(1)この論考の目的
王仁三郎の霊界についての考え方は、王仁三郎の書いた文章から演繹して考えると、とらえどころの無いものとなっています。他の話でもよくありますが、資料によって、全く正反対のことを言っていたりします。
この原因は、当時の天皇制政府との関係で、自分の意見をはっきり述べられなかったことがあります。また、王仁三郎自身が将来への経綸で、はっきりとした事を言わなかったのではないかと思われるふしもあります。
このため、王仁三郎は霊界についても単純明快な考えをもっていたはずですが、王仁三郎の残した文献から演繹するととても複雑になり、本当の考えにたどりつけないかも知れません。しかし、それかと言って、教団の先人や研究者達の説く、王仁三郎の思想も、人によって違っているように思えます。
そこで、この論考では、資料を中心として相違点を明らかにすることで、王仁三郎が本当に言いたかったことを想像する一里塚としたいと思います。
(2)霊界の構造を考えるためのファクター
王仁三郎の霊界モデルを考える上で、いくつかのファクターがあります。
1.霊界・現界モデル
宇宙は現界と霊界からなり、霊界は中有界、神界、幽界、凶党界からなるといもの。
これについては、出口和明氏のモデルでよく捉えられていると思います。
2.現界と霊界の移写関係
現界と霊界は相応している。霊界にあるものは現界にもある。(移写関係)
3.幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕の4段階モデル
ここでも出口和明氏の説明図が分かりやすいと思います。
宇宙の根本神は天御中主神一神のみであり、他の神はエンゼル(天使)です。
この天御中主神が宇宙のすべてのものにどのように影響を与えるかを表すモデル。
1.であげた、霊界・現界モデルとの関係について王仁三郎がはっきり説いているところは見当たりません。このため、霊界・現界モデルとこの4段階モデルの関係については詳細な検討が必要です。
4.霊界と現界は同じところにある
霊界と現界は全く別のところにあるのではなく、象徴的には同じ空間の別の場所にあると考えても良い。霊界と現界は重なっているイメージでもよい。
人間は現界に存在し、生きながら霊界にも存在する。
5.内分と外分
内分とは善愛の想念や情動で霊魂の存在する場所。外分とは肉体、感覚と動作で自然界とのつながり。肉体は現界(外分)にあり、霊魂は霊界(内分)にあって、人間は宇宙の重要な機関です。
肉体と霊魂の関係は王仁三郎は次のように言っています。
○肉体、霊魂双方に記憶、想念がある。
○人間の肉体は、創造された時から遺伝的に相続されている。
霊魂(精霊)は、天使、天人の情交によって人間が性交し相応する肉体が作られそこに宿るもの、動物からの生れ変り、中有界からの生れ変り、大神の顕現がある。
○仏教の説のように、人間は輪廻しているわけではなく、現界で善を積んだ人間は、天国・霊国に永遠に住む。生れ変るのは出直しの不幸な霊魂である。
6.直接内流、間接内流
主神(天御中主神)は直接(直接内流)または、霊界の精霊を通して(間接内流)、すべての人間に影響を与えていると言われています。
これは幽の幽から顕の顕の4段階モデルとの関連を考察しなければなりません。
7.王仁三郎の宇宙論(神示の宇宙)
宇宙は大宇宙と小宇宙からなり、地球を含む小宇宙は大宇宙の中心であると説かれています。各小宇宙は、地動説ではなく一種の天動説で成り立っています。
また、地球以外には、神々は存在するが、人間はいないと言われています。
これから出口王仁三郎の言う霊界を考えるために、上に上げたファクターを中心に考察してゆきます。そのステップ1として、この論考では、人間と霊界の関係を見てみます。この論考で出てくる霊界は上図のモデルですので、頭に入れておいてください。
まず「皇道大本は宇宙意志の表現」を読むところから始めます。
神の国 1932/02/07 於宣伝使会合講話筆録
「皇道大本は宇宙意志の表現」より 副守護神といふのは実際は、悪霊といふ事であります。もとよりの悪霊ではないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつて居るのである。けれどもすべての事を見直し、宣り直す教であるから、副守護神と云つて居るのであるが、実際は副守護神といふのは悪霊の意であります。折角のよい霊が悪くなつたのである。けれども人間の心に悪霊が居ると云うと具合が悪いから、副守が居ると云つただけであります。 『天主一物ヲ創造ス、悉ク力徳二依ル。故二善悪相混ジ、美醜互ニ交ル』 この力徳により善悪相混じ、美醜相交るのであります。同じ神様が拵へても、その時の力によつて異り、同じ夫婦の中から出来た子供でも、男が出来たり、女が出来たり、美人が出来たり、醜女が出来たりするのであります。これは同じ親からでも、この時の力徳のいかんによるので、両親の身体の都合もあり、その時の心理状態の都合もあります。霊の状態が非常に良くなつて居る時と、悪い時等がある。それによつて善悪相混じ美醜互に交るのであります。これは決して神様が拵へたのではなく、神様は霊力体を御与へになつて居るのであつて、自分達のその時の塩梅如何によつて善となり、悪となるのであります。 『上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物二賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之テ萬有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ス、即チ天父ノ命永遠不易』 それから又、地主は三元八力、所謂剛、柔、流の元素と八つのカとを以て物体を造り、これを万有に御与へになつて居る。故にその霊を守るもの、即ち私の本当の精霊を守って居るものは私の身であつて、この身体の守護神は私の精霊であります。 たとへばいま土瓶の中に、茶を入れて置くとする。この場合は土瓶が体であつて、この中の茶は霊に相当する。この体が壊はれたならば霊は出てしまふ。その様に人間の身体に大きな穴をあけて血を出すとすれば、体から霊は去つてしまふ。それだから霊に対しては肉体が守護神である、肉体に対しては霊が守護神であるといふのである。 その体を守るものはそのものの霊であり、その霊を守るものはその体であります。その外に弁天さまとか何とか他に特種の神があつて守護するのではない、即ち他神あつてこれを守るに非ず、これ即ち天父の命──之は天からきまつた法則であつて、永遠に易はる事はない。何程信念が強くても、諸々の神霊や菩薩がその人の霊にうつつて住むといふ事はないのであります。只神から直接内流を受けるか間接内流を受けるかだけのものであつて、決して他の守護神がつくの、守護神が守るのといふ事はないのであります。 |
内容としては次のようになっています。
(1)われわれの心は天帝から一霊四魂として与えられている。物体(肉体)は地主(ちぬし)から与えられている。
(2)本守護神は天帝から与えられた心である。人間は生きるために、色々と心を曇らせ、そこから正守護神、副守護神が生まれてきた。副守護神は人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつているものである。
(3)守護神とは、他から神霊が来て守るのではなく、自分の精霊が主神からの直接内流または間接内流を受けるものだ。
この文章自体は分りやすいのですが、霊界物語などの別の文章での守護神についての文章と少しニュアンスが違っているように思われます。この論考では、この文章を元に、他の文献の文章と対照して、王仁三郎の考える、人間と霊界の関係を探ります。
(1) 霊(たま) (魂/霊/魄)は読みが同じで同じ意味を持つと考えられる
たま 【魂/霊/魄】
たましい。霊魂。万物にやどり、また遊離しやすい存在と意識され、「木魂(こだま)」「言魂(ことだま)」「船魂(ふなだま)」「和魂(にきたま)」「荒御魂(あらみたま)」など多く複合した形で用いられるとともに、「魂祭(たままつ)り」「魂送り」「鎮魂(たましずめ)」「御魂振(みたまふ)り」などの行事や呪術を表す語形をも生じた。
たましい 【魂】
(1)人の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられているもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされる。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある。 →たま(魂)
(2)気力。精神。心。 「―を打ち込む」「―を込めた作品」
(3)他の名詞の下に付けて、そのものに特有の精神の在り方を表す。多く「だましい」と濁る。
「大和(やまと)―」「船乗り―」
(4)霊の宿る大切な品物。 「鏡は女の―だ」
(5)「精進髷(しようじんまげ)」に同じ。
(6)天分。素質。 「筆とる道と碁うつこととぞ、あやしう―のほど見ゆるを/源氏(絵合)」
(7)思慮。才略。 「御舅たちの―深く/大鏡(師輔)」
(2) 霊魂 (みたま)
れいこん 【霊魂】
(1)肉体に宿ってそれを支配し、精神現象の根源となり、肉体が滅びても独立に存在することのできるもの。たましい。霊。
(2)未開宗教、特にアニミズムにおいて、無生物や動植物に宿る目に見えない存在。
(3) 精霊(せいれい)
(1)物質的な身体をもたず人格化された超自然的存在や力。草木等に宿るとされる。
(2)死者の霊魂。肉体を離れた死者の魂。
ここでは霊・霊魂・精霊を王仁三郎がどう使い分けをしているかを考察します。 資料集(別ウィンドウ)
(1) 霊と精霊
霊は万物に普遍してある。動物にも植物にも鉱物にもある。精霊とはその中でも動物の霊-生魂である。人間と他の動物の違いは人間に理性があることである。
「霊なるものは、神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。」
■動物と人間の違い
この理性については、善悪両方への影響があることを押さえておきましょう。
動物は、精霊界よりするところの一般の内流の統制するところとなるものである、けだし彼ら動物の生涯は宇宙本来の順序中に住するものなるがゆゑに、動物はすべて理性を有せないものである。理性なきがゆゑに神的順序に背戻し、またこれを破壊することをなし得ないのである。人間と動物の異なるところは、ここにあるのである。
動物はすべて人間の有する精霊の内流を受けて活動することがある。されども普通の動物は、その霊魂に理性を欠くがゆゑに、初稚姫のごとき地上の天人の内流を受くることは出来得ないものである。 |
(2) 霊魂と精霊 辞書的な定義とほぼ同じ
魂(肉体に宿ってそれを支配し、精神現象の根源となり、肉体が滅びても独立に存在することのできるもの)が人間の体に入っているとき、それを霊魂といいます。魂が人間の体から出たときは精霊といいます。
ただし、霊魂と精霊を厳密に区分しているわけではありません。霊界物語では混用されている場面もあります。
また、善霊も悪霊も精霊と呼ばれます。精霊は通常中有界に籍を置いて、天国または地獄と交通しています。中有界を精霊界といいます。
霊魂と精霊は別のもの。霊魂は肉体の場所もしくは、肉体に最初から備わった霊。例えば、物語49巻「善幻非志」では、一つの肉体に複数の精霊が入るように書かれています。悪霊も精霊だから、精霊と霊魂とは別のものであることになる。
物語49-3-9 1923/01 真善美愛子 善幻非志 すべて宗教のことは何たるを問はず、人間の心の中より考へて、世間における諸々の事物の用によつて、これを修正せざる時は、その事その人の内分に入り込んで、精霊そこに居を定め、霊魂を全く占領し、かくして、ここに在住する幾多の精霊を頤使し、あるひは圧迫し、あるひは放逐するに至るものである。高姫のごときは、実にその好適例である。 (中略) 悪霊にその全肉体と霊魂を占有された者は、容易に神の聖言を受け入るることの出来ないものである。 |
(3)霊魂と肉体
『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰なり』
霊魂と肉体は対立する概念で、霊魂が人間の本体です。しかし、肉体にも記憶、想念があります。(5.の内分と外分参照)
2.の「皇道大本は宇宙意志の表現」でも、天帝から一霊四魂、物体(肉体)は地主(ちぬし)から与えられているとあります。
霊界物語では、大国常立尊は人類をはじめ、動物、植物等を創造されて、人間には日の大神と、月の大神の霊魂を賦与せられて、肉体は国常立尊の主宰として、神の御意志を実行する機関とされました。
物語56巻総説では下記のように書かれています。
物語56-0-21923/03 真善愛美未 総説 人間の霊魂は直接天国より天人の霊子を下して生まれしめ玉うたものもあり、あるひは他の動物より霊化して生まれたものもある。 我々の肉体は神が生成し玉ひし祖先来の肉体にして、幾万年の未来までも之を伝承し得るものである。 |
霊魂と肉体の詳細については、この後詳しくとりあげます。
■人間は霊界と自然界の両方に属する。
内分……心性、智と意に関している。善愛の想念や情動。人の霊的人格をなす。 (霊界)
外分……肉体、感覚と動作(自然界)
人の外部記憶に属するもの、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物をいう。
人間の知識や学問等より来たる悦楽、および快感の総て世間的趣味を帯びるもの。
肉体の感官に属する諸々の快感、および身体、動作、面貌、感覚、言語、動作など。
■内分と外分の順序
内分⇒外分が順序となっています。
真の善にをるものは、順序を乱すことなく、その善は皆内面的想念より流れて外面に出て、それが言説となり行動となるのは、人間はかくのごとき順序のもとに創造せられたものであるからであります。 |
■死と精霊の想念
肉体の死に当たって、その想念(外分)は、死後しばらくの間は残ります。しかし、外分は、おいおい消滅し、内分だけになります。
現実界と霊界には、相似があるので、人は死んだ後も、かつて生まれた故郷や、離れて来た世の中になおも住居するものだと思うようです。よって、死し行くものは「一切の魂に属せしもの」(肉体に所属する外分もふくめて)を霊界に持ってゆきます。
精霊界に入った後も、人は外的感覚を保持して、見る、聞く、言う、嗅ぐ、味わう、触ることが出来ます。精霊界でも、「名位寿富の願ひ」があり、思索し省み感動し、愛し意識し学術を好んだものは読書もし、著述を励む身魂もあります。
物語47-2-11 1923/01 舎身活躍戌
手苦駄女より
人の肉体は、人間の家または容器といつても可いものである。人の肉体にして、すなはち精霊の活動機関にして、自己の本体たる精霊が有するところの諸々の想念と、諸多の情動に相応じて、その自然界における諸官能を全うし得ざるに立ちいたつた時は、肉体上より見て、これを死と呼ぶのである。 人の精霊は、肉体の脱離期すなはち最後の死期に当つて、その瞬間抱持したところの、最後の想念をば、死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るに従つて、精霊は、もと世にあつた時、平素抱持したる諸々の想念のうちに復帰するものである。さてこれらのもろもろの想念は、かれ精霊が、全般的情動すなはち主とするところの愛の情動より来たるものである。人の心の内分すなはち精霊が、肉体より引かるるがごとく、またほとんど抽出さるるがごときを知覚し、かつ感覚するものである。 |
■肉体を離れた精霊の中有界での3段階
中有界は現界にいる人間が死んではじめてゆく場所、霊界の関門といえる場所です。そこで、審判を受け、天国、地獄行きが決まります。
中界に入った人間は、3つの段階を経て、外分をそぎ落とされ、内分だけの状態になり、神界、幽界、現界に生れ変る(再試験)が決められ、それぞれの界に行きます。
第一段階 | 外分の状態 | 現界の記憶・想念を保持している情態 |
第二段階 | 内分の状態 | 外分を取り去った情態 |
第三段階 | 準備の状態 | 内分により、天国、地獄、中有界に留まることを決められる |
これは出口和明『出口王仁三郎が語る霊界の最高機密』に分かりやすく例をあげて説明されています。
どの方向へ行くかを決められるのを三途の川を渡ると言います。ただし、どこへ行くかは、判官(さばきがみ)によって決められるというよりは、自分が現界でいかなる生き方をしてきたかによるので、自分で決めるとも言えます。
行先 |
三途の川のどこを渡るか |
現界 | 激しき上つ瀬渉るのは/現実界へ生れ行く/霊魂や蘇生する人許り |
地獄 | 弱き下津瀬渉り行く/霊魂は根の国底の国/暗黒無明の世界へと/落ち行く悲しき魂のみぞ |
天国 | 緩けく強く清らけく/且つ温かく美はしき/中津瀬渉り行くものは/至喜と至楽の花開く/天国浄土に登る魂 |
善、悪に極端な人間だけは中有界を経ずに直接神界または幽界に行きます。これを一途川を渡ると言います。
■外分の除却
今日の人間の大部分は中有界と地獄界に属しているが、死んで中有界にゆくと、外分が剥がされ、内分だけになるので天国へもゆくことができる。外分だけが開けている人間は外分が無くなると醜い本体だけになるので、地獄へ行かなければならない。
物語 52-3-17 1923/02 真善美愛卯 飴屋 |
■天国の天人も霊国の天使も人間から進化したもの
『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰なり』の意味を分かりやすく説明されたものでもあると思います。
大神様をのぞく外、天国において生れた天人はない。天人はすべて人間から来ている。
すべて人間が、現実界に生れてきたのは、いはば天人の胞衣のごときものである。さうしてまた天人の養成器となり、苗代となり、また霊子の温鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得るとともに、人間は天人そのものであり、また在天国の天人は、人間が善徳の発達したものである。さうして天人は、愛善と信真によつて永遠の生命を保持し得るものである。ゆゑに人間は、現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をしてますます円満ならしむべく活動せしむるために、大神の目的によつて造りなされたものである。ゆゑに高天原における天国および霊国の天人は、一人として人間より来たらないものはない。 大神様をのぞく外、一個の天人たりとも、天国において生れたものはないのである。 |
「人は神の子、神の宮」という言葉が霊界物語ではよく出てきますが、人が神とどう繋がっているかを表す概念が内流であると思います。
各資料によって説明が微妙に違うので表にしてまとめてみます。
■裁判資料
外流は内流とは別の概念だと考えればよいと思います。
直接内流 | 素盞嗚尊や国常立尊など直接神がかかること。 |
間接内流 | 小松林などの精霊を通じて素盞嗚尊や国常立尊などが教えること。 |
間接外流 | 人に聞いたり、読んだりしたことが潜在意識に入り、それが自然とあらわれること。 |
■霊界物語
直接内流 | 大神から直ちに神格が流入すること。 |
間接内流 | 大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来たり、神界の消息を、人間界に伝達すること。神懸とも言う。 |
■天国間の連絡の内流
天国には3層あり、各天国間の交通はない。そこで、大神様は、上中下三段の天界を一丸となし、一切の事物をして、その元始より終局点に至るまで、ことごとく連絡あらしめ、一物といへども洩らさないために、上天と下天の連絡を通じさせるのに、二種の内流によつてこれを成就する。これが直接内流と間接内流である。
直接内流 | 大神様から直ちに天界全般に御神格の流入するもの |
間接内流 | 各天界と天界との間に、神格の流れ通ずるのをいふ |
■内流と肉体の関係
直接内流 | 必ず前額より始まり、つひに顔面全部に及ぶものである。しかして人の前額は、愛善に相応し、額面は、神格の内分一切に相応するものである。 |
間接内流 霊的天人 |
人間肉体の各方面より感じ来たり、つひにその頭脳の中に流入するものである。すなはち前額および顳額より、大脳の所在全部に至るまでを集合点とする。この局部は、霊国の智慧に相応するがゆゑである。 |
間接内流 天的天人 |
頭中小脳の所在なる後脳といふ局部、すなはち耳より始まつて、頸部全体にまで至るところより流入するものである、すなはちこの局部は、証覚に相応するがゆゑである。 |
■人間への内流と世間への内流
人間には、自然界と霊界と二つのものは具はつてゐるものである。人間はその霊的なることにおいて、和合の媒介者となるけれども、もし然らずして、自然的となればこの事あるを得ないのである。さはいへ、神格の内流は、人間の媒介を経ずとも、絶えず世間に流れ入り、また人間内の世間的事物にも流れ入るものである。ただしその理性的には入らぬものである。 現界すなはち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神の順序によりて相応なるものがある。また人間の万事と、天界の万物との間に動かすべからざる理法があり、又その連結によつて相応なるものがある。そして人間はまた、天人の有するところを総て有するとともに、その有せざるところをもまた有するものである。 人間はその内分より見て、霊界にをるものであるが、それと同時に、外分より見て、人間は自然界にをるのである。人の自然的すなはち外的記憶に属するものを、外分と称し、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物をいふのである。約言すれば、人間の知識や学問等より来たる悦楽、および快感の総て世間的趣味を帯ぶるもの、また肉体の感官に属する諸々の快感、および感覚、言語、動作を合せて、これを人間の外分となすのである。これらの外分は、いづれも大神より来たる神的すなはち霊的内流が止まるところの終極点における事物である。 何故なれば、神的内流なるものは、決して中途に止まるものでなく、必ずやその窮極のところまで進行するからである。この神的順序の窮極するところは、いはゆる万物の霊長、神の生宮、天地経綸の主宰者、天人の養成所たるべき人間なのである。ゆゑに人間は、すべて神様の根底となり、基礎となるべきことを知るべきである。 また神格の内流が通過する中間は、高天原にして、その窮極するところは、すなはち人間に存する。ゆゑに、又この連結中に入らないものは、何物も存在することを得ないのである。ゆゑに、天界と人類と和合し連結するや、両々相倚りて、継続存在するものなることを明らめ得るのである。ゆゑに、天界を離れたる人間は、鍵のなき鎖のごとく、また人類を離れたる天界は、基礎なき家のごとくにして、双方相和合せなくてはならないものである。 大神様をのぞく外、一個の天人たりとも、天国において生れたものはないのである。必ず神格の内流は、終極点たる人間の肉体に来たり、ここに留まつてその霊性を発達せしめ、しかして後、天国へ復活し、ここに初めて天国各団体を構成するに至るものである。ゆゑに、人は天地経綸の司宰者といひ、また天地の花といひ、神の生宮と称ふる所以である。 |
図で考えて見ましょう。
(1)主神(図水色)の神格は人間を媒介として現界へ流れ込むが、神格は偏在しているので人間を通さなくても流れ込む。(赤の点線) (2)人間の外分は大神より来た、霊的内流が止まる終端である。人間の内分を通した内流も外分で止まり、世間に流れ込んだ内流も人間の外分に取り入れられて止まる。 |
(3) 大神の内流の通過点が高天原(天国)である。(間接内流) |
(4) 人間が無くなれば、内流の止まるところがなくなるので、世界は無くなる。(『神の活哲学』) |
一霊四魂の説明では、本田親徳の「道の大原」の文句をよく引用してあります。
また、宇宙のすべてのものに一霊四魂があるとされています。 資料集(別ウィンドウ)
■道の大原
王仁三郎は「道の大原」の文句をよく引用しています。
『天主一霊四魂を以て心を作り、之を活物に賦与す、地主三元八力を以て体を作り、之を万物に与ふ。故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊なり、他神有りて之を守るに非ず。是れ即ち上帝の命、永遠不易。 |
この天主が一霊四魂を作り、地主が体を作ったというところはいろいろな解釈があるようですが、主神が霊も体も作ったと考えてよいでしょう。
(1) 天之御中主の大神が一霊四魂を造り、国祖大国常立尊が体を作った。(第一次事件の前)
主神天之御中主=大国常立尊ですから、霊体の両方を主神が造ったことにはなります。
(2) 天帝大六合治立(おおくにはるたち)尊が、一霊四魂三元八力をもつて万物を造った。両方造った。
みずから直接にこれを保護し給ふことなく、各自にその守り神を定めて、これを管掌せしめた。(霊界物語)
霊界物語では、大国常立尊は大六合治立尊に相当しますから、同じ神と考えてよいでしょう。
■一霊四魂の意味
一霊=神直日、大直日。神直日とは神さま特有の直霊。大直日とは、人間が神格の流入を摂受したる直霊。
直霊とは大神の神格が直接内流されたもの。
四魂=和魂(親)、幸魂(愛)、奇魂(智)、荒魂(勇)
信の真(一霊)は四魂の本体となり、愛の善(四魂)は四魂の用となつている。これは、四魂は直日の働きを表しているということで、本体は直日一つである。
「四魂は、人間はいふに及ばず、高天原にも現実の地球の上にも、守護神として儼存している」と、すべてのものに、地球や宇宙にも一霊四魂の関係があることを示唆されています。
■厳の魂と瑞の魂
荒魂と和魂は厳の魂(経魂) 経とは「たて」と読む。布を織るときの縦糸。
奇魂と幸魂は瑞の魂(緯魂) 緯とは「よこ」と読む。布を織るときの横糸。
四魂が揃って伊都能売の魂
■四魂の活用
(1) 四魂全く善と愛と信とに善動し活用するを全徳と日(い)ふ。全徳の霊身および塵身は、直ちに天国の最高位地に上る。
(2) 三魂の善の活用するを三徳といひ第二の天国に進み、
(3) 二魂の善の活用するを二徳といひ第三の天国へ進み、また
(4) 一魂の善の活用するを一徳または一善といひ、最下級の天国へ到り得るのである。
一徳一善の記すべきなきものは、草莽間に漂浪し、または天の八衡(やちまた)に彷徨するものである。天の八衡は中有界のこと。
■言霊との関係
一霊四魂を代表する声音はアオウエイの五大父音である。
宇宙根本の造化作用は要するに至祖神の一霊四魂の運用の結果であるから、至祖神の御活動につれて必然的にアオウエイの五大父音が先づ全大宇宙間に発生し、そしてその声音は今日といへども依然として虚空に充ち満ちている。
■守護神の辞書的な意味
国家・民族・家・個人・職業・寺院などを守るとされる、特定の神。まもりがみ。しゅごじん。
■王仁三郎の守護神の定義
人間には肉体と霊があり、肉体を守るのは自分の霊(精霊)である。よって肉体に対しては、自分の精霊が守護神である。精霊を守るのは自分の肉体である。自分の精霊に対しては、自分の肉体が守護神である。
1932/02/07 於宣伝使会合講話筆録 皇道大本は宇宙意志の表現 たとへばいま土瓶の中に、茶を入れて置くとする。この場合は土瓶が体であつて、この中の茶は霊に相当する。この体が壊はれたならば霊は出てしまふ。その様に人間の身体に大きな穴をあけて血を出すとすれば、体から霊は去つてしまふ。それだから霊に対しては肉体が守護神である、肉体に対しては霊が守護神であるといふのである。 その体を守るものはそのものの霊であり、その霊を守るものはその体であります。その外に弁天さまとか何とか他に特種の神があつて守護するのではない、即ち他神あつてこれを守るに非ず、これ即ち天父の命──之は天からきまつた法則であつて、永遠に易はる事はない。何程信念が強くても、諸々の神霊や菩薩がその人の霊にうつつて住むといふ事はないのであります。只神から直接内流を受けるか間接内流を受けるかだけのものであつて、決して他の守護神がつくの、守護神が守るのといふ事はないのであります。 |
■本守護神、正守護神、副守護神の各文書での比較
●皇道大本は宇宙意志の表現
正副守護神は大神より与えられた直霊の霊(本守護神)が物質界で生きるために変化したもの。
本守護神 | 直霊の霊。我々の肉体に降りた大神の直接内流である霊。 |
正守護神 | 物質界に生れて、衣食佳の為に色々と心を曇らし、色々と画策をするために直霊の霊が変化した善霊。 |
副守護神 | 物質界に生れて、衣食佳の為に色々と心を曇らし、色々と画策をするために直霊の霊が変化した悪霊。もとよりは悪霊でないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつている。 |
●神霊界 1919/08/01随筆
本守護神 | 杢兵衛の肉体を守って居るものは、杢兵衛に体内に賦与されたる一霊四魂そのものである。是が所謂本守護神と云ふものである。自己天賦の真霊魂。 |
正守護神 | 副守護神 | 他から憑依した霊魂である。 |
●神霊界 1919/10/15 随筆
本守護神 | 天賦的に具存する所の、天帝の分霊。 |
正守護神 | 他より来つて人の肉体を機関として、神界の経綸を助け且つ又本守護神の天職を輔弼する所の、善良なる神霊。公憑-甲の肉体にも乙にも丙にも丁にも臨機応変的に憑依する神霊、私憑-或る種の因縁を有する身魂、一人に限つて憑依する神霊の二大別があります。 |
副守護神 | 国家社会及び人生に妨害を加へる為に、人の身魂の虚に乗じて、本正守護神を押込め自由行動を為す、邪神妖魅の別名。 |
●物語47-2-7 1923/01 舎身活躍戌 酔の八衢
守護神とは肉体の方面から言う。一つの体に、3つの守護神が揃っている。
本守護神 | 天人になるべき精霊 |
正守護神 | 善良なる精霊 |
副守護神 | 悪の精霊 |
●物語47-3-12 1923/01 舎身活躍戌 天界行
人間は、善霊すなはち本守護神、または正守護神によつて、高天原の諸団体と和合し、悪霊すなはち副守護神によつて、地獄の団体と相応の理によりて和合するものである。
これらの精霊は、高天原と地獄界の中間に位する中有界すなはち精霊界に籍を置いてゐる。
この精霊が人間に来たる時には、まづその記憶中に入り、次にその想念中に侵入するものである。しかして副守護神は、記憶および想念中にある悪しき事物の間に潜入し、正守護神はその記憶や想念中にある、最も善き事物の裡に侵入し来たるものである。
人間の記憶、想念は外分です。外分は肉体が司ります。また、内分的な想念もあります。
肉体が滅び(死)た後、人間の霊は、記憶・想念を保って中有界に行きますが、中有界で外分的な想念は消えて、内分だけになります。
本守護神 | 天国の団体に交通してゐる精霊の、もつとも清きもの。真霊とも言う。 |
正守護神 | 天国の団体に交通してゐる精霊でやや劣つたもの。 |
副守護神 | 地獄と交通する精霊。悪霊とも言う。 |
●物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇
本守護神 天人。大神の直接内流ではない。
正守護神 精霊(精霊界にいる)
「本守護神や正守護神が人間を統御する」とあり、「副守護神が宿を借りに来てをるものと信じてゐるのである」とあるから、高姫の肉体が記憶や思考をするわけです(外分)。
現代の人間は、物慾のために自然にその内分を閉じて、大神のいる高天原と遠く離るるに至つたがため、大神はここに一つの経綸を行い、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつた。 (中略) 高姫の身体に侵入したる精霊、中にも最も兇悪なる彼兇霊は、常に高姫と言語を交換してゐるものの、その実高姫が人間なることを実際に信じてゐないのである。高姫の身体はすなはち自分の肉体と固く信じてゐるのである。ゆゑに高姫が精霊に対していろいろと談判をするといへども、その実精霊の意思では、他に目には見えないけれども高姫なる精霊があつて、外部より自分に向かつて談話の交換をしてゐるやうに思つてゐるのである。また精霊の方においては、高姫の肉体は決して何も知つてゐない、知つてゐるのはただ精霊自身の知識によるものと思ひ、従つて高姫が知つてゐるところの一切の事物は、みな自分の所為と信じをるものである。しかしながら高姫があまりに……わしの肉体にお前は巣喰つてゐるのだ……と、精霊に向かつてしばしば告ぐるによつて、彼に憑依せる精霊すなはち兇霊は、うすうすながら自分以外に高姫といふ一種異様の動物の肉体に這入つてゐるのではあるまいか……ぐらゐに感じだしたのである。 |
●物語48-1-1 1923/01 舎身活躍亥 聖言
精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかしてたいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。
本守護神 | 正守護神が、副守護神に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はる。 |
正守護神 | 精霊の善なるもの。神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもの。 |
副守護神 | 精霊の悪なるもの。自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られる。 |
●物語52-1-1 1923/02 真善愛美卯 真と偽
人間の内底に潜在せる霊魂を、守護神という。
本守護神 | 神の神格の内流を直接に受けたる精霊 |
正守護神 | 一方は内底神の善に向かひ、真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊 |
副守護神 | 内底神に反き、ただ物質的躯殻すなはち肉体に関する慾望のみに向かつて蠢動する精霊 |
■霊魂と守護神の3つのモデル
いろいろなモデルが考えられます。狭依彦がとりたいのは(1)のモデルですが、下記により、王仁三郎の考えは(2)のモデルではないでしょうか。(3)の外部から憑依するというのは、守護神の定義から考えるとあり得ないですが、9.帰神・神懸・神憑でも検討します。
物語47-3-20 間接内流では、「地獄へ直接落下すべき悪霊は、この霊薬の力によつて、肉体より逸早く逃走するがゆゑに、後には善霊すなはち正守護神のみが残り、安々と脱離の境を渡り得るのです。」と、一つの肉体に2つの霊が入っているように書かれています。また、物語50-2-8 常世闇では、本守護神、正守護神が付き添って守護している点。
(1) 1つの肉体に霊魂は1つしかないとする。
最初に与えられた霊魂=本守護神は1つで、その1部分が天国に感応して善霊(正守護神)になり、一部が地獄に感応して悪霊(副守護神)になる。
天国・地獄に感応する場合、1つではなく複数が可能。
霊魂 = 本守護神、正守護神A(X天国に感応)、正守護神B(Y天国に感応)、副守護神K(X地獄に感応)、副守護神M(Z地獄に感応)
肉体が死んだとき、霊魂が1つなら肉体離脱する精霊は1つだから、霊魂は本守護神、正守護神、副守護神の複数の属性を持つことになる。
これらの属性のうち一番強い属性で、精霊の行き先、天国、地獄、中有界で彷徨、が決まる。
(2) 一つの肉体に複数の霊魂が住めるとする。霊魂が分離して感応するとする。
(1)と同様に最初に与えられた霊魂は1つで=本守護神であるが、それが分離して、元の本守護神、善霊(正守護神)、悪霊(副守護神)になる。ある分離した部分は天国Aと感応し正守護神Aとなり、ある部分は地獄Xと感応して副守護神Yとなる。
(3) 一つの肉体に複数の霊魂が住めるとする。外部から精霊がやって来る。
最初に与えられた霊魂は本守護神。外部から(正守護神A、正守護神B)、悪霊(副守護神X、副守護神Y)がやって来る。
●神霊界 随筆
帰神 | 自己の真心(本守護神)を発揮して、活用せしむること。他神の憑依したものでない。 |
神懸 | 他神の憑依したもの。甲の肉体にも乙にも丙にも丁にも臨機応変的に憑依する神霊の憑依。公憑とも言う。 |
神憑 | 他神の憑依したもの。或る種の因縁を有する身魂、一人に限つて憑依する神霊。私憑とも言う。 |
※公憑私憑の区別は正守護神について書かれている。
●物語48-1-1 1923/01 舎身活躍亥 聖言
帰神 | 人間の精霊が直接大元神すなはち主の神(大神)に向かつて神格の直接内流を受け、大神と和合する状態。自己の精霊の本源である大神の御神格に帰一和合すること。 予言者としては、霊界真相の伝達者となる。 |
神懸 | 大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来たって、神界の消息を、人間界に伝達すること。神格の間接内流ともいう。 予言者を求めてその精霊を充たし、神界の消息を、ある程度まで人間界に伝達するものである。 |
神憑 | 外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふところの邪霊-悪霊または副守護神がついた情態。 偽予言者。 |
物語48巻「聖言」では副守護神も説明されており、「副守護神は精霊の悪なるもの。自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られる」となっています。
神憑が「外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふところの邪霊-悪霊または副守護神がついた情態」とあります。
副守護神の説明では、外部の影響で内部のものが変化すると考えられ、神憑の説明では、外部の精霊がつくとありますから、外部の精霊がつく場合もあると考えるべきではないかと思います。
この意味を詳しく述べたのが物語49巻「地上天国」です。下記に一部引用しますが全文は、資料集の中にあります。
霊界・現界・神界についての資料(215KB 別ウインドウ)
物語49-1-11923/01 真善愛美子 地上天国 しかして、高天原の真の密意を究むるならば、最奥第一の天国もまた中間天国、下層天国も、霊国も、すべて地上に実在することは勿論である。ただ形体を脱出したる人の本体すなはち精霊の住居する世界を霊界といひ、物質的形体を有する人間の住むところを現界といふに過ぎない。ゆゑに人間は、一方に高天原を蔵するとともに、一方に地獄を包有してゐるのである。しかして霊界、現界すなはち自然界の間に介在して、その精霊は善にもあらず、悪にもあらず、いはゆる中有界に居を定めてゐるものである。 すべての人間は、高天原に向上して、霊的または天的天人とならむがために、神の造りたまひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、すなはち人間であつて、また天人なるべきものである。 要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、その内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳にあるかぎり、人間はいはゆる高天原の小天国である。そうして人間は、天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。その外分とは、世間的影像である。人は神の善徳に住するかぎり、世間すなはち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいますごとくに、その人間の内分に臨ませたまふ。ゆゑに大神は、人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在したまふのである。 (中略) 要するに忌憚なくいへば、高天原とは、大神や天人どもの住所なる霊界を指し、霊国とは、神の教を伝ふる宣伝使の集まるところをいひ、またその教を聞くところを、天国または霊国といふのである。 しかして、天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は、神の教を伝ふるをもつて神聖なる業務となすのである。 ゆゑに最勝最貴の智慧証覚によつて、神教を伝ふるところを、第一霊国といひ、また最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を、最高天国といふのである。ゆゑに現幽一致と称へるのである。 人間の胸中に、高天原を有する時は、その天界は、人間が行為の至大なるもの、すなはち全般的なるものに現はれるのみならず、その小なるもの、すなはち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。ゆゑに『道の大原』にも、大精神の体たるや、至大無外至小無内とある所以である。 そもそも人間の人間たる所以は、自己に具有する愛そのものにある。自然の主とするところの愛は、すなはちその人格なりといふことに基因するものである。何故なれば、各人主とするところの愛は、その想念および行為の最も微細なるところにも流れ入つて、これを按配し、至るところにおいて、自分と相似せるものを誘出するからである。しかして諸々の天界においては、大神に対する愛をもつて第一の愛とするのである。高天原にては、いかなる者も大神のごとく愛せらるるものなきゆゑである。ゆゑに高天原にては、大神をもつて一切中の一切として、これを愛しこれを尊敬するのである。 大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入りたまひて、これを按配しこれを導いて、大神自身の影像を、その上に止めさせ玉ふをもつて、大神の行きますところには、ことごとく高天原が築かれるのである。ゆゑに天人は、きはめて小さき形式における一個の天界であつて、その団体は、これよりも大なる形式を有する天界である。しかして諸団体を打つて一丸となせるものは、高天原の最大形式をなすものである。 |
人間の精霊は天国と地獄の両方に向かっています。
物語58-4-22 1923/03 真善美愛酉 獣婚 人間は凡て精霊の宿泊所のやうなものだ。そして精霊は一方は愛善の徳を受けて天国に向かひ、一方は悪と虚偽との愛のために地獄に向かつてゐる。善悪混淆の中間状態にゐるのが所謂人間だ。それだから八衢人足と神様がおつしやるのも、決して誣言ではないよ。どうしても人間は、愛の善と信の真に依つてあらゆる徳を積み、天国天人の班に加はらなねばならないのだ。 |
上の話を言い換えると、内分が神に向かって開けた人間は生きながら天国に籍を置いている者で、霊を軽んじ体を重んずる人間は地獄に向かって内分が開けている。
「人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ」というところは、人間は生きながら霊界にいると考えても良いと思います。
物語 52-3-17 1923/02 真善美愛卯 飴屋 霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。 また体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ。ゆゑに人間は、どうしても善悪混交美醜たがひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない。しかしこれは、普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間のことである。人間は肉体を基礎とし、また終極点とするがゆゑに、外的方面より見て体主霊従といふのであるが、しかしながら、これを主観的にいへば霊的五分、体的五分、すなはち、霊五体五たるべきものである。もし霊を軽んじ体を重んずるに至らば、ここに、体五霊五となるのである。同じ体五分霊五分といへども、その所主の愛が外的なると、内的なるとによつて、霊五体五となり、また体五霊五となるのである。ゆゑに霊五体五の人間は、天国に向かつて内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向かつてその内分が開けてゐるものである。 一般に体主霊従といへば、霊学の説明上悪となつてゐるが、しかし体主霊従とは、生きながら中有界に迷つてゐる人間の境遇をいふのである。人間は最善を尽し、ただ一つの悪をなさなくてもその心性情動の如何によりて、あるひは善となりあるひは悪となるものである。ゆゑに人間は、どうしても霊五体五より下ることは出来ない。これを下ればたちまち地獄界に堕ちねばならぬのである。なにほど善を尽したと思つてゐても、その愛が神的なると自然的なるとによつて、天国地獄が分るるのであるから、体主霊従的人間が、現世において一つでも悪事をなしたならば、どうしてもこれは体五霊五どころか体六霊四、体七霊三となりて、たちまち地獄道へ落ちねばならぬのである。 |
王仁三郎の文献での詳細な出典は、狭依彦はまだ見つけられていませんが、現界と霊界が同じ場所(空間)にあることを、出口和明『出口王仁三郎が語る霊界の最高機密』では次のように書かれています。
同書では会話体で書かれていますが、文末表現を変えました。
●われわれの肉体は「現界」にいる。ところがわれわれの精霊はいまも「霊界」にいると(王仁三郎は言う)。つまり、「霊界」とは、死んでいくところではなく、生きているいま「ここ」こそが「霊界」だとね。
●人間の精霊が「霊界」にいるなら、なぜ、われわれはその「霊界」のことがわからないかというと、肉体的五感が霊的五感を妨害しているから。 ●「魂は生き通し」なので、その魂は肉体に宿れなくなった以上、どこかへ行かなきゃならない。行く場所が必要なわけだ。それを、楽しいところが「天国」、苦しいところが「地獄」と、(王仁三郎は)こういうふうに言うだけだ。 ●「天国行き」「地獄行き」の基準だが、善い行いをしたら天国へ、悪い行いをしたら地獄へ行くというのが「一般常識」だが、これは、その人または特定団体の単なる「思い込み」にすぎない。 ●「天国行き」「地獄行き」を決める基準は「善悪」ではなく、「今の心の有り様(よう)」である。自分の心の中が「天国」なら死んだらそこへ、「地獄」ならば、死んだらそのまま「地獄」へ行くわけだ。 |
■われわれは生きながら霊界にいる
「われわれは生きながら霊界にいる」というような事が書かれている箇所をいくつかあげてみます。
物語のストーリーでも現界と霊界を行き来する場面は何度も出てきます。
霊界物語第6巻 松葉塵 現界において、吾人が日夜活動するにあたりても、その霊魂は神界または幽界に往来しつつあるものなり。故に吾人は造次にも顛ぱいにも神を信じ神を敬ひ、神界と連絡を保つべく信仰を励まざるべからずなり。 |
次の文章の「たいていの人間」はの「人間」は人間の本体である精霊のことでしょう。
物語48-1-11923/01 舎身活躍亥 聖言 人間は、霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。人間は、霊界より見れば、すなはち精霊であつて、この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。ゆゑに人間は、霊的動物なるとともに、また体的動物である。 精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかしてたいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。 |
現界と霊界との和合機関ということは、同時に現界と霊界とに存在すると思われます。
物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇 人間なるものは霊界と現界との和合機関にしてすこぶる密着の間にをり、ほとんど両者を一つのものと看做し得べきがゆゑである。されど現代の人間は高天原より、物慾のために自然にその内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたがゆゑに、大神はここに一つの経綸を行はせたまひ、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつたのである。 |
人間は、死んだら、自分の心の情態と同じ場所へ行く。違う場所へ行ったら平安に過ごせない。「地獄」へ行くべき魂が、天国へ行けば苦しくて暮らしていけないということにもなる。どこかに、このように書かれていたと思いますが、出典が示せないので、紹介だけしておきます。
この誕生の原因によって肉体に宿る、本守護神、正守護神も意味が違ってくるのでしょうか?
神の国 1929/02 誕生の種々では次のように区分されています。
1 | 降誕 | 大神様が地上に体をもつて現はれたまふ場合をと申上る。 |
2 | 生誕 | 天人が交情を行い、天人の霊子が下つて生るる場合をと云う。 |
3 | 再生 | 中有界より再び人間に生まるるもの即ちお出直し。 |
4 | 転生 | 動物より廻転して人間に或は人間から動物に再生するもの。 |
また、霊界物語15巻跋文では
「一度霊界へ復活し、またもや娑婆に生まるるは、神霊界より見る時は、すべて不幸の身魂なり。」
といっています。
これから見ると、王仁三郎の考えは仏教的な輪廻とは違っています。
■辞書的な意味
輪廻
〔仏〕〔梵 sasāra 流れる意〕生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて生と死とを繰り返すこと。インド思想に広くみられる考えで、仏教の基本的な概念。生死(しようじ)。輪廻転生(りんねてんしよう)。流転(るてん)。
転生
生まれ変わること。また、生活態度や環境を一変させること。てんせい。
■生誕について
霊界物語では人間が造られることを次のように言っています。
高天原の天国に住む天人すなわち人間の昇天せし霊身人は、地上と同様に夫婦の情交を行ひ、つひに霊の子を産んで、これを地上にある肉体人の息に交へて人間を産ましめるものである。 故に人は神の子、神の宮といふのである。地上は凡て天国の移写であるから、天国において天人夫婦が情交を行ひ霊子を地上に蒔き落とす時は、その因縁の深き地上の男女はたちまち霊に感じ情交を為し、胎児を宿すことになる。 つまり、人間は霊界の直接または間接の内流を受け、自然界の自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。 |
輪廻で人間の生誕に4つの種類がありましたが、物語では人間には天足彦、胞場姫の系統と、神の直系との二種類あるのが大きなテーマとなっています。
物語01-0-2 1921/10 霊主体従子 発端 天の大神は、最初に天足彦、胞場姫のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木に体主霊従(ちしき)の果実を実らせ、 『この果実を喰ふべからず』 と厳命し、その性質のいかんを試みたまうた。ふたりは体慾にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒りにふれた。 これより世界は体主霊従の妖気発生し、神人界に邪悪分子の萠芽を見るにいたつたのである。 |
神々の直径の人間 頭髪は黒い
天足彦、胞場姫から生まれた人間 赤色の頭髪
この頭髪の色については、天声社が昭和40年頃に出した版では削除されていたようです。日本人と西洋人の比較のように思われ、差別的表現とみなされたのでしょう。しかし、この部分は、人間の出自を考える場合、肉体的に違いがあるということで重要な指摘です。
物語02-0-2 1921/11 霊主体従丑 総説 また神様が人間姿となつて御活動になつたその始は、国大立命、稚桜姫命が最初であり、稚桜姫命は日月の精を吸引し、国祖の神が気吹によつて生れたまひ、国大立命は月の精より生れ出でたまうた人間姿の神様である。それよりおひおひ神々の水火によりて生れたまひし神系と、また天足彦、胞場姫の人間の祖より生れいでたる人間との、二種に区別があり、神の直接の水火より生れたる直系の人間と、天足彦、胞場姫の系統より生れいでたる人間とは、その性質において大変な相違がある。そして神の直接の水火より生れ出たる人間は、その頭髪黒くして漆の如く、天足彦、胞場姫より生れたるたる人間の子孫は赤色の頭髪を有している。天足彦、胞場姫といへども、元は大神の直系より生れたのであれども、世の初発にあたり、神命に背きたるその体主霊従の罪によつて、人間に差別が自然にできたのである。 されども何れの人種も、今日は九分九厘まで、みな体主霊従、尊体卑心の身魂に堕落してゐるのであつて、今日のところ神界より見たまふときは、甲乙を判別なし難く、つひに人種平等の至当なるを叫ばるるに立いたつたのである。 |
■人間の祖という表現
人間の祖については、次にあげるように、天足彦と胞場姫と関係があるのかが不明な表現もあります。
地球を中心とする小宇宙を固成されたときから、人間はいたようです。
物語01-3-21 1921/10 霊主体従子 大地の修理固成 ここに十二の神々は、おのおの分担を定めて、風を吹き起したまうたが、その風の力によつて松、竹、梅をはじめ、一切の樹草はベタベタに、その根本より吹倒されてしまうた。大国常立尊はこの有様を眺めたまうて、御自身の胸の骨をば一本抜きとり、自ら歯をもつてコナゴナに咬みくだき、四方に撒布したまうた。 すべての軟かき動植物は、その骨の粉末を吸収して、その質非常に堅くなり、倒れてゐた樹草は直立し、海鼠のやうに柔軟人間その他の諸動物も、この時はじめて骨が具はり、敏活に動作することが出来るやうになつた。五穀が実るやうになり、葱のやうに一様に柔かくして、区別さへ殆どつかなかつた一切の植物は、はつきりと、おのおの特有の形体をとるやうになつたのも此の時である。骨の粉末の固まり着いた所には岩石ができ、諸々の鉱物が発生した。これを称して岩の神と申し上げる。 |
顕恩郷には、蟹に似た種族と、猿に似た種族が暮らしていましたが、この2つの種族は、大洪水の時に、箱舟に乗せられて救われました。この種族が二度目の人間の祖となつたとあります。前に述べた、神々の直系の黒髪、天足彦・胞場姫の子孫の赤髪とも違うようです。
物語05-3-22 1922/01 霊主体従辰 神示の方舟 天地は震動して、ここに地上の世界は大洪水となりし時、この郷の神人らは一柱も残らず、この舟に搭乗してヒマラヤ山に難を避け、二度目の人間の祖となつた。ゆゑにある人種はこの郷の神人の血統を受け、その容貌を今に髣髴として存してをる人種がある。 現代の生物学者や人類学者が、人間は猿の進化したものなりと称ふるも無理なき次第である。また蟹面の神人の子孫もいまに世界の各所に残存し、頭部短く面部平たきいはゆる土蜘蛛人種にその血統を留めてゐる。 |
霊界物語では6巻の大洪水までは、人間ではなく神人という表現を使っています。実際、人間という言葉は、上にあげた部分、「神示の宇宙」のような論文調のところと、現在の立場から書いてあるところには出てきますが、ストーリーの中には出てきません。大洪水後は人間という表現を使っています。
これは人間にはいくつかの違う系統があることを示唆されているのでしょうか。
<この論考の参考文献・原典は除く>
出口和明『出口王仁三郎が語る霊界の最高機密』平成7年7月 KKロングセラーズ
十和田龍(出口和明)『神の活哲学』1986年12月 御茶ノ水書房
第1版 2003年10月
第2版 2004年 9月
第3版 2005年 9月
第3版(校正) 2015年 1月