の御加護によりて、統治の大責任を果さねばならぬ御職責であるのだが、しばしば述ぶるが如く、従来は宇宙内部の未完成時代であるので、天之神界も尚真の理想世界たる能わず、地の神界の惑乱混濁は、更に一層劇甚を極め、妖気邪気濛々、闇黒時代を形成して居る。これが全部一掃せられて完全円満なる理想時代となるのは、近く開かるべき、第二の天之岩戸開きの暁である。

*第二の天之岩戸開き

 之を以て見ても、岩戸開と云う事が、いかに広大無辺な徹底的の大維新であるかが判るであろう。顕幽両界に跨り、天上地上一切に亘りての大維新である。人間の努力のみで到底出来る仕事ではない。神人一致の大活動、大努力に待たねばならぬ。

 従来、人間も理想世界を将来せん為めには、随分出来る限りの努力をした。宗教的又は倫理的教育の伸長、医術の改良、技術の向上、法律規約若くは各種の条約の設定、博愛慈善事業の推奨等、数え来れば無数に上る。殊に現在、巴里に於ては、所謂世界の名士が人為的に世界を改造せんとして、半歳以上も苦心焦慮して居るが、其結果は何(ど)うかといえば、要するに失敗の歴史に一新例を加えたに過ぎぬ。宇宙の内部は、神も人も天も地も、首尾連関、同一原則で支〔司〕配されて居る一大機関である事を忘れ、人間界で単独に処分解決せんとするのだから駄目だ。一般世人が、一時も早く三千年来の迷夢を醒し、明治二十五年以来、全大宇宙革正の衝に当られて居る国祖国常立尊の前に頭を下げ、神政維新の大神業の完成に従事さるる事を切望する次第である。

厳瑞二霊

*地之神界の組織経綸の大要

 天之神界の組織経綸の大要を述べたから、順序として、爰に地之神界の組織経綸の大要を述ぺねばならぬ。
 天之神界を組織する所の天津神に対し、地の神界の神々を国津神と称〔唱〕える。即ち国津神は、大〔太〕地の内部を舞台として活動する所の神々を指すのである。

 既に説けるが如く、最初大〔太〕地は、今日の如き凝集固成した一小天体ではなく、其太初にありては天地未だ剖判せず、宇宙全体は天にして、同時に又、地であった。それが造化陰陽二系の神々の活動の結果、縮小して先ず大々地となり、更にそれが分裂して八百万の天体と成り、最後に宇宙の中心に現在の大地を成した。

*大地は宇宙の縮図

 されば今仮りに、宇宙間に羅列運行する各種の天体を、八百万の酒に譬うれば、大地は、それ等八百万の酒から絞りあげたる酒粕の総集合体である。かかるが故に、容積から云えば大地は甚だ細微なものだが、この団塊中には、あらゆる天体の要索を含有している。構成の順序から云えば、大地は天体中にありては最後に出来たが、見様によりては、完全なる大地を構成せんがために、日月星辰が先ず分離したとも言える。宇宙の万有悉く宇宙の縮図でないものはないが、この意義に於て、大地は特に重要なる宇宙の縮図である。其の容積の微小なのにも係らず、本邦の古典を初め、何処の国の古経典に於ても、天と地とを対立並称する所以である。

*国津神

 物質にのみ拘泥する偏見者流は、其形の小なるを以て、地球を軽視する傾向があるが、それは一を知って未だ二を知らざるものである。天と地とを対立せしむるのは、決して滑稽でも不合理でもない。陽と陰、霊と体、十(プラス)と一(マイナス)を対立せしむると同意義、同価値を有するものである。兎に角、大地は宇宙間にありて最重要の位置を占むる中心の統一機関で、其中には、あらゆる天体の要秦一切を包含して居ることは、科学の研究の結果から見ても明白である。語を換えて云えば、百万の天津神の分霊は、悉く大地に宿りて居る。それが八百万の国津神の霊魂であるのだ。天津神も八百万、国津神も八百万、そして本霊と分霊とは相呼応して、天と地との経綸を行うのである。恰もも大小無数の歯車が相連関して一大機関を構成するのと、何の相違はないのである。

 国津神の発生は大地の凝結集成と其時を同うし、之を経営すべき使命を帯びて発生したのであるが、其順序手続も、人間界から観れば随分距離が遠く、自然力とか造化の働きとか云って仕舞いたくなる。天津神々を産み成し給うたのは、「ウ」「ア」の二大言霊を受持ち給う所の伊邪那岐、伊邪那武の二祖神であったことは既に述べたが、国津神を産み成すべき大神事を分掌し給うたのは、霊系(天)に属して高天原を主宰し給う天照大御神、及び体系(地)に属して地球を主宰すべき素佐之男尊の神であった。要するに、さきに岐美二神の行われたる同一神事を小規模とし、之を大地に対して行われたので、之を天然現象として言い現わせば、火と水との調和塩梅により、土中から神々を発生せしめたのである。

*古事記

 例によりて『古事記』には、此間の大神事を、神語的外観の下に面白く描破してある。天の八洲河に於ける璽剣の誓約の段がそれである。姉神なる天照大御神は、先ず弟神なる須佐之男尊のはかせ給える十拳剣を請い給いて、三段に打折り、奴那登〔発〕母々由良に天の真奈井に振りそそぎ、佐賀美に賀美(かみ)て吹棄てられた。すると、その気吹(いぶき)の狭霧に成りませる神は三女神で、即ち多紀理姫命、市寸島姫命及び田寸津姫命である。

 次に須佐之男尊が、先ず天照大御神の左の御鬘に纏せる八尺の勾玉を請い受けて、気吹放たれると、御出生になったのは正勝吾勝命であった。次に右の御鬘の珠からは天之菩日命、御鬘の珠からは天津彦根命、左の御手の珠からは活津彦根命、右の御手の珠からは熊野樟日命、併せて五彦神が御出生になったのである。

 この物語が含蓄する神秘は実に深い。須佐之男尊は体系(陰系、水系、地系)の活動力である、この活動力を表現する剣を中枢とし、霊系(陽系、火系、男系、天系)の活動力たる天照大御神の御魂を以て外周を包めば、生れたものは三女神である。それと正反対に、天照大御神の御魂(璽)を中枢とし、須佐之男尊の御魂を以て外周を包むと、生れたものは五男神である。男性と女性との生まるる神界の秘奥は、爰に示されている。即ち女性の生まるる場合、陰が陽に包まれ、男性の生るる場合陽が陰に包まる。陰陽一対の二神は、かくして或る時は女性を生ましめ、或る時は男性を生ましむるのである。

*瑞の御魂と厳之御魂

 三女神とは即ち三つの御魂である。瑞の御魂である。右の系統、水の系統で、円満美麗にして、みずみずしい御魂である。『大本神諭』に「変性女子の御魂」とあるのは之を指すので、要するに外姿は男性なれども、その内性が女性であることを謂うのである。

 又五男神とは、即ち五つの御魂である厳之御魂で(あ)る。左の系統、火の系統で、稜威しき御魂である。『大本神諭』に「変性男子の御魂」とあるのがそれで、要するに外姿は女性なれど、その内性は男性であることを謂うのである。二者各各其特長があるが、変性女子のみでも不完全、又変性男子のみでも一方に偏する。両者を合一して、初めて長短得失相補うて完全なものとなる。是が即ち伊都能売御魂である。地の神界の経綸も共根本に於て、変性女神たる須佐之男尊と、変性男神たる天照大御神の誓約に基いて出来た。人界の経綸も矢張り同一組織で遂行さるるので、現に大本も、厳の御魂と瑞の御魂との結合によりて、始めて基礎が出来、活動が出来ることになっている。人倫の大本たる夫婦の関係も同様である。厳と瑞との霊的因縁ある二個の肉体が合一して、初めて其天職を完全に遂行し得る。

大正十四年三月二十九日 成瀬 勝勇 謹写


第1版 2003年10月

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