霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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一霊四魂

神霊界 1920/08/21 厳霊瑞霊に就きて

『天主一霊四魂を以て心を作り、之を活物に賦与す、地主三元八力を以て体を作り、之を万物に与ふ。故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊なり、他神有りて之を守るに非ず。是れ即ち上帝の命、永遠不易』とは道の大原の教ふるところにして、又大本の霊学観なり。而して一霊とは直霊なり。四魂とは、荒魂、和魂、奇魂、幸魂なり。荒魂は真勇なり。和魂は真親なり。所謂経魂にして厳魂なれば、一々万々確固不易の霊能あり。奇魂は真智なり。幸魂は真愛なり。所謂緯魂にして瑞魂なり。操縦与奪自在の霊能あり。而して天下一般の活物、皆此の四魂を多少なりとも具備せざるは無し。荒和二魂の活動完全なる霊魂を称して厳の魂と謂ひ、奇幸二魂の活動完全なる霊魂を称して瑞の魂と謂ふ。而して直霊能く四魂を主宰し、完全なる活動を為さしむる場合を称して、伊都能売の霊魂と謂ふ。大本祝詞に曰く『直霊魂をして益々光美はしき伊都能売霊魂と為さしめ玉へ』とあるは、各人四魂を研き、神に等しき活動を為すべき、伊都能売の御魂とならむ事を祈るに在り。然れば厳の御魂は教祖に限定し、瑞の御魂は教主輔に限定せるが如く思考するは、大なる誤解なり。各人皆進んで厳の魂、瑞の魂は愚か、伊都能売御魂の活用が出来る所まで、磨き上げて神業を補佐されむ事を希望する次第なり。

神霊界 1919/08/01 随筆

 各自の守護神に就而、天之御中主の大神は、一霊即ち直日魂と、四魂即ち荒魂、和魂、奇魂、幸魂を以て真心を造り、之を所在活物に賦与し給ひ、国祖大国常立尊は剛、柔、流の大三元素と、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八大元力を以て万有に与ヘ給ふのである。故に例之杢兵衛の肉体を守って居るものは、杢兵衛に体内に賦与されたる一霊四魂そのものである。是が所謂本守護神と云ふものである。又杢兵衛の体内の霊魂を保ち留めて、其霊性を完全に発揮せしむるのは杢兵衛の肉体である。故に杢兵衛の肉体なるものは、杢兵衛に宿る霊魂に対しての守護神である。霊魂即ち真心が肉体を守護すれば、霊主体従、尊心卑体となりて善の本となり、肉体が勝て霊魂を守護すれば、体主霊従、尊体卑心となりて悪の始を為すのである。要するに善良なる守護神も悪逆なる守護神も、只だ霊主と体主との差異より生ずるので、決して他方(外部)に特殊の守護神なるものが有つて、杢兵衛の霊なり体なりを守護するものでは無いのである事は、万古不易の大真理である。【道之大原に曰く】、上帝以一霊四魂造心賦之活物地主以三元八力造体与之万有故守其霊者其体守其体者其霊有他神非守之也是即上帝之命永遠不易と示されてあるのであります。

神の国 1932/05 他神の守護

 私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易」と説いてゐる。「他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかつて守護するといふ事はないといふのである。よく狐や狸が憑つて守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守つて下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さつたといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。
 悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があつては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来つて守るといふことはない。

物語06-5-26 1922/01 霊主体従巳 体五霊五

  天帝大六合治立尊は、一霊四魂三元八力をもつて万物を造り、みづから直接にこれを保護し給ふことなく、各自にその守り神を定めて、これを管掌せしめ給ふは、この物語によりて考ふるも、もはや明らかに判明することと思ふ。
 大神は太陽を造りて、これに霊魂、霊力、霊体を賦与したまひ、大地を造りて又これに霊魂、霊力、霊体を賦与し、太陰を造り、列星を造り、その他万物各自に霊魂、霊力、霊体を賦与したまひしなり。今はただ其の一霊四魂につきて、大略を述べむとするなり。
大宇宙には、一霊四魂が原動力となりて、活機凜々乎として活動しつつあり。まづ小宇宙の一霊四魂につきて述ぶるならば、大空の中心に懸れる太陽は直霊にして、これを一霊ともいひ、大直日神ともいふなり。
 而して太陽には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四魂完全に備はり、その四魂はまた一々直霊を具有し、また分れ、また四魂を為せり。是らの直霊を神直日神といふ。その四魂また分派して四魂をなし、各々直霊を備ふ。大空の諸星は、皆一霊四魂を各自に具有しをるものなり。
 しかして太陽の一霊四魂を厳の身魂と総称し、かつ霊主体従の身魂ともいふなり。ゆゑに大空は霊を主とし、体を従とす。大空中に懸れる太陽、太陰および列星は、皆幽体をもつて形成られあるなり。ゆゑに太陽、列星の中に鉱物ありといへども、大地のごとく堅からず、重からず、その重量に非常の差あるを知るべし。
 大空中における一霊四魂の分布状態を、仮に図をもつて示せば左図の如し。
 大地は体を主とし、霊を従として形成られあり。ゆゑに木火土金水が凝結して生成化育を営みつつあるなり。太陽の霊魂を厳の身魂と称するに対し、地の霊を瑞の身魂といひ、体主霊従の身魂といふ。
 また大地球の直霊を大曲津日の神といひ、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四魂を備へ、その四魂は太陽のごとく分離してまた直霊を備ふ。
その直霊を八十曲津日の神といふ。この四魂はまた更に分れ、際限なく大地一面に一霊四魂を分布されつつあるなり。
 天地開闢の初めにあたり、清く、軽き物は天となり、重く、濁れるものは地となりぬ。ゆゑに地上は幾万億年を経るといへども、天空のごとく清明無垢なることは、到底できざるは自然の道理なり。
 ゆゑに地上に棲息する限りは、体主霊従の身魂に制御さるるものなり。ここにおいてか体主霊従を調和し、霊体一致の美しき身魂を造らざるべからざるなり。体主霊従とは、体六霊四の意にあらず、霊主体従とは霊六体四の意にあらず、体主霊従なるものは体五霊五の意味なり。
 然るにややもすれば、地上の人類は体六あるひは体七、体八となり、霊四、霊三、霊二、霊一となり易きものなり。ゆゑに体主霊従といへども、体五霊五は、すなはち天の命ずるところにして、これに体、超過すれば、いはゆる罪となるなり。体五霊五の天則を破りたる吾人の身魂を、大曲津神といひ、また吾人をして外面より悪に導く身魂を八十曲津神といふなり。
 ゆゑに大曲津日の神、八十曲津日の神は、曲津の名ありといへども、決して悪神にあらず。悪を制御する一種の直日神なり。曲津日と曲津といふ神の区別を混同せざるやう注意すべし。
 大地の一霊四魂の分布は、すなはち前記太陽の図に準じて知るべきなり。しかして厳の身魂は、荒魂、和魂もつとも重きを占め、瑞の身魂は、奇魂、幸魂もつとも重きを占めをるなり。
 つぎに伊都能売の身魂について略述すれば、この身魂は、一に月の霊魂ともいひ、五六七の身魂と称せらる。五六七の身魂は、厳の身魂に偏せず、瑞の身魂にも偏せず、厳、瑞の身魂を相調和したる完全無欠のものなり。
 しかして伊都能売の身魂は、もつとも反省力の強き活動を備へて、太陽のごとく常に同じ円形を保つことなく、地球のごとく常に同形を保ちて同所に固着することなく、日夜天地の間を公行して、明となり、暗となり、或ひは上弦の月となり、また下弦の月となり、半円となり、満月となり、時々刻々に省みるの実証を示しゐるなり。
 かくのごとく吾人の身魂の活用し得るを、伊都能売の身魂といふ。
 伊都能売の身魂の活動は、時として瑞の身魂と同一視され、あるひは変性女子の身魂と誤解さるることあり。伊都能売の身魂は、変性男子の身魂にもあらず、また変性女子の身魂にもあらず。完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。
 かくのごとく自由自在の神人たることを得ば、初めて、五六七の一活動をなし得べきなり。月にもまた一霊四魂あり、その四魂の各々一一にもまた一霊四魂の備はれることは、太陽地球と同一なり。しかしてこの月球を保持するは、前巻に述べたるごとく、北斗星、北極星、オリオン星および三角星の四大星体なり。この四大星体は、月球の直接保護に任じ、瑞の身魂の活用を主としつつ、大空、大地の中間を調理按配する重要なる職務を有するものなり。
付言霊五体五(霊主体従)をひのもとの身魂といひ、体五霊五(体主霊従)を又ひのもとの身魂といふ。しかし行動上の体主霊従は、これを悪の身魂または智慧の身魂といふなり。また霊主体従とは霊五体五の意味にして、体主霊従とは体五霊五の意味なりといふ説明は、組織的の説明にして、行動上の説明にあらず。読者よくよく注意すべし。

物語17-99-1 1922/04 如意宝珠辰 霊の礎(三)

一、一霊四魂、すなはち直霊、荒魂、和魂、奇魂、幸魂、以上の四魂には各自直霊といふ一霊が之を主宰してをる。この四魂全く善と愛と信とに善動し活用するを全徳と日(い)ふ。全徳の霊身および塵身は、直ちに天国の最高位地に上り、また三魂の善の活用するを三徳といひ第二の天国に進み、また二魂の善の活用するを二徳といひ第三の天国へ進み、また一魂の善の活用するを一徳または一善といひ、最下級の天国へ到り得るのである。一徳一善の記すべきなきものは、草莽間に漂浪し、または天の八衡に彷徨するものである。
一、これに反して悪の強きもの、不信不愛不徳の徒は、その罪業の軽重に応じてそれぞれの地獄へ堕し、罪相当の苦悶を受くるのである。


物語39-98-1 1922/10 舎身活躍寅 大祓祝詞解

 命(ミコト)は神言なり、神命なり。すなはち水火の結合より成るところの五十音を指す。元来声音は、「心の柄」の義にて、心の活用の生ずる限り、これを運用する声音がなければならぬ。心(即ち霊魂)の活用を分類すれば、奇魂、荒魂、和魂、幸魂の四魂とこれを統括するところの全霊に分かち得る。いはゆる一霊四魂であるが、この根源の一霊四魂を代表する声音はアオウエイの五大父音である。宇宙根本の造化作用は要するに至祖神の一霊四魂の運用の結果であるから、至祖神の御活動につれて必然的にアオウエイの五大父音が先づ全大宇宙間に発生し、そしてその声音は今日といへども依然として虚空に充ち満ちてゐるのだが、あまりに大なる声音なので、あまりに微細なる声音と同様に、普通人間の肉耳には感じないまでである。しかしあまり大ならざる中間音は間断なく吾人の耳朶に触れ、天音地籟一として五大父音に帰着せぬはない。鎮魂して吾人の霊耳を開けば、聴こゆる範囲は更に更に拡大する。
 さて前にも述ぶるがごとく、声音は心の柄、心の運用機関であるから、天神の一霊四魂の活用が複雑に赴けば赴くだけ、声音の数も複雑におもむき停止するところはない。その中にありて宇宙間に発生した清音のみを拾ひ集むれば四十五音(父母音を合せて)濁音、半濁音を合すれば七十五音である。これは声音研究者の熟知するところである。拗音、捉音、鼻音等を合併すれば更に多数に上るが、要するにみな七十五音の変形で、あらゆる音声、あらゆる言語は根本の七十五声音の運用と結合との結果に外ならぬ。されば宇宙の森羅万象一切は是等無量無辺の音声即ち言霊の活用の結果と見て差支へない。
 これは人間の上に照して見てもその通りである事がよく分かる。人間の心の活用のある限り、これを表現する言霊がある。「進め」と思ふ瞬間にはその言霊は吾人の身体の中府から湧き、「退け」と思ふ瞬間にも、「寝よう」と思ふ瞬間にも、「行らう」と思ふ瞬間にも、その他如何なる場合にも、常にその言霊は吾人の中心から湧出する。すなはち人間の一挙一動ことごとく言霊の力で左右されるといふても宜しい。従つて言霊の活用の清純で、豊富な人ほど其の使命天職も高潔偉大でなければならぬ。

物語47-2-9 1923/01 舎身活躍戌 愛と信

現界の人間自身の志すところ、為すところの善なるもの、また思ふところ、信ずるところの真なるものは、神の御目より御覧したまふ時は、その善も決して善でなく、その真も決して真でない、瑞の御霊の大神の御神格によりてのみ、善たり真たるを得るものである。人間自身より生ずる善、または真は、御神格より来たるところの活力を欠いでをるからである。御神格の内流を見得し、感得し、摂受して、ここに立派なる高天原の天人となることを得るのである。
 さうして人間には、一霊四魂といふものがある。一霊とは、すなはち真霊であり、神直日、大直日と称するのである。さうして、神直日とは神さま特有の直霊であり、大直日とは、人間が神格の流入を摂受したる直霊をいふのである。さうして、四魂とは和魂、幸魂、奇魂、荒魂をいふのである。この四魂は、人間はいふに及ばず、高天原にも現実の地球の上にも、それぞれの守護神として儼存しあるのである。そして、荒魂は勇を司り、和魂は親を司り、奇魂は智を司り、幸魂は愛を司る。さうして、信の真は四魂の本体となり、愛の善は四魂の用となつてゐる。さうして、直霊は瑞の御霊の大神の御神格の御内流、すなはち直流入された神力である。ゆゑに、瑞の御霊の御神格は、総ての生命の原頭とならせたまふものである。この大神より人間に起来するものは、神善と神真である。故にわれわれ人間の運命は、この神より来たる神善と神真を、いかに摂受するかによつて定まるものである。そこで信仰と生命とにあつてこれを受くるものは、その中に高天原を顕現し、またこれを否むものは、やむを得ずして地獄界を現出するのである。