霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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守護神

神の国 1932/02/07 於宣伝使会合講話筆録

 総て神が一物を造り玉ふのには、仮令一塊の土を造るのにも、三元八力といふ諸原素、諸霊力に拠られるのであります。剛、柔、流の三元(鉱物、植物及び動物はこの原素よりなつてゐる)と八力(溶かす力、和す力、引張る力、ゆるむ力等八つの力)をもつて、一つの物が造られてゐるのであります。そして人の身体も其の如く出来て居るのでありまして、そこへ一霊四魂といふ魂即ち勇智愛親の働く所の魂を、御輿へになつて居るのであります。一霊は直日の霊である、四魂の荒魂、和魂、奇魂、幸魂は四つ個々別々にあるのではなく、これは智である、これは愛である、これは親であるなどその魂の働きを云ひ表はしただけで、元は一つであります。その時の所謂心境の変化で勇となり、智となり,愛となり、親となるのであつて、本当は一つのものであります。直日の霊、これ一つが本当の心なのです。それ以外に外から神様が来ると思ふのは違つて居る。吾々がこの地上に降つたのは、本守護神が降つて来たのである。が、この物質界に生れて、衣食佳の為に色々と心を曇らし、色々と劃策をするが為に、正守護神又は副守護神といふものが出来て来たのであります。
 副守護神といふのは実際は、悪霊といふ事であります。もとよりの悪霊ではないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつて居るのである。けれども総ての事を見直し、宣り直す教であるから、副守護神と云つて居るのであるが、実際は副守護神といふのは悪霊の意であります。折角のよい霊が悪くなつたのである。けれども人間の心に悪霊が居ると云うと具合が悪いから、副守が居ると云つただけであります。

神霊界 1919/08/01 随筆

 各自の守護神に就而、天之御中主の大神は、一霊即ち直日魂と、四魂即ち荒魂、和魂、奇魂、幸魂を以て真心を造り、之を所在活物に賦与し給ひ、国祖大国常立尊は剛、柔、流の大三元素と、動、静、解、凝、引、弛、合、分の八大元力を以て万有に与ヘ給ふのである。故に例之杢兵衛の肉体を守って居るものは、杢兵衛に体内に賦与されたる一霊四魂そのものである。是が所謂本守護神と云ふものである。又杢兵衛の体内の霊魂を保ち留めて、其霊性を完全に発揮せしむるのは杢兵衛の肉体である。故に杢兵衛の肉体なるものは、杢兵衛に宿る霊魂に対しての守護神である。霊魂即ち真心が肉体を守護すれば、霊主体従、尊心卑体となりて善の本となり、肉体が勝て霊魂を守護すれば、体主霊従、尊体卑心となりて悪の始を為すのである。要するに善良なる守護神も悪逆なる守護神も、只だ霊主と体主との差異より生ずるので、決して他方(外部)に特殊の守護神なるものが有つて、杢兵衛の霊なり体なりを守護するものでは無いのである事は、万古不易の大真理である。【道之大原に曰く】、上帝以一霊四魂造心賦之活物地主以三元八力造体与之万有故守其霊者其体守其体者其霊有他神非守之也是即上帝之命永遠不易と示されてあるのであります。
 自己天賦の真霊魂を守護神と霊学上から唱へるのである。是が大本で謂ふ所の本守護神である。大本で副守護神と謂ふのは、他から憑依した霊魂である。憑依した霊魂を古事記にては神懸と書き、他の古典には神憑と書き書記には帰神と書いて、何れもカムガカリと読ましてある。自己の真心を発揮して、活用せしむるを帰神と日ふ。帰神は他神の憑依したものでない。他神の憑依したのを神懸又は神憑と云ふのである。
 古典にも有徳な神人に神霊の憑依された例証は散見されるが、大本教祖の如き御方には神憑が在るが、俗世界に沈溺した人々には真正の神憑は無いと断言して良い。神憑は沢山に世界にもあり大本の信者の中にも見受けるが、慨して邪神の憑依者である。吾師長沢先生が数十年間霊学を研究され、真正の神憑を造らんとして焦心して居られるが、今日に至つて未だ是なら真正の神憑と認めて差支なきものは、出来て居らぬのを見ても、神憑の容易に修得されない事が判るのである。
 普通の世間に神憑と称ヘて居るものは、大抵狐や狸や蛇や亡霊の憑依であつて、約り俗に日ふ稲荷下げ梓巫の如うなもの斗りである。容易に鎮魂の修行をしても、真正の大神が憑られる事はない。大神の憑依さるゝ場合は天下国家の一大事を人界に警告さるゝ場合に、有徳の人、殆んど神様のやうな水晶の如うな霊魂を有する神人に依りて、神憑の手続を採らるゝのである。
 日本は善言美詞を以て、万霊を言向和す神国であるから、実際に於て人々の霊魂や肉体に害悪を加ふる邪神の霊でも、是を頭から悪霊邪神と称えず、善言美詞を以て妨害神でも一時之を守護神と日ふ美名を与ヘて、改心帰順せしむるのである。要するに真正の守護神は自己特有の真心の別称で、副守護神と称するのは、他から妨害に来て居る悪霊を指したり又た善神に憑依したのを云ふのである。
 又た天照大神や国常立大神や、其他の神聖な神々が、真の神人に憑依された場合は、之は天地の守護神国家の守護神と日ふのであります。

神の国 1932/05 他神の守護

 私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易」と説いてゐる。「他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかつて守護するといふ事はないといふのである。よく狐や狸が憑つて守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守つて下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さつたといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。
 悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があつては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来つて守るといふことはない。

神霊界 1919/10/15 随筆

 大本霊学の上から本守護神と称するは、仮令杢介の肉体に、天賦的に具存する所の、天帝の分霊を指すので在ります。本守護神は鎮魂の神法を、修得するに於て帰神となり、完全に其霊能を発揮し神の御子として、天地経綸の司宰者たる天職を尽す事が出来得るのであります。
 亦た正守護神と云ふのに、公憑私憑の二大別があります。公憑とは甲の肉体にも乙にも丙にも丁にも臨機応変的に憑依する神霊であり、私憑とは或る種の因縁を有する身魂、一人に限つて憑依する神霊を指すので在ります。正守護神なるものは要するに、他より来つて人の肉体を機関として、神界の経綸を助け且つ又本守護神の天職を輔弼する所の、善良なる神霊であります。而して公憑は神懸と日ひ私憑は神憑と言ふのであります。
 副守護神と日へば正守護神を輔佐する神霊の如うに聞こえますが、其実は国家社会及び人生に妨害を加へる為に、人の身魂の虚に乗じて、本正守護神を押込め自由行動を為す、邪神妖魅の別名であります。神の道であれば正直に邪神なら邪神と呼べば良いのに、不可解な副守護神など呼ぶ必要は在るまいと日ふ人もありますが、一応尤も至極の説であります。併し日本神国は言霊の幸ひ助け天照国であるから、徹頭徹尾善言美詞を用ふべき、国柄であるから、悪鬼邪神と雖も妄に軽蔑せず名を善美に呼んで、其邪神を改心させる為であります。天照大神の神勅にも言向和せと在り、又た神直日大直日に見直し聞直し詔り直すのが、神国の風儀であるから大本にては神慮を奉体して悪鬼邪神と称えず、敬称を用ふる次第であります。感謝祈願の辞にも善言美辞の神嘉言を以て神々を和ごめ天地に代るの功績を永遠無窮に立て云々とあるのも、此の理由に基いて、居るのであります。

物語47-2-7 1923/01 舎身活躍戌 酔の八衢

『人間の肉体は、いはゆる精霊の容物だ。精霊の中には、天国へ昇つて天人となるのもあれば、地獄へおちて鬼となるのもある。天人になるべき霊を称して、肉体の方面から、これを本守護神といひ、善良なる精霊を称して正守護神といひ、悪の精霊を称して副守護神といふのだ
人間の体の中には、さう本正副と三色も人格が分つてをるのですか』
『マアそんなものだ。
吾々は天人たるべき素養を持つてゐるのだが、肉体のあるうちに天人になつて、高天原の団体に籍をおく者は極めて稀だ。今の人間は、たいていみな地獄に籍をおいてゐる者ばかりだ、少しマシな者でも、やうやくに精霊界に籍をおくくらゐなものだよ。この精霊界において、善悪正邪を審かれるのだから、もはや過去の罪を償ふ術もない。ア丶、これを思へば、人間は肉体のあるうちに、一つでも善い事をしておきたいものだなア』

物語47-3-12 1923/01 舎身活躍戌 天界行

 高天原の各団体に居住する霊国天人および天国の天人は、愛を生命とし、しかして一切を広く愛するがゆゑに、人の肉体を離れて上り来たる精霊のためにも、あらゆる厚誼をつくし、懇篤なる教訓を伝へ、あるひは面白き歌を歌ひ、舞曲を演じ、音楽を奏しなどして、一人にても多く、これを高天原の団体へ導き行かむと思ふほか、他に念慮は少しもないのである。これがいはゆる天人の最高最後の歓喜悦楽である。しかしながら、精霊が人の肉体を宿とし、現世に在りしころ、善霊すなはち正守護神の群に入るべき生涯や、あるひは天人すなはち本守護神の群に至るべき生涯を送つてをらなかつたならば、彼ら精霊は、これらの天国的善霊を離れ去らむと願ふものである。かくのごとくにして、精霊は遂に、現世に在つた時の生涯と一致する精霊と共に群居するに非ざれば、どこまでもこの転遷を休止せないものである。
 かくのごとく、自己生前の生涯に準適せるものを発見するにおよんで、かれ精霊は、ここにまた在世中の生涯に相似せるものと共に送らむとするものである。実に霊界の法則は、不思議なものといふべきである。
 凡て人間の身には、善と悪と二種の精霊が潜在してゐることは前に述べた通りである。しかして人間は、善霊すなはち本守護神、または正守護神によつて、高天原の諸団体と和合し、悪霊すなはち副守護神によつて、地獄の団体と相応の理によりて和合するものである、これらの精霊は、高天原と地獄界の中間に位する中有界すなはち精霊界に籍を置いてゐる。この精霊が人間に来たる時には、まづその記憶中に入り、次にその想念中に侵入するものである。しかして副守護神は、記憶および想念中にある悪しき事物の間に潜入し、正守護神はその記憶や想念中にある、最も善き事物の裡に侵入し来たるものである。されど精霊自身においては、その人間の体中に入り、相共にをることは少しも知らないものである。しかも精霊が人間と共なる時は、凡てその人間の記憶と想念とをもつて、精霊自身の所有物と信じてゐる。また彼ら精霊なるものは、人間を見ることはない。何ゆゑなれば、現実の太陽界にあるところの者は、彼ら精霊が視覚の対境とならないからである。大神はこれらの精霊をして、その人間と相ともなへることを知らざらしめむがために、大御心を用ひたまふことすこぶる甚深である。何故なれば、彼ら精霊がもしこの事を知る時には、すなはち人間と相語ることあるべく、しかして副守護神たる悪霊は、人間を亡ぼさむことを考へるからである。
 副守護神すなはち悪霊は、根底の国の諸々の悪と虚偽とに和合せるものなるがゆゑに、ただ一途に人間を亡ぼし地獄界へ導き、自分の手柄にしようと希求するのほか、他事ないからである。しかして副守護神は、ただに人間の心霊すなはちその信と愛とのみならず、その肉体をも挙げて亡ぼさむことを希求するものである。ゆゑに彼らの悪霊が、人間と相語らふことがなければ、自分は人間の体内にあることを知らないのだから、決して害を加へないのである。彼ら悪霊は、その思ふところ、その相互に語るところの事物が、果して人間より出で来たるものなりや否やを知らないのである。何となれば、彼ら精霊の相互に物いふは、その実は、人間より来たるところのものなれども、彼らはこれをもつて、自分の裡よりするものなりと信じ切つてゐる。しかして何れの人も、自分に属するところを極めて尊重し、かつこれを熱愛するがゆゑに、精霊は自らこれを知らないけれども、自然的に人間を愛し、かつ尊重せなくてはならないやうになるのである。これ全く、瑞の御霊大神の御仁慈の御心をもつて、かく精霊に、人間と共なることを知らしめざるやう取計らひたまうたのである。
 天国の団体に交通する精霊も、地獄界と交通せる精霊もまた、同じく人間に付き添うてゐるのは前に述べた通りである。しかして、天国の団体に交通してゐる精霊の、もつとも清きものを、真霊または本守護神といひ、やや劣つたものを正守護神といひ、地獄と交通する精霊を、悪霊または副守護神といふのである。しかし人間が生るるや、ただちに悪の裡に陥らねばならない事になつてゐる。ゆゑに当初の生涯は全くこれら精霊の手の裡に在りといつてもいいのである。人間にして若しおのれと相似たる精霊が付き添うて守るに非ざれば、人間は肉体として生くることは出来ない。またもろもろの悪を離れて善に復ることも出来ないことになるのである。人間の肉体が、悪霊すなはち副守護神によつて、おのれの生命を保持し得ると同時に、また善霊すなはち正守護神によつて、この悪より脱離することを得るものである。人間は又この両者の徳によつて、平衡の情態を保持するがゆゑに、意思の自由なるものがある。この自由の意思によつてもつて、もろもろの悪を去りまた善に就くことを得、またその心の上に善を植ゑつくることを得るのである。人間がもしもかくのごとき自由の情態に非ざる時は、決して改過遷善の実を挙ぐることは出来ない。しかるに、一方には根底の国より流れ来たる悪霊の活動するあり、一方には高天原より流れ来たる善霊の活動するありて、人間はこれら両者の中間に立ち、天国、地獄両方の圧力の間に挾まらなくては、決して意思の自由はあるべきものでない。
 また人間に自由のない時は、生命あることを得ない。また善をもつて他人に強ゆることは出来ない、人から強ひられたる善そのものは、決して内分の霊魂に止まるものでない、心の底にどうしても滲み込むことは出来ない。ただし自由自在に摂受したところの善のみは、人間の意思の上に深き根底を下ろして、さながらその善をおのれの物のごとくするやうになるものである。

物語48-1-1 1923/01 舎身活躍亥 聖言

 宇宙には、霊界と現界との二つの区界がある。しかして霊界には、また高天原と根底の国との両方面があり、この両方面の中間に介在する一つの界があつて、これを中有界または精霊界といふのである。
 また現界一名自然界には、昼夜の区別があり、寒暑の区別があるのは、あたかも霊界に、天界と地獄界とあるに比すべきものである。
 人間は、霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。この原理を霊主体従といふのである。霊なるものは、神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。しかして人間には、一方に愛信の想念あるとともに、一方には、身体を発育し、現実界に生き働くべき体慾がある。この体慾は、いはゆる愛より来たるのである。しかし、体に対する愛は、これを自愛といふ。神より直接に来たるところの愛は、これを神愛といひ、神を愛し万物を愛する、いはゆる普遍愛である。また自愛は、自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであつて、これを自利心といふのである。
 人間は肉体のあるかぎり、自愛もまた必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に遡り、どこまでも真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。要するに人間は、霊界より見れば、すなはち精霊であつて、この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。ゆゑに人間は、霊的動物なるとともに、また体的動物である。
 
精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかしてたいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。しかして精霊の善なるものを、正守護神といひ、悪なるものを、副守護神といふ。正守護神は、神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊すなはち副守護神に圧倒され、彼が頤使に甘んずるごとき卑怯なる精霊となる時は、精霊みづからも地獄界へともどもにおとされてしまふのである。この時は、ほとんど善の精霊は悪霊に併合され、副守護神のみ、吾物顔に跋扈跳梁するに至るものである。してこの悪霊は、自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られるものである。かくのごとき悪霊に心身を占領された者を称して、体主霊従の人間といふのである。また善霊も悪霊も皆これを一括して精霊といふ。
 現代の人間は百人がほとんど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、いづれも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は、宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼らは霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度をもつて、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。はなはだしきは体主体従的研究に堕してゐるものが多い。いづれも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、いはゆる天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲どものことである。
 すべて宇宙には霊界・現界の区別ある以上は、たうてい一方のみにてその真相を知ることは出来ない。自然界の理法に基づくいはゆる科学的知識をもつて、無限絶体無始無終、不可知不可測の霊界の真相を探らむとするは、実に迂愚癲狂も甚しといはねばならぬ。まづ現代の学者は、その頭脳の改造をなし、霊的事物の存在を少しなりとも認め、神の直接内流によつて、真の善を知り、真の真を覚るべき糸口を捕足せなくては、黄河百年の河清をまつやうなものである。今日のごとき学者の態度にては、たとへ幾百万年努力するとも、到底その目的は達することを得ないのである。夏の虫が冬の雪を信ぜないごとく、今日の学者はその智暗くその識浅く、かつ驕慢にして自尊心強く、何事も自己の知識をもつて、宇宙一切の解決がつくやうに、いなほとんどついたもののやうに思つてゐるから、実にお目出たいといはねばならぬのである。天体の運行や大地の自転運動や、月の循行、寒熱の原理などについても、まだ一としてその真を得たものは見当らない。徹頭徹尾、矛盾と撞着と、昏迷惑乱とに充たされ、暗黒無明の域に彷徨し、太陽の光明に反き、わづかに陰府の鬼火の影を認めて、大発明でもしたやうに騒ぎまはつてゐるその浅ましさ、少しでも証覚の開けたものの目より見る時は、実に妖怪変化の夜行するごとき状態である。現実界の尺度は、すべて計算的知識によつて、そのある程度までは考察し得られるであらう。しかしなにほど数学の大博士とはいへども、その究極するところは、たうてい割り切れないのである。例へば十を三分し、順を追うて、おひおひ細分しゆく時は、その究極するところは、ヤハリ細微なる一といふものが残る。この一は、なにほど鯱矛立ちになつて研究してもたうてい能はざるところである。自然界にあつて、自然的事物すなはち科学的研究をどこまで進めても、解決がつかないやうな愚鈍な暗冥な知識をもつて、焉んぞ霊界の消息門内に一歩たりとも踏み入ることが出来ようか。
 口述者が霊界より、大神の愛善と信真より成れる神格の直接内流やその他諸天使の間接内流によつて、暗迷愚昧なる現界人に対し、霊界の消息を洩らすのは、何だか豚に真珠を与ふるやうな心持ちがする。かく言へば瑞月は、癲狂者あるひは誇大妄想狂として、一笑に附するであらう。しかしながら自分の目より見れば、現代の学者くらゐ始末の悪い、分らずやはないと思ふ。プラス、マイナスを唯一の武器として、絣や金米糖をゑがき、現界の研究さへも、まだその門戸に達してゐない自称学者が、霊界のことに嘴を容れて、審神者をしようとするのだから、実に滑稽である。ゆゑにこの『霊界物語』も、これを読む人々の智慧証覚の度合の如何によつて、その神霊の感応に応ずる程度に、幾多の差等が生ずるのは已むを得ないのである。
 宇宙の真理は開闢のはじめより、億兆万年の末にいたるも、決して微塵の変化もないものである。しかしながら、これに相対する人間の智慧証覚の賢愚の度によつて種々雑多に映ずるのであつて、つまりその変化は真理そのものにあらずして、人間の知識そのものにあることを知らねばならぬのである。もし現代の人間が、大神の直接統治したまふ天界の団体に籍をおき、天人の列に加はることを得たならば、現代の学者のごとく無性やたらに頭脳を悩まし、心臓を痛め肺臓を破り、神経衰弱を来たさなくても、容易に明瞭に宇宙の組織紋理が判知さるるのである。
 憎まれ口はここらでお預かりとして、改めて本題に移ることとする。ここに霊界に通ずる唯一の方法として、鎮魂帰神なる神術がある。しかして人間の精霊が直接大元神すなはち主の神(または大神といふ)に向かつて神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神といふのである。帰神とは、わが精霊の本源なる大神の御神格に帰一和合するの謂である。ゆゑに帰神は、大神の直接内流を受くるによつて、予言者として、最も必要なる霊界真相の伝達者である。
 次に大神の御神格に照らされ丶知慧証覚を得、霊国に在つてエンゼルの地位に進んだ天人が、人間の精霊に降り来たり、神界の消息を、人間界に伝達するのを神懸といふ。またこれを神格の間接内流ともいふ。これもまた予言者を求めてその精霊を充たし、神界の消息を、ある程度まで人間界に伝達するものである。
 次に、外部より人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行ふところの邪霊がある。これを悪霊または副守護神といふ。この情態を称して神憑といふ。
 すべての偽予言者、贋救世主などは、この副守の囁きを、人間の精霊みづから深く信じ、かつ憑霊自身も貴き神と信じ、その説き教へるところもまた神の言葉と、自ら自らを信じてゐるものである。すべてかくのごとき神憑は、自愛と世間愛より来たる凶霊であつて、世人を迷はし、かつ大神の神格を毀損すること最もはなはだしきものである。かくのごとき神憑は、すべて地獄の団体に籍をおき、現界の人間をして、その善霊を亡ぼし、かつ肉体をも亡ぼさむことを謀るものである。
近来天眼通とか千里眼とか、あるひは交霊術の達人とか称する者は、いづれもこの地獄界に籍をおける副守護神の所為である。泰西諸国においては、今日やうやく現界以外に霊界の在ることを、霊媒を通じてやや覚り始めたやうであるが、しかしこの研究は、よほど進んだ者でも、精霊界へ一歩踏み入れたくらゐな程度のもので、たうてい天国の消息は夢想だにも窺ひ得ざるところである。たまには最下層天国の一部の光明を、遠方の方から眺めて、臆測を下した霊媒者も少しは現はれてゐるやうである。霊界の真相を充分とはゆかずとも、相当に究めた上でなくては、妄りにこれを人間界に伝達するのは、かへつて頑迷無智なる人間をして、ますます疑惑の念を増さしむるやうなものである。ゆゑに霊界の研究者は、もつとも霊媒の平素の人格についてよく研究をめぐらし、その心性を十二分に探査した上でなくては、好奇心にかられて、不真面目な研究をするやうなことでは、学者自身が中有界は愚か、地獄道に陥落するにいたることは、想念の情動上やむを得ないところである。

物語52-1-1 1923/02 真善愛美卯 真と偽

 人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正副守護神といふ。
 そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは、一方は内底神の善に向かひ、真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊である。また副守護神とは、その内底神に反き、ただ物質的躯殻すなはち肉体に関する慾望のみに向かつて蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争をもつて唯一の真理と看做す精霊である。
 しかして人間の霊魂には、わが神典の示すところに依れば、荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されている。四魂の解説はすでにすでに述べたれば、ここには省略する。荒魂は勇、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親であり、しかしてこの勇智愛親を完全に活躍せしむるものは神の真愛と真智とである。いま述べた幸魂の愛なるものは、人類愛にして、自愛および世間愛等に住する普通愛である。
 神の愛は、万物発生の根源力であつて、また人生における最大深刻の活気力となるものである。この神愛は、大神と天人とを和合せしめ、また天人各自の間をも親和せしむる神力である。かくのごとき最高なる神愛は、いかなる人間もその真の生命をなせるところの実在である。この神愛あるがゆゑに、天人も人間もみな能くその生命を保持することを得るのである。また大神より出で来たるところの御神格そのものを神真といふ。この神真は大神の神愛に依つて、高天原へ流れ入るところの神機である。神の愛とこれより来たる神真とは、現実世界における太陽の熱とその熱より出づるところの光とに譬ふべきものである。しかして神愛なるものは、太陽の熱に相似し、神真は太陽の光に相似してゐる。また火は神愛そのものを表はし、光は神愛より来たる神真を表はしてゐる。大神の神愛より出で来たる神真とは、その実性において神善の神真と相和合したものである。かくのごとき和合あるがゆゑに、高天原における一切の万物を通じて生命あらしむるのである。
 愛には二種の区別があつて、その一は神に対する愛であり、二は隣人に対する愛である。また最高第一の天国には大神に対する愛あり、第二すなはち中間天国には隣人に対する愛がある。隣人に対する愛とは、仁そのものである。この愛と仁とは、いづれも大神の神格より出で来たつて天国の全体を成就するものである。高天原に在つて大神を愛し奉るといふことは、人格の上からみて大神を愛するの謂ではない、大神より来たるところの善そのものを愛するの意義である。また善を愛するといふことは、その善に志し、その善を行ふや、みな愛に依つてなすの意味である。ゆゑに愛を離れたる善は、決して如何なる美事といへども、善行といへども、みな地獄の善にしていはゆる悪である。
 地獄界において善となすところのものは、高天原においては大抵悪となる。高天原において悪となすところのものは、すべて地獄界にはこれを善とさるるのである。それゆゑに、神の直接内流によつて丶天国の福音を現界の人類に伝達するとも、地獄界に籍をおける人間の心には、最も悪しく映じかつ感ずるものである。ゆゑにい、づれの世にも、至善至愛の教を伝へ、至真至智の道を唱ふる者は、必ずこれを異端邪説となし、あるひは敵視され、あらゆる迫害を蒙るものである。しかし、かくのごとき神人にして、地獄界の如何なる迫害を受け、あるひは身肉を亡ぼさるることありとも、その人格は依然として死後の生涯に入りし時、最も聖きもの、尊きものとして、天国に尊敬されかつ愛さるるものである。
 次に隣人を愛する仁そのものは、人格より見てその朋友知己等を愛するの謂ではない。要するに大神の聖言すなはち神諭より来たるところの神真を愛するの意義である。また神真を愛するといふことは、その真に志し、真を行ふの意義である。以上両種の愛は、善と真とのごとくに分立し、善と真とのごとくに和合する。

神の国 1925/01 夢の話

夢の話
〔問〕霊界と夢の世界とは違ひますか。
〔答〕それは違ふ。副守護神は己の欲せんとする事でも覚醒時には正守護神に制せられ思ふ儘に行ふ事が出来ぬ。肉体の睡眠せる時は正守護神は肉体を副守護神に任して、肉体々、離れて他に活動するか、共に熟睡するので、此時副守護神は自分の天下が来たいふので自分の思うままに外的精神が活動するのが夢である。たとへば自分の意中の女があつても覚醒時には種々の制裁があつて思ふ様に言ひ寄る事が出来ぬ。さういふ揚合、肉体が眠りにつくと副守は何ものにも制せられないので、自分の思ふ存分に活動するのである。昔から聖人に夢なしといふ様に、本守護神、正守護神の働きは普通夢となつては現はれないものである。時に神夢とか正夢とかはあるけれども、之は滅多にあるものではない。神夢とか正夢とかになると、其儘其通りに実現するもので、制断を要する様な夢は副守護神の働きである。

物語47-2-8 1923/01 舎身活躍戌 中有

 また根底の国に通ふ所の入口は、これに入るべき精霊のために開かるるものであるから、その外の者はその入口を見ることは出来ない。入口の開くのを見れば、薄暗うて、あたかも煤けた蜂の巣のやうに見えてゐる。さうして、斜めに下向して、おひおひと深い暗い穴へ這入つて行くことになつてゐる。この暗い入口を探り探りて下つて行くと、先になつてまた、数個の入口が開いてゐる。この入口の穴から、悪臭紛々として鼻をつき出てくるその不快さ、自然に鼻が曲り、息ふさがり、眉毛が枯れるやうな感じがしてくるものである。ゆゑに善霊すなはち正守護神は、甚だしくこれを忌み嫌ふがゆゑに、この悪臭を嗅ぐやいなや、恐れて一目散に走り逃げ去るものである。
 しかしながら、地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊すなはち副守護神は、この暗黒にして悪臭紛々たるを、此上なく悦び楽しむがゆゑに、喜んでこれを求め、勇んで地獄の入口に飛びこむものである。
 世間のおほかたの人間が、おのれの自性に属する悪を喜ぶごとく、死後霊界に至れば、その悪に相応せる悪臭を嗅ぐことを喜ぶものである。この点においては、彼ら悪霊の人間は、貪婪あくなき鷲や鷹、狼、虎、獅子、豚の類に比ぶべきものである。彼らの精霊は、腐つた屍骸や堆糞等の嘔吐を催さむとする至臭至穢物を此上なく喜び、その臭気を尋ねて、糞蠅のごとくに集まつてくるものである。
 これらの人間の霊身は、高天原の天人の気息や、芳香にあふ時は、内心の苦しみに堪へず、悲鳴をあげて泣き倒れ、苦しみ悶えるものである。実に大本開祖の神示にある、身魂相応の神の規則とは、実に至言といふべしである。

物語17-1-2 1922/04 如意宝珠辰 魔の窟

岩公『なんとマア、裸の行列といふものは、見つともないものだ。それにつけても鬼彦は丁寧な言葉を使ふかと思へば忽ち荒つぽい言葉になる、どちらにか定めてもらはないと、吾々が応対するについても方針が定まらないからなア』
鬼彦『本守護神や、正守護神や、副守護神の言葉が混合して出るから仕方がありませぬわいやい。オイ岩公、いましばらく辛抱なされませ、この鬼彦もちつとばかり精神が落ち着きを欠いでゐるからなア』

物語21-2-9 1922/05 如意宝珠申 改悟の酬

 三人の背後よりは紫の雲、シユウシユウと湯烟のごとく音をたてて頭上に高く立ち昇り、その中より蜃気楼のごとく三人の女神現はれたまひ、右手に鈴を持ち、左に日月の紋を記したる扇を開いて中空に舞ひくるふ。これぞ遠州、駿州、武州三人の副守護神が体を離れたるより、その精霊中の本守護神は喜びたまひてその神姿を現はし、歓喜の意を表したるなりき。
 一同はこの奇瑞に感歎し天津祝詞を奏上するをりしも丶雲州、三州、甲州の三人は、容色艶麗なる女神の手を引き、杢助の前に現はれて、前非を悔い涙を流して合掌する。三人に手を引かれて此処に現はれし女神を見れば、こはそもいかに、十年以前の壮健なりし花の盛りのお杉が姿なりければ、杢助は思はず知らず、
『ア丶女房の精霊か、よくも無事にゐてくれた』
『お母さま、よく来て下さいました』
とお初はお杉の精霊に取りついて嬉し涙に泣き崩るる。

物語49-3-9 1923/01 真善愛美子 善幻非志

凡て人間は、精霊の容器であつて、この精霊は、善悪両方面の人格を備へてゐるものである。しかして精霊が憑りきつた時は、その人間の肉体を自己の肉体と信じ、またその記憶や想念言語までも、精霊自身の物と信じてゐるのである。しかしながら鋭敏なる精霊は、肉体と自問自答する時に、精霊自身において、自分はある肉体の中に這入つてゐるものなることを悟るのである。
 しかして精霊には、正守護神副守護神とがあり、副守護神なる者は、人間を憎悪すること最も劇甚にして、その霊魂と肉体とを、併せてこれを亡び尽さむことを願ふものである。しかしてかかる事は、甚しく忘想に耽る者の間に行はるる所以は、その妄信者をして、自然的人間に、本来所属せる歓楽より自ら遠ざからしめむためである。
 この高姫は、自ら精霊に左右され、しかして精霊を、神徳無辺の日出神と固く信じ、その頤使に甘んじ、その言を一々信従し、かつ筆先を精霊のなすがままに書き表はすがゆゑに、精霊は、決して高姫の肉体を憎悪し、または滅尽せむとせないのである。むしろその肉体を使つて、精霊の思惑を遂行し丶大神の神業を妨げ、地獄の団体をますます発達せしめむと願うてゐるのである。しかし高姫自身は、吾に憑依せる精霊を、至粋至純なる日出神と信じ切り、いつかど大神の神業に仕へてゐるつもりでゐるから堪らないのである。
しかし大神は、時々精霊を人間より取りはなしたまふことがある。
 これはかれ精霊をして、人間と同伴せるを知らざらしめむがためである。何となれば、精霊なる者は、自己以外に世界あることを知らぬ、すなはち人間なる者が、彼ら以外に存在することを知らないのである。故に、高姫の肉体に憑つてゐる精霊は、日出神と自らも信じ、また高姫の肉体とは知らず、尊きある種の神と言葉を交へてゐるやうに思つてをつたのである。また肉体に這入つてゐることを、やうやくにして悟るといへども、高姫の方において、その精霊を悪神と知らず、真正の日出神と尊信してゐる以上は、精霊は、決して高姫の霊魂、肉体に害を加へないのは前に述べた通りである。
 すべて精霊は、霊界のことは、自分の霊相応の範囲内において見ることを得れども、自然界は少しも見ることが出来ないのである、これは現実界の人間が、霊界を見ることが出来ないのと同様である。
 この理によつて人間が、もし精霊にものをいひ返すを神が許したまふ時は、精霊は自己以外に人間あるを知るがゆゑに、実に危険である。中には、深く宗教上のことを考へ、専ら心をこれにのみ注ぐ時は、その心の中に、自分が思惟するところを現実的に見ることがある。かくのごとき人間は、精霊の話を聞き始むるものである。
 すべて宗教のことは何たるを問はず、人間の心の中より考へて、世間における諸々の事物の用によつて、これを修正せざる時は、その事その人の内分に入り込んで、精霊そこに居を定め、霊魂を全く占領し、かくして、ここに在住する幾多の精霊を頤使し、あるひは圧迫し、あるひは放逐するに至るものである。高姫のごときは、実にその好適例である。

物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇

大抵の人間は、高天原に向かつてその内分が完全に開けてゐない。それゆゑに大神は、精霊を経て人間を統制したまふのが普通である。何となれば、人間は自然愛と地獄愛とより生み出すところの、地獄界の諸々の罪悪の間に生れ出でて、惟神すなはち神的順序に背反せる情態にをるがゆゑである。されど一旦人間と生れた者は、どうしても惟神の順序のうちに復活帰正すべき必要がある。しかしてこの復活帰正の道は、間接に精霊を通さなくてはたうてい成就し難いものである。
 しかしながら、この物語の主人公たる初稚姫のごとき神人ならば、最初より高天原の神的順序に依るところのもろもろの善徳のうちに生れ出でたるがゆゑに、決して精霊を経て復活帰正するの必要はない。神人和合の妙境に達したる場合の人間は、精霊なるものを経て大神の統制したまふところとならず、順序すなはち惟神の摂理により大神の直接内流に統制さるるのである。
 大神より来たる直接内流は、神の神的人格より発して人間の意性中に入り、これよりその智性に入り、かくてその善に入りまたその善を経て真に入る。真に入るとは要するに愛に入るといふことである。この愛を経てのち聖き信に入る。ゆゑにこの内流の、愛なき信に入り、また善のなき真に入り、また意思よりせざるところの智性に入ることはないものである。ゆゑに初稚姫のごときは、清浄無垢の神的人格者ともいふべき者なれば、その思ふところ、言ふところ、行ふところは、一として神の大御心に合一せないものはないのである。かかる神人を称して真の生神といふのである。
 天人および精霊は、何ゆゑに人間と和合すること、かくのごとく密接にして、人間に所属せる一切のものを、彼ら自身の物のごとく思ふ理由は、人間なるものは霊界と現界との和合機関にしてすこぶる密着の間にをり、ほとんど両者を一つのものと看做し得べきがゆゑである。されど現代の人間は高天原より、物慾のために自然にその内分を閉し、大神のまします高天原と遠く離るるに至つたがゆゑに、大神はここに一つの経綸を行はせたまひ、天人と精霊とをして各個の人間と共にをらしめたまひ、天人すなはち本守護神および精霊正守護神を経て、人間を統制する方法を執らせたまふこととなつたのである。
 高姫の身体に侵入したる精霊、中にも最も兇悪なる彼兇霊は、常に高姫と言語を交換してゐるものの、その実高姫が人間なることを実際に信じてゐないのである。高姫の身体はすなはち自分の肉体と固く信じてゐるのである。ゆゑに高姫が精霊に対していろいろと談判をするといへども、その実精霊の意思では、他に目には見えないけれども高姫なる精霊があつて、外部より自分に向かつて談話の交換をしてゐるやうに思つてゐるのである。また精霊の方においては、高姫の肉体は決して何も知つてゐない、知つてゐるのはただ精霊自身の知識によるものと思ひ、従つて高姫が知つてゐるところの一切の事物は、みな自分の所為と信じをるものである。しかしながら高姫があまりに……わしの肉体にお前は巣喰つてゐるのだ……と、精霊に向かつてしばしば告ぐるによつて、彼に憑依せる精霊すなはち兇霊は、うすうすながら自分以外に高姫といふ一種異様の動物の肉体に這入つてゐるのではあるまいか……ぐらゐに感じだしたのである。
 高姫はまた精霊のいふところ、知るところを、自分のいふところ、知るところと思惟し、しかして精霊が、自分の肉体は神界経綸の因縁のある機関として特別に造られたのだから、正守護神副守護神が宿を借りに来てをるものと信じてゐるのである。しかして面白いことには、高姫の体内にをる精霊は、高姫の記憶と想念を基として、いろいろと支離滅裂な予言をしたり、筆先を書いたりしながら、その不合理にして虚偽に充てることを自覚せず、すべてを善と信じ、真理と固く信じてゐるのだから、自分が悪神だといつたり、あるひは悪を企まうなどといつてゐながらも、決して真の悪ではない、実は自分がある自己以外の何物かと揶揄つてゐるやうな気でゐるのだから不思議である。

物語52-3-17 1923/02 真善愛美卯 飴屋

 霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。