霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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直接内流・間接内流・外流


物語48-1-11923/01 舎身活躍亥 聖言

 宇宙には、霊界と現界との二つの区界がある。しかして霊界には、また高天原と根底の国との両方面があり、この両方面の中間に介在する一つの界があつて、これを中有界または精霊界といふのである。
 また現界一名自然界には、昼夜の区別があり、寒暑の区別があるのは、あたかも霊界に、天界と地獄界とあるに比すべきものである。
 人間は、霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。この原理を霊主体従といふのである。霊なるものは、神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。しかして人間には、一方に愛信の想念あるとともに、一方には、身体を発育し、現実界に生き働くべき体慾がある。この体慾は、いはゆる愛より来たるのである。しかし、体に対する愛は、これを自愛といふ。神より直接に来たるところの愛は、これを神愛といひ、神を愛し万物を愛する、いはゆる普遍愛である。また自愛は、自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであつて、これを自利心といふのである。
 人間は肉体のあるかぎり、自愛もまた必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に遡り、どこまでも真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。要するに人間は、霊界より見れば、すなはち精霊であつて、この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。ゆゑに人間は、霊的動物なるとともに、また体的動物である。
 精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかしてたいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。しかして精霊の善なるものを、正守護神といひ、悪なるものを、副守護神といふ。正守護神は、神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊すなはち副守護神に圧倒され、彼が頤使に甘んずるごとき卑怯なる精霊となる時は、精霊みづからも地獄界へともどもにおとされてしまふのである。この時は、ほとんど善の精霊は悪霊に併合され、副守護神のみ、吾物顔に跋扈跳梁するに至るものである。そしてこの悪霊は、自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られるものである。かくのごとき悪霊に心身を占領された者を称して、体主霊従の人間といふのである。また善霊も悪霊も皆これを一括して精霊といふ。
 現代の人間は百人がほとんど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、いづれも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は、宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼らは霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度をもつて、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。はなはだしきは体主体従的研究に堕してゐるものが多い。いづれも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、いはゆる天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲どものことである。
 すべて宇宙には霊界・現界の区別ある以上は、たうてい一方のみにてその真相を知ることは出来ない。自然界の理法に基づくいはゆる科学的知識をもつて、無限絶体無始無終、不可知不可測の霊界の真相を探らむとするは、実に迂愚癲狂も甚しといはねばならぬ。まづ現代の学者は、その頭脳の改造をなし、霊的事物の存在を少しなりとも認め、神の直接内流によつて、真の善を知り、真の真を覚るべき糸口を捕足せなくては、黄河百年の河清をまつやうなものである。今日のごとき学者の態度にては、たとへ幾百万年努力するとも、到底その目的は達することを得ないのである。夏の虫が冬の雪を信ぜないごとく、今日の学者はその智暗くその識浅く、かつ驕慢にして自尊心強く、何事も自己の知識をもつて、宇宙一切の解決がつくやうに、いなほとんどついたもののやうに思つてゐるから、実にお目出たいといはねばならぬのである。天体の運行や大地の自転運動や、月の循行、寒熱の原理などについても、まだ一としてその真を得たものは見当らない。徹頭徹尾、矛盾と撞着と、昏迷惑乱とに充たされ、暗黒無明の域に彷徨し、太陽の光明に反き、わづかに陰府の鬼火の影を認めて、大発明でもしたやうに騒ぎまはつてゐるその浅ましさ、少しでも証覚の開けたものの目より見る時は、実に妖怪変化の夜行するごとき状態である。現実界の尺度は、すべて計算的知識によつて、そのある程度までは考察し得られるであらう。しかしなにほど数学の大博士とはいへども、その究極するところは、たうてい割り切れないのである。例へば十を三分し、順を追うて、おひおひ細分しゆく時は、その究極するところは、ヤハリ細微なる一といふものが残る。この一は、なにほど鯱矛立ちになつて研究してもたうてい能はざるところである。自然界にあつて、自然的事物すなはち科学的研究をどこまで進めても、解決がつかないやうな愚鈍な暗冥な知識をもつて、焉んぞ霊界の消息門内に一歩たりとも踏み入ることが出来ようか。
 口述者が霊界より、大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流によつて、暗迷愚昧なる現界人に対し、霊界の消息を洩らすのは、何だか豚に真珠を与ふるやうな心持ちがする。かく言へば瑞月は、癲狂者あるひは誇大妄想狂として、一笑に附するであらう。しかしながら自分の目より見れば、現代の学者くらゐ始末の悪い、分らずやはないと思ふ。プラス、マイナスを唯一の武器として、絣や金米糖をゑがき、現界の研究さへも、まだその門戸に達してゐない自称学者が、霊界のことに嘴を容れて、審神者をしようとするのだから、実に滑稽である。ゆゑにこの『霊界物語』も、これを読む人々の智慧証覚の度合の如何によつて、その神霊の感応に応ずる程度に、幾多の差等が生ずるのは已むを得ないのである。
 宇宙の真理は開闢のはじめより、億兆万年の末にいたるも、決して微塵の変化もないものである。しかしながら、これに相対する人間の智慧証覚の賢愚の度によつて種々雑多に映ずるのであつて、つまりその変化は真理そのものにあらずして、人間の知識そのものにあることを知らねばならぬのである。もし現代の人間が、大神の直接統治したまふ天界の団体に籍をおき、天人の列に加はることを得たならば、現代の学者のごとく無性やたらに頭脳を悩まし、心臓を痛め肺臓を破り、神経衰弱を来たさなくても、容易に明瞭に宇宙の組織紋理が判知さるるのである。
 憎まれ口はここらでお預かりとして、改めて本題に移ることとする。ここに霊界に通ずる唯一の方法として、鎮魂帰神なる神術がある。しかして人間の精霊が直接大元神すなはち主の神(または大神といふ)に向かつて神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、わが精霊の本源なる大神の御神格に帰一和合するの謂である。ゆゑに帰神は、大神の直接内流を受くるによつて、予言者として、最も必要なる霊界真相の伝達者である。
 次に大神の御神格に照らされ、知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来たり、神界の消息を、人間界に伝達するのを神懸といふ。またこれを神格の間接内流ともいふ。これもまた予言者を求めてその精霊を充たし、神界の消息を、ある程度まで人間界に伝達するものである。
 次に、外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふところの邪霊がある。これを悪霊または副守護神といふ。この情態を称して神憑といふ。
 すべての偽予言者、贋救世主などは、この副守の囁きを、人間の精霊みづから深く信じ、かつ憑霊自身も貴き神と信じ、その説き教へるところもまた神の言葉と、自ら自らを信じてゐるものである。すべてかくのごとき神憑は、自愛と世間愛より来たる凶霊であつて、世人を迷はし、かつ大神の神格を毀損すること最もはなはだしきものである。かくのごとき神憑は、すべて地獄の団体に籍をおき、現界の人間をして、その善霊を亡ぼし、かつ肉体をも亡ぼさむことを謀るものである。近来天眼通とか千里眼とか、あるひは交霊術の達人とか称する者は、いづれもこの地獄界に籍をおける副守護神の所為である。泰西諸国においては、今日やうやく現界以外に霊界の在ることを、霊媒を通じてやや覚り始めたやうであるが、しかしこの研究は、よほど進んだ者でも、精霊界へ一歩踏み入れたくらゐな程度のもので、たうてい天国の消息は夢想だにも窺ひ得ざるところである。たまには最下層天国の一部の光明を、遠方の方から眺めて、臆測を下した霊媒者も少しは現はれてゐるやうである。霊界の真相を充分とはゆかずとも、相当に究めた上でなくては、妄りにこれを人間界に伝達するのは、かへつて頑迷無智なる人間をして、ますます疑惑の念を増さしむるやうなものである。ゆゑに霊界の研究者は、もつとも霊媒の平素の人格についてよく研究をめぐらし、その心性を十二分に探査した上でなくては、好奇心にかられて、不真面目な研究をするやうなことでは、学者自身が中有界は愚か、地獄道に陥落するにいたることは、想念の情動上やむを得ないところである。
 さて、帰神も神懸も神憑も、概括して神がかりと称へてゐるが、その間に、非常の尊卑の径庭あることを覚らねばならぬのである。
 大本開祖の帰神情態を、口述者は前後二十年間、側にあつて伺ひ奉つたことがある。開祖は何時も、神様が前額より肉体にお這入りになるといはれて、いつも前額部を右手の拇指で撫でてゐられたことがある。前額部は、高天原の最高部に相応する至聖所であつて、大神の御神格の直接内流は、必ず前額より始まり、つひに顔面全部に及ぶものである。しかして人の前額は、愛善に相応し、額面は、神格の内分一切に相応するものである。畏れ多くも口述者が開祖を、審神者として永年問、ここに注目し、つひに大神の聖霊に充たされたまふ地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである。
 それからまた高天原には霊国、天国の二大区別があつて、霊国に住める天人は、これを説明の便宜上、霊的天人といひ、天国に住める天人を、天的天人といふことにして説明を加へようと思ふ。すなはち霊的天人より来たる内流(間接内流)は、人間肉体の各方面より感じ来たり、つひにその頭脳の中に流入するものである。すなはち前額および顳額より、大脳の所在全部に至るまでを集合点とする。
 この局部は、霊国の智慧に相応するがゆゑである。また天的天人よりの内流(間接内流)は、頭中小脳の所在なる後脳といふ局部、すなはち耳より始まつて、頸部全体にまで至るところより流入するものである、すなはちこの局部は、証覚に相応するがゆゑである。
 以上の、天人が人間と言葉を交へる時にあたり、その言ふところはかくのごとくにして、人間の想念中に入り来たるものである。すべて天人と語り合ふ者は、また高天原の光によつて、そこにある事物を見ることを得るものである。そはその人の内分(霊覚)は、この光の中に包まれてゐるからである。しかして天人は、この人の内分を通じて、また地上の事物を見ることを得るのである。すなはち天人は、人間の内分によつて、現実界を見、人間は天界の光に包まれて、天界に在るすべての事物を見ることが出来る。天界の天人は、人間の内分によつて世間の事物と和合し、世間はまた天界と和合するに至るものである。これを現幽一致、霊肉不二、明暗一体といふのである。
 大神が、予言者と物語りたまふ時は、太古すなはち神代の人間におけるがごとく、その内分に流入して、これと語りたまふことはない。大神は先づ、おのが化相をもつて精霊を充たし、この充たされた精霊を予言者の体に遣はしたまふのである。ゆゑにこの精霊は、大神の霊徳に充ちて、この言葉を予言者に伝ふるものである。かくのごとき場合は、神格の流入ではなくて伝達といふべきものである。
 伝達とは、霊界の消息や大神の意思を、現界人に対して告示する所為をいふのである。
 しかして、これらの言葉は、大神より直接に出で来たれる聖言なるをもつて、一々万々確乎不易にして、神格にて充たされてゐるものである。しかして、その聖言の裡には、いづれもみな内義なるものを含んでゐる。しかして天界にある天人は、この内義を知悉するには、霊的および天的意義をもつてするがゆゑに、ただちにその神意を了解し得れども、人間は何事も自然的、科学的意義に従つてその聖言を解釈せむとするがゆゑに、懐疑心を増すばかりで、たうてい満足な解決はつけ得ないのである。ここにおいてか大神は、天界と世界すなはち現幽一致の目的を達成し、神人和合の境に立ち到らしめむとして、瑞霊を世に降し、直接の予言者が伝達したる聖言を、詳細に解説せしめ、現界人を教へ導かむとなしたまうたのである。
 精霊はいかにして、化相によつて大神より来たる神格の充たすところとなるかは、今述べたところを見て明らかに知らるるであらう。
 大神の御神格に充たされたる精霊は、自分が大神なることを信じ、またその所言の神格より出づることを知るのみにして、その他は一切知らない。しかしてその精霊は、言ふべきところを言ひつくすまでは、自分は大神であり、自分の言ふことは大神の言である、と固く信じ切つてゐるけれども、一旦その使命を果すに至れば、大神は天に復りたまふがゆゑに、にはかにその神格は劣り、その所言はよほど明晰を欠くがゆゑに、そこに至つて、自分はヤツパリ精霊であつたこと、また自分の所言は、大神より言はしめたまうたことを知覚し、承認するにいたるものである。大本開祖のごときは、始めより大神の直接内流によつて、神の意思を伝へをること、および自分の精霊が神格に充たされて、万民のために伝達の役を勤めてゐたことをよく承認してゐられたのである。その証拠は『大本神諭』の各所に明確に記されてある。今更ここに引用するの煩を省いておくから、開祖の『神諭』について研究さるれば、この間の消息は明らかになることと信ずる。
 開祖に直接帰神したまうたのは、大元神大国治立尊様で、その精霊は、稚姫君命と国武彦命であつた。ゆゑに『神諭』の各所に……此世の先祖の大神が国武彦命と現はれて……とか又は…稚姫君の身魂と一つになりて、三千世界(現幽神三界)の一切の事を、世界の人民に知らすぞよ……と現はれてゐるのは、いはゆる精霊界なる国武彦命、稚姫君命の精霊を充たして、予言者の身魂すなはち天界に籍をおかせられた、地上の天人なる開祖に来たつて、聖言を垂れさせたまうことを覚り得るのである。
 前巻にもいつた通り、天人は、現界人の数百言を費やさねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、わづかに一二言にて、その意味を通達し得るものである。ゆゑに開祖すなはち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直ちにその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それゆゑに、その聖言を細かく説いて、世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来たり、その手を通じ、その口を通じて、一二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめむために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。
 ゆゑに開祖の『神諭』を、そのまま真解し得らるる者は、すでに天人の団体に籍をおける精霊であり、また中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明によつて、間接諒解を得なくてはならぬのである。しかして、この詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差しはさみ、研究的態度に出でむとする者は、いはゆる暗愚無智の徒にして、学で知慧のできた途中の鼻高、似而非学者の徒である。かくのごとき人間は、已にすでに地獄界に籍をおいてゐる者なることは、相応の理によつて明らかである。かくのごとき人は、容易に済度し難きものである。何故ならば、その人間の内分は全く閉塞して、上方に向かつて閉ぢ、外分のみ開け、その想念は神を背にし、脚底の地獄にのみ向かつてゐるからである。しかしてその知識はくらみ、霊的聴覚は鈍り、霊的視覚は眩み、いかなる光明も、いかなる音響も、容易にその内分に到達せないからである。されど、神は至仁至愛にましませば、かくのごとき難物をも、いろいろに身を変じたまひて、その地獄的精霊を救はむと、昼夜御心を悩ませたまひつつあるのである。あ丶惟神霊幸倍坐世。
(大正十二年一月十二日旧十一年十一月二十六日松村真澄録)


物語48-3-14 1923/01 舎身活躍亥 至愛

『すべて霊界は想念の世界でございます。それゆゑ情動の変移によつて、国土相応の証覚に住するのですから、先づそれで順序をお踏みになつたのです。高天原の規則は大変厳格なもので、たがひにその範囲を犯すことは出来ないやうになつてをります。最高天国、中間天国、下層天国および三層の霊国は、厳粛な区別を立てられ、各天界の諸天人は、たがひに往来することさへも出来ないのです。下層天国の天人は、中間天国へ上ることはできず、また上天国の者は、以下の天国に下ることも出来ないのが規則です。もしも下の天国より上の天国に上り行く天人があれば、必ず甚くその心を悩ませ、苦しみ悶え、自分の身辺に在る物さへ見えないやうに、眼が眩むものです。ましてや上天国の天人と言語を交ゆることなどは到底できませぬ。また上天国から下天国へ下り来たる天人は、忽ちその証覚を失ひますから、言語を交へむとすれば、弁舌渋りて重く、その意気は全く沮喪するものです。ゆゑに下層天国の天人が、中間天国に至るとも、また中間天国の天人が、最奥天国に至るとも、決してその身に対して幸福を味はふことは出来ませぬ。わが居住の天国以上の天人は、その光明輝き、その威勢に打たるるがゆゑに、目もくらみ、ただ一人の天人をも見ることができませぬ。つまり内分なるもの、上天国天人のごとく開けないがためであります。ゆゑに目の視覚力も明らかならず、心中に非常な苦痛を覚え、自分の生命の有無さへも覚えないやうな苦しみに遇ふものです。しかしながら貴方がたは、大神様の特別のお許しを受け、媒介天人すなはち霊国の宣伝使に伴はれて、お上りになりましたから、各段および各団体に交通の道が開かれ、そのため巡覧が首尾よく出来たのです。しかして大神様は、上天と下天の連絡を通じたまふに、二種の内流によつてこれを成就したまふのです。しかして二種の内流とは、一は直接内流、一は間接内流であります』
玉依『直接内流間接内流とは如何なる方法をいふのでございますか』
『大神様は、上中下三段の天界をして、打つて一丸となし、一切の事物をして、その元始より終局点に至るまで、ことごとく連絡あらしめ、一物といへども洩らさせたまふことはありませぬ。しかして直接内流とは、大神様から直ちに天界全般に御神格の流入するものであり、間接内流とは、各天界と天界との間に、神格の流れ通ずるのをいふのです』
治国『いかにも、それにて一切の疑問が氷解いたしました。私はこれよりお暇を申し、現界へ帰らねばなりませぬ。しかしながらどちらへ帰つてよいか、サツパリ分らなくなりました。最高天国から下るについて、折角いただいた吾が証覚が鈍り、今では元の杢阿弥、サツパリ現界の方角さへも見えなくなつてしまひました。これでも現界へ帰りましたら、神様に賜はつた神力が依然として保たれるでせうか』
『現界において最奥天国におけるがごとき智慧証覚は必要がありませぬ。ただ必要なるは、愛と信のみです。そのゆゑは、最高天国の天人の証覚は、第二天国人の知覚に入らず、第二天国人の証覚は、第三天国人のよく受け入るるところとならないやうに、中有界なる現界において、あまり最高至上の真理を説いたところで有害無益ですから、ただ貴方が大神様に授かりなさつたその神徳を、腹の中に納めておけば可いのです。大神様でさへも地上に降り、世界の万民を導かむとなしたまふ時は、ある精霊にその神格を充たし、化相の法によつて予言者に現はれ、予言者を通じて現界に伝へたまふのであります。それゆゑ、神様は和光同塵の相を現じ、人見て法説け、郷に入つては郷に従へとの、国土相応の活動を遊ばすのです。あなたがいま最高天国より、だんだんお下りになるにつけ、証覚が衰へたやうに感じられたのは、これは自然の摂理です。これから現界へ出て、訳のわからぬ人間へ、最高天国の消息をお伝へになつたところで、あたかも猫に小判を与ふると同様です。まづ貴方が現界へお帰りになれば、中有界の消息を程度として、万民を導きなさるがよろしい。その中において少しく身魂の研けた人間に対しては、第三天国の門口ぐらゐの程度でお諭しになるがよろしい。それ以上お説きになれば、かへつて人を慢心させ、害毒を流すやうなものです。人三化七の社会の人民に対して、あまり高遠なる道理を聞かすのは、かへつて疑惑の種を蒔き、つひには霊界の存在を否認するやうな不心得者が現はれるものです。ゆゑに現界において、数多の学者どもが首を集め頭を悩ませ、霊界の消息を探らむとして、霊的研究会などを設立してをりますが、これも霊相応の道理により、中有界の一部分よりほかは、一歩も踏み入るることを霊界において許してありませぬ。それゆゑ、あなたは現界へ帰り、学者にお会ひになつた時は、その説をよく聴き取り、対者の証覚の程度の上を、ホンの針の先ほど説けば可いのです。それ以上お説きになれば、彼らはたちまちわが癲狂痴呆たるを忘れ、かへつて高遠なる真理を、反対的に癲狂者の言となし、痴呆の語となし、精神病者扱ひをするのみで少しも受け入れませぬ。ゆゑに、現界の博士、学士連には、霊相応の理によつて、肉体のある野天狗や狐狸、蛇などの動物霊に関する現象を説示し、卓子傾斜運動、空中拍手音、自動書記、幽霊写真、空中浮き上がり、物品引き寄せ、超物質化、天眼通、天言通、精神印象鑑識、読心術、霊的療法などの地獄界および精霊界の劣等なる霊的現象を示し、霊界の何ものたるをお説きになれば、それが現代人に対する身魂相応です。それでも神界と連絡の切れた人獣合一的人間は非常に頭を悩ませ、学界の大問題として騒ぎ立てますよ。アツハ丶丶丶』


物語47-2-8 1923/01 舎身活躍戌 中有

 すべて人間には二箇の門が開かれてある。さうしてその一つは高天原に向かつて開き、一つは根底の国に向かつて開いてゐる。高天原に向かつて開く門口は、愛の善と信の真とを入れむがために開かれ、一つは、あらゆる悪業と虚偽とにをるもののために、地獄の門が開かれてあるのだ。さうして高天原より流れ来たるところの神様の光明は、上方の隙間から、わづかに数条の線光が下つてゐるに過ぎない。人間がよく思惟し、究理し、言説するは、この光明によるものである。善にをり、また従つて真にをるものは、自ら高天原の門戸は開かれてゐるものである。
 人間の理性心に達する道は、内外二つに分れてゐる。最も高き道すなはち内分の道は、愛の善と信の真とが、大神より直接に入りくる道である。さうして、一つは低い道すなはち外部の道である。
 この道は、根底の国より、あらゆる罪悪と虚偽とが忍び入るの道である。この内部、外部の道の中間に位してゐるのが、いはゆる理性心である。以上二つの道は、これに向かうてゐるゆゑに、高天原より大神の光明入り来たるかぎり、人間は理性的なることを得れども、この光明を拒みて入れなかつたならば、その人間は、自分がなにほど理性的なりと思ふとも、その実性においては、すでにすでに滅びてゐるものである。
 人間の理性心といふものは、その成立の最初に当つて、必ず精霊界に相応するものである。ゆゑに、その上にあるところのものは、高天原に相応し、その下にあるものは、心ず根底の国へ相応するものである。高天原へ上り得る準備を成せるものにあつては、その上方の事物がよく開けてゐるけれども、下方の事物は全く閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けないものである。これに反し、根底の国へ陥るべき準備をなせるものにあつては、低き道すなはち下方の事物は開けてゐるが、内部の道すなはち上方の事物、霊的方面は全く閉鎖せるがゆゑに、愛善と信真の内流を受けることが出来ない。これをもつて、前者はただ頭上すなはち高天原を仰ぎ望み得れども、後者はただ脚下すなはち根底の国を望み見るより外に途はないのである。さうして頭上を仰ぎ望むはすなはち大神を拝し霊光に触れ、無限の歓喜に浴し得れども、脚下すなはち下方を望むものは、誠の神に背いてゐる身魂である。


物語47-2-9 1923/01 舎身活躍戌 愛と信

 真の神は、月の国においては、瑞の御霊の大神と現はれ給ひ、日の国においては、厳の御霊の大神と現はれ給ふ。さうして、厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の大神を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出されるものである。かくのごとき人間は、高天原より嘗て何等の内流なきゆゑに、次第に思索力を失ひ、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ちいたり、つひには精神衰弱して唖のごとくなり、あるひはその言ふところは、痴呆のごとくになつて歩々進まず、その手は垂れてしきりに慄ひ戦き、四肢関節は全く力を失ひ、餓鬼、幽霊のごとくなつてしまふものである。また瑞の御霊の神格を無視し、その人格のみを認むるものも同様である。天地の統御神たる、日の国にまします厳の御霊に属する一切の事物は、のこらず瑞の御霊の大神の支配権に属してゐるのである。ゆゑに瑞の御霊の大神は、大国常立大神を初め、日の大神、月の大神そのほか一切の神権を一身にあつめて、宇宙に神臨したまふのである。この大神は、天上を統御したまふと共に、中有界、現界、地獄をも統御したまふは、当然の理であることを思はねばならぬ。さうして厳の御霊の大神は、万物の父であり、瑞の御霊の大神は、万物の母である。すべて高天原は、この神々の神格によつて形成せられてゐるものである。
 ゆゑに瑞の御霊の聖言にも「我を信ずるものは無窮の生命を得、信ぜざるものはその生命を見ず」と示されてゐる。また「我は復活なり、生命なり、愛なり、信なり、道なり」と示されてある。しかるに不信仰の輩は、高天原における幸福とは、ただ自己の幸福と威力にありとのみ思ふものである。瑞の御霊の大神は、総ての神々の御神格を、一身に集注したまふがゆえゑに、その神より起こり来たるところの御神格によつて、高天原の全体は成就し、また個々の分体が成就してをるのである。人間の霊体、肉体心、この神の神格によつて成就してゐるのは無論のことである。さうして瑞の御霊の大神より起こり来たるところの神格とは、すなはち愛の善と信の真とである。高天原に住める天人は、総てこの神の善と真とを完全に摂受して、生命を永遠に保存してゐるのである。さうして高天原は、この神々によつて完全に円満に構成せらるるのである。
 現界の人間自身の志すところ、為すところの善なるもの、また思ふところ、信ずるところの真なるものは、神の御目より御覧したまふ時は、その善も決して善でなく、その真も決して真でない、瑞の御霊の大神の御神格によりてのみ、善たり真たるを得るものである。人間自身より生ずる善、または真は、御神格より来たるところの活力を欠いでをるからである。御神格の内流を見得し、感得し、摂受して、ここに立派なる高天原の天人となることを得るのである。
 さうして人間には、一霊四魂といふものがある。一霊とは、すなはち真霊であり、神直日、大直日と称するのである。さうして、神直日とは神さま特有の直霊であり、大直日とは、人間が神格の流入を摂受したる直霊をいふのである。さうして、四魂とは和魂、幸魂、奇魂、荒魂をいふのである。この四魂は、人間はいふに及ばず、高天原にも現実の地球の上にも、それぞれの守護神として儼存しあるのである。そして、荒魂は勇を司り、和魂は親を司り、奇魂は智を司り、幸魂は愛を司る。さうして、信の真は四魂の本体となり、愛の善は四魂の用となつてゐる。さうして、直霊は瑞の御霊の大神の御神格の御内流、すなはち直流入された神力である。ゆゑに、瑞の御霊の御神格は、総ての生命の原頭とならせたまふものである。この大神より人間に起来するものは、神善と神真である。故にわれわれ人間の運命は、この神より来たる神善と神真を、いかに摂受するかによつて定まるものである。そこで信仰と生命とにあつてこれを受くるものは、その中に高天原を顕現し、またこれを否むものは、やむを得ずして地獄界を現出するのである。
 神善を悪となし、神真を偽りとなし、生を死となすものは、また地獄を現出しなくては已まない。現代の学者は、いづれも自然界の法則や統計的の頭脳をもつて、不可測、不可説なる霊界の事象を、おほけなくも測量せむとなし、瑞の御霊の神示を否むものは、暗愚迷妄の徒にして、いはゆる盲目学者といふべき厄介ものである。たうてい霊界の事は、現実界の規則をもつて窺知し得べからざることを悟らないためである。神はかくのごとき人間を見て、癲狂者となし、あるひは痴呆となして、救済の道なきを悲しみ給ふものである。かかる人間は、総てその精霊を地獄の団体に所属せしめてゐるのである。かかる盲学者は、神の内流を受けて伝達したる霊界物語のある個所を摘発して、わが知識の足らざるを顧みず、種々雑多と批評を加へ、甚だしきは、不徹底なる自己の考察力をもつて、これを葬り去らむとする罪悪者である。高天原の団体にその籍を置き、現代において既に天人の列に列したる人間の精霊は、吾人の生命および一切の生命は、瑞の御霊の御神格より起来せる道理を証覚し、世にある一切のものは、善と真とに相関する事を知覚してゐるものである、かかる人格者の精霊を称して、地上の天人といふのである。
 人間の意思的生涯は、愛の生涯であつて、善と相関し、知性的生涯は、信仰の生涯にして、真と相関するものである、さうして一切の善と真とは、みな高天原より来たるものであり、生命一切の事また高天原より来たることを悟り得るのが天人である。ゆゑに霊界の天人も、地上の天人も、右の道理を堅く信ずるがゆゑに、その善行に対して、他人の感謝を受けることを悦ばないものである。
 もし人あつて、これらの諸善行を、彼の天人らの所有に帰せむとする時は、天人は大いに怒つて引退するものである。人の知識や人の善行は、みなその人自してしかるものと信ずるごときは、悪霊の考へにして、たうてい天人どもの解し得ざるところである。故に自己のためになすところの善は決して善ではない、何となれば、それは自己の所為なるが故である。されど自己のためにせず、善のためになせる善は、いはゆる神格の内流より来たるところの善である。
 高天原はかくのごとき善、すなはち神格によつて成立してゐるものである。


物語47-2-10 1923/01 舎身活躍戌 震士震商

『ハイ、特別の御憐愍をもつて、地獄落ちの猶予期間をお与へ下さいまして有難うございます。左様なれば、これから中有界を遍歴し、力一杯善のために善を行ひ、迷ひ来る精霊に対し、十分の努力をもつて、私の悟り得たるところを伝へるでございませう』
『コリヤコリヤ、ハリス、その方が覚り得たと思つたら大変な間違ひであるぞ。みな神さまの御神格の内流によつて、知覚し、意識し、証覚を得るものだ。決して汝一力のものと思つたら、たちまち天の賊となつて、地獄へ落ちねばならないぞ、ええか、分つたか』


物語47-3-15 1923/01 舎身活躍戌 公義正道

最奥一の天国に        在る天人の想念と
その情動と言語とは      決して中間天国の
天人どもの知覚し得る     ものには非ず何故ならば
最奥の天国人の一切は     中天界の事物より
勝れて超絶すればなり     さはさりながら大神の
心に叶ひしその時は      中天国の天人は
上天高く仰ぎ見て       火焔のごとき光彩を
天空高く見るものぞ      また中天の天人の
想念および情動と       言語はさながら光明の
ごときものとし最下層の    天国人より見るを得む
その光彩は輝きて       いろいろ雑多の色をなし
あるひは雲と見ゆるあり    その雲および光彩の
上下の模様を初めとし     その形態に思索して
ある程度まで上天に      おける天人もろもろの
言説しをる状態を       はるかに悟り得らるなり
最高奥の天国は        いと円満に具足して
神光輝きみち渡り       中天界に比ぶれば
円満の度はいと高し      次に最下の天国に
下るにおよんでその度合    一層低きを加ふべし
また甲天の形式は       神より来たる内流
よりて全く乙天の       ために永久に存在す。

(中略)

 高天原には三つの度あるごとく、各天人の生涯にもまた、三つの度があつて、最高第一の天国および霊国にあるものは、第三度すなはち最奥の度が開けてをり、中間の天界と最下の天界とは塞がり、また中間天界にをるものは、第二度のみ開けて、上天と下天とは塞がれ、また最下層の天界にあるものは、第一度のみ開けて、中間天界と上天界とは塞がつてゐるのである。故にもし、上天国の天人にして、中天国の団体を瞰下して、これと相語ることあらむには、上天人が有する第三度はたちまち塞がつてしまふのである。しかして、その閉塞とともに証覚までも亡ぶのである。何ゆゑなれば、上天国の天人の証覚は、第三度に住し、第一および第二の度にをらないからである。瑞の御霊の聖言に、
一、屋上にあるものは、その家のものを取らむとて下るなかれ。田にをるものは、その衣を取らむとて帰るなかれ。
一、その日には人屋上にあれば、その器具室にあるとも、これを取らむとて下るなかれ。また田畑にあるものも帰るなかれ。
と示されたるは、右の密意を示されたる言葉である。さうして下層の天界より、上層の天界へは神格の内流なるものがない。それは神の順序に逆らふからである。神は一名、順序と讃へ奉つてもよいものである。ゆゑに上天界より下天界に向かつては内流がある。さうして上天界の天人の証覚は、下天界の天人に勝ること万と一とに比例するのである。これまた下天界の天人が、上天界の天人と相語ることの出来ない理由である。たとへ下天界の天人が仰ぎ望むことあるも、更に更にその姿を見ることを得ず、ただ上天界はなほ雲が頭上にかかつてゐるごとく見えるばかりである。これに反し、上天界の天人は、下天界の天人を見ることが出来る。しかしながら、これと相語ることは出来ない。もしも下天界人と相語るやうなことがあれば、たちまちその証覚を失ふものである。


物語47-3-18 1923/01 舎身活躍戌 一心同体

『これはこれは珍彦様、えらい御厄介に預かりました。先生をなにぶん宜しくお願ひいたします』
『イエイエ、決して私があなたのお世話をしたのぢやございませぬ。また御厄介になつたなぞと礼をいはれては、大変に迷惑をいたします。何事もわれわれは大神様の御命令のままに、機械的に活動してゐるのでございますから、もし一つでも感謝すべき事があれば、すぐさま大神様に感謝して下さいませ。すべて吾々は、大神様の善と真との内流によつて働かしていただくばかりでございます。われわれ天人として、どうして一力で虫一匹助けることが出来ませう』
治国『なるほど、さすが天国の天人様、真理に明るいのには感服のほかございませぬ』
『神様の御神格の内流を受けまして、実に楽しき生涯を、われわれ天人は送らしていただいてをります』
竜公『モシ珍彦様、この団体の天人は、いづれも若い方ばかりですな。そしてどのお方の顔を見ても、本当に能く似てゐるぢやありませぬか』
『左様です、人間の面貌は心の鏡でございますから、愛の善に充ちた者同士、同気相求めて群居してゐるのですから、内分の同じき者は、従つて外分も相似るものでございます。それゆゑ、天国の団体には、あまり変はつた者がございませぬ。心が一つですから、ヤハリ面貌も姿も同じ型に出来てをります』
『なるほど、それで分りました。しかしながら、子供は沢山あるやうですが、三十以上の面貌をした老人は、ねつから見当りませぬが、天国の養老院にでも御収容になつてゐるのですか』
『人間の心霊は不老不死ですよ。天人だとて人間の向上発達したものですから、人間の心は、男ならば三十才、女ならば二十才くらゐで、たいてい完全に成就するでせう。しかして、たとへ肉体は老衰しても、その心はどこまでも弱りますまい。いなますます的確明瞭になるものでせう。天国はすべて想念の世界で、すべて事物が霊的でございますから、現界において、なにほど老人であつたところが、天国の住民となれば、あの通り、男子は三十才、女子は二十才くらゐな面貌や肉付きをしてゐるのです。それだから天国にては不老不死といつて、いまはしい老病生死の苦は絶対にありませぬ』
『なるほど、感心いたしました。われわれはたうてい容易に、肉体を脱離したところで、天国の住民になるのは六ケしいものですなア。いつまでも中有に迷ふ八衢人間でせう。実にあなた方の光明に照らされて、治国別は何とも慚愧にたへませぬ』
『イヤ決して御心配は要りませぬ。あなたはキツとある時機が到来して、肉体を脱離したまうた時は、立派なる霊国の宣伝使にお成りなさいますよ。いかなる水晶の水も、氷とならば忽ち不透明となります。あなたの今日の情態はすなはちその氷です。一たび光熱に会うて、元の水に復れば、依然として水晶の清水です。
肉体のある間は、なにほど善人だといつても、証覚が強いといつても、肉体といふ悪分子に遮られますから、これは止むを得ませぬ。しかし肉体の保護の上において、少々の悪も必要であります。精霊も人間も、ヤハリこの体悪のために、現界においては生命を保持し得るのですからなア』
『ヤ有難う、その御説明によつて、私もやや安心をいたしました。
アゝ大神様、珍彦様の口を通して、尊き教を垂れさせたまひ、実に感謝にたへませぬ。あゝ惟神霊幸はへませ』
竜公『天国においては、すべての天人は、日々何を職業にしてゐられるのですか。田畑もあるやうなり、いろいろの果樹も作つてあるやうですが、あれは何処から来て作るのですか』
『天人が各自に農工商を励み、たがひに喜び勇んで、その事業に汗をかいて、従事してゐるのですよ』
『さうすると、天国でもずゐぶん現界同様に忙しいのですなア』『現界のやうに、天国にては人を頤で使ひ、自分は、金の利息や株の収益で遊んで暮す人間はありませぬ。上から下まで心を一つにして共々に働くのですから、何事も埓よく、早く事業がはかどります。ちやうど一団体は、人間一人の形式となつてをります。たとへば、ペン一本握つて原稿を書くにも、外観から見れば、一方の手のみが働いてをるやうにみえます。その実は、脳髄も心臓肺臓は申すにおよばず、神経繊維から運動機関、足の趾の先まで緊張してゐるやうなものです。今日の現界のやり方は、ペンを持つ手のみを動かして、はたの諸官能は、我関せず焉といふ行り方、それではとても治まりませぬ。天国では上下一致、億兆一心、大事にも小事にも当るのですから、何事も完全無欠に成就いたしますよ。人間の肉体が、一日働いて夜になつたら、凡てを忘れて、安々と眼りにつくごとく、休む時はまた団体一同に快よく休むのです。私は天人の団体より選まれて、団体長を勤めてをりますが、私の心は、団体一同の心、団体一同の心は、私の心でございますから……』
治国『なるほど、現界もこの通りになれば、地上に天国が築かれるといふものですなア。たとへ一日なりとも、こんな生涯を送りたいものです。天国の団体と和合する想念の生涯が送りたいものでございます』
『あなたは已に、天国の団体にお出でになつた以上は、私の心はあなたの心、あなたの智性は私の智性、融合統一してをればこそ、かうして相対坐してお話をすることが出来るのですよ。ただ今の心を何時までもお忘れにならなかつたならば、いはゆるあなたは、たとへ地上へ降られても天国の住民ですよ。しかしながら、あなたは大神様より現界の宣伝使と選まれて、死後は霊国へ昇つて宣伝使となり、天国布教の任に当らるべき方ですから、到底その時は、吾々の智慧証覚は、あなたのお側に寄りつくことも出来ないやうになりますよ。あなたが霊国の宣伝使にお成りなさつた時は、わが団体へも時々御出張を願ふことが出来るでせう』
『なるほど、さう承ればさうに間違ひはございませぬ』
『先生、慢心しちやいけませぬよ』
『イヤ、決して慢心でない、珍彦様の心は治国別の心と和合し、治国別の心は珍彦様と和合し、珍彦様は大神様の内流を受け、大神様と和合してござるのだから、少しも疑ふ余地はない。お言葉を信ずればいいのだ。高天原には、愛善と信真とより外にはないのだ。疑ひを抱くのは、中有界以下の精霊の所為だ』
『さうすると、あなたは已に天人気取りになつてゐるのですか、まだ精霊ぢやありませぬか』
『すでに天人となつてゐるのだ。珍彦様も同様だ』
『へーン、さうですか、そら結構です、お目出たう。そしてこの竜公はどうですか、ヤツパリ天人でせうなア』
『無論天人様だ。大神様の御内流を受けた尊き天人様だよ』
『何だか乗せられてゐるやうな気がいたしますワ。モシ、先生、からかつちやいけませぬよ』
珍彦『アハ丶丶丶』
治国『ウツフ丶丶丶』
竜公『オホ丶丶丶』
『コレ竜公、オホ…なんて、おチヨボロをして女の声を出しちや、みつともよくないぢやないか』
『木の花姫様の御神格の内流によりまして、善と真との相応により、たちまち神格化し、竜公は何も知らねども、内分の神音が外分に顕現したまでですよ。オツホ丶丶丶』
三人の笑ひ声に引きつけられて、勝手元に在つた珍姫は、この場に現はれ来たり、三人の前に手を仕へ、
『遠来のお客様、よくもゐらせられました。私は珍彦の妻珍姫と申します』
治国『何と御挨拶を申してよいやら、天国の様子は一向不案内、しかしながら、いま珍彦様に承れば、同気相求むるをもつて、かく和合の境遇にありとのこと、さすれば、あなたの心は私の心、私の心は貴女の心、他人行儀の挨拶もできず、また自分と同様とすれば、自分に対しての挨拶も分らず、実は困つてをります』
『ハイ私もその通りでございます。現界的虚礼虚式は止めまして、万年の知己、いな同心同体となつて、打き解け合うて、珍しき話を聞かしていただきませう』
『どうも現界の話は、罪悪と虚偽と汚穢にみち、かかる清浄なる天国へ参りましては、口にするも厭になつて参りました。それよりも天国のお話を承りたいものでございます』
『ハイ、惟神の許しを得ましたならば、あなたが何ほど喧しいとおつしやつても、いかなることを申し上げるか分りませぬ。弓弦をはなれた矢のやうに、当る的に当らねばやまないでせう。ホツホ丶丶丶』
竜公『モシ珍姫さま、あなたは珍彦さまと服装が違ふだけで、お顔はソツクリぢやありませぬか。ヨモヤ現界において、双児にお生まれになつたのぢやありますまいかなア』
『コレ竜公、何といふ失礼なことをおつしやる。チツとたしなみなさい』
『それでも私の心に浮かんだのですよ。思ふところを言ひ、志すところをなすのが天国ぢやありませぬか。そんな体裁を作つて、現界流に虚偽を飾るやうなことは、天国には用ひられますまい。
天国は信の真をもつて光とするのですからなア』
『ヤ、恐れ入りました、アハ丶丶、天国へ出て来ると、治国別も失敗だらけだ。かうなると純朴な無垢な竜公さまは実に尊いものだな』
『ソリヤその通りです、本当に清らかなものでせう。ホツホ丶丶丶』
『また木の花姫の御神格の内流かな』
『これは竜公の副守の外流ですよ。モシ珍彦さま、どうぞ私の今の言葉が、天国を汚すやうなことがございますれば、直ちに宣直します』
『滑稽として承れば、たとへ悪言暴語でも、その笑ひによつてたちまち善言美詞と変化いたしますから、御心配なさいますな。
天国だつて、滑稽諧謔がいへないといふことがありますか、滑稽諧謔歓声は天国の花ですよ』
『ヤア有難い、先生、これで私も少し息ができますワイ』
『ウン、さうだなア、何だか私は身がしまるやうにあつて、どうしてもお前のやうに洒脱な気分になれないワ』
『ソラさうでせう、娑婆の執着がまだ残つてをりますからな。あなたは、再び肉体へ帰らうといふ慾があるでせう。私は第三天国でいつたでせう、もはや娑婆へは帰りたくないから、ここにをりたいといつたことを覚えてゐらつしやいませう。私はたとへふたたび現界へ帰るものとしても、刹那心ですからなア。過去を憂へず未来を望まず、今といふこの瞬間は、善悪正邪の分水嶺といふ三五教の真理を体得してますからなア』
『大変な掘出物を、治国別はとらまへたものだなア』
『本当に掘出物でせう。先生もこれだけ竜公に証覚が開けてるとは思はなかつたでせう。それだから、人は見かけによらぬものだと現界でもいつてませう』
『ハイ有難う、なにぶん宜しう願ひます』
『口先ばかりでは駄目ですよ。心の底から有難う思つてゐますか、まだ少しあなたの心の底には、竜公に対してやや軽侮の念が閃いてゐるでせう』
『ヤ恐れ入りました、あなたは大神様でございませう』
『大神様ぢやございませぬ。わが精霊に大神様の神格が充ち、竜公の口を通して、治国別にお諭しになつてゐるのですよ。時に珍彦さま、奥さまとあなたと、双児のやうによく似た御面相、その理由を一つ説明していただきたいものですなア』
『夫婦は愛と信との和合によつて成立するものです。いはゆる夫の智性は、妻の意思中に入り、妻の意思は、夫の智性中に深く入り込み、ここに始めて天国の結婚が行はれるのです。言はば、夫婦同心同体ですから、面貌の相似するは、相応の道理によつて避くべからざる情態です。現界人の結婚は、地位だとか名望だとか、世間の面目だとか、財産の多寡によつて、婚姻を結ぶのですから、いはば虚偽の婚姻です。天国の婚姻は、すべて霊的婚姻ですから、夫婦は密着不離の情態にあるのです。ゆゑに天国においては夫婦は二人とせず、一人として数へることになつてゐます。
 現界のやうに、人口名簿に男子何名、女子何名などの面倒はありませぬ。ただ一人二人といへば、それで一夫婦二夫婦といふことが分るのです。それで天国において、百人といへば頭が二百あります。これが現界と相違の点ですよ。君民一致、夫婦一体、上下和合の真相は、たうてい天国でなくては実現することは出来ますまい。治国別様も竜公様も、現界へお下りになつたら、どうか地上の世界をして、幾部分なりとも、天国気分を造つてもらひたいものですなア』
治国『ハイ微力の及ぶかぎり……いないな神様の御神格によつて吾が身を使つていただきませう。あゝ惟神霊幸倍坐世』
かく話すところへ、玄関口より一人の男現はれ来たり、
『珍彦様、祭典の用意が出来ました、サアどうぞ皆が待つてをります。お宮まで御出張下さいませ』
『アゝ御苦労でした。すぐさま参りませう。お二人さま、どうです、これから天国の祭典に加はり拝礼をなさつたら……』
『お供いたしませう』
『天国の祭典は定めて立派でせう。竜公もお供が叶ひますかなア』
『ハイさうなされませ』
治国『もし叶はなかつたら、木の花姫の神格の内流によつて、参拝すれば良いぢやないか、アハ丶丶ゝ』
竜公『ウーオーアー』
珍彦『竜公さま、どうぞお供をして下さい』
竜公『ハイ有難う』


物語47-3-201923/01 舎身活躍戌 間接内流

 高天原の天界を区分して、天国、霊国の二となすことは前に述べた通りである。概していへば、日の国すなはち天国は、人身に譬ふれば心臓および全身にして、心臓に属すべき一切のものと相応してゐる。また月の国すなはち霊国は、その肺臓および全身にして、肺臓に属すべき一切の諸機関と相応してゐる。さうして、心臓と肺臓とは、小宇宙、小天地にたとふべき人間における二つの国土である。
 心臓は、動脈、静脈により、肺臓は、神経と運動繊維によりて、人の肉体中に主治者となり、力の発するところ、動作するところ、必ずや右両者の協力を認めずといふことはない。各人の内分、すなはち人の霊的人格をなせる霊界の中にも、、また二国土があつて、一を意思の国といひ、一を智性の国といふ。意思は善に対する情動より、智性は真に対する情動によつて、人身内分の二国土を統治してゐるのである。これらの二国土は、また肉体中の肺臓、心臓の二国土とに相応してゐる。ゆゑに心臓は天国であり、意思の国に相応し、肺臓は霊国であり、智性の国と相応するものである。
 高天原においてもまた、以上のごとき相応がある。天国はすなはち高天原の意力にして、愛の徳これを統御し、霊国は高天原の智力にして、信の徳これを統御することになつてゐる。ゆゑに天国と霊国との関係は、人における心臓と肺臓との関係に全く相応してゐるものである。聖言に、心臓をもつて意を示し、また愛の徳を示し、肺臓の呼吸をもつて智および信の真を示すは、この相応によるからである。また情動なるものは心臓中にもあらず、心臓より来たらざれども、これを心臓に帰するは、相応の理に基くためである。高天原の以上二国土と、心臓および肺臓との相応は、高天原と人間との間における一般的相応である。さうして人身の各肢体および各機関および内臓等に対しては、かくのごとく一般的ならざる相応があるのである。
 今ここに高天原の全体を、巨人に譬へて説明することとしよう。
 巨人すなはち天界の頭部にをるものは、愛、平和、無垢、証覚、智慧の中に住し、従つて歓喜と幸福とに住するをもつて天界到るところ、この頭部における善徳に比すべきものはない。人間の頭部および頭部に属する一切のものに、その神徳流れ入つてこれと相応するのである。ゆゑに人の頭部は、高天原の最高の天国、霊国に比すべきものである。
 次に巨人すなはち天界の胸部にあるものは、仁と信との善徳中に住して、人の胸部に流れ入り、これと相応するものである。
一、巨人すなはち天界における腰部および生殖器機関に属するものは、いはゆる夫婦の愛に住してゐる、これは第二天国の状態であ
る。
一、脚部にあるものは、天界最劣の徳すなはち自然的および霊的善徳の中に住してゐる。
一、腕と手とにあるものは、善徳の中より出で来たる真理の力に住してゐる。
一、目にあるものは智に住し、耳にあるものは注意と従順に住し、鼻口に属するものは知覚に住してゐる。また、口と舌とに属するものは、智性と知覚とより出づる言語の中に住し、内腎に属するものは、研究し調査し分析し訂正するところの諸々の真理に住し、肝臓、膵臓、脾臓に属するものは、善と真といろいろに洗練するに長じてゐる。いづれも神の神格は、人体中に相似せる各局部に流入してこれと相応したまふ。天界よりの内流は、諸肢体の働きおよび用の中に入り、しかして具体的結果を現ずるがゆゑに、ここにおいてか相応なるものが行はれてくるものである。
一、人は智あり覚ある者を呼んで、彼は頭を持つてゐるとか、頭脳が緻密であるとか、よい頭だとかいつて称へ、また仁に厚いものを呼んで、彼は胸の友だとか、心が美しいとか、気のよい人だとか、心意気がよいとか称へ、知覚に勝れた人を呼んで、彼は鋭敏なる嗅覚を持つてゐるとか、鼻が高いとかいひ、智慮に秀でたものを呼んで、彼の視覚は鋭いといひ、あるひは鬼の目といひ、強力なる人を呼んで、彼は手が長いといひ、あるひは利くといひ、愛と心を基として、志すところを決するものを呼んで、彼の行動は心臓より出づるとか、心底から来たるとか、同情心が深いとか称へるのである。
 かくのごとく、人間の不用意のうちに使ふ言葉や諺は、尚この外にいくらとも限りないほどあるのは、相応の理に基いて、その実は厳の御霊の神示にある通り、何事も神界よりのお言葉なることは自覚し得らるるのである。
 治国別一行は人体における心臓部に相当する第二天国の、もつとも中枢部たるところを、今や巡覧の最中である。さうして、天国の組織は、最高天国が上、中、下、三段に区画され、中間天国がまた上、中、下、三段に区画され、最下層の天国また三段に区画されてある。各段の天国は、個々の団体をもつて構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合のいかんによりて、幾百ともなく個々分立し、到底これを明瞭に計算することは出来ないのである。また霊国も同様に区画され、信と智の善徳や、智慧証覚の度合によつて、霊国が三段に大別され、また個々分立して、数へつくせないほどの団体が作られてゐる。さうしてまた一個の団体の中にも、愛と信と智慧証覚の度のいかんによつて、あるひは中央に座を占め、あるひは外辺に居を占め、決して一様ではない。かくのごとく、天人の愛信と証覚の上に変移あるは、いはゆる勝者は劣者を導き、劣者は勝者に従ふ天然律が、惟神的に出来てゐるがために、各人皆その分度に応じて安んじ、少しも不安や怨恨や不満足等の起ることなく、きはめて平和の生涯を送りゐるものである。
 さて三人は、とある美はしき丘陵の上に着いた。天日晃々として輝きわたり、被面布を通して、その霊光は厳しく放射し、治国別はほとんど目も眩むばかりになつてきた。竜公もやや身体の各部に苦悶を兆してきた。五三公は依然として被面布も被らずここまで進んで来たのである。
五三『皆さま、大変に御疲労のやうですから、ここで山野の景色を眺めて、しばらく休養さしていただきませうか』
治国『ハイ、さういたしませう。何だか神様の霊光にうたれて苦しくなつて参りました』
竜公『ヤア私も何となしに苦痛を感じます。ラジオシンターでもあれば、一杯飲みたいものですな』
『ハ丶丶丶丶、ラジオシンターはあなたがたのやうな壮健な肉体の飲むものぢやありませぬ。あの薬は人体の組織を害しますからな。しかしながら、九死一生の病人には、とつたか、みたかですから宜いでせう。あの薬は、霊国より地上に下る霊薬であつて、これを服用すれば、いまだ現界に生きて働くべき人間は、速かに元気恢復し、また霊界に来たるべき運命にある人間が服用すれば、断末魔の苦痛を逃れ、楽々と霊肉脱離の苦しみを助くるものです。さうだから、あれは霊薬といつて霊国から下るものです』
竜公『霊体分離の時、地獄におつる精霊は、虚空をつかみ泡を吹き、或は暗黒色になり、非常な苦悶をするものですが、そのやうな精霊でも、やはり楽に霊肉脱離の難境を越えられますか』
『さうです。地獄へ直接落下すべき悪霊は、この霊薬の力によつて、肉体より逸早く逃走するがゆゑに、後には善霊すなはち正守護神のみが残り、安々と脱離の境を渡り得るのです。霊国においては、これをもつて霊丹といふ薬を作ります。治国別様やあなたが、第二天国の入口において木の花姫命よりお頂きになつた霊薬はすなはちそれです。霊に充ちてゐる薬だから、霊充といふのです。これを地上の人間は、ラヂウムと称へてゐるのですが、語源は、つまり一つですからな』
治国『ラジオシンターは止めにして、それなら、もう一度霊丹がいただきたいものですな』
『先生、自分の苦痛を薬によつて治さうなどといふ想念が起りますと、神様のお道に対しいはゆる冷淡(霊丹)になりやしませぬか。それよりも、天国は愛の熱によつて充たされてゐるのですから、大神直接の内流たる、愛の熱をいただくやうに願つたらどうでせう。私は最早、霊丹の必要もないやうに思ひますが……』
『さうだな、一か八かの時に用ふる霊薬だから、さう濫用するのは勿体ない。それよりも尊い神様の愛の熱をいただくことにいたしませう。あ丶惟神霊幸倍坐世』
『治国別さま、どうです、もうお疲れは直りましたか』
『ハイ、御神徳によつて、甦つたやうです』
竜公『それ御覧、惟神霊幸倍坐世と今おつしやつたでせう。その御神文の方が、霊充よりも、霊丹よりも効能が顕著でせう』
『ハイ、有難うございました』
 大神はかくのごとくにして、第三者の口をかり、第二者たる治国別に、諸々の真理を悟させ給うたのである。すべて人を教ふる身は、その人直接にいつては聞かないものである。人間といふものは、自尊心や自負心が強いものであるから、直接その人間に対して、教説らしきことをいへば、その人間は「ヘン、そのくらゐの事は、お前に聞かなくとも俺は知つてゐる。馬鹿馬鹿しい」と、テンデ耳に入れぬものである。ゆゑに第二者に直接教説すべきところを、第三者たる傍人に問答を発し、その第三者の口より談話的に話さしめて、これを第二者の耳に知覚に流入せしむる方が、よほど効験のあるものである。ゆゑに神界においても時々第一者と第三者が問答をなし、是非聞かしてやらねばならぬ第二者に対して、間接に教示を垂れたまふことが往々あるのである。今ここに大神は、五三公、竜公の両人をして問答をなさしめ、治国別の心霊に耳を通して諭さしめたのである。
『先生、大変な立派な日輪様がお上がりになりましたな。吾々の日々拝する日輪様とは、非常にお姿も大きく光も強いぢやありませぬか』
『さうだなア、吾々の現界で見る日輪様は、人間の邪気がこつて中空にさまようてゐるから、そのために御光が薄らいでゐるのだらう。天国へ来ると、清浄無垢だから、日輪様も立派に拝めるのだらうよ』
『それでも吾々の拝む日輪様とは、何だか様子が違ふぢやありませぬか。もし五三公さま、どうでせう』
『天国においては、大神様が日輪様となつて現はれ給ひます。地上の現界において見る太陽は、いはゆる自然界の太陽であつて、天国の太陽に比ぶれば非常に暗いものですよ。自然界の太陽より来たるものは、すべて自愛と世間愛に充ち、天国の太陽より来たる光は愛善の光ですから、雲泥の相違がありますよ。また霊国においては、大神様は月様とお現はれになります。大神様に変はりはなけれども、天人どもの愛と信と証覚のいかんによつて、あるひは太陽と現はれ給ひ、あるひは月と現はれ給ふのです』
竜公『やはり天国においても日輪様は東からお上がりになるのでせうな』
『地上の世界においては、日輪様が上りきられた最も高いところを南といひ、正にこれに反して、地下にあるところを北となし、日輪様が昼夜の平分線に上るところを東となし、その没するところを西となす事は、あなたがたの御存じの通りです。かくのごとく現界においては、一切の方位を南から定めますけれども、高天原においては、大神様が日輪様と現はれ給ふところを東となし、これに対するを西となし、それから高天原の右の方を南となし、左の方を北とするのです。さうして天界の天人は、何れのところにその顔と体躯とを転向するとも、みな日月に向かつてゐるのです。その日月に向かうたところを東といふのです。ゆゑに高天原の方位はみな東より定まります。何ゆゑなれば、一切のものの生命の源泉は、日輪様たる大神様より来たる故である。ゆゑに天界にては、厳の御魂、瑞の御魂をお東様と呼んでゐます』
治国『尊き厳の御魂、瑞の御魂の大神様、愚昧なる吾々を教導せむがために、五三公、竜公の口を通し、間接内流をもつて吾々にお示し下さいましたその御高恩を、有難く感謝いたします。あ丶惟神霊幸倍坐世惟神霊幸倍坐世』
(大正十二年一月十日旧十一年十一月二十四日北村隆光録)


物語47-3-21 1923/01 舎身活躍戌 跋文

かかる無智の原因には種々あれども、その重なるものは「我」と世間とに執着して、自ら霊界ことに天界より遠ざかれるに由るものである。何事をも差しおきて、吾と世間とを愛するものはただ外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむるところの世間的事物にのみ留意して、曽てその外を顧みず、すなはち内的感覚を楽しまし、心霊を喜ばしむるところの霊的事物に至つては、彼らの関心せざるところである。彼等がこれを斥くる口実に曰く、「霊的事物はあまり高きに過ぎて思想の対境となる能はず」云々。されど古の人なる宣伝使や信者たりしものは、これに反して、相応に関する知識をもつて、一切知識中の最も重要なるものとなし、これに由りて、智慧と証覚を得たものである。ゆゑに三五教の信者は、いづれも天界との交通の途を開きて、相応の理を知得し、天人の知識を得たものである。すなはち天的人間であつた太古の人民は、相応の理に基いて思索すること、なほ天人のごとくであつた。これゆゑに、古の人は天人と相語るを得たり、またしばしば主神をも相見るを得て、その教を直接に受けたものも沢山にある。三五教の宣伝使などは、主の神の直接の教を受けて、その心魂を研き、これを天下に宣伝したる次第は、この霊界物語を見るも明白である。現代の宣伝使に至つては、この知識まつたく絶滅し、相応の理の何たるかを知るものは、宗教各団体を通じて、一人も無いといつてもいいくらゐである。相応の何たるかを知らずしては、霊界について明白なる知識を有するを得ない。かく霊界の事物に無智なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることは出来ない。また霊的事物の自然的事物に対する関係をすら知ることが出来ない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体に及ぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、毫も明白なる思想を有すること能はず、故にいま何をか相応といひ、如何なるものを相応と為すかを説く必要があると思ふ。

(中略)

 けだし人間には、自然界と霊界と二つのものは具はつてゐるものである。人間はその霊的なることにおいて、和合の媒介者となるけれども、もし然らずして、自然的となればこの事あるを得ないのである。さはいへ、神格の内流は、人間の媒介を経ずとも、絶えず世間に流れ入り、また人間内の世間的事物にも流れ入るものである。ただしその理性的には入らぬものである。


物語48-3-10 1923/01 舎身活躍亥 天国の富

 現界すなはち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神の順序によりて相応なるものがある。また人間の万事と、天界の万物との間に動かすべからざる理法があり、又その連結によつて相応なるものがある。そして人間はまた、天人の有するところを総て有するとともに、その有せざるところをもまた有するものである。人間はその内分より見て、霊界にをるものであるが、それと同時に、外分より見て、人間は自然界にをるのである。人の自然的すなはち外的記憶に属するものを、外分と称し、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物をいふのである。約言すれば、人間の知識や学問等より来たる悦楽、および快感の総て世間的趣味を帯ぶるもの、また肉体の感官に属する諸々の快感、および感覚、言語、動作を合せて、これを人間の外分となすのである。これらの外分は、いづれも大神より来たる神的すなはち霊的内流が止まるところの終極点における事物である。何故なれば、神的内流なるものは、決して中途に止まるものでなく、必ずやその窮極のところまで進行するからである。この神的順序の窮極するところは、いはゆる万物の霊長、神の生宮、天地経綸の主宰者、天人の養成所たるべき人間なのである。ゆゑに人間は、すべて神様の根底となり、基礎となるべきことを知るべきである。また神格の内流が通過する中間は、高天原にして、その窮極するところは、すなはち人間に存する。ゆゑに、又この連結中に入らないものは、何物も存在することを得ないのである。ゆゑに、天界と人類と和合し連結するや、両々相倚りて、継続存在するものなることを明らめ得るのである。ゆゑに、天界を離れたる人間は、鍵のなき鎖のごとく、また人類を離れたる天界は、基礎なき家のごとくにして、双方相和合せなくてはならないものである。
 かくのごとき尊き人間が、その内分を神に背けて、高天原との連絡を断絶し、かへつてこれを自然界と自己とに向けて、自己を愛し、世間を愛し、その外分のみに向ひたるにより、従つて人間は、その身を退けてふたたび高天原の根底となり、基礎となるを得ざらしめたるによつて、大神は是非なく、ここに予言者なる媒介天人を設けて、これを地上に下し、その神人をもつて、天界の根底および基礎となし、またこれによつて天界と人間とを和合せしめ、地上をして、天国同様の国土となさしめたまふべく、甚深なる経綸を行はせたまうたのである。この御経綸が完成した暁を称して、松の代、ミロクの世、または天国の世といふのである。そして厳の御霊、瑞の御霊の経緯の予言者の手を通じ、口を通じて、聖言を伝達し、完全なる天地合体の国土を完成せしめむとしたまうたのである。大本開祖の神諭に「天も地も一つに丸めて、神国の世に致すぞよ。三千世界一どに開く梅の花、須弥仙山に腰をかけ、艮の金神守るぞよ.この大本は天地の大橋、世界の人民はこの橋を渡りて来ねば、誠のお蔭はわからぬぞよ」と平易簡明に示されてゐるのである。されど現代の人間は、かへつてかかる平易簡明なる聖言には耳を藉さず、不可解なる難書を漁り、これを半可通的に誤解して、その知識を誇らむとするのは実に浅ましいものである。


物語48-3-11 1923/01 舎身活躍亥 霊陽山

『竜公さま、ここは第二天国、しかも霊陽山の頂だ。八岐大蛇の来たるべき道理がない、大方これは神様のお試しだつたらう。私も一度は悪魔の襲来かと考へてみたが、よくよく思ひ直せば、かかる天国に悪魔の来たるべき理由がない。もしも彼はたして悪魔なりとせば、吾らは天国と思ひ、慢心して地獄に墜ちてゐたのであらう……と考へてみたが、たちまち心中の天海開けて、神様の御神格の内流に浴し、やはり第二天国なることを悟り、かつ片彦と見えしは尊きエンゼルの、吾らが心を試させたまふ御所為と信ずるよりほかに途はない。必ず必ず悪魔などと、夢にも思つてはなりませぬぞや』


物語48-3-12 1923/01 舎身活躍亥 西王母

 大神様をのぞく外、一個の天人たりとも、天国において生れたものはないのである。必ず神格の内流は、終極点たる人間の肉体に来たり、ここに留まつてその霊性を発達せしめ、しかして後、天国へ復活し、ここに初めて天国各団体を構成するに至るものである。ゆゑに、人は天地経綸の司宰者といひ、また天地の花といひ、神の生宮と称ふる所以である。愚昧なる古今の宗教家や伝教者は、おほむねこの理を弁へず、天人といへば、元より天国に在つて、特別の神の恩恵によつて天国に生れたるもののごとく考へ、また地獄にある悪鬼どもは、元より地獄に発生せしもののごとく考へ、その地獄の邪鬼が、人間の堕落したる霊魂を制御し、あるひは苦しむるものとのみ考へてゐたのである。これは大なる誤解であつて、数多の人間を迷はすこと、実に大なりといふべしである。ここにおいて、神は時機を考へ、弥勒を世に降し、全天界の一切をその腹中に胎蔵せしめ、これを地上の万民に諭し、天国の福音を完全に詳細に示させたまふ仁慈の御代が到来したのである。されど大神は、予言者の想念中に入りたまひ、その記憶を基礎として伝へたまふがゆゑに、日本人の肉体に降りたまふ時は、すなはち日本の言葉をもつて現はしたまふものである。科学的頭脳に魅せられたる現代の学者または小賢しき人間は「神は全智全能なるべきものだ。しかるに何ゆゑに各国の民に分りやすく、地上到るところの言語を用ひて示したまはざるや」といつて批判を試み、神の遣はしたる予言者の言をもつて、怪乱狂妄と罵り、あるひは無学者の言とか、あるひは不徹底の言説とかなんとかケチをつけたがる盲が多いのは、神の予言者も大いに迷惑を感ずるところである。


物語49-1-1 1923/01 真善愛美子 地上天国

  霊的事象の如何なるものなるかを、よく究め得るならば、つひにその真相を掴むことができるのである。しかし自然界の法則にしたがつて、肉体を保ち、かつ肉の目をもつて見ることを得ざる霊界の消息は、たうてい大神の直接内流を受け入るるに非されば、容易に思考し得べからざるは、やむを得ない次第である。
ゆゑに、神界の密意は、霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに これを説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。ただ人間は、己が体内に存する内分によつて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、いかなる書籍をあさるとも、いかなる智者の言を聞くとも、いかに徹底したる微細なる学理によるとも、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことはできないものである。
 太古の黄金時代の人間は、何事もみな内的にして、自然界の諸事物は、その結果によつて現はれしことを悟つてゐた。それゆゑ、すぐさまに大神の内流を受け、よく宇宙の真相をわきまへ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽しみ送つたのである。しかるに今日は、もはや白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世はますます外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと、もつとも遠く、いづれも人の内分は外部に向かひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それゆゑ、足許の暗黒なる地獄はただちに目につくが、空に輝く光明はこれを背に負うてゐるから、たうてい神の教を信ずることは出来ないのである。


物語49-1-2 1923/01 真善愛美子 大神人

 現代においても、心の直なる者の胸中に見るところの神は、太古の人の形なれども、自得提の智慧および罪悪の生涯にあつて、天界よりの内流を裁断したる者は、かくのごとき本然の所証を滅却し了せるものである。かかる盲目者は、見るべからざる神を見むとし、また罪悪の生涯にて所証を滅却せし者は、神を決して求めない者である。ゆゑに現代の人間は、神にすがる者といへども、すべて天界よりの内流を裁断したる者多きゆゑに、見るべからざる神を見むとし、また物質慾のみに齷齪して、本然の所証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、また神を大いに嫌ふものである。


物語49-1-5 1923/01 真善愛美子 復命

ヨル『貴様はヤツパリまだ神のことが分らぬとみえるワイ。神様は地上に降りたまふ時は、ヤツパリ人間の肉の宮を機関と遊ばすのだから、自然界の法則を基として、何事もお仕へせなくちやならぬぢやないか。信者の供物を受取りたまふ神様は無形にましますがゆゑに、物質的食物は不必要だといつて、この結構な御祭典に、金額物品を備へない奴は、神様の愛にをらず、また神の恵みに浴することもできない偽信者のなすべきことだ。祭典といふことは祭る法式といふことだ。祭るといふことは、人を待つことだ、いはゆるお客様を招待するも同じことだ。善と真とを衡にかけ、人間の愛と神の愛とを和合する神事だ。それだから、真釣りにまつるといふのだ。なにほど神様に供へたお供へものがへらないといつても、肝腎要のお供物の霊は、みなおあがりになつてゐるのだ。大根は大根の味、山葵は山葵の味、魚は魚の味と、各自にその味が変つてゐるのは、みな神様から造られたものであつて、人間の所為でもなければ、大根、山葵それ自身のなし得たるところでもない。同じ土地に同じ肥料をやつて作つても、唐辛を蒔けば辛くなる、水瓜を作れば甘くなる、山椒を作ればまた辛くなる、そしてその甘さにも辛さにもおのおの特色がある。これみな神徳の内流によつて出来るものだ。それだから地上の人間は、神様に結構なものを与へられて、これを感謝せずにはゐられない。
それゆゑ、神の御恵みを謝するために、心を尽してお供物をするのだ。この通り沢山なお供物の集まつたのも、たとへ少しづつでも、これだけの人間が、各自に何なりと持つて来たのだから、塵つんで山をなしたのだ。神は人間の真心を受けさせたまふものだから、菜の葉一枚でも供へてくれといつて持つて来た者は、みなお供へせなくちやすまないぞ。それが祭の祭たる所以だから……』


物語50-1-11923/01 真善愛美丑 至善至悪

 本巻物語の主人公たる初稚姫および高姫の霊魂上の位置およびその情態を略舒して参考に供することとする。
 初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘である。しかして別に現代のごとく学校教育を受けたのではない。ただ幼少より母を失ひ、父とともに各地の霊山霊場に参拝し、あるひは神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々雑多の神的苦行を経たるため、純粋無垢なる霊魂の光はますますその光輝を増し、玲巍玉のごとく、黒鉄時代に生れながら、その本体すなはち内分的生涯は、黄金時代の天的天人と向上してゐた。ゆゑに宣伝使としてもまた地上の天人としても、実に優秀な神格者であつた。大神の神善と神真とをよく体得し、無限の力を与へられ、神の直接内流をその精霊および肉身に充せ、その容貌ならびに皮膚の光沢、柔軟さなどは、ほとんどエンゼルのごとくであつた。
 ゆゑに初稚姫は大神の許しある時は、一声天地を震撼し、一音風雨雷霆を叱咤し、地震雷海嘯その外風水火の災をも自由に鎮定し得る神力を備へてゐた。されど初稚姫は愛善の徳全く身に備はり、謙譲なるをもつて処世上の第一となしゐたれば、容易に神力を現はすことを好まなかつた。しかして姫の精霊は、大神の直接神格の内流に充され、霊肉ともに一見して凡人ならざるを悟り得らるるのであつた。姫はよく天人と語り、あるひは大神の御声を聞き、真の善よりする智慧証覚を具備したる点は、三五教きつての出藍のほまれをほしいままにしてゐた。
 それゆゑ八岐大蛇の跋扈する月の御国へ神軍として出征するにも、ただ一人の従者もつれず、真に神を親とし、主人とし、師匠とし、愛善の徳と信真の徳を杖となしあるひは糧となし、天上天下に恐るるものなく、猛獣毒蛇の荒れ狂ふ深山幽谷曠野をも、天国の花園を過ぐるがごとき心地し、目に触るるもの、身に接近するもの、ことごとくこれを親しき友となし、且つこれらの同士となつて和合帰順悦服等の神力を発揮しつつ進むことを得たのである。
 故にいかなる現界的智者学者に会ひて談話を交ふる時も、一度として相手方に嫌悪の情を起さしめたることなく、その説くところは何れも霊的神的にして、愛と信とに充されざるはなく、草野を風の行き過ぎるがごとく風靡し、帰順し、和合せしめねばおかなかつた。天稟の美貌と智慧証覚は、いづれも愛善の徳と真善の光なる大神より来たるがゆゑに、姫が面前に来たる者は、いづれも歓喜悦服せざるはなかつたのである。かつまた理性的にしてものに偏せず、中庸、中和、大中などの真理を超越してゐた。
 そもそもこの理性は神愛と神真の和合より来たるところの円満なる情動によつて獲得し、この情動よりして真理に透徹するものである。さて真理には三つの階級がある。しかして人間はこの三階級の真理にをらなければ、たうてい神人合一の境に入ることは不可能である。法律、政治の大本を過たず能く現界に処し、最善を尽し得るを称して、低級の真理にをるものと言ひ、また君臣夫婦父子兄弟朋友ならびに社会に対し、五倫五常の完全なる実を挙げ得る時は、これを中ほどの真理にをる者といふのである。しかしながら、いかに法律を解し政治を説き、あるひは五倫五常を詳細に説示し了得するといへども、これを実践躬行し得ざる者はいはゆる偽善者にして、無智の賤人にも劣るものと霊界において定めらるるのである。
 また愛の善と信の真にをり、大神の直接内流を受け、神と和合し、外的観念を去り、万事内的に住し得るものを称して最高の真理にをる者といふのである。ゆゑに現代において、聖人君子と称へられ或ひは智者識者と称せられ、高位高官と崇めらるる人物といへども、最高の真理にをらざる者は、霊界においては実に賤しく醜く、かつ中有界または地獄界に群居せざるを得ざる者である。
 霊界に行つて現界に時めく智者学者または有力者といはるる者の精霊に出会し、その情況を見れば、いづれも魯鈍痴呆の相を現はし、身体の動作全く不正にして四肢戦き慄ひ、少しの風にも吹き散りさうになつてゐるものである。これ凡てが理性的ならざるがゆゑである。現代の人間が理性的とか理智的とか、物知り顔にいつてゐるその言説やまたは博士学士などの著書を見るも、一として理性的なるものはない。いづれも自然界を基礎とせる不完全なる先賢先哲と言はれたる学者の所説や教義を基礎とし、古今東西の書籍をあさり、これを記憶に存し、この記憶を基として種々の自然的知識を発育せしめたるものである。ゆゑにただ記憶のみにして、決して理性的知識ではない。
 現代の総ての学者は、主神大神の直接または問接の内流を受入るること能はず、いづれも地獄界より来たる自愛および世間愛にもとづく詐りの知識によつて薫陶されたるものなれば、彼らは霊体分離の関門を経て精霊界に至る時は、生前における虚偽的知識や学問の記憶は全部剥奪され、残るはただ恐怖と悲哀と暗黒とのみである。すべて自愛より出づる学識智能は、いづれも暗黒面に向かつてゐるがゆゑに、神のまします天界の光明に日に夜に遠ざかりゐたれば、精霊界に入りし時は霊的および神的生涯の準備一もなく、いな却つて魯鈍無智の人間に劣ること数等である。魯鈍無智なる者は、常に朧気ながらも霊界を信じかつ恐るるがゆゑに、驕慢の心なく、心中常に従順の徳にをりしがゆゑに、霊界に入りし後は神の光明に浴し、神の愛を受くるものである。
 また現界に在りては、たうてい人間のその真相は分らないものである。されど初稚姫のごとく肉体そのままにて天人の列に加はりたる神人は、よくその人の面貌および言語動作に一たび触るれば、その生涯を知り、その人格の如何をも洞破し得るのである。いかに現代人が法律をよく守り、あるひは大政治家と賞められ、智者仁者といはるることあるとも、肉体の表衣に包まれをるをもつて、暗冥なる人間は、これが真相を悟り得ることはできない。肉体人はその交際に際し、心に思はざるところを言ふことあり、あるひは思はざるところ、欲せざるところを為さねばならぬことがある。怒るべき時に怒らず、あるひは少々無理なことでも、何とかして表面を装ひ、世人をして却つてこれを聖者仁者と思はしめてゐることが多い。また肉体人は如何なる偽善者も虚飾も判別するの力なければ、賢者と看做し聖人と看做して、大いに賞揚することは沢山な例がある。ゆゑに瑞の御霊の神諭にも……人の見て善となすところ、必ずしも善ならず、人の見て悪となすところ、必ずしも悪ならず、善人といひ悪人といふも、ただ頑迷無智なる盲目世間の目に映じたる幻像に外ならない……と示してあるのはこの理由である。
 瑞月かつて高熊山に修業のをり、神の許しを受けて霊界を見聞したる時、わが記憶に残れる古人または現代に肉体を有せる英雄豪傑、智者賢者といはるる人々の精霊に会ひ、その状態を見聞して意外の感にうたれたことがしばしばあつた。彼らの総ては、自愛と世間愛に在世中惑溺し、自尊心強く、かつ神の存在を認めざりし者のみなれば、霊界に在りては実に弱き者、貧しき者、賤しき者として遇せられつつあつたのである。これを思へば、現代における政治家または智者学者などの身の上を思ふにつけ、実に憐愍の情にたへない思ひがするのである。いかにもして、大神の愛善の徳と信真の光に、彼ら迷へる憐れな地獄の住人を、せめて精霊界にまで救ひ上げ、無限の永苦を免れしめむと焦慮すれども、彼らの霊性はその内分において神に向かつて閉され、脚底の地獄に向かつて開かれあれば、これを光明に導くは容易の業でない。また如何なる神人の愛と智に充てる大声叱呼の福音も、霊的盲目者、聾者となり果てたるをもつて、いかなる雷鳴の轟きも警鐘乱打の響きも、恬として鼓膜に感じないのである。ア丶憐れむべきかな、虚偽と罪悪に充てる地獄道の蒼生よ。
 ここに初稚姫の神霊はふたたび大神の意思を奉戴し、地上に降臨し、大予言者となつて綾の聖地に現はれ、その純朴無垢なる記憶と想念を通じて、天来の福音をあるひは筆にあるひは口に伝達し、地上の地獄を化して五六七の天国に順化せしめむと計らせ給ふこと、ほとんど三十年に及んだ。されど頑迷不霊の有苗的人間は、これを恐れ忌むことはなはだしく、あたかも仇敵のごとくに嫉視し、憎悪するに至つたのである。ア丶かくも尊き大神の遣はしたまふ聖霊または子言者の言を無視し、軽侮し、ますます虚偽罪悪を改めざるにおいては、百の天人は大神の命を奉じ、いかなる快挙に出で給ふやも計り難いのである。
 次に高姫の霊界上の地位について少しく述ぶる必要がある。宇宙には天界、精霊界、地獄界の三界あることは屡々述べたところである。しかして精霊界は霊界現界のまた中間に介在せりといつてもいいくらゐなものである。ゆゑに精霊界には、自然的すなはち肉体的精霊なるものが団体を作つて、現界人を邪道に導かむとするものあることを知らねばならぬ。
 肉体的精霊とは、色々の種類あれども、その形は人間に似て人間にあらざるあり、あるひは天狗あり、狐狸あり、大蛇あり、一種の妖魅ありて、暗黒なる現界に跋扈跳梁しつつあり。これらは地獄界にもあらず、一種の妖魅界または兇党界と称し、人間に譬ふれば、いはゆる不浪の徒である。彼らは人間の山窩の群のごとく、山の入口や川の堤や池の畔、墓場の附近などに群居し、暗冥にして頑固なる妄想家の虚をうかがひ、その人間が抱持せる慾望に附け入つて虚隙を索めて入り来たるものである。
 この肉体的精霊もまた人間の想念と和合せずしてその体中に侵入し来たり、その諸感官を占有し、その口舌を用ひて語り、その手足をもつて動作するものである。しかして此らの精霊は、その憑依せる人間の物をもつてすべて吾が物とのみ思うてゐる。ある時は、人間の記憶と想念に入つて大神と自称し、あるひは予言者をまね、つひに自ら真の予言者と信ずるに至るものである。されど此らの精霊は少しも先見の明なく、一息先のことは探知し得ないものである。
 何ゆゑなれば、その心性は無明暗黒の境域にをるがゆゑである。
 憑依された人間が、たとへば開祖の神諭を読みふけり、これを記憶に止め想念中に蓄へおく時は、侵入し来たりし悪霊すなはち妖魅は、これを基礎として種々の予言的言辞を弄し、かつまた筆先などと称して、似たり八合なことを書き示し、頑迷無智なる世人を籠絡し、つひに邪道に引き入れむとするものである。開祖の神諭に……先の見えぬ神は誠の神でないぞよ……と示されたるは、この間の消息を洩らされたものである。
 また熱狂なる人間は、わが記憶を基礎として、その想念を働かせて入り来たりし精霊のわが記憶に反けることを口走り、あるひは書き示す時は、たちまち審神的態度となり…:汝は大神の真似をいたす邪神にはあらざるか、サ早く吾が肉体を去れ……などと反抗的態度に出づるものもある。しかしながら遂にはその悪霊のために説伏せられ、あるひはいろいろの肉体上に苦痛を与へられ、つひにその妖魅の言に感服するに至るものである。サアかうなつた時は、もはや上げも下ろしも出来なくなつて、いかなる神の光明も説示も承認するの力なく、ただ単に……われは天下唯一の予言者なり、無上の神人なり、吾なくばこの蒼生はいかんせむ……と狂的態度に出づるものである。
 この物語の主人公たる高姫は、すなはちこの好適例である。故にかれ高姫は自己の記憶と想念と、憑霊の言葉の外には一切を否定し、かつ熱狂的に数多の人間をわが説に悦服せしめむと焦慮するのである。その熱誠は火のごとく暴風のごとくまた洪水のごとし。
 いかなる神人も有徳者もこれを説得し帰順せしめ、善霊に帰正せしむることは天下の難事である。ゆゑに高姫は一旦改心の境に入りしごとく見えたれども、再びつきまとへる兇霊は、彼が肉体の虚隙を見すまし、またもや潮のごとく体内に侵入し来たり、大狂態を演ずるに至つたのである。
 かかる狂的憑霊者の弁舌と行為は、最も執拗にして、昼夜間断なくつきまとひ、わが所説に帰服せしめねば止まない底の勇猛心を抱持してゐる。かかる兇霊の憑依せる偽予言者に魅入られたる人間は、いかなる善人といへども、やや常識ありと称へられてゐる紳士でも、また奸智に長けたる人間でも、思索力を相当に有する人物でも、遂にはその術中に巻き込まれてしまふものである。かかる例は三十五万年前の神代のみではない、現に大本の中においても、かかる標本が示されてある。これも大本の神示によれば、神の御心にして、善と悪との立別けを示し、信仰の試金石と現はし給ふものたることを感謝せなくてはならぬ。
 一旦迷はされたる精霊や人間は、容易に目の醒めるものでない。しかしながらかくのことき渦中に陥る人間は、霊相応の理によつて、やむを得ずここに没入するのである。されど神は飽くまでも至仁至愛にましますがゆゑに、弥勒胎蔵の神鍵をもつて宝庫を開き、天国の光明なる智慧証覚を授け、愛善の徳に包んで、これをせめて中有界までなりと救ひ上げ、ここに霊的教育を施し、一人にても多く天国の生涯を送らしめむとなし給ひ、仁愛に富める聖霊を充して予言者に来たり口舌をもつて天国の福音を宣り伝へたまふこととなつたのである。ア丶されど頑迷不霊の妖怪、人獣合一の境域に墜落せる精霊腿および人間は、天国に救ふこと、あたかも針の穴へ駱駝を通すよりも難きをつくづく感ずる次第である。大本の神諭にも……神と人民とに気をつけるぞよ……とあるは、すなはち精霊と肉体人とに対してのお言葉である。ア丶如何にせむ、迷へる精霊よ、人間よ、ことに肉体的兇霊にその身魂を占領されたる妖怪的偽予言者の身魂をや。
 序に祠の森において杢助と現はれたる妖怪は、兇悪なる自然的精霊すなはち形体的兇霊にして、高姫の心性に相似し、接近しやすき便宜ありしをもつて、たがひに相慕ひ相求め、風車のごとく、廻り灯籠のごとく、終生逐ひまはりなどして狂態を演出し、現界はいふにおよばず、霊界の悪魔となりて神業の妨害をなし、つひには神律に照らされ、神怒に触れ、根底の国の最底に投げ下ろさるるまで、その狂的暴動を止めないものである。ア丶憐れむべきかな、肉体的兇霊よ、その機関となりし人間の肉体よ、精霊よ。思うても肌に粟を生ずるやうである。あ丶惟神霊幸倍坐世。


物語50-2-81923/01 真善愛美丑 常世闇

 大抵の人間は、高天原に向かつてその内分が完全に開けてゐない。それゆゑに大神は、精霊を経て人間を統制したまふのが普通である。何となれば、人間は自然愛と地獄愛とより生み出すところの、地獄界の諸々の罪悪の間に生れ出でて、惟神すなはち神的順序に背反せる情態にをるがゆゑである。されど一旦人間と生れた者は、どうしても惟神の順序のうちに復活帰正すべき必要がある。しかしてこの復活帰正の道は、間接に精霊を通さなくてはたうてい成就し難いものである。
 しかしながら、この物語の主人公たる初稚姫のごとき神人ならば、最初より高天原の神的順序に依るところのもろもろの善徳のうちに生れ出でたるがゆゑに、決して精霊を経て復活帰正するの必要はない。神人和合の妙境に達したる場合の人間は、精霊なるものを経て大神の統制したまふところとならず、順序すなはち惟神の摂理により大神の直接内流に統制さるるのである。
 大神より来たる直接内流は、神の神的人格より発して人間の意性中に入り、これよりその智性に入り、かくてその善に入りまたその善を経て真に入る。真に入るとは要するに愛に入るといふことである。この愛を経てのち聖き信に入る。ゆゑにこの内流の、愛なき信に入り、また善のなき真に入り、また意思よりせざるところの智性に入ることはないものである。ゆゑに初稚姫のごときは、清浄無垢の神的人格者ともいふべき者なれば、その思ふところ、言ふところ、行ふところは、一として神の大御心に合一せないものはないのである。かかる神人を称して真の生神といふのである。
 天人および精霊は、何ゆゑに人間と和合すること、かくのごとく密接にして、人間に所属せる一切のものを、彼ら自身の物のごとく思ふ理由は、人間なるものは霊界と現界との和合機関にしてすこぶる密着の間にをり、ほとんど両者を一つのものと看做し得べきがゆゑである。されど現代の人間は高天原より、物慾のために自然にその内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたがゆゑに、大神はここに一つの経綸を行はせたまひ、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつたのである。
 高姫の身体に侵入したる精霊、中にも最も兇悪なる彼兇霊は、常に高姫と言語を交換してゐるものの、その実高姫が人間なることを実際に信じてゐないのである。高姫の身体はすなはち自分の肉体と固く信じてゐるのである。ゆゑに高姫が精霊に対していろいろと談判をするといへども、その実精霊の意思では、他に目には見えないけれども高姫なる精霊があつて、外部より自分に向かつて談話の交換をしてゐるやうに思つてゐるのである。また精霊の方においては、高姫の肉体は決して何も知つてゐない、知つてゐるのはただ精霊自身の知識によるものと思ひ、従つて高姫が知つてゐるところの一切の事物は、みな自分の所為と信じをるものである。しかしながら高姫があまりに……わしの肉体にお前は巣喰つてゐるのだ……と、精霊に向かつてしばしば告ぐるによつて、彼に憑依せる精霊すなはち兇霊は、うすうすながら自分以外に高姫といふ一種異様の動物の肉体に這入つてゐるのではあるまいか……ぐらゐに感じだしたのである。
 高姫はまた精霊のいふところ、知るところを、自分のいふところ、知るところと思惟し、しかして精霊が、自分の肉体は神界経綸の因縁のある機関として特別に造られたのだから、正守護神や副守護神が宿を借りに来てをるものと信じてゐるのである。しかして面白いことには、高姫の体内にをる精霊は、高姫の記憶と想念を基として、いろいろと支離滅裂な予言をしたり、筆先を書いたりしながら、その不合理にして虚偽に充てることを自覚せず、すべてを善と信じ、真理と固く信じてゐるのだから、自分が悪神だといつたり、あるひは悪を企まうなどといつてゐながらも、決して真の悪ではない、実は自分がある自己以外の何物かと揶揄つてゐるやうな気でゐるのだから不思議である。
 また高姫自身も、少しばかり悪の行り方ではあるまいかと思うてみたり、ある時は……イヤイヤ決して自分の思ふことと、行ふところは微塵も悪がない、ただ訳のわからぬ人間の目から、神格に充されたる吾々の言行を観察するのだから悪に見えるだらう。真の神は必ず自分が神のため道のために千騎一騎の活動してゐることをキツとお褒め遊ばすだらう。神に叶へるものとして、神柱とお使ひ遊ばしてゐられるのであらう。訳のわからぬ現界の人間が、たとへ悪魔といはうとも、そんなことは構つてゐられない、吾がなす業は神のみぞ知り給ふ……といふやうな冷静な態度をかまへ、いかなる真の教示も、真理も、自己以外に説くものはない、また行ふ真の人間もないのだから、至善至愛の標本を天下に示し、千座の置戸を負うて万民の罪悪を救うてやらねばならぬ。自分は神の遣はしたまふ犠牲者、救世主だと信じてゐるのだから始末にをへぬのである。
 高姫のみならず、世の中に雨後の筍のごとく、ムクムクと簇生する自称予言者、自称救世主なども、すべては高姫に類したものなることはいふまでもないことである。また動物は、精霊界よりするところの一般の内流の統制するところとなるものである、けだし彼ら動物の生涯は宇宙本来の順序中に住するものなるがゆゑに、動物はすべて理性を有せないものである。理性なきがゆゑに神的順序に背戻し、またこれを破壊することをなし得ないのである。人間と動物の異なるところは、ここにあるのである。しかしスマートのごとき鋭敏なる霊獣は、その精霊がほとんど人間のごとく、かつ本来の純朴なる精神に、人間と同様に理性をも有するがゆゑに、よく神人の意思を洞察し、忠僕のごとくに仕ふることを得たのである。動物はすべて人間の有する精霊の内流を受けて活動することがある。されども普通の動物は、その霊魂に理性を欠くがゆゑに、初稚姫のごとき地上の天人の内流を受くることは出来得ないものである。
 しかしこのスマートは肉体は動物なれども、神より特別の方法によつて、すなはち化相の法によつて、初稚姫の身辺を守るに必要なるべく現じ給うたからである。初稚姫もこの消息をよく感知してゐるから、決して普通の犬として遇せないのである。ただ神が化相に仍つて、その神格の一部を現はし給ひしものなることを知るがゆゑに、姉妹のごとく下僕のごとく、ある時は朋友のごとくに和睦親愛し得るのである。
 普通の人間が動物と和合した時は、全く畜生道に堕落した場合である。また人間が霊肉脱離の後、地獄界および精霊界に在る時、現世に在るわが敵人に対し、危害を加ヘむとするの念慮強き時は、動物の精霊に和合してその怨恨を晴らさむとするものである。ゆゑに生霊または死霊に憑依された人間には、必ず動物の霊が相伴うてゐるものである。これはある大病に苦しんでゐる人間を鎮魂し、または神言を奏上してこれを調べる時、必ず人間の生霊または死霊の姓名を名乗るものである。しかして熟練したる審神者がこれを厳しく責めたつる時は、つひに人霊と動物霊と和合して、その人霊の先駆者となつたことを自白するものである。狐狸や蛇、蟇、犬、猫その他の動物の霊が人間に来たる時は、人間の記憶および想念中に入つてその肉体の口舌を使用し、あるひは自分が駆使され合一されてゐる人霊の想念をかつて、人間のごとく言語を発するに至るものである。
 霊界の消息に暗き学者は、狐狸その他の動物が人間に憑つて、人語を用ふるなどはあり得べからざることである、かくのごとき事を信ずる者は太古未開の野蛮人である、かくのごとく人文の発達したる現代において、なほ動物が人間に憑依して人語を発するなどの不合理を信ずるは、実に癲狂痴呆の極みであると嘲笑するは、現代の半可通的学者の言説である。何ぞ知らむ、彼らこそ霊界より見て実に憐れむべき頑愚者にして、かつ癲狂者となつてゐるのである。自分の眼が自分で見られ、また自分の頭部や頸部、背部などが自身において見ることを得ない人間が、どうして霊界の幽玄微妙なる真理真相が分るべき道理があらう。須らく人間は神の前に拝跪し、その迂愚と不明と驕慢とを鳴謝すべきものである。
  ○
 動物たとへば犬、猫、鹿、牛、馬などは、惟神すなはち神的順序に従つて交尾期なども一定し、決して人間のごとく、何時なしに発情をするなどの自堕落なことはないものである。また植物なども霊界と自然界の順序に順応して、惟神的に時を定めて花開き実を結び、嫩芽を生じ落葉するものであつて、実にその順序を誤らないことは、われわれ人間のたうてい足許へもよれないほど、秩序整然たるものである。しかして犬は犬、猫は猫、馬は馬と各天稟の特性を発揮し、よくその境遇に適応せる本性を発揮するものである。
 また植物などは各その特性を備へ、自己特有の甘さ、辛さ、酸さ、苦さ等の本能を発揮し、幾万年の昔よりその味を変へないのである。
 要するに芋は茄子の味に代ることを得ない、また唐辛は蜜柑の味に決してなるものでない。また同じ畑に植ゑつけられ、同じ地味を吸収しながらも、依然として西瓜は西瓜の味、唐辛は唐辛の味、栗は栗、柿は柿の特有の形体および昧を有つてゐるものである。しかして、この特有性はすべて霊的より来たり、その成長繁茂の度合は、自然界の光熱や土地の肥痩等に依るものである。
 しかるに人間は理性なるものを有するがゆゑに、少々土地が変つた時または気候の激変したる土地に移住する時は、忽ちその意思を変移し、十年も外国へ行つて来た者は、その思想全く外人と同様になつてしまふものである。これが人間と動物または植物と異なる点である。かくのごとく人間は理性によつて自由に思想ならびに身体の色までも多少変ずる便宜あるとともに、また悪に移り易く堕落し易きものである。ゆゑに動物、植物に対しては大神は決して教を垂れたまふ面倒もなく、極めて安心遊ばしたまへども、人間はたうてい動植物のごとく神的順序を守らない悪の性を帯びてゐるがゆゑに、特に予言者を下し、天的順序に従ふことを教へたまうたのである。しかしながら人間に善悪両方面の世界が開かれてあるが故に、また一方から言へば神の機関たることを得るのである。願はくは、われわれ人間は神を愛し神を信じ、しかして神に愛せられ、神の生宮として大神の天地創造の御用に立ちたいものである。


物語52-1-11923/02 真善愛美卯 真と偽

 人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正副守護神といふ。
 そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは、一方は内底神の善に向かひ、真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊である。また副守護神とは、その内底神に反き、ただ物質的躯殻すなはち肉体に関する慾望のみに向かつて蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争をもつて唯一の真理と看做す精霊である。
 しかして人間の霊魂には、わが神典の示すところに依れば、荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されている。四魂の解説はすでにすでに述べたれば、ここには省略する。荒魂は勇、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親であり、しかしてこの勇智愛親を完全に活躍せしむるものは神の真愛と真智とである。いま述べた幸魂の愛なるものは、人類愛にして、自愛および世間愛等に住する普通愛である。
 神の愛は、万物発生の根源力であつて、また人生における最大深刻の活気力となるものである。この神愛は、大神と天人とを和合せしめ、また天人各自の間をも親和せしむる神力である。かくのごとき最高なる神愛は、いかなる人間もその真の生命をなせるところの実在である。この神愛あるがゆゑに、天人も人間もみな能くその生命を保持することを得るのである。また大神より出で来たるところの御神格そのものを神真といふ。この神真は大神の神愛に依つて、高天原へ流れ入るところの神機である。神の愛とこれより来たる神真とは、現実世界における太陽の熱とその熱より出づるところの光とに譬ふべきものである。しかして神愛なるものは、太陽の熱に相似し、神真は太陽の光に相似してゐる。また火は神愛そのものを表はし、光は神愛より来たる神真を表はしてゐる。大神の神愛より出で来たる神真とは、その実性において神善の神真と相和合したものである。かくのごとき和合あるがゆゑに、高天原における一切の万物を通じて生命あらしむるのである。
 愛には二種の区別があつて、その一は神に対する愛であり、二は隣人に対する愛である。また最高第一の天国には大神に対する愛あり、第二すなはち中間天国には隣人に対する愛がある。隣人に対する愛とは、仁そのものである。この愛と仁とは、いづれも大神の神格より出で来たつて天国の全体を成就するものである。高天原に在つて大神を愛し奉るといふことは、人格の上からみて大神を愛するの謂ではない、大神より来たるところの善そのものを愛するの意義である。また善を愛するといふことは、その善に志し、その善を行ふや、みな愛に依つてなすの意味である。ゆゑに愛を離れたる善は、決して如何なる美事といへども、善行といへども、みな地獄の善にしていはゆる悪である。
 地獄界において善となすところのものは、高天原においては大抵悪となる。高天原において悪となすところのものは、すべて地獄界にはこれを善とさるるのである。それゆゑに、神の直接内流によつて、天国の福音を現界の人類に伝達するとも、地獄界に籍をおける人間の心には、最も悪しく映じかつ感ずるものである。ゆゑにい、づれの世にも、至善至愛の教を伝へ、至真至智の道を唱ふる者は、必ずこれを異端邪説となし、あるひは敵視され、あらゆる迫害を蒙るものである。しかし、かくのごとき神人にして、地獄界の如何なる迫害を受け、あるひは身肉を亡ぼさるることありとも、その人格は依然として死後の生涯に入りし時、最も聖きもの、尊きものとして、天国に尊敬されかつ愛さるるものである。


物語56-1-3 1923/03 真善愛美未 仇花

赤『お前は直ちに地獄へ行くべきものだが、今ここでエンゼルがお説教をなさるから、それに依つて悔い改め、エンゼルのお言葉が耳に入り、心に浸潤したならば屹度天国へ救はれるだらう。しかしながら、お前の造つた悪業では、エンゼルのお言葉は耳に入るまい。人間が霊肉脱離して霊界に来たり、八衢の関所を越えて伊吹戸主の館に導き入れられた時には、エンゼルが冥官の調べる以前に一応接見して、大神様や高天原および天人的生涯の事をお知らせになり、諸々の善や、真実を教へて下さるやうになつてゐる。しかしながら、お前の精霊が世に在つた時に、神はきつと八衢において善悪の教をなし、その心の向けやうによつて或は天国へ、あるひは地獄へ自ら行くといふことは、生前より既に承知しながらも心の中にこれを否んだり、あるひはこれを軽く見てゐたから、どうしてもエンゼルの言葉を苦しくて聞くことは出来まい。エンゼルのお面が怖ろしくなり胸は痛み、居たたまらず悦んで自分の向かふ地獄へ自ら飛び込むであらう。神は決して世界の人間の精霊を、一人も地獄へ堕とさうとはお考へなさるのではない。その人が自ら神様に背を向け、光に反き地獄に向かふのである。その地獄はお前が現世にをつた時すでに和合したところのもので、悪と虚偽とを愛する心の集まり場所である。大神様はエンゼルの手を経たり、かつ高天原の内流に依つて一各精霊を自分の方へ引寄せむと遊ばすけれども、素より悪と虚偽とに染み切つたお前たちの精霊は、仁慈無限の神様のお取計らひを忌み嫌ひ、力かぎり之に抵抗し、自分の方から神様を振り棄て離れ行くものである。自分が所有するところの悪と虚偽は、鉄の鎖をもつて地獄へ自ら引入るるが如きものである。謂はばお前たちが自由の意志をもつて自ら地獄へ堕落するものだから、神様はこれを見て愛と善と真との力を与へ、一人も地獄へ堕とそまいと焦せつてござるのだ。どうぢや、これからエンゼルのお話を聞いて、神様に反いた悪と虚偽とをスツカリと払拭し、天国の生涯を送る気はないか』


物語57-1-1 1923/03 真善愛美申 大山

 三五教は大神の直接内流を受け、愛の善と、信の真をもつて唯一の教理となし、智愛勇親の四魂を活用させ、善のために善を行ひ、用のために用を勤め、真のために真を励む。ゆゑにその言行心は常に神に向かひ、神と共にあり、いはゆる神の生宮にして天地経綸の主宰者たるの実を挙げ、生きながら天国に籍をおき、あたかも黄金時代の天人のごとく、神の意志そのままを地上の蒼生に宣伝し実行し、もつて衆生一切を済度するをもつて唯一の務めとしてゐたのである。ゆゑにバラモン教ウラル教その他数多の教派のごとく、自愛または世間愛に堕して知らず識らずに神に背き、虚偽を真理と信じ、悪を善と誤解するがごとき行動は取らなかつたのである。神より来たれる愛および善ならびに信真の光に浴し、惟神のままにその実を示すがゆゑに、麻柱の教と神から称へられたのである。


物語58-4-24 1923/03 真善愛美酉 礼祭

『中有界にある精霊は、なにほど遅くても三十年以上ゐないといふ教を聞きましたが、その精霊が現世に再生して人間と生れた以上は、祖霊祭の必要はないやうですが、かういふ場合でも矢張り祖霊祭の必要があるのですか』
『顕幽一致の神律に由つて、たとへその精霊が現界に再生して人間となり霊界にをらなくても、やはり祭典は立派に執行するのが祖先に対する子孫の勤めである。祭祀を厚くされた人の霊は霊界現界の区別なく、その供物を歓喜して受けるものである。現世に生れてゐながら、なほかつ依然として霊祭を厳重に行うてもらうてゐる現人は、日々の生活上においても、大変な幸福を味はふことになるのである。ゆゑに祖霊の祭祀は三十年どころか、相成るべくは千年も万年の祖霊も、子孫たるものは厳粛に勤むべきものである。地獄に落ちた祖霊などは、子孫の祭祀の善徳によつて、たちまち中有界に昇り進んで天国に上ることを得るものである。また子孫が祭祀を厚くしてくれる天人は、天国においても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり、子孫の繁栄を守るものである。なんとなれば愛の善と信の真は天人の神格と現人(子孫)の人格とに内流して、どこまでも断絶せないからである』
『ウラル教や波羅門教の儀式によつて祖霊を祭つたものは、各自その所主の天国へ行つてをるでせう。それを三五教に改式した時はその祖霊はどうなるものでせうか』
『人の精霊やまたは天人になるものは、霊界に在つて絶えず智慧と証覚と善真を了得して向上せむことをのみ望んでをるものです。ゆゑに現界にある子孫が、最も善と真とに透徹した宗教を信じて、その教に準拠して祭祀を行つてくれることを非常に歓喜するものである。天人といへども元は人間から向上したものだから人間の祖先たる以上は、たとへ天国に安住するとも愛と真との情動は内流的に連絡してゐるものだから、子孫が証覚の最も優れた宗教に入り、その宗の儀式によつて、自分たちの霊を祭り慰めてくれることは、天人および精霊または地獄に落ちた霊身にとつても、最善の救ひとなり、歓喜となるものである。天国の天人にも善と真との向上を望んでをるのだから、現在地上人が最善と思惟する宗教を信じ、かつまた祖先の奉じてゐた宗教を止めて三五教に入信したところで、別に祖霊に対して迷惑をかけるものでない。また祖霊が光明に向かつて進むのだから、決して迷ふやうな事はないのだ。いな却つて祖霊はこれを歓喜し、天国に在つてその地位を高め得るものである。ゆゑに吾々現身人は、祖先に対して孝養のために最善と認めた宗教に信仰を進め、その教によつて祖先の霊に満足を与へ、子孫たるの勤めを大切に遵守せなくてはならぬのである。あゝ惟神霊幸倍坐世』


物語63-1-3 1923/05 山河草木寅 伊猛彦

玉国『魯の哀公は、「人の好く忘るるものあり、移宅に乃ち其妻を忘れたり」といつたところが、孔子は亦、之に対して「また好く忘るること此より甚だしきあり。桀紂は乃ち其身を忘れたり」と皮肉を言つたといふが、桀と紂とは支那の未来の暴君で、酒地肉林の淫楽に耽つて、遂にその身と国家とを失つた虐主である。
 何が一番大きな忘れものだと言つても、自分を忘れるほど、大きい忘れものはなからう。人間の弱点は兎角この忘れるはずのもので無い自分を忘れてゐる場合が多いものだ。桀や紂の如く暴君たらずとも、金銭や名誉や酒色の暴君となつて、何時も本来の吾を忘れてゐるのだ。伊太彦さまの霊肉一致説も亦一理あるやうだが、肝腎の御魂の置所を忘れてはゐないだらうかなア』
伊太『御心配下さいますな。拙者は神界から直接内流があつて命令を受けてゐるのです。何が御都合になるか判りませぬからなア』
『神界からの内流とある以上は、吾何をか言はむやだ。そんなら伊太彦さま、玉国別はこれぎり何も申しませぬ。自由に神示の御用をなさい。人間の分際として神の御経綸は到底測知する事は出来ませぬからなア』


物語67-1-4 1924/12 山河草木午 笑いの座

 ヨリコ姫はシーゴーの手を執り、船舷に立ち、東方に向かつて折りから昇る旭を拝し、梅公に導かれて宣伝の旅に着きたることを感謝し、かつ天地に向かつて次のごとき誓ひを立てた。
『一、愛善の徳と信真の光に充ち智慧証覚の源泉に坐す、天地の太祖大国常立大神の御神格に帰依し奉り、天下の蒼生と共に無上惟神の大道を歩まむことを祈願し奉る。
二、大祖神の宣示し給ひし惟神の大道を遵奉し、愛善信真の諸光徳に住し、大海の如き智慧証覚の内流を拝し、天下の蒼生と共にこの大道を遵奉し、三界を通じて神子たるの本分を完全に保持し、神の任さしの神業に奉仕せむ事を祈願し奉る。
三、天下の蒼生を愛撫し、神業を完成し、厳瑞二霊の大神格を一身に蒐め、神世復古万有愛の実行に就かせ給ふ伊都能売神柱の神格に帰依し、絶対的服従の至誠をもつて神業に参加し、大神の聖慮に叶ひ奉り、一切無碍の神教を普く四海に宣伝し、斯道の大本をもつて暗黒無明の現代を照暉し、神の御子たるの本分を尽し奉らむことを誓ひ奉り、罪悪の身を清め免し給ひて、神業の一端に使役されむことを祈願し奉る』


物語72-3-18 1926/07 山河草木亥 法城渡

『何といふ失礼なことを吐すのだ
泥棒上がりの山子女奴
みやびなる歌よみかけて神の宮
汚さむとするずるさに呆れしこれからは誠の日の出が現はれて
汝が心の闇を照らさむ』
『吾が霊は昼夜さへも白雲の
空に輝く月日なりけり
久方の天より下るエンゼルの
内流受けし吾ぞ生神』
『猪口才な泥棒上がりの分際で
生神などとは尻が呆れる
尻喰へ観音様の真似をして
装ひばかり胸の狼』
『狼か大神様か知らねども
吾の霊はいつも輝く
吾が霊は空に輝く日月の
光にまして四方を照らさむ』
『ぬかしたり曲津の巣ぐふ霊で
尻餅月日の螢の光り奴』


物語入蒙-1-1 1925/08 水火訓

 国照姫は国祖大神の勅を受け、水をもつて所在天下の蒼生にバプテスマを施さむと、明治の二十五年より、神定の霊地綾部の里において、人間界の誤れる行為を矯正し、地上天国を建設すべく、その先駆として昼夜間断なく、営々孜々として、神教を伝達された。水をもつて洗礼を施すといふは、決して朝夕清水を頭上よりあびるばかりを言ふのではない。自然界は凡て形体の世界であり、生物は凡て水によつて発育を遂げてゐる。水は動植物にとつて欠くべからざる資料であり、生活の必要品である。現代は仁義道徳廃頽し、五倫五常の道は盛んに叫ばるるといへども、その実行を企てたる者は絶えてない。神界においては先づ天界の基礎たる現実界に向かつて、改造の叫びをあげられたのである。
 国常立尊の大神霊は精霊界にまします稚姫君命の精霊に御霊を充たし、予言者国照姫の肉体に来らしめ、いはゆる大神は間接内流の法式に依つて、過去現在未来の有様を概括的に伝達せしめ玉ふたのが、一万巻の筆先となつて現はれたのである。この神論は自然界に対し、まづ第一人間の言語動作を改めしめ、しかして後深遠微妙なる真理を万民に伝へむがための準備をなさしめられたのである。凡て現世界の肉体人を教へ導き、安逸なる生活を送らしめ、風水火の災ひも饑病戦の憂もなきやう、いはゆる黄金世界を建造せむとするの神業を称して水洗礼といふのである。
 国照姫の肉体はその肉体の智慧証覚の度合によつて、救世主出現の基礎を造るべく、且つその先駆者として、神命のまにまに地上に出現されたのである。国照姫の命のみならず、今日まで世の中に現はれたる救世主または予言者などは、何れも自然界を主となし、霊界を従として、地上の人間に天界の教の一部を伝達してゐたのである。釈迦、キリスト、マホメット、孔子、孟子その他世界のあらゆる先哲も、皆神界の命をうけて地上に現はれた者であるが、霊界の真相は何時も説いてゐない。釈迦の如きはやや霊界の消息を綿密に説いてゐるやうではあるが、何れも比喩や偶言、謎等にて茫漠たるものである。その実、未だ釈迦といへども、天界の真相を説くことを許されてゐなかつたのである。キリストは、吾が弟子共より天国の状態は如何に……と尋ねられた時「地上にあつて地上のことさへも知らない人間に対し、天国をといたとて、どうして天国のことが受入れられうぞ」と答へてゐる。神は時代相応、必要によつて、教を伝達されるのであるから、未だキリストに対して、天国の真相を伝へられなかつたのである。又その必要を認めなかつたのである。
 しかるに今日は人智やうやく進み、物質的科学はほとんど終点に達し、人心ますます不安に陥り、宇宙の神霊を認めない者、または神霊の有無を疑ふ者、および無神論さへも称ふるやうになつて来た。かかる精神界の混乱時代に対し、水洗札たる今までの予言者や救世主の教理をもつては、到底成神成仏の域に達し、安心立命を心から得ることが出来なくなつたのである。故に神は現幽相応の理によつて、火の洗礼たる霊界の消息を最も適確に如実に顕彰して、世界人類を覚醒せしむる必要に迫られたので、言霊別の精霊を地上の予言者の体に降されたのである。
 曾てヨハネはヨルダン川において、水を以て下民に洗礼を施してゐた時、今後来るべき者は吾よりも大なる者である。そして吾は水をもつて洗礼を施し、彼は火をもつて洗礼を施すと予言してゐた。それは所謂キリストを指したのである。しかしながらキリストはヨハネより水の洗礼を受け、これより進んで天下に向かつて火の洗礼を施すべく準備してゐた時、天意に依つて、火の洗礼を施すに至らず、遂に十字架上の露と消えてしまつたのである。彼は死後弟子共の前に姿を現はし、山上の遺訓なるものを遺したといふ。しかしこの遺訓は何れも現界人を信仰に導くための神諭であつて、決して火の洗礼ではない。故に彼は再び地上に再臨して火の洗礼を施すベく誓つて昇天したのである。
 火の洗礼といつても東京の大震災、大火災の如きものを言ふのではない。大火災は物質界の洗礼であるから、之はやはり水の洗礼といふべきものである。火の洗礼は霊主体従的神業であつて、霊界を主となし、現界を従となしたる教理であり、水の洗礼は体主霊従といつて、現界人の行為を主とし、死後の霊界を従となして説き始めた教である。故に水洗礼に偏するも正鵠を得たものでないと共に、火洗礼の教に偏するも亦正鵠を得たものでない。要するに霊が主となるか、体が主となるかの差異があるのみである。
 茲にいよいよ火の洗礼を施すべき源日出雄の肉体は言霊別の楕霊を宿し、真澄別は治国別の精霊をその肉体に充たし、神業完成のために、野蛮未開の地より神教の種子を植付けむと、神命によつて活動したのである。ああ惟神霊幸はへませ。


裁判記録

答 それは神憑りの基礎と致しまして、間接外流、直接外流、直接内流、間接内流と云ふものがある。
 或時に人に聴いたのが先入主になつて居つて、それが一緒くたに出ることがある、それは詰り間接外流です。詰り一旦消化してしまつて、頭に入つてしまつて、消化されて出て来て居る。それを間接外流
 又直接外流と云ふ方法もあるのです。
 それで此の神憑りの道をするのにも、永沢先生や本田先生が仰しやるのには、「神書を始終詳読して、神徳を覚えて置かなければならぬ、どうしてもさうでないと縁がないから、神様は憑いて来ないと」仰しやる。
 総て縁がなければ、筆先でも何も出て来ない。


答 其の時には書きまへぬ。何時書くか判らぬ。昼書いたり、夜書いたり、霊のかかつた時に書く。又霊のかかるのが口と手とでは違ふ。
問 王仁三郎はどうです。
答 私は、始まりは嬉しいが、落着かぬ。
 穴太に居つた時分には、ちよつと人から見たら、気違ひぢやないかと、随分云はれました。自分でも気違ひぢやないかと思ふ程、ぢつとして居つても飛び上り、声が喉から催す。
 それで永沢先生の所に行き、鎮魂をして貰うた。
 私の体には、小松林命の精霊が何時も入つて居ります。其の精霊を通さぬことには、間接内流も、直接内流も出来ない。其の精霊を通して見ると、霊界の消息も、幾分か判るのであります。


問 其の関係が移写関係……主宰神の所で詳しく訊きませう。それはそれだけにして置きませう。
 次に移ります。
 さうすると、此の霊界物語と云ふものは、是は矢張り神示と云ふことになりますか。
答 神示とは、詰り仏のことを書いて居るのを仏書と云ふ如くに……。
問王仁三郎自身の感想なり思ひ付きなりを、考へて居るのを書いて居るのですか。
答 考へたこともそれは入つて居りまつしやろ。
 間接外流と云ふのがありませう、それは何かと云ふと私も何も知らぬぢやない、書物を読んで居るから──又霊界の神懸りになる方法としては第一に神典を詳読し、神徳を清くすべしと書いてある……本田先生のに。直ちに神様に移つて貰ふには神徳を──「此の神様は斯う云ふ御神徳のある神様、此の神様は斯う云ふ歴史に出て居る」と云ふことを先に悟つて置くと云ふやうにしなければ、縁もゆかりもない所には神は移りやしまへぬ。
問 詰りこちらの訊ねる所は、神様が王仁三郎の口を藉りて言ふたのか、王仁三郎の考を自身が言うたのか。
答 何れも一緒くたになつて居ります。之を外流と言ふのです。
問 それはさう云ふ点もあるし、自分の考もあると云ふ訳ですな。


出口 日本書紀、古事記は、此の間も申したやうに、参考に読んで置いたのであります。
 さうして、是は、「神憑りと云ふものは総て神典を読んで置く」と云ふのが法則です。
 それで、私が別に基督教をやり、何かを寄せて来て拵へた、作成したのではないのです。
 唯、さう云ふことは自分の頭に、外流して入つて居りましたが、其の艮の金神のミロクやとか、或は退隠の理由やと云ふことは我々には判らないから、それで神憑となつて神様に直接知らして貰つて拵へた。
 神様が直接にお知らせになつたことを、ずつと教義としてやつて見たのでありまして、別に私が創作したのでも何でもない。
 併し、基督教でも何でもないと云ふことは参考に申上げた。
 艮の金神さんが再現されると云ふのも、謂はば、基督教が再現すると云ふのも同じ意味でございます、と言ふことを言うたのであります。
 別に、基督教の主義からやつたと云ふのぢやございませぬ。基督教の主義を真似て、此の教義を拵へたと云ふのぢやありませぬ。
 唯、例に申上げたのであります。
裁判長 今訊ねるやうなことは、知つて居つたのだね。
答 何です。
問 古事記や日本書紀にあることは──。
答 一生懸命研究して居りますから、体のどつかに浸みて居ります。
 それで、神憑りの修業をするのには、第一条件として、神典を詳読し、神徳を清くすべし、と云ふことが、修業の条件であります。


清瀬弁護人 我々は先入主がありますから、其のことを調書に……速記がありますけれども、それからですね、霊界のことも経験がないから理解しないかと思ひますが、霊代のことです、霊代です。
 或る場所には、「小松林命は腹に始終居る」と云ふことを言つて居られました。
 さうすると、出口さんは生涯を通じて小松林命の霊代であられるやうです。
 それを訊くと、何時も其処から見れば小松林命が宿つて居られる。
 併し、素盞嗚尊のことを承はると内流された其時だけが霊代のことのやうにも見える。
 尊い神さんと云ふのは、或は一時的にお宿りになつた時だけ、小松林命なんどは継続的の霊代と云ふことでありませうか。其処を一つ──。
裁判長 訊いて見ませうかね、どうぢや王仁三郎。
答 小松林命は私が鎮魂を修業した結果、体中に収つて居るのです。
 さうして、始終、それが耳に触はられたりして、其の霊を通じて素盞嗚尊或は国常立尊がそつと私に物をお教へになつたり、お告げになつたり、或は精霊の目を通し、耳を通して……
 我々はそれを霊代と言うて居るのです。
裁判長 今、弁護人の言ふことと違ふぞ。素盞嗚尊の如きえらい方は通常憑いて居られないのか。
答 始終居られませぬ。
 小松林命が媒介天人になつてお願ひするから、精霊を通して素盞嗚尊がお降りになると云ふのです。それは間接になります。
 小松林命と言へば直接内流、私は間接内流と云ふ神様から来るのを──外から来たのは外流です。
裁判長 霊代と云ふのは、さう云ふ関係の霊代か。


出口 それは神が憑つて来るのに付ては、自感、他感、神感と云ふ銘々に深い浅いがありまして、自感は自ら感ずる、他感は他から感ずる、神感は直接内流です、他感は直接外流です。
 それから、さう云ふ具合に神の移る場合が違つて居ります。
 今なんですか、ひよつと忘れて……。
清瀬弁護人 それで、自分の意思も交つて居ると云ふのですか。
答 それは意思と云ふ意味ではありませぬけれども、意思と云ふものではないけれども、詰り外流と云ふ方は、今迄総てにあるから、自分の頭に何時と云ふことなしに入つて来て居るのが、それが時に依ると、言うたら潜在意識とか、今日の学者が言ふやうに、其処に入つて居る。
 それが入つて居る奴は、何時とはなしに神憑り時に一つ緒くたに混つて居る、と云ふやうな私は意味やと思ふのです。
清瀬弁護人 さうすると混つて出るのは混ぜようと欲して混ぜるのでなく、自ら体にあるものだから混ざると云ふ意味ですな。
答 さうです、混るのは、所謂良い酒は飲んでも後に何も残らぬ、沢之鶴と云ふやうな酒は所謂二日酔などをして仕様がない。
 それと同じやうに、良い事はずつと頭へ入つてしまつて覚えて居ない。悪い事は入らないので後で頭に残つて居る。それで覚えて居る。
 併し、何時になつても妙なことを覚えて居るのは、それは悪いことが残つて居るので、良い事は霊魂の餌食になつてしまうて居る。
 良い事は其の儘入つてしまつて忘れてしまふ。併し、矢張り中に入つて居るのだから神さんの喋つたことを聞いたりなんかして見ると、何時やら、何時か自分も聞いたことがある、想ひ起すと云ふさう云ふ意味なんでございます。
裁判長 自然に出て来ると云ふのですな、詰り。
出口 意思を以てやるのぢやありませぬから。
裁判長 それも現れると云ふのだね、何時と云ふことなしに……。
清瀬弁護人 さうだらうと聞きましたが、意思と云ふ言葉が邪魔になつて……。
出口 用語が余りはつきりせぬものですから──。


神の国 1926/02 人相と其性質

目の奥深いのは知慧の深い證拠である。かういふ目の持主は内流が強いから、深く慮りて事を処するから、間違ひがない、目の飛び出てる人は、一寸目先が利いて利口さうに見えるが、外部状態をのみ見る人で、奥がない、かういふ人に阿呆が多い。茶色目の人は長生をする、性質が清廉潔白で、道徳心強く、自制の念が深いから、情慾の為めに失敗を招く事がない、黒目勝の人は、見た所綺麗だが、情慾が強く、情事の為めに身を危くする恐れがある。男の目は細長い一重目がよい。丸い目は悪相である。女は二重目のパツチリとした丸いのが円満を表象してよい。女の細い目は淫乱な相である。「女の目には鈴を張れ、男の目にはしんしはれ」との諺は本当である。三白眼は根性の悪い證拠。


神の国 1926/05 人類愛善の真義

 人類愛善会という会を起し、名称を附しましたに就て、人類愛善と云う意味が未だ徹底せず、浅く考えて居る人があるように思います。又解って居る人もあろうと思いますが、一寸それを説明して置きます。
 一寸聞くと人類愛善会というのは、総ての人間を人間が愛するように聞こえて居ります。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬという意味になって居りますが、それはそれに違いないけれども、人類という字を使ったのは、下に「愛善」がありますから、上の「人類」の意味が変って来る。単に「人類」と丈謂えば世界一般の人類或は人間の事であり、色々の人種を総称して人類というのである。併し日本の言霊の上から謂えば、「人」は「ヒト」と読みて、ヒは霊であり、トは止るという事である。そうして「人」という宇は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになって居る。神というものは無形のものであるが、併し神様が地上に降って総ての経綸を地上の人類に伝える時には、止まる処の肉体が必要であります。それで神の直接内流を受る処の予言者とか総てそういう機関が必要なのでありまして、此の霊(神)の止まるのが人(ヒト)である。それは神の顕現・神の表現として釈迦とかキリストとか、そういう聖人が現われて来て居る。人間というものは、善悪混淆した普通のものであるが、人というと神の止まる者、神の代表者である。それに類するというのであるから、それに倣うのである。
 神は善と愛としかない。理性も理智もない。愛という事にかかったら、理性も理智も何もなく、どれ程極道息子でも愛の方から謂えば、只可愛い一方である。天国の神の世界には、愛と善とより外にはない。愛は即ち善であり、善は即ち愛である。


神の国 1928/06ミロク三会

天のミロク、地のミロク、人のミロクと揃ふた時がミロク三会である。天からは大元霊たる主神が地に下り、地からは国祖国常立尊が地のミロクとして現はれ、人間は高い系統をもつて地上に肉体を現はし、至粋至純の霊魂を宿し、天のミロクと地のミロクの内流をうけて暗黒世界の光明となり、現、幽、神の三界を根本的に救済する暁、即ち日の出の御代、岩戸開きの聖代をさしてミロク三会の暁と云ふのである。要するに瑞霊の活動を暗示したものに外ならぬのである。


神の国 1928/06王ミロク様

天のミロクは瑞霊であり、地のミロクは厳霊であり、人のミロクは伊都能売の霊であり、この三体のミロクを称して王ミロクといふのである。さうして総て神は人体を天地経綸の司宰者として地に現はしたものであるから、天地の御内流を享けて御用に奉仕する現実の霊体が王ミロクの働きをするのである。【おほミロク】は大の字を書くのでなく、王の字をあつるのである。言霊学上から云へばオホミロクのオは神、又は霊、又は心及び治むるの意義であり、ホは高く現はるる意味であり、ミは遍満具足して欠陥なき意味であり、水の動きであり、ロは修理固成の意味であり、クは組織経綸の意味である。天地人三才を貫通したるが王の字となるのである。


神の国 1930/08頭髪

髪に魂があり、髪に心がある。頭髪は美の源泉であり女の生命である。女の美は頭髪にある。洗ひだての綺麗な髪を、さつと垂らしてゐるのは一番人の心をひく。女の髪は、毛そのものが美しいのであるから、成るべく簡単に結んでおくが一番よいので、いろんな形を拵へるとそれだけ美が減ずるものである。昔から女の髪の毛で大象をも繋ぎ留める力があると云ふのはこの理である。よい髪を持ちながら、わざわざ縮らすのはよくない。髪は神への架橋であるから、多くて長いのが結構である。相撲取でも髪が長くなければ九分九厘と云ふ所で負を取る。美術家などが髪を長くする事は誠に理由のある事で、これでなければよい想は浮かんで来ない。インスピレーシヨンと云ふのは神からの内流である。頭髪だけは毛といはずしてカミと云ふが神の毛の意味である。


神の国 1932/02/07 於宣伝使会合講話筆録

『上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物二賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之テ萬有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ス、即チ天父ノ命永遠不易』
 吾々の心は天帝から、所謂一霊四魂をもつて造られて居るのである。そしてその心、いわゆる精霊といふものを造つて、そして活物に与へられたのである。吾々動物は皆活物であります。又植物、鉱物も活物であるが、ともかくこの霊を以て心を造り、その心をば吾々に与へられた、その心が即ち人の本体なのであります。それから又、地主は三元八力、所謂剛、柔、流の元素と八つのカとを以て物体を造り、これを万有に御与へになつて居る。故にその霊を守るもの、即ち私の本当の精霊を守って居るものは私の身であつて、この身体の守護神は私の精霊であります。たとへばいま土瓶の中に、茶を入れて置くとする。この場合は土瓶が体であつて、この中の茶は霊に相当する。この体が壊はれたならば霊は出てしまふ。その様に人間の身体に大きな穴をあけて血を出すとすれば、体から霊は去つてしまふ。それだから霊に対しては肉体が守護神である、肉体に対しては霊が守護神であるといふのである。その体を守るものはそのものの霊であり、その霊を守るものはその体であります。その外に弁天さまとか何とか他に特種の神があつて守護するのではない、即ち他神あつてこれを守るに非ず、これ即ち天父の命──之は天からきまつた法則であつて、永遠に易はる事はない。何程信念が強くても、諸々の神霊や菩薩がその人の霊にうつつて住むといふ事はないのであります。只神から直接内流を受けるか間接内流を受けるかだけのものであつて、決して他の守護神がつくの、守護神が守るのといふ事はないのであります。

(中略)

 大病人が全快するのも、みんなこれは間接内流によるものであります。例へば電燈がボツト点るのも、その電燈だけの力でとぼるのではなくして、もとに会社があるからである。中には、この人を癒してやつたとか、自分がお陰を頂かしたとか云つて澄まして居る人があるが、これは電燈が自分勝手にとぼる様に考へてゐるのと同じ事であります。自分がとぼしたと思ふのは、神徳を横領する事になる。「霊界物語」にある天の賊といふのはそれであります。これは誰でもウツカリ云つて居るのであります。私の信者であるとか、私の癒した人であるとかいふ事は、誰しも当り前の様に思つて居る。けれども、不知不識の間に天の賊になつてゐるのである。これをよく注意して貰はないと折角神様の御用をしながら、神様に不快な念を与へるといふ様な事が起つて来るのであります。


神の国 1932/06雑念の盛なる人

 雑念の盛なる人への神示は多く夢の形を取つて現はれる。覚醒したる時はラヂオの雑音の如く、雑念に妨害せられて内流が正確に伝はらない。で、神様は睡眠中を利用せられて夢でもつて内流を下されるのである。之を霊夢と云ふのである。


瑞祥新聞 1925/06相応の理

 現代人は、霊界いつさいの事物と人間いつさいの事物との間に、一種の相応のあることを知らず、また相応のなんたるを知るものがない。かかる無知の原因には種々あれども、その主なるものは、「我」と世間とに執着して、みずから霊界、ことに天界より遠ざかれるによるものである。
 何事をもさしおきてわれと世間とを愛するものは、ただ外的感覚を喜ばし、自己の所欲を遂げしむるところの世間的事物にのみ留意して、かつてそのほかをかえりみず、すなわち内的感覚を楽しまし、心霊を喜ばしむるところの霊的事物にいたつては、彼らの関心せざるところである。彼らがこれをしりぞくる口実にいわく、「霊的事物はあまり高きに過ぎて思想の対境となるあたわず」云々。
 されど古の宗教家また信者は、これにたいして、相応に関する知識をもつていつさい知識中のもつとも重要なるものとなし、これによりて智慧と証覚をえたものである。ゆえに優れたる教えの信者は、いずれも天界との交通の途を開きて相応の理を知得し、天人の知識をえたるものである。すなわち天的人間であつた。
 太古の人民は、相応の理にもとづいて思索すること、なお天人のごとくであつた。これゆえ古古の人は天人と相語るをえたり。またしばしば主神をも見るをえて、その教えを直接にうけたものはたくさんにある。ところが、現代の宗教家にいたつては、この智識まつたく絶滅し、相応の理のなんたるかを知るものほ、宗教各団体を通じて一人もないといつてもよいくらいである。相応のなんたるかを知らずして、霊界について明白なる知識を有するをえない。
 かく霊界の事物に無知なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることはできない。また霊的事物の自然的事物にたいする関係をすら知ることができない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体におよぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、毫も明白なる思想を有することあたわず、いわんやいまなにをか相応といい、またいかなるものを相応となすかさえ、これに答うる者はあるまいと思う。遺憾のきわみである。