霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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相応の理


月明 1927/05 庭園

かくいわば、青垣山を四方に繞らした、山紫水明の綾部大本になぜ大なる庭園をつくつたか、と反駁するものがあるかもしれぬが、綾部大本における庭園は、大都市の公園や、個人の家屋に添いたる庭園とはおおいに趣を異にしているのである。天地創造の主神が、永遠に鎮まりたまう天国の移写であつて、天地相応の理により、天上の荘厳なる、神苑の形はたちまち地上にうつり、地上の荘厳は『また天国に相映ずるものであるから、大本の神苑は一木一石の配置等にも、すべて言霊学を応用し、左進右退、霊主体従を基としてつくられてあるので、天国に大なる湖水があれば、したがつて地上神苑内にも湖水をつくらねばならぬ。金竜池のごときは、天の真奈井湖の移写である。そうして池中の島々は、五大州に形づくられ、天国にもやはり五大州が写つているのである。丸山の蓮華台、和知の清流、四継王のやま天王平、味方富士、弥仙山、三岳山、大江山、烏が峰の高山や清川がとりまいているのも、要するに、天国の中心地点と寸分のちがいないのである。

新月の光(下) 1945/11/22 三段の型『降伏は神業の大発展』

大本が検挙されたように、日本が武装解除されたのである。これから日本が型になって世界の武装解除になる。

出口王仁三郎 文献検索 別ウインドウで表示しています

原著名 出版年月 表題 作者 その他 瑞祥新聞 1925/06

現代人は、霊界いつさいの事物と人間いつさいの事物との間に、一種の相応のあることを知らず、また相応のなんたるを知るものがない。かかる無知の原因には種々あれども、その主なるものは、「我」と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかれるによるものである。
 何事をもさしおきてわれと世間とを愛するものは、ただ外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむるところの世間的事物にのみ留意して、かつてそのほかをかえりみず、すなわち内的感覚を楽しまし、心霊を喜ばしむるところの霊的事物にいたつては、彼らの関心せざるところである。彼らがこれをしりぞくる口実にいわく、「霊的事物はあまり高きに過ぎて思想の対境となるあたわず」云々。
 されど古の宗教家また信者は、これにたいして、相応に関する知識をもつていつさい知識中のもつとも重要なるものとなし、これによりて智慧と証覚をえたものである。ゆえに優れたる教えの信者は、いずれも天界との交通の途を開きて相応の理を知得し、天人の知識をえたるものである。すなわち天的人間であつた。
 太古の人民は、相応の理にもとづいて思索すること、なお天人のごとくであつた。これゆえ古古の人は天人と相語るをえたり。またしばしば主神をも見るをえて、その教えを直接にうけたものはたくさんにある。ところが、現代の宗教家にいたつては、この智識まつたく絶滅し、相応の理のなんたるかを知るものほ、宗教各団体を通じて一人もないといつてもよいくらいである。相応のなんたるかを知らずして、霊界について明白なる知識を有するをえない。
 かく霊界の事物に無知なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることはできない。また霊的事物の自然的事物にたいする関係をすら知ることができない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体におよぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、毫も明白なる思想を有することあたわず、いわんやいまなにをか相応といい、またいかなるものを相応となすかさえ、これに答うる者はあるまいと思う。遺憾のきわみである。
(「瑞祥新開」大正11年6月)

大本史料集成Ⅱ 1931/02/04 信教宣伝使心得 大本瑞祥会宣伝課

 相応の理で、第一天国と一番底の悪の強い地獄(第三地獄)と相応し、中間の天国は中間の地獄に、最下層即ち第三天国は一番浅い上層の地獄(第一地獄)に相応して居りますから、第一天国の宣伝使は、最低の地獄へ宣伝に行つて其時一旦智慧証覚が下つても、又忽ち元の通りに向上して来るものです。此の理により、中間天国の宣伝使は上層又は中間地獄より行けない。それは宣伝使の智慧証覚が少ないから、最低地獄へ行つたら帰つて来られんことがあるからである。悪の強い処は余程勝れた人でないと犯されて了ひます。

 霊界に行けば、天国天人が祭典をし、霊国の天人は宣伝をすることになつて居りますが、現界はの世の中、顕幽一致の世の中でありますから、宣伝使は宣伝はいふに及ばず、葬も祭もせなければならないのであります。冠といふのは、廿一歳になれば昔は冠をかぶり一人前になるといふ意味であります。冠婚葬祭、この四つは宣伝使の最も必要な努めであります。

物語47-3-12 1923/01 舎身活躍戌 天界行

凡て人間の身には、善と悪と二種の精霊が潜在してゐることは前に述べた通りである。しかして人間は、善霊すなはち本守護神、または正守護神によつて、高天原の諸団体と和合し、悪霊すなはち副守護神によつて、地獄の団体と相応の理によりて和合するものである。

物語47-3-17 1923/01 舎身活躍戌 天人歓迎

 何故ならば、一切の智慧なるものは、神真より来るからである。ゆゑに天人の衣類は、智慧の如何によるといふよりも、神真の程度の如何によるといふのが穏当かも知れない。しかして火焔のごとく輝く色は、愛の善と相応し、その光明は、善より来たる真に相応してゐるのである。その衣類の、あるひは輝きてかつ純白なるも、光輝を欠いでゐるのもあり、その色またいろいろにして一様ならざるあるは、神善および神真の光、これに輝くこと少なくして、智慧なほ足らざる天人のこれを摂受すること、種々雑多にして、一様ならざるところに相応するからである。また最高最奥の天国霊国に在る天人が衣類を用ひないのは、その霊身の清浄無垢なるに依るものである。清浄無垢といふことは、すなはち赤裸々に相応するがゆゑである。しかして、天人は多くの衣類を所有して、あるひは、これを脱ぎ、あるひは、これを着け、不用なるものは、暫くこれを貯へおき、その用ある時にいたつて、またこれを着用する。そしてこの衣類はみな大神様の賜ふところである。その衣類にはいろいろの変化があつて、第一および第二の情態にをる時には、光り輝いて白く清く、第三と第四との情態にゐる時には、やや曇つたやうにみえてをる。これは相応の理より起来するものであつて、智慧および証覚のいかんによつて、かく天人の情態に、それぞれ変化があるゆゑである。ついでに地獄界にある者の、衣類のことを述べておく。
 根底の国に陥つてゐる者もまた、一種の衣類の着用を許されてゐる。されど彼らの悪霊は、すべての真理の外に脱出せるをもつて、着するところの衣服は、その癲狂の度と虚偽の度とによつて、あるひは破れ、あるひは綻び、ボロつぎのごとく見苦しく、またその汚穢なることは、たうてい面を向くるに堪へないくらゐである。
 しかし彼らは、実にこれ以外の衣類を着用することが出来ないのである。また地獄界にゐる悪霊は、美はしき光沢の衣類を着用する時は、相応の理に反するがゆゑに、身体苦しく、頭痛み、体をしめつけられるごとくで、たうてい着用することが出来ないのである。ゆゑに大神が、彼らの霊相応の衣類を着用することを許したまうたのは、その悪相と虚偽と汚穢とが、赤裸々に暴露することを防がしめむがための御仁慈である。

 

 心臓は、動脈、静脈により、肺臓は、神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発するところ、動作するところ、必ずや右両者の協力を認めずといふことはない。各人の内分、すなはち人の霊的人格をなせる霊界の中にも、、また二国土があつて、一を意思の国といひ、一を智性の国といふ。意思は善に対する情動より、智性は真に対する情動によつて、人身内分の二国土を統治してゐるのである。これらの二国土は、また肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応してゐる。ゆゑに心臓は天国であり、意思の国に相応し、肺臓は霊国であり、智性の国と相応するものである。
 高天原においてもまた、以上のごとき相応がある。天国はすなはち高天原の意力にして、愛の徳これを統御し、霊国は高天原の智力にして、信の徳これを統御することになつてゐる。ゆゑに天国と霊国との関係は、人における心臓と肺臓との関係に全く相応してゐるものである。聖言に、心臓をもつて意を示し、また愛の徳を示し、肺臓の呼吸をもつて智および信の真を示すは、この相応によるからである。また情動なるものは心臓中にもあらず、心臓より来たらざれども、これを心臓に帰するは、相応の理に基くためである。高天原の以上二国土と、心臓および肺臓との相応は、高天原と人間との間における一般的相応である。さうして人身の各肢体および各機関および内臓等に対しては、かくのごとく一般的ならざる相応があるのである。

(中略)

 一、人は智あり覚ある者を呼んで、彼は頭を持つてゐるとか、頭脳が緻密であるとか、よい頭だとかいつて称へ、また仁に厚いものを呼んで、彼は胸の友だとか、心が美しいとか、気のよい人だとか、心意気がよいとか称へ、知覚に勝れた人を呼んで、彼は鋭敏なる嗅覚を持つてゐるとか、鼻が高いとかいひ、智慮に秀でたものを呼んで、彼の視覚は鋭いといひ、あるひは鬼の目といひ、強力なる人を呼んで、彼は手が長いといひ、あるひは利くといひ、愛と心を基として、志すところを決するものを呼んで、彼の行動は心臓より出づるとか、心底から来たるとか、同情心が深いとか称へるのである。
かくのごとく、人間の不用意のうちに使ふ言葉や諺は、尚この外にいくらとも限りないほどあるのは、相応の理に基いて、その実は厳の御霊の神示にある通り、何事も神界よりのお言葉なることは自覚し得らるるのである。

物語47-3-21 1923/01 舎身活躍戌 跋文

ゆゑに三五教の信者は、いづれも天界との交通の途を開きて、相応の理を知得し、天人の知識を得たものである。すなはち天的人間であつた太古の人民は、相応の理に基いて思索すること、なほ天人のごとくであつた。これゆゑに、古の人は天人と相語るを得たり、またしばしば主神をも相見るを得て、その教を直接に受けたものも沢山にある。三五教の宣伝使などは、主の神の直接の教を受けて、その心魂を研き、これを天下に宣伝したる次第は、この霊界物語を見るも明白である。現代の宣伝使に至つては、この知識まつたく絶滅し、相応の理の何たるかを知るものは、宗教各団体を通じて、一人も無いといつてもいいくらゐである。相応の何たるかを知らずしては、霊界について明白なる知識を有するを得ない。かく霊界の事物に無智なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることは出来ない。また霊的事物の自然的事物に対する関係をすら知ることが出来ない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体に及ぼすところの活動や、死後における人問の情態に関して、毫も明白なる思想を有すること能はず、故にいま何をか相応といひ、如何なるものを相応と為すかを説く必要があると思ふ。

物語48-3-11 1923/01 舎身活躍亥 霊陽山

大神のしろしめす天国団体を組織せる天人は、たいてい高い所に住居を占めてゐる。その場所は、自然界の地上を抜く山岳の頂上に相似してゐる。また大神の霊国団体を造れる天人は、少し低い所に住居を定めてゐる。あたかも丘陵のやうである。されど、高天原の最も低き所に住居する天人は、岩石に似たる絶景の場所に住居を構へてゐる。しかして、これらの事物は、すべて愛と信との相応の理によつて存在するものである。

物語49-1-1 1923/01 真善愛美子 地上天国

綾の聖地における神の大本は、大なる形式を有する高天原であつて、その教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり、また自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。ゆゑに霊界におけるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理により、各宗教における一個の天国団体が形成され、また中有界、地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。されども大神は、天界、中有界、地獄界をして一個人と見倣し、これを単元として統一したまふゆゑに、いかなる団体といへども、厳の御霊、瑞の御霊の神格のうちより脱出することはできない、またこれを他所にして、自由の行動をとることは許されないのである。高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。

物語入蒙-1-1 1925/08 水火訓

しかるに今日は人智やうやく進み、物質的科学はほとんど終点に達し、人心ますます不安に陥り、宇宙の神霊を認めない者、または神霊の有無を疑ふ者、および無神論さへも称ふるやうになつて来た。かかる精神界の混乱時代に対し、水洗札たる今までの予言者や救世主の教理をもつては、到底成神成仏の域に達し、安心立命を心から得ることが出来なくなつたのである。故に神は現幽相応の理によつて、火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要に迫られたので、言霊別の精霊を地上の予言者の体に降されたのである。


神の国 1933/01三段の型

男嶋女嶋に艮の金神様が落ちてをられたので、坤なる神島には坤の金神様が落ちてをられたといふことになるが、北海道の別院のある芦別山にはまた艮の金神が落ちてをられたといひ、その坤なる喜界ケ嶋のほうには坤の金神が落ちてをられたといひ、何だか訳が判らないといふが、これはみな真実で、またである。綾部からいへば男嶋、女嶋と神島、日本からいへば北海道と喜界ケ嶋、世界からいえば日本が艮で西のエルサレムが坤である。三段ののあることを取違ひしてはならぬ。

神の国 1933/08大本は型の出る所

大本に在りたことは皆世界にある、即ち大本はをする所である」と云ふ神諭のある事は皆がよく知つて居るところである。故によいをよいをと出すようにせねばならぬのであるが、さうばかりも行かぬのは誠に残念な事である。大本は全く正義の団体であるにも拘はらず常に疑ひの妙な目をもつて見られて居る。大正十年に起つた大本事件の如きは、当時幾何誠意の陳述をしても、それが全く受け入れられないで、恰も大本は横紙破りでもする如く、すべてが取られて行つた。今世界に対する日本の立場が全く大本のそれと同じで、正義の主張が一つも通らぬのである。松岡全権のあの正々堂々の議論に対しても、恰も横紙破りの主張を日本がしてゐるやうに世界各国が誤認して、日本の云ひ分が一つも通らなかつたのである。併し最後は大本が天恩に浴し、公訴権の消滅によつて全く青天白日、元の白紙状態にかへつた如く世界から日本の正義を認められる日がやがては来るであらうけれど、其間、日本は可なりの苦痛を嘗めさせらるる事であらう。大本は七年間迫害と攻撃の渦の中に隠忍自重して来たのである。日本も最後にはきつとよくなるのであるから隠忍せねばならぬ。

神の国 1934/01玉串

玉串は神様に衣を献るのである。すべて霊界に於ける事象は現界に於てをせねばならぬので、玉串を捧げてさへすれば、霊界では想念の延長で、立派な種々の色の絹と変じて、神様の御衣となるのである。松の梢につけて献るのであるが、其松は又想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。
 斯のやうに現界でをすれば、霊界では幾何でも延長するのであるが、がなければどうする事も出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に頒つて「晴れ」をせらるることは嘗て話した通りである。