霊界の構造を取り上げたときに、主に現界から霊界へ移る死に付いては取り上げませんでしたので、天国、地獄を取り上げた霊の礎(たまのいしずえ)をとりあげたものです。
『新月の光』に地獄のことが書かれています。
『新月の光(上巻)』木庭次守著 色着けWeb管理者
○霊界と東京大震災 大正十二年九月十日頃、京都の郵便局に勤めていた上村清彦氏一行七、八人が、亀岡天恩郷の瑞祥閣にて聖師様より教えていただいた。 問 天国地獄というものはハッキリしませんがあるものですか。 答 お前はないと思っとるのか。 問 ないということも、あるということも判りません。 答 東京の震災があったようだが、あれは信じられるか。 問 信ずるも信じないもありません。毎日毎日通信がはいりますし、沢山の怪我した人が京都駅に逃げてきたのを目撃しておりますから。 答 この世はウツシ世であるから、どっかに実物がなければ写ってくるはずがないではないか、天国ばかりであればあんなことはない。地獄が写って来たから、あんなことがあるのじや。地獄も昔とは違って変わっているので、徳川時代は竹で鋸を造って首をひいていた、火あぶりにしたりした惨忍な地獄があったもので、今はそんな地獄は滅多にない。それだから現世のことは霊界から現れて来るのだから、東京の震災を見たら霊界に地獄があることが判るのである。 |
王仁三郎も次のようなことを言っていると思いますが、どこで言っているか原典をあげられませんので、狭依彦の意見として書いておきます。
人間は死んだら現界にはいられないのだから、どこかへ行かなければならない。それが、霊界で細かく分けると、天国とか地獄。 悪いことをしたら地獄に行くとかいうのは、ウソ。悪いこと、善いことの区別は付けられないからだ。戦争など、ある人にとっては善になてっても、戦っている相手には悪になります。 だから、天国、地獄は現界に生きているときの心の持ち様で行くべきところが違うだけではないでしょうか。そして、現界で心の鬼に責められていた人(想念が黒かったとしましょう)は、霊界(黒の世界に行く)に行ってもそれに責められる、それが地獄ではないかと思います。 |
神霊界とは霊界のことだと思えばよいのですが、神霊界の風景は、現界とよく似ています。
神霊界の状態は | 肉体人の住居せる |
世界と万事相似たり | 平野 山岳 丘陵や |
岩石渓谷水に火に | 草木の片葉に至るまで |
外形上より見る時は | 何らの変はりしところなし |
現界は起源を一切霊界にとっているからです。
ただし、霊界の事象は天人、精霊の目にだけ入って、現界の肉体人には見えません。また、現界の事象は現界の肉体人だけがこれを見ることができます。
だだし、鎮魂帰神によって、霊界の天人、精霊は現界と交通することができます。基本的には、霊界と現界を直接行き来はできなということです。
鎮魂帰神の妙法に | |
よりて人間の体を籍(か)り | 憑依せし時やうやくに |
現界の一部を見聞し | 人に対して物語り |
為し遂げらるるものぞかし |
これによって、人は死後も、元の世界に居住していると思うものであるということです。
人は死したる後の身も | |
かつて生まれし故郷や | 離れ来たりし世の中に |
なほも住居するものなりと | 誰人とても思ふべし |
このゆゑ人は死を呼びて | これより後世(あのよ)の霊界の |
相似の国へ往くといふ。 |
現実界を後にして | 精霊界に移る時 |
その状態を死と称す | 死し行くものは一切の |
身魂に属せし悉(ことごと)を | 霊界さして持ちて行く |
物質的の形骸は | 腐朽し去れば残すなり |
死後の生涯に入れるとき | 現実界にありし如 |
同じ形の身体を | 保ちて何らの相違なく |
打ち見るところ塵身(ぢんしん)と | 霊身に何らの区別なし |
されどその実身体は | すでに霊的活動し |
物質的の事物より | 分離し純化し清らけく |
霊的事物の相接し | 相見る状態は現界の |
相触れ相見る如くなり | 精霊界に入りし後も |
凡ての人は現界に | 保ちし時の肉体に |
あるもののごと思ひ詰め | 吾が身のかつて死去したる |
その消息を忘るなり | 精霊界に入りし後も |
人は依然と現界に | ありて感受せる肉的や |
外的感覚保育して | 見ること聞くこと言ふことも |
嗅ぐこと味はひ触るること | 残らず現世の如くなり |
精霊界に身をおくも | 名位寿富の願ひあり |
思索し省み感動し | 愛し意識し学術を |
好みしものは読書もし | 著述を励む身魂あり |
換言すれば死といふは | 此より彼に移るのみ |
その身に保てる一切の | 事物を到る先々へ |
持ち行き活躍すればなり | 故に死するといふことは |
物質的の形体の | 死滅をいふに過ぎずして |
自已本来の生命を | 決して失ふものならず |
再び神の意志に由り | 現世に生まれ来る時は |
以前の記憶の一切は | 忘却さるるものなれど |
こは刑罰の一種にて | 如何ともする術はなし |
一度霊界へ復活し | またもや娑婆に生まるるは |
神霊界より見る時は | すべて不幸の身魂なり |
人は現世に在る間に | 五倫五常の道を踏み |
神を敬ひ世を救ひ | 神の御子たる天職を |
つくしおかねば死して後 | 中有界に踏み迷ひ |
あるひは根底の地獄道 | 種々(いろいろ)雑多の苦しみを |
受くるものぞと覚悟して | 真の神を信仰し |
善を行ひ美を尽くし | 人の人たる本分を |
力かぎりに努めつつ | 永遠無窮の天国へ |
楽しく上り進み行く | 用意を怠ることなかれ |
第16巻 霊の礎(1)には下図のように書かれています。
霊界 | 神道家 | 仏者 | キリスト者 |
神界 | 高天原 | 極楽浄土 | 天国 |
中界 | 天の八衡 | 六道の辻 | 精霊界 |
幽界 | 根の国 底の国 | 八万地獄 | 地獄 |
■天の八衡(中有界)
ゆゑに天の八衡は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位地にして即ち状態である。人の死後ただちに到るべき境域にして所謂中有である。中有に在ることやや久しき後、現界にありしときの行為の正邪により或は高天原に昇り、或は根底の国へ落ち行くものである。 人霊、中有の情態(天の八衝)に居るときは、天界にもあらずまた地獄にもあらず。仏者の所謂六道の辻ま せうづかはぺたは三途の川辺に立ちてゐるものである。 人間における高天原の情態とは、真と善と美の相和合せし時であり、根底の国の情態とは、邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時をいふのである。 人の霊魂中に在るところの真と善と美と和合する時は、その人はただちに天国に昇り、人の霊魂中に在る邪悪虚偽と合致したる時は、その人は忽ち地獄に墜つるものである。かくのごときは天の八衡に在る時において行はるるものである。 |
地獄天国に行くのは、「その人間が世にある時、生きながら、天国や、地獄に所属していたからである」と言われています。
■内分と外分
人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は、天の八衡(中有界)である。 しかるに此の順序を待たずただちに高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは前に述べた通りである。ただちに高天原に上り又は導かるるものは、その人間が現界に在るとき神を知り、神を信じ、善道を履(ふ)み行ひ、その霊魂は神に復活して高天原へ上る準備が早くもできてゐたからである。 また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの、すなはち自已の凶悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、ただちに地獄に墜落し、無限の永苦を受くることになる のである。 |
■出口和明氏の説明
『出口王仁三郎が語る霊界の最高機密』 参考 出口和明氏の語る霊界
『内分』とは、人間の霊魂そのものであって、混ざりっけなしの魂、純粋無垢な赤子の魂と言ってもいい。これに対し『外分』とは、人間に生まれてきた後、一個人として身につけていった知識や習慣、癖、学問など“本心”以外のものをいう。『内分』を“本心”そのものだとすると、『外分』はそれを覆い隠す、“偽りの心=作った心”ということになる。 後天的な『外分』が、先天的に核としてある『内分』を、表面上すべて覆いつくしている=これが、いまの皆さんたちの姿なんですよね。(P.109) “知識、教養、技術、資格、お金、学歴、地位、名誉”など、これらのものは“魂”の本質には関わらない、すべて付け焼き刃的な『外分』です。(P.120) “日本人”(その文化、その言語、その思考)というのは『外分』なんです。これが、付け焼き刃的でない本質的な『外分』なのです。(P.124) 私たちは、“日本人”である前に、“人間”なんです。神から与えられた“人間”としての本能や本性=これを“魂”と言い換えてもいいし、『内分』と呼んでもいい。この原始の姿に還っていくのが中有界であり、そのために、私たちが身につけていった“日本人”という本質的な『外分』も、完璧に剥ぎ落とされていくんですよ。(P.126) |
この、外分がはがされ、第二の内分の状態(魂だけの状態)になるということです。
一、高天原の天国に上るものは、地上にある時その身内に愛と信との天国を開設しおかなければ、死後において身外の天国を摂受することは不可能である。
一、人間として、その身内に天国を有しなかったならば、身外にある天国は決してその人に流れくるものではない。又これを摂受することができぬものである。要するに人は現実界にある間に、みづから心身内に天国を造りおく必要がある。しかして天国をみづから造りかつ開くのは、神を愛し神を信じ無限絶対と合一しておかねばならぬ。人はどうしても、この無限絶対の一断片である以上は、どこまでも無限絶対、無始無終の真神を信愛せなくては、霊肉ともに安静を保つことはできぬものである。 |
そして、現界人の心身内を守り治むる主は瑞の御魂であるので、
一、現界人にして心身内に天国を建てておかねば、死後身外の天国を摂受することは到底不可能である。死後 天国の歓喜を摂受し、かつ現実界の歓喜生活を送らむと思ふものは、瑞の御魂の守りを受けねばならぬ。要するに生命の清水を汲みとり、飢ゑ渇ける心霊をうるおしておかねばならぬのである。瑞の御魂の手を通し、口を通して示されたる言霊がすなはち生命の清水である。霊界物語によって人は心身ともに歓喜に咽び、永遠の生命を保ち、死後の歓楽境を築き得るものである。 |
また、天国は何段階にも分かれているといいます。
一、一霊四魂、すなはち直霊、荒魂、和魂、奇魂、幸魂、以上の四魂には各自直霊といふ一霊が之を主宰してをる。この四魂全く善と愛と信とに善動し活用するを全徳と日(い)ふ。全徳の霊身および塵身は、直ちに天国の最高位地に上り、また三魂の善の活用するを三徳といひ第二の天国に進み、また二魂の善の活用するを二徳といひ第三の天国へ進み、また一魂の善の活用するを一徳または一善といひ、最下級の天国へ到り得るのである。一徳一善の記すべきなきものは、草莽間に漂浪し、または天の八衡に彷徨するものである。
一、これに反して悪の強きもの、不信不愛不徳の徒は、その罪業の軽重に応じてそれぞれの地獄へ堕し、罪相当の苦悶を受くるのである。 |
<この論考の参考文献・原典は除く>
出口和明『出口王仁三郎が語る霊界の最高機密』平成7年7月 KKロングセラーズ
十和田龍(出口和明)『神の活哲学』1986年12月 御茶ノ水書房
第1版 2003年10月
第2版 2005年 9月
第2版(校正) 2015年 1月