霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

別ウィンドウで表示中

霊国と天国


神の国 1925/08/08 道の栞第一巻下(一)

三三 高天原の主宰は大国常立の大神である。其高き御恵は、言葉に尽し得ず。天国にては日の大神と顕現し霊国にては月の大神と顕現したまふ。
四七 天が下、四方の国々広しといヘども神の在まさぬ所なし。生民今や二十億に余るといへども、神の御心に叶ひて、天界に生るゝものは、甚だ稀なり。天界には天国霊国の二大境域あり。

神の国 1925/05/10仙人

 『物語』にも出してある通り仙人にも四階級があつて、神仙といふのは霊国天人のこと、天仙といのは天国天人のこと地仙、凡仙は肉体を持つて現界に生れてゐる神使であるが、純粋の地仙は甚だ稀で、大本開組の如きは疑ひもなき地仙(地上天人)の近例である。凡仙は其数比較的多く、どちらかと云へば堕落した方で神業の為に活動してゐるといふよりは寧ろ独りよがりで隠遁的の方であるいろん不思議を行つて世人の眼を奪つたりするのは此方である。仙人といふのは支那で呼んだ名称で、所謂天使のことである。
 それから霊国天国とに就いて一寸言つておかう。霊国はつきの御国とも云ひ、宇宙一切の調節按配を司る中府である。それは物質的には丁度太陰が天界と大地との中間に位して両者の調節を司つてゐるのと相応してゐるのである。天国はそれぞれに完成された国土であつて、天国を造り上げるのは霊国天人の職能であり、その天国に安住してこれを保持するのは天国天人の務めである。

祥新聞 1925/09天界の住民

 王仁はかつて、天国は昇りやすく地獄は落ちがたし、と宣言したことがある。
大慈愛の神は宇宙万有を創造したまい、各自にその善所をえせしめんと種々の御経綸を不断的に行なわせたまいつつあり。
 人は天地の花、万物の霊長としてとくに神の意を用いて創造したまいしもの。一人たりとも地獄に生涯を送らせんとはなしたまわない。神は愛善の徳を充たして天国を開き、信真の光を照らして霊国を開きたもう。ゆえに人間は一人ものこらず、天界の住民たりうる資質を惟神に具備しているものである。ただただ天界の籍をはなれ、天の八衢または各段の地獄界に陥没するものは、偽神をもつて神の子たる人間を誑惑し、私利をいとなむところの神職、僧侶、牧師、または神をみとめない科学万能主義者、自己愛の精神に強きもののみの永遠の住所である。
 厳の大神、瑞の大神は、最高天界にありて愛善の徳と信真の光に充ちたまう。ゆえに人間は神の子たる以上、主の神に帰依したてまつる精神をあくまで発揮し、神を愛し、道を愛し、神柱を愛するの念慮さえ十分ならば、別にむつかしい教理を研究せなくても、霊肉ともに天界の生涯を永遠に送りえらるるは当然である。神の聖場を愛し、大神人に絶対服従の至誠をもつて仕えたてまつる時は、なんらの障害もなく、現実身のまま天界に任し無限の歓喜と悦楽にひたり、現世のすべての事業に光栄と喜悦をもつて従事し、地上にありながら天界にあるの情動をもつて、社会に卓越したる生涯を送りうるものである。あたかも赤児の心、意志の無邪気なるものは、すでにすでに天界の住民である。一日も早く、神の愛を覚り、すべての世塵を払拭し、人生の幸福と平和に生活すべきである。
(「瑞祥新聞」大正14年9月1日)


物語24-99-21922/07 如意宝珠亥 霊の礎(十一)

一、天界すなはち神界高天原にも、また地上のことく宮殿や堂宇があつて、神を礼拝し神事を行つてゐるのである。その説教または講義等に従事するものは、もちろん天界の宣伝使である。天人は常に愛と証覚の上においてますます円満具足ならむことを求めて霊身の餌となすからである。天人に智性や意性のあることは、なほ地上現界の人間同様である。天人は天界の殿堂や説教所に集合して、その智的または意的福音を聴聞し、ともにますます円満ならむことを望むものであつて、智性は智慧に属する諸の真理により、意性は愛に属する諸(もも)の善によつて、常に円満具足の境域に進みて止まぬものである。
一、天界の説法は、天人各自が処世上の事項について、教訓を垂るるに止まつてゐる。要するに愛と仁と信とを完全に体現せる生涯を営まむがために説示し、聴聞するのである。説法者は高壇の中央に立ち、その面前には証覚の光明勝れたるもの座を占め、聴聞者は宣伝使の視線を外れぬやうに円形の座を造つてゐる。その殿堂や説教所は天国にあつては木造のごとく見え、霊国にあつては石造のごとくに見えてゐる。石は真に相応し、木は善に相応してゐるからである。また天国の至聖場はこれを殿堂とも説教所とも言はず、ただ単に神の家と称へてゐる。そしてその建築はあまり崇大なものではない。されど霊国のものは多少の崇大なところがある。

天国浄土の天人を 教導すべき宣伝使
一名神の使者といふ 宣伝神使は何人も
霊の国より来たるなり 天国人の任ならず
そも霊国の天人は 善より来たり真にをり
真理に透徹すればなり 天国浄土に住むものは
愛の徳にて真を得て 知覚するのみ言説を
試むること敢て無し かれ天国の天人は
已れがすでに知り得たる ところをますます明白に
体得せむと思へばなり またその未だ知らざりし
真理を覚り円満に 認識せむと努めゆく
一たび真を聴く時は 直様これを認識し
つづいてこれを知り覚る 真を愛して措(お)かざるは
その生涯に活用し これをば己が境涯の
中に同化し実現し その向上を計るなり。

高天原の主神より 任さし給ひし宣伝使は
自ら説法の才能あり 霊国以外の天人は
神の家にて説くを得ず しかして神の宣伝使は
祭司となるを許されず 神の祭祀を行ふは
天国人の所業にて 霊国人の職ならず
その故いかんと尋ぬれば 高天原の神界の
祭司を行ふ職掌は 天国に住む天人の
惟神の神業なればなり そもそも祭司の神業は
霊国に坐す主の神の 愛の御徳に酬ゆべく
奉仕し尽くすためぞかし 高天原の天界(神界)の
主権を有すは霊国ぞ 善より来たる真徳を
義として真にをればなり 高天原の最奥に
おける説示は証覚の 極度に達し中天の
説示は最下の天国の 説示に比して智慧に充つ
いかんとなれば天人の 智覚に応じて説けばなり
説示の主眼要点は いづれも主神の具へたる
神的人格を各人が 承認すべく教へゆく
ことを除けば何もなし これを思へば現界の
宣伝使また主の神の 神格威厳を外にして
説示すること無かるべし アゝ惟神惟神
高天原の天界の 主神の愛とその真に
歓喜し恭まひ奉る。

物語47-2-9 1923/01 舎身活躍戌 愛と信

高天原の天国および霊国にあつては、人の言葉みなその心より出、づるものであるから、その言ふところは思ふところであり、思ふところは、すなはち言ふところである。心の中に三を念じて、口に一つをいふことは出来ない。これが高天原の規則である、いま天国といつたのは、日の国のことであり、霊国といつたのは、月の国のことである。

物語47-3-18 1923/01 舎身活躍戌 一心同体

高天原の霊国および天国の天人は、人間が数時間費やしての雄弁なる言語よりも、わづかに二三分間にて、簡単明瞭にその意思を通ずることが出来る。また人間が、数十頁の原稿にて書き表はし得ざる事も、ただの一頁ぐらゐにて明白にその意味を現はすことが出来る、またそれを聞いたり読んだりするところの天人もよく会得し得るものである。すべて天人の言語は、優美と平和と愛善と信真に充ちてゐるがゆゑに、いかなる悪魔といへども、その言葉には抵抗することが出来ない。すべて天国の言葉は、善言美詞に充たされてゐるからである。さうして何事も善意に解し、見直し聞直し宣直しといふ神律が行はれてゐる。それから日の国すなはち天国天人の言語には、ウとオとの大父音多く、月の国すなはち霊国天人の言語には、エとイの大父音に富んでゐる。しかして声音の中には、いづれも愛の情動がある。善を含める言葉や文字は、多くはウとオを用ひ、また少しくアを用ふるものである。真を含んでゐる言葉や文字には、エおよびイの音が多い。そして天人はみな一様の言語を有し、現界人のごとく東西洋を隔つるに従つて、その言語に変化があり、あるひは地方地方にいろいろの訛りがあるやうな不都合はない。されども、ここに少し相違のある点は、証覚に充された者の言語は、すべて内的にして、情動の変化に富み、かつ想念上の概念をもつとも多く含んでゐる。証覚の少ない者の言語は、外的にして、またしかく充分でない。愚直なる天人の言語にいたりては、往々外的にして、人間相互の問におけるがごとく、語句の中からその意義を推度せなくてはならぬことがある。また面貌をもつてする言葉がある。

物語47-3-20 1923/01 舎身活躍戌 間接内流

高天原の天界を区分して、天国霊国の二となすことは前に述べた通りである。概していへば、日の国すなはち天国は、人身に譬ふれば心臓および全身にして、心臓に属すべき一切のものと相応してゐる。また月の国すなはち霊国は、その肺臓および全身にして、肺臓に属すべき一切の諸機関と相応してゐる。さうして、心臓と肺臓とは、小宇宙、小天地にたとふべき人間における二つの国土である。
 心臓は、動脈、静脈により、肺臓は、神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発するところ、動作するところ、必ずや右両者の協力を認めずといふことはない。各人の内分、すなはち人の霊的人格をなせる霊界の中にも、、また二国土があつて、一を意思の国といひ、一を智性の国といふ。意思は善に対する情動より、智性は真に対する情動によつて、人身内分の二国土を統治してゐるのである。これらの二国土は、また肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応してゐる。ゆゑに心臓は天国であり、意思の国に相応し、肺臓は霊国であり、智性の国と相応するものである。
 高天原においてもまた、以上のごとき相応がある。天国はすなはち高天原の意力にして、愛の徳これを統御し、霊国は高天原の智力にして、信の徳これを統御することになつてゐる。ゆゑに天国霊国との関係は、人における心臓と肺臓との関係に全く相応してゐるものである。聖言に、心臓をもつて意を示し、また愛の徳を示し、肺臓の呼吸をもつて智および信の真を示すは、この相応によるからである。また情動なるものは心臓中にもあらず、心臓より来たらざれども、これを心臓に帰するは、相応の理に基くためである。高天原の以上二国土と、心臓および肺臓との相応は、高天原と人間との間における一般的相応である。さうして人身の各肢体および各機関および内臓等に対しては、かくのごとく一般的ならざる相応があるのである。
 今ここに高天原の全体を、巨人に譬へて説明することとしよう。
 巨人すなはち天界の頭部にをるものは、愛、平和、無垢、証覚、智慧の中に住し、従つて歓喜と幸福とに住するをもつて天界到るところ、この頭部における善徳に比すべきものはない。人間の頭部および頭部に属する一切のものに、その神徳流れ入つてこれと相応するのである。ゆゑに人の頭部は、高天原の最高の天国霊国に比すべきものである。

(中略)

 治国別一行は人体における心臓部に相当する第二天国の、もつとも中枢部たるところを、今や巡覧の最中である。さうして、天国の組織は、最高天国が上、中、下、三段に区画され、中間天国がまた上、中、下、三段に区画され、最下層の天国また三段に区画されてある。各段の天国は、個々の団体をもつて構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合のいかんによりて、幾百ともなく個々分立し、到底これを明瞭に計算することは出来ないのである。また霊国も同様に区画され、信と智の善徳や、智慧証覚の度合によつて、霊国が三段に大別され、また個々分立して、数へつくせないほどの団体が作られてゐる。さうしてまた一個の団体の中にも、愛と信と智慧証覚の度のいかんによつて、あるひは中央に座を占め、あるひは外辺に居を占め、決して一様ではない。かくのごとく、天人の愛信と証覚の上に変移あるは、いはゆる勝者は劣者を導き、劣者は勝者に従ふ天然律が、惟神的に出来てゐるがために、各人皆その分度に応じて安んじ、少しも不安や怨恨や不満足等の起ることなく、きはめて平和の生涯を送りゐるものである。

(中略)

天国においては、大神様が日輪様となつて現はれ給ひます。地上の現界において見る太陽は、いはゆる自然界の太陽であつて、天国の太陽に比ぶれば非常に暗いものですよ。自然界の太陽より来たるものは、すべて自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来たる光は愛善の光ですから、雲泥の相違がありますよ。また霊国においては、大神様は月様とお現はれになります。大神様に変はりはなけれども、天人どもの愛と信と証覚のいかんによつて、あるひは太陽と現はれ給ひ、あるひは月と現はれ給ふのです』

物語47-3-21 1923/01 舎身活躍戌 跋文

地上における最太古の人間は、すなはち天的人間であつて、相応そのものに由つて思索し、彼らの眼前に横たはれる世間の自然的事物は、彼ら天的人間が思索をなすところの方便に過ぎなかつたのである。太古の人間は、天人とたがひに相交はり相語り、天界と世間との和合は、彼らを通して成就したのである。これの時代を黄金時代といふのである。次に天界の住民は、地上の人間と共にをり、人間と交はること朋侶のごとくであつた。されど最早この時代の人間は、相応そのものより思索せずして、相応の知識よりせるに由つて、なほ天と人との和合はあつたけれども、以前のやうには親密でなかつた。この時代を白銀時代と日ふ。またこの白銀時代を継いだものは、相応は知らぬにはあらざれども、その思索は相応の知識に由らなかつた。ゆゑに彼らがをるところの善徳なるものは、自然的のものであつて、前時代の人のごとく霊的たることを得なかつた。これを赤銅時代と日つたのである。この時代以後は、人間は次第次第に外的となり、つひに肉体的となりをへ、従つて相応の知識なるもの全く地に墜ちて、天界の知識ことごとく亡び、霊界に関する数多の事項も、おひおひと会得しがたくなつたのである。また黄金は相応によつて天国の善を表はし、最太古の人のをりし境遇である.また白銀は霊国の善を表はし、中古の人のをりし境遇であつた。赤銅は自然界の善を表はし、古の人のをりし境遇である。更に下つて、黒鉄時代を現出した。黒鉄なるものは、冷酷なる真を表はし、善はこれにをらない時代である。これを思ふに、現今の時代は、全く黒鉄時代を過ぎて、泥土世界と堕落し、善も真もその影を没してしまつた暗黒無明の地獄である。国祖の神は、かくのごとき惨澹たる世界をして、松の代、三五の代、天国の代に復活せしめむとして、不断的愛善と信真のために御活動を遊ばしたまひつつあることを思へば、われわれは安閑としてこの現代を看過することは出来ないのである。天下国家を憂ふるの士は、一日も早く神の教に眼を醒まし、善のために善を励み、真のために真を光して、空前絶後の大神業に参加されむことを希望する次第であります。

物語48-3-11 1923/01 舎身活躍亥 霊陽山

 大神のしろしめす天国団体を組織せる天人は、たいてい高い所に住居を占めてゐる。その場所は、自然界の地上を抜く山岳の頂上に相似してゐる。また大神の霊国団体を造れる天人は、少し低い所に住居を定めてゐる。あたかも丘陵のやうである。されど、高天原の最も低き所に住居する天人は、岩石に似たる絶景の場所に住居を構へてゐる。しかして、これらの事物は、すべて愛と信との相応の理によつて存在するものである。
 大神の天国は、すべて想念の国土なるをもつて、内辺のことは高き所に、外辺のことはすべて低い所に相応するものである。ゆゑに高い所をもつて、天国的の愛善を表明し、低い所をもつて、霊国的の愛善を現はし、岩石をもつて信真を現はすのである。岩石なるものは、万世不易の性質を有し、信真に相応するがゆゑである。しかしながら、霊国の団体は低き所に在りとはいへ、やはり地上を抜く丘陵の上に設けられてある。ちやうど綾の聖地における本宮山のごときは、その好適例である。霊国は、なにゆゑ天国の団体よりもやや低き所に居住するかといへば、すべて霊国の天人は、信の徳を主とし、愛の徳を従としてゐる、いはゆる信主愛従の情態なるがゆゑに、この国土の天人は、智慧と証覚を研き、宇宙の真理を悟り、次で神の愛を能くその身に体し、天国の宣伝使として、各団体に派遣さるるもの多きをもつて、最高ならず最低ならず、ほとんど中間の場所にその位置を占むることになつてゐるのである。ゆゑに世界の大先祖たる大国常立尊は、海抜二百フイート内外の綾の聖地に現はれたまふにもかかはらず、木花咲耶姫命は海抜一万三千尺の天教山に、その天国的中枢を定めたまふも、この理によるのである。しかしながら木の花姫命は霊国の命を受け、天国はいふに及ばず、中有界、現実界および地獄界まで、神の愛を均霑せしむべきその聖職につかはせたまひ、かつ神人和合の御役目に当らせたまふをもつて、たとへ天国の団体にましますといへども、時々化相をもつて精霊を充たし、あるひは直接化相して、万民を教へ導きたまふのである。

物語49-1-1 1923/01 真善愛美子 地上天国

要するに忌憚なくいへば、高天原とは、大神や天人どもの住所なる霊界を指し、霊国とは、神の教を伝ふる宣伝使の集まるところをいひ、またその教を聞くところを、天国または霊国といふのである。
 しかして、天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は、神の教を伝ふるをもつて神聖なる業務となすのである。
 ゆゑに最勝最貴の智慧証覚によつて、神教を伝ふるところを、第一霊国といひ、また最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を、最高天国といふのである。ゆゑに現幽一致と称へるのである。

物語52-1-2 1923/02 真善愛美卯 哀別の歌

高天原にもまた内的、外的の区別があり、内的の天界を高処天界といひ、外的の天界を低処天界と称へられてゐる。しかして天国に在る天人がゐるところの愛を天愛といひ、在霊国の天人がゐるところの愛を霊愛といふ。しかして天国には大神は太陽と現はれ給ひ、霊国に在つては月と現はれ給ふ。
 初稚姫のごときは、どちらかといへば天国天人の部類に属し、厳の御霊にして太陽の熱すなはち愛の全部ともいつてもいいのである.また言依別命は霊国に在る天人にして、信の真にをり、月の光をもつてその全部となし給ふものである。ゆゑに初稚姫はよく神を祭り、祝詞を奏上し、しかして宣伝使や信者の模範となり給ひ、言依別命は智的方面に主として住し給ふがゆゑに、宇宙の真理を説き諭し、現幽神三界の真相を明らかにし、すべての原動力とならせ給ふ霊的天人である。木の花姫命のごときは霊的天人の部に属し給ひ、日の出神は天的天人の部類に属したまふ神人である。されども何れの神も、霊的天人にして天的天人たり、天的天人にして霊的天人たることは、その平素の御活動の状態に依つて悟り得るのである。
 天国はすべて大神の祭司的国土にして大神の御住所である。霊国は大神の王土にしてこれを王座または瑞の宝座ともいふ。しかして天国霊国との交通の機関は、いづれも媒介的天人団体の手によつて行はれてゐる。それもみな大神の思召しに依つておかせ給うたところの交通機関である。初稚姫はまたこの媒介的天人の手によつて、ある時は天国と交通し、ある時は霊国と交通し、または天国霊国一度に交通し給ふことがあつた。初稚姫のごとき地上の天人は、媒介的団体の手に依らなくても、すぐに交通し得べきものと考へらるるなれども、一旦地上に降りて肉体人の境遇にをらるる間は、どうしても媒介者を通ずる必要があるのである。如何とならば、内的外的の両方面の中に介在し給ふ天人なるがゆゑである。

物語52-3-15 1923/02 真善愛美卯 千引岩

それから石は砿物であり玉留魂である。ゆゑに神様の御霊を斎るのはいはゆる霊国の真相を現はすもので、月の大神の御神徳に相応するがゆゑに、石の玉をもつて御神体とするのである。これゆゑに霊国の神の御舎はみな石をもつて造られ、天国は木をもつて、その宮を造られてある。木は愛に相応し、太陽の熱に和合するが故である。大本の御神体が石であつたから、何でもない神だと嘲笑してゐるそこらあたりの新聞記事などは、実に霊界の真理に到達せざる癲狂痴呆であつて、新聞記者みづからの不明を表白してゐるものである。

物語63-1-4 1923/05 山河草木寅 山上訓

一、厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕(あら)はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。
一、愛善の徳に住するものは天国に昇り、信真の光徳に住するものは霊国に昇るものぞ。
一、真の神の変現したまひし神を、幽の顕と称へ奉る、天国における日の大神、霊国における月の大神は何れも幽の顕神なり。