霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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霊界と現界


全集(1) 皇国伝来の神法

 『顕の幽神』と申しますのは、大地球成就の為に顕現され、国土を修理固成し、神人安住の基礎を定めて、地上の幽界を守り玉ふ神霊でありまして、国祖国常立尊、豊雲野尊、又は一度現世にその肉体を表現された神様であります。要するに幽の顕神は、天上の霊界を主宰し給ひ、顕の幽神は、地上の幽界を主宰し給ふ神々の事であります。『顕の顕神』は、天先ず定まり地成つて後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給ひし、皇孫邇々岐尊様を初め、歴代の日本国に主師親の三徳を具有して、君臨あらせらるゝ現人神に坐しますので、畏多くも、我 天皇陛下は、天照大御神の御子孫で、顕の顕神に坐しますのであります。故に斯の日本国の天皇様に刃向ふ所の国は、滅亡すべき神代の神誓神約があるのであります。又斯る尊き現人神様たる天皇様に、微塵程でも不敬不忠の精神を有つて居つたならば、皇祖の大神様は、大変な懲罰を下し玉ふは当然であります故に至厳至重なる神法、幽斉の修行を希望するならば、第一に天照大御神の御幽許を受けねばならぬと同時に、其人が無二の敬神家、無二の尊王家、無二の愛国者でなければ、絶対に資格がないと云ふ事を承知して戴きたいのであります。


神霊界 1917/02/01 信仰の堕落

前段述ぶるが如く、我が天御中主神のことを、アブラハムも、モーゼも、其他すべてのイスラエル人も、エホバと崇め唱えたらしいが、天御中主神は、全霊界統治の神であると同時に、全現界統治の神である。独りイスラエル民族が専有すべき神でなく、実に又、我日本統治の神であり、各個人の保護の神である。かかるが故に、かの神の降したと称する戒律は、よしや人為的、偏狭不備の臭味を脱せぬにしても、其裡には、幾分神意の伏在するものが無いではない。吾々とても、単に異邦の事、シナイ山嶺の事と聞き流す訳には行かない。神の誠の声の一部が、幾分吾々の耳底にも響く感がするのである。
 わが『古事記』には、宇宙開闢の第一の神様として、天御中主神の御名を出してあるが、其広大無辺の神徳、その全智全能の神性をば、毫も録して無いから、誰一人として此神の明瞭なる観念を有たなかった。尤も此神の神徳は余りに大きく、到底筆舌を以て言い尽し得ぬものであるから、神典にも、単に御名を称えたに止めたのであろう。わざと書かぬのでなく、書き得なかったのである。
 天御中主神の神徳は、空間的に観れば広大無辺である。時間的に観れば永劫不滅である。其神性は不変不易であると共に、其神業は千変万化して窮極がない。其まします所は、極めて近くして、又極めて遠く、とても人心小智の窺知すべき限りでない。
 天御中主神は、第一着手として、理想世界を造営せらるるが為めに、第二位の神と成って顕現された。これが霊系の祖神高皇産霊神である。この理想世界は即ち神霊界で、無論凡眼の観る能わざる所、凡智の察する能わざる所である。ただ霊眼、霊智を以て之にのぞめば、天分に応じて程度の大小高下はあるが、其一端を窺知せしめられる。次ぎに天御中主神は、第三位の神となって顕現し、物質世界を造営された。これが体系の祖神神皇産霊神である。『創世記』には、神を称するに単に「エホバ」とのみは言わず、「エロヒム」の語を用いて居る。エロヒムは即ち神々という事で、根源は一神だが、幾種にも顕現するから、この複数の語が必要なのである。


神霊界 1919/08/15 随筆

  現界で云ふと、世に出て居れる守護神と云ば、貴族や富豪や大政治家の連中であるが、一人として真に国家の前途を憂ひ、百年の大計を企つる者がない。否な一日先の世界の出来事も分るものがないではないか神界もそれと同様に、世に出て居れる神様には、世界の修理固成も、国土常立の神策も分つて居ないのである。実に大本は神界と現界と幽冥界との、三千大千世界の改造であるから、大望な神業の策源地であります。
 瑞雲東海の天に靉靆し、金烏玉兎は皇国の神園に清く麗はしく輝き渡る。天孫二々岐尊、斯土に御降臨あらせられて以来、幾億万の星霜を経たり。大希望と大光明と大歓喜と大責任とは、将に七千万同胞の前途に充満して居るのである。顧りみれば天地初発の時、大地の未だ凝固せざるに当り、天津大神は先づ吾国祖に世界建国の大任を命じて、漂ヘる大地を修理固成せしめられたのである。


神霊界 1920/09/21 至聖殿落成式所感

 国常立尊様は先づ第一に御三体のお宮を建て、さうして天の神の御降臨を仰いで、この世界の経綸をなされるのでありまして、謂はば国常立尊様は神界の教祖で、神界の秘事を洩らし、或は神界の御経綸を御自分で引受けなさる所の神様であります。詰り神界現界とは合致したものでありますから、御三体の神様がお下りになるに就いては、社がなければどうしても鎮まつて戴く事は出来ませぬ。この地上が実に昔の儘の綺麗な世の中であつたならば、御宮は無くとも何処ヘでも神様は御下りになる訳であります。神様は実に有る所無きが如く、無き所無きが如しで、何処にでも神霊は充満して在る。我々も自分の御世話になつた人、或は自分の主人であるとか、目上の人がお出でになつたならば、座敷の一つも掃除をし、或は経済の許す人は新築して来て貰ふのであつて、御宮を建てると云ふことも、それと同じである。最も尊いこの上高い所はないと云ふ神様に、此地上に御降臨を乞ふのであるから、艮の金神様も自分の宮は何処でも宜い、何でも宜いと仰せられて居ります。それよりも御三体の神様の御宮を建てゝ、その外立替の御用をなさつた神様、すベて御力を添へ下さつた神様に御礼の為に御祭りすると云ふことが書いてあります。【神様からして敬神の大道を実行】なさつて居られるのであります。
 総て神界の事が現界へ移るのであつて、大国主神様が御自ら天津神を御祭りになつて居られます。之と同様に国常立尊様は、今度の立替の御用の魁として、御三体の神様を先づ御祭り遊ばすのであります。神界は斯の如く、君系臣系の大義名分が明かになつて居るのですから、我々は何うしても自分の事よりも、神様の事、皇室の事を先にしなければ、大義名分にはならぬのであります。


物語01-0-1 1921/10 霊主体従子 序

この霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしものにして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す。


物質的現界の改造を断行されるのは国祖大国常立神であり、精神界、神霊界の改造を断行したまふのは、豊国主神の神権である。

物語01-0-2 1921/10 霊主体従子 発端

『天地の元の先祖の神の心が真実に徹底了解たものが少しありたら、樹替樹直しは立派にできあがるなれど、神界の誠が解りた人民が無いから、神はいつまでも世に出ることができぬから、早く改心いたして下されよ。一人が判りたら皆の者が判つてくるなれど、肝心のものに判らぬといふのも、これには何か一つの原因が無けねばならぬぞよ。自然に気のつくまで待つてをれば、神業はだんだん遅れるばかりなり、心から発根の改心でなければ、教へてもらうてから合点する身魂では、到底この御用は務まらぬぞよ。云々』
 実際の御経綸が分つてこなくては、空前絶後の大神業に完全に奉仕することはできるものではない。御神諭に身魂の樹替樹直しといふことがある。ミタマといへば、霊魂のみのことと思つてゐる人が沢山にあるらしい。身は身体、または物質界を指し、魂とは霊魂、心性、神界等を指したまうたのである。すべて宇宙は霊が本で、体が末となつてゐる。身の方面、物質的現界の改造を断行されるのは国祖大国常立神であり、精神界、神霊界の改造を断行したまふのは、豊国主神の神権である。ゆゑに宇宙一切は霊界が主であり、現界が従であるから、これを称して霊主体従といふのである。
 霊主体従の身魂を霊の本の身魂といひ、体主霊従の身魂を自己愛智の身魂といふ。霊主体従の身魂は、一切天地の律法に適ひたる行動を好んで遂行せむとし、常に天下公共のために心身をささげ、犠牲的行動をもつて本懐となし、至真、至善、至美、至直の大精神を発揮する、救世の神業に奉仕する神や人の身魂である。体主霊従の身魂は私利私慾にふけり、天地の神明を畏れず、体慾を重んじ、衣食住にのみ心を煩はし、利によりて集まり、利によつて散じ、その行動は常に正鵠を欠き、利己主義を強調するのほか、一片の義務を弁へず、慈悲を知らず、心はあたかも豺狼のごとき不善の神や、人をいふのである。
 天の大神は、最初に天足彦、胞場姫のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木に体主霊従の果実を実らせ、
『この果実を喰ふべからず』
と厳命し、その性質のいかんを試みたまうた。ふたりは体慾にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒りにふれた。
 これより世界は体主霊従の妖気発生し、神人界に邪悪分子の萠芽を見るにいたつたのである。


物語01-1-21921/10 霊主体従子 業の意義

 霊界の業といへば世間一般に深山幽谷に入つて、出世間的難行苦行をなすこととのみ考へてをる人が多いやうである。跣足や裸になつて、山神の社に立籠り断食をなし、断湯を守り火食をやめて、神仏に祈願を凝らし、妙な動作や異行を敢てすることをもつて、徹底的修行が完了したやうに思ひ誇る人々が多い。
 すべて業は行である以上は、顕幽一致、身魂一本の真理により、顕界において可急的大活動をなし、もつて天地の経綸に奉仕するのが第一の行である。たとへ一ケ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し怪行異業に熱中するは、すなはち一ケ月間の社会の損害であつて、いはゆる神界の怠業者もしくは罷業者である。すべて神界の業といふものは現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもつて第一の要件とせなくてはならぬ。


天の八衡は、現界、神界、地獄の分かれ道

物語01-2-13 1921/10 霊主体従子 天使の来迎

 それから約一時間ばかり正気になつてをると、今度はだんだん睡気を催しきたり、ふたたび霊界の人となつてしまつた。さうすると其処へ、小幡神社の大神として現はれた神様があつた。
それは自分の産土の神様であつて、
今日は実に霊界も切迫し、また現界も切迫して来てをるから、一まづ地底の幽冥界を探究する必要はあるけれども、それよりも神界の探険を先にせねばならぬ。またそれについては、霊肉ともに修業を積まねばならぬから、神界修業の方に向へ』
と仰せられた。そこで自分は、
『承知しました』
と答へて、命のまにまに随ふことにした。
 さうすると今度は自分の身体を誰とも知らず、非常に大きな手であたかも鷹が雀を引掴んだやうに、捉まへたものがあつた。
 やがて降された所を見ると、ちやうど三保の松原かと思はるるやうな、綺麗な海辺に出てゐた。ところが先に二段目で見た富士山が、もつと近くに大きく見えだしたので、今それを思ふと三穂神社だと思はれる所に、ただ一人行つたのである。すると其処に二人の夫婦の神様が現はれて、天然笛と鎮魂の玉とを授けて下さつたので、それを有難く頂戴して懐に入れたと思ふ一刹那、にはかに場面が変つてしまひ、不思議にも自分の郷里にある産土神社の前に、身体は端坐してゐたのである。
 ふと気がついて見ると、自分の家はついそこであるから、一遍帰宅つて見たいやうな気がしたとたんに、にはかに足が痛くなり、寒くなりして空腹を感じ、親兄弟姉妹の事から家政上の事まで憶ひ出されてきた。さうすると天使が、
『御身が今人間に復つては、神の経綸ができぬから神にかへれ』
と言ひながら、白布を全身に覆ひかぶされた。不思議にも心に浮んだ種々の事は打忘れ、いよいよこれから神界へ旅立つといふことになつた。しかして其の時持つてをるものとては、ただ天然笛と鎮魂の玉との二つのみで、しかも何時のまにか自分は羽織袴の黒装束になつてゐた。その処へ今一人の天使が、産土神の横に現はれて、教へたまふやう、
今や神界、幽界ともに非常な混乱状態に陥つてをるから、このまま放つておけば、世界は丸潰れになる』
と仰せられ、しかして、
『御身はこれから、この神の命ずるがままに神界に旅立ちして高天原に上るべし』
と厳命された。
 しかしながら自分は、高天原に上るには何方を向いて行けばよいか判らぬから、
『何を目標として行けばよいか、また神様が伴れて行つて下さるのか』
とたづねてみると、
『天の八衢までは送つてやるが、それから後は、さうはゆかぬから天の八衢で待つてをれ。さうすると神界の方すなはち高天原の方に行くには、鮮花色の神人が立つてをるからよくわかる。また黒い黒い何ともしれぬ嫌な顔のものが立つてをる方は地獄で、黄胆病みのやうに黄色い顔したものが立つてゐる方は餓鬼道で、また真蒼な顔のものが立つてをる方は畜生道で、肝癪筋を立てて鬼のやうに怖ろしい顔のものが立つてゐる方は修羅道であつて、争ひばかりの世界へゆくのだ
と懇切に教示され、また、
『汝が先に行つて探険したのは地獄の入口で、一番易い所であつたのだ。それでは今度は鮮花色の顔した神人の立つてゐる方へ行け。さうすればそれが神界へゆく道である』
と教へられた。しかして又、
神界といへども苦しみはあり、地獄といへどもそれ相当の楽しみはあるから、神界だからといつてさう良い事ばかりあるとは思ふな。しかし高天原の方へ行く時の苦しみは苦しんだだけの効果があるが、反対の地獄の方へ行くのは、昔から其の身魂に罪業があるのであるから、単に罪業を償ふのみで、苦労しても何の善果も来さない。もつとも、地獄でも苦労をすれば、罪業を償ふといふだけの効果はある。またこの現界霊界とは相関聯してをつて、いはゆる霊体不二であるから、現界の事は霊界にうつり、霊界の事はまた現界にうつり、幽界の方も現界の肉体にうつつてくる。ここになほ注意すべきは、神界にいたる道において神界を占領せむとする悪魔があることである。それで汝が今、神界を探険せむとすれば必ず悪魔が出てきて汝を妨げ、悪魔自身神界を探険占領せむとしてをるから、それをさうさせぬやうに、汝を神界へ遣はされるのだ。また神界へいたる道路にも、広い道路もあればまた狭い道路もあつて、決して広い道路ばかりでなく、あたかも瓢箪をいくつも竪に列べたやうな格好をしてゐるから、細い狭い道路を通つてゐるときには、たつた一人しか通れないから、悪魔といへども後から追越すといふわけには行かぬが、広い所へ出ると、四方八方から悪魔が襲つて来るので、かへつて苦しめられることが多い』
と教へられた。間もなく、神様の天使は姿を隠させたまひ、自分はただ一人天然笛と鎮魂の玉とを持ち、天蒼く水青く、山また青き道路を羽織袴の装束で、神界へと旅立ちすることとなつた。


物語02-0-1 1921/11 霊主体従丑 序文

 本書は王仁が明治三十一年旧如月九日より、同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後また一週間床縛りの修業を命ぜられ、その間に王仁の霊魂は霊界に遊び、種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来事はいづれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見付け、なるべく読者の了解し易からむことを主眼として口述いたしました。
 霊界の消息に通ぜざる人士は、私の『霊界物語』を読んで、子供だましのおとぎ話と笑はれるでせう。ドンキホーテ式の滑稽な物語と嘲る方もありませう。中には一篇の夢物語として顧みない方もあるでせう。また偶意的教訓談と思ふ方もありませう。しかし私は何と批判されてもよろしい。要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺ひ、神々の活動を幾分なりと了解して下されば、それで私の口述の目的は達するのであります。
 本書の述ぶるところは概してシオン山攻撃の神戦であつて、国祖の大神が天地の律法を制定したまひ、第一に稚桜姫命の天則違反の罪を犯し幽界に神退ひに退はれたまへる、経緯を述べたのであります。本書を信用されない方は、一つのおとぎ話か拙い小説として読んで下さい。これを読んで幾分なりとも、精神上の立替立直しのできる方々があれば、王仁としては望外の幸であります。
 『三千世界一度に開く梅の花。艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け、鬼門の金神、守るぞよ』との神示は、神世開基の身魂ともいふべき教祖に帰神された最初の艮の金神様が、救世のための一大獅子吼であつた。アゝ何たる雄大にして、荘厳なる神言でありませうか。『三千世界一度に開く』とは、宇宙万有一切の物に活生命を与へ、世界のあらゆる生物に、安心立命の神鍵を授けたまへる一大慈言でありますまいか。
 口述者はいつも此の神言を読む度ごとに、無限絶対、無始無終の大原因神の洪大なる御経綸と、その抱負の雄偉にして、なんとなく吾人が心の海面に、真如の月の光り輝き、慈悲の太陽の宇内を一斉に公平に照臨したまひ、万界の暗を晴らしたまふやうな心持になるのであります。
 そして、『三千世界一度に開く』と宇宙の経綸を竪に、しかと完全に言ひ表はし、句の終りにいたつて『梅の花』とつづめたるところ、あたかも白扇を拡げて涼風を起し、梅の花の小さき要をもつて之を統一したる、至大無外、至小無内の神権発動の真相を説明したまひしところ、到底智者、学者などの企て及ぶべきところではない。
 またその次に『須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ』との神示がある。アゝこれまたなんたる偉大なる神格の表現であらうか。なんたる大名文であらうか。到底人心小智の企及すべきところではない。そのほか、大神の帰神の産物としては、三千世界いはゆる神界、幽界、現界にたいし、神祇はさらなり、諸仏、各人類にいたるまで大慈の神心をもつて警告を与へ、将来を顕示して、懇切いたらざるはなく、実に古今にその類例を絶つてゐる。
 かかる尊き大神の神示は、俗人の容易に解し難きはむしろ当然の理にして、したがつて誤解を生じ易きところ、口述者は常にこれを患ひ、おほけなくも神諭の一端をも解釈をほどこし、大神の大御心の、那辺に存するやを明らかに示したく、思ひ煩ふことほとんど前後二十三年間の久しきにわたつた。されど神界にては、その発表を許したまはざりしため、今日まで御神諭の文章の意義については、一言半句も説明したことは無かつたのであります。
 しかるに本年の旧九月八日にいたつて、突然神命は口述者の身魂に降り、いよいよ明治三十一年の如月に、『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神教に接しましたので、二十四年間わが胸中に蓄蔵せる霊界の物語を発表する決心を定めました。しかるに口述者は、本春以来眼を病み、頭脳を痛めてより、執筆の自由を有せず、かつ強て執筆せむとすれば、たちまち眼と頭部に痛苦を覚え如何ともすること能はず、殆んどその取扱ひについて非常に心神を悩めてゐたのであります。その神教降下ありて後、十日を過ぎし十八日の朝にいたり、神教ありて『汝は執筆するを要せず、神は汝の口を藉りて口述すべければ、外山豊二、加藤明子、桜井重雄、谷口正治の四人を招き、汝の口より出づるところの神言を筆録せしめよ』とのことでありました。
 そこで自分はいよいよ意を決し、並松の松雲閣に隠棲して霊媒者となり、神示を口伝へすることになつたのであります。二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風、三千世界の梅の花、薫る常磐の松の代の、神の経綸の開け口、開いた口が閉まらぬやうな、不思議な物語り、夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川、和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川、並木の老松川の辺に影を浸して立ならぶ、流れも清く、風清く、本宮山の麓なる、並松に、新に建ちし松雲閣書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。


物語02-0-2 1921/11 霊主体従丑 総説

 神界における神々の御服装につき、大略を述べておく必要があらうと思ふ。一々神々の御服装に関して口述するのは大変に手間どるから、概括的に述ぶれば、国治立命のごとき高貴の神は、たいてい絹物にして、上衣は紫の無地で、下衣が純白で、中の衣服が紅の色の無地である。国大立命は青色の無地の上衣に、中衣は赤色、下衣は白色の無地。稚桜姫命は、上衣は水色に種々の美はしき模様があり、たいていは上中下とも松や梅の模様のついた十二単衣の御服装である。天使大八洲彦命、大足彦のごときは、上衣は黒色の無地に、中衣は赤色、下衣は白色の無地の絹の服である。その他の神将は位によつて、青、赤、緋、水色、白、黄、紺等、いづれも無地服で、絹、麻、木綿等に区別されてゐる。
 冠もいろいろ形があつて纓の長短があり、八王八頭神以上の神々に用ゐられ、それ以下の神司は烏帽子を冠り、直衣、狩衣。婦神はたいてい明衣であつて、青、赤、黄、白、紫などの色を用ゐられ、袴も色々と五色に分れてゐる。また神将は闕腋に冠をつけ、残らず黒色の服である。神卒は一の字の笠を頭に戴き、裾を短くからげ、手首、足首には紫の紐をもつて結び、実に凛々しき姿をしてをらるるのである。委しく述ぶれば際限がないが、いま述べたのは国治立命が御隠退遊ばす以前の神々の御服装の大略である。
 星移り、月換るにつれ、神界の御服装はおひおひ変化し来たり、現界の人々の礼装に酷似せる神服を纒はるる神司も沢山に現はれ、神使の最下たる八百万の金神天狗界にては、今日流行の種々の服装で活動さるるやうになつてをる。
 また邪神界でもおのおの階級に応じて、大神と同一の服装を着用して化けてをるので、霊眼で見ても一見その正邪に迷ふことがある。
 ただ至善の神々は、その御神体の包羅せる霊衣は非常に厚くして、かつ光沢強く眼を射るばかりなるに反し、邪神はその霊衣はなはだ薄くして、光沢なきをもつて正邪を判別するぐらゐである。しかるに八王大神とか、常世姫のごときは、正神界の神々のごとく、霊衣も比較的に厚く、また相当の光沢を有してをるので、一見してその判別に苦しむことがある。
 また自分が幽界を探険した時にも、種々の色の服を着けてゐる精霊を目撃した。これは罪の軽重によつて、色が別れてゐるのである。しかし幽界にも亡者ばかりの霊魂がをるのではない。現界に立働いてゐる生きた人間の精霊も、やはり幽界に霊籍をおいてをるものがある。これらの人間は現界においても、幽界の苦痛が影響して、日夜悲惨な生活を続けてをるものである。これらの苦痛を免るる方法は、現体のある間に神を信仰し、善事を行ひ万民を助け、能ふかぎりの社会的奉仕を務めて、神の御恵を受け、その罪を洗ひ清めておかねばならぬ。
 さて現界に生きてゐる人間の精霊を見ると、現人と同形の幽体を持つてゐるが、亡者の精霊に比べると、一見して生者と亡者の精霊の区別が、判然とついてくるものである。
生者の幽体(精霊)は、円い霊衣を身体一面に被つてゐるが、亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纒うてをる。それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくものである。また徳高きものの精霊は、その霊衣きはめて厚く、大きく、光沢強くして人を射るごとく、かつ、よく人を統御する能力を持つてゐる。現代はかくの如き霊衣の立派な人間がすくないので、大人物といはるるものができない。現代の人間はおひおひと霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、あたかも邪神界の精霊の着てをる霊衣のごとく、少しの権威もないやうになつて破れてをる。大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣は、やや山形になりかけてをるのも、今まで沢山に見たことがある。いつも大病人を見舞ふたびに、その霊衣の厚薄と円角の程度によつて判断をくだすのであるが、百発百中である。なにほど名医が匙を投げた大病人でも、その霊衣を見て、厚くかつ光が存してをれば、その病人はかならず全快するのである。これに反して天下の名医や、博士が、生命は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、紙のごとく薄くなつてゐたら、その病人は必ず死んでしまふものである。
 ゆゑに神徳ある人が鎮魂を拝授し、大神に謝罪し、天津祝詞の言霊を円満清朗に奏上したならば、たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、死亡を免れるものである。かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れたときにおいて、たちまち霊衣を神界より剥ぎとられ、ただちに幽界に送られるものである。
 自分は数多の人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、身体ますます強壮になつた人もあり、また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして、天授の霊衣を薄くし、中には円相がやや山形に変化しつつある人も沢山実見した。自分はさういふ人にむかつて、色々と親切に信仰の道を説いた。されどそんな人にかぎつて神の道を疑ひ、かへつて親切に思つて忠告すると心をひがまし、逆にとつて大反対をするのが多いものである。これを思へばどうしても霊魂の因縁性来といふものは、如何ともすることが出来ないものとつくづく思ひます。
   ○
 
大国治立尊と申し上げるときは、大宇宙一切を御守護遊ばすときの御神名であり、単に国治立尊と申し上げるときは、大地球上の神霊界を守護さるるときの御神名である。自分の口述中に二種の名称があるのは、この神理に基づいたものである。
 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始は、国大立命、稚桜姫命が最初であり、稚桜姫命は日月の精を吸引し、国祖の神が気吹によつて生れたまひ、国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿の神様である。それよりおひおひ
神々の水火によりて生れたまひし神系と、また天足彦、胞場姫の人間の祖より生れいでたる人間との、二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、その性質において大変な相違がある。天足彦、胞場姫といへども、元は大神の直系より生れたのであれども、世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従の罪によつて、人間に差別が自然にできたのである。
 
されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、尊体卑心の身魂に堕落してゐるのであつて、今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。
   ○
 盤古大神塩長彦は日の大神の直系にして、太陽界より降誕したる神人である。日の大神の伊邪那岐命の御油断によりて、手の俣より潜り出で、現今の支那の北方に降りたる温厚無比の正神である。
 また大自在天神大国彦は、天王星より地上に降臨したる豪勇の神人である。いづれもみな善神界の尊き神人であつたが、地上に永住されて永き歳月を経過するにしたがひ、天足彦、胞場姫の天命に背反せる結果、体主霊従の妖気地上に充満し、つひにはその妖気邪霊の悪竜、悪狐、邪鬼のために、いつとなく憑依されたまひて、悪神の行動を自然に採りたまふこととなつた。それより地上の世界は混濁し、汚穢の気みなぎり、悪鬼羅刹の跛扈跳梁をたくましうする俗悪世界と化してしまつた。
 八王大神常世彦は、盤古大神の水火より出生したる神にして、常世の国に霊魂を留め、常世姫は稚桜姫命の娘にして、八王大神の妃となり、八王大神の霊に感合し、つひには八王大神以上の悪辣なる手段を用ゐ、世界を我意のままに統轄せむとし、車輪の暴動を継続しつつ、その霊はなほ現代にいたるも常世の国にとどまつて、体主霊従的世界経綸の策を計画してをる。
 ゆゑに
常世姫の霊の憑依せる国の守護神は、今になほその意志を実行せむと企ててをる。八王大神常世彦には天足彦、胞場姫の霊より生れたる八頭八尾の大蛇が憑依してこれを守護し、常世姫には金毛九尾白面の悪狐憑依してこれを守護し、大自在天には、六面八臀の邪気憑依してこれを守護し、ここに艮の金神国治立命の神系と盤古大神の系統と、大自在天の系統とが、地上の霊界において三つ巴になつて大活劇を演ぜらるるといふ霊界の珍しき物語である。
 自分はここまで口述したとき、何心なくかたはらに散乱せる大正日日新聞に眼をそそぐと、今日はあたかも大正十年陰暦十月十日午前十時であることに気がついた。霊界物語第二巻の口述ををはつた今日の吉日は、松雲閣において御三体の大神様を始めて新しき神床に鎮祭することとなつてゐた。これも何かの神界の御経綸の一端と思へば思へぬこともない。
 ついでに第三巻には、盤古大神(塩長彦)、大自在天(大国彦)、艮能金神(国治立命)三神系の紛糾的経緯の大略を述べ、国祖の御隠退までの世界の状況、神々の驚天動地の大活動を略述する考へであります。読者諸氏の幸に御熟読あつて、それが霊界探求の一端ともならば、口述者の目的は達せらるる次第であります。
 アゝ惟神霊幸倍坐世
  大正十年旧十月十日午前十時十分
     於松雲閣 口述者識

(註)
本巻において、国治立命、豊国姫命、国大立命、稚桜姫命、木花姫命とあるは、神界の命により仮称したものであります。しかし真の御神名は読んで見れば自然に判明することと思ひます。


物語06-5-251922/01 霊主体従巳 金勝要大神

天津御神の造らしし      豊葦原の瑞穂国
泥の世界と鳴戸灘       天の瓊矛の一滴
言霊姫の鳴り鳴りて      鳴りも合ざる海原の
穢れもここに真澄姫      竜世の浪も収まりて
天地四方の神人は       心平に安らかに
この浮島に純世姫       御稜威も高き高照姫の
神の命と諸共に        神界現界事完へて
根底の国を治めむと      地教の山を出でたまひ
野立の姫の後を追ひ      救ひの神と鳴戸灘
同じ心の姫神は        根底の国へ五柱
千尋の深き海よりも      業の深き罪咎を
清むるための塩をふみ     浪路を開きて出でましぬ
無限無量の御恵みは      現界、幽界、神の世の
救ひの神の御柱ぞ。


 ここに五柱の女神は、地球の中軸なる火球の世界に到りたまひ、野立彦神、野立姫神の命を奉じ、洽く地中の地汐、地星の世界を遍歴し、ふたたび天教山に登り来りて、大海原の守り神とならせたまひける。
 ここに天の御柱の神、国の御柱の神は、伊予の二名の島を生み、真澄姫神をしてこれが国魂の神たらしめたまふ。これを愛媛といふ。一名竜宮島ともいひ、現今の濠洲大陸なり。而してわが四国は、その胞衣にぞありける。
 つぎに純世姫神をして、筑紫の守り神となさしめ給ひぬ。これを多計依姫といふ。筑紫の島とは現代の亜弗利加大陸なり。わが九州はこの大陸の胞衣にぞありける。
 つぎに言霊姫神をして、蝦夷の島の守り神たらしめ給ひぬ。これ現代の北米なり。而してわが北海道は、その大陸の胞衣にぞありける。
 つぎに竜世姫神をして、高砂の島を守らしめ給ひぬ。ゆゑに又の名を高砂姫といふ。高砂の島は南米大陸にして、台湾島はその胞衣にぞありける。
 つぎに高照姫神をして、葦原の瑞穂国を守らしめ給ひぬ。これ欧亜の大陸にして、大和の国は、その胞衣にぞありける。
 かくして五柱の女神は、その地の国魂として永遠に国土を守護さるることとなれり。但しこれは霊界における御守護にして、現界の守護ならざることは勿論なり。是らの女神は、おのおのその国の神人の霊魂を主宰し、或ひは天国へ、或ひは地上へ、或ひは幽界に到るべき身魂の救済を、各自分掌し給ふこととなりける。故にその国々島々の身魂は、総てこの五柱の指揮に従ひ、現、幽、神の三界に出現するものなり。
 しかし此の五柱の神の一旦幽界に入りて、ふたたび天教山に現はれ、国魂神とならせ給ふまでの時日は、数万年の長年月を要したまひける。その五柱を総称して、金勝要神といふ。
 天は男系、地は女系といふは、霊界のこの消息を洩らせしものなり。神諭に、
『大地の金神、金勝要神』
とあるは、これの表示なり。また、
『この大神は、雪隠の中に落された神』
とあるは、総ての地上の罪悪を持ち佐須良比失ふところの鳴戸の意味なり。天教山は口に当り、鳴戸は地球の肛門に当るがゆゑなり。
 神の出口、入口といふは、この富士と鳴戸の御経綸の意なり。大地の金神を金勝要神と称するは、大地の金気の大徳によりて固成され、この神の身魂によりて凝縮保維されてゐるがゆゑなり。


三途の川は現界、神界、幽界の分かれ道。
現界から直接神界、幽界へ行くのを、一途の川を渡るという。

物語14-99-1 1922/03 如意宝珠丑 跋文

 神の御諭を蒙りて 述べ始めたる霊界
 奇しき神代の物語 神代許りか幽界も
 また現界も押並べて 神の随に随に口車
 現幽神の三界の 時に立ちて三ツ瀬川
 三ツ尾峠や四ツ尾の 峰の麓にそそり立つ
 黄金閣の蔭清き 教主館に横臥して
 三途の流滔々と 瑞の御魂の走り書き
 十四の巻のいや終に その真相を示すべし
 三途の河は神界と 現界又は幽界へ
 諸人等の霊魂の 行衛の定まる裁断所

 八洲の河原とヨルダンの 河とも唱ふ神聖場
 悪の霊魂が行く時は その川守は鬼婆と
 忽ち変じ着衣剥ぎ 裸体となりて根の国や
 底つ幽世へ落し捨て 善の御魂の来る時は
 川守忽ち美女となり 優しき言葉を使ひつつ
 旧き衣服を脱却し 錦の衣服と着替へさせ
 高天原の楽園へ 行くべき印綬を渡す也
 善悪未定の霊魂が 来たれば川守また婆と
 忽ち変り竹箒 振り上げ娑婆へ追返し
 朝と夕の区別なく 川の流れの変る如
 千変万化の活動を いや永遠に開き行く
 善悪正邪を立別ける 是ぞ霊魂の分水河
 千代に流れて果もなし 抑もこれの川水は
 清く流るることもあり 濁り汚るることもあり
 清濁不定の有様は 集まり来たる人々の
 霊魂々々に映り行く 奇しき尊とき珍らしき
 宇宙唯一の流れなり 激しき上つ瀬渉るのは
 現実界へ生れ行く 霊魂や蘇生する人許り
 弱き下津瀬渉り行く 霊魂は根の国底の国
 暗黒無明の世界へと 落ち行く悲しき魂のみぞ

 緩けく強く清らけく 且つ温かく美はしき
 中津瀬渉り行くものは 至喜と至楽の花開く
 天国浄土に登る魂
 それぞれ霊魂の因縁の
 綱に曳かれて進み行く 神の律法ぞ尊とけれ
 三途の川の物語 外に一途の川もあり
 抑も一途の因縁は 現世に一旦生れ来て
 至善至真の神仏の 教を守り道を行き
 神の御子たる天職を 尽し了はせし神魂
 大聖美人の天国へ 進みて登る八洲の川
 清めし御魂も今一度 浄めて進み渉り行く
 善一途の生命川 渡る人こそ稀らしき
 一旦現世へ生れ来て 体主霊従の悪業を
 山と積みたる邪霊の 裁断も受けず一筋に
 渉りて根底の暗界へ 堕ち行く亡者の濁水に
 溺れ苦しみ渡り行く 善と悪との一途川
 実にも忌々しき流れ也 アヽ惟神々々
 御霊幸へましまして 三途の川や一途川
 滑稽交りに述べ立てし この物語意を留めて
 読み行く人の霊魂に 反省改悟の信念を
 発させ給ひて人生の 行路を清く楽もしく
 歩ませ玉へと天地の 神の御前に澄み渡る
 大空輝く瑞月が 天照し坐す大神の
 遍ねく照す光明に 照され乍ら人々の
 身魂の行衛を明かに 説き示し行く嬉しさよ
 朝日は照るとも曇る共 月は盈つとも虧くるとも
 たとへ大地は沈む共 誠の神の御諭しは
 万劫末代いつ迄も 天地の続くその限り
 変りて朽ちて亡び行く ためしは永遠にあらざらめ
 アヽ惟神々々 御魂幸はへましませよ。


精霊界から現界へ生れ変る霊魂があるが、それは不幸の霊魂である。

物語15-99-11922/04 如意宝珠寅 跋文

霊界の状態は         肉体人の住居せる
世界と万事相似たり       平野 山岳 丘陵や
岩石渓谷水に火に        草木の片葉に至るまで
外形上より見る時は       何らの変はりしところなし
されども是らの諸々は      起源を一切霊界
採りたる故に天人や       精霊のみの眼に入りて
肉体人の見るを得ず       形体的の存在は
自然的起源を保育する      現界人のみ之を見る

顕幽区別は明らかに       神の立てたる法則なり
それゆゑ現世の人々は      霊界事象を見るを得ず
霊界に入りしとき       神の許しを蒙りて
詳しく見聞するものぞ      これに反して天人や
霊界に入りし者は       また現界や自然界
事物を見ること不能なり     鎮魂帰神の妙法に
よりて人間の体を籍り      憑依せし時やうやくに
現界の一部を見聞し       人に対して物語り
為し遂げらるるものぞかし    如何となれば肉体人の目は
形体界の光明を         受くるに適し天人や
精霊の眼は天界の        光明を受くるに適すべく
造り為されしためぞかし     しかも両者の眼目より
外面全く相似たり        霊界の性相この如く
造られたるを自然界の      人の会得し能はざるは
これまたやむを得ざるべし    外感上の人々は
その肉眼に見るところ      手足の触覚視覚等に
取り入れ得らるるその外は    容易に信じ得ざるなり
現界人はこのごとき       事物に基づき思考する
ゆゑに全くその思想       物質的に偏よりて
霊的ならず霊界と        現実界とのその間に
如上のごとき相似あれば     人は死したる後の身も
かつて生まれし故郷や      離れ来たりし世の中に
なほも住居するものなりと    誰人とても思ふべし
このゆゑ人は死を呼びて     これより彼世の霊界
相似の国へ往くといふ。

     ○
現実界を後にして        精霊界に移る時
その状態を死と称す       死し行くものは一切の
身魂に属せし悉を        霊界さして持ちて行く

物質的の形骸は         腐朽し去れば残すなり
死後の生涯に入れるとき     現実界にありし如
同じ形の身体を         保ちて何らの相違なく
打ち見るところ塵身と      霊身に何らの区別なし

されどその実身体は       すでに霊的活動し
物質的の事物より        分離し純化し清らけく
霊的事物の相接し        相見る状態は現界
相触れ相見る如くなり      精霊界に入りし後も
凡ての人は現界に        保ちし時の肉体に
あるもののごと思ひ詰め     吾が身のかつて死去したる
その消息を忘るなり       霊界に入りし後も
人は依然と現界に        ありて感受せる肉的や
外的感覚保育して        見ること聞くこと言ふことも
嗅ぐこと味はひ触るること    残らず現世の如くなり
霊界に身をおくも       名位寿富の願ひあり
思索し省み感動し        愛し意識し学術を
好みしものは読書もし      著述を励む身魂あり
換言すれば死といふは      此より彼に移るのみ
その身に保てる一切の      事物を到る先々へ
持ち行き活躍すればなり     故に死するといふことは
物質的の形体の         死滅をいふに過ぎずして
自已本来の生命を        決して失ふものならず

再び神の意志に由り       現世に生まれ来る時は
以前の記憶の一切は       忘却さるるものなれど
こは刑罰の一種にて       如何ともする術はなし
一度霊界へ復活し        またもや娑婆に生まるるは
霊界より見る時は       すべて不幸の身魂なり

人は現世に在る間に       五倫五常の道を踏み
神を敬ひ世を救ひ        神の御子たる天職を
つくしおかねば死して後     中有界に踏み迷ひ
あるひは根底の地獄道      種々雑多の苦しみを
受くるものぞと覚悟して     真の神を信仰し
善を行ひ美を尽         人の人たる本分を
力かぎりに努めつつ       永遠無窮の天国へ
楽しく上り進み行く       用意を怠ることなかれ
顕幽一致 生死不二       軽生重死も道ならず
重生軽死また悪し        刹那 刹那に身魂を
研き清めて神界と        現実界の万物の
大経綸の神業に         尽くせよつくせよ惟神
神のまにまに述べておく。


物語16-99-2 1922/04 如意宝珠卯 霊の礎(一)

 霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
 神界は神道家の唱ふる高天原であり、仏者のいふ極楽浄土であり、また耶蘇のいふ天国である。

 中界は神道家の唱ふる天の八衡であり、仏者のいふ六道の辻であり、キリストのいふ精霊界である。

 幽界は神道家の唱ふる根の国底の国であり、仏者のいふ八万地獄であり、またキリストのいふ地獄である。

 ゆゑに天の八衡は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位地にして即ち状態である。人の死後ただちに到るべき境域にして所謂中有である。中有に在ることやや久しき後、現界にありしときの行為の正邪により或は高天原に昇り、或は根底の国へ落ち行くものである。

一、高天原に復活したる人間の霊身は、地上現実界に生存せし時のごとく、思想感情意識等を有して楽しく神の懐に抱かれ、種々の積極的神業を営むことを得るは前に述べた通りである。さて人間はどうして現界に人の肉躰を保ちて生まれ来るかといふ間題に至つては、いかなる賢哲も的確な解決を与へてゐない。しかしこれは実にやむを得ないところである。物質的要素をもつて捏(こ)ね固められたる人間として、無限絶対なる精霊界の消息を解釈せむとするのは、あたかも木に倚りて魚を求め、海底に潜みて焚火の暖を得むとするやうなものである。ゆゑに現界人は、死後の生涯や霊界の真相を探らむとして何ほど奮勉努力したところで、到底不可能不成功に終はるのは寧ろ当然である。一度神界の特別の許可を得たるものが、無数の霊界を探り来たり、これを現界へその一部分を伝へたものでなくては、到底今日の学者の所説は臆測に過ぎないことになってしまふ。


物語19-99-1 1922/05 如意宝珠午 霊の礎(五)

一、そもそも高天原の天国に住む天人すなわち人間の昇天せし霊身人は、地上と同様に夫婦の情交を行ひ、つひに霊の子を産んで、これを地上にある肉体人の息に交へて人間を産ましめるものである。故に人は神の子、神の宮といふのである。地上は凡て天国の移写であるから、天国において天人夫婦が情交を行ひ霊子を地上に蒔き落とす時は、その因縁の深き地上の男女はたちまち霊に感じ情交を為し、胎児を宿すことになる。その胎児または即ち天人の蒔いた霊の子の宿つたものである。その児の善に発達したり悪に落つるのも、亦その蒔かれた田畑の良否によって、幾分かの影響をその児が受けるのはやむを得ない。智愚正邪の区別のつくのもやむを得ない。石の上に蒔かれた種子は決して生えない。また瘠土に蒔かれた種子は、肥沃の地に蒔かれた種子に比すれば大変な相違があるものだ。これを思へば人間は造次(ざうじ)にも顛沛にも、正しき清き温かき優しき美しき心を持ち最善の行ひを励まねばならぬ。折角の天よりの種子を発育不良に陥らしめ、或は不発生に終はらしむるやうなことに成つては、人生みの神業を完全に遂行することは出来なくなつて、宇宙の大損害を招くに至るものである。
 人間が現界へ生まれて来る目的は、天国を無限に開くべく天よりその霊体の養成所として降されたものである。決して数十年の短き肉的生活を営むためでは無い。要するに人の肉体と共にその霊子が発達して、天国の神業を奉仕するためである。天国に住む天人は、是非とも一度人間の肉体内に入りてその霊子を完全に発育せしめ、現人同様の霊体を造り上げ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる霊体として、天上に還らしめむがためである。ゆゑに現界人の肉体は、天人養成の苗代であり、学校であることを悟るべきである。

一、胎児は母体の暗黒な胞衣の中で平和な生活を続け、十ケ月の後には母体を離れて現界へ生まれ、喜怒哀楽のために生存するものだといふことは知らないが、しかし生まるべき時が充つれば矢張り生まれなくてはならぬ如く、人間もまた天国へ復活すべき時が充つれば、如何なる方法にても死といふ一つの関門を越えて、霊界に復活せなくてはならぬのである。胎児は月充ちて胞衣といふ一つの死骸を遺(のこ)して生まるるごとく、人間もまた肉体といふ死骸を遺して、霊界へ復活すなはち生まるるのである。ゆゑに神の方から見れば生き通しであつて死といふことは皆無である。ただただ形骸を自己の霊魂が分離した時の状態を死と称するのみで、要するに天人と生まれし時の胞衣と見ればよいのである。胎児の生まるる時の苦しみあるごとく、自己の本体が肉体から分離する時にも、やはり相当の苦しみはあるものである。しかしその間はきはめて短いものである。以上は天国へ復活する人の死の状態である。
 根底の国へ落ちて行く人間の霊魂は非常な苦しみを受けるもので、ちやうど人間の難産のやうなもので、産児の苦痛以上である。中には死産といつて死んで生まれる胎児のやうに、最早浮かぶ瀬がない無限苦の地獄へ落とされてしまふのである。ゆゑに人間は未来の世界のあることが判らねば、真の道義を行ふことが出来ぬものである。神幽現三界を通じて、善悪正邪勤怠の応報が厳然としてあるものといふことを覚らねば、人生の本分はどうしても尽くされないものである。

一、天国に住める天人は、地上を去って天国へ昇り来たるべき人間を非常に歓迎し、種々の音楽などを奏して待つてゐるものである。ゆゑに天国を吾人は称して霊魂の故郷と日ふのである。真神すなはち主なる神は、人間の地上において善く発達し完全なる天人となって天国へ昇り来たり、天国の住民となって霊的神業に参加することを、非常に歓び玉ふのである。天国の天人もまた、人間が完全な霊体となつて天国へ昇り来たり、天人の仲間に成ることを大変に歓迎するものである。
 例へばここに養魚家があって大池に鯉の児を一万尾放養し、その鯉児が一尾も残らず生育してくれるのを待つて歓び楽しんでゐるやうなものである。せっかく一万尾も放養しておいた鯉が、一定の年月を経て調べて見ると、その鯉の発育悪しく満足に発育を遂げたものが百分一に減じ、その他は残らず死滅したり、悪人に捕獲されて養主の手に返らないとしたら、その養主の失望落胆は思ひやらるるであらう。しかし鯉の養主はただ物質的の収益を計るためであるが、神様の愛の慾望は、到底物質的の慾望に比ぶることは出来ない。ゆゑに人間はどこまでも神を信じ神を愛し、善の行為を励み、その霊魂なる本体をして完全なる発達を遂げしめ、天津神の御許へ神の大御宝として還り得るやうに努力せなくては、人生の本文を全うすることが出来ないのみならず、神の最も忌みたまふ根底の国へ自ら落ち行かねばならぬやうになつてしまふのである。
 アゝ惟神霊幸倍坐世。


物語40-3-11 1922/11 舎身活躍卯 三途館

女『ここはお前さまの仰有る通り野ツ原だ、奥の問といふのは次の家だ。この向方に立派な奥の間が建つてゐるから、そこへ案内をいたしませう』
レーブ『また外から見れば、金殿玉楼、中へ入つて見れば乞食小屋といふやうなお館へ御案内下さるのですかなア。イヤもうこれで結構でございます』
カル『何でまたこれだけ外に金をかけて、立派な家を建てながら、中はこんなにムサ苦しいのだらう。なアお婆アさま、コラ一体何か意味があるだらうな』
女『
ここは三途の川の現界部だから、こんな家が建ててあるのだ。現界の奴は表面ばかり立派にして、人の目に見えぬ所はみなこんなものだ。口先は立派なことをいふが、心の中は丁度この家の中見るやうなものですよ。私だつてこんなナイスに粉飾してるが、この家と同様で、肝腎要の腹の中は本当に汚いものだよ。お前さまもバラモン教だとか、三五教だとかのレツテルを被つて、宣伝だとか万伝だとかいつて歩いてゐただらう。腐つた肉に宣伝使服を着けて、糞や小便をそこら中持ち歩いて、神様をだしに、物のわからぬ婆嬶に、随喜渇仰の涙をこぼさしてゐたのだらう。私もこの着物を一つ剥いたら、二目と見られぬ鬼婆アだよ。白粉を塗り口紅をさし、白髪に黒ンボを塗り、身体中に蝋の油をすり込んで、こんなよい肉付にみせてゐるが、一遍少し熱い湯の中へでも這入らうものなら、見られた態ぢやない。サアこれから本当の家の中へ伴れていつてあげよう。イヤ奥の間へつれて行きませう』
レーブ『何と合点のいかぬことをいふ娘婆アさまぢやなア。何だか気味が悪くなつてきた。かういはれると自分らの腹の中を、浄玻璃の鏡で照らされたやうな気分になつてきたワイ。のうカル公』
カル『さうだな、まるきり現代の貴勝族の生活のやうだなア。外から見れば、刹帝利か、浄行か、何か貴い方が住んでゐるお館のやうだが中へ這入つてみると、毘舎よりも首陀よりも幾層倍劣つた旃陀羅の住家のやうだのう』
女『せんだら万だら言はずと、早くこつちやアへ来なされよ。サア、ここが神界の人の住む館だ、かういふ家に住居をするやうにならぬとあきませぬぞや』
レーブ『どこに家があるのだい、野原ばかりぢやないか。向かふには川が滔々と流れるばかりで、家らしいものは一つもないぢやないか』
カル『オイ、レーブ、貴様よほど悟りの悪い奴ぢやなア。
神界の家といつたら、娑婆のやうな木や石や竹で畳んだ家ぢやない、際限もなきこの宇宙間を称して神界の家といふのだ
レーブ『こんな家に住んでをつたら、それでも雨露を凌ぐことが出来ぬぢやないか。神界の家といふのは、いはゆる乞食の家だな。何がそんな家が結構だい。貴様こそ訳の分からぬことをいふぢやないか』
女『コレコレお二人さま、何をグヅグヅいつてらつしやるのだ、この家が見えませぬか。水晶の屋根、水晶の柱、何もかも一切万事、器具の端にいたるまで水晶でこしらへてあるのだから、お前さまの曇つた眼力では見えませうまい。私の体だつて神界へ這入れば、これこの通り、見えますまいがな』
と、にはかに透き通つてしまつた。
レーブ『目は開いてゐるが家の所在がちよつとも分からぬ、これでは盲も同然だ。なにほど結構でも家の分からぬやうな所へやつて来て、水晶の柱へでもブツカツたら、大変だから、ヤツパリ俺は最前の現界の家の方が何ほどよいか分からぬわ。コレコレ娘婆アさま、どこへ行つたのだい。お前の姿だけなつと見せてくれないか』

(中略)

女『サアこれから幽界の館を案内しませう、私について来るのだよ』
レーブ『神界現界の立派なお家を拝見したのだから、幽界もやつぱり序に見せてもらはうか。のうカル公』
カル『定つたことだ。ここまでやつて来て幽界だけ見なくては帰んで嬶アに土産がないワイ』
女『ホ丶丶お前さま達、帰なうといつても、モウかう冥途へ来た上は、メツタに帰ることが出来ませぬぞや、ここは三途の川の渡場だ。それ、ここに汚い藁小屋がある、これが幽界のお館だ』
と言ひながら、にはかに白髪の婆アになつてしまつた。
レーブ『ヤア、カル公、あの娘は本当の婆アになりよつたぞ。いやらしい顔をしてゐるぢやねえか』
婆『いやらしいのは当然だ。亡者の皮を剥ぐ脱衣婆アだから、サアこれからお前さまの衣をはがすのだ』
カル『エ丶しやれない、なんだこの小つぼけな雪隠小屋のやうな家を見つけやがつて、モウ俺は止めた。やつぱり現界の家の方へ行つて休まう』
と踵を返さうとすれば、婆アはグツと両の手で二人の首筋をつかんだ。二人はゾツとして、
『オイ婆アさま、離した離した、こらへてくれ、こらへてくれ』
婆『何といつても離さない。ここは幽界の関所だから、お前を赤裸にして、地獄へ追ひやらねばならぬのだ。この三途の川には神界へ行く途と、現界へ行く途と、幽界へ行く途と三筋あるから、それで三途の川といふのだよ。伊弉諾尊様が黄泉国からお帰りなさつた時、御禊をなさつたのもこの川だよ。上つ瀬は瀬強し、下つ瀬は瀬弱し、中つ瀬に下り立ちて、水底に打ちかづきて御禊し給ひし時に生りませる神の名は大事忍男神といふことがある。それあの通り、川の瀬が三段になつてるだろ。真中を渡る霊は神界へ行くなり、あの下の緩い瀬を渡る代物は幽界へ行くなり、上の烈しい瀬を渡る者は現界に行くのだ。三途の川とも天の安河とも称へるのだから、お前の霊の善悪を検める関所だ。サアお前はどこを通る心算だ。真中の瀬はあ丶見えてゐても余ほど深いぞ。グヅグヅしてると、沈没してしまふなり、下の瀬の緩い瀬を渡れば渡りよいが、その代はりに幽界へ行かねばならず、どちらへ行くかな。モ一度娑婆へ行きたくば上つ瀬を渡つたがよからうぞや』
レーブ『なにほど瀬が緩いといつても、幽界の地獄へ行くのは御免だ。折角ここまでやつて来て現界へ後戻りするのも気が利かない。三五教に退却の二字はないのだから……しかしカルの奴、マ一度現界へ帰りたくば婆アさまの言ふ通り、あの瀬をバサンバサンと渡つてみい。俺はどうしても神界行きだ、虎穴に入らずんば虎児を得ずといふから、一つ運を天に任し、俺は神界旅行に決めた。時に途中で別れた連中はどこへ行つたのだらうか、婆アさま、お前知つてるだらうな』
婆『あいつかい、あいつは一途の川を渡つて、八万地獄へ真逆様に落ちよつたのだよ』
カル『一途の川とは今聞き始めだ。どうしてマア、あいつらはそんな所へ連れて行かれよつたのだらう』
婆『一途の川といふのは、善一途を立てたものか、悪一途を立てた者の通る川だ。善一途の者はすぐに都率天まで上るなり、悪一途の奴は渡しを渡るが最後、八万地獄に落ちる代物だ、本当に可哀さうなものだよ。カルの部下となつてゐたあの八人は、今ごろはエライ制敗を受けてるだらう。それを思へばこの婆アも可哀さうでも気の毒でも何でもないわい。オホ丶丶丶』
カル『コリヤ鬼婆、俺の部下がそんな所へ行つているのに、何だ気味がよささうに、その笑ひ態は……貴様こそよい悪垂婆だ。何故一途の川をこんな婆が渡らぬのだらうかな、のうレーブ』
婆『いづれ幽界の関所を守るやうな婆に、慈悲ぢやの情けぢやの同情などあつてたまるかい、悪人だから三途の川の渡守をしてゐるのだ。善人が来れば直ぐに最前のやうな娘になり、現界の奴が来れば、上皮だけ綺麗な中面の汚い娘に化ける。悪人が来ればこんな恐ろしい婆になるのだ。つまりここへ来る奴の心次第に化ける婆アだよ』
レーブ『それなら俺はまだ一途の川へ鬼が引つ張つて行きよらなんだだけ、どつかに見込みがあるのだな。ヨシヨシ、それなら一つ奮発して神界旅行と出かけよう。オイ、カル、貴様も俺について中つ瀬を渡れ』
カル『ヨシ、どこまでもお前とならば道伴れにならう』
両人『イヤお婆アさま、大変なお邪魔をいたしました。御縁があつたらまたお目にかかりませう、左様なら、まめで、ご無事で、お達者で……ないやうに、早くくたばりなされ、オホ丶丶丶』
婆『コリヤ、貴様は霊界へ来てまで不心得な、悪垂口を叩くか。神界へ行くといつても、やらしはせぬぞ』
と茨の杖を振り上げて追つかけ来たるその凄じさ。二人はザンブとばかり中つ瀬に飛び込み、一生懸命抜き手を切つて、あなたの岸にやうやく泳ぎついた。


物語47-0-2 1923/01 舎身活躍戌 総説

 この霊界物語には、産土山の高原伊祖の神館において、神素盞嗚尊が三五教を開きたまひ、あまたの宣伝使を四方に派遣したまふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界すなはち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍したまうた事実であります。ウラル教やバラモン教、あるひはウラナイ教なぞの物語は、たいてい顕界に関した事実が述べてあるのです。ゆゑに、三五教は、内分的の教を主とし、そのたの教は、外分的の教をもつて地上を開いたのであります。ゆゑに、顕幽神三界を超越した物語といふのは、右の理由から出た言葉であります。


物語48-1-11923/01 舎身活躍亥 聖言

 宇宙には、霊界現界との二つの区界がある。しかして霊界には、また高天原と根底の国との両方面があり、この両方面の中間に介在する一つの界があつて、これを中有界または精霊界といふのである。
 
また現界一名自然界には、昼夜の区別があり、寒暑の区別があるのは、あたかも霊界に、天界と地獄界とあるに比すべきものである。
 人間は、霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。この原理を霊主体従といふのである。霊なるものは、神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。しかして人間には、一方に愛信の想念あるとともに、一方には、身体を発育し、現実界に生き働くべき体慾がある。この体慾は、いはゆる愛より来たるのである。しかし、体に対する愛は、これを自愛といふ。神より直接に来たるところの愛は、これを神愛といひ、神を愛し万物を愛する、いはゆる普遍愛である。また自愛は、自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであつて、これを自利心といふのである。
 人間は肉体のあるかぎり、自愛もまた必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に遡り、どこまでも真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。要するに
人間は、霊界より見れば、すなはち精霊であつて、この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。ゆゑに人間は、霊的動物なるとともに、また体的動物である。
 精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかして
たいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。しかして精霊の善なるものを、正守護神といひ、悪なるものを、副守護神といふ。正守護神は、神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊すなはち副守護神に圧倒され、彼が頤使に甘んずるごとき卑怯なる精霊となる時は、精霊みづからも地獄界へともどもにおとされてしまふのである。この時は、ほとんど善の精霊は悪霊に併合され、副守護神のみ、吾物顔に跋扈跳梁するに至るものである。そしてこの悪霊は、自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られるものである。かくのごとき悪霊に心身を占領された者を称して、体主霊従の人間といふのである。また善霊も悪霊も皆これを一括して精霊といふ。
 現代の人間は百人がほとんど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、いづれも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は、宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼らは霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度をもつて、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。はなはだしきは体主体従的研究に堕してゐるものが多い。いづれも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、いはゆる天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲どものことである。
 すべて宇宙には霊界現界の区別ある以上は、たうてい一方のみにてその真相を知ることは出来ない。自然界の理法に基づくいはゆる科学的知識をもつて、無限絶体無始無終、不可知不可測の霊界の真相を探らむとするは、実に迂愚癲狂も甚しといはねばならぬ。まづ現代の学者は、その頭脳の改造をなし、霊的事物の存在を少しなりとも認め、神の直接内流によつて、真の善を知り、真の真を覚るべき糸口を捕足せなくては、黄河百年の河清をまつやうなものである。今日のごとき学者の態度にては、たとへ幾百万年努力するとも、到底その目的は達することを得ないのである。夏の虫が冬の雪を信ぜないごとく、今日の学者はその智暗くその識浅く、かつ驕慢にして自尊心強く、何事も自己の知識をもつて、宇宙一切の解決がつくやうに、いなほとんどついたもののやうに思つてゐるから、実にお目出たいといはねばならぬのである。天体の運行や大地の自転運動や、月の循行、寒熱の原理などについても、まだ一としてその真を得たものは見当らない。徹頭徹尾、矛盾と撞着と、昏迷惑乱とに充たされ、暗黒無明の域に彷徨し、太陽の光明に反き、わづかに陰府の鬼火の影を認めて、大発明でもしたやうに騒ぎまはつてゐるその浅ましさ、少しでも証覚の開けたものの目より見る時は、実に妖怪変化の夜行するごとき状態である。現実界の尺度は、すべて計算的知識によつて、そのある程度までは考察し得られるであらう。しかしなにほど数学の大博士とはいへども、その究極するところは、たうてい割り切れないのである。例へば十を三分し、順を追うて、おひおひ細分しゆく時は、その究極するところは、ヤハリ細微なる一といふものが残る。この一は、なにほど鯱矛立ちになつて研究してもたうてい能はざるところである。自然界にあつて、自然的事物すなはち科学的研究をどこまで進めても、解決がつかないやうな愚鈍な暗冥な知識をもつて、焉んぞ霊界の消息門内に一歩たりとも踏み入ることが出来ようか。
 口述者が霊界より、大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流によつて、暗迷愚昧なる現界人に対し、霊界の消息を洩らすのは、何だか豚に真珠を与ふるやうな心持ちがする。かく言へば瑞月は、癲狂者あるひは誇大妄想狂として、一笑に附するであらう。しかしながら自分の目より見れば、現代の学者くらゐ始末の悪い、分らずやはないと思ふ。プラス、マイナスを唯一の武器として、絣や金米糖をゑがき、現界の研究さへも、まだその門戸に達してゐない自称学者が、霊界のことに嘴を容れて、審神者をしようとするのだから、実に滑稽である。ゆゑにこの『霊界物語』も、これを読む人々の智慧証覚の度合の如何によつて、その神霊の感応に応ずる程度に、幾多の差等が生ずるのは已むを得ないのである。
 宇宙の真理は開闢のはじめより、億兆万年の末にいたるも、決して微塵の変化もないものである。しかしながら、これに相対する人間の智慧証覚の賢愚の度によつて種々雑多に映ずるのであつて、つまりその変化は真理そのものにあらずして、人間の知識そのものにあることを知らねばならぬのである。もし現代の人間が、大神の直接統治したまふ天界の団体に籍をおき、天人の列に加はることを得たならば、現代の学者のごとく無性やたらに頭脳を悩まし、心臓を痛め肺臓を破り、神経衰弱を来たさなくても、容易に明瞭に宇宙の組織紋理が判知さるるのである。
 憎まれ口はここらでお預かりとして、改めて本題に移ることとする。ここに霊界に通ずる唯一の方法として、鎮魂帰神なる神術がある。しかして人間の精霊が直接大元神すなはち主の神(または大神といふ)に向かつて神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、わが精霊の本源なる大神の御神格に帰一和合するの謂である。ゆゑに帰神は、大神の直接内流を受くるによつて、予言者として、最も必要なる霊界真相の伝達者である。
 次に大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来たり、神界の消息を、人間界に伝達するのを神懸といふ。またこれを神格の間接内流ともいふ。これもまた予言者を求めてその精霊を充たし、神界の消息を、ある程度まで人間界に伝達するものである。
 次に、外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふところの邪霊がある。これを悪霊または副守護神といふ。この情態を称して神憑といふ。
 すべての偽予言者、贋救世主などは、この副守の囁きを、人間の精霊みづから深く信じ、かつ憑霊自身も貴き神と信じ、その説き教へるところもまた神の言葉と、自ら自らを信じてゐるものである。すべてかくのごとき神憑は、自愛と世間愛より来たる凶霊であつて、世人を迷はし、かつ大神の神格を毀損すること最もはなはだしきものである。かくのごとき神憑は、すべて地獄の団体に籍をおき、現界の人間をして、その善霊を亡ぼし、かつ肉体をも亡ぼさむことを謀るものである。近来天眼通とか千里眼とか、あるひは交霊術の達人とか称する者は、いづれもこの地獄界に籍をおける副守護神の所為である。泰西諸国においては、今日やうやく現界以外に霊界の在ることを、霊媒を通じてやや覚り始めたやうであるが、しかしこの研究は、よほど進んだ者でも、精霊界へ一歩踏み入れたくらゐな程度のもので、たうてい天国の消息は夢想だにも窺ひ得ざるところである。たまには最下層天国の一部の光明を、遠方の方から眺めて、臆測を下した霊媒者も少しは現はれてゐるやうである。霊界の真相を充分とはゆかずとも、相当に究めた上でなくては、妄りにこれを人間界に伝達するのは、かへつて頑迷無智なる人間をして、ますます疑惑の念を増さしむるやうなものである。ゆゑに霊界の研究者は、もつとも霊媒の平素の人格についてよく研究をめぐらし、その心性を十二分に探査した上でなくては、好奇心にかられて、不真面目な研究をするやうなことでは、学者自身が中有界は愚か、地獄道に陥落するにいたることは、想念の情動上やむを得ないところである。
 さて、帰神も神懸も神憑も、概括して神がかりと称へてゐるが、その間に、非常の尊卑の径庭あることを覚らねばならぬのである。
 大本開祖の帰神情態を、口述者は前後二十年間、側にあつて伺ひ奉つたことがある。開祖は何時も、神様が前額より肉体にお這入りになるといはれて、いつも前額部を右手の拇指で撫でてゐられたことがある。前額部は、高天原の最高部に相応する至聖所であつて、大神の御神格の直接内流は、必ず前額より始まり、つひに顔面全部に及ぶものである。しかして人の前額は、愛善に相応し、額面は、神格の内分一切に相応するものである。畏れ多くも口述者が開祖を、審神者として永年問、ここに注目し、つひに大神の聖霊に充たされたまふ地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである。
 それからまた
高天原には霊国、天国の二大区別があつて、霊国に住める天人は、これを説明の便宜上、霊的天人といひ、天国に住める天人を、天的天人といふことにして説明を加へようと思ふ。すなはち霊的天人より来たる内流(間接内流)は、人間肉体の各方面より感じ来たり、つひにその頭脳の中に流入するものである。すなはち前額および顳額より、大脳の所在全部に至るまでを集合点とする。
 この局部は、霊国の智慧に相応するがゆゑである。また天的天人よりの内流(間接内流)は、頭中小脳の所在なる後脳といふ局部、すなはち耳より始まつて、頸部全体にまで至るところより流入するものである、すなはちこの局部は、証覚に相応するがゆゑである。
 以上の、天人が人間と言葉を交へる時にあたり、その言ふところはかくのごとくにして、人間の想念中に入り来たるものである。すべて天人と語り合ふ者は、また高天原の光によつて、そこにある事物を見ることを得るものである。そはその人の内分(霊覚)は、この光の中に包まれてゐるからである。しかして天人は、この人の内分を通じて、また地上の事物を見ることを得るのである。すなはち
天人は、人間の内分によつて、現実界を見、人間は天界の光に包まれて、天界に在るすべての事物を見ることが出来る。天界の天人は、人間の内分によつて世間の事物と和合し、世間はまた天界と和合するに至るものである。これを現幽一致、霊肉不二、明暗一体といふのである。
 大神が、予言者と物語りたまふ時は、太古すなはち神代の人間におけるがごとく、その内分に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先づ、おのが化相をもつて精霊を充たし、この充たされた精霊を予言者の体に遣はしたまふのである。ゆゑにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、この言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達といふべきものである。
 伝達とは、霊界の消息や大神の意思を、現界人に対して告示する所為をいふのである。
 しかして、これらの言葉は、大神より直接に出で来たれる聖言なるをもつて、一々万々確乎不易にして、神格にて充たされてゐるものである。しかして、その聖言の裡には、いづれもみな内義なるものを含んでゐる。しかして天界にある天人は、この内義を知悉するには、霊的および天的意義をもつてするがゆゑに、ただちにその神意を了解し得れども、人間は何事も自然的、科学的意義に従つてその聖言を解釈せむとするがゆゑに、懐疑心を増すばかりで、たうてい満足な解決はつけ得ないのである。ここにおいてか大神は、天界と世界すなはち現幽一致の目的を達成し、神人和合の境に立ち到らしめむとして、瑞霊を世に降し、直接の予言者が伝達したる聖言を、詳細に解説せしめ、現界人を教へ導かむとなしたまうたのである。
 精霊はいかにして、化相によつて大神より来たる神格の充たすところとなるかは、今述べたところを見て明らかに知らるるであらう。
 大神の御神格に充たされたる精霊は、自分が大神なることを信じ、またその所言の神格より出づることを知るのみにして、その他は一切知らない。しかしてその精霊は、言ふべきところを言ひつくすまでは、自分は大神であり、自分の言ふことは大神の言である、と固く信じ切つてゐるけれども、一旦その使命を果すに至れば、大神は天に復りたまふがゆゑに、にはかにその神格は劣り、その所言はよほど明晰を欠くがゆゑに、そこに至つて、自分はヤツパリ精霊であつたこと、また自分の所言は、大神より言はしめたまうたことを知覚し、承認するにいたるものである。大本開祖のごときは、始めより大神の直接内流によつて、神の意思を伝へをること、および自分の精霊が神格に充たされて、万民のために伝達の役を勤めてゐたことをよく承認してゐられたのである。その証拠は『大本神諭』の各所に明確に記されてある。今更ここに引用するの煩を省いておくから、開祖の『神諭』について研究さるれば、この間の消息は明らかになることと信ずる。
 開祖に直接帰神したまうたのは、大元神大国治立尊様で、その精霊は、稚姫君命と国武彦命であつた。ゆゑに『神諭』の各所に……此世の先祖の大神が国武彦命と現はれて……とか又は…稚姫君の身魂と一つになりて、三千世界(現幽神三界)の一切の事を、世界の人民に知らすぞよ……と現はれてゐるのは、いはゆる精霊界なる国武彦命、稚姫君命の精霊を充たして、予言者の身魂すなはち天界に籍をおかせられた、地上の天人なる開祖に来たつて、聖言を垂れさせたまうことを覚り得るのである。
 前巻にもいつた通り、天人は、現界人の数百言を費やさねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、わづかに一二言にて、その意味を通達し得るものである。ゆゑに開祖すなはち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直ちにその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それゆゑに、その聖言を細かく説いて、世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来たり、その手を通じ、その口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめむために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。


物語48-3-12 1923/01 舎身活躍亥 西王母

 高天原の総統神すなはち大主宰神は、大国常立尊である。またの御名は、天之御中主大神と称へ奉り、その霊徳の完全に発揮したまふ御状態を称して、天照皇大神と称へ奉るのである。そしてこの大神様は、厳霊と申し奉る。厳といふ意義は、至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐します神の意義である。さうして、愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。さうしてある時には、瑞の霊と現はれ、現界、幽界、神界の三方面に出没して、一切万有に永遠の生命を与へ、歓喜悦楽を下したまふ神様である。瑞といふ意義は、水々しといふことであつて、至善至美至愛至真に坐しまし、かつ円満具足の大光明といふことになる。また霊力体の三大元に関聯して守護したまふゆゑに、三の御魂と称へ奉り、あるひは現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守りたまふがゆゑに、三の御魂とも称へ奉るのである。要するに、神は宇宙にただ一柱坐しますのみなれども、その御神格の情動によつて、万神と化現したまふものである。さうして厳霊は、経の御霊と申し上げ、神格の本体とならせたまひ、瑞霊は、実地の活動力に在しまして御神格の目的すなはち用を為したまふべく現はれたまうたのである。ゆゑに言霊学上、これを豊国主尊と申し奉り、また神素盞嗚尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は、高天原の太陽と現はれたまひ、瑞霊は、高天原の月と現はれたまふ。ゆゑにミロクの大神を月の大神と申し上ぐるのである。ミロクといふ意味は、至仁至愛の意である。さうして、その仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当らせたまふゆゑに、弥勒と漢字に書いて、「弥々革むる力」とあるのをみても、この神の御神業の、如何なるかを知ることを得らるるのである。善悪不二、正邪一如といふごときも、自然界の法則を基礎としては、到底その真相は分るものでない。善悪不二、正邪一如の言葉は、自然界の人間がいふべき資格はない。ただ神の大慈大悲の御目より見給ひて仰せられる言葉であつて、神は善悪正邪の区別によつて、その大愛に、厚き薄きの区別なき意味を善悪不二、正邪一如と仰せらるるのである。しかしながら、自然界の事物についてもまた善悪混淆し美醜たがひに交はつて一切の万物が成育し一切の順序が成り立つのである。ゆゑに人は、霊主体従といつて自然界に身をおくとも、すべて何事も神を先にし、愛の善と信の智を主として世に立たねばならないのである。しかるに、霊的事物の何たるを見ることの出来ないやうになつた現代人は、どうしても不可見の霊界を徹底的に信じ得ず、やや霊的観念を有するものといへども、要するに暗中模索の域を脱することが出来ない。それゆゑに、人はどうしても体を重んじ、霊を軽んじ、物質的慾念にかられやすく地獄に落ちやすきものである。かかる現界の不備欠点を補はむがために、大神は自ら地に降り、その神格によつて精霊を充たし、予言者に向かつて、地上の蒼生に天界の福音を宣伝したまふにいたつたのである。すべて人間が、現実界に生れてきたのは、いはば天人の胞衣のごときものである。さうしてまた天人の養成器となり、苗代となり、また霊子の温鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得るとともに、人間は天人そのものであり、また在天国の天人は、人間が善徳の発達したものである。さうして天人は、愛善と信真によつて永遠の生命を保持し得るものである。ゆゑに人間は、現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をしてますます円満ならしむべく活動せしむるために、大神の目的によつて造りなされたものである。ゆゑに高天原における天国および霊国の天人は、一人として人間より来たらないものはない。
 大神様をのぞく外、一個の天人たりとも、天国において生れたものはないのである。必ず神格の内流は、終極点たる人間の肉体に来たり、ここに留まつてその霊性を発達せしめ、しかして後、天国へ復活し、ここに初めて天国各団体を構成するに至るものである。ゆゑに、人は天地経綸の司宰者といひ、また天地の花といひ、神の生宮と称ふる所以である。愚昧なる古今の宗教家や伝教者は、おほむねこの理を弁へず、天人といへば、元より天国に在つて、特別の神の恩恵によつて天国に生れたるもののごとく考へ、また地獄にある悪鬼どもは、元より地獄に発生せしもののごとく考へ、その地獄の邪鬼が、人間の堕落したる霊魂を制御し、あるひは苦しむるものとのみ考へてゐたのである。これは大なる誤解であつて、数多の人間を迷はすこと、実に大なりといふべしである。ここにおいて、神は時機を考へ、弥勒を世に降し、全天界の一切をその腹中に胎蔵せしめ、これを地上の万民に諭し、天国の福音を完全に詳細に示させたまふ仁慈の御代が到来したのである。されど大神は、予言者の想念中に入りたまひ、その記憶を基礎として伝へたまふがゆゑに、日本人の肉体に降りたまふ時は、すなはち日本の言葉をもつて現はしたまふものである。科学的頭脳に魅せられたる現代の学者または小賢しき人間は「神は全智全能なるべきものだ。しかるに何ゆゑに各国の民に分りやすく、地上到るところの言語を用ひて示したまはざるや」といつて批判を試み、神の遣はしたる予言者の言をもつて、怪乱狂妄と罵り、あるひは無学者の言とか、あるひは不徹底の言説とかなんとかケチをつけたがる盲が多いのは、神の予言者も大いに迷惑を感ずるところである。
 高天原と天界は、至大なる一形式を備へたる一個人である。さうして、高天原に構成されたる天国の各団体は、これに次げるところの大なる形式を備へたる一個人のやうなものである。さうして天人は、またその至小なる一個人である。人間もまた天界の模型であり、小天地であることはしばしば述べたところである。神はこの一個人なる高天原の頭脳となつて、その中に住したまひ、万有一切を統御したまふゆゑに、また地獄界も統御したまふは自然の道理である。
 人間もまたその形体中に、天国の小団体たる諸官能を備へ、種々の機関を蔵し、しかして天国地獄を包含してゐるものである。
 さて高天原のごとき極めて円満具足せる形式を有するものには、おのおの分体に全般の面影があり、また全般に各分体の面影がある。
 その理由は、高天原は一個の結社のやうなものであつて、その一切の所有を衆と共に相分ち、衆はまた一切のその所有を、結社より受領して生涯を送るゆゑである。かくのごとく天界の天人は、一切の天的事物の受領者なるによつて、彼はまた一個の天界のきはめて小なるものとなすのである。現界の人間といへども、その身の中に、高天原の善を摂受するかぎり、天人のごとき受領者ともなり、一個の天界ともなり、また一個の天人ともなるのである。


物語48-3-14 1923/01 舎身活躍亥 至愛

治国『いかにも、それにて一切の疑問が氷解いたしました。私はこれよりお暇を申し、現界へ帰らねばなりませぬ。しかしながらどちらへ帰つてよいか、サツパリ分らなくなりました。最高天国から下るについて、折角いただいた吾が証覚が鈍り、今では元の杢阿弥、サツパリ現界の方角さへも見えなくなつてしまひました。これでも現界へ帰りましたら、神様に賜はつた神力が依然として保たれるでせうか』
現界において最奥天国におけるがごとき智慧証覚は必要がありませぬ。ただ必要なるは、愛と信のみです。そのゆゑは、最高天国の天人の証覚は、第二天国人の知覚に入らず、第二天国人の証覚は、第三天国人のよく受け入るるところとならないやうに、中有界なる現界において、あまり最高至上の真理を説いたところで有害無益ですから、ただ貴方が大神様に授かりなさつたその神徳を、腹の中に納めておけば可いのです。大神様でさへも地上に降り、世界の万民を導かむとなしたまふ時は、ある精霊にその神格を充たし、化相の法によつて予言者に現はれ、予言者を通じて現界に伝へたまふのであります。それゆゑ、神様は和光同塵の相を現じ、人見て法説け、郷に入つては郷に従へとの、国土相応の活動を遊ばすのです。あなたがいま最高天国より、だんだんお下りになるにつけ、証覚が衰へたやうに感じられたのは、これは自然の摂理です。これから現界へ出て、訳のわからぬ人間へ、最高天国の消息をお伝へになつたところで、あたかも猫に小判を与ふると同様です。まづ貴方が現界へお帰りになれば、中有界の消息を程度として、万民を導きなさるがよろしい。その中において少しく身魂の研けた人間に対しては、第三天国の門口ぐらゐの程度でお諭しになるがよろしい。それ以上お説きになれば、かへつて人を慢心させ、害毒を流すやうなものです。人三化七の社会の人民に対して、あまり高遠なる道理を聞かすのは、かへつて疑惑の種を蒔き、つひには霊界の存在を否認するやうな不心得者が現はれるものです。ゆゑに現界において、数多の学者どもが首を集め頭を悩ませ、霊界の消息を探らむとして、霊的研究会などを設立してをりますが、これも霊相応の道理により、中有界の一部分よりほかは、一歩も踏み入るることを霊界において許してありませぬ。それゆゑ、あなたは現界へ帰り、学者にお会ひになつた時は、その説をよく聴き取り、対者の証覚の程度の上を、ホンの針の先ほど説けば可いのです。それ以上お説きになれば、彼らはたちまちわが癲狂痴呆たるを忘れ、かへつて高遠なる真理を、反対的に癲狂者の言となし、痴呆の語となし、精神病者扱ひをするのみで少しも受け入れませぬ。ゆゑに、現界の博士、学士連には、霊相応の理によつて、肉体のある野天狗や狐狸、蛇などの動物霊に関する現象を説示し、卓子傾斜運動、空中拍手音、自動書記、幽霊写真、空中浮き上がり、物品引き寄せ、超物質化、天眼通、天言通、精神印象鑑識、読心術、霊的療法などの地獄界および精霊界の劣等なる霊的現象を示し、霊界の何ものたるをお説きになれば、それが現代人に対する身魂相応です。それでも神界と連絡の切れた人獣合一的人間は非常に頭を悩ませ、学界の大問題として騒ぎ立てますよ。アツハ丶丶丶』
玉依『モウシ、伊吹戸主神様、私は日の若宮において、王母様より玉依別といふ名を賜はりましたが、これは最高天国で名乗る名でございませうか、現界においても用ひて差支へありますまいか』
現界へお帰りになれば、現界の法則があります。あなたは治国別様の徒弟たる以上は、現界へ帰れば、ヤハリ竜公さまでお働きなされ。治国別様がお許しになれば、いかなる名をおつけになつても宜しいが、あなたが現界の業務を了へ、霊界へ来られた時、はじめて名乗る称号です。霊界で賜はつたことは霊界にのみ用ふるものです。しかしマア復活後は、結構な玉依別様といふ称号が既に頂けたのですから、お目出たうございます。決して霊界の称号を用ひてはなりませぬぞや
『ハイ、畏まりました。しからば、ただ今より竜公と呼んで下さいませ』
『モウしばらく玉依別さまと申し上げねばなりませぬ』
『アーア、玉依別さまもモウ少時の間かなア、せつかく最高天国まで上つて、結構な神力をいただいたが、現界へ帰ればまた元の杢阿弥かなア。お蔭をサツパリ落として帰るのかと思へば、何だか心細くなりました』
『決してさうではありませぬ。あなたの精霊がいただいた神徳は、火にも焼けず、水にも溺れず、人も盗みませぬ。三五教の神諭にも……御魂にもらうた神徳は、何者も盗むことはよういたさぬぞよ……と現はれてありませう。あなたの天国においていただかれた神徳は、潜在意識となつて、いな潜在神格となつて、どこまでも廃りませぬ。この神徳を内包しあれば、マサカの時には、それ相当の神徳が現はれます。しかしながら、油断をしたり慢心をなさると、その神徳は何時の問にやら脱出し、元の神の御手に帰りますから、御注意なさるが宜しい。しかしてかりにも現界の人間に対し、最奥天国の神秘を洩らしてはなりませぬぞ。かへつて神の御神格を冒漬するやうになります。霊界の秘密はみだりに語るものではありませぬ。愚昧なる人間に向かつて、分不相応なる教を説くは、いはゆる豚に真珠を与ふるやうなものです。たちまち貴重なる真珠をかみ砕かれ、一旦その汚穢なる腹中を潜り、糞尿の中へおとされてしまふやうなものですよ』


物語49-1-11923/01 真善愛美子 地上天国

 天地万有一切を、愛の善と信の真に基づいて、創造したまひし皇大神を奉斎したる宮殿の御舎を、地上の天国といふ。しかして、大神の仁慈と智慧の教を宣べ伝ふる聖場を霊国といふ。ゆゑに大本神諭にも、綾の聖地を地の高天原と名づけられたのである。
 
天国とは決して人間の想像するごとき、宙空の世界ではない。大空に照り輝く日月星辰も、みな地球を中心とし、根拠として創造されたものである以上は、いはゆる吾人の住居する大地は、霊国天国でなければならぬ。人間はその肉体を地上において発育せしめ、且つその精霊をも馴化し、薫陶し、発育せしむべきものである。
 しかして、
高天原の真の密意を究むるならば、最奥第一の天国もまた中間天国、下層天国も、霊国も、すべて地上に実在することは勿論である。ただ形体を脱出したる人の本体すなはち精霊の住居する世界を霊界といひ、物質的形体を有する人間の住むところを現界といふに過ぎない。ゆゑに人間は、一方に高天原を蔵するとともに、一方に地獄を包有してゐるのである。しかして霊界現界すなはち自然界の間に介在して、その精霊は善にもあらず、悪にもあらず、いはゆる中有界に居を定めてゐるものである。
 すべての人間は、高天原に向上して、霊的または天的天人とならむがために、神の造りたまひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、すなはち人間であつて、また天人なるべきものである。
 要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、その内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳にあるかぎり、人間はいはゆる高天原の小天国である。そうして人間は、天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。その外分とは、世間的影像である。人は神の善徳に住するかぎり、世間すなはち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいますごとくに、その人間の内分に臨ませたまふ。ゆゑに大神は、人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在したまふのである。
 ゆゑに神的順序あるところには、かならず大神の御霊ましまさぬことはない。すべて神は順序にましますからである。この神的順序に逆らふ者は、決して生きながら天人たることを得ないのである。
 教祖の神諭に……十里四方は宮の内……と示されてあるのは、神界における里数にして、至善至美至信至愛の大神のまします、最奥第一の天国たる神の御舎は、ほとんど想念の世界よりは、人間界の一百方里くらゐに広いといふ意味である。われわれ人聞の目にて、わづかに一坪か二坪くらゐな神社の内陣や外陣も、神界すなはち想念界の徳の延長によつて、十里四方あるひは数百里数千里の天国となるのである。福知、舞鶴外囲ひというてあるのは、いはゆる綾の聖地に接近せる地名をかつて、現界人に分りやすく示されたものであつて、決して現界的地名に特別の関係があるわけではない。ただ小さき宮殿(人間の目より見て)の中でも……すなはち宮の内でも神の愛と神の信に触れ、智慧証覚の全き者は、右のごとく想念の延長によつて、際限もなく、聖く麗しく、かつ広く高く見得るものである。
 すべて自然界の事物を基礎として考ふる時は、かくのごとき説は、実に空想に等しきもののごとく見ゆるは当然である。しかしながら霊的事物の目より考ふれば、決して不思議でも、不合理でもない。
 霊的事象の如何なるものなるかを、よく究め得るならば、つひにその真相を掴むことができるのである。しかし自然界の法則にしたがつて、肉体を保ち、かつ肉の目をもつて見ることを得ざる霊界の消息は、たうてい大神の直接内流を受け入るるに非されば、容易に思考し得べからざるは、やむを得ない次第である。
ゆゑに、神界の密意は、霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに これを説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。ただ人間は、己が体内に存する内分によつて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、いかなる書籍をあさるとも、いかなる智者の言を聞くとも、いかに徹底したる微細なる学理によるとも、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことはできないものである。
 太古の黄金時代の人間は、何事もみな内的にして、自然界の諸事物は、その結果によつて現はれしことを悟つてゐた。それゆゑ、すぐさまに大神の内流を受け、よく宇宙の真相をわきまへ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽しみ送つたのである。しかるに今日は、もはや白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世はますます外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと、もつとも遠く、いづれも人の内分は外部に向かひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それゆゑ、足許の暗黒なる地獄はただちに目につくが、空に輝く光明はこれを背に負うてゐるから、たうてい神の教を信ずることは出来ないのである。
 ここに天地の造主なる皇大神は、厳の御霊、瑞の御霊と顕現したまひ、地下のみに眼を注ぎ、少しも頭上の光明を悟り得ざりし、人間の眼を転じて、神の光明に向かはしめむとして、予言者を通じ、救ひの道を宣べ伝へたまうたのである。かくのごとく、地獄に向かつて内分の開けてゐる人間を、高天原に向かはしめたる状態を、天地が覆ると宣らせ玉うたのである。
 要するに忌憚なくいへば、
高天原とは、大神や天人どもの住所なる霊界を指し、霊国とは、神の教を伝ふる宣伝使の集まるところをいひ、またその教を聞くところを、天国または霊国といふのである。
 しかして、天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は、神の教を伝ふるをもつて神聖なる業務となすのである。

 
ゆゑに最勝最貴の智慧証覚によつて、神教を伝ふるところを、第一霊国といひ、また最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を、最高天国といふのである。ゆゑに現幽一致と称へるのである。
 人間の胸中に、高天原を有する時は、その天界は、人間が行為の至大なるもの、すなはち全般的なるものに現はれるのみならず、その小なるもの、すなはち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。ゆゑに『道の大原』にも、大精神の体たるや、至大無外至小無内とある所以である。
 そもそも人間の人間たる所以は、自己に具有する愛そのものにある。自然の主とするところの愛は、すなはちその人格なりといふことに基因するものである。何故なれば、各人主とするところの愛は、その想念および行為の最も微細なるところにも流れ入つて、これを按配し、至るところにおいて、自分と相似せるものを誘出するからである。しかして諸々の天界においては、大神に対する愛をもつて第一の愛とするのである。高天原にては、いかなる者も大神のごとく愛せらるるものなきゆゑである。ゆゑに高天原にては、大神をもつて一切中の一切として、これを愛しこれを尊敬するのである。
 
大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入りたまひて、これを按配しこれを導いて、大神自身の影像を、その上に止めさせ玉ふをもつて、大神の行きますところには、ことごとく高天原が築かれるのである。ゆゑに天人は、きはめて小さき形式における一個の天界であつて、その団体は、これよりも大なる形式を有する天界である。
 しかして諸団体を打つて一丸となせるものは、高天原の最大形式をなすものである。
 綾の聖地における神の大本は、大なる形式を有する高天原であつて、その教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり、また自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。ゆゑに霊界におけるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理により、各宗教における一個の天国団体が形成され、また中有界、地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。されども大神は、天界、中有界、地獄界をして一個人と見倣し、これを単元として統一したまふゆゑに、いかなる団体といへども、厳の御霊、瑞の御霊の神格のうちより脱出することはできない、またこれを他所にして、自由の行動をとることは許されないのである。高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。
 ゆゑに諸々の天人は、その一切を挙げて、一個の人に類することを知るがゆゑに、彼らは高天原を呼んで、大神人といふのである。綾の聖地をもつて、天地創造の大神の永久に鎮まります最奥天国の中心と覚り得る者は、死後かならず天国の住民となりうる身魂である。
 ゆゑにかかる天的人間は、聖地の安危と盛否をもつて、わが身体と見做し、よく神界のために、愛と信とを捧ぐるものである。高天原の全体を、一の大神人なる単元と悟りし上は、すべての信者は、その神人の個体または肢体の一部なることを知るがゆゑである。
 霊的および天的事物に関して、右のごとき正当なる観念を有せざる者は、右の事物が、一個人の形式と影像とに従つて、配列せられ和合せらるることを知らない。ゆゑに彼らは思ふやう、人間の外分をなせる世間的、自然的事物、すなはちこれ人格にして、人はこれなくんば、人の人たる実を失ふであらうと。ゆゑに、大神人の一部分たる神の信者たる者が、かくのごとき自愛心にとらはれて、孤立的生涯を送るにいたらば、外面神に従ふごとく見ゆるといへども、その内分は全く神を愛せず、神に反き、自愛のための信仰にして、いはゆる虚偽と悪との捕虜となつたものである。かくのごとき信仰の情態にある者は、決して神と和合し、天界と和合することはできない。あたかも中有界の人間が、第一天国に上つて、その方向に迷ひ、一個の天人をも見ることを得ず、胸を苦しめ、目を眩して喜んで地獄界へ逃げ行くやうなものである。
 人間の人間たるは、決して世間的、物質的事物より成れる人格にあらずして、そのよく真を知り、よく善に志す力量あるによることを知るべきである。これらの霊的および天的事物は、すなはち人格をなす所以のものである。
しかして人格の上下は、その人の智性と意思との如何によるものである。
 大本神諭に……灯台下は真暗がり、結構な地の高天原に引き寄せられながら、肉体の慾に霊を曇らせ、せつかく宝の山に入りながら、裸跣足で怪我をいたして帰る者ができるぞよ。これは心に慾と慢心とがあるからであるぞよ。云々……と示されあるを考ふる時は、せつかく神の救ひの綱に引かれながら、その偽善の度があまり深きため、心の眼開けず、光明赫灼たる大神人のゐます方向さへも、霊的に見ることを得ず、何事もすべて外部的観察を下し、おのが邪悪に充ちたる心より、神人の言説や行為を批判せむとする偽善者や盲、聾の多いのには、大神も非常に迷惑さるるところである。
 すべて人間は、暗冥無智なる者なることを悟り、至善至美、至仁至愛、至智至正なる神の力に信従し、維れ命維れ従ふの善徳を積むにあらざれば、到底わが心内に天界を開き、神の光明を認むることは不可能である。わが身内に天国を啓き得ざる者は、たうてい顕界、幽界ともに安楽なる生涯を送ることはできないのは当然である。
 ゆゑに
現界にて、同じ殿堂に集まり、神を讃美し、神を拝礼し、神の教を聴聞する、その状態を見れば、同じ五六七殿の内に行儀よく整列してゐるやうに見えてゐる、また物質界より見れば、確実に整列してゐるのは、事実である。しかしその想念界に入つて、よく観察する時は、その霊身は霊国にあるもあり、また天国の団体にあつて聴聞せるもあり、拝礼せるもあり、あるひは中有界に座を占めて聞きをるもあり、また全く神を背にし、地獄に向かつてゐるのもある。
 ゆゑにこの物語を拝聴する人々によつて、あるひは天来の福音とも聞こえ、神の救ひの言葉とも聞こえ、あるひは寄席の落語とも聞こえ、あるひは拙劣な浪花節とも感じ、また中有界にさまよひたる偽善者の耳には、不謹慎なる物語にして、決して神の言葉にあらず、瑞月王仁の滑稽酒脱の思想が映写して、物語となりしもののごとく感じ、冷笑侮蔑の念を起し、これに対する者もあり、あるひは筆録者の放逸不覊の守護人に感じて、口述者の霊が神の言葉と自ら信じ、編纂せしもののごとく感ずる者もあり、あるひはその言を、怪乱狂妄、悉皆汚穢に充ちたる醜言暴語となして耳を塞ぎ、いち早く逃げ帰るものもある。これは霊界に身をおいて、各人が有する団体の位地より神を拝し、かつ物語を聴く人の状態である。


物語49-1-2 1923/01 真善愛美子 大神人

 前節に述べたるごとく、霊国や天国の諸団体に籍をおいたる天人および地上の天人、すなはち神をよく理解せし人間の精霊は、すなはち地上の天人なるをもつて、人間肉体の行為に留意することなく、その肉体を動作せしむるところの意思いかんを観察するものである。
 ゆゑに人間の、わが長上たるとわが下僕たるとを問はず、その行為について、善悪の批判を試むるがごとき愚かなことは、決してせない。天人の位地に進んだものは、その人格をもつて意思に存し、決して行為そのものにあらざることを洞察するがゆゑである。その智性もまた人格の一部分なれども、意思と一致して活動する時にかぎつて人格とみなすのである。
 意思は、愛の情動より起り、智性は、信の真より発生するものである。ゆゑに愛のなき信仰は、決して人格とみなすことはできない。
 愛はすなはち第一に神を愛し、次に隣人を愛する正しき意思である。
 ただ神を信ずるのみにては、たうてい神の愛に触れ、霊魂の幸福を得ることは不可能である。愛は愛と和合し、智は智と和合す。神に心かぎりの浄き宝を奉り、あるひは物品を奉納するは、いはゆる愛の発露である。神はその愛によつて、人間に心要なるものを常に与へたまふ。人間はその与へられたるものによつて生命を保ち、かつ人格を向上しつつあるのである。
「神は無形だとか、気体だとか、無形または気体にましますがゆゑに、決して現界人のごとき物質を要求したまはず。金銭物品を神に献つて、神の歓心を得むとするは迷妄の極なり。ただ神は信仰さへすればそれでいい、その信仰も、科学的知識によつて認め得ないかぎりは、泡沫に等しきものだ。ゆゑに神を信ずるに先だち、科学的原則の上に立脚して、しかして後、信ずべきものだ」……などと唱ふる者は、すべて八衢人間にして、その大部分は神を背にし光明を恐れ、地獄に向かつて内底の開けゐる妖怪である。
 霊国天国の天人が、天界を見て一個の形式となすのは、その全般に行きわたつてのことではない。いかなる証覚の開けた天人の眼界といへども、高天原の全般を測り知ることはできない。されど天人は、数百または数千の天人より成れる団体を、遠隔の位地より見て、人間的形式をなせる一団と感ずることがあるくらゐなものである。故に、まだ中有界に迷へる八衢人間の分際としては、たうてい天人の善徳や信真や証覚におよばないことは無論である。
 かくのごとく如何なる天人といへども、高天原の全体を見きはめ、神の経綸を熟知し、かつ他の諸団体を詳しく見聞し能はざるくらゐのものであるに、自然界の我利我慾にひたり、自愛と世間愛のみをもつて最善の道徳律となし、善人面をさげ、やうやく神の方向を認めたるくらゐの八衢人間が、たうてい神の意思の測知し得らるべき道理はないのである。
 天国の全般を総称して、大神人と神界にては称へらるる理由は、天界の形式は、凡て一個人として統御さるるからである。ゆゑに地の高天原は、一個の大神人であり、その高天原を代表して、愛善の徳と信真の光を照らし、暗に迷へる人間に、智慧と証覚を与へむとする霊界の担当者は、すなはち大神人である。神人の大本か、大本の神人か……といふべきほどのものである。これは現幽相応の理より見れば、決して架空の言でもない。また一般の信徒は、いはゆる一個の大神人の体に有する心臓、肺臓、頭部、腰部、その他四肢の末端に至るまでの各個体である。
 天界を、大神はかくのごとく一個人として、すなはち単元として、これを統御したまふのである。ゆゑに人間は、宇宙の縮図といひ、小天地といひ、天地経綸の司宰者といふ。人間の身体は、その全分にあつても、その個体にあつても、千態万様の事物より組織されたるは、人のよく知るところである。すなはち全分より見れば、肢節あり、気管あり、臓腑あり、個体の上より観れば、繊維あり、神経あり、血管あり、かくて肢体のうちに肢体あり、部分のうちに部分あれども、一個人として活動する時は、単元として活動するものである。ゆゑに個体たる各信者は、一個の単元体たる大神人の心をもつて心となし、地上に天国を建設し、地獄界の片影をも留めざらしむるやう、努力すべきものである。
 大神が、高天原を統御したまふもまた、これと同様である。ゆゑに、地上の高天原たる綾の聖地には、大神の神格にみたされたる聖霊が予言者に来たつて、神の神格による愛善の徳を示し、信真の光を照らし、智慧証覚を与へて、地上の蒼生をして地的天人たらしめ、かつまた地上一切をして天国ならしめ、霊界に入りては、すべての人を天国の歓喜と悦楽に永住せしめむがために努力せしめたまうたのである。その単元なる神人を、一個人の全般と見做し、各宣伝使信者は個体となつて、上下和合し、賢愚一致してこの大神業に参加すべき使命を有つてゐるのである。
 かくのごとくして、円満なる団体の形式を造り得る時は、すなはち全般は部分のごとく、部分は全般のごとくにて、その両者の相違点は、ただその分量の上にのみ存するばかりである。今日の聖地における状態は、すべて個々分立して活躍し、全体は分体と和合せむとしてなす能はず、分体たる個人は、各自の自然的観察を基点として、思ひ思ひに光に反き、愛に遠ざかり、もつとも秀れたる者は、中有界に迷ひ、劣れる者は、地獄の団体に向かつて秋波を送る者のみである。故にこれらの人間は、大神の聖場、地の高天原を汚すところの悪魔の影像であり、かつ個人としては偽善者である。
 偽善者なる者は、時としては善を語り、また善を教へ、善を行へども、何事につけても自己の愛を先にするものである。大神の御神格および高天原の状態、愛の徳および信の道理ならびに高天原の将来などについて、人に語り伝ふること、もつとも深く、天人のごとく、聖人君子のごとく、偶には見ゆるものあり、またその口にするところを心言行一致といつて、行為に示さむとし、よくその行ひを飾つて、人の模範とならむとする者あれども、その人間が実際に思惟するところのものは、必ずや人に知られむため、あるひは褒められむためにする者が多い。これらはまだ偽善者の中でも今日のところでは、よほど上等の部分にして、俗眼より見れば、真に神を理解し、言心行の一致の清き信者と見得る者である。
 次にいま綾の聖地における最上等の部分に属する人の心性を、霊眼によつてすなはち内的観察によつて見る時は、まだ天界の消息にも詳ならず、その自愛および世間愛といへども、まだ徹底せず、天人の存在を半信半疑の態度をもつて批判し、あるひは死後の生涯などについて語るとも、ただ真理に明き哲人と人に見られむがために、真実にわが心に摂受せざるところを、よく知れるがごとくに語り伝ふるくらゐが上等の部分である。しかして口には極めて立派なことをいつても、その手足を動かし、額に汗し、もつて神に対する真心を実行せない者が大多数である。このごとき人は、神の教を伝へ、または神に奉仕する祭官などは、俗事に鞅掌しあるひは田園を耕し、肥料などの汚穢物を手にするは、いはゆる神を汚すものと誤解してゐる八衢人間や、あるひは怠惰のため、筋肉労働を厭うて、宣伝使または祭官の美名にかくるる横着者である。これらはいづれも神の前にあつて、天人の一人をも霊的に認むることなく、また体的にも感ずる能はず、つひには神仏を種にして、自利を貪る地獄道の餓鬼となつてゐる者である。かくのごとき心性をもつて神の教を説き、神に近く奉仕するは、全く神を冒漬する罪人である。
 かくのごとき人間は、神の言葉を売薬の能書くらゐに心得、何事をも信ぜず、また自己を外にして徳を行ふの念なく、人の見ざるところにおいて善をなすことを忌み、悪を人の前に秘し、善は如何なる小さきことといへども、必ず人の前に現はさむことを願ふ。ゆゑに彼らがもし万一善なる行ひをなしたりとせば、それは皆自己のためになすところあるによる。また他人のために善を行ふことあれば、それは他人および世間より聖人、あるひは仁者と見られむことを願ふに過ぎない。かくのごとき人のなすことはすべて自愛のためである。自愛はいはゆる地獄の愛である。
 心ならずも五六七殿に、この物語を聞きに来てゐる偽善者も偶にはあるやうだ。それはせつかく昼夜艱苦して口述編纂した『霊界物語』を毎夜捧読して、霊界の消息を、迷へる人々に説き示さむとする口述者の意思を無視したと思はれてはならないから……といふくらゐな考へで、いやいや聞きに来る人もあるのである。決してさやうなお気遣ひは無用である。なにほど、内底の天に向かつて閉塞したる人々の身魂に流入しあるひは伝達せむとするも、たうてい駄目である。故に、どうしてもこの物語の気にくはぬ人は、かかる偽善的行為を止めて、所主の愛により、身魂相応の研究を自由にされむことを希望する。決して物語の聴聞や購読を強ひるものではない。
 経の神諭は拝聴すると、涙が出るやうだが、緯の物語を聞くと、少しも真味なところがなく、をかしくなつて、ドン・キホーテ式の物語か、または寄席気分のやうだといつてゐる立派な人格者があるさうだ。これも身魂相応の理によるものだから、如何ともすることは出来ない。しかしながら、悲しみの極は喜びであり、喜びの極は悲しみであることは、自然界学者もよく称ふるところである。しかして悲しみは天国を閉ぢ、歓びは天国を開くものである。人間が他愛もなく笑ふ時は、決して悲しみの時ではない。面白をかしく歓喜に充ちた時である。神は歓喜をもつて生命となし、愛のうちに存在したまふものである。赤子が泣いた時はその母親があわてて乳を呑ませ、その子の笑顔を見て喜ぶのは、すなはち愛である。吾が子を泣かせ、または悲しましめて快しと思ふ親はない。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたし、すべての事業を楽しんで営ましめむとしたまふものである。
 この物語が真面目を欠いて、笑はせるのが不快に感ずる人あらば、それはいはゆる精神上に欠陥のある人であつて、癲狂者かあるひは偽善者である。先代萩の千松のいつたやうに……お腹がすいてもひもじうない……といふ虚偽虚飾の態度である。かくのごとき考へを捨てざるかぎり、人はなにほど神の前に礼拝し、神を讃美し、愛を説くといへども、たうてい天国に入ることはできない。つとめて地獄の門に押し入らむとする痴呆者である。
 すべて綾の聖地に、神の恵によつて引きつけられたる人およびこの教に信従する各地の信者は、すべて大神の神格のうちにあるものである。しかるに、灯台下暗しとかいつて、これを認め得ざるものは天人(人間と同様の形態)の人格を保つことはできないものである。富士へ来て富士を尋ねつ富士詣で……といふやうに、富士山のなかへ入つてしまへば、他に秀れて尊き霊山たることを知らず、普通の山と見ゆるものである。しかし遠くへだててこれを望む時は、実にその清き姿は雲表に屹立し、鮮岳清山を圧して立てるその崇高と偉大さを見ることを得るやうに、かへつて遠く道をはなれ、教に入らざりし者が、色眼鏡を外して見る時は、その概要を知り全般を伺ふことが出来るやうに、かへつて未だ一言も教を聞かず、一歩も圏内に足をふみ入れざる人の方が、その真相を知る者である。
 また大神は時によつて、一個の天人と天国にては現じ玉ひ、現界すなはち地の高天原にては、一個の神人と現じたまふ。されどかくのごとく内分の塞がつた人間は、神人に直接面接しかつその教を聴きながら、これを普通の凡夫とみなし、あるひは自分に相当の人格者または少しく秀れたる者となし、あるひは自分より劣りし者となして、これを遇するものである。かくのごとき人間は、八衢どころか、すでに地獄の大門に向かつて、爪先を向けてゐるものである。
 真の智慧と証覚とを欠いた者は、すべて地獄に没入するより道はない。故にかかる人間は、天人または神人の目より見る時は、なにほど形態は立派に飾り立て、なにほど人品骨格はよく見えても、ほとんどその内分は人間の相好が備はつてゐないのである。彼らは罪悪と虚偽とにをるをもつて、従つて神の智慧と証覚に反いてゐる。あたかも妖怪のごとく餓鬼のごとく、その醜状目も当てられぬばかりである。かくのごとき肉体の人間を称して、神界にては生命といはず、これを霊的死者と称ふるのである。または娑婆亡者あるひは我利我利亡者ともいふ。
 かくのごとき大神の愛の徳に離れたる者は生命なるものはない。
 しかして大神の愛または神格に離れた時は、何事もなし能はざるものである。ゆゑに大本神諭にも……神の守護と許しがなければ、何事も成就せぬぞよ。九分九厘いつたところでクレンとかへるぞよ。人間がこれほど善はないと思うていたしてをることが、神の許しなきものは、みな悪になるぞよ。九分九厘で手の掌がかへり、アフンといたすぞよ……と示されてあるのを伺ひ奉つても、この間の消息が分るであらう。人間は自然界の自愛によつて、ある程度までは妖怪的に、惰性的に出来得るものだが、決して有終の美をなすことは出来ない、今日自愛と世間愛より成れる、すべての銀行会社およびその他の諸団体の実状を見れば、いづれも最初の所期に反し、その内部には、魑魅魍魎の徘徊跳梁して、妖怪変化の巣窟となり、目もあてられぬ醜状を包蔵してゐる。そして強食弱肉、優勝劣敗の地獄道が、遺憾なく現実しているではないか。
 現代においても、心の直なる者の胸中に見るところの神は、太古の人の形なれども、自得提の智慧および罪悪の生涯にあつて、天界よりの内流を裁断したる者は、かくのごとき本然の所証を滅却し了せるものである。かかる盲目者は、見るべからざる神を見むとし、また罪悪の生涯にて所証を滅却せし者は、神を決して求めない者である。ゆゑに現代の人間は、神にすがる者といへども、すべて天界よりの内流を裁断したる者多きゆゑに、見るべからざる神を見むとし、また物質慾のみに齷齪して、本然の所証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、また神を大いに嫌ふものである。
 すべて天界よりして、まづ人間に流入するところの神格そのものは、実にこの本来の所証である。何となれば、人の生れたるは現界のためにあらず、その目的は天国の団体を円満ならしむるためである。ゆゑに何人も、神格の概念なくしては、天界に入ることは出来ないのである。高天原および天国霊国の団体を成すところの神格の何者たるを知らざる者は、高天原の第一関門にさへも上ることを得ない。かくのごとき外分のみ開けたる人間が、もし誤つて天国の関門に近づかむとすれば、一種の反抗力と強き嫌悪の情を感ずるものである。そは、天界を摂受すべき彼の内分が未だ高天原の形式中に入らざるをもつて、すべての関門が閉鎖さるるによるからである。もし強ひてこの関門を突破し、高天原に進み入らむとすれば、その内分はますます固く閉ざされて、如何ともすべからざるにいたるものである。


物語50-1-2 1923/01 真善愛美丑 照魔燈

しかしながら現代の人間は、その齢進むに従つてますます奸智に長け、表面は楽隠居のごとく世捨人のごとく、あるひは聖人君子のごとく装ふといへども、その実ますます不良老年の域に進むものが大多数である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて社会の真理と看做してゐる現代に立ち、多数の党与を率ゐて政治界または実業界に跋扈跳梁し、ますます権謀術数を逞しうし、わづかにその地位を保ち、世間的権勢を掌握して無上の功名とみなしてゐる人物のごときは、実に霊界よりこれを見る時は憐れむべき盲者である。
 かくのごとき現界における権力者よりも、無智にしてその日の労働に勤しみ、現代人の無道の権力に圧倒され、孜々としてこれに盲従し、不遇の生活を生涯送りし人間が、霊界に至つて神の恩寵に浴し、その霊魂は智慧相応の光を放ち、善と真との徳につつまれて、生前の位地を転倒してゐる者が沢山にあるのである。
 ゆゑに霊的観察よりすれば、権勢ある者、富める者、智者学者といはるる者よりも、貧しき者、卑しき者、力弱き者、現界においていと小さき者として、世人の脚下に踏みにじられたる人聞が、却つて、愛善の徳に住し、信真の光に輝いて、天国の団体に円満なる生涯を送るものである。ゆゑに神には一片の依怙もなく偏頗もないことを信じ、ひたすら神を愛し神に従ひ、正しき予言者の教に信従せば、生前においても、たとへ物質上の満足は得られずとも、その内分に受くる歓喜と悦楽とは、たうてい現界の富者や権力者や智者学者の窺知し得るところではないのである。


物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇

 天人および精霊は、何ゆゑに人間と和合すること、かくのごとく密接にして、人間に所属せる一切のものを、彼ら自身の物のごとく思ふ理由は、人間なるものは霊界現界との和合機関にしてすこぶる密着の間にをり、ほとんど両者を一つのものと看做し得べきがゆゑである。されど現代の人間は高天原より、物慾のために自然にその内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたがゆゑに、大神はここに一つの経綸を行はせたまひ、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつたのである。


物語52-1-1 1923/02 真善愛美卯 真と偽

 しかし、ここに二言注意すべきことは、大本開祖の神諭に……この世は暗雲になつてゐるから、日の出の守護に致すがために因縁の身魂が表はれて、五六七成就の御用につくす……とあるのは、これは決して高姫のいふごとく三界皆暗しといふ意義ではない。大神より、地獄道に陥れるこの現界をして、天国浄土の楽土となし、一人も地獄界に堕さざらしめむがためである。要するに霊界現界を問はず、地獄なるものを一切亡ぼし、その痕跡をも留めざらしめむと計らせたまふ、仁慈の大御心より出でさせたまうたのである。
 しからば人あるひはいはむ、三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ……とあるではないか、三千世界とは天界、現界、地獄界のことである。天界は已に光明赫々として無限に開けをるにもかかはらず、何をもつて三千世界と言はるるか、はたしてこの言を信ずるならば、天界もまた暗黒界と堕落せるものなりと断定せざるを得ないではないかといはねばならぬ……と。かくのごときはその一を知つてその二を知らざる迂愚者の論旨である。三千世界一度に開くといふは、現界も地獄界も天界も一度に……すなはち同様に光明赫々たる至喜至楽の楽園となし、中有界だの、地獄界だの、天界だの、あるひは兇霊界だのいふ、いまはしき区別を取り除き、打つて一丸となし、一個の人体におけるがごとく、単元として統治し給はむがための御神策を示されたるものたることを悟るべきである。
 一度に開く梅の花とか、須弥仙山に腰をかけとかいふ聖言は、要するに神に向かはしむるといふ意義である。いかなる無風流な人間でも、梅の花の咲きみち、馥郁たる香気を放つを見れば、喜んでこれに接吻せむとするは、人間に特有の情である。また須弥仙山とは宇宙唯一の至聖至美にして崇高雄大なる山の意味である。何人といへども、雲表に屹立せる富士の姿を見る時は、その雄姿にうたれ、荘厳に憧がれ、これを仰がないものはない。また俯むいては決して富士を見ることは出来ない。ゆゑに神はあらゆる人間および精霊をしてその雄大崇高なる姿を仰がしめ、もつて神格に向上せしめ、神の善に向かはしめむがためである。
 しかし神に向かひあるひは須弥仙山を仰ぐといふは、現界における富士山そのものを望む時のごとく、身体の動作によつて向背をなすものでない。何となれば空間の位地はその人間の内分の情態いかんによつて定まるがゆゑに、方位のごときも現界とは相違してゐるのは勿論である。人間の内底の現はれなる面貌の如何によつて、その方位が定まるのである。ゆゑに霊界にては吾が面の向かふところ、すなはち太陽の現はるるところである。現界にては太陽は東に昇りつつある時といへども、西を向けばその太陽は背に負うてゐるが、霊界にては総て想念の世界なるがゆゑに、身体の動作いかんに関せず、神に向かつて内底の開けた者は、いつも太陽に向かつてゐるのである。しかしながらかくのごとき天人の境遇にある人格者は霊界に在つて、自分より大神すなはち太陽と現じたまふ光熱に向かふにあらず、大神より来たるところの一切の事物を喜んで実践躬行するがゆゑに、神より自ら向かはしめ給ふこととなるのである。
 平和と智慧と証覚と幸福とを容るるものは高天原の器である。
 これを称して神宮壷の内といふ。この壺は愛であつて、大小となく神と相和するところのものを容るる器である。現界において、智慧証覚の劣りし者、または愛善の徳薄く、信真の光暗かりし者が、天界の天人または地上の天人やエンゼルと相伍して、つひに聖き信仰に入り、愛善の徳を養ひ、信真の光を現はし、つひに智慧証覚を得、高天原の景福を得るに至らしむべく、ここに神は精霊にその神格を充して予言者に来たらしめ、地上の高天原すなはちエルサレムの宮屋敷において、天国の福音を宣べ伝へさせ給うたのは、実に至仁至愛の大御心に出でさせ給うたからである。善のために善を愛し、真のために真を愛し、これを一生涯深く心に植ゑつけ、実践躬行したるにより、つひに罪悪に充ちたる人間も天国に救はれて、その不可説なる微妙の想をことごとく摂受し得べき聖場を開かせ給うた。これを神界にては地の高天原と称へられたのである。


物語52-5-25 1923/02 真善愛美卯 恋愛観

 高姫は敬介、狂介、悪次郎の三人が手厳しくコミ割られたのを見て痛快措く能はず、ますます調子にのつてロハ台の上に登り、またもや大道演説を始め出した。
『皆さま、あれをお聞きになりましたか。泡沫に等しき権勢や、
 地位や、財産を振りまはし、社会において乱暴狼藉を働いた偽善者の末路は、この通りでござりませうがな。皆さまはここを現界と思うてゐますか。ここは霊界の八衢、善悪を調べるところですよ。お前さまたちも常平生から結構な日の出神が現はれてウラナイの道を開き、万民を救ふべく朝な夕なに口を酸うしてお導き遊ばしたのに……ヘン、あの気違ひが何を吐す、冥土があつてたまらうか、地獄極楽は此世にござる……などと高を括つてござつたが、いま三人行つた奴のやうに、ここで十分に膏を搾られ、吠面をかわかねばなりませぬぞや。それだから現界において神様のお話をよく聞きなされといつたのだ。どうです、これでもお前さまたちはこの高姫の演説を聞く気はありませぬか。義理天上日の出神様は現界、幽界、神界の救主でござるぞや。なにほど深い罪があらうとも、此方のいふことさへ聞けば、神直日、大直日に見直し聞き直して助けて上げるぞや』
 赤の守衛は高姫の手をグツと握り、
『こりや高姫、帰れといつたら帰らぬか。大変邪魔になる。どうしても聞かねば、其方をこのまま地獄に堕とすが宜いか』
『ヘン、ようおつしやいますワイ。何といつても神界、現界、幽界の救主なる義理天上日の出神の生宮でござりますぞや。あまり見違ひをしてもらひますまいカイ。これこれ皆さま、なにほど怖い顔してこの守衛が睨んだところで、チツとも驚くにおよびませぬよ。しかしこの高姫の申すことが分らねば駄目ですよ。おい赤さま、チツとお前も高姫のいふことを真面目に聞いたらどうだい』


物語52-5-27 1923/02 真善愛美卯 胎蔵

 時置師神杢助はライオンを守衛に預けおき、八衢の審判神伊吹戸主の館へ進み入り、奥の一間において伊吹戸主と二人対談をやつてゐる。
『ア丶時置師神様、ずゐぶん宣伝はお骨の折れることでせうなア、御苦心お察し申します』
『ドーモ曇り切つた世の中で、吾々のごとき人間は神様のお思召しの万分一も働くことが出来ませぬので、実に慙愧の至りでございます。つきましては今度お訪ねいたしましたのは、神素盞嗚大神様の御命令に依つてでございます。三五教にをりました高姫といふ女、彼の行状については実に困つたものでございます。兇党界の精霊、妖幻坊なる妖怪に誑惑され、それをば私と思ひ込み、あちらこちらで時置師や杢助をふり廻すので世の中の人間が非常に迷ひます。それゆゑ今度霊界へ参つたのを幸ひ、暫くの間現界へ帰さないやうに取計らつてもらひたいものです』
『なるほど、大神様のお言葉、何とかいたさねばなりますまい。しかしながら彼高姫は、まだ生死簿を見れば二十八年が間寿命が残つてをります。霊界に止めおくのはお易いことでございますが、どうしても彼は現界へ還さねばならぬもの、あまり長く止めおけば、その肉体が役に立たないやうになつてしまひます。その肉体を換へても差支へなくば、何とか取計らひませう』
『どうか二三年の間ここにお止めを願ひ、三年先になつて霊界へ来たるべき女の肉体に高姫の精霊を宿し下さいますれば、大変都合が好いでせう』
伊吹戸主神は暫く目を閉ぢ、思案をしてゐたが、やがて打ち肯いて、
『イヤよろしうございます。適当な肉体が三年後に霊界へ来るのがございますから、その肉体に高姫の精霊を宿し、二十八年間現界へ生かすことに取計らひませう』
 『イヤ、それは実に有難うございます。左様なれば御免を蒙りませう』
 『時置師神様、エー今ここへ大原敬助と片山狂助、高田悪次郎などの大悪党が出て参りましたが、今審判が開けますから、ちょつと傍聴なさつては如何ですか。高姫もこれから審判が始まります』
 『イヤもう、高姫がをるとすれば折角ながら止めませう、ハ丶ハ丶丶』
 『たつてお勧めはいたしませぬ。左様ならば大神様へよろしく仰有つて下さいませ。私はこれより審判に参ります』
とツイと立つて廊下を伝ひ審判廷に行く。杢助は守衛を呼んでライオンを曳き来たらしめ、ヒラリと背に跨がり、ウーツとライオンの一声あたりを轟かせながら、一目散にウブスナ山の方面指して中空を駈り帰つて行く。
中有界の八衢に        伊吹戸主力永久に
鎮まりまして迷ひ来る     あまたの精霊一々に
衡にかけて取調べ       清浄無垢の霊魂は
おのおの所主の愛により    高天原の霊国や
三階段の天国へ        霊相応に送りやり
極悪無道の精霊は       直ちに地獄に追ひ下し
善ともつかずまた悪に     強からざりし精霊は
一定の期間中有の       世界に広く放ちやり
いよいよ霊清まりて      高天原に上るべく
愛と善との徳を積み      信と真との智を研き
覚り得たりし精霊を      みな天国に上しやり
悔い改めず何時までも     悪心強き精霊は
涙を払ひ暗黒の        地獄へ落とし給ふなり
今現はれし敬助や       片山狂介悪次郎
右三人の兇悪は        いと厳格な審判を
下され直ちに暗黒の      地獄の底へ落とされて
無限の永苦を嘗むるべく    両手を前にぶら下げて
意気消沈の為体        顔青ざめてブルブルと
慄ひをののく相好は      たちまち変る妖怪の
見るも浅まし姿なり      後に来たりし呆助や
おつやの二人は姦通の     大罪悪を審かれて
色慾界の地獄道        右と左に立別れ
さも悲しげに進み行く     つづいて高姫神司
伊吹戸主にさばかれて     ここ三年のその間
中有界に放り出され      荒野を彷徨ひいろいろと
艱難辛苦を味はひつ      我情我慢の雲も晴れ
やうやく誠の人となり     また現界に現はれて
三五教の御ために       誠を尽しゐたりしが
ふたたび情念勃発し      妖幻坊に欺されて
印度の国のカルマタの     とある丘陵に身を潜め
妖幻坊ともろともに      悪事の限りを尽すこそ
実にもうたてき次第なり。    


物語57-2-121923/03 真善愛美申 三狂

 三千彦はシヤルと共に小声にて宣伝歌を歌ひながら、八衢街道とは知らず現界の道路を通過する気分にて進み行く。八衢の関所には例のごとく赤面、白面の二人の守衛が儼然と控へてをる。見れば一人の男が赤面の守衛に何事か調べられてゐた。
赤『その方の姓名は何と申すか』
男『ハイ、私は鰐口曲冬と申します』
赤『その方は何か信仰をもつてゐるか』
曲冬『ハイ、別にこれといふ信仰もございませぬが、神儒仏三教を少しばかり噛つてをります』
『その中で何教が一番お前の心に適したか、いな徹底してゐたと考へたか』
『ハイ、初めは一生懸命に仏教を研究いたしました。さうしたところが何処に一つ拠るとこがないので止めましてございます。要するに仏教は百合根のやうなもので、一枚一枚皮を剥いて奥深く進みますと、何にも無くなつてしまひます、いはゆる仏教は無だと思ひます。能書ばかり沢山並べ立て、まるで薬屋の広告見たやうなものですからな。売薬の広告ならば「この薬は腹痛とか、疝気とか、肺病に用ゆべし。また日に何回服用とか、湯で飲めとか、水にて飲めとか、食前がよいとか、食後がよいとか、大人ならば何粒、小人ならば何粒、何才以下は何粒」と御丁寧に服用書が附いてゐますが、仏教の経典はただ観音を念じたら悪事災難を逃れるとか、阿弥陀を念じたら極楽にやると書いてあるのみで、八万四千の経巻もどこにもその用法が示してないので駄目だと思ひました』
『お前は霊界の消息を洩らしたる仏教に対し尊敬帰依の心を捨て、なまじひに研究などと申してかかるから、何にもつかめないのだ。霊界の幽遠微妙なる真理が、物質界の法則を基礎として幾万年研究するとも解決のつく道理がない。しばらく理智を捨て、意志を専らとして研究すれば、神の愛、仏の善、および信と真との光明がさして来るのだ。仏教がつまらないなどと感ずるのは、いはゆるお前の精神がつまらないからだ。仏の清きお姿がお前の曇つた鏡に映らないからだ』
『さう承れば、さうかも知れませぬが、どうも分り難うございます』
『人間の分際として仏の御精神を理解しようとするのが間違ひだ。仏は慈悲そのものだ、至仁至愛の意味が分れば一切の経文が分つたのだ』
『ア、さうでございましたか。それは、えらい考へ違ひをしてをりました。これから一つ研究をやつてみませう』
『駄目だ。二つ目には研究研究と口癖のやうに申すが、お前のいふ研究は犬に炙だ。ワンワン吠え猛るばかりが能だ。止めたらよからう。左様な心理状態ではたうてい仏の御心を悟ることは出来ない。それから次は何を信仰したのだ』
『ハイ別に信仰はいたしませぬが、ヤハリ聖書を研究いたしました』
『旧約か、新約か』
『もちろん、旧約でございます』
『何か得るところがあつたか』
『ハイ、売るところも買ふところもございませぬ。これもヤツパリ私の性に合ひませぬので五里霧中にさまよふところに、或人の勧めによつて三五教に入つて、かなり真面目に研究してみたところ、どうも変性女子の言行が気に喰はないので、弊履を棄つるごとく脱会し、いまは懺悔生活に入つてをります』
『その方は霊界物語の筆写までやつたぢやないか。直接に教示を受けながら、分らぬとはさても困つた盲だな。やつぱり研究的態度をもつてかかつてをるからだ。結構な神の教を筆写しながら、ホンの機械に使はれたやうなものだ。さうして幾分か信ずるところがあつたのか』
『ハイ、女子の方は幾分か信じてをりましたが、しかしこれはいい加減なペテンだと考へてをりました。それよりも変性男子の神諭に重きをおいてをつたところ、その原書を見てあんまり文章の拙劣なのに愛想をつかし、信仰が次第に剥げてしまひました』
『馬鹿だな。神の教は文章の巧拙によるものでないぞ。文章なんかは枝葉の問題だ、その言葉の中に包含する密意を味はふのだ。目はあれども節穴同然、耳はあれども木耳同然、舌はあれども数の子同然、鼻はあれども節瘤同然、そんなことで三五教が善いの、悪いの、男子がどうの、女子がどうのといふ資格があるか。よくも慢心したものだのう』
『別に慢心はしてをりませぬ。世界の人間に宣伝しようと思へば、信仰も信仰ですが充分研究を遂げ、これなら社会に施して差支へないといふところまで調べ上げねば、社会に害毒を流しますからな。いはば社会のために忠実なる研究ですよ』
『お前はまだ我執我見がとれぬからいけない。異見外道、自然外道、断見外道といふものだ。そんな態度ではどこまでも神様は真理を悟らして下さらぬぞ。神様は愚かなるもの、弱きもの、小さきものをして誠の道を諭させ玉ふのだ。決して研究的態度を採るやうな慢心者には、密意はお示しなさらぬ。お前は大学を卒業して、ひとかど学者のつもりでゐるが、その学問は八衢や地獄では一文の価値もない。いや却つて妨げとなり苦悩の因となるものだ。お前の両親も困つた事をしたものだな』
『お前は門番のくせに文士に向かつて偉さうにいひますが、日進月歩文明の世の中に、学を排斥するとは以ての外ぢやありませぬか。国民が残らず無学者であつたなら、みな外の文明国に奪られてしまふぢやありませぬか。人文の発達を図り、国威の宣揚を企図するためには、どうしても大学程度の学問がなければ駄目ですよ。お前たちはわづか小学を卒業したくらゐだから、世問の事に徹底してゐない。それだからポリス代用の門衛をしてゐるのだ。到底拙者の論説に楯突くことは出来ますまい。何科あつて調べらるるか知らぬが、もつと確りした分る方を呼んで来て下さい。知識の階段が違うてるから、お前さまには分りますまい』
『馬鹿をいふな、ここは霊界の八衢だ。博士も学士もみな出て来るところだ。無学でどうしてこの門番が勤まるか。お前たちは自然界の下らぬ学説に心身を蕩かし、虚偽をもつて真理となし、優勝劣敗弱肉強食の制度をもつて最善の方法と考へてる亡者だから、到底真理の蘊奥は分らないのだ。お前のやうなものが霊界へ来ると訳の分らぬ理窟をいつて精霊を汚すから、ここで現界で研究して来た下らぬ学術をみな剥奪してやらう』
『コレ赤さま、お前は発狂してるのか、ただしは酒に酔うてゐるのかい。ここを霊界の八衢だなどと、それは何をいふのかい。霊界や八衢や地獄があつて堪りますかい、人間は子孫を残して死ねば、それまでのものだ。チツと哲学的知識を養うておきなさい。社会の落伍者となつて遂に門番も勤まらなくなりますよ』
『門番が、それほど、その方は賤しいと思ふのか。便所の掃除や塵捨場の掃除はどうだ。それの方がやつぱり尊いのか』
『さうですとも、大慈大悲の心をもつて人の嫌がる事を喜んでするのが、人間の人格を向上する所以です。便所の掃除する者や塵の掃除する者がなければ、世の中は尿糞塵の泥濘混濁世界となるぢやありませぬか。それで私たちは伊吹戸主の神様の御用をしてゐるのだ。汚いものを美しうするくらゐ神聖な仕事はありますまい。私は賤しい仕事とも汚い商売とも思つてをりませぬ』
『ア丶、さうか、それではお前の最も愛するところへやつてやらう。地獄には塵捨場もあれば、堆糞の塚も沢山にある。娑婆の亡者がやつて来て、腐肉に蠅が集るやうに喜んで嗅いでゐる。現世にある時の所主の愛によつて、身魂相応の処に行つたがよからう。夜もなく冬もなき天国において、すべての神の御用に仕へまつり無限の歓喜に浴するよりも、その方は臭気紛々たる地獄道へ行くのが得心だらう。サア遠慮は要らぬ、トツトと行つたがよからうぞ』
『はてな、さうすると此処はやつぱり霊界ですかな』
『定つたことだ。霊界現界か分らぬやうな亡者がどうなるものか。それだから心の盲といふのだ』
『しからばどうか天国へやつていただきたいものです』
『マアここである一定の時間を経なくては、お前のやうな汚れた魂はすぐに天国にやることは出来ない。まづ外部的要素をスツカリ取らなくてはならぬ。現世において心にもないことをいつたり、阿諛を使つたり、体をやつしたり、種々とやつて来たその外念をスツカリ取り外し第二の内部状態に入り、内的生涯の関門を越えるのだ。内的とは意志想念だ。はたしてその意志が善であり真であらば、天国へ上ることが出来るであらう。しかしながら内的状態になつてからエンゼルの教を聞き、その教が耳に這入るやうならば、天国へ行く資格が具備してるなり、どうしても耳に這入らねば地獄行きだ。これを第三状態といつて精霊の去就を決する時だ』
『へー、随分むつかしいものですな。やつぱり天国も地獄もあるものですかな』
かく話すところへ高姫は皺嗄声を張り上げながら、
『オーイ、三千彦、シヤル、待つた待つた。いひたい事がある』
と天塩昆布のやうになつた帯を引摺りながら走り来たり、
『こら、シヤル、恩知らず奴、妾がこの三千彦の極道に引倒され、苦しんでゐる間に悪口をついて逃げて来たぢやないか。コレコレお役人さま、こいつは悪党者でございます。義理天上が直接成敗するところなれど、神界の御用が忙がしいから、お前さまに任すから厳しく膏をとつてやつて下さいや』
赤『ヤ、お前は高姫ぢやないか。霊界へ来てまで噪やいでゐるのか。モウいい加減に外部的状態から離れたらどうだ。一年にもなるのに何と渋太い奴だな』
高姫『ヘン、よう仰有りますワイ。一年にならうと二年にならうとお構ひ御免だ。いつやらも杢助さまを隠しやがつて了簡せぬのだが、何をいつても大慈大悲の大弥勒さまの生宮だから、大目に見てゐるのだ。グヅグヅ申すとこの生宮が承知いたさんぞや』
『白さま、この婆アさまは、邪魔になつて仕方がないから、何処かへ突き出して下さい』
『ヘン、お邪魔になりますかな。そりや、さうでせう。誠の神の言葉は悪人の耳には、きつう応へませう。お気の毒様ながら、この生宮は世界万民救済のため、チツとお耳が痛うてもいふだけ言はしてもらひませう。弥勒様の因縁を知つてゐますか、一厘の仕組が分りますか、エー、よもや解りますまい。へン、一厘の仕組も分らぬくせに偉さうにいふものぢやないわ』
『白さま、早く何処かへやつて下さい』
白『コレコレ高姫さま、ここは八衢だからお前は早く何処かへ行つて下さい。職務の邪魔になりますからな』
高姫『コウリヤ白狐、お前は赤狐のいふ事を聞いて、この日の出神を放り出さうとするのか。ハテ悪い了簡だぞえ。よう考へて御覧なさい。天地の間は何一つ弥勒様のお構ひなさらぬところはないぞえ。お土とお水とお火の御恩を知つてますか。その本をつかんだ底津岩根の大弥勒さまを何と心得てござる。さてもさても盲ほど困つた者はないワイ。ヤ最前から怪体な男が立つてをると思つたが、お前はアブナイ教の菊石彦だな。先ほどは大きに憚りさま、ヨー突き倒して下さつた。コレコレ赤に白、日の出神が吩咐ける。この菊石彦はこの生宮を引倒した悪人だから、一つきつい成敗に遭はしなさい。きつと申し付けておきますぞや』
 白の守衛は止むを得ず、棕櫚箒をもつてシヤル、高姫の両人に向かつて掃き出した。二人は驚いて雲を霞と南を指して逃げて行く。
三千彦『モシ、門番様、ここは実際の霊界でございますか』
赤『ハイ、さうです。あなたはアンブラツク川へ悪者に縛られ投げ込まれなさつた一刹那、気絶なさつたため、精霊がここへ遊行して来たのですよ。神の化身のスマートといふ義犬が矢にはに川に跳び込み、あなたの死骸を啣へて堤へ引上げ、縛めを解いていま一生懸命に、貴方の肉体に対し介抱をしてをります。やがてスマートが迎へに来るでせうから一緒にお帰りなさい。まだ此処に来る時ではありませぬ。そしてテルモン山に悪者が跳梁つてゐますから、充分注意して臨まねばなりますまい』
『さう承らば幽かに記憶に浮かんできます。やつぱり私は溺死したのですかいな。霊界といふところは現界と少しも違はない所ですな。一つ不思議なのは、あの高姫さまは命がなくなつたと聞いてをりましたのに、随分えらい脱線振り、あの方もやつぱり霊界にをられるのですかな』
『まだ現界に三十年ばかり生命が残つてをりますが、あんまり現界で邪魔をするので、時置師神様がお出でになり、伊吹戸主の大神にお願ひ遊ばして、三年が間中有界に放つてあるのでございます。三年すればきつと外の肉体に憑つて、ふたたび現界で活動するでせう。今の精神で現界に行かれちや、やりきれませぬから、あと二年の間に充分の修業をさして、現界に還すつもりです』
『なるほど、何から何まで、神様のなさる事はよく行きわたつたものですな。しかしながら三年の後には、高姫の肉体は最早駄目でせう』
『三年の後に生命尽きて霊界に来る肉体がありますから、その肉体に高姫の精霊を宿らせ、残り三十年を現界で活動させる手筈となつてをります』
『ア、さうですか。三年先になれば誰かの肉体に憑つて脱線的布教をやるのですな、困つたものですな』
『もう已に一年を経過したのだから、後二年ですよ。あの我執我見をこの二年の間になんとか改良せねばならぬのですから、霊界においても大変手古摺つてゐます。今は岩山の麓に小さき家を建てて一人暮しをしてゐますが、マア一人で暮してをればあまり害がないから、大神様も大目に見てござるのですよ。エンゼルが行つても、減らず口ばかりたたいて受付けぬから、困つたものです。人間の精霊も、あれだけ我執に固まつてしまつては仕方のないものですワイ』
 かく話す時しも、南の方より宙を跳んで走り来る一頭の猛犬、ウーウー、ウワツウワツと二声三声高く叫んだ。この声にハツと気がつき四辺を見れば、今までの八衢の光景は影もなく消え失せ、アンブラツク川の堤の青芝の上に横たはつてゐた。側には猛犬スマートが行儀よく坐つて、うれしげに三千彦の顔を眺め尾を掉つてゐる。テルモン山の方を眺むれば、黒煙濛々として立ち上り、黒雲のごとく空を封じてゐる。月は黒煙の間に隠顕出没しつつ足早に走るごとく見えてゐる。


物語63-3-101923/05 山河草木寅 鷺と鴉

 人間が霊肉脱離の後、高天原の楽土または地獄の暗黒界へ陥るに先んじて、何人も踏まねばならぬ経過がありまして、この状態は三種の区別があります。そしてこの三状態を大別して、外面の状態、準備の状態、内面の状態といたします。しかしながら死後ただちに高天原へ上る精霊と、地獄へ陥る精霊とのあることは、今日までの物語において読者は既に已に御承知のことと思ひます。
 中有界一名精霊界の準備を経過せずして、直ちに天界または地獄に行くものは、生前既にその準備が出来てゐて、善悪の情動並びに因縁によつて各自霊魂相応の所を得るものです。右のごとく準備既に完了せる精霊にあつては、只その肉体と共に自然的世界的なる悪習慣等を洗滌すれば、直ちに天人の保護指導に依つて、天界のそれ相応の所主の愛に匹敵した楽土に導かるるものであります。
 之に反して直ちに地獄に陥る精霊にあつては、現界において表面にのみ愛と善とを標榜し、且つ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵しをりしもの、いはゆる自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙に富んでゐるものは、足を上空にし頭を地に倒にして投げ込まれるやうにして落ちて行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、あるひは死後直ちに岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、かくのごとき状態になるのは凡て神様の御摂理で、
精霊界にある精霊と分離せむがためであります。ある時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、かくのごとき精霊は生前において、口の先ばかりで親切らしく見せかけて世人を油断させ、その虚に乗じて自己の利益を計り、かつ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。
 人間各自の精霊には外面的、内面的の二方面を有しております。
 
精霊の外面とは、人間が現世において他の人々と交はるに際し、その身体をして之に適順せしむるところの手段を用ひることで、特に面色、語辞、動作等の外的状態であり、精霊の内面とは人の意思及びその意志よりする想念に属する状態であつて、容易に外面には現はれないものであります。凡ての人間は、幼少の頃より朋友の情だとか、仁義誠実、道徳等の武器を外面に模表する事を習つてをりますが、その意志よりするところの凡ての想念は、之を深く内底に包蔵するが故に、人間同士の眼よりは之を観破することは実に不可能であります。現代の人間は、その内心は如何に邪悪無道に充ちてをつても、表面生活上の便宜のため、似非道徳的、似非文明的生涯を営むのは常であります。現界永年の習慣の結果、人間は精神痳痺し切つてしまつて、自己の内面さへ知る事が出来なくなつてをります。また自己の内面的生涯の善悪などに就いて煩慮することさへ稀であります。況んや、自己以外の他人の内面的生涯の如何を察知するにおいておやであります。
 死後直ちに
精霊界における人間精霊の状態は、その肉体が現世にありし時のごとく依然として容貌、言語、性情等は相酷似し、道徳上、民文上の生活の状態と少しの相違もない。ゆゑに人間死後の精霊にして精霊界において相遇ふ事物に注意を払はず、また天人が彼精霊を甦生せし時においても、自己は最早一箇の精霊だといふことを想ひ起さなかつたなれば、その精霊は依然高姫のごとく、現界に在つて生活を送つてをるといふ感覚をなすの外はないのです。故に人間の死といふものは、唯この間の通路に過ぎないものであります。
 現世を去りて未だ幾何の日時も経ない人間の精霊も、また現界人の一時的変調によつて霊界に入り来たりし精霊も、先づ以上のごとき状態にをるものであつて、生前の朋友や知己と互ひに相会し相識合ふものであります。何となれば、精霊なるものは、その面色や言語等によつて知覚し、また相接近する時はその生命の円相によつて互ひに知覚するものです。霊界において甲が若し乙の事を思ふ時は忽ちその面貌を思ひ、之と同時にその生涯において起りし一切の事物を思ふものです。そして甲において之を為すときは、乙は直ちに甲の前に現はれ来るもので、ちやうど態人を使ひに遣つて招いて来るやうなものです。
 霊界において何故かくのごとき自由あるかと謂へば、
霊界は想念の世界であるから、自ら想念の交通があり、何事も霊的事象に支配されてをりますから、現界のごとく時間または空間なるものがないからであります。それゆゑ霊界に入り来たりしものはその想念の情動によつて、互ひにその朋友、親族、知己を認識せざるは無く、現世にあつた時の交情によつて互ひに談話も為し、交際も為し、ほとんど現世にありし時と少しの相違もないのです。
 中にも夫婦の再会などは普通とせられてゐますが、夫婦再会の時は互ひに相祝し、現世において夫婦双棲の歓喜を味はひ楽しんだ程度に比して、或は永く久しく、或は少時間、その生涯を共にするものです。そしてその夫婦の間に真実の婚姻の愛、即ち神界の愛に基づいた心の和合の無い時は、その夫婦は少時にして相別るるものであります。また夫婦の間に現世において、互ひに了解なく嫉妬や不和や争闘や、その他内心に嫌忌しつつあつたものは、この仇讐的想念はたちまち外面に破裂して、相争闘し分離するものであります。
 霊界にある善霊すなはち天人は、現界より新たに入り来たりし精霊の善悪正邪を点検すべく、種々の方法を用ふるものです。精霊の性格は、死後の外面状態にあつては容易に弁別が付かないものです。
 如何に凶悪無道なる精霊にても、外面的真理を克く語り善を行ふことは、至誠至善の善霊と少しも相違の点を見出すことが出来ないのです。外面上は皆有徳愛善らしき生涯を送つてゐる。現界において一定の統治制度の下にあつて法律に服従して生息し、これに由つて正しきもの、至誠者との名声を博し或は特別の恵みを受けて尊貴の地位に上り富を蒐めたるものであつて、是等は死後少時は善者有徳者と認めらるるものです。しかしながら天人は是等の精霊の善悪を区別するに当り、大抵左の方法に由るものであります。凡て何人も所主の愛に左右さるるものでありますから、即ち凶霊は常に外面的事物にのみついて談論するを好むこと甚だしく、内面的事物に就いては毫も顧みないからであります。内的事物は神の教、または聖地救世主の神格、及び高天原に関する真と善とに関しては之を談論せず、また之を教ふるも聴くことを嫌忌し更に意に留めず、また神の教を聴いて楽しまず、却つて不快の念を起し面貌にまで表はすものです。
 現界人の多くは、凡て神仏の教を迷信呼ばはりをなし、かつ神仏を口にすることを大いに恥辱のごとく考へてをるものが大多数であつて、大本の教を此方から何ほど親切をもつて聞かし、天界に救ひ助けむと焦慮するとも、地獄道に籍をおいた人間には、到底駄目であることをしばしば実験いたしました。しかしながら大慈大悲の大神の御心を奉体し一人たりとも天界に進ませ、永遠無窮の生命に赴かしめ、以て神界御経綸の一端に仕へなくてはならないのであります。霊界においても現界においても同一ですが、地獄入りの凶霊と天界往きの善霊とを区別せむとするには、凶霊はしばしある一定の方向に進まむとするを見ることが出来ます。凶霊がモシその意のままに放任される時はそれに通ずる道路を往来するもので、彼等が往来する方向と転向する道路とによりて、その所主の愛は何れにあるかを確かめらるるものであります。
 
現界を去つて霊界に新たに入り来たる精霊は、何れも高天原とか地獄界とかの或る団体に属してゐないものはありませぬが、しかし之は内的の事ですから、その精霊がなほ依然として外面的状態にある問はその内実を現はさない。外面的事物が凡ての内面を蔽ひかくしてしまひ、内面の暴悪なるものは、殊にこれを蔽ひかくすこと巧妙を極めてをるからです。しかし或る一定の期間を経たる後に彼等の精霊が内面的状態に移る時において、その内分の一切が暴露するものです。この時は最早外面は眠り且つ消失し、内面のみ開かるるからであります。人間の死後における第一の外面的情態は、或は一日、或は数日、或は数ケ月、或は一年に渉ることがあります。
 されど一年を越ゆるものは極めて稀有の事であります。かくのごとく各自の精霊が外面的状態に長短の差ある所以は、内外両面の一致不一致によるものです。何故なれば、精霊界にあつては何人といへども思想および意志と言説または行動を別にする事を許されないから、各精霊の内外両面が一となつて相応せざればならぬからであります。
霊界にあるものは、自有の情動たる愛の影像ならぬものはありませぬから、その内面にあるところの一切をその外面に露はさないわけにはゆきませぬ。これゆゑ善霊なる天人は先づ精霊の外面を暴露せしめ、これを順序中に入らしめて、以てその内面に相応する平面たらしめらるるのであります。そしてかくのごとき順序を取るところは、
精霊界すなはち中有界の中心点たる天の八衢の関所であつて、伊吹戸主神の主管し給ふ、ブルガリオにおいて行はるるものであります。
 内面的情態は、人間の死後ある一定の期問を中有界にて経過し、心即ち意志と想念に属する精霊の境遇をいふのです。人間の生涯言説、行為等を観察する時は、何人にも内面外面の二方面を有することが知り得られます。その想念にも意志にも内外両面の区別があるものです。凡て民文の発達した社会に生存するものは、他人の事を思惟するに当り、その人に対する世間の風評または談話等に由つて見たり聞いたりしたところのものを以て、人間の性能を観察する基礎となすものです。されど人間は他人と物語る時に際して、自分の心の儘を語るものではありませぬ。たとへ対者が悪人と知つても、また自分の気に合はない人であつても、その交際応接などの点はなるべく礼に合ふべく、また相手方の感情を害せざるやうにと努むるもので、実に偽善的の行為を敢てするもので、またこれでなければ社会より排斥されてしまふやうな矛盾が出来する世の中であります。そして凡ての人は見えすいたやうな嘘でも善く言はれると大変歓ぶものですが、これに反し真実をその人の前に赤裸々に言明する時は非常に不快の念を起し、遂には敵視するやうになり、害を加ふるやうな事が出来るものです。故に現代の人間のいふところ、行ふところは、その思ふところ願ふところと全く正反対のものです。
 偽善者の境遇にあるものは、高天原の経綸や死後の世界や、霊魂の救ひや聖場の真理や国家の利福や隣人の事を語らしておけば、恰も天人のごとく愛善と信真に一切基づけるやうなれども、その内実には高天原の経綸も霊魂の救ひも死後の世界も信じないのみか、ただ愛するところのものは自己の利益あるのみであります。かくのごとき偽善者、偽信者はずゐぶん太古の教徒の中にも可なり沢山あつたものですが、現代の三五教の中には十指を折り数へたら、最早残るは外面的状態にあるものばかりで、天国に直ちに上り得る精霊は少ないやうであります。
 凡て人間の想念には内面、外面の区別がありまして、かくのごとき人間は、外面的想念によりて言説をなし、内面には却つて異様の感情を包蔵してをるものです。そして内外両面を区別する事に努めて、一とならないやうにと努むるものです。真に高天原の経綸を扶け聖壇の隆盛を祈り、死後の安住所を得むことを思はば、如何なる事情をも道のためには忍ぶべきものであります。神様の御用にたて得らるるだけの余裕を与へられたのも、皆神様のお蔭であることを忘れ、自有と心得てをるからです。ここに外面内面の衝突を来たすことになつて来るのです。しかし現代の理窟から言へば、内外両面を区別して考ふる事が至当となつてをります。そして右様の説に対しては種々の悪名をもつて対抗し、かつ悪魔の言と貶すものであります。又かくのごとき人は内面的想念の外表に流れ出でてここに暴露することなからむを勉め、現界的道理によつて、凡てを解決せむとし、内面的神善を抹殺するものであります。
 さりながら人間の創造さるるや、その内面的想念をして、相応に由りて外面的想念と相一致せしめなくてはならない理由があるのです。この一致は真の善人において見るところであつて、その思ふところも言ふところも、唯ただ善のみだからであります。かくのごとき内外両面の想念の一致する事は、たうてい地獄的悪人においては見る事が出来ない。何故なれば、心に悪を思ひながら善を口に語り、全く善人と正反対の情態にあるものです。外面に善を示して悪を抱いてをる。かくて善は悪のために制せられ、これに使役さるるに至るのであります。悪人はその所主の愛に属する目的を達成せむがために、表に善を飾つて唯一の方便となすものです。故にその言説と行動とに現はれるところの善事なるものは、その中に悪しき目的を包蔵してをるので、善も決して善でなく、悪の汚すところとなるは明白なものです。外面的にこれを見て善事となすものは、その内面を少しも知悉せざるものの言葉であります。
 
真の善にをるものは、順序を乱すことなく、その善は皆内面的想念より流れて外面に出て、それが言説となり行動となるのは、人間はかくのごとき順序のもとに創造せられたものであるからであります。人間の内面は凡て高天原の神界にあり、神界の光明中に包まれてをる。その光明とは、大神より起来するところの神真で、いはゆる高天原の主なるものです。人間は内外両面の想念があり、その想念が内外たがひに相隔たりをることは前述の通りであります。想念と言つたのはその中に意志をも包含して併せて言つたのです。盖し想念なるものは意志より来たり、意志なければ何人といへども想念なるものはありませぬ。また意志および想念といふ時は、この意志の裡にもまた情動、愛、およびこれらより起来する歓喜や悦楽をも含んでをります。以上のものは何れも意志と関連してをるからです。何故なれば人はその欲するところを愛し、これによつて歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。また想念といふことは、人が由りて以てその情動即ち愛を確かむるところの一切を言ふのです。なんとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以て自ら顕照せむと欲するところのものに過ぎないからであります。この形式は種々の理性的解剖によつて現はれるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。
 凡て人間の人間たる所以は全くその内面にあつて、内面を放れたところの外面にあらざることを知らねばならない。内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、この内面なる霊(精霊)の生涯に外ならないからです。人の身体に生命のあるのは、この精霊に由るものです。この理によつて人はその内面のごとくに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永生を保つものです。されど外面はまた肉体に属するが故に、死後は必ず離散し消滅し、その霊に属してゐた部分は眠り、ただ内面のために、これが平面となるに過ぎないのです。
 かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明らかになるのであります。悪人にあつてはその言説を起さしむるところの外的想念と、その行動を起さしむるところの外的意志とに属するものは、一ももつて彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。ただその内面的なる想念と意志とに属するもの而己が、自有を為し得るのであります。故に永遠の生命に入りたる時自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した花実ばかりで、其他の一切のものは、中有界において剥脱されるものであります。あ丶惟神霊幸倍坐世。


物語70-1-51925/08 山河草木酉 花鳥山

天津御空はいと清く      五色の雲が棚引いて
鳳凰孔雀百鳥は        低空飛行をやつてゐる
地は一面の青畳        紫浅黄白黄色
紅の花咲き匂ひ        胡蝶の姿翩飜と
天国浄土の光景を       いとも楽しく眺めつつ
風に吹かるる心地して     地上を距ること三四尺
空中やすやす進み行く     はるか前方を眺むれば
黄金の甍キラキラと      天津日影に照り映えて
荘厳世界を現出し       左手の方を眺むれば
青海原は波しづか       彼方此方にチラチラと
胡蝶の空中に舞ふごとく    白く輝く真帆片帆
五色の鳥は右左        波の上走る面白さ
涼しき風は永遠に吹き     何とも言へぬ芳香を
道行く人の身辺に       送り来たるぞ床しけれ
ここに一人の旅人は      鎗を片手につきながら
青草しげる丸山の       その中腹に身をおいて
吾が身の歩み来たりたる    あとを眺めてニコニコと
煙草をくゆらし憩ひゐる    かかるところへ山下より
オーイオーイと声をかけ    登り来たれる婦人あり
よくよく見ればこはいかに   思ひもよらぬ千草姫
涼しき清き白妙の       衣を風に飜し
旅人のそばに近よりて     満面笑をたたへつつ
『あなたは右守のスマンヂー  コラまあ何うして此の様な
平和の山に御到来       訝かしさよ』と尋ぬれば
一人の旅人はうなづいて    『あなたは尊きお姫様
どうして此処へお出ましか   私は合点がゆきませぬ
トルマン城の奥の間で     ガーデン王や左守司
大足別の攻軍に        抵抗せんといろいろに
軍議を運らしゐたりしが    協議叶はぬ私は
尊き主の御為に        お手にかかつて身失せしと
思ひしことは夢なるか     合点のゆかぬこの体
ここは何といふ所か      名さへも知らない清浄の
百花千花咲きほこる      浄土のやうな聖地です
あなたはどうして吾々の    後を尋ねてお出ましか
不思議不思議が重なつて    どうして可いやら分らない』
語れば千草はうなづいて    『
ここは所謂天界の
第三段の浄土です       私は天寿が尽きまして
主の神様の命令で       浄土の住居を命ぜられ

喜び勇んでスタスタと     花咲く野辺を参りました
貴方もどうやら天界に     お住居遊ばすお身の上
伊吹戸主の神様に       たしかに聞いておきました
現界などに心をば       残させ玉はず速やかに
神の依さしの天界へ      私と共に昇りませう

あ丶惟神惟神         尊き神の引合せ
貴方は永らく独身者      私は夫はおはせども
現幽所を異にした       今日の吾が身は独身者
意思想念の相異より      ガーデン王と永久に
霊界までは添へませぬ     貴方の智性は吾が智性
私の意思は全然と       あなたの意思に通ひます
神の開きし天界の       この楽園に二柱
夫婦となつて永久に      天国浄土の御用をば
力限りに致しませう
      如何でござる右守さま』
いへば右守は頷いて      『ア丶有難し有難し
私は現世にゐる中ゆ      あなたを恋してをりました
とはいふものの現界の     下らぬ階級が邪魔をして
心のたけを一言も       申し上げたることはない

あなたの心もその通り     私を愛してゐらるると
早くも承知はしてゐたが    現実界の義理人情
法則などを省みて       こらへ忍んでをりました
もう此の上は神様の      定め玉ひし縁ぢやもの
誰に遠慮はいりませぬ     
現実界におきまして
あらむ限りの善行を      尽した二人の報酬は

今や稔つてこの通り      歓喜の苑に身をおいて
千代も八千代も万代も     時間空間超越し
嬉しく楽しく暮らしませう   あ丶惟神惟神
御霊の恩頼をほぎまつる』

 かく互ひに歌つてゐるところへ、天空を輝かし、ゴウゴウと音を立て、両人の前に火弾となつて落下した。その光明はダイヤモンドのごとく、白金光のごとくであつた。両人はハツと驚き、両手で目を押へ其の場に蹲踞んでゐる。火光はたちまち麗しき神人と化し、声も静かに、
エンゼル『スマンヂー様、千草姫様、私は第一霊国より貴方をお迎へに来たエンゼルでございます。どうかお目をあけて下さい』
 両人は「ハイ」と言葉を返しながら、しづかに両眼を開けば、白妙の衣を纏ひたる、威厳備はる神人が七八尺前にニコニコしながら立つてゐる。
エンゼル『私は言霊別命であります。スマンヂーさま、千草姫さま、貴方がたは現界において、トルマン国のため、多数民衆のため、現界における最善を尽しておいでになりました。そして
貴方がた両人は、意思想念の合致した真正の御夫婦でありながら、あらゆる苦痛を堪へ忍び、恋てふ魔に打ち勝つて、よくも一生の間忍ばれました。神界においては、特に貴女の善行が記されてございますよ。サア、これから第二霊国を御案内申しませう
スマンヂー『ハイ有難うございます。思はぬ所で神様にお目にかかり、何といふ有難いことでございませうか。お礼は言葉に尽されませぬ』
言霊別『あなたの培かふた畑に稔つた果実でございますよ。決して私にお礼を申されては困ります。今日の喜びは貴方が培かひ養つてゐたところの喜びの実でございます。千草姫様もその通り、必ず必ず礼なんか言つてはなりませぬ。サア私についてお出でなさいませ』
と言霊別命は一足先に立ち、両人は互ひに労りながら、雲のごとき波のごとき青々とした丘陵をふみこえふみこえ、東へ東へと進んで行く。
 何時とはなしに嚠喨たる音楽の響き、四辺より聞こえるとみれば、二人は早くも方形の岩をもつて畳んだやうな丘陵の上に着いてゐた。
言霊別『此処は第二霊国において有名なる花鳥山でございます。御覧なさい、緑の羽を拡げ、紅の冠を頂き、美しい鳥が四方八方に翊翔し、美妙の声を放ち、又この通り地上の世界にないやうな麗しき花が咲きみだれ香気を放つてをります。ここは貴方がたの千代の住家でございますよ。食べたい物は何でも望み次第、この麗しき樹木の枝に臨時に熟しますから、それを採つておあがりなさい』
スマンヂー『一寸エンゼル様にお尋ねいたします。いま霊国と承りましたが、
霊国は宣伝使の集まる楽園ではございませぬか。私はトルマン国の小臣、平素ウラル教を奉じながら、深い信仰も致しませず、また千草姫様だとてその通り、トルマン国の王妃として、国民の母として最善をお尽し遊ばしたもの、宣伝使牧師ならばいざ知らず、吾々ごとき俗界に心をひたしてをりましたものが、どうしてまた霊国へ来られたものでございませうか、どうもこの理由が分りませぬ』
言霊『お尋ねの通り、霊国は凡て宣伝使や、国民指導者の善良なる霊の来たるべき永久の住所でございます。今日の現実界において、宣伝使や僧侶や神官牧師などは一人として霊国へ昇り来る資格を有つてをりませぬ。また天国へは猶さら昇る者なく、何れも地獄に籍をおき、地獄界において昏迷と矛盾と、射利と脱線と暗黒との実を結んで、互ひに肉を削り合ひ、血を啜り合ひ、妄動を続けてをりまする。
あなたは生前において宣伝使ではなかつたが、現実界の人間としての最善を尽されました。これは要するに表面的神を信仰せなくても、あなたの正守護神はすでに天界の霊国に相応し、神籍をおいてゐられたのです。凡て宇宙は相応の理に仍つて成り立つてゐるものです。この第二霊国の花鳥山は貴方の物です。貴方の精霊が現界において、已にこの麗しき霊山を造つておかれたのです。誰に遠慮は要りませぬ。永久に富み栄えて夫婦仲よく神界の御用をお勤めなさい。左様ならば』
と立去らむとするを、千草姫は慌てて白い手を上げながら、
『もしもし、エンゼル様、妾は今フツと考へましたが、スコブツエン宗のキユーバーと申す者と手を握り合ひ、双方ともに一時に気絶したやうに記憶が浮かんで参ります。あのキユーバーは何うなりましたか、一寸お尋ねいたします』
言霊『
彼は未だ現界に生命が残つてをりますから、今や八衢に彷徨てをります。しかしながら愛善の徳うすく、智慧証覚の光鈍き彼がごとき人物のことを思い出してはなりませぬよ。あなたの智慧証覚が鈍りますから、今後は決して現界のことを思ひ起こしてはなりませぬ。最早現界の貴女の用はすんでをります。スマンヂーさまも御同様に、決して決して現界のことを思はないでゐて下さい
 両人はハツと頭を下げ有難涙にくれてゐる。言霊別命は五色の雲に包まれ、一大火光となつて、東天を指して空中を轟かせながら帰つて行く。後に二人は顔見合せ、
スマンヂー『姫様、不思議なことぢやございませぬか。吾々は夢でもみてゐるやうですなア』
千草『本当に不思議でたまりませぬ。
たしかに貴方も私も死んだに間違ひはございませぬ。それにも拘はらず、ますます意識が明瞭になり、かやうな麗しき山の頂に、恋しき貴方と二人許されて夫婦となるといふようなことが、どうして現実と思はれませう。どうも不思議でたまりませぬ
『私は現界において貴女の臣下でございます。そして貴女はトルマン国における王様に次いでの尊きお方、如何に神様のお許しとはいひながら、あなたを女房と呼ぶことは実に恐れ多くてなりませぬワ』
『スマンヂー様、
現幽所を異にした今日、何もかも凡て洗替へぢやございませぬか、かかる尊き霊国に来たりながら、未だ左様な虚礼虚式的な辞令をお使ひ遊ばすのは、自らの想念を詐るようなものでございますよ
『なるほど左様でございますな。そんなら改めて、あなたを妻と呼びませう。私を夫と呼んで下さい。一人の娘が残してございますけれど、此の事も思ひ切りませう』
『どうかさうして下さいませ。サアこれから二人でこの喜びを歌ひませう』
ここに両人は手をつなぎ、胡蝶のごとく花鳥山の頂にて爽かな声を張り上げ、歌ひつつ舞ひ始めた。
『天津御空を眺むれば     百のエンゼル星の如
輝き玉ひ吾が身をば      あるひは遠く或は近く
守らせ玉ふ有難さ       脚下を伏して眺むれば
堅磐常磐の巌もて       造り固めし神の山
見なれぬ鳥は麗しき      翼拡げて天界の
瑞祥うたひ百花は       艶を競ふて咲き匂ひ
吾等二人の眼をば       心ゆくまで慰むる
あ丶惟神惟神         
人の命は現世の
百年ばかりに限らない     幾億年の末までも
吾が精霊は生通し       生きて栄えて花咲かし
誠の稔を楽しまむ       誠の稔を楽しまむ
神は吾等と共にあり      吾等も神と共にあり
神と神とがむつび合ひ     神の御国をいや広に
広めてゆかむ夫婦仲      いや永久に春なれや

いや永久に栄えませ      いや永久に夏来たれ
いや永久に楽しまむ      天はますます高くして
空気の色はいや清く      地はますます広くして
百草千草みな光る       光明世界の真中で
汝と吾とは世を送る      夢か現か幻か
いやいや決して夢でない    夢の浮世を立ちいでて
真の神のあれませる      真の国へまゐ昇り
真の花を手折りつつ      真の暮しをいとなまむ
あ丶惟神惟神         御霊幸はへましませよ』

と歌ひながら、
二人は永久の霊国に住民となつた。
あ丶惟神霊幸倍坐世。


物語入蒙-1-1 1925/08 水火訓

 国照姫は国祖大神の勅を受け、水をもつて所在天下の蒼生にバプテスマを施さむと、明治の二十五年より、神定の霊地綾部の里において、人間界の誤れる行為を矯正し、地上天国を建設すべく、その先駆として昼夜間断なく、営々孜々として、神教を伝達された。水をもつて洗礼を施すといふは、決して朝夕清水を頭上よりあびるばかりを言ふのではない。自然界は凡て形体の世界であり、生物は凡て水によつて発育を遂げてゐる。水は動植物にとつて欠くべからざる資料であり、生活の必要品である。現代は仁義道徳廃頽し、五倫五常の道は盛んに叫ばるるといへども、その実行を企てたる者は絶えてない。神界においては先づ天界の基礎たる現実界に向かつて、改造の叫びをあげられたのである。
 国常立尊の大神霊は精霊界にまします稚姫君命の精霊に御霊を充たし、予言者国照姫の肉体に来らしめ、いはゆる大神は間接内流の法式に依つて、過去現在未来の有様を概括的に伝達せしめ玉ふたのが、一万巻の筆先となつて現はれたのである。この神論は自然界に対し、まづ第一人間の言語動作を改めしめ、しかして後深遠微妙なる真理を万民に伝へむがための準備をなさしめられたのである。凡て現世界の肉体人を教へ導き、安逸なる生活を送らしめ、風水火の災ひも饑病戦の憂もなきやう、いはゆる黄金世界を建造せむとするの神業を称して水洗礼といふのである。
 国照姫の肉体はその肉体の智慧証覚の度合によつて、救世主出現の基礎を造るべく、且つその先駆者として、神命のまにまに地上に出現されたのである。国照姫の命のみならず、今日まで世の中に現はれたる救世主または予言者などは、何れも自然界を主となし、霊界を従として、地上の人間に天界の教の一部を伝達してゐたのである。釈迦、キリスト、マホメット、孔子、孟子その他世界のあらゆる先哲も、皆神界の命をうけて地上に現はれた者であるが、霊界の真相は何時も説いてゐない。釈迦の如きはやや霊界の消息を綿密に説いてゐるやうではあるが、何れも比喩や偶言、謎等にて茫漠たるものである。その実、未だ釈迦といへども、天界の真相を説くことを許されてゐなかつたのである。キリストは、吾が弟子共より天国の状態は如何に……と尋ねられた時「地上にあつて地上のことさへも知らない人間に対し、天国をといたとて、どうして天国のことが受入れられうぞ」と答へてゐる。神は時代相応、必要によつて、教を伝達されるのであるから、未だキリストに対して、天国の真相を伝へられなかつたのである。又その必要を認めなかつたのである。
 しかるに今日は人智やうやく進み、物質的科学はほとんど終点に達し、人心ますます不安に陥り、宇宙の神霊を認めない者、または神霊の有無を疑ふ者、および無神論さへも称ふるやうになつて来た。かかる精神界の混乱時代に対し、水洗札たる今までの予言者や救世主の教理をもつては、到底成神成仏の域に達し、安心立命を心から得ることが出来なくなつたのである。故に神は現幽相応の理によつて、火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要に迫られたので、言霊別の精霊を地上の予言者の体に降されたのである。
 曾てヨハネはヨルダン川において、水を以て下民に洗礼を施してゐた時、今後来るべき者は吾よりも大なる者である。そして吾は水をもつて洗礼を施し、彼は火をもつて洗礼を施すと予言してゐた。それは所謂キリストを指したのである。しかしながらキリストはヨハネより水の洗礼を受け、これより進んで天下に向かつて火の洗礼を施すべく準備してゐた時、天意に依つて、火の洗礼を施すに至らず、遂に十字架上の露と消えてしまつたのである。彼は死後弟子共の前に姿を現はし、山上の遺訓なるものを遺したといふ。しかしこの遺訓は何れも現界人を信仰に導くための神諭であつて、決して火の洗礼ではない。故に彼は再び地上に再臨して火の洗礼を施すベく誓つて昇天したのである。
 火の洗礼といつても東京の大震災、大火災の如きものを言ふのではない。大火災は物質界の洗礼であるから、之はやはり水の洗礼といふべきものである。火の洗礼は霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理であり、水の洗礼は体主霊従といつて、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き始めた教である。故に水洗礼に偏するも正鵠を得たものでないと共に、火洗礼の教に偏するも亦正鵠を得たものでない。要するに霊が主となるか、体が主となるかの差異があるのみである。


大本史料集成Ⅱ 1931/02/04 信教宣伝使心得 大本瑞祥会宣伝課

 神様の道に限らず世の中のことは一切、顕幽一致して居るのであります。霊界には霊国と天国とがあつて、|主神《すしん》は霊国では月の大神と現はれ、天国では日の大神と現はれ給ひ、そして霊国は主として|信真《しんしん》の光、天国は主として愛善の徳から成り立つて居るのであります。此の大本は霊界の移写として、綾部が天国となり、亀岡天恩郷が霊国となつて居り、霊界の天国は神を信じて居つた人(信者)の精霊、即ち普通の天人の居る所であり、霊界の霊国はエンゼル(天使)の居る所であります。此のエンゼルと云ふのは一名媒介天人と云つてあちらの団体からこちらの団体に、或は|上《うへ》の団体から|下《した》の団体に往来して団体相互の連絡を計り、そして神様の徳を総で、の天人に伝へると云ふ重き使命を有するものであります。天人にも色々と階段があつて百八十一段もあり、それで向上する事ばかりを天人は考へて居り、それを楽しみとして居ります。エンゼルは天国ばかりでなく中有界、地獄へまでも下りて、種々救済に努むるものであります。就いては此の大本の宣伝使と云ふものは、人間が拵へるのではなく、皆神様の御意志に依つて任ぜらる』のであつて、霊界に於てはエンゼル即ち媒介天人として、あなた方の霊魂は働いて居るのであります。それですべて宣伝使の行動は、他の人よりも非常に速く霊界に響いて来ますから、余程注意して貰はねばなりませぬ。
 ○
 宣伝使の方が霊国即ち此処へ来られた時は、是非共宣霊舎二参拝して貰はねばならぬ。来られた時と帰られる時、又宣伝に出かける時は宣霊舎に参つて貰ふ。そうすると霊界に於て大活動をして居られる宣伝使が祀つてあるのでありますから、その守護を受けて宣伝がより以上に出来るものであります。又そうする事が在霊界の宣伝使に対する礼儀の一つでもありますから、これも間違はぬやうにして貰はねばなりませぬ。
  ○
 霊界には神の家と云ふものがあつて、現界では分所支部がそれである。
 霊国にある|花鳥山《くわてうざん》、そこに建つて居る神殿はエンゼルの集まる所で、之は大本で云ふと神集館である。神集ひの館で八百万の神々の集合所である。此の上の方に出来るのが神集殿、も一段上が月宮殿で、四十八の石の宝座と共に霊界と少しも違はぬやうに写し築き上げるのであります。
 信真といふのは霊国の自体であつて、そして石に相応するものであります。又愛と善は天国の自体であつて植物に相応するから、それで綾部の方は樹木が非常に良く繁茂して居るのであります。そしてあちらでは家でも皆木で拵へてある。霊国は大抵石になつて居ります。惟神に神様が秘して置かれた石が先繰りに現はれ来りて、本当に名実相伴ふた所の霊国の姿が成りかけて居りますが、之も一つの不思議であります。

 兎に角順序と云ふ事が神界では非常にやかましいので、順序を乱すと総てが乱れて了ふ。神様の方で|御気《おき》に入つて、之は宣伝使にしてもよいと御考へになつて居つても、宣伝使の方から見て自分の気に合はぬとか何とかで、あんな人を宣伝使にしてはならぬと言つたり、又神様の御気に入らぬ者でも、自分の気に入ると宣伝使に推薦するといふやうな事が、今迄時々あつたやうでありますが、総て感情に左右されないで、力のある人と思つたら推薦してよろしい。宣伝使にするか、しないかは神様の方で決められるので、その中から、神様の方から時期が来れば任命して下さるのであるが、半期もしてから下るか、何時になるかそれはわからぬ。それから昇級さしたらよいと云ふ場合には、准宣伝使の方から正宣伝使の方へ内報する、任命は神様がなさるのであるが、宣伝使の方でも常に心がけて居て貰ひたい。霊界が非常に迫つて居りますから、順序の下に沢山宣伝使が出来る程結構であります。
  ○
 相応の理で、第一天国と一番底の悪の強い地獄(第三地獄)と相応し、中間の天国は中間の地獄に、最下層即ち第三天国は一番浅い上層の地獄(第一地獄)に相応して居りますから、第一天国の宣伝使は、最低の地獄へ宣伝に行つて其時一旦智慧証覚が下つても、又忽ち元の通りに向上して来るものです。此の理により、中間天国の宣伝使は上層又は中間地獄より行けない。それは宣伝使の智慧証覚が少ないから、最低地獄へ行つたら帰つて来られんことがあるからである。悪の強い処は余程勝れた人でないと犯されて了ひます。
  ○
 『|霊《たま》の|礎《いしづえ》』に農工商等世間的職業に従事するのは宣伝使の聖職を冒漬するものであると云ふ事が書いてありますが、これは今日の場合は許されます。宣伝使と云ふのは霊界の事であり、肉体のある間は現界的の仕事をする事を許されて居ります。併し|五六七《みろく》の世になればそうではない。宣伝使が他の仕事をする間があるやうでは宣伝使の聖職は勤まらぬ。
  ○
 正宣伝使は第一霊国に、准宣伝使は第二霊国に、試補は第三霊国に相応して居るのであります。大宣伝使も正宣伝使と同様である。つまるところ大のついてゐるのは宣伝使の取締といふやうな意味である。
  ○
 天国には|罵詈《ばり》とか|讒謗《ざんぼう》とか|怨恨《えんこん》とか、そういう情動は一切無いから、宣伝使は一言もそういふ事がないやうにして貰はねばならぬ。信真と愛善と|善言美詞《ぜんげんびじ》ばかりでなければならない。罵詈讒謗された時いやな気持がしたり、腹が立つと云ふ事は悪いといふのでは無いが、腹が立たぬようにならねばならぬ。霊界から見ると罵詈讒謗を云ふ人間は人間の風をして居らぬ。人間と思ふと腹が立つ。向ふを買ひ被つて居るのだ、|獣畜《けもの》のサツクと思ふて暑ればよい。霊界物語にサックと書いてある。

宣伝使としての使命は、霊界に於ては媒介天人の役であり、現界にては大神様の御恵みを世界隈なく宣べ伝へるのが宣伝使の役であることは云ふまでもない事であります。宣伝使は現界に於ては、布教宣伝の外に冠、婚、葬、祭の役も|為《せ》なければなりませぬ。
 媒介天人といふものは|媒介人《なかうど》のやうなものでありまして、宣伝使は出雲の神さんのやうに縁結びもせなければなりませぬ。神の道では、遠近、上下、貧富の区別は無く、|霊魂《たましひ》の合ふた信者と信者とはドシ/\結婚するやうにしてもらひたい。そして成るべく|大切《だいじ》な信者を外道の者の手に渡さぬやうにして貰はねばならぬ。外道の者の手にといふとおかしいが、どうしても此の道を信じない人は神様の方から見ると外道であります。
 霊界に行けば、天国天人が祭典をし、霊国の天人は宣伝をすることになつて居りますが、現界は型の世の中、顕幽一致の世の中でありますから、宣伝使は宣伝はいふに及ばず、葬も祭もせなければならないのであります。冠といふのは、廿一歳になれば昔は冠をかぶり一人前になるといふ意味であります。冠婚葬祭、この四つは宣伝使の最も必要な努めであります。
  ○
 大本の前途はまだ/\是からでありまして、千里の道なら未だ一歩踏み出したばかりであります。漸く弥勒が下生した所で、未だ一、二年にもなりません。否一日にもなるかならぬか位の所でありますから、皆さんの是から先の仕事が肝腎であります。|三歳《みつつ》や|四歳《よつつ》の子供に、二十貫も三十貫もある荷物を持てと云つたところでそれは出来ぬ。私から見ると皆三歳か五歳、|十歳《とう》位の人ばかりでありまして、今では分相応、その人の力相応の御用が言ひつけられて居るのであります。霊界現界と|異《ちが》つて、一ぺんにでも俄に歳をとらうとま丶であるし、一ぺんに二十歳にでも三十歳にでもならうと思へば、心の持ち方一つで変つて来るのでありますから、尤も天界では三十歳より以上の年寄りは無いが──充分に一時も早く大きくなつて、二十一歳の成年式のお祭りの出来るところまで、早く進まれる事を希望いたします。


神の国 1932/02/07 於宣伝使会合講話筆録

 大本の宣伝使は現界のみならず、吾々の肉眼で見えない所の霊界、天国に籍を置いて、宣伝使となつて居るのでありますから、深夜疲れてグツスリ寝てゐる間は、天界を逍遥して居る、肉体では気がつかなくても、色々と活動して居る、又地上もめぐつて居る、天翔り、国翔りして居るのであります。そして日本の既成宗教の如く、只に日本内地のみならず、海外の諸国に迄魂は飛んで行くのであります。それで、もとの本当の魂を清めて置かないと、濁つた魂が他処へ飛んで行くと却つて邪魔になります。
 私も昼はかうして居るが、夜になると、あちらからもこちらからも、色々な声が聞えて来る、するとそこ迄は矢張り、飛んで行くのであります。その時は誰が来たか判らないから、色々と姿を表はす事があります。これは私が行くのではなくして、私の精霊があちらやこちらで活動して居るので、つまりジツトして居つても矢張り、宣伝はやつて居るのであります。本当に神の意志が判つたならば、自分は寝て居つても、宣伝使といふものは神様からその霊を使つて貰つて、あちらやこちらへやられて居る。現界の宜伝使は口で説くだけであるから中々聞かない人が多いけれども、霊界に入つて、即ち既に国替して宣霊社に祀つてある所の宣伝使は、霊身であるから先づ人の霊に懸つて、現界の宣伝使の行くのを待つて居るのであります。思はぬ所がよく拓けたといふやうな場合は、昇天せる宣伝使が先に廻つて居るのである。さうでなかつたならば、今日の頑迷不戻な、我利我慾の人間が聞きさうな事はない。又、光を嫌ひ善を嫌ふ悪魔が、光や善に近づく道理はないのであります。それで大本の宣伝使は現界にも霊界にも共に活動して居るのであります。又、生きながら現幽に亘つて活動して居る宣伝使もあるのであります。


神の国 1934/01玉串

玉串は神様に衣を献るの型である。すべて霊界に於ける事象は現界に於て型をせねばならぬので、玉串を捧げて型さへすれば、霊界では想念の延長で、立派な種々の色の絹と変じて、神様の御衣となるのである。松の梢につけて献るのであるが、其松は又想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。
 斯のやうに現界で型をすれば、霊界では幾何でも延長するのであるが、型がなければどうする事も出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に頒つて「晴れ」をせらるることは嘗て話した通りである。


神聖 1935/07 『神聖運動』とは何か

 霊界とは想念の世界であつて、時間空間を超越した絶対界である。現実世界は総て神霊世界の移写であり、又縮図である。霊界即ち精神世界の真象を写し出したのが現界即ち自然界である。故に現界を称して、ウツシ世と言ふのである。
 例へば、一万三千尺の富士山の姿を小さな写真にうつし出した時、その写真が所謂現界即ちウツシ世であるのである。故に僅か一間四方位の神社の内陣でも神霊界に於ては、殆んど現界人の標度で見たならば十里四方も二十里四方もある広大なものである。又一尺足らずの小さい祭壇でも、八百万の神々や祖先の神霊が狭隘を感じ給はずして鎮まり給ふのは、総て霊界は情動想念の世界であつて、自由自在に想念の延長をなし得るからである。
 我国を日の本と称するのは霊の本の意なのである。霊の字は産霊神、直霊魂の如く和訓ではヒと云ふのである。夫に対して外国のことは之をカラの国と謂ひ、カラとは殻であり、空であり体であるのである。
 此の消息がハツキリと解つたならば、日本と世界の関係も自ら開明となるべきものである。日本の国土と全世界とを比較したならば日本の国は洵に小さい。又その人口も尠い。物質的に又現界的に見るならば、我国は世界の中の小なる一存在に過ぎない。併しこれを神霊界から見る時は全世界に拡大する偉大性を持つて居るのである。殊に満洲事変の勃発と共に我国民が日本精神に覚醒するや、国威の伸張は洵に素晴しいものがある。それは上述の如き意味に於て当然である。


裁判記録

答 何時も仰向けに寝て居ると次から次へ出て来るのですわ、糸を繰るやうに駸々として纏つて出て来る。それを喋るだけです。
 それからね、六十五巻迄はさうして喋つた。
 それから、六十六巻から七十二巻迄は、是は蒙古へ行きまして、蒙古のあたりのことを見て松村や何かと……松村が聴きまして私に話をして呉れて、それ等をあつちやこつちやを何しまして拵へたので、是は本当は六十六巻から七十二巻迄は現代の小説見たいな所がある。
問 ……松村が向ふへ行つて書いたのか。
答 私と二人で拵へた。向ふで拵へた。それをこちらに来て書直した。
 何故かと云ふと向ふで書いたのは取られてしまひましたから、パインタラで取られてしまうた。
問 書いてあることは、現界のことも書いてあるのだな。
答 それは蒙古あたりの神界のことや、現界のことやら色々のことが書いてあります。
 印度のことや、或は満洲のこと、シベリヤのことあたりが書いてあります。シベリヤとは書いてありませぬが……。
問 霊界のことも書いてあるのだな。
答 さうです、それは皆支那人のワンゲンキと云ふ者が通訳で随いて居りまして、支那の小説、蒙古の小説を訳して聴かして呉れた。それが本になつて出来て居る。
 其の通りぢやありませぬ。其の通り写したら剽窃になりますから──。
答 霊界のことに託けて、現界のことを書いたのぢやあるまいな。
問 それはありませぬとも。
 殊更判りにくい霊界のことを現界に託けることはあつても、現界のことを霊界に託けたら、尚判らないやうになつてしまふ。


問 霊界のこともちよつと訊きたいのだがね。此処で説明するかね。
答 ちよつと霊界のことはむづかしいものです。あなたが霊界の素養がありますひは別ですが……
 霊界と云ふことは、丁度謂はば、「ぼた餅が甘いと云ふが、どう云ふ甘さかと言へば、食つて見なければ判らぬ」やうに、言葉で説明が出来ぬ。
問 お前さんの書いた本は大抵読んだぞ。
答 あれは九牛の一毛で、言は意を尽さず……。
問 霊界の神秘な所をコンデンスした所を、ちよつと訊きたいのだがね。
答 世の中には現界霊界の区別が二つあります。
 現界は之を現世と申します。それから霊界は幽世とも言ひます。霊は幽界とも言ひます。霊は霊の世界、又は神界とも言ひます。
 併し現界霊界が……
 霊界の中に神様があります。是は高天原と言ひ、仏法で謂ふ浄土やとか極楽とか云ふ所です。
 それから、地獄と言ふ所もあります。地獄的の所を今迄幽界と言ふて居ります。幽冥界の幽界……。
問 判つて居る。
答 それで、其処には、矢張り此の現界と同じことで、神様は上は天照皇大神を首め、ずつと百八十一段に精[正]神界の階級が出来て居られる。
 百八十一階級の外に又こちらに邪神界がある。幽冥界には邪神界と云ふものがある。是は霊界物語でなくても、総て日本の古事記であらうが、総て昔からの宗教、神道の文献にはあります。

 是が本田先生、副島先生から私に授かつた神伝秘書に依りましても、是も百八十一の階級がある。
 両方で三百六十ニの階級がある。
 之に感応するのが神人感応法であります。
 霊界を見るのには此の儘は見られない。霊が霊界へ入つても見られない。それには、媒介天と云ふ者が居ります。それを人間の精霊と言ひます。坊主の方では精霊と言つて居ります。精霊と言ひます、
 人間と云ふものは精霊の容れ物であつて、人間と言ふものは、所謂人間其のものがあつて、又精霊と云ふものがある。其の精霊を生かして、精霊を通して、霊界を見ると云ふと、神様も見えるし、精霊の耳を通せば自分の耳にも神の声が聞えるし、精霊を通さなかつたら是は見えない。
 霊界の是は法則になつて居ります。
 それで霊界にある如く、現界にも百八十一の実際階級があるさうです。私は知りまへぬけれども霊界も其の通りやと云ふことになる。
 それで、現界では、大本には神と云ふことを──是は本田先生の古事記に依つて分類された神の分け方ですが、之に幽の幽と云ふのがあります、幽の現、現の幽、現の現があります。
 幽の幽と云ふことは幽霊の幽で、幽の幽であるから最も無形、無声の神様である。之を天御中主神様と斯う申上げて居るのであります。其の幽から現が出て来る。
 其の幽界の天御中主尊がずつと表現されだものが幽の現であつて、是は天照大神様である。是が幽の現である、是は神から御出ましになつたから幽の現であつて、是が初めて宇宙の主宰になる。幽の幽ではないのだから、幽の現であるから──
 又現の幽と云ふのは、現界に生れて居つた人が死んでしまふて、霊界に於て神様になつて居る。大国主命やとか、或は西郷隆盛やとか、楠正成が神様に祭られて居る。是等は現界にあつて幽界に行つたから現の幽。
 現の現の神様は、上は天皇より下巡査に至る迄、是は百八十一の階級の神様である。それで日本人は之を御上と言ふ。役人さんを御上と言ふ、是は所謂神の分類です。
 それで、耶蘇教や何かが出て来まして、偶像なんと斯う言ひますが決して偶像ぢやない。日本では矢張り現界に居られる人の幽であるから、日本の国家では神様として祭つて居る。
 併し、銅像やとか何とか云ふものの前に行つては誰も手を合せませぬ、太閤さんに対しても豊国神社の前へ行くと霊が祭つてあるから頭を下げる、行つて拝むやうになります、それで日本人は決して偶像は拝んで居らぬ。偶像と云ふものは銅像とか何とか云ふあんな偶像です。其のことを私は大本で始終説明して居る。是は神様の原理と言ひますか、神様の何と言ふのですか、性質と言ふか、詰り神様と云ふものは斯う云ふ工合に大別があると云ふことを大本では説いて居るのです。


裁判長 それぢや王仁三郎、引続いて訊ねるが、腰を掛けて聴いて居つて宜しい。
 大本の所謂ミロク神政の成就と云ふことは如何なることを──言ふのですか。
答 それは、神様の教が愈々公然と天下に布教出来るやうになることをミロク神政成就と言ふたのです。
 さうして又一方には……。
問 ちよつと……神様の教が何だ。
答 神様の教が公然と許されるやうになつた暁がミロク神政が成就したことになる。
 それで私の詰り……。
問 もう少し敷衍して──ちよつとまだ解り難い。神様の教が──。
答 詰り是は神と云ふものは愛の神様です。
 ミロクと云ふことは浅野正恭なんかは、六、六、六を三つ合せてミロクと言つて居りますけれども、ミロクと云ふことは、印度ではマイトレーヤと云ひ、蒙古ではアイダリプロハラ、支那では弥勒と云ひ、詰りミロクと云ふことは愛、神は愛なり、仁愛と云ふことをミロクと訳した。
 此の神様の教が天下に拡まつて来たら、所謂日本の神様の教が拡まつて来たら、私は日本の神様の教を俟つて、総て宗教界も云々と云ふやうに言つて居りますけれども、本当は日本の総ての天津神、八百万の神様は皆愛の神様です。
 仏法で言ふと、皆総ての神様は観音様と言つて居る所もありますし、弥勒さんと言うて居る如くに、こちらではミロクの神と云ふことを一方では八百万の神を一緒にして大本皇大神と称して居る。それでそれがミロクさんです。
 ミロクさんと云ふのは愛の神さん、特定の神ぢやありませぬ。
 ミロクの世となると人も全部がミロクになると云ふのが、是が愛の世の中です。愛の教が立つて行くのがミロク神政成就で、それで是が公然と……。
問 愛の神様の教が立つて行くことを言ふのか。
答 皆がそれを信ずるやうになつて、始めてミロクの世が完成したのだ。
 世界一般の人が教を信ずるやうになつて来てミロクの世が樹立したことになるのです。
問 現界のことか、霊界のことか。
答 それは精神界のことですとも、教の方ですから──。
問 みろく神政成就と云ふことは精神界のことを言ふのですか。
答 宗教界のことを……。
問 現界のことは関係せずにか。
答 現界のことは何も関係がありませぬ。
 固より、弥勒と云ふ名がある程だから、現界の人ぢやありませぬ。
問 そこで、ちよつと矛盾を来すのだが、準備手続に於ける被告人の答へた時は、斯う云ふことになつて居つたがねー。
 「みろく神政成就と云ふのは、天界に於ては日本の神が世界を統一すること。現界に於ては日本の天皇陛下が世界を統一し給ふことを言ふのだ」と言ふて居るが……。
答 それもさうです。総てのことにミロクが掛かつて居るのだから──。
問 現界のことを言ふのか。
答 現界のことやなしに、総て精神的のことが本です。
問 さうぼかしては困る。
答 日本の天皇陛下の御稜威が各国の人に行亘り、精神的に行亘つたのがミロクの世であり、天の神様が総てを統一されたのがミロク神政成就です──斯う云ふ意味です。
問 現界のことを言ふのか、先づ第一にそれを訊ねます。
答 現界のことは言はない。
問 此の前の準備手続に言うて居るぢやないか。
答 現界で言へば、天皇陛下が統一されることであり、霊界で言へば霊界の神様が──日本の神様が統一されることである。
 それで今支那の戦争でもロシアとやりかけて居ることでも、是は皆世界統一のミロク神政成就の橋掛けなんです。初まりなんです。
 私はさう信じて居る。
問 一番……それぢや、一番初めの答は霊界のことを言うのだね。現界で言へば、日本の天皇陛下が世界を統一し給ふことを言ふのだと云ふことは、例だな。
 併し、惟ふに、中心点は仁愛の神──霊界の神の教が行はれることになるのがミロク神政成就と言ふのだな。
 是は言葉を換へて言へば、斯うなると言ふのだね。
答 日本の天皇陛下は仁愛の方です。
 総て今度の戦争も仁愛から起つて居る。
 疲れて頭がごてくしてしまつて、頭が判らなくなつちやつた。腹下りをして居るものですから、さつぱり頭がわやになつてしまうて(と水を飲む)……あのね、矢張り公認教になることもミロク神政成就なんです。


答 それから「撞の大神」と書いてありますのは、是は天照大神の又の御名つきさかき……。
問 判つて居ります。
答 それで天之御中主神を天之御中主神と云はずに、善の神、天津神と云ふたりする、それで撞の神、撞の神様と長く云はずに、唯撞の神様と云へば判かる。
 是は、ちよつと、私言ひましたやうに、地球の先祖と言つても、地面を修理固成した先祖であつて、別に地上に政権を以つてどうとか斯うとか云ふものの意味ぢやないのであります。三千万劫前の世の中のことが書いてあるのです。
問 詰り霊界のことを書いたと云ふのでせう、現界ぢやないと云ふ主張でせう。
答 さうです、此の地球の見えて居る中にも、幽界もあり神界もあり現界もあるのです。
 此の時代は、今の人類学者の説に依りますと、十万年先とかに十万年程前に人間が出来た。此の時分迄は人間も何もありやしまへぬ。神さんばかりの世の中です。別に今日の国民を統治したやうな時ぢやありませぬ。
問 それは「部下の万神」と書いてありますよ。
答 そうです。其の通りです。
 神さん同志の昔の戦ひを書いたものでございます。
 けれども、是は、私が神様のことを書いたのだけれども、神様がほんまのことを書いたか、神話を創造せられたか、それも判りませぬから、私としては信ずるより外に仕方がない。


問 全部霊界のことと聴いて宜いね。
 「綾部に現はれて、」と云ふのを霊界のことを言ふのだと、斯う云ふのだね。
答 さうです、固よりさうです、神様だから……。
問 王仁三郎が提灯だと云ふことも、是も霊界のことの意味だな。
答 さうです。私の口を通したり、手を通して、社会に知らしたのです。
問 さうすると、宜いか王仁三郎、今の問の答としては、大きい問題としては、(一)に書いてあると云ふのは総て霊界のことの現象を書いたのである、「盤古大神即ち瓊々杵尊」と云ふこと、「爾来瓊々杵尊の御系統に坐す現御皇統に於て日本を統治し給ひたる為」と云ふのは、是は否認するのだね。
答 いや、瓊々杵尊様の御系統に於て、統治し給ふて居るのです。
問 それは、盤古大神の続きになつて居るのですよ。
答 「盤古大神は即ち瓊々杵尊」是は否認致します。
問 それから「現御皇統を廃止して、日本の統治者となるべきものなり」是も否認。総て霊界のことだと云ふ訳だな。
 一番初めの「ミロク菩薩」是は違ふ、後は此の通りの主張になると云ふ訳だな。
答 さうです(此の時出口疲労の色見ゆ)。
問 さうすると譬でありますがね、王仁三郎、よく聴いて居なさいよ、昭和八年の皇道大本信条の六条に依りますと、「我等は国祖大国常立尊が、天照大神の神旨を奉戴して、世の立替立直を遂行し、宇内の秩序安寧を確立し給ふ現界神界の大守神に坐ますことを信奉す」と云ふことが書いてある。
 い丶かね、現界の守神……。
答 それは……。
問 ちよつと待つて、昨日見せた七年二月発行の、神霊界の「太古の神の因縁」と題する部分の九頁に依ると、「国常立尊が現界の主権者である」と云ふやうなことが書いてある。
 霊界物語の一篇の十八章の其の中に、「ミロクの神は国常立尊を御召出しになり、神界及び現界の立替を、委任し給ふ」と云ふことが書いてあるね。
答 はい。
問 現界も立直しすると云ふやうに……。
答 それは当り前です。
問 太古の現界の主権者になる。
 それだから、信条にも、「現界神界両方の守神になる」のだと云ふことが書いてあるが、さう云ふ趣旨に依りまして、右に述べた所の決定の大本教義要旨の、(一)は即ち、地上現界のことを論じたものであつて、国常立尊は地上霊界の守神と云ふことに書いてありますが、両方共此処は地上現界の守神、即ち地上の主権を帯びて、国土を統治し給ふたことを説いたのぢやないか。
答 それは……。
問 詰り霊界ぢやなく、現界のことを説いたのぢやないかと云ふ趣旨に……。
答 ちよつと申上げます。
 大国常立尊と書いてありませう。是は日本書紀に依りますと、「大国常立尊は天之御中主尊の又の御名である」と書いてある。
 支那では天帝と申します。支那の、此の間も晋文柄と云ふ日本に来て居た人が言ふてるのに、「支那の天子は国務大臣、日本は所謂天帝様、天之御中主神様が其の儘降られて、生きた天帝様となつて居るので、国務大臣は天帝様の自由になるのである」と、斯う云ふやうなことを云ふてる。
 其の如くに、我々の言ふて居るのも、「大国常立尊様と云へば、天照皇大神の御延長の天皇陛下のことに当ると云ふことであります。
 国常立尊は、又別なんです。大国常立尊です。
問 「大国常立尊と此処に書いてあるのは、国常立尊ぢやない」と、斯う云ふ主張だな。
答 同じことであります、国常立尊は長へに立たせ給ふ神と云ふことでありますから、何時迄たつても──亦神様の名は、御神霊の働きに依つて、神名が付くのです。
 此の世界中をずつと治められたから、天津日嗣天皇様は、何時も、大国常立尊様になられる。何時も、天照──天津日嗣。今日の天皇陛下は事実上の世界の大国常立尊様です。世界の国の天皇になられると云ふ、それが即ち大国常立の神様であります。
 其の所を現界と云ふたのです。国常立尊は霊界です。
問 それはね、大国常立尊と国常立尊位は判つて居りますが、茲で、大国常立尊と書いてあるのは、是は国常立尊と違ふと云ふ主張になるのですかと、訊いて居るのです。
答 違はぬのでありますけれども、意味は違ふのです。
問 違はぬか。
答 名は同じですけれども、国常立尊の意味は日本の陛下のことになります。
問 日本の……。
答 世界中を治められた時の名です。世界中を統一された時の名です。
問 さう訊いて置きませう。
 併し、此の点に関して、十三回の一問答の所に依ると、「国祖大国主命と云ふのは、全然国祖国常立尊のことを指すのだ」と書いてあるが──。
答 それは、私は何もそんなことを言やしまへぬ。
 そんな難しいことを訊ねられまへぬもの……。


問 それから先の、太古の因縁は……今のは判つたが、太古の因縁はどうだ、艮、坤に押し篭められたと云ふ……。
(此の時証拠を示す)
 詰り、「国常立尊は、現界の主権者になるのだ」と書いてある。太古の因縁にさう書いた部分があるから──全体としてはどうか知らぬが──さう云ふ文字があるから、それは国常立尊は霊界でなしに現界を……現界の主権者になるのぢやないか。
答 それは書いてあつても、さうぢやございませぬ。
問 霊界の情勢の分はどうだ。「此の神界現界の立替を委任し給ふた」と書いてあるな。
答 はい、さうです。
問 現界神界と区別してあるね。
答 さうです、教を布いて行けば、神界の八百万の神もそれに従ひ、又、現界の人間の心もすつくり改良されて、さうして総てのことを替へて来るのが、立替です。
 現界と云ふのは人間です。
 神界には粟三石の神が、延喜式にはあるとあります。
問 さう云ふ意味か。
答 はい。
問 是は極力主張することだが、供述の説明として、二十五回の一問答によると、「是は矢張り現界のことを説いて居るのだ」と云ふやうなことを──説いて居るのだと云ふ趣旨のこともあるやうだね。予審に依ると──。
答 何と云ふて居りますか、覚えて居りまへぬが……。
問 さう云ふやうに書いて居るやうだが。
答 併し自分等は宗教家であつて、宗教を本とし、宗教を土台として居るのですから、申すことは総て政治家の云ふのとは違ふ。
 政治家の言ふやうに、現界のことを言ふのぢやありませぬ。現界と云ふても、現界の人の精神界のことを言ふのだから──。
問 判つて居るよ、それから次に、「盤古大神即ち瓊々杵尊」と云ふことは、さうぢやないと云ふことに対して、ちよつと訊ねたいのだが。
答 はい。
問 国常立尊、豊雲野尊の隠退再現に関する、大本の根本理論と云ふものは、宜いかい……神界霊界のことに仮託して、地上現界に於けることを説いたものであつて、盤古大神と云ふことは、盤古大神の名前を雑りて、瓊々杵尊を説いたのではありますまいか。
答 そんなことはありませぬ。
問 仮託して言ふて──瓊々杵尊の名前を言ふたのぢやありませぬか。
答 それはありませぬ、それから瓊々杵尊さんのことを書いてありませぬ。唯神代史の評論として、一所申しただけです。
 それより外に何もありませぬ。


答 それで私は、最前申しましたやうに、別に現界に於て政治をすると云ふのぢやありませぬから、教祖が統治すると云つた処で、是は現界霊界のことです。
 現界に於ける霊界のことを説いたのです。


問 それから、今度大本では、移写関係と云ふことを主張して居りますか。
答 へい。
問 言ふて居りましたね。
 移写関係と云ふ事は──是はどうですか。
答 写ることです。
問 写ることとは──。
答 それは大本が言うたのぢやない、他の……。
問 他所の人はどうでも宜いが、大本で言ふやうになつたこと、王仁三郎は斯う云ふことであると云うて、説いて居つた点を聴きたいのだ。
答 私は、移写関係と云ふことは、余り説いて居りまへぬ。
 「世界の事は大本に写るから、大本に喧嘩があると、世界に戦争がある。大本を見て居つたら、世界を見ないで居ても判る。大本で悪いことをしたら、世界に悪いことが起つて来る。大本が間違うたことをやれば、世界に間違うたことが出来る。直のやり方と王仁のやり方を見て居れば、世の中が出来上つたことが判る」と云ふことを、説いたのが、移写関係です。
問 移写関係の霊界に於けることは、現界に於ては、必ず、移写実現すると云ふことは言へるのか。
答 それもあります。
 霊界の悪いことは、私に写つて来る。
 そして、現界に戦争も起れば……霊界に戦争があれば、現界に戦争がある。
 私は、五年も六年も前に、それを見て居る。霊界の戦さがあつたことを見て居る。
 だから、現界に戦さがあると云ふことを、予言が出来るが、予言を現在はさせませぬ。
問 霊界に於ける現象は、必ず現界に実現すると、合せ鏡の如く写るのだと、現世と云ふのは、それを云ふのだな。
答 さうです。必ず移写します。大抵遅いか早いか……。
問 それは何十年間も移写しないことがあるか、事の軽重に依つては──。
答 それはあります。
問 さうすると、訊ねて置くが、予審終結決定の大本教義要旨の一の所に、「霊界のことだと云うて居りますが、霊界の……盤古大神が霊界のことであつて、国常立尊の後を襲ひ、地上神界を統治せられて居つたと」云ふことは、移写関係から、盤古大神は地上現界に於ては、瓊々杵尊の御統治に当るのぢやありませぬかな。
答 それは違ひます。
 大分昔ですから……時代が違ひます。
 移写関係から盤古大神が、国常立尊に返したのですから、今日、霊界のことが現界へ顕はれて居るのは、今日の世界の状態が、是が顕れて居るのです。移写して居るのです。
問 さうすると、「盤古大神の国常立尊の後を襲はれて、神界を統治なされて居つた」と云ふことの、移写関係は何に当りますか。
答 今迄の世界の情勢は優勝劣敗、弱肉強食……。


問 統治者は──。
答 統治者は廃立したり、色々して居りますけれども、唯天照皇大神の御延長たる、日本の皇室だけが、変つて居られない。御皇室だけが変つて居られない。
 それは変らないのです。是は霊界神界の元締ですから、変りませぬ。
問 ちよつと今、少し判り難かつたがね。
 盤古大神の神界に於ける御統治の移写関係は……。
答 それは今日迄の世界の情況です。今日迄の……。
問 移写関係に於ける統治者は、どなたに当りますか。
答 今日ですか、……国常立尊です。
問 今日でも、何時でも宜いが、早い遅いは宜いが、早い遅いの問題は別にして、兎に角、盤古大神の神界に於ける統治者の問題の移写関係は、現界に於てはどなたの御統治になる訳ですか。
答 どなたの御統治になると云ふことは、是は国常立尊の御統治になるのです。お返へしになつたのですから。大国常立尊の御統治になる。
 さうすると、最前申したやうに、我が皇室の御統治になる、愈々盤古大神が国譲して来ると、我が皇室の世界に、全部がなるのです。
問 国常立尊か。
答 大国常立尊です。
問 盤古大神が御統治を返還せられたと云ふことになれば、大国常立尊も返還したことになりはせぬのか。
答 いや、大国常立尊の返還はありませぬ、大国常立尊は、万世動かない世の始まりですから──
問 現界……。
答 現界も幽界も一緒です、国常立尊は現幽一致です、大国常立尊も現界も幽界も大国常立尊なりと──それは日本の総て皇室が御治めになる。
 所謂盤古大神が返したのですから、返したけれども、二十五年頃に返しただけで、直ぐはに十五年にはなるのぢやありませぬ、色々の経綸があつて、あちらを改正し、こちらを整理しなければならぬ。
問 大国常立尊の御統治に当ると云ふ、其の経過は、後の経過は──。
答 愈々、ミロクの世になつて、我が日本皇室の御治め遊ばす所の、地球上がさうなつて来ると、アジアも欧羅巴も皆我が皇室が御治めになると云ふ。
 けれどもそれは、五年やそこらにはなりませぬ。ぼつ/\です。ぼつ/\さうなつて参ります。


問 第三の教義のことに入りますが、大本に於ては、大本教義の一つとして、素盞嗚尊の神逐再現のことを説いて居ますね。
答 説いて居ります。
問 それは此処に書いてあるが、こちらで読みませうか、
 「伊邪那岐尊の神勅により、天照大御神は高天原、即ち、太陽界の主宰神、素盞嗚尊は大海原、即ち、地球の主宰神と定まり、天津神と国津神との区別、歴然と神定まりたるを以て、日本は勿論、全地球は素盞嗚尊之を統治すべきものなること右神勅に依り明瞭なり。従つて、同尊及び其の御神系に於て日本を統治せられたらむには、天孫瓊々杵尊御降臨の必要なかりしものなり。然るに、素盞嗚尊は諸神の反抗を受け、神逐に逐はれ、次いて同尊の御子孫なる大国主命も、亦、天孫に帰順し、天津神なる瓊々杵尊降臨し給ひ、爾来同尊の御系統なる現御皇統に於て、日本を統治し来り給ひたるも、元来、国津神の御系統の統治すべき日本を、天津神の御系統に於て統治し給ふは、右伊邪那岐尊の神勅に背反するものにして、之が為め現代の如き優勝劣敗、弱肉強食の紛乱状態を呈するに至りたるものなり。因て、至仁至愛の神及び素盞嗚尊は、出口王仁三郎を機関として顕現し、現代の紛乱世界を立替立直して、至仁至愛の世と為すこととなりたるを以て、王仁三郎は、至仁至愛の神及び素盞嗚尊等の霊代として、現御皇統を廃止し、日本の統治者となるべきものなり」等とあるが、是は前ににも、準備の時にも訊いたが今読んだのは判つたでせう。
答 それは皆間違つて居りますわ。其の取り方が違ひます。
 御神勅の通り行はれて居つたならば、皇孫が御降りにならなくとも治つたのですけれども、治まらぬやうになつたのは素盞嗚尊が力がない為めに、八百万の神様が抗して居つた……
 併し、治めにやならぬ処の、国津神がさう云ふ具合だから、天子様が又御降臨にならなければ仕方がない。
問 要するに、今本職が読んだ要旨は、第一番目は伊邪那岐尊の神勅のことを申したので、天津神、国津神の歴然たる区別是は先に申した通り間違ひはないのだらう。
 第二番目に於ては、国津神たる素盞嗚尊並に其の御系統に於て、同じく此の地球を治めたならば、瓊々杵尊の御系統がもう御降りになる必要がなかつたのだと云ふのですが、処が降臨したから神勅に違反して居る。
 世の中は斯う云ふ様に紊れて来たのだ。
 それで、元に帰つて、素盞嗚尊の系統で治めなければならぬのだ。
 其の霊代とは王仁三郎だと云ふことに……。
答 はあ。
問 はあではない。
答 是は素盞嗚尊が治めにやならぬのに、斯う云ふことをしたから、今度は素盞嗚尊が再び霊となつて現はれて、霊代に……現はれて私の身体を霊代として、そして今度は世界の八岐の大蛇を退治して、天孫に忠誠の心を致すと云ふ意味が書いてあるのであります。
問 書いてあるぢやないか……。
答 ……が、其の意味なんです。
 素盞嗚尊が今度現れると云ふことは、八岐の大蛇を退治する御用に出ると云ふことです。
問 世界革正の為めにか。
答 素盞嗚尊と云ふ言葉は、神道の講義に依りますと、素盞嗚尊は推進力、正義の推進力と云ふのを素盞嗚尊と申上げるのだ。
 今日の日本は神須佐之男命は……建速須佐之男命は武器を持つて戦を進めて行くのだ、今日の支那に対するのは、それは素盞嗚尊であつて、今度は、建速須佐之男命で、終ひには日支親善、東洋平和の為に神須佐之男命になる。
 今度、愈々、素盞嗚尊が働いて居ると云ふことになる。
 今の日本の皇軍は素盞嗚尊の……神須佐之男命やと云ふことになるのです。
問 さうか、「天津神、国津神は神勅に依つて、歴然たる区別があること、瓊々杵尊様の統治なされて居る現世が紊れて居る」と云ふことも認める訳だな。
答 さうです。
問 神勅に違反して居ると云ふことはどうなるのだ。
答 其の時に素盞嗚尊は違反したのだ。
問 神勅に違反して居るから、紊れたと云ふことは、どうなるのです。
答 神勅に違反したと云ふことは……素盞嗚尊は神勅に違反した基です。
 それやから、天孫が御降臨になつたのです、それで紊れて来てしまうたのです。
問 神勅に違反すると云ふことを誤解していけませぬよ、「国津神で治めるべき所を天津神で治めたから紊れた」と云ふことが書いてあるが……。
答 書いてあるのが間違つて居ります。
問 予審の調書で決定の通りのことを言うて居るがね。
答 私はそんなことは知りまへぬ。そんな意味ぢやないのです。
問 神勅に違反の点は認めない訳だね。
答 神勅の違反は素盞嗚尊が違反したのです。
問 「現世が紊れて居る」と云ふのは、どう云ふ理由だと云ふのだ。
答 其の理由は神様の為の理由ぢやない。
 唯、国常立尊があれして、蔭から護る神がなくなつたから、すつかり優勝劣敗になつたと云ふのです。
問 それは体主霊従ですか。
 裏から云へば、国常立尊の──体主霊従……。
答 さうです。
 此の世の中が、全部、体主霊従になつてしまつたから紊れたのです。
問 それで其処迄判りました。
 今度はどうすると云ふのだ。
 其の決定に書いてある処を見ると、「素盞嗚尊が現れて立替立直をする」と、斯う云ふのだが。
答 そんな、素盞嗚尊の形のない霊界のものが、実際現れて、現界の政治をすると云ふやうなことに解釈するのが、間違うて居るぢやありませぬか。
問 ありませぬかぢやない。お前に訊かなければならぬのだが。
答 私は違うて居ると思ひます。
 最前申したやうに、素盞嗚尊は霊界……。
問 それを云ふのだつたら素盞嗚尊は霊界……現界だから、瓊々杵尊と素盞嗚尊は現界の……生きた人。
答 けれども今は神界である。
問 それは判つて居る。
 素盞嗚尊はどうすると云ふのだ。
答 移つて来て総ての教をして、蔭から皇軍を守り、日本を護ると云ふのです。
 どうして守るかと云はれても、それは判りまへぬのであります。
問 現在の世の中を、どうする斯うすると云ふのぢやないのか。
答 守つて良い方に進めて行くと云ふのです。
 日本が世界の宗主国になるやうにするのが、素盞嗚尊の仕事なんです。
 今度は改心して、素盞嗚尊が忠義を尽すと云ふことになつて居る。
問 それが王仁三郎に顕現してやるのか。
答 私に直接移つて知らすと云ふのです。
 移つて来た間だけが素盞嗚尊の霊代です。其の他の時は何でもありませぬ。
 素盞嗚尊にばかり体を藉して居るのぢやありませぬ、他の神様にも体を藉して居るのであります。