霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

別ウィンドウで表示中

輪廻転生

神の国 1929/02 誕生の種々

大神様が地上に体をもつて現はれたまふ場合を【降誕】と申上る。天人の霊子が下つて生るる場合を【生誕】と云ひ、中有界より再び人間に生まるるもの即ちお出直しを【再生】と云ひ動物より廻転して人間に或は人間から動物に再生するものを【転生】と云ふのである。

神の国 1930/01 動物愛護について

一切のものは輪廻転生の理によつて形を現はして居る。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現はれて居る、故に動物は向上して人間に生れかはらうとの希望をもつて居るものである。愛護されて居る動物、虐使されて居る動物、一見甚だ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、其修行を経ねば向上する事が出来ないやうに出来て居るのであるから、人間が殊更に愛護すると言ふ事になれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生れ来て、修行の仕直しをせねばならぬ事になる。故に形から見れば愛護であつても、其霊性から考へると一種の虐待になる。今日の世の中は動物愛護よりも、神の生宮たる人間で畜生道に堕ちやうとする危険のものが沢山あるから、この方を救うてやることが、より急務である。動物愛護会などは形に囚はれたる偽善である。如何となれば多くの人はそれを食物にしようとして居るから。

神の国 1930/07 輪廻転生

凡そ天地間の生物は、輪廻転生の法則を辿らないものは無い。蚕が蛹となり孵化して蝶となり産卵するのも、ガツト虫が蛹となり、糞虫が孵化して蝿となり、瀬虫が孵化して蜻蛉となり、豌豆が蛹となり羽を生して空中をかけり、麦が蝶と変じ、米は穀象虫と変化し、栗の木から栗虫が沸き、椢のあまはだから甲虫が発生する等は、いづれも輪廻転生の道をたどつて居るのである。
 或老人の話に、田舎寺の高い梁の上に雀が巣を組んで雛をかへしてゐたところ、蛇が其雛を呑まんとして、寺の柱を這ひ上り、巣に近よらんとして、地上に転落し、庭石に頭をぶつつけて脆くも死んで仕舞つた。それを寺男が、竹の先に挟んで裏の竹藪へ捨ておいた。四五日経つて、雀の雛がけたたましく鳴き叫ぶので、寺男が訝り乍ら近よつて調べて見ると、数万の赤蟻が列をなし、柱から屋根裏を伝うて雀の巣に入り、雛の体をとりまいてゐる。蟻の列を辿つて行つて見ると裏の藪の中に、縄を渡した様に赤蟻が続いて居た。その出発点をしらべて見ると、四五日以前に捨てた蛇の死骸が残らず赤蟻に変化してゐたといふ。
 執念深い蛇の魂が凝り固まつて赤蟻と変じ、生前の目的を達せんとしたのである。実に恐ろしいものは魂のはたらきである。
 又其爺さんの話に
 或夕暮、鼬と蟇とが睨み合つて居たが、蟇は三四間もある距離から、鼬の血を残らず吸ひ取つて仕舞つたので鼬はその場に斃れて仕舞つた。さうすると、蟇の奴のそりのそりと鼬の死骸の傍へ這ひ寄つて、足を咥へ雑草の中へ隠して仕舞つた。それから四五日経つと、鼬の死骸が残らず蛆となつて居た。それを執念深い蟇の奴、又もやのそりのそりと夕暮近く這ひよつて、一匹も残らず、その蛆をぱくついて仕舞つたと言ふ。
 斯くの如く生あるものは必ず転生し、且つその魂は恐るべき魔力を持つて居る事が悟られる。况んや人間の霊魂に於ては、一層その力が発揮され、輪廻転生の道を辿つて、或は蛇と変じ牛馬となり、犬猫となり生前の恨みを報いんとする恐ろしきものである。
 犬に噛まれたり、馬に蹴られたり、牛に突かれたりして、命を捨つる者、皆それぞれの恨まるベき原因を持つて居るので、自業自得と言ふべきである。
 神様は愛善の徳に満ち給ふが故に、如何なる悪人と雖も罪し給ふ様なことはないが、人間の怨霊位恐ろしいものは無い。故に人間は人間に対し、仮にも恨まれる様な事はしてならぬ。どこまでも愛と善とを以て地上一切に対すべきである。人間の怨霊が、猛獣毒蛇となり、その人に仇を報いたり、或は牛となつて恨みの人を突き殺したりして、禍を加ふるのであつて、神様が直接に罰を蒙らせらるる様な事は全然ないものである。
 仁慈無限の神様は、総ての人間が、私利私慾の念より相争ひ、相殺し、恨み恨まれ修羅、餓鬼、畜生道に堕行く惨状を憐れみ給うて、至善至愛の惟神の大道を智慧暗き人間に諭してその苦しみを救はんが為に、神柱をこの地上に降し、誠の道を説かせ給ふのであつて、実に有難き大御心である。

神の国 1932/05 進化論

進化論の云ふが如き、人間は決して猿から進化したものではない。初めから神は、人は人、猿は猿として造られたものである。
 動物が進化して人間になるといふこと即ち輪廻転生の理によつて、動物が人間になると云ふのは、霊界に於て進化して、人間の性をもつて生るるのである。『霊界物語』の中には一国の有力者を動物化して示した所もある。

物語01-2-17 1921/10 霊主体従子 神界旅行の4

本来竜女なるものは、海に極寒極熱の一千年を苦行し、山中にまた一千年、河にまた一千年を修業して、はじめて人間界に生れ出づるものである。その竜体より人間に転生した最初の一生涯は、尼になるか、神に仕へるか、いづれにしても男女の交りを絶ち、聖浄な生活を送らねばならないのである。もしこの禁断を犯せば、三千年の苦行も水の沫となつて再び竜体に堕落する。従つて竜女といふものは男子との交りを喜ばず、かつ美人であり、眼鋭く、身体のどこかに鱗の数片の痕跡を止めてゐるものも偶にはある。かかる竜女に対して種々の人間界の情実、義理、人情等によつて、強て竜女を犯し、また犯さしめるならば、それらの人は竜神よりの恨をうけ、その復讐に会はずにはゐられない。通例竜女を犯す場合は、その夫婦の縁は決して安全に永続するものではなく、夫は大抵は夭死し、女は幾度縁をかゆるとも、同じやうな悲劇を繰返し、犯したものは子孫末代まで、竜神の祟りを受けて苦しまねばならぬ。

物語15-99-11922/04 如意宝珠寅 跋文

故に死するといふことは  物質的の形体の死滅をいふに過ぎずして
自已本来の生命を        決して失ふものならず
再び神の意志に由り      現世に生まれ来る時は
以前の記憶の一切は    忘却さるるものなれど
こは刑罰の一種にて    如何ともする術はなし
一度霊界へ復活し     またもや娑婆に生まるるは
霊界より見る時は      すべて不幸の身魂なり
人は現世に在る間に      五倫五常の道を踏み
神を敬ひ世を救ひ        神の御子たる天職を
つくしおかねば死して後  中有界に踏み迷ひ
あるひは根底の地獄道   種々《いろいろ》雑多の苦しみを
受くるものぞと覚悟して  真の神を信仰し
善を行ひ美を尽      人の人たる本分を
力かぎりに努めつつ    永遠無窮の天国へ
楽しく上り進み行く    用意を怠ることなかれ
顕幽一致 生死不二    軽生重死も道ならず
重生軽死また悪し     刹那 刹那に身魂《しんこん》を
研き清めて神界と     現実界の万物の
大経綸の神業に      尽くせよつくせよ惟神
神のまにまに述べておく。

物語18-99-1 1922/04 如意宝珠巳 霊の礎(四)

一、宇宙間においては一物といへども決して失はるることもなく、また一物も静止してゐるものではない。ゆゑに輪廻転生すなわち再生といふことはありうべきものである。しかるに生前の記憶や意志が滅亡した後に、やはり個人といふものが再生して行くとすれば、つまり自分が自分であるといふことを知らずに再生するものならば、再生せないも同じことであると言ふ人がある。実にもつともな言ひ分である。すべて人間の意志や情動なるものは、どこまでも朽ちないものである以上は、霊魂不滅の上からみても記憶や意志をもつて天国へ行くものである。しかし現界へ再生する時は一旦その肉体が弱少となるをもつて、容易に記憶を喚起することは出来ないのである。また記憶してゐても何の益するところなきのみならず、種々の人生上弊害がともなふからである。これに反して、天国へゆく時はその記憶も意念もますます明瞭になつて来るものである。ゆゑに天国にては再生といはず、復活といふのである。

物語20-99-2 1922/05 如意宝珠未 霊の礎(七)

凡ての人は死して後    天国浄土に昇り行く
無限の歓喜に浴すべき   人間特有の資質あり
これ神ごころ大和魂    仏者のいはゆる仏性ぞ
そもそも人は色々と    輪廻転生の門を越え
禽獣虫魚の境涯を     渉りて現世に人間と
生まれ来たりし者もあり  高天原の天人が
男女情交のその結果    霊子となりて地に蒔《ま》かれ
因縁ふかき男子女子    陰と陽との水火の中に
交はり入りて生まるあり  人の霊魂は至精至微
過去と現在未来との    区別も知らず生き通し
幾万劫の昔より      生死の途を往来し
善果を積みて人間と    漸く生まれたる上は
如何でか高天の天国へ   昇り得られぬ事やある
アゝ惟神惟神       神の仁慈ぞ有難き。

神の国 1932/00 生れ変り

竜から生れかはつたのはよい方であるが、獣から生れ変つて来た人達には何の事も出来はしない。

神の国 1932/07直美と操

直美(直日の長女)は開祖様の生れ変りであつて、その御性質をスツクリうけついで厳格である。かつて二代が直日の衣服を着た事がある。さうするとお母さんの着物だから、お母様にかへしてと云うて聞かないのだ。他のものと自分のものとを、ゴツチヤにするやうな事は開祖様の大変お嫌ひなことであつた。開祖様は又煙草がお好きであつたが、直美も子供のくせにそれが好きだ。
 操は一二三の生れ変りであるから、よう似て居る。王仁は何度も生れかはつて来て居る。印度にも生れた事がある。あらゆる境遇を経て来た。

物語06-7-39 1922/01 霊主体従巳 石仏の入水

『どうしたら衣物が乾かうか、これだけ降つては仕様がない、どうしようぞいな、どうしようぞいな、スッテのことで土左衛門』と気楽さうに踊りだす。この男は河童の生れ変りにて、水の中を何んとも思ひをらず。寒きときに温泉に這入りたるごとき心持になる男なり。戊は甲の傍にツカツカと寄り来たり、
『お蔭で泥水を沢山いただきました。何とも御礼の申し様がありませぬ』