霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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内分と外分


物語16-99-2 1922/04 如意宝珠卯 霊の礎(一)

天の八衡(中有界)に在る人霊はすこぶる多数である。八衡は一切のものの初めての会合所であつて、ここにて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衡に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。ただちに高天原へ上るのもあり、ただちに地獄に落ちるのもある。極善極真はただちに高天原に上り、極邪極悪はただちに根底の国へ墜落してしまふのである。あるひは八衡に数日または数週日 数年間居るものである。されど此方に三十年以上居るものは無い。かくのごとく時限において相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。

(中略)

 人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は、天の八衡(中有界)である。しかるに此の順序を待たずただちに高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは前に述べた通りである。ただちに高天原に上り又は導かるるものは、その人間が現界に在るとき神を知り、神を信じ、善道を履(ふ)み行ひ、その霊魂は神に復活して高天原へ上る準備が早くもできてゐたからである。
 また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの、すなはち自已の凶悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、ただちに地獄に墜落し、無限の永苦を受くることになる
のである。


物語16-99-31922/04 如意宝珠卯 霊の礎(二)

界における嬰児の      その状態は現界の
小児に凡て超越す       物質的の形態を
有するものは自身にて     頑鈍なればその始め
受くるところの感覚と     情緒は霊界よりで無く
外界起元を辿りゆく。
      ○
ゆゑに世上の嬰児等は     いかに地上を歩まむか
いかに動作を統制し      言語を発することまでも
学ばにやならぬ不便あり    その感覚に至りても
眼や耳や口のごとき      そを開かむと焦慮して
やうやく目的達成す。
      ○
されど他界の小児等は     これと全く相反し
精霊界に在るゆゑに      動作悉内分より
来れば実習を待たずして    あるひは歩み且つ語る
神霊界の天人の        言語は概して想中の
諸概念にて調停され      その情動より流れ出づ
これ現界と霊界の       人の相違のある点ぞ。


物語42-0-2 1922/11 舎身活躍巳 総説に代へて

○天の八衢(中有界)に居る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。直ちに高天原へ上るのもあり、直ちに地獄に落ちるのもある。極善極真は直ちに高天原に上り、極邪極悪は直ちに根底の国へ墜落してしまふのである。或は八衢に数日または数週日、数年問ゐるものもある。されど此処に三十年以上ゐるものは無い。かくの如く時限において相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。
○人間の死するや、神は直ちにその霊魂の正邪を審判し給ふ。故に悪しき者の地獄界における醜団体に赴くは、その人間の世にある時、その主とするところの愛なるもの忽ち地獄界に所属してゐたからである。また善き人の高天原における善美の団体に赴くのも、その人の世に在りし時のその愛、その善、その真は正に天国の団体に既に加入してゐたからである。
○天界、地獄の区劃は、かくの如く判然たりといへども、肉体の生涯に在りし時において、朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹と成りしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することが出来るものである。
○生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹といへども、一旦この八衢において別れた時は、高天原においても根底の国においても、再び相見る事はできない、また相識ることもない。ただし同一の信仰、同一の愛、同一の性情に居つたものは、天国において幾度も相見相識ることができるのである。
○人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。然るにこの順序を待たずに、直ちに高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは、前に述べた通りである。
 直ちに高天原に上りまたは導かるるものは、その人間が現界に在る時、神を知り、神を信じ、善道を履み行ひ、その霊魂は神に復活して、高天原へ上る準備が早くも出来てゐるからである。また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの、すなはち自己の兇悪を装ひ人を欺くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、直ちに地獄に墜落し、無限の永苦を受くる事になるのである。


物語46-3-17 1922/12 舎身活躍酉 惟神の道

 広大無辺の天然力すなはち神の御威光によらなくては、地上一切の事は何一つ思ひのままに出来るものでない。わが頭に生えた髪の毛一筋だも、あるひは黒くし、あるひは白くし得る力のない人間だ。
 この真理を理解して始めて宇宙の真相が悟り得るのである。これがいはゆる惟神であり、魔我彦が最善と思惟して採つたやり方は即ち人ながらであつて、神の御目より見たまふ時は慢心といふことになるのである。
 要するに真の惟神的精神を理解ともいひ又は改心ともいふ。たとへ人の前にてわが力量を誇り、わが知識を輝かし、わが美を現はすとも、偉大なる神の御目より見たまふ時は実に馬鹿らしく見えるものである。いな却つて暗く汚らはしく、悪臭紛々として清浄無垢の天地を包むものである。故に神は謙譲の徳を以て、第一の道徳律と定め給ふ。人間の謙譲と称するものは、その実表面のみの虚飾であつて、いはゆる偽善の骨頂である。虚礼虚儀の生活を送る者を称して、人間社会にては聖人君子と持てはやされるのだからたまらない。かかる聖人君子の行くべき永住所は、概して天の八衢であることは申すまでもない。
 人間がこの世に生れ来たり、美醜、強弱、貧富、貴賤の区別がつくのも決して人間業でない。いづれもみな惟神の依さしのままに、それ相応の霊徳をもつて地上に蒔きつけられたものである。富める者はどこまでも富み、貧しき者はどこまでも貧しいのは、その霊の内分的関係から来るものであつて、決して外分的関係より作り出だされるものでない。貧しき霊の人間が現界に活動し、巨万の富を積み、金殿玉楼に安臥し、富貴を一世に誇るといへども、依然としてその霊と肉とは貧しき境遇を脱することは出来ない。ちやうど如何に醜婦が絶世の美人の容貌にならむと、紅白粉を施し、美はしき衣服を装ひ、あらむ限りの人力を尽すといへども、醜女は依然として醜女たるの域を脱せざると同一である。鼻の低い者は如何に隆鼻術を施すとも、美顔術を施すとも、たうてい駄目にをはるごとく、貧者は何処までも貧者である。すべて貧富の二者は物質的のみに局限されたものでない。真に富める人は一箪の食、一瓢の飲をもつて、天地の恵みを楽しみ、綽々として余裕を存し、天空海潤たる気分に漂ふ。いかに巨万の財宝を積むとも、神より見て貧しき者は、その心平らかならず豊かならず、常に窮乏を告げて慾の上にも慾を渇き、一時たりとも安心立命することが出来ない。金の番人、守銭奴たるの域に齷齪として迷ふのみである。また天稟の美人は美人としての惟神的特性が備はつてゐるのである。美人として慎むべき徳は、吾以外の醜婦に対し、なるべく美ならざるやう、艶ならざるやう努むるをもつて道徳的の根本律としてゐるのは、惟神の真理を悟らざる世迷言である。美人はますます装ひをつくせば、ますますその美を増し、神または人をして喜悦渇仰の念を沸かさしむるものである。これが即ち美人として生まれ来たりし自然の特性である。これを十二分に発揮するのが惟神の真理である。


物語47-0-2 1923/01 舎身活躍戌 総説

 この霊界物語には、産土山の高原伊祖の神館において、神素盞嗚尊が三五教を開きたまひ、あまたの宣伝使を四方に派遣したまふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界すなはち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍したまうた事実であります。ウラル教やバラモン教、あるひはウラナイ教なぞの物語は、たいてい顕界に関した事実が述べてあるのです。ゆゑに、三五教は、内分的の教を主とし、その他の教は、外分的の教をもつて地上を開いたのであります。ゆゑに、顕幽神三界を超越した物語といふのは、右の理由から出た言葉であります。


物語47-2-8 1923/01 舎身活躍戌 中有

 すべて人間には二箇の門が開かれてある。さうしてその一つは高天原に向かつて開き、一つは根底の国に向かつて開いてゐる。高天原に向かつて開く門口は、愛の善と信の真とを入れむがために開かれ、一つは、あらゆる悪業と虚偽とにをるもののために、地獄の門が開かれてあるのだ。さうして高天原より流れ来たるところの神様の光明は、上方の隙間から、わづかに数条の線光が下つてゐるに過ぎない。人間がよく思惟し、究理し、言説するは、この光明によるものである。善にをり、また従つて真にをるものは、自ら高天原の門戸は開かれてゐるものである。
 人間の理性心に達する道は、内外二つに分れてゐる。最も高き道すなはち内分の道は、愛の善と信の真とが、大神より直接に入りくる道である。さうして、一つは低い道すなはち外部の道である。
 この道は、根底の国より、あらゆる罪悪と虚偽とが忍び入るの道である。この内部、外部の道の中間に位してゐるのが、いはゆる理性心である。以上二つの道は、これに向かうてゐるゆゑに、高天原より大神の光明入り来たるかぎり、人間は理性的なることを得れども、この光明を拒みて入れなかつたならば、その人間は、自分がなにほど理性的なりと思ふとも、その実性においては、すでにすでに滅びてゐるものである。
 人間の理性心といふものは、その成立の最初に当つて、必ず精霊界に相応するものである。ゆゑに、その上にあるところのものは、高天原に相応し、その下にあるものは、心ず根底の国へ相応するものである。高天原へ上り得る準備を成せるものにあつては、その上方の事物がよく開けてゐるけれども、下方の事物は全く閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けないものである。これに反し、根底の国へ陥るべき準備をなせるものにあつては、低き道すなはち下方の事物は開けてゐるが、内部の道すなはち上方の事物、霊的方面は全く閉鎖せるがゆゑに、愛善と信真の内流を受けることが出来ない。これをもつて、前者はただ頭上すなはち高天原を仰ぎ望み得れども、後者はただ脚下すなはち根底の国を望み見るより外に途はないのである。さうして頭上を仰ぎ望むはすなはち大神を拝し霊光に触れ、無限の歓喜に浴し得れども、脚下すなはち下方を望むものは、誠の神に背いてゐる身魂である。


物語47-2-11 1923/01 舎身活躍戌 手苦駄女

 人間の肉体は、いはゆる精霊の容器である。そして、天人の養成所ともなり、あるひは邪鬼、悪鬼どもの巣窟となるものである。かくのごとく、同じ人間にして種々の変化を来たすのは、人間が主とするところの愛の情動如何によつて、あるひは天人となり、あるひは精霊界に迷ひ、あるひは地獄の妖怪的人物となるのである。さうして、人間が現世に住んでゐるうちは、すべての思索は自然的なるがゆゑに、人間の本体たる精霊として、その精霊の団体中に加はることはない。しかしながら、その想念が迥然として肉体を離脱する時は、その間、精霊の中にあるをもつて、あるひは各自所属の団体中に現はるることがある。この時、ある精霊が彼を見る者は、容易にこれを他の諸々の精霊と分別することが出来るのである。何とならば、肉体を持つてゐる精霊は、前に述べた万公の精霊のごとく、思ひに沈みつつ、黙然として前後左右に徘徊し、他を省みざること、あたかも盲目者のごとくに見ゆるからである。もしも精霊が、これとものを言はむとすれば、かの精霊は、忽然として煙のごとく消失するものである。
 人間はいかにして肉体を脱離し、精霊界に入るかといふに、この時の人間は睡眠にもをらず、覚醒にもあらざる一種異様の情態にをるものであつて、この情態にある時は、その人間は、ただ自分は充分に覚醒してをるものとのみ思うてをるものである。しかして、この際における諸々の感覚は醒々として、あたかも肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。五官の感覚も、四肢五体の触覚も、特に精妙となることは、肉体覚醒時の諸感覚や触覚のたうてい及ばざるところである。この情態にあつて、天人および精霊を見る時は、その精気凜々として活躍するを認むべく、また彼らの言語をも明瞭に聞くことを得らるるのである。なほも不可思議とすべきは、彼ら天人および精霊に親しく接触し得ることである。この故は、人間肉体に属するもの、少しもこの間に混入し来たらないからである。この情態を呼んで、霊界にては肉体離脱の時といひ、現界より見ては、これを死と称するのである。このとき人間は、その肉体の中に自分のをることを覚えず、またその肉体の外に出てをることをも覚えないものである。人間はその内分すなはち霊的生涯において精霊なりといふ理由は、その想念および意思に所属せる事物の上から見て、しかいふのである。何とならば、この間の事物は人の内分にして、すなはち霊主体従の法則によつて活動するから、人をして人たらしむる所以である。人はその内分以外に出づることを得ないものであるから、精霊すなはち人間である。人の肉体は、人間の家または容器といつても可いものである。人の肉体にして、すなはち精霊の活動機関にして、自己の本体たる精霊が有するところの諸々の想念と、諸多の情動に相応じて、その自然界における諸官能を全うし得ざるに立ちいたつた時は、肉体上より見て、これを死と呼ぶのである。精霊と呼吸および心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは、呼吸と相通じ、その愛より来たる情動は、心臓と通ずるゆゑである。それだから肺臓、心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とがたちまち分離する時である。
 肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊そのものを繋ぐところの命脈であつて、この二つの官能を破壊する時は、精霊は忽ちおのれに帰り、独立し復活し得るのである。かくて、肉体すなはち精霊の躯殻は、その精霊より分離されたがゆゑに、次第に冷却して、つひに腐敗糜爛するにいたるものである。
 人間の精霊が、呼吸および心臓と内的交通をなす所以は、人間の生死に関する活動については、全般的に、また個々肺臓、心臓の両機関によるところである。しかして人間の精霊すなはち本体は、肉体分離後といへども、なほ少時はその体内に残り、心臓の鼓動全く止むを待つて、全部脱出するのである。しかしてこれは、人間の死因いかんによつて生ずるところの現象である。ある場合には、心臓の鼓動が永く継続し、ある場合は長からざることがある。この鼓動が全く止んだ時は、人間の本体たる精霊は、ただちに霊界に復活し得るのである。しかしながら、これは瑞の御霊の大神のなしたまふところであつて、人間自己のよくするところではない。
 しかして、心臓の鼓動が全く休止するまで、精霊がその肉体より分離せない理由は、心臓なるものは、情動に相応するがゆゑである。すべて情動なるものは、愛に属し、愛は人間生命の本体である。
 人間はこの愛によるがゆゑに、おのおの生命の熱があり、しかして、この和合の継続するうちは、相応の存在あるをもつて、精霊の生命なほ肉体中にあるのである。
 人の精霊は、肉体の脱離期すなはち最後の死期に当つて、その瞬間抱持したところの、最後の想念をば、死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るに従つて、精霊は、もと世にあつた時、平素抱持したる諸々の想念のうちに復帰するものである。さてこれらのもろもろの想念は、かれ精霊が、全般的情動すなはち主とするところの愛の情動より来たるものである。人の心の内分すなはち精霊が、肉体より引かるるがごとく、またほとんど抽出さるるがごときを知覚し、かつ感覚するものである。古人の諺に、最後の一念は死後の生を引く、といつてゐるのは誤謬である。どうしても、平素の愛の情動がこれを左右するものたる以上は、人間は平素よりその身魂を清め、善をいひ、善のために善を行ひ、かつ智慧と証覚とを得ておかなくてはならないものである。


物語47-3-12 1923/01 舎身活躍戌 天界行

また人間に自由のない時は、生命あることを得ない。また善をもつて他人に強ゆることは出来ない、人から強ひられたる善そのものは、決して内分の霊魂に止まるものでない、心の底にどうしても滲み込むことは出来ない。ただし自由自在に摂受したところの善のみは、人間の意思の上に深き根底を下ろして、さながらその善をおのれの物のごとくするやうになるものである。

(中略)

霊的現的一切の        あらゆるものに相対し
自然的なる事物より      推考するに非ざれば
思索すること能はざる     現代人の通弊は
神的すなはち霊的の      人格さへも肉的や
自然的なるものなりと     思惟するゆゑに彼の輩の
結論するところ見る時は    はたして神は一個なす
人格ならば大いさは      全大宇宙と同等に
あるべきものと唱導し     果たして神が天地を
統御按配するとせば      世上における君王の
ごとくに多数の官人を     用ゆるならむと臆測す
げにも愚かのいたりなり    かかる愚昧の人間に
対して高天原の霊界は     現実世界におけるごと
空間的の延長なしと      告げ諭すともすぐさまに
容易に会得せざるべし     何ゆゑなれば自然界
および自然の光明を      唯一の標準と相定め
思惟する者は目の前に     認むるごとき延長を
除いて外はどうしても     考察し得ざる故ぞかし
高天原の延長は        世界における延長と
事情まつたく相反す      自然界なる延長には
一種の限定あるゆゑに     容易に測知し得べけれど
高天原の延長には       元より限定なきゆゑに
人心小智のやすやすと     測知し得べき事ならず
そも人間の眼界は       いかに遠きに達すとも
極めて遠き距離のある     太陽太陰星辰も
容易に認め得べしとは     何人もよく知れるなり
またいま少し心をば      深くひそめて思考せば
わが内分の視覚力       すなはち想念界の視覚力は
なほも遠方に相達し      なほも進んで内辺の
視力のいたる極みには     その眼界はなほさらに
遠大なるべきことを知る    果たしてしからば何者か
神的視力の現界外に      出づるを得るとなさざらむ
神的視力は現実に       一切視力のいと深き
内的にしてかつ高上なるものぞ 想念中にかくのごとき
延長の力あるゆゑに      高天原の一切の
事物は此処に住む者の     すべてに伝はらざるはなし
高天原を成就し        遍満したる主の神の
その神格より来たるもの    凡てはまたもかくのごと
ならずといふこと更になし   あ丶惟神惟神
御霊幸はへましませよ。

(中略)

『ア丶さうです、愛の善といふものは、すべて吸引力の強いもので、また無限の生命を保有してゐるものです。天人であらうと、現界人であらうと、地獄界の人間であらうと、それ相応の愛によつて生命が保たれてゐるのですからなア。そしてその愛なるものは、すべて厳の御霊、瑞の御霊の御神格より内分的に流れ来るものですから、実に無始無終の生命ですよ。ア丶惟神霊幸倍坐世』


物語47-3-18 1923/01 舎身活躍戌 一心同体

竜公『モシ珍彦様、この団体の天人は、いづれも若い方ばかりですな。そしてどのお方の顔を見ても、本当に能く似てゐるぢやありませぬか』
『左様です、人間の面貌は心の鏡でございますから、愛の善に充ちた者同士、同気相求めて群居してゐるのですから、内分の同じき者は、従つて外分も相似るものでございます。それゆゑ、天国の団体には、あまり変はつた者がございませぬ。心が一つですから、ヤハリ面貌も姿も同じ型に出来てをります』

(中略)

『コレ竜公、オホ…なんて、おチヨボロをして女の声を出しちや、みつともよくないぢやないか』
『木の花姫様の御神格の内流によりまして、善と真との相応により、たちまち神格化し、竜公は何も知らねども、内分の神音が外分に顕現したまでですよ。オツホ…』


物語47-3-20 1923/01 舎身活躍戌 間接内流

心臓は、動脈、静脈により、肺臓は、神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発するところ、動作するところ、必ずや右両者の協力を認めずといふことはない。各人の内分、すなはち人の霊的人格をなせる霊界の中にも、、また二国土があつて、一を意思の国といひ、一を智性の国といふ。意思は善に対する情動より、智性は真に対する情動によつて、人身内分の二国土を統治してゐるのである。これらの二国土は、また肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応してゐる。ゆゑに心臓は天国であり、意思の国に相応し、肺臓は霊国であり、智性の国と相応するものである。


物語47-3-21 1923/01 舎身活躍戌 跋文

 そもそも全自然界はこれを総体の上から見ても、分体の上から見ても、ことごとく霊界と相応がある。ゆゑに何事たりとも、自然界にあつてその存在の源泉を霊界に取るものは、これを名づけて、その相応者といふのである。そして自然界の存在し永続する所以は霊界によること、なほ結果が有力因によりて存するがごときを知るべきである。自然界とは、太陽の下にありて、これより熱と光とを受くる一切の事物を謂ふものなるがゆゑに、これに由りて存在を継続するものは、一として自然界に属せないものはない。されど霊界とは天界のことであり、霊界に属するものは、みな天界にあるものである。人間は一小天界にしてまた一小世界である。しかして共にその至大なるものの形式を模して成るがゆゑに、人間の中に自然界もあり霊界もあるのである。その心性に属して、智と意とに関する内分は霊界を作り、その肉体に属して感覚と動作とに関する外分は自然界を作すのである。ゆゑに自然界に在るもの、すなはち彼の肉体およびその感覚と動作とに属するものにして、その存在の源泉を彼が霊界に有する時は、すなはち彼が心性およびその智力と意力とより起り来たる時は、これを名づけて相応者と謂ふのである。三五教の宣伝使にして、以上相応の真理を知悉せざりしものは、ただの一人も無かつたのは、実に主の神の神格を充分に認識し得たためであります。願はくは、この物語に心を潜めて神の大御心のあるところを会得し、かつ相応の真理を覚り、現界においては万民を善道に救ひ、死後は必ず天界に上り、天人の班に相伍して神業に参加せられむことを希望いたします。


物語48-1-1 1923/01 舎身活躍亥 聖言

 現代の人間は百人がほとんど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、いづれも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は、宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼らは霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度をもつて、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。はなはだしきは体主体従的研究に堕してゐるものが多い。いづれも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、いはゆる天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲どものことである。

(中略)

 大本開祖の帰神情態を、口述者は前後二十年間、側にあつて伺ひ奉つたことがある。開祖は何時も、神様が前額より肉体にお這入りになるといはれて、いつも前額部を右手の拇指で撫でてゐられたことがある。前額部は、高天原の最高部に相応する至聖所であつて、大神の御神格の直接内流は、必ず前額より始まり、つひに顔面全部に及ぶものである。しかして人の前額は、愛善に相応し、額面は、神格の内分一切に相応するものである。畏れ多くも口述者が開祖を、審神者として永年問、ここに注目し、つひに大神の聖霊に充たされたまふ地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである。
 それからまた高天原には霊国、天国の二大区別があつて、霊国に住める天人は、これを説明の便宜上、霊的天人といひ、天国に住める天人を、天的天人といふことにして説明を加へようと思ふ。すなはち霊的天人より来たる内流(間接内流)は、人間肉体の各方面より感じ来たり、つひにその頭脳の中に流入するものである。すなはち前額および顳額より、大脳の所在全部に至るまでを集合点とする。
 この局部は、霊国の智慧に相応するがゆゑである。また天的天人よりの内流(間接内流)は、頭中小脳の所在なる後脳といふ局部、すなはち耳より始まつて、頸部全体にまで至るところより流入するものである、すなはちこの局部は、証覚に相応するがゆゑである。
 以上の、天人が人間と言葉を交へる時にあたり、その言ふところはかくのごとくにして、人間の想念中に入り来たるものである。すべて天人と語り合ふ者は、また高天原の光によつて、そこにある事物を見ることを得るものである。そはその人の内分(霊覚)は、この光の中に包まれてゐるからである。しかして天人は、この人の内分を通じて、また地上の事物を見ることを得るのである。すなはち天人は、人間の内分によつて、現実界を見、人間は天界の光に包まれて、天界に在るすべての事物を見ることが出来る。天界の天人は、人間の内分によつて世間の事物と和合し、世間はまた天界と和合するに至るものである。これを現幽一致、霊肉不二、明暗一体といふのである。
 大神が、予言者と物語りたまふ時は、太古すなはち神代の人間におけるがごとく、その内分に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先づ、おのが化相をもつて精霊を充たし、この充たされた精霊を予言者の体に遣はしたまふのである。ゆゑにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、この言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達といふべきものである。
 伝達とは、霊界の消息や大神の意思を、現界人に対して告示する所為をいふのである。

(中略)

 前巻にもいつた通り、天人は、現界人の数百言を費やさねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、わづかに一二言にて、その意味を通達し得るものである。ゆゑに開祖すなはち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直ちにその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それゆゑに、その聖言を細かく説いて、世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来たり、その手を通じ、その口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめむために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。
 ゆゑに開祖の『神諭』を、そのまま真解し得らるる者は、すでに天人の団体に籍をおける精霊であり、また中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明によつて、間接諒解を得なくてはならぬのである。しかして、この詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差しはさみ、研究的態度に出でむとする者は、いはゆる暗愚無智の徒にして、学で知慧のできた途中の鼻高、似而非学者の徒である。かくのごとき人間は、已にすでに地獄界に籍をおいてゐる者なることは、相応の理によつて明らかである。かくのごとき人は、容易に済度し難きものである。何故ならば、その人間の内分は全く閉塞して、上方に向かつて閉ぢ、外分のみ開け、その想念は神を背にし、脚底の地獄にのみ向かつてゐるからである。しかしてその知識はくらみ、霊的聴覚は鈍り、霊的視覚は眩み、いかなる光明も、いかなる音響も、容易にその内分に到達せないからである。されど、神は至仁至愛にましませば、かくのごとき難物をも、いろいろに身を変じたまひて、その地獄的精霊を救はむと、昼夜御心を悩ませたまひつつあるのである。あ丶惟神霊幸倍坐世。


物語48-2-9 1923/01 舎身活躍亥 罪人橋

大本の神諭は、国祖大国常立尊、厳霊と顕現し、稚姫君命、国武彦命等の精霊にその神格を充たし、さうして天人の団体に籍を有する予言者なる出口開祖の肉体に来たし、大神の直々の御教を伝達されたものである以上は、よほど善徳と智慧証覚の全きものでなければ、これを悟ることは出来ない。しかしながら、神は至仁至愛にましますがゆゑに、この神諭の密意を、自然界の外分的人間に容易く悟らしめむがために、瑞霊の神格を精霊に充たし、変性女子の肉体に来たらしめ、その手を通し口を通して、霊界の真相を悟らしめたまはむとの御経綸を遊ばしたのである。


物語48-3-10 1923/01 舎身活躍亥 天国の富

 現界すなはち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神の順序によりて相応なるものがある。また人間の万事と、天界の万物との間に動かすべからざる理法があり、又その連結によつて相応なるものがある。そして人間はまた、天人の有するところを総て有するとともに、その有せざるところをもまた有するものである。人間はその内分より見て、霊界にをるものであるが、それと同時に、外分より見て、人間は自然界にをるのである。人の自然的すなはち外的記憶に属するものを、外分と称し、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物をいふのである。約言すれば、人間の知識や学問等より来たる悦楽、および快感の総て世間的趣味を帯ぶるもの、また肉体の感官に属する諸々の快感、および感覚、言語、動作を合せて、これを人間の外分となすのである。これらの外分は、いづれも大神より来たる神的すなはち霊的内流が止まるところの終極点における事物である。何故なれば、神的内流なるものは、決して中途に止まるものでなく、必ずやその窮極のところまで進行するからである。この神的順序の窮極するところは、いはゆる万物の霊長、神の生宮、天地経綸の主宰者、天人の養成所たるべき人間なのである。ゆゑに人間は、すべて神様の根底となり、基礎となるべきことを知るべきである。また神格の内流が通過する中間は、高天原にして、その窮極するところは、すなはち人間に存する。ゆゑに、又この連結中に入らないものは、何物も存在することを得ないのである。ゆゑに、天界と人類と和合し連結するや、両々相倚りて、継続存在するものなることを明らめ得るのである。ゆゑに、天界を離れたる人間は、鍵のなき鎖のごとく、また人類を離れたる天界は、基礎なき家のごとくにして、双方相和合せなくてはならないものである。
 かくのごとき尊き人間が、その内分を神に背けて、高天原との連絡を断絶し、かへつてこれを自然界と自己とに向けて、自己を愛し、世間を愛し、その外分のみに向ひたるにより、従つて人間は、その身を退けてふたたび高天原の根底となり、基礎となるを得ざらしめたるによつて、大神は是非なく、ここに予言者なる媒介天人を設けて、これを地上に下し、その神人をもつて、天界の根底および基礎となし、またこれによつて天界と人間とを和合せしめ、地上をして、天国同様の国土となさしめたまふべく、甚深なる経綸を行はせたまうたのである。この御経綸が完成した暁を称して、松の代、ミロクの世、または天国の世といふのである。そして厳の御霊、瑞の御霊の経緯の予言者の手を通じ、口を通じて、聖言を伝達し、完全なる天地合体の国土を完成せしめむとしたまうたのである。大本開祖の神諭に「天も地も一つに丸めて、神国の世に致すぞよ。三千世界一どに開く梅の花、須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ.この大本は天地の大橋、世界の人民はこの橋を渡りて来ねば、誠のお蔭はわからぬぞよ」と平易簡明に示されてゐるのである。されど現代の人間は、かへつてかかる平易簡明なる聖言には耳を藉さず、不可解なる難書を漁り、これを半可通的に誤解して、その知識を誇らむとするのは実に浅ましいものである。


物語48-3-12 1923/01 舎身活躍亥 西王母

『エルサレムの宮とは、大神様の御教を伝ふる聖場の意味であります。また高き処の意味であつて、すなはち最高天界の中心をいふのです。石垣と申すのは、すなはち虚偽と罪悪との襲来を防ぐための神真そのものであります。度と申すのは、性相そのものであつて、聖言にいふ、「人とは凡ての真と善徳とを悉く具有するもの」の謂であります。すなはち人間の内分に天界を有するものを、人といひ、天界を有せないものを、人獣といふのです。ここには決して人なる天人はあつても、現界のごとき人獣はをりませぬ。しかし私がいま人獣といつたのは、霊的方面からいつたのです。すべて神の坐します聖場およびその御教を伝ふる聖場を指して、貴の都といひ、あるひはエルサレムの宮といふのです』


物語48-3-14 1923/01 舎身活躍亥 至愛

『すべて霊界は想念の世界でございます。それゆゑ情動の変移によつて、国土相応の証覚に住するのですから、先づそれで順序をお踏みになつたのです。高天原の規則は大変厳格なもので、たがひにその範囲を犯すことは出来ないやうになつてをります。最高天国、中間天国、下層天国および三層の霊国は、厳粛な区別を立てられ、各天界の諸天人は、たがひに往来することさへも出来ないのです。下層天国の天人は、中間天国へ上ることはできず、また上天国の者は、以下の天国に下ることも出来ないのが規則です。もしも下の天国より上の天国に上り行く天人があれば、必ず甚くその心を悩ませ、苦しみ悶え、自分の身辺に在る物さへ見えないやうに、眼が眩むものです。ましてや上天国の天人と言語を交ゆることなどは到底できませぬ。また上天国から下天国へ下り来たる天人は、忽ちその証覚を失ひますから、言語を交へむとすれば、弁舌渋りて重く、その意気は全く沮喪するものです。ゆゑに下層天国の天人が、中間天国に至るとも、また中間天国の天人が、最奥天国に至るとも、決してその身に対して幸福を味はふことは出来ませぬ。わが居住の天国以上の天人は、その光明輝き、その威勢に打たるるがゆゑに、目もくらみ、ただ一人の天人をも見ることができませぬ。つまり内分なるもの、上天国天人のごとく開けないがためであります。ゆゑに目の視覚力も明らかならず、心中に非常な苦痛を覚え、自分の生命の有無さへも覚えないやうな苦しみに遇ふものです。しかしながら貴方がたは、大神様の特別のお許しを受け、媒介天人すなはち霊国の宣伝使に伴はれて、お上りになりましたから、各段および各団体に交通の道が開かれ、そのため巡覧が首尾よく出来たのです。しかして大神様は、上天と下天の連絡を通じたまふに、二種の内流によつてこれを成就したまふのです。しかして二種の内流とは、一は直接内流、一は間接内流であります』


物語49-1-1 1923/01 真善愛美子 地上天国

 すべての人間は、高天原に向上して、霊的または天的天人とならむがために、神の造りたまひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、すなはち人間であつて、また天人なるべきものである。
 要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、その内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳にあるかぎり、人間はいはゆる高天原の小天国である。そうして人間は、天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。その外分とは、世間的影像である。人は神の善徳に住するかぎり、世間すなはち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいますごとくに、その人間の内分に臨ませたまふ。ゆゑに大神は、人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在したまふのである。
 ゆゑに神的順序あるところには、かならず大神の御霊ましまさぬことはない。すべて神は順序にましますからである。この神的順序に逆らふ者は、決して生きながら天人たることを得ないのである。

(中略)

ゆゑに、神界の密意は、霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに これを説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。ただ人間は、己が体内に存する内分によつて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、いかなる書籍をあさるとも、いかなる智者の言を聞くとも、いかに徹底したる微細なる学理によるとも、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことはできないものである。
 太古の黄金時代の人間は、何事もみな内的にして、自然界の諸事物は、その結果によつて現はれしことを悟つてゐた。それゆゑ、すぐさまに大神の内流を受け、よく宇宙の真相をわきまへ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽しみ送つたのである。しかるに今日は、もはや白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世はますます外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと、もつとも遠く、いづれも人の内分は外部に向かひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それゆゑ、足許の暗黒なる地獄はただちに目につくが、空に輝く光明はこれを背に負うてゐるから、たうてい神の教を信ずることは出来ないのである。
 ここに天地の造主なる皇大神は、厳の御霊、瑞の御霊と顕現したまひ、地下のみに眼を注ぎ、少しも頭上の光明を悟り得ざりし、人間の眼を転じて、神の光明に向かはしめむとして、予言者を通じ、救ひの道を宣べ伝へたまうたのである。かくのごとく、地獄に向かつて内分の開けてゐる人間を、高天原に向かはしめたる状態を、天地が覆ると宣らせ玉うたのである。
 要するに忌憚なくいへば、高天原とは、大神や天人どもの住所なる霊界を指し、霊国とは、神の教を伝ふる宣伝使の集まるところをいひ、またその教を聞くところを、天国または霊国といふのである。
 しかして、天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は、神の教を伝ふるをもつて神聖なる業務となすのである。
 ゆゑに最勝最貴の智慧証覚によつて、神教を伝ふるところを、第一霊国といひ、また最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を、最高天国といふのである。ゆゑに現幽一致と称へるのである。
 人間の胸中に、高天原を有する時は、その天界は、人間が行為の至大なるもの、すなはち全般的なるものに現はれるのみならず、その小なるもの、すなはち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。ゆゑに『道の大原』にも、大精神の体たるや、至大無外至小無内とある所以である。
 そもそも人間の人間たる所以は、自己に具有する愛そのものにある。自然の主とするところの愛は、すなはちその人格なりといふことに基因するものである。何故なれば、各人主とするところの愛は、その想念および行為の最も微細なるところにも流れ入つて、これを按配し、至るところにおいて、自分と相似せるものを誘出するからである。しかして諸々の天界においては、大神に対する愛をもつて第一の愛とするのである。高天原にては、いかなる者も大神のごとく愛せらるるものなきゆゑである。ゆゑに高天原にては、大神をもつて一切中の一切として、これを愛しこれを尊敬するのである。
 大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入りたまひて、これを按配しこれを導いて、大神自身の影像を、その上に止めさせ玉ふをもつて、大神の行きますところには、ことごとく高天原が築かれるのである。ゆゑに天人は、きはめて小さき形式における一個の天界であつて、その団体は、これよりも大なる形式を有する天界である。
 しかして諸団体を打つて一丸となせるものは、高天原の最大形式をなすものである。
 綾の聖地における神の大本は、大なる形式を有する高天原であつて、その教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり、また自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。ゆゑに霊界におけるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理により、各宗教における一個の天国団体が形成され、また中有界、地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。されども大神は、天界、中有界、地獄界をして一個人と見倣し、これを単元として統一したまふゆゑに、いかなる団体といへども、厳の御霊、瑞の御霊の神格のうちより脱出することはできない、またこれを他所にして、自由の行動をとることは許されないのである。高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。
 ゆゑに諸々の天人は、その一切を挙げて、一個の人に類することを知るがゆゑに、彼らは高天原を呼んで、大神人といふのである。綾の聖地をもつて、天地創造の大神の永久に鎮まります最奥天国の中心と覚り得る者は、死後かならず天国の住民となりうる身魂である。
 ゆゑにかかる天的人間は、聖地の安危と盛否をもつて、わが身体と見做し、よく神界のために、愛と信とを捧ぐるものである。高天原の全体を、一の大神人なる単元と悟りし上は、すべての信者は、その神人の個体または肢体の一部なることを知るがゆゑである。
霊的および天的事物に関して、右のごとき正当なる観念を有せざる者は、右の事物が、一個人の形式と影像とに従つて、配列せられ和合せらるることを知らない。ゆゑに彼らは思ふやう、人間の外分をなせる世間的、自然的事物、すなはちこれ人格にして、人はこれなくんば、人の人たる実を失ふであらうと。ゆゑに、大神人の一部分たる神の信者たる者が、かくのごとき自愛心にとらはれて、孤立的生涯を送るにいたらば、外面神に従ふごとく見ゆるといへども、その内分は全く神を愛せず、神に反き、自愛のための信仰にして、いはゆる虚偽と悪との捕虜となつたものである。かくのごとき信仰の情態にある者は、決して神と和合し、天界と和合することはできない。あたかも中有界の人間が、第一天国に上つて、その方向に迷ひ、一個の天人をも見ることを得ず、胸を苦しめ、目を眩して喜んで地獄界へ逃げ行くやうなものである。
 人間の人間たるは、決して世間的、物質的事物より成れる人格にあらずして、そのよく真を知り、よく善に志す力量あるによることを知るべきである。これらの霊的および天的事物は、すなはち人格をなす所以のものである。しかして人格の上下は、その人の智性と意思との如何によるものである。


物語49-1-2 1923/01 真善愛美子 大神人

 すべて綾の聖地に、神の恵によつて引きつけられたる人およびこの教に信従する各地の信者は、すべて大神の神格のうちにあるものである。しかるに、灯台下暗しとかいつて、これを認め得ざるものは天人(人間と同様の形態)の人格を保つことはできないものである。富士へ来て富士を尋ねつ富士詣で……といふやうに、富士山のなかへ入つてしまへば、他に秀れて尊き霊山たることを知らず、普通の山と見ゆるものである。しかし遠くへだててこれを望む時は、実にその清き姿は雲表に屹立し、鮮岳清山を圧して立てるその崇高と偉大さを見ることを得るやうに、かへつて遠く道をはなれ、教に入らざりし者が、色眼鏡を外して見る時は、その概要を知り全般を伺ふことが出来るやうに、かへつて未だ一言も教を聞かず、一歩も圏内に足をふみ入れざる人の方が、その真相を知る者である。
また大神は時によつて、一個の天人と天国にては現じ玉ひ、現界すなはち地の高天原にては、一個の神人と現じたまふ。されどかくのごとく内分の塞がつた人間は、神人に直接面接しかつその教を聴きながら、これを普通の凡夫とみなし、あるひは自分に相当の人格者または少しく秀れたる者となし、あるひは自分より劣りし者となして、これを遇するものである。かくのごとき人間は、八衢どころか、すでに地獄の大門に向かつて、爪先を向けてゐるものである。
 真の智慧と証覚とを欠いた者は、すべて地獄に没入するより道はない。故にかかる人間は、天人または神人の目より見る時は、なにほど形態は立派に飾り立て、なにほど人品骨格はよく見えても、ほとんどその内分は人間の相好が備はつてゐないのである。彼らは罪悪と虚偽とにをるをもつて、従つて神の智慧と証覚に反いてゐる。あたかも妖怪のごとく餓鬼のごとく、その醜状目も当てられぬばかりである。かくのごとき肉体の人間を称して、神界にては生命といはず、これを霊的死者と称ふるのである。または娑婆亡者あるひは我利我利亡者ともいふ。
 かくのごとき大神の愛の徳に離れたる者は生命なるものはない。
 しかして大神の愛または神格に離れた時は、何事もなし能はざるものである。ゆゑに大本神諭にも……神の守護と許しがなければ、何事も成就せぬぞよ。九分九厘いつたところでクレンとかへるぞよ。人間がこれほど善はないと思うていたしてをることが、神の許しなきものは、みな悪になるぞよ。九分九厘で手の掌がかへり、アフンといたすぞよ……と示されてあるのを伺ひ奉つても、この間の消息が分るであらう。人間は自然界の自愛によつて、ある程度までは妖怪的に、惰性的に出来得るものだが、決して有終の美をなすことは出来ない、今日自愛と世間愛より成れる、すべての銀行会社およびその他の諸団体の実状を見れば、いづれも最初の所期に反し、その内部には、魑魅魍魎の徘徊跳梁して、妖怪変化の巣窟となり、目もあてられぬ醜状を包蔵してゐる。そして強食弱肉、優勝劣敗の地獄道が、遺憾なく現実しているではないか。
 現代においても、心の直なる者の胸中に見るところの神は、太古の人の形なれども、自得提の智慧および罪悪の生涯にあつて、天界よりの内流を裁断したる者は、かくのごとき本然の所証を滅却し了せるものである。かかる盲目者は、見るべからざる神を見むとし、また罪悪の生涯にて所証を滅却せし者は、神を決して求めない者である。ゆゑに現代の人間は、神にすがる者といへども、すべて天界よりの内流を裁断したる者多きゆゑに、見るべからざる神を見むとし、また物質慾のみに齷齪して、本然の所証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、また神を大いに嫌ふものである。
 すべて天界よりして、まづ人間に流入するところの神格そのものは、実にこの本来の所証である。何となれば、人の生れたるは現界のためにあらず、その目的は天国の団体を円満ならしむるためである。ゆゑに何人も、神格の概念なくしては、天界に入ることは出来ないのである。高天原および天国霊国の団体を成すところの神格の何者たるを知らざる者は、高天原の第一関門にさへも上ることを得ない。かくのごとき外分のみ開けたる人間が、もし誤つて天国の関門に近づかむとすれば、一種の反抗力と強き嫌悪の情を感ずるものである。そは、天界を摂受すべき彼の内分が未だ高天原の形式中に入らざるをもつて、すべての関門が閉鎖さるるによるからである。もし強ひてこの関門を突破し、高天原に進み入らむとすれば、その内分はますます固く閉ざされて、如何ともすべからざるに
いたるものである。
 信者の中には、無理に地の高天原に近付き来たり、神に近く仕へ、親しく教を聞いてから、ますますその内分が固く閉ざされて、心身混惑し、信仰以前に劣りし精神状態となり、かつまたその行ひの上に非常な地獄的活動の現はるるものがあるのは、この理に基くのである。大神を否み、大神の神格に充たされたる神人を信ぜざる者は、すべてかくのごとき運命に陥るものである。人間の中にある天界の生涯とは、すなはち神の真に従ひて、棲息せるものなることを知悉せる精神状態をいふのである。惟神霊幸倍坐世。


物語49-2-6 1923/01 真善愛美子 梅の初花

『しからば妾は、地上にミクロの世が来るまで待つことにいたしませう。高天原の天人と天人との問における神聖なる婚姻の状態は、いかがなものでござりませうか』
『ここ五年や十年に、たうてい理想の世界の出現は難かしいでせう。八岐大蛇の亡ぶまでは、たうてい地上に天国は完全に来ませぬ。高天原の婚姻について二言お話しすれば、天人と天女との婚姻あるは、なほ地上の世界に男女両性の婚姻が行はれてゐるやうなものであります。そして高天原におけると、地上の世界におけるとは、その婚姻に相違の点もあり、一致の点もあります。そもそも、
一、高天原の婚姻なるものは、智性と意志との二つのものを和合して、一心となすの謂であり、智性と意志の二つのものが合一して、動作するものを一心といひます。
夫は智性、妻は意志と呼ばるる部分を代表するものであります。
一、この和合は、元より内分的に起るものであつて、これが霊身に属する時、これを知覚し感覚して愛なるものを生ずる。この愛を婚姻の愛といふのであります。智性と意志両者の和合して一心となるところに、婚姻の愛なるものが発生するのである。
ゆゑに天人は、男女一体にして、一双の夫婦は二個の天人でなく、一個の天人となすのであります』


物語49-3-9 1923/01 真善愛美子 善幻非志

 すべて精霊は、霊界のことは、自分の霊相応の範囲内において見ることを得れども、自然界は少しも見ることが出来ないのである、これは現実界の人間が、霊界を見ることが出来ないのと同様である。
 この理によつて人間が、もし精霊にものをいひ返すを神が許したまふ時は、精霊は自己以外に人間あるを知るがゆゑに、実に危険である。中には、深く宗教上のことを考へ、専ら心をこれにのみ注ぐ時は、その心の中に、自分が思惟するところを現実的に見ることがある。かくのごとき人間は、精霊の話を聞き始むるものである。
 すべて宗教のことは何たるを問はず、人間の心の中より考へて、世間における諸々の事物の用によつて、これを修正せざる時は、その事その人の内分に入り込んで、精霊そこに居を定め、霊魂を全く占領し、かくして、ここに在住する幾多の精霊を頤使し、あるひは圧迫し、あるひは放逐するに至るものである。高姫のごときは、実にその好適例である。


物語50-1-1 1923/01 真善愛美丑 至善至悪

 初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘である。しかして別に現代のごとく学校教育を受けたのではない。ただ幼少より母を失ひ、父とともに各地の霊山霊場に参拝し、あるひは神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々雑多の神的苦行を経たるため、純粋無垢なる霊魂の光はますますその光輝を増し、玲巍玉のごとく、黒鉄時代に生れながら、その本体すなはち内分的生涯は、黄金時代の天的天人と向上してゐた。ゆゑに宣伝使としてもまた地上の天人としても、実に優秀な神格者であつた。大神の神善と神真とをよく体得し、無限の力を与へられ、神の直接内流をその精霊および肉身に充せ、その容貌ならびに皮膚の光沢、柔軟さなどは、ほとんどエンゼルのごとくであつた。

(中略)

 瑞月かつて高熊山に修業のをり、神の許しを受けて霊界を見聞したる時、わが記憶に残れる古人または現代に肉体を有せる英雄豪傑、智者賢者といはるる人々の精霊に会ひ、その状態を見聞して意外の感にうたれたことがしばしばあつた。彼らの総ては、自愛と世間愛に在世中惑溺し、自尊心強く、かつ神の存在を認めざりし者のみなれば、霊界に在りては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられつつあつたのである。これを思へば、現代における政治家または智者学者などの身の上を思ふにつけ、実に憐愍の情にたへない思ひがするのである。いかにもして、大神の愛善の徳と信真の光に、彼ら迷へる憐れな地獄の住人を、せめて精霊界にまで救ひ上げ、無限の永苦を免れしめむと焦慮すれども、彼らの霊性はその内分において神に向かつて閉され、脚底の地獄に向かつて開かれあれば、これを光明に導くは容易の業でない。また如何なる神人の愛と智に充てる大声叱呼の福音も、霊的盲目者、聾者となり果てたるをもつて、いかなる雷鳴の轟きも警鐘乱打の響きも、恬として鼓膜に感じないのである。ア丶憐れむべきかな、虚偽と罪悪に充てる地獄道の蒼生よ。


物語50-1-2 1923/01 真善愛美丑 照魔燈

高天原の最奥における霊国および天国の天人は、すべて愛の善徳を完備し、信の真善を成就し、智慧証覚に充ちをるをもつて、中間天国以下の天人のごとく、決して信を説かず、また信の何たるかも知らないのである。また神の真について論究せないのである。何ゆゑならば、かかる霊的および天的最高天人は、大神の神格に充たされ、愛善信真これ天人の本体なるが故である。ゆゑに他界の天人のごとく、これは果して善なりや、悪なりや、なぞと言つて真理を争はない。ただ争ふものは、中間および下層天界の天人の内分の度の低いものの所為である。
 また最奥の天人は視覚によらず、必ずその聴覚によつて、すなはち宇宙に瀰漫せるアオウエイの五大父音の音響いかんによつて、その証覚をしてますます円満ならしむるものである。大本神諭に「生れ赤子の心にならねば、神の真は分りは致さぬぞよ……」とお示しになつてゐるが、すべて赤子の心は清浄無垢にして水晶のごときものであるから、たとへ智慧証覚は劣るといへども、直ちにその清浄と無垢とは、最奥天界に和合し得るからである。また社会的覊絆を脱し、すべての物慾を棄て、悠々として老後を楽しみ、罪悪に遠ざかり、天命を楽しむところの老人をもつて、証覚ありて無垢なる者たることを現はし給ふのである。
 大本開祖が世間的生涯を終り、夫を見送り、無垢の生涯に入り給うた時、はじめて神は予言者として、これに神格の充されたる精霊を降したまひ、天国の福音を普く地上に宣伝し給うたのは、実に清浄無垢の身魂に復活し、精霊をして天国の籍におかせ給うたからである。ゆゑに開祖のごときは、生前において已に霊的復活をせられたのである。この復活を称して霊的人格の再生といふのである。
 大神は人間をしてその齢進むに従ひ、これに対して善と真とを流入したまふものである。まづ人間を導いて善と真との知識に入らしめ、これより進んで不動不滅の智慧に入り、最後にその智慧より仏者のいはゆる阿羅耶識(八識)すなはち証覚に進ませたまふものである。これを仏教にては、阿耨多羅、三藐三菩提心(無上証覚)といふのである。
しかしながら現代の人間は、その齢進むに従つてますます奸智に長け、表面は楽隠居のごとく世捨人のごとく、あるひは聖人君子のごとく装ふといへども、その実ますます不良老年の域に進むものが大多数である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて社会の真理と看做してゐる現代に立ち、多数の党与を率ゐて政治界または実業界に跋扈跳梁し、ますます権謀術数を逞しうし、わづかにその地位を保ち、世間的権勢を掌握して無上の功名とみなしてゐる人物のごときは、実に霊界よりこれを見る時は憐れむべき盲者である。
 かくのごとき現界における権力者よりも、無智にしてその日の労働に勤しみ、現代人の無道の権力に圧倒され、孜々としてこれに盲従し、不遇の生活を生涯送りし人間が、霊界に至つて神の恩寵に浴し、その霊魂は智慧相応の光を放ち、善と真との徳につつまれて、生前の位地を転倒してゐる者が沢山にあるのである。
 ゆゑに霊的観察よりすれば、権勢ある者、富める者、智者学者といはるる者よりも、貧しき者、卑しき者、力弱き者、現界においていと小さき者として、世人の脚下に踏みにじられたる人聞が、却つて、愛善の徳に住し、信真の光に輝いて、天国の団体に円満なる生涯を送るものである。ゆゑに神には一片の依怙もなく偏頗もないことを信じ、ひたすら神を愛し神に従ひ、正しき予言者の教に信従せば、生前においても、たとへ物質上の満足は得られずとも、その内分に受くる歓喜と悦楽とは、たうてい現界の富者や権力者や智者学者の窺知し得るところではないのである。


物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇

 大抵の人間は、高天原に向かつてその内分が完全に開けてゐない。それゆゑに大神は、精霊を経て人間を統制したまふのが普通である。何となれば、人間は自然愛と地獄愛とより生み出すところの、地獄界の諸々の罪悪の間に生れ出でて、惟神すなはち神的順序に背反せる情態にをるがゆゑである。されど一旦人間と生れた者は、どうしても惟神の順序のうちに復活帰正すべき必要がある。しかしてこの復活帰正の道は、間接に精霊を通さなくてはたうてい成就し難いものである。
 しかしながら、この物語の主人公たる初稚姫のごとき神人ならば、最初より高天原の神的順序に依るところのもろもろの善徳のうちに生れ出でたるがゆゑに、決して精霊を経て復活帰正するの必要はない。神人和合の妙境に達したる場合の人間は、精霊なるものを経て大神の統制したまふところとならず、順序すなはち惟神の摂理により大神の直接内流に統制さるるのである。
 大神より来たる直接内流は、神の神的人格より発して人間の意性中に入り、これよりその智性に入り、かくてその善に入りまたその善を経て真に入る。真に入るとは要するに愛に入るといふことである。この愛を経てのち聖き信に入る。ゆゑにこの内流の、愛なき信に入り、また善のなき真に入り、また意思よりせざるところの智性に入ることはないものである。ゆゑに初稚姫のごときは、清浄無垢の神的人格者ともいふべき者なれば、その思ふところ、言ふところ、行ふところは、一として神の大御心に合一せないものはないのである。かかる神人を称して真の生神といふのである。
 天人および精霊は、何ゆゑに人間と和合すること、かくのごとく密接にして、人間に所属せる一切のものを、彼ら自身の物のごとく思ふ理由は、人間なるものは霊界と現界との和合機関にしてすこぶる密着の間にをり、ほとんど両者を一つのものと看做し得べきがゆゑである。されど現代の人間は高天原より、物慾のために自然にその内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたがゆゑに、大神はここに一つの経綸を行はせたまひ、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつたのである。


物語52-1-1 1923/02 真善愛美卯 真と偽

 しかし神に向かひあるひは須弥仙山を仰ぐといふは、現界における富士山そのものを望む時のごとく、身体の動作によつて向背をなすものでない。何となれば空間の位地はその人間の内分の情態いかんによつて定まるがゆゑに、方位のごときも現界とは相違してゐるのは勿論である。人間の内底の現はれなる面貌の如何によつて、その方位が定まるのである。ゆゑに霊界にては吾が面の向かふところ、すなはち太陽の現はるるところである。現界にては太陽は東に昇りつつある時といへども、西を向けばその太陽は背に負うてゐるが、霊界にては総て想念の世界なるがゆゑに、身体の動作いかんに関せず、神に向かつて内底の開けた者は、いつも太陽に向かつてゐるのである。しかしながらかくのごとき天人の境遇にある人格者は霊界に在つて、自分より大神すなはち太陽と現じたまふ光熱に向かふにあらず、大神より来たるところの一切の事物を喜んで実践躬行するがゆゑに、神より自ら向かはしめ給ふこととなるのである。
 平和と智慧と証覚と幸福とを容るるものは高天原の器である。


物語52-1-2 1923/02 真善愛美卯 哀別の歌

人間は天の高天原と地の高天原とを問はず、その霊域に昇るに際し、いよいよ内に入るに従ひ、(すなはちいよいよ高きに昇るに従ひ)証覚と智慧とはいよいよ増し来たりて、その霊魂に光明を放ち、真理に住し、かつて難解の問題と思惟したことも、おひおひと感得するに至り得るものである。いづれも皆かくのごとき情態に進むは、大神より来たる愛の力に依るものである。この愛なるものは高天原の一切のものを容るべき器なるがゆゑである。大神の御神格をその内分に受くること多きところの人間を称して天的天人といふ。また内的天人、高処天人とも別称するのである。高天原にもまた内的、外的の区別があり、内的の天界を高処天界といひ、外的の天界を低処天界と称へられてゐる。しかして天国に在る天人がゐるところの愛を天愛といひ、在霊国の天人がゐるところの愛を霊愛といふ。しかして天国には大神は太陽と現はれ給ひ、霊国に在つては月と現はれ給ふ。


物語52-2-9 1923/02 真善愛美卯 黄泉帰

 文助は何とはなしに愉快な気分に充たされ、小北山のことも念頭になく、ただ自分の行先に結構なところ、美はしきところがあるやうな思ひで、足も軽々と進むのであつた。そして俄かに目の開いたのに心勇み、フラフラフラと花にあこがれた蝶のごとく、次へ次へと進んだのである。途中に現界にある友人や知己ならびに自分らの知己にして、すでに帰幽せし人間にもしばしば出会うた。されどその時の彼の心は帰幽せし者と帰幽せざる者とを判別する考へもなく、いづれも自分と同様に肉身をもつて生きて働いてゐることとのみ思うてゐたのである。
 かくのごとく、人間は仮死状態の時も、また全く死の状態に入つた後も、決して自分は霊肉脱離して、霊界に来てゐるといふことを知らないものである。何ゆゑならば、意思想念その他のすべての情動に何らの変移なく、かつ現界におけるがごとき種々煩雑なる羈
絆なく、あたかも小児のごとき情態に身をおくがゆゑである。これを思へば人間は現世において神に背き、真理を無視し、社会に大害を与へざるかぎり、死後は肉体上における慾望や感念すなはち自愛の悪念は払拭され、その内分に属する善のみ自由に活躍することを得るがゆゑに、死後の安逸なる生涯を楽しむことが出来るのである。
 天国は上り難く地獄は落ち易しと、ある聖人がいつた。しかしながら人間は肉体のあるかぎり、どうしても外的生涯と内的生涯との中間的境域にをらねばならぬ。故に肉体のあるうちには、どうしても天国に在る天人のごとき円満なる善を行ふことは出来ない。
 どうしても善悪混淆、美醜相交はる底の中有的生涯に甘んぜねばならぬ。人の死後におけるや、神はただちに生前の悪と善とを調べ、悪の分子を取り去つて、なるべく天国へ救はむとなし給ふものである。ゆゑに吾々は天国は上り易く、地獄は落ち難しと言ひたくなるのである。しかしながらこれは普通の人間としての見解であつて、今日のごとく虚偽と罪悪に充ちたる地獄界に籍をおける人間は、すでにすでに地獄の住民であるから、生前においてこの地獄を脱却し、せめて中有界なりと救はれておかねば、死後の生涯を安楽ならしむることは不可能である。されど神は至善至愛にましますがゆゑに、いかなる者といへども、あらゆる方法手段を尽して、これを天国に導き、天国の住民として霊界のために働かしめ、かつ楽しき生涯を送らしめむと念じ給ふのである。
 前にも述べたるごとく、神は宇宙を一個の人格者と看做してこれを統制し給ふがゆゑに、いかなる悪人といへども、一個人の身体の一部である。なにほど汚穢しいところでも、そこに痛みを生じあるひは腫物などが出来た時は、その一個人たる人間は種々の方法をつくしてこれを癒さむことを願ふやうに、神は地獄界に落ち行く……すなはちわが肉体の一部分に発生する腫物や痛みどころを治さむと焦慮したまふは当然である。これをもつても、神がいかに人間をはじめ宇宙一切を吾が身のごとくにして愛し給ふかが判明するであらう。惟神霊幸倍坐世。


物語52-3-17 1923/02 真善愛美卯 飴屋

 霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。
 また体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ。ゆゑに人間は、どうしても善悪混交美醜たがひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない。しかしこれは、普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間のことである。人間は肉体を基礎とし、また終極点とするがゆゑに、外的方面より見て体主霊従といふのであるが、しかしながら、これを主観的にいへば霊的五分、体的五分、すなはち、霊五体五たるべきものである。もし霊を軽んじ体を重んずるに至らば、ここに、体五霊五となるのである。同じ体五分霊五分といへども、その所主の愛が外的なると、内的なるとによつて、霊五体五となり、また体五霊五となるのである。ゆゑに霊五体五の人間は、天国に向かつて内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向かつてその内分が開けてゐるものである。
 一般に体主霊従といへば、霊学の説明上悪となつてゐるが、しかし体主霊従とは、生きながら中有界に迷つてゐる人間の境遇をいふのである。人間は最善を尽し、ただ一つの悪をなさなくてもその心性情動の如何によりて、あるひは善となりあるひは悪となるものである。ゆゑに人間は、どうしても霊五体五より下ることは出来ない。これを下ればたちまち地獄界に堕ちねばならぬのである。なにほど善を尽したと思つてゐても、その愛が神的なると自然的なるとによつて、天国地獄が分るるのであるから、体主霊従的人間が、現世において一つでも悪事をなしたならば、どうしてもこれは体五霊五どころか体六霊四、体七霊三となりて、たちまち地獄道へ落ちねばならぬのである。
 信者の中には善悪不二とか、正邪一如とかいふ聖言を楯に取つて、自分の勝手のよいやうに解釈してゐる人もあるやうだが、これは神が善悪不二と言はるるのは、中有界に迷へる人間に対していはれるのであり、かつ神は善悪にかかはらず慈愛の心をもつて臨ませらるる見地から仰せらるる言葉である。決して人間の云為すべき言葉ではない。どうしても人間が肉体を保つて現世にある間は、絶対的の善を為すことは出来ない。しかしながらその内的生涯において天国に籍をおくことを得るならば、最早これを霊主体従の人といふことが出来るのである。
 中有界の八衢は善悪正邪の審判所であつて、今日の人間の大部分は、この中有界と地獄界に籍をおいてゐるものである。されども人間が霊肉脱離の関門を越えて霊界に行つた時は、その外分の情態は時を経るに従つて除却さるるがゆゑに、その内分のみ存在し、ここに霊的生涯を営むこととなる。この時は肉体に附ける総ての悪は払拭され、その純潔なる霊は天国の団体に、霊相応に和合し得るものである。しかしながらあまり利己心の強い精霊は、死後に至るまでその執着を残し、容易に駆除されないがゆゑに、外分のみ開け、かつまた外分が時を追うて脱離するとともにその内底の悪はたちまち暴露され、妖怪変化のごとき浅ましき面貌となつて地獄界に堕ちゆくものである。


物語56-2-6 1923/03 真善愛美未 高圧

 高姫に導かれて四人の男女は、細谷川の一本橋を渡り、二間造りの小さき家に導かれた。高姫の精霊は既に地獄に籍を置き、直ちに地獄に下るべき自然の資格が備はつてゐる。しかしながら仁慈無限の大神は、いかにもしてその精霊を救ひやらむと三年の間、ブルガリオの修行を命じ給うたのである。すべて精霊の内分は忽ち外分に現はれるものである。外分とは概していへば身体、動作、面貌、言語等を指すのである。内分とは善愛の想念や情動である。
 地獄界に籍を有する精霊は最も尊大自我の心強く、他に対して軽侮の念を持し、之を外部に不知不識の間に現はすものである。
 自分を尊敬せざるものに対しては忽ち威喝を現はし、または憎悪の相好や復讐的の相好を現はすものである。ゆゑに一言たりともその意に合はざることを言ふ者は、忽ち慢心だとか悪だとか虚偽だとか、いろいろの名称を附して、これを叩きつけんとするのが、地獄界に籍を置くものの情態である。
 現界における人間もまた、顕幽一致の道理によつて同様である。
現界、霊界を問はず、地獄にあるものは、全て世間愛と自己よりする、諸の悪と諸の虚偽に浸つてゐるがゆゑに、その心と自己の心と相似たるものとでなければ、心の相応せないものと一緒にをることは実に苦しく、呼吸も自由に出来ないくらゐである。しかしながら悪すなはち地獄における者は、悪心を以て悪を行ひ、また悪を以て総ての真理を表明したり、説明せむとするものである。ゆゑにその説明には矛盾撞着支離滅裂の箇所ばかりで、正しき人間や精霊の眼から見れば、実に不都合きはまるものである。かかる悪霊が地獄界に自ら進んで堕ちゆく時は、そこにをる数多の悪霊は、彼らの上に集まり来たり、峻酷獰猛なる責罰を加へむとするものである。その有様は現界における法律組織と略類似してゐる。総て悪を罰するものは悪人でなければならぬ。虚偽、譎詐、獰猛、峻酷等の悪徳なきものは、到底悪人を罰することは出来得ないのである。
 しかしながら現界と幽界と異なる点は、現界にては大悪が発見されなかつたり、また善人が悪と誤解されて責罰を受くることが沢山にあるに反し、地獄界においては、悪その物が自ら進んで堕ち行くのであるから、あたかも衡にかけたごとく、少しの不平衡もないものである。
 しかして獰猛と峻酷の内分もまた、外分即ち相好の上に現はるるものである。故に地獄に墜ちてをる邪鬼および邪霊は、何れもその内分相応の面貌を保ち生気なき死屍の相を現じ、疣や痣、大なる腫物等一見して実に不快な感じを与ふるものである。然し之は天国に到るべき天人の目よりその内分を透して見たる形相であつて、地獄の邪霊相互の間にては、決して余り醜しく見えないものである。なぜなれば彼らは皆虚偽を以て真と信じ、悪を以て善と感じてゐるからである。時あつて天上より大神の光明、地獄界を照らす時は、彼らは忽ち珍姿怪態を曝露し、あたかも妖怪のごとき相好を現はし、自らその姿の恐ろしきに驚くものである。しかしながら天界より光明下り来たる時は、朦朧たる地獄は層一層暗黒の度を増すものである。愛善の徳と信真の光明は、悪と虚偽とに充たされたる地獄では益々暗黒となるものである。故にいかなる神の稜威も善徳も、信真の光明も、地獄に籍を置きたる人間より見たる時は、自分の住する世界よりは暗黒に見え、真理は虚偽と感じ、愛善の徳は憎悪と感ずるに至るものである。ゆゑに大部分地獄界に堕落せる現代人が、大本の光明を見て却つて之を暗黒となし、至善至美の教をもつて至醜至悪の教理となし、あるひは邪教と誹るにいたるは、その人の内分相応の理によつて寧ろ当然とゐふべきものである。
 高姫は中有界に放たれ精霊の修養を積むべき期間を与へられたるにもかかはらず、容易に地獄の境涯を脱することを得ず、虚偽をもつて真理と為し、悪をもつて善と信じ、一心不乱に善の道を拡充せむと車輪の活動を続けてゐるのである。類をもつて集まるとか言つて、自分の内分に相似たるものでなければ、到底相和することは霊界においては出来ない。現界ならばいろいろと巧言令色、あるひは虚偽なぞに由つて内分の幾分かを包み得るがゆゑに、高姫の教を聞くものも多少はあつたけれども、もはや霊界に来たつては、自分と相似たるものでなければ、共に共に生涯を送る事が出来なくなつてゐた。しかしながら、高姫は依然として現界にをるものとのみ考へ、八衢の守衛が言葉も半信半疑の体に取扱うてゐた。霊界へ来てから殆ど一ケ年、月日を経るに従つて守衛の言葉は少しも意に止めなくなり、ますます悪化しながらも自分の教は至善である、自分の動作は神に叶ひしものである、しかして自分は義理天上日出神の生宮で、天地を総轄したる底津岩根の大弥勒の神の神柱と固く信じてゐるのだから堪らない。さて高姫は四人の男女を吾が居間に導き、自分は正座に傲然としてかまへ、諄々として支離滅裂なる教を説きはじめた。


物語56-2-8 1923/03 真善愛美未 愛米

『人間が世に在る時は自愛については毫も顧慮するところがない。ただその外分に現はれた矜高の情、いはゆる自愛なる者が、何人といへども、これを外面から明瞭と伺ひ得らるるがゆゑに、ただ之をもつて、自愛の念としてゐるものだ。そしてまた自愛の念が右のごとく判然と表に現はれることがなければ、世間の人間は之を生命の火と信じ、この念に駆られて種々の職業を求め、また諸多の用を成就するものと信じてゐるものだ。しかしながら人間が若しその中において、名誉と光栄とを求めることが出来なければ、忽ち心が萎靡しをはるものと思つてゐる。ゆゑにかかる自愛心の深い人間は他人によつて、または他人の心の中にて尊重せられ、賞讃されることがなければ、誰人かよく値あり用ある行為をなし、自ら衆に秀れむとするものがあらうか。そして人間をしてかくのごとく働かしむるのは、その光栄と尊貴とを熱望する心、いはゆる自愛によるものではないかと言つてゐる者ばかりだ。かくて世間には専ら地獄に行はれる愛と、人をして地獄を作らしむる者は愛我の自体なることを知らない者が多いのだ。お前さまの仰有ることは要するに、今言つたやうな考へより一歩も外へ出づる事が出来ないのだから、ヤツパリお前さまの仰有る事は、どうしても神の言葉とは聞こえませぬよ。第一神の教を奉ずる者は申すに及ばず、人間と生れた以上は、どうしても愛我の心を放擲しなくては天下救済の神業は勤まりますまい。自愛心のある問は、いかに善事を行ふとも、それはヤツパリ偽善ですよ。この求道も名利の巷に奔走し、バラモン教のカーネルとして尊貴と名誉を夢みてをつた者ですが、三五教の教を悟るとともに、自愛や世間愛に離れ、かうして神のために働かして頂いてをります。高姫さまも神のために尽して、出世をせうとか、或は出世をさしてやらうとか、思つたり仰有る問は真正の信仰とは申せますまい。また真の愛といふ事も出来ますまい。よく胸に手を当てて貴女の心の鏡をマ一度覗いて御覧なさい』


物語63-3-10 1923/05 山河草木寅 鷺と

 人間が霊肉脱離の後、高天原の楽土または地獄の暗黒界へ陥るに先んじて、何人も踏まねばならぬ経過がありまして、この状態は三種の区別があります。そしてこの三状態を大別して、外面の状態、準備の状態、内面の状態といたします。しかしながら死後ただちに高天原へ上る精霊と、地獄へ陥る精霊とのあることは、今日までの物語において読者は既に已に御承知のことと思ひます。
 中有界一名精霊界の準備を経過せずして、直ちに天界または地獄に行くものは、生前既にその準備が出来てゐて、善悪の情動並びに因縁によつて各自霊魂相応の所を得るものです。右のごとく準備既に完了せる精霊にあつては、只その肉体と共に自然的世界的なる悪習慣等を洗滌すれば、直ちに天人の保護指導に依つて、天界のそれ相応の所主の愛に匹敵した楽土に導かるるものであります。
 之に反して直ちに地獄に陥る精霊にあつては、現界において表面にのみ愛と善とを標榜し、且つ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵しをりしもの、いはゆる自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙に富んでゐるものは、足を上空にし頭を地に倒にして投げ込まれるやうにして落ちて行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、あるひは死後直ちに岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、かくのごとき状態になるのは凡て神様の御摂理で、精霊界にある精霊と分離せむがためであります。ある時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、かくのごとき精霊は生前において、口の先ばかりで親切らしく見せかけて世人を油断させ、その虚に乗じて自己の利益を計り、かつ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。
 人間各自の精霊には外面的、内面的の二方面を有しております。
 精霊の外面とは、人間が現世において他の人々と交はるに際し、その身体をして之に適順せしむるところの手段を用ひることで、特に面色、語辞、動作等の外的状態であり、精霊の内面とは人の意思及びその意志よりする想念に属する状態であつて、容易に外面には現はれないものであります。凡ての人間は、幼少の頃より朋友の情だとか、仁義誠実、道徳等の武器を外面に模表する事を習つてをりますが、その意志よりするところの凡ての想念は、之を深く内底に包蔵するが故に、人間同士の眼よりは之を観破することは実に不可能であります。現代の人間は、その内心は如何に邪悪無道に充ちてをつても、表面生活上の便宜のため、似非道徳的、似非文明的生涯を営むのは常であります。現界永年の習慣の結果、人間は精神痳痺し切つてしまつて、自己の内面さへ知る事が出来なくなつてをります。また自己の内面的生涯の善悪などに就いて煩慮することさへ稀であります。況んや、自己以外の他人の内面的生涯の如何を察知するにおいておやであります。
 死後直ちに精霊界における人間精霊の状態は、その肉体が現世にありし時のごとく依然として容貌、言語、性情等は相酷似し、道徳上、民文上の生活の状態と少しの相違もない。ゆゑに人間死後の精霊にして精霊界において相遇ふ事物に注意を払はず、また天人が彼精霊を甦生せし時においても、自己は最早一箇の精霊だといふことを想ひ起さなかつたなれば、その精霊は依然高姫のごとく、現界に在つて生活を送つてをるといふ感覚をなすの外はないのです。故に人間の死といふものは、唯この間の通路に過ぎないものであります。
 現世を去りて未だ幾何の日時も経ない人間の精霊も、また現界人の一時的変調によつて霊界に入り来たりし精霊も、先づ以上のごとき状態にをるものであつて、生前の朋友や知己と互ひに相会し相識合ふものであります。何となれば、精霊なるものは、その面色や言語等によつて知覚し、また相接近する時はその生命の円相によつて互ひに知覚するものです。霊界において甲が若し乙の事を思ふ時は忽ちその面貌を思ひ、之と同時にその生涯において起りし一切の事物を思ふものです。そして甲において之を為すときは、乙は直ちに甲の前に現はれ来るもので、ちやうど態人を使ひに遣つて招いて来るやうなものです。
霊界において何故かくのごとき自由あるかと謂へば、霊界は想念の世界であるから、自ら想念の交通があり、何事も霊的事象に支配されてをりますから、現界のごとく時間または空間なるものがないからであります。それゆゑ霊界に入り来たりしものはその想念の情動によつて、互ひにその朋友、親族、知己を認識せざるは無く、現世にあつた時の交情によつて互ひに談話も為し、交際も為し、ほとんど現世にありし時と少しの相違もないのです。
 中にも夫婦の再会などは普通とせられてゐますが、夫婦再会の時は互ひに相祝し、現世において夫婦双棲の歓喜を味はひ楽しんだ程度に比して、或は永く久しく、或は少時間、その生涯を共にするものです。そしてその夫婦の間に真実の婚姻の愛、即ち神界の愛に基づいた心の和合の無い時は、その夫婦は少時にして相別るるものであります。また夫婦の間に現世において、互ひに了解なく嫉妬や不和や争闘や、その他内心に嫌忌しつつあつたものは、この仇讐的想念はたちまち外面に破裂して、相争闘し分離するものであります。
 霊界にある善霊すなはち天人は、現界より新たに入り来たりし精霊の善悪正邪を点検すべく、種々の方法を用ふるものです。精霊の性格は、死後の外面状態にあつては容易に弁別が付かないものです。
 如何に凶悪無道なる精霊にても、外面的真理を克く語り善を行ふことは、至誠至善の善霊と少しも相違の点を見出すことが出来ないのです。外面上は皆有徳愛善らしき生涯を送つてゐる。現界において一定の統治制度の下にあつて法律に服従して生息し、これに由つて正しきもの、至誠者との名声を博し或は特別の恵みを受けて尊貴の地位に上り富を蒐めたるものであつて、是等は死後少時は善者有徳者と認めらるるものです。しかしながら天人は是等の精霊の善悪を区別するに当り、大抵左の方法に由るものであります。凡て何人も所主の愛に左右さるるものでありますから、即ち凶霊は常に外面的事物にのみついて談論するを好むこと甚だしく、内面的事物に就いては毫も顧みないからであります。内的事物は神の教、または聖地救世主の神格、及び高天原に関する真と善とに関しては之を談論せず、また之を教ふるも聴くことを嫌忌し更に意に留めず、また神の教を聴いて楽しまず、却つて不快の念を起し面貌にまで表はすものです。
 現界人の多くは、凡て神仏の教を迷信呼ばはりをなし、かつ神仏を口にすることを大いに恥辱のごとく考へてをるものが大多数であつて、大本の教を此方から何ほど親切をもつて聞かし、天界に救ひ助けむと焦慮するとも、地獄道に籍をおいた人間には、到底駄目であることをしばしば実験いたしました。しかしながら大慈大悲の大神の御心を奉体し一人たりとも天界に進ませ、永遠無窮の生命に赴かしめ、以て神界御経綸の一端に仕へなくてはならないのであります。霊界においても現界においても同一ですが、地獄入りの凶霊と天界往きの善霊とを区別せむとするには、凶霊はしばしある一定の方向に進まむとするを見ることが出来ます。凶霊がモシその意のままに放任される時はそれに通ずる道路を往来するもので、彼等が往来する方向と転向する道路とによりて、その所主の愛は何れにあるかを確かめらるるものであります。
 現界を去つて霊界に新たに入り来たる精霊は、何れも高天原とか地獄界とかの或る団体に属してゐないものはありませぬが、しかし之は内的の事ですから、その精霊がなほ依然として外面的状態にある問はその内実を現はさない。外面的事物が凡ての内面を蔽ひかくしてしまひ、内面の暴悪なるものは、殊にこれを蔽ひかくすこと巧妙を極めてをるからです。しかし或る一定の期間を経たる後に彼等の精霊が内面的状態に移る時において、その内分の一切が暴露するものです。この時は最早外面は眠り且つ消失し、内面のみ開かるるからであります。人間の死後における第一の外面的情態は、或は一日、或は数日、或は数ケ月、或は一年に渉ることがあります。
 されど一年を越ゆるものは極めて稀有の事であります。かくのごとく各自の精霊が外面的状態に長短の差ある所以は、内外両面の一致不一致によるものです。何故なれば、精霊界にあつては何人といへども思想および意志と言説または行動を別にする事を許されないから、各精霊の内外両面が一となつて相応せざればならぬからであります。
精霊界にあるものは、自有の情動たる愛の影像ならぬものはありませぬから、その内面にあるところの一切をその外面に露はさないわけにはゆきませぬ。これゆゑ善霊なる天人は先づ精霊の外面を暴露せしめ、これを順序中に入らしめて、以てその内面に相応する平面たらしめらるるのであります。そしてかくのごとき順序を取るところは、精霊界すなはち中有界の中心点たる天の八衢の関所であつて、伊吹戸主神の主管し給ふ、ブルガリオにおいて行はるるものであります。
 内面的情態は、人間の死後ある一定の期問を中有界にて経過し、心即ち意志と想念に属する精霊の境遇をいふのです。人間の生涯言説、行為等を観察する時は、何人にも内面外面の二方面を有することが知り得られます。その想念にも意志にも内外両面の区別があるものです。凡て民文の発達した社会に生存するものは、他人の事を思惟するに当り、その人に対する世間の風評または談話等に由つて見たり聞いたりしたところのものを以て、人間の性能を観察する基礎となすものです。されど人間は他人と物語る時に際して、自分の心の儘を語るものではありませぬ。たとへ対者が悪人と知つても、また自分の気に合はない人であつても、その交際応接などの点はなるべく礼に合ふべく、また相手方の感情を害せざるやうにと努むるもので、実に偽善的の行為を敢てするもので、またこれでなければ社会より排斥されてしまふやうな矛盾が出来する世の中であります。そして凡ての人は見えすいたやうな嘘でも善く言はれると大変歓ぶものですが、これに反し真実をその人の前に赤裸々に言明する時は非常に不快の念を起し、遂には敵視するやうになり、害を加ふるやうな事が出来るものです。故に現代の人間のいふところ、行ふところは、その思ふところ願ふところと全く正反対のものです。
 偽善者の境遇にあるものは、高天原の経綸や死後の世界や、霊魂の救ひや聖場の真理や国家の利福や隣人の事を語らしておけば、恰も天人のごとく愛善と信真に一切基づけるやうなれども、その内実には高天原の経綸も霊魂の救ひも死後の世界も信じないのみか、ただ愛するところのものは自己の利益あるのみであります。かくのごとき偽善者、偽信者はずゐぶん太古の教徒の中にも可なり沢山あつたものですが、現代の三五教の中には十指を折り数へたら、最早残るは外面的状態にあるものばかりで、天国に直ちに上り得る精霊は少ないやうであります。
 凡て人間の想念には内面、外面の区別がありまして、かくのごとき人間は、外面的想念によりて言説をなし、内面には却つて異様の感情を包蔵してをるものです。そして内外両面を区別する事に努めて、一とならないやうにと努むるものです。真に高天原の経綸を扶け聖壇の隆盛を祈り、死後の安住所を得むことを思はば、如何なる事情をも道のためには忍ぶべきものであります。神様の御用にたて得らるるだけの余裕を与へられたのも、皆神様のお蔭であることを忘れ、自有と心得てをるからです。ここに外面内面の衝突を来たすことになつて来るのです。しかし現代の理窟から言へば、内外両面を区別して考ふる事が至当となつてをります。そして右様の説に対しては種々の悪名をもつて対抗し、かつ悪魔の言と貶すものであります。又かくのごとき人は内面的想念の外表に流れ出でてここに暴露することなからむを勉め、現界的道理によつて、凡てを解決せむとし、内面的神善を抹殺するものであります。
 さりながら人間の創造さるるや、その内面的想念をして、相応に由りて外面的想念と相一致せしめなくてはならない理由があるのです。この一致は真の善人において見るところであつて、その思ふところも言ふところも、唯ただ善のみだからであります。かくのごとき内外両面の想念の一致する事は、たうてい地獄的悪人においては見る事が出来ない。何故なれば、心に悪を思ひながら善を口に語り、全く善人と正反対の情態にあるものです。外面に善を示して悪を抱いてをる。かくて善は悪のために制せられ、これに使役さるるに至るのであります。悪人はその所主の愛に属する目的を達成せむがために、表に善を飾つて唯一の方便となすものです。故にその言説と行動とに現はれるところの善事なるものは、その中に悪しき目的を包蔵してをるので、善も決して善でなく、悪の汚すところとなるは明白なものです。外面的にこれを見て善事となすものは、その内面を少しも知悉せざるものの言葉であります。
 真の善にをるものは、順序を乱すことなく、その善は皆内面的想念より流れて外面に出て、それが言説となり行動となるのは、人間はかくのごとき順序のもとに創造せられたものであるからであります。人間の内面は凡て高天原の神界にあり、神界の光明中に包まれてをる。その光明とは、大神より起来するところの神真で、いはゆる高天原の主なるものです。人間は内外両面の想念があり、その想念が内外たがひに相隔たりをることは前述の通りであります。想念と言つたのはその中に意志をも包含して併せて言つたのです。盖し想念なるものは意志より来たり、意志なければ何人といへども想念なるものはありませぬ。また意志および想念といふ時は、この意志の裡にもまた情動、愛、およびこれらより起来する歓喜や悦楽をも含んでをります。以上のものは何れも意志と関連してをるからです。何故なれば人はその欲するところを愛し、これによつて歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。また想念といふことは、人が由りて以てその情動即ち愛を確かむるところの一切を言ふのです。なんとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以て自ら顕照せむと欲するところのものに過ぎないからであります。この形式は種々の理性的解剖によつて現はれるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。
 凡て人間の人間たる所以は全くその内面にあつて、内面を放れたところの外面にあらざることを知らねばならない。内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、この内面なる霊(精霊)の生涯に外ならないからです。人の身体に生命のあるのは、この精霊に由るものです。この理によつて人はその内面のごとくに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永生を保つものです。されど外面はまた肉体に属するが故に、死後は必ず離散し消滅し、その霊に属してゐた部分は眠り、ただ内面のために、これが平面となるに過ぎないのです。
 かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明らかになるのであります。悪人にあつてはその言説を起さしむるところの外的想念と、その行動を起さしむるところの外的意志とに属するものは、一ももつて彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。ただその内面的なる想念と意志とに属するもの而己が、自有を為し得るのであります。故に永遠の生命に入りたる時自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した花実ばかりで、其他の一切のものは、中有界において剥脱されるものであります。あ丶惟神霊幸倍坐世。


物語64上-1-2 1923/07 山河草木卯 宣伝使

聖主は実に歓喜の給与者ともいふべきウーピーなお方です。如何なる憂愁の雲に閉されたる時にも、聖主のお側にあれば忽ち歓喜の心の花が開きます。そのお言葉を聞けば直ちに天国の福音を聞くごとく、楽園に遊ぶがごとく、何事も一切万事忘却し、歓喜の情に溢れ、病人はたちまち病癒え、失望落胆の淵に沈むものは希望と栄光に充たされ、一刻といへどもお側を離るることが出来ないやうな気分になつてしまひます。また身魂ともに至幸至福の花園に遊び、天国を吾が身内に建設するやうになつてしまひます。実に仁慈と栄光との権化ともいふべき神人でございますよ。かくてこそ三千世界の救世主だと思ひます。次に第六の資格としては、聖主の深遠宏大なる内分的智識です。その深遠なる智識に由つて、無限無窮に人類の身魂を活躍せしめ、老若男女智者愚者の区別なく、ただちに受け入るることの出来る自湧の智識と言霊を用ゐて衆生を済度されます。それ故、一度聖主に面接しまたはお言葉を聞いたものは、決して忘れるやうな事はなく、かつ時々思ひ出して歓喜に酔ふのです。婦女や愚人にも理解し易く、かつ宏く深き真理を、平易に御開示下さいます。


神の国 1925/01智恵証覚

智慧と証覚
〔問〕智慧証覚とは、どういふもので御座いますか。
〔答〕智慧は人が生れ乍らにして神様から与へられたもので、即ち先天的、内分的、神的である。それで学問がなくても智慧はある。学問があつても智慧の働きのないものもある、外分的後天的の学問その他で出来たものは知識であつて智慧とは違ふ、仏教等でいふ善知識といふのは外分的の記憶的知識で、真の心の救ひとなるものではない。智慧の智とは日を知る(ヒジリ)、霊を知る、神を知るといふ事であつて、慧とは天と地との主の神に従ふ心である、
 証覚とは覚りあかす、あかしを以て神を覚るといふ事である、日の昇り工合で大抵今は二時頃だといふのも覚りであるが、時計を見て何時何十分何十秒だっと覚る事が出来るやうに、あかしを以て宇宙の真理に徹する事が出来るのが証覚である。霊界物語でたとへたならば、之を出されるのは智慧からであつて、之のあらはれ即ち口述してつけとめられたものは証覚なのである。故に霊界物語は智慧証覚を得る唯一のものである。真善美愛は其証覚より顕はれ出づるものである。それで証覚は理解ともいへる。智慧は本体の様なもので、証覚は働きの様にもなる。仏の云ふ無上正覚とは正しく覚るの意にて、証覚とは違ふのである。
(大正十四年一月号 神の国誌)


瑞祥新聞 1925/07 人間は一小天界

全自然界はこれを総体の上から見ても、分体の上から見ても、ことごとく霊界と相応がある。
 ゆえに何事たりとも、自然界にあつてその存在の源泉を霊界にとるものは、これを名づけて、その相応者というのである。そして自然界の存在し永続するゆえんは霊界によること、なお結果が有力因によりて存するがごときを知るべきである。自然界とは太陽の下にありて、これより熱と光とをうくるいつさいの事物をいうものなるがゆえに、これによりて存在を継続するものは、一として自然界に属せないものはない。されど霊界とは天界のことであり、霊界に属するものはみな天界にあるものである。
 人間は一小天界にして、また一小世界である。しかしてともにその至大なるものの形式を模して成るがゆえに、人間のなかに自然界もあり、霊界もあるのである。その心性に属して智と意とに関せる内分は霊界をつくり、その肉体に属して感覚と動作とに関する外分は自然界をなすのである。ゆえに自然界にあるもの、すなわちかの肉体およびその感覚と動作とに属するものにして、その存在の源泉を彼が霊界に有する時は、すなわち彼が心性およびその智力と意力とよりおこりきたるときは、これを名づけて相応者というのである。
(人間は一小天界、「瑞祥新聞」大正14年7月21日)


神の国 1925/05/10玉串

いくら大きなお宮を建てた所でお祭りする人の心が間違つてゐたなら、要するに単なる木の片に過ぎないことになつてゐる。入間一切どんな行動でも内分に於て善美でなかつたなら、いくら外的に立派であつてもゼロである。又外的には粗暴な舉動でも、その内分に於て無邪気であるならば何等咎むべき点はないのである。この事が真に分つて来れば社曾はも少し穏かな深みのあるものになるにきまつてゐる。但相応といふことは勿論あるのだから、内分だけの外分が現はれるのが当然である。


神の国 1925/09恋愛と、恋と、愛

 恋愛となると全く違ふ。善悪正邪美醜などを超越しての絶対境である。お互が全くの無条件で恋し合ひ、愛し合ふので、義理も人情も、利害得失も何も彼も忘れ果てた境地である。だから恋愛は神聖であると云ひ得るのである。今の若い人達が、顔が美しいとか技倆が優秀であるとか云ふ条件の許に惚合ふておいて、神聖なる恋愛だなどと云ふのは、恋愛を冒涜するものである。そんなものは神聖でも何でもない、人に見せて誇らんが為めに、若い美貌の妻を娶りて熱愛する夫に至つては、全く外分にのみ生るものであつて下劣なものである。真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない、全く天消地減の境地である。人として真の恋愛を味はひ得るものが、果して幾人あるであらうか。どんな熱烈な恋と雖も大概は、相対的なものである。神聖呼ばはりは片腹痛い。現代の不良青年などが、恋愛神聖を叫んで彼是と異性を求めて蠢動するのは、恋愛でも何でもない、唯情慾の奴隷である。