霊界物語
うろーおにうろー

論考資料集

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霊と精霊


神の国 1927/04 霊と精霊

 霊と精霊とを混同して考へて居る人があるが、それは大変な間違ひである。霊は万物に普遍して居るので、此火鉢にでも鉄瓶にでも乃至は草花にでもある。もし霊が脱けてしまへば物は其形を保つ事が出来ないで崩壊して仕舞ふ、非常に長い年数を経た土器などが、どうもしないのにくぢやくぢやに崩れて仕舞ふのは霊がぬけて仕舞つたからである。鉱物、植物皆霊のある間は、用をなすものである。精霊と云ふのは動物の霊をさすのであつて、即ち生魂である。

神の国 1927/01 植物と精霊

 植物や石には霊はあつても、精霊が無い、これは全く神様の御恵であつて、もしこれ等のものに精霊があつたならば、長い間一所にぢつとして動く事も出来ないやうな境遇には堪へられないであらう、植物も古くなれば木魂と云ふて精霊が入るが、それは世に云ふ天狗が入るのである。だからよく世の人が天狗が松の木にとまつて居るなどと云ふ、それが、松の木の精霊である。

神の国 1927/01 精霊の生命

 精霊の生命が亡ぶ事があるかと聞くのか、無論あるよ、現に生て居る人即ち肉体をもつて居る人にでも精霊の生命を失つて居るものがある。彼の発狂者の如きはそれであつて、生きながら既に邪霊の為めに、全く精霊の生命を亡ぼされて仕舞つて居る。永遠の生命といふのは、神を信じ、神にあるもののみが享有し得る特権である。

神の国 1927/02 関の地蔵様と一休和尚

 関の地蔵様にお性念を入れて呉れと一休和尚に頼んだものがあつた。さうすると一休は自分のして居た褌を外して地蔵様の首にかけた。それが後世地蔵様の涎掛けの濫觴である。褌をかけたので霊が入つたのだから、地蔵様は一休の分霊なのである。石にでも木にでも霊はあるが精霊はない、神様の神霊が宿つて、神格化したものがお性念である。三十三間堂の柳のお柳は、人々が「大きな柳だなあ、大きな柳だな」と云つては見上げるので、其精霊が篭もつて人格化したものである。

神の国 1932/04 守護神

大本に於て守護神を祀るのは、当人の精霊の和魂と幸魂である。荒魂と奇魂は死んでから新霊として祀るのである。つまり、生前守護神名をいただき守護神を奉斎するのは、仏教で云へば生前戒名をもらひ位牌をこしらへて置くやうなものである。
 各自の守護神は祖霊と同等に祀り二拍手すべきものである。


霊魂と精霊

ここでは霊魂と精霊は別のもの。
霊魂は肉体の場所もしくは、肉体に最初から備わった霊。
一つの肉体に複数の精霊が入れるように書かれている。

物語49-3-9 1923/01 真善愛美子 善幻非志

 凡て人間は、精霊の容器であつて、この精霊は、善悪両方面の人格を備へてゐるものである。しかして精霊が憑りきつた時は、その人間の肉体を自己の肉体と信じ、またその記憶や想念言語までも、精霊自身の物と信じてゐるのである。しかしながら鋭敏なる精霊は、肉体と自問自答する時に、精霊自身において、自分はある肉体の中に這入つてゐるものなることを悟るのである。
 しかして精霊には、正守護神と副守護神とがあり、副守護神なる者は、人間を憎悪すること最も劇甚にして、その霊魂と肉体とを、併せてこれを亡び尽さむことを願ふものである。しかしてかかる事は、甚しく忘想に耽る者の間に行はるる所以は、その妄信者をして、自然的人間に、本来所属せる歓楽より自ら遠ざからしめむためである。
 この高姫は、自ら精霊に左右され、しかして精霊を、神徳無辺の日出神と固く信じ、その頤使に甘んじ、その言を一々信従し、かつ筆先を精霊のなすがままに書き表はすがゆゑに、精霊は、決して高姫の肉体を憎悪し、または滅尽せむとせないのである。むしろその肉体を使つて、精霊の思惑を遂行し丶大神の神業を妨げ、地獄の団体をますます発達せしめむと願うてゐるのである。しかし高姫自身は、吾に憑依せる精霊を、至粋至純なる日出神と信じ切り、いつかど大神の神業に仕へてゐるつもりでゐるから堪らないのである。
しかし大神は、時々精霊を人間より取りはなしたまふことがある。
 これはかれ精霊をして、人間と同伴せるを知らざらしめむがためである。何となれば、精霊なる者は、自己以外に世界あることを知らぬ、すなはち人間なる者が、彼ら以外に存在することを知らないのである。故に、高姫の肉体に憑つてゐる精霊は、日出神と自らも信じ、また高姫の肉体とは知らず、尊きある種の神と言葉を交へてゐるやうに思つてをつたのである。また肉体に這入つてゐることを、やうやくにして悟るといへども、高姫の方において、その精霊を悪神と知らず、真正の日出神と尊信してゐる以上は、精霊は、決して高姫の霊魂、肉体に害を加へないのは前に述べた通りである。
 すべて精霊は、霊界のことは、自分の霊相応の範囲内において見ることを得れども、自然界は少しも見ることが出来ないのである、これは現実界の人間が、霊界を見ることが出来ないのと同様である。
 この理によつて人間が、もし精霊にものをいひ返すを神が許したまふ時は、精霊は自己以外に人間あるを知るがゆゑに、実に危険である。中には、深く宗教上のことを考へ、専ら心をこれにのみ注ぐ時は、その心の中に、自分が思惟するところを現実的に見ることがある。かくのごとき人間は、精霊の話を聞き始むるものである。
 すべて宗教のことは何たるを問はず、人間の心の中より考へて、世間における諸々の事物の用によつて、これを修正せざる時は、その事その人の内分に入り込んで、精霊そこに居を定め、霊魂を全く占領し、かくして、ここに在住する幾多の精霊を頤使し、あるひは圧迫し、あるひは放逐するに至るものである。高姫のごときは、実にその好適例である。

精霊に善悪の二種類ある。
精霊は通常中有界に籍を置いて、天国または地獄と交通している。

物語47-3-12 1923/01 舎身活躍戌 天界行

 高天原の各団体に居住する霊国天人および天国の天人は、愛を生命とし、しかして一切を広く愛するがゆゑに、人の肉体を離れて上り来たる精霊のためにも、あらゆる厚誼をつくし、懇篤なる教訓を伝へ、あるひは面白き歌を歌ひ、舞曲を演じ、音楽を奏しなどして、一人にても多く、これを高天原の団体へ導き行かむと思ふほか、他に念慮は少しもないのである。これがいはゆる天人の最高最後の歓喜悦楽である。しかしながら、精霊が人の肉体を宿とし、現世に在りしころ、善霊すなはち正守護神の群に入るべき生涯や、あるひは天人すなはち本守護神の群に至るべき生涯を送つてをらなかつたならば、彼ら精霊は、これらの天国的善霊を離れ去らむと願ふものである。かくのごとくにして、精霊は遂に、現世に在つた時の生涯と一致する精霊と共に群居するに非ざれば、どこまでもこの転遷を休止せないものである。
 かくのごとく、自己生前の生涯に準適せるものを発見するにおよんで、かれ精霊は、ここにまた在世中の生涯に相似せるものと共に送らむとするものである。実に霊界の法則は、不思議なものといふべきである。
 凡て
人間の身には、善と悪と二種の精霊が潜在してゐることは前に述べた通りである。しかして人間は、善霊すなはち本守護神、または正守護神によつて、高天原の諸団体と和合し、悪霊すなはち副守護神によつて、地獄の団体と相応の理によりて和合するものである、これらの精霊は、高天原と地獄界の中間に位する中有界すなはち精霊界に籍を置いてゐる。この精霊が人間に来たる時には、まづその記憶中に入り、次にその想念中に侵入するものである。しかして副守護神は、記憶および想念中にある悪しき事物の間に潜入し、正守護神はその記憶や想念中にある、最も善き事物の裡に侵入し来たるものである。されど精霊自身においては、その人間の体中に入り、相共にをることは少しも知らないものである。しかも精霊が人間と共なる時は、凡てその人間の記憶と想念とをもつて、精霊自身の所有物と信じてゐる。また彼ら精霊なるものは、人間を見ることはない。何ゆゑなれば、現実の太陽界にあるところの者は、彼ら精霊が視覚の対境とならないからである。大神はこれらの精霊をして、その人間と相ともなへることを知らざらしめむがために、大御心を用ひたまふことすこぶる甚深である。何故なれば、彼ら精霊がもしこの事を知る時には、すなはち人間と相語ることあるべく、しかして副守護神たる悪霊は、人間を亡ぼさむことを考へるからである。
 副守護神すなはち悪霊は、根底の国の諸々の悪と虚偽とに和合せるものなるがゆゑに、ただ一途に人間を亡ぼし地獄界へ導き、自分の手柄にしようと希求するのほか、他事ないからである。しかして副守護神は、ただに人間の心霊すなはちその信と愛とのみならず、その肉体をも挙げて亡ぼさむことを希求するものである。ゆゑに彼らの悪霊が、人間と相語らふことがなければ、自分は人間の体内にあることを知らないのだから、決して害を加へないのである。彼ら悪霊は、その思ふところ、その相互に語るところの事物が、果して人間より出で来たるものなりや否やを知らないのである。何となれば、彼ら精霊の相互に物いふは、その実は、人間より来たるところのものなれども、彼らはこれをもつて、自分の裡よりするものなりと信じ切つてゐる。しかして何れの人も、自分に属するところを極めて尊重し、かつこれを熱愛するがゆゑに、精霊は自らこれを知らないけれども、自然的に人間を愛し、かつ尊重せなくてはならないやうになるのである。これ全く、瑞の御霊大神の御仁慈の御心をもつて、かく精霊に、人間と共なることを知らしめざるやう取計らひたまうたのである。
 
天国の団体に交通する精霊も、地獄界と交通せる精霊もまた、同じく人間に付き添うてゐるのは前に述べた通りである。しかして、天国の団体に交通してゐる精霊の、もつとも清きものを、真霊または本守護神といひ、やや劣つたものを正守護神といひ、地獄と交通する精霊を、悪霊または副守護神といふのである。しかし人間が生るるや、ただちに悪の裡に陥らねばならない事になつてゐる。ゆゑに当初の生涯は全くこれら精霊の手の裡に在りといつてもいいのである。人間にして若しおのれと相似たる精霊が付き添うて守るに非ざれば、人間は肉体として生くることは出来ない。またもろもろの悪を離れて善に復ることも出来ないことになるのである。人間の肉体が、悪霊すなはち副守護神によつて、おのれの生命を保持し得ると同時に、また善霊すなはち正守護神によつて、この悪より脱離することを得るものである。人間は又この両者の徳によつて、平衡の情態を保持するがゆゑに、意思の自由なるものがある。この自由の意思によつてもつて、もろもろの悪を去りまた善に就くことを得、またその心の上に善を植ゑつくることを得るのである。人間がもしもかくのごとき自由の情態に非ざる時は、決して改過遷善の実を挙ぐることは出来ない。しかるに、一方には根底の国より流れ来たる悪霊の活動するあり、一方には高天原より流れ来たる善霊の活動するありて、人間はこれら両者の中間に立ち、天国、地獄両方の圧力の間に挾まらなくては、決して意思の自由はあるべきものでない。
 また人間に自由のない時は、生命あることを得ない。また善をもつて他人に強ゆることは出来ない、人から強ひられたる善そのものは、決して内分の
霊魂に止まるものでない、心の底にどうしても滲み込むことは出来ない。ただし自由自在に摂受したところの善のみは、人間の意思の上に深き根底を下ろして、さながらその善をおのれの物のごとくするやうになるものである。

霊は神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体。
人間は、霊界より見れば、すなはち精霊。
この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。
たいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。

物語48-1-1 1923/01 舎身活躍亥 聖言

 宇宙には、霊界と現界との二つの区界がある。しかして霊界には、また高天原と根底の国との両方面があり、この両方面の中間に介在する一つの界があつて、これを中有界または精霊界といふのである。
 また現界一名自然界には、昼夜の区別があり、寒暑の区別があるのは、あたかも霊界に、天界と地獄界とあるに比すべきものである。
 人間は、霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなはち剛柔流の三大元質によつて、肉体なるものを造られ、この肉体を宿として、精霊これに宿るものである。その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。この原理を霊主体従といふのである。霊なるものは、神の神格なる愛の善と信の真より形成されたる一個体である。しかして人間には、一方に愛信の想念あるとともに、一方には、身体を発育し、現実界に生き働くべき体慾がある。この体慾は、いはゆる愛より来たるのである。しかし、体に対する愛は、これを自愛といふ。神より直接に来たるところの愛は、これを神愛といひ、神を愛し万物を愛する、いはゆる普遍愛である。また自愛は、自己を愛し、自己に必要なる社会的利益を愛するものであつて、これを自利心といふのである。
 人間は肉体のあるかぎり、自愛もまた必要欠くべからざるものであると共に、人はその本源に遡り、どこまでも真の神愛に帰正しなくてはならぬのである。要するに人間は、霊界より見れば、すなはち精霊であつて、この精霊なるものは、善悪両方面を抱持してゐる。ゆゑに人間は、霊的動物なるとともに、また体的動物である。
 精霊はあるひは向上して天人となり、あるひは堕落して地獄の邪鬼となる、善悪正邪の分水嶺に立つてゐるものである。しかしてたいていの人間は、神界より見れば、人間の肉体を宿として精霊界に彷徨してゐるものである。しかして精霊の善なるものを、正守護神といひ、悪なるものを、副守護神といふ。正守護神は、神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊すなはち副守護神に圧倒され、彼が頤使に甘んずるごとき卑怯なる精霊となる時は、精霊みづからも地獄界へともどもにおとされてしまふのである。この時は、ほとんど善の精霊は悪霊に併合され、副守護神のみ、吾物顔に跋扈跳梁するに至るものである。そしてこの悪霊は、自然界における自愛の最も強きもの、すなはち外部より入り来たる諸々の悪と虚偽によつて、形作られるものである。かくのごとき悪霊に心身を占領された者を称して、体主霊従の人間といふのである。また善霊も悪霊も皆これを一括して精霊といふ。
 現代の人間は百人がほとんど百人まで、本守護神たる天人の情態なく、いづれも精霊界に籍をおき、そして精霊界の中でも外分のみ開けてゐる、地獄界に籍をおく者、大多数を占めてゐるのである。また今日のすべての学者は、宇宙の一切を解釈せむとして非常に頭脳をなやませ、研究に研究を重ねてゐるが、彼らは霊的事物の何物たるを知らず、また霊界の存在をも覚知せない癲狂痴呆的態度をもつて、宇宙の真相を究めむとしてゐる。これを称して体主霊従的研究といふ。はなはだしきは体主体従的研究に堕してゐるものが多い。いづれも『大本神諭』にある通り、暗がりの世、夜の守護の副守護神ばかりである。途中の鼻高と書いてあるのは、いはゆる天国地獄の中途にある精霊界に迷うてゐる盲どものことである。

霊魂=守護神=精霊 で 霊魂と精霊は同じ意味。

物語52-1-1 1923/02 真善愛美卯 真と偽

 人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正副守護神といふ。
 そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは、一方は内底神の善に向かひ、真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊である。また副守護神とは、その内底神に反き、ただ物質的躯殻すなはち肉体に関する慾望のみに向かつて蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争をもつて唯一の真理と看做す精霊である。
 しかして人間の霊魂には、わが神典の示すところに依れば、荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されている。四魂の解説はすでにすでに述べたれば、ここには省略する。荒魂は勇、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親であり、しかしてこの勇智愛親を完全に活躍せしむるものは神の真愛と真智とである。いま述べた幸魂の愛なるものは、人類愛にして、自愛および世間愛等に住する普通愛である。
 神の愛は、万物発生の根源力であつて、また人生における最大深刻の活気力となるものである。この神愛は、大神と天人とを和合せしめ、また天人各自の間をも親和せしむる神力である。かくのごとき最高なる神愛は、いかなる人間もその真の生命をなせるところの実在である。この神愛あるがゆゑに、天人も人間もみな能くその生命を保持することを得るのである。また大神より出で来たるところの御神格そのものを神真といふ。この神真は大神の神愛に依つて、高天原へ流れ入るところの神機である。神の愛とこれより来たる神真とは、現実世界における太陽の熱とその熱より出づるところの光とに譬ふべきものである。しかして神愛なるものは、太陽の熱に相似し、神真は太陽の光に相似してゐる。また火は神愛そのものを表はし、光は神愛より来たる神真を表はしてゐる。大神の神愛より出で来たる神真とは、その実性において神善の神真と相和合したものである。かくのごとき和合あるがゆゑに、高天原における一切の万物を通じて生命あらしむるのである。

精霊と霊魂は同じ意味。
マツソンは肉体の外にあるのに霊魂と言っている。

神霊界 1920/02/01 随筆 王仁

 附言午頭天王を素蓋鳴尊なりと唱へ出したのは、吉備公が唐より帰朝の際従ひ来りし、金毛九尾、白面の悪狐に何時の間にか我精霊を魅せられて、途方も無き説を暦法に加ヘられたのが、日本人のマツソンの霊魂に誑惑された初めである。
 午頭天王邪鬼神の奸計甘々と成功し、弥々節分の夜を期して、巨且大王、即ち艮の金神大国常立尊は隠身となり玉ふさへ、気の毒に堪へざる次第なるに、午頭天王の暴悪無道なる巨旦の霊魂を、根本的に滅亡せしめむとし、節分の儀式にも又調伏の行事を敢てせり。乃ち巨旦大王の眼を潰さむが為に、鬼の眼突きと称して、柊の針の鋭きを、戸壁に刺しかざさしめ、巨旦の頭を梟すベく、鰯の頭を串刺と為して門戸に挿し、加之煎豆を人家の内外に撒きて、鬼の眼潰しと称し、鬼は外福は内へと、年男に謳はせ、煎豆に花が咲く迄は、日本の国には入る可らずと言ふて、日本の人民が知らず知らずに、地の先祖の大神を、悪魔邪神呼ばゝりをして来たのである。思ヘば思ヘば実に勿体なき次第であつた。然し知ぬ神に崇り無し、大神の広き厚き大御心にて、今日までは見直し聞き直し詔り直して赦して下さつたのであれども、最早時節到来して、艮の大金神の御教示を聞かして頂いた以上は、今迄の不調法を全部御詫して、一切万事を五六七の神政の行り方に改復せなければ成らぬのである。それで皇道大本の節分祭は、国祖大神御大難の記念日を追懐して、従来の知ずくの御無礼と、御気障りの御詫を申上ると同時に、過去一年間の御礼と、来る一年間の神様の御守護を願ひ、天津罪、国津罪、許々多久の罪穢を速川の瀬に流し捨つる大神業である。又た第一に君が代の栄えを祈り、国土を清め奉る大神事であります。

 この場合、修行者は肉体から離れた霊=精霊。三つ葉躑躅の解釈が微妙。三つ葉躑躅=王仁三郎なら、霊魂と精霊の定義通り。

物語01-1-6 1921/10 霊主体従子 八街の光景

『大神の命により大切なる修業者を案内申して参りました。すなはちこの精霊でありますが、今回は現、神、幽の三界的使命を帯び、第一に幽界の視察を兼ねて修業にきたのです。この精霊は丹州高倉山に古来秘めおかれました、三つ葉躑躅の霊魂です。何とぞ大王にこの旨御伝達をねがひます』

 亡者の霊魂は肉体から離れているはず。この場合は、定義からいけば精霊ではないか。

物語02-0-2 1921/11 霊主体従丑 総説

 また自分が幽界を探険した時にも、種々の色の服を着けてゐる精霊を目撃した。これは罪の軽重によつて、色が別れてゐるのである。しかし幽界にも亡者ばかりの霊魂がをるのではない。現界に立働いてゐる生きた人間の精霊も、やはり幽界に霊籍をおいてをるものがある。これらの人間は現界においても、幽界の苦痛が影響して、日夜悲惨な生活を続けてをるものである。これらの苦痛を免るる方法は、現体のある間に神を信仰し、善事を行ひ万民を助け、能ふかぎりの社会的奉仕を務めて、神の御恵を受け、その罪を洗ひ清めておかねばならぬ。

 神霊が精霊体となっていますから、精霊も形あるものでしょうか。八頭八尾の大蛇は霊魂、金毛九尾の悪狐は霊となっています。霊魂=霊として、八頭八尾の大蛇、金毛九尾の悪狐は肉体を持っているのでしょうか?これは、たぶん肉体は無いはずですから実体は精霊と言った方がいいですが、邪霊は精霊とは言わないのでしょうか。

物語03-11-44 1921/12 霊主体従寅 可賀天下

 竜宮城に雲をしのぎて聳立せる、三重の金殿より顕国の御玉の神霊発動して、唸りを発し、ときどき不可思議なる光輝を発射して邪悪神の面を照らしたまへば、地の高天原の聖地も竜宮城の聖城も、日ましに神威霊徳くははり、金色の鴉、銀色の神鳩嬉々として中空に舞ひ遊び、天男天女はつねに四辺を囲繞して太平の音楽を奏し、五風十雨順をたがへず、禾穀豊穣して神人その業を楽しみ、神界理想の黄金世界を現出するにいたり、遠近の邪神も静謐帰順をよそほひ、野心を深く包みて現実的暴動を慎み、天下一点の妖雲を見ざる瑞祥の世とはなりにける。これは万寿山に退去されし前天使長以下の日夜の専念的祈念の力によりて、その精霊体に活動をおこし、聖地聖域の霊徳を発輝したまひしが故なり。されど天使長高照姫命以下の三天使をはじめ神将神卒にいたるまで、須佐之男大神の昼夜の御守護の賜たることを少しも覚らず、天運の循環と、新天使以下の神務と神政の完全無欠にして、天地神明の神慮にかなひ奉れる結果ならむと、心おごりて、顕国の御玉の守護と、大八洲彦命以下の専心祈念の賜たることを忘却し、つひには女神司のあさはかにも驕慢心増長し、その結果は天地の律法まで軽視するにいたり、神徳日々に衰へ各所に不平不満の声おこり、漸次日を追ひ月を重ぬるとともに、可賀天下の神政を呪ふ神々勃発するの形勢を馴致したりける。
 ここに一旦鉾をおさめ帰順をよそほひゐたる八王大神常世彦は、常世姫と再挙をくはだて、大国彦と計り、世界各所の八王八頭に、八頭八尾の大蛇の霊魂を憑依せしめ、その女神司には金毛九尾の悪狐のを憑依せしめ、部下の神司には六面八臂の邪鬼や眷属を憑依せしめて、俄に反逆心を発せしめたり。世界の神人はまたもや一時に起つて、地の高天原の神政に反抗的態度をあらはし、あまたの神人魔軍と変じて、八王大神指揮のもとに、まづ諸山の神軍を降し、勝に乗じて聖地にむかひ、天の磐船を数百千とも限りなく建造して天空を翔り、群をなして攻めよせ来りぬ。天使長高照姫命は周章狼狽の結果、神勅を請ふのいとまなく、ただちに数百隻の天の鳥船を造り、橄欖山より敵にむかつて攻入り、蒼空高く一大激戦を開始し、一勝一敗たがひに雌雄を争ひ、ふたたび聖地は紛乱の巷と化し去りにける。空中の戦ひは夜を日につぎほとンど一年有余を費やしたり。

天国に復活しても霊魂と言っている。混用。精霊界との対比で精霊の変わりに霊魂を使ったか?

物語20-99-1 1922/05 如意宝珠未 霊の礎(六)

一、また天国の団体にある天人は、いづれも男子なれば現界人の三十才前後、女子なれば二十才前後の若い姿である。この故は現界人の肉体は物質界の法則に由つて、年々に老衰して頭に白雪を頂き、身体に皺の寄るものであるが、人間の霊魂や情動は不老不死であって、どこまでも変はらないものだから、精霊界の天人は年が寄つても、姿は変じない。故に、現界において八九十才にて死んだ人間も、精霊界の天国へ復活した後は、その強壮な霊魂のままで居るのだから、決して老衰するといふことはない。天人にも五衰といふ説があるが、それは決して天人の事ではない、霊界の八衡に彷徨してゐる中有界の人間の事である。故に天国へ往つた時に、自分の現界の父母や兄妹、又は朋友、知已なぞに会つても、一寸には気の付かないやうなことが沢山にある。その故は自分の幼児たりし子は既に天国にて成長し、老いたる父母は自分と同様に壮者の霊身を保ちてをるからである。然れどよくよく見る時は、どこともなしにその俤(おもかげ)が残つてをる。精霊の世界は凡てが霊的の要素から成り立ってをるから、現界の事物のごとく、容易に変遷するものではない。これが精霊界と肉体界との相違せる点である。アゝ惟神霊幸倍坐世。

精霊=霊魂

物語21-2-7 1922/05 如意宝珠申 誠の宝

『三五教の宣伝使       玉治別の神司
それに従ふ竜国別の      プロパガンデイストに従ひて
湯屋が峠を打ち渡り      津田の湖水の辺まで
やつと進んで来たをりに    玉治別の宣伝使
にはかに手をふり首をふり   顔色変へて神懸
これや大変な神様が      懸つて何か仰有ると
お供をしてゐた六人は     息をころして畏まり
その託宣を待ちをれば     玉治別のお言葉に
妾はお杉の亡霊だ       杢助さまや幼児を
後に残して霊界に       旅立ちしたが残念ぢや
土の底へと埋められて     頭の上から冷水を
蛙のやうに浴びせられ     妾は困つてをりまする
行きたい所へもよう行かず   六道の辻をウロウロと
あちらこちらと彷徨ひつ    淋しき枯野ケ原の中
言問ふ人もなきをりに     実に有難い三五の
神の教の宣伝使        霊魂の磨けた玉治別の
珍の使のお肉体        ちよつと拝借いたします
可愛い女房に先立たれ     まだ東西も知らぬ児を
抱へてこの世を淋しげに    暮してござる吾が夫の
心は如何にと朝夕に      案じ過ごして結構な
高天原へもよう行かず     中有に迷ふてをりまする
どうぞ憐れと思召し      お杉の願ひを聞いてたべ
いかに気強い吾が夫も     二世を契つた女房の
涙を流して頼むこと      よもや厭とは申すまい
せめて十日や三十日      三五教に帰順した
三甲雲の三州を        吾が霊前に額づかせ
輪廻に迷ふた吾が魂を     安心さして下さんせ
もしも主人がゴテゴテと    疑ふて聞かぬことあれば
高春山を言向けて       帰つてござるその時に
玉治別の体を借り       一々細々ハズバンドに
心の底からサツパリと     氷解するよに申しませう
小盗人ばかりを働いた     この三人も元からの
決して悪い奴でない      神の光に照らされて
身魂の洗濯した上は      尊き神の分霊
一時も早く杢助の       住居に駈けつけ幽界で
お杉の霊魂が苦しんで     迷ふてをると逐一に
話して聞かして下されと    玉治別の口を借り
涙ドツサリ流しつつ      しみじみ頼んでをらしやつた
袖振り合ふも多生の縁     つまづく石も縁の端
高春山の征伐に        行かねばならぬ吾なれど
顕幽ともに助けゆく      誠の道のピユリタンと
なつた吾々三人は       これを見捨ててなるものか
杢助さまがどのやうに     頑張り散らして怒るとも
寄る辺渚の捨小舟       浪に取られた沖の舟
憐れ至極のお杉さま      助けて上げたいばつかりに
岩石起伏の細道を       足を痛めてやうやうに
ここまで訪ねて来ましたぞ   杢助さまは在宅か
早うこの戸を開けなされ    お前の大事な女房の
私は頼みで親切に       誠尽くしにやつて来た
よもや厭とは言はりよまい   お杉さまの精霊に頼まれて
お前に代はつて霊前に     お給社さして貰ひます
サアサア開けたサア開けた   開けて嬉しい玉手箱
これも全く三五の       神のお蔭と感謝して
お前が今まで貯へた      金と銀との小玉まで
みな霊前に置き並べ      お杉の霊を慰めよ
あ丶惟神惟神         御霊幸はひましまして
お杉の精霊の憑つたる     玉治別の宣伝使
それに従ふ雲、甲、三     三人さまのお目にかけ
修羅の妄執を晴らさして    極楽参りをさすがよい
女房となるも前世の      深い因縁あればこそ
貞操深いお杉さま       お前が体主霊従の
慾にとらはれ金銀に      眼眩みて女房を
根底の国に突き落とし     可愛い子供に苦労させ
自分も死んで根の国や     底の国へと突き込まれ
無限の苦をば嘗めて泣く    ことにてつきり定つたと
貞操深いお杉さまが      大変心配遊ばして
吾らに伝言なさつたぞ     それはともかく一時も
この門開けて下されや     ゴテゴテ言ふて開けぬなら
開けでもよいがお前さま    未来のほどが恐ろしと
やがて気がつく時が来る    神が表に現はれて
善と悪とを立別けて      お前の身魂の行先を
キツと守つて下さらう     ア丶金が欲しい金が欲し
欲しいといふのは俺ぢやない  冥途にござるお杉さまだ』

霊魂は肉体中。一つの肉体に複数の精霊が宿れるか?

物語41-1-1 1922/11 舎身活躍辰 入那の野辺

『神素盞嗚尊様は月の大神様ぢや。元より女房はない。八人乙女の出来たのは肉体の御子ではない。霊魂の美はしき乙女を八人も方々から拾ひ集めて、その乙女の霊魂に対し、自ら厳の御息を吹きかけて我が子と為したまうたのだ。吾々のやうに暗がりで夫婦がこしらへたのとは違ふのだ』
『それなら、あの八人乙女を生んだ肉体の親はあるだらうな』
『ソリアあるとも、しかしながら八人乙女ともみな捨児を拾つて自分の子に遊ばしたのだから、両親は尊様にはお分かりになつてゐても、八人乙女の方では、やつぱり真の父上と思つてをられるやうだ。肝腎要の御精霊を分与されてゐるのだから、たとへ肉体の児でなくとも肉体以上の近い親しい御児になるのだ。おれ達もやつぱり神素盞嗚尊様の孫くらゐなものだ。今までは大黒主の孫だつたが、俺も今度いよいよ尊様の孫になつたのだ。貴様も昨日あたりから尊様の曾孫ぐらゐになつてゐるかも知れないよ』

現界から見た場合は霊魂、霊界から見た場合は精霊か?

物語50-1-1 1923/01 真善愛美丑 至善至悪

 本巻物語の主人公たる初稚姫および高姫の霊魂上の位置およびその情態を略舒して参考に供することとする。
 初稚姫は清浄無垢の若き妙齢の娘である。しかして別に現代のごとく学校教育を受けたのではない。ただ幼少より母を失ひ、父とともに各地の霊山霊場に参拝し、あるひは神霊に感じて、三五教の宣伝使と共に種々雑多の神的苦行を経たるため、純粋無垢なる霊魂の光はますますその光輝を増し、玲巍玉のごとく、黒鉄時代に生れながら、その本体すなはち内分的生涯は、黄金時代の天的天人と向上してゐた。ゆゑに宣伝使としてもまた地上の天人としても、実に優秀な神格者であつた。大神の神善と神真とをよく体得し、無限の力を与へられ、神の直接内流をその精霊および肉身に充せ、その容貌ならびに皮膚の光沢、柔軟さなどは、ほとんどエンゼルのごとくであつた。
 ゆゑに初稚姫は大神の許しある時は、一声天地を震撼し、一音風雨雷霆を叱咤し、地震雷海嘯その外風水火の災をも自由に鎮定し得る神力を備へてゐた。されど初稚姫は愛善の徳全く身に備はり、謙譲なるをもつて処世上の第一となしゐたれば、容易に神力を現はすことを好まなかつた。しかして姫の精霊は、大神の直接神格の内流に充され、霊肉ともに一見して凡人ならざるを悟り得らるるのであつた。姫はよく天人と語り、あるひは大神の御声を聞き、真の善よりする智慧証覚を具備したる点は、三五教きつての出藍のほまれをほしいままにしてゐた。

動物は霊魂はあるが、理性がないので精霊の内流を受けられない。

物語50-2-8 1923/01 真善愛美丑 常世闇

 高姫のみならず、世の中に雨後の筍のごとく、ムクムクと簇生する自称予言者、自称救世主なども、すべては高姫に類したものなることはいふまでもないことである。また動物は、精霊界よりするところの一般の内流の統制するところとなるものである、けだし彼ら動物の生涯は宇宙本来の順序中に住するものなるがゆゑに、動物はすべて理性を有せないものである。理性なきがゆゑに神的順序に背戻し、またこれを破壊することをなし得ないのである。人間と動物の異なるところは、ここにあるのである。しかしスマートのごとき鋭敏なる霊獣は、その精霊がほとんど人間のごとく、かつ本来の純朴なる精神に、人間と同様に理性をも有するがゆゑに、よく神人の意思を洞察し、忠僕のごとくに仕ふることを得たのである。動物はすべて人間の有する精霊の内流を受けて活動することがある。されども普通の動物は、その霊魂に理性を欠くがゆゑに、初稚姫のごとき地上の天人の内流を受くることは出来得ないものである。

精霊=霊魂

物語52-5-27 1923/02 真善愛美卯 胎蔵

中有界の八衢に        伊吹戸主力永久に
鎮まりまして迷ひ来る     あまたの精霊一々に
衡にかけて取調べ       清浄無垢の霊魂
おのおの所主の愛により    高天原の霊国や
三階段の天国へ        霊相応に送りやり
極悪無道の精霊は       直ちに地獄に追ひ下し
善ともつかずまた悪に     強からざりし精霊
一定の期間中有の       世界に広く放ちやり
いよいよ霊清まりて      高天原に上るべく
愛と善との徳を積み      信と真との智を研き
覚り得たりし精霊を      みな天国に上しやり
悔い改めず何時までも     悪心強き精霊
涙を払ひ暗黒の        地獄へ落とし給ふなり

精霊は肉体を離れている。霊魂は肉体中にある。

物語56-1-1 1923/03 真善愛美未 神慮

現代人はおもえらく      根底の国には最初より
一個の魔王厳在し       諸多の地獄を統轄し
堕ち来る精霊の罪悪を     制配なすと恐れられ
魔王は嘗て光明の       天人なりしも叛逆の
罪に問はれて衆族と      共に地獄に堕とされし
ものとの信仰昔より      深く心に刻まれて
真相覚れるものも無し     魔王もサタンもルシフアーも
約言すれば地獄なり      殊に魔王と称ふるは
背後に位置せる地獄にて    ここに住めるを兇鬼といひ
兇悪もつとも甚だし      また前面に位せる
地獄をサタンと称ふなり    サタンは魔王に比ぶれば
さまで兇悪ならざれば     これをば兇霊と称ふなり
またルシフアーといふ意味は  バベルに属する曲にして
彼らの領土は久方の      天界までも拡がれり
故に一個の魔王ありて     地獄を統治し坐さざるは
地獄天界両界に        住める精霊に別ちなく
皆これ人の精霊より      するものなるや明らけし
天地創造の始めより      現代社会に至るまで
幾億万の人霊が        現実界に在る時に
皇大神の神格に        反抗したる度に比して
各自に一己の悪魔なる     業を積み積み邪鬼となり
地獄を造り出せし由      悟りて常に霊魂
浄めて神の坐す国へ      昇り行くべく努むべし
あ丶惟神惟神         御霊幸はへましませよ。

精霊=霊魂

物語56-2-8 1923/03 真善愛美未 愛米

高姫『ア丶ア、皆々待たしました。しかしながらシヤルは妾の知己だ。これから大事にして妾の片腕に使うて上げますぞや。四人の方はモウ、トツトと帰つてもらひませう。結構な日出神の御託宣を、ツベコベと小理窟ばかりひねるやうなお方は丶到底助けやうがありませぬ。第一霊魂の位置に天地の相違があるのだから、この高姫の愛が徹底しないと見えます、誠に気の毒なものだ。これも自業自得と諦めて帰つてもらひませう。エー工汚らはしい、今聞こえた法螺貝のやうに腹の中は空洞のクセに、大きな法螺を吹くばかりで、仕方のないカラ霊魂だ。サアサア、この館はかう見えても矢張り高姫の御殿だ。お前は小さい燻ぼつた茅屋と思つてゐるだらうが、これでも活眼を開いてよく見れば、金殿玉楼、精霊の曇が除れぬと、こんな立派な御殿が、お前には茅屋に見えませうがな、心次第に何事も映るのだから気の毒なものだよ。イツヒ丶丶丶丶』

精霊=霊魂

物語58-4-22 1923/03 真善愛美酉 獣婚

サーベル『妾の夫はアヅモス山の天王の森を守護してゐる猩々でございましたが、バーチルさまの父上バークスさまが、妾の夫を罠にかけ命を奪られました。それゆゑ精霊の行くところがありませぬので、バークス様の御息子、すなはちこの夫バーチルさまの肉体に納まりましたのでございます。いはばバーチルさまの精霊は妾の夫でございます。妾は眷族を引き連れ、アヅモス山の森を逃げ出し、磯辺に繋いであつた船に眷族を乗せ、やうやく猩々の島に渡つて夫の来るのを待つてをりました。それゆゑ妾の精霊が夫の精霊と通ひしため、バーチルさまは海を見るのが好きになり、漁を遊ばし、たうとう漁船は難破して妾の島へ漂着遊ばすやうに夫の精霊がいたしたのでございます。決して三年前から夫婦になつたのではございませぬ』
バーチル『はてな、さうすると私はやつぱり二人暮しであつたのか。何とまア合点のいかぬものだな。いつの間にか猩々彦の生宮となつてゐたものとみえる。さてもさても合点のゆかぬ事だな』
玉国『霊魂の力といふものは恐ろしいものでございますよ。いはば貴方の肉体はバーチルさまと猩々彦の合体、奥様の肉体はサーベル姫と猩々姫の合体ですから、一夫婦で二夫婦の生活を営んでゐるやうなものです』

精霊は肉体を離れている。霊魂は肉体中にある。

物語63-3-10 1923/05 山河草木寅 鷺と鴉

 人間が霊肉脱離の後、高天原の楽土または地獄の暗黒界へ陥るに先んじて、何人も踏まねばならぬ経過がありまして、この状態は三種の区別があります。そしてこの三状態を大別して、外面の状態、準備の状態、内面の状態といたします。しかしながら死後ただちに高天原へ上る精霊と、地獄へ陥る精霊とのあることは、今日までの物語において読者は既に已に御承知のことと思ひます。
 中有界一名精霊界の準備を経過せずして、直ちに天界または地獄に行くものは、生前既にその準備が出来てゐて、善悪の情動並びに因縁によつて各自霊魂相応の所を得るものです。右のごとく準備既に完了せる精霊にあつては、只その肉体と共に自然的世界的なる悪習慣等を洗滌すれば、直ちに天人の保護指導に依つて、天界のそれ相応の所主の愛に匹敵した楽土に導かるるものであります。
 之に反して直ちに地獄に陥る精霊にあつては、現界において表面にのみ愛と善とを標榜し、且つ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵しをりしもの、いはゆる自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙に富んでゐるものは、足を上空にし頭を地に倒にして投げ込まれるやうにして落ちて行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、あるひは死後直ちに岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、かくのごとき状態になるのは凡て神様の御摂理で、精霊界にある精霊と分離せむがためであります。ある時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、かくのごとき精霊は生前において、口の先ばかりで親切らしく見せかけて世人を油断させ、その虚に乗じて自己の利益を計り、かつ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。

霊魂=魂または霊

神の国 1926/11 人間の霊魂

人間には元はよい魂が授かつてあつたがだんだん悪くなつた。
 黄金時代は元の美しい霊であつたが、世がだんだん悪くなつて、白銀、赤銅、黒鉄時代と成り下り、今は早や泥海時代となつて居るから、今の世の中に生れて居るものは、魂が既に外部的状態を混じた善悪混合のものとなつて居る。

霊魂=精霊

神の国 1927/06 身魂の三種

 神諭に神に引き取る身魂と、霊魂として働かすものと、肉体として御用に使ふ身魂とがあると出て居るが、肉体は何もせずぶらぶらして居ても霊で盛んに活動して居る人がある。又肉体は如何にも忙がしさうに働いて居ても、霊としては一向活動して居ない人もある。
 霊で活動して居る時に肉体が現界で使はれてゐると、神様の方では使ひにくくつて困られる。さういふ人は肉体としては遊んで居つて呉れる方が、却つて御用が出来る事になる。私は霊界で大層仕事があるのに、現界で此通り沢山の仕事をせねばならぬので忙しい、食事をする暇もない。遊んで居るとよいのだけれど、遊ぶ閑が些しもないのだから困る。或時頭が茫つとして、仕事が何も出来ないので遊んで居た事があるが、其事を教祖さんに申上ると「結構どす、大した御用が出来ております」と申された。其時はよい加減な気休めを云ふて居られるのだと思ふて居たが、今では成程と思ふ。神に引き取る身魂とあるのが、国替をさせられる身魂である。

霊魂=人間の心霊

瑞祥新聞 1925/06 相応の理

かく霊界の事物に無知なる人間は、また霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることはできない。また霊的事物の自然的事物にたいする関係をすら知ることができない。また霊魂と称する人間の心霊が、その身体におよぼすところの活動や、死後における人間の情態に関して、毫も明白なる思想を有することあたわず、いわんやいまなにをか相応といい、またいかなるものを相応となすかさえ、これに答うる者はあるまいと思う。遺憾のきわみである。


肉体について

物語56-0-21923/03 真善愛美未 総説

 人生の目的は決して現界の幸福と歓楽を味はふのみでない。凡ての人間は幸福および歓楽のみに執着して苦悩と災厄を免れむとのみ焦慮し、自愛的方面に熱中してをるやうだ。しかし神様が人間を世界に創造し玉うた使命は、決して人間が現界における生涯の安逸を計らしむるがごとき浅薄なものではない。人間は神様の目的経綸をよくよく考察して、どこまでも善徳を積み信真の光を顕はし、神の生宮、天地経綸の御使となつて、三界のために大々的活動せなくてはならないものである。また人間には直接天国より天人の霊子を下して生まれしめ玉うたものもあり、あるひは他の動物より霊化して生まれたものもある。
 大神は初めて世界に生物を造り玉ふや黴菌にはじまり、蘚苔となり、草木となり、進んで動物を造り玉うた。
 まづ虫となり、魚となり、貝となり、鳥となり、獣となり、最後に人間を生み出したまひ、神は自ら生物を改良して、動物産生のをはりに総ての長所を具備して、理想のままに人間を造られたと言つてゐる学者もある。
 動物発生の前後に関する問題は、霊界物語を読まれた読者の判断に任すこととして、すべて人間は大神の無限の力を賦与され智能を授けられてをる以上は、日夜之を研いて啓発し、神の境域に到達し得る資質を具有してをるものである。春生じて夏枯るる草も、朝に生まれて夕に死する蜉蝣のごとき小動物も、種子と子孫を遺さないものは一つもない。動植物は生じては枯れ、枯れては生じ、生まれては死し、死しては生まる。幾百千万歳、神は同じ神業を繰返させ玉ふものである。人間の生死問題も宇宙の主宰なる大神の目より御覧になる時は、万年の昔も万年の未来も少しも変はりはないのである。かの草を見るも茎となり葉となり、花となり実となる。
 草の本体は果して何れにあるか。昆虫を見るに幼虫となり、蝶蛾となり、樹間の卵となる。生の本体はそも何ものぞ。卵は虫の始めにして又虫の終りである。初卵と終卵とは同じものか異なれるものか、詮じ詰めれば単に一体の変化に過ぎない。人間もまた是に類する変化は免れ得ない。幼たり老たり死たるも、一体の変化のみ。
 宇宙の万物は神の生成以来幾万年間同一体にして、幾万年の未来に至るも変はるものではない。吾人は神が生成し玉ひし祖先来の肉体にして幾万年の未来までも之を伝承し得るものである。凡て生物に死の関門があるのは神様が進化の手段として施し玉ふところの神の御慈愛である。死無きものは固着して変はることが無い。もし人生に死の関門なき時は人間も無く子孫も無いものとなる。生物は死あるをもつて生殖の機能を有するのである。故に死なるものは生物の最も悲哀とするところなれども、これまた惟神の摂理である。しかし人間は他の動物と異なり、死後はじめて霊界に入り復活して天国の生涯を営むものなれば、人間の現肉体の生命は只その準備に外ならない事を知らねばならぬ。人間社会において、往古より今日に至るまで霊魂の帰着について迷ふこと久しく、あるひは天国を説き或は幽冥を説き三界を説く宗教家は、今日まで幾万あつたか知れない。しかし未だ一として徹底的に宇宙の真相、人生の本義を説いたものはない。……弥勒出現成就して始めて苦集滅道を説き、三界を照破し道法礼節を開示す……とは先聖すでに言ふところである。人は天地経綸の奉仕者にしていはゆる天地の花、神の生宮たる以上は、単に他の動物のごとく卑劣なるものではない。神に代はつて天地のために活動すべきものである。
 王仁がこの物語を口述する趣旨も、また人生の本義を世人に覚悟せしめ、三五教の真相を天下に照会し、時代の悪弊を祓ひ清め地上に天国を建て、人間の死後は直ちに天界に復活し、人生の大本分を尽さしめ、神の御目的に叶はしめむとするの微意に外ならないのであります。