第67巻6章 浮島の怪猫を読む

1.序論

2.本文紹介

3.出口栄二氏の解釈

4.窪田栄治氏の解釈

5.大室寅之助にからめた解釈

6.狭依彦の解釈(1)

7.狭依彦の解釈(2)

8.狭依彦の解釈(3)


1.序論

霊界物語の第67巻6章「浮島の怪猫」は重要な章で多くの論者がとりあげている。

海野光彦『王仁三郎の霊界物語大予言』では、アケハル岩の崩壊が大日本帝国の崩壊の予言であるとしてとりあげられている。

教団関係でも、出口和明氏の『スサノオと出口王仁三郎』や『出口王仁三郎の神の活哲学』では、予言としてではなく主神の定義の部分を引用されている。

また、出口英二氏、窪田栄治氏もとりあげているのでその内容を紹介しよう。


2.本文紹介

出口栄二氏の解釈  “浮島の怪猫”示唆するもの(「おほもと」昭和48年6月号) より

色つけ出口栄二氏の解釈

第六章 浮島の怪猫

 波切丸(船によって一つの社会集団を意味する)は万波洋々たる湖面を、西南を指して、船舷に皷を打ちながら、いともゆるやかに進んでゐる。天気清朗にして春の陽気漂ひ、あるひは白くあるひは黒くあるひは赤き翼を拡げた海鳥が、あるひは百羽、千羽と群をなし、怪しげな声を絞つて中空を翔けめぐり、あるひは波間に悠然として、浮きつ沈みつ、魚を漁つてゐる。アンボイナ(太古のあほうどり)は七八尺の大翼を拡げて一文字に空中滑走をやつてゐる。その長閑さは天国の楽園に遊ぶの思ひがあつた。
 前方につき当つたハルの湖水(物語ではインドにあった太古の湖)第一の、岩のみを以て築かれた高山がある。国人はこの島山を称して浮島の峰と称へてゐる。一名夜光の岩山ともいふ。船は容赦もなくこの岩山の一浬ばかり手前まで進んで来た。船客は何れもこの岩島に向かつて、一斉に視線を投げ、この島に関する古来の伝説や由緒について、口々に批評を試みてゐる。(湖と島により社会状況を象徴する)
甲『皆さま、御覧なさい。前方に雲を凌いで屹立してゐる、あの岩島は、ハルの湖第一の高山で、いろいろの神秘を蔵してゐる霊山ですよ。昔は夜光の岩山といつて、岩の頂辺に日月のごとき光が輝き、月のない夜の航海には燈明台として尊重されたものです。あのスツクと雲を抜き出た山容の具合といひ、全山岩をもつて固められた金剛不壊の容姿といひ、万古不動の霊山です。この湖水を渡る者はこの山を見なくつちや、湖水を渡つたといふことは出来ないのです』
乙『成るほど、見れば見るほど立派な山ですな。しかしながら、今でも夜になると、昔と同じやうに光明を放つてゐるのですか』『この湖水をハルの湖といふくらゐですもの、暗がなかつたのです。しかしながらだんだん世の中が曇つた所為か、年と共に光がうすらぎ、今ではほとんど光らなくなつたのです。そして湖水の中心に聳え立つてゐたのですが、いつの間にやら、その中心から東へ移つてしまつたといふことです。万古不動の岩山も根がないと見えて浮島らしく、あまり西風が烈しかつたと見えて、チクチクと中心から東へ寄つたといふことです』(明治維新による東京遷都をさすか)
『なるほど文化は東漸するとかいひますから、文化風が吹いたのでせう。しかし日月星辰何れも皆西へ西へと移つて行くのに、あの岩山に限つて、東へ移るとは少し天地の道理に反してゐるぢやありませぬか。浮草のやうに風に従つて浮動するやうな島ならば、何ほど岩で固めてあつても、何時沈没するか知れませぬから、うつかり近寄るこた出来ますまい』
『あの山の頂を御覧なさい。ほとんど枯死せむとするやうなひねくれた、ちつぽけな樹木が岩の空隙に僅かに命脈を保つてゐるでせう。山高きが故に尊からず、樹木あるを以て尊しとす……とかいつて、なにほど高い山でも役に立たぬガラクタ岩で固められ、肝心の樹木がなくては、山の山たる資格はありますまい。せめて燈明台にでもなりや、山としての価値も保てるでせうが、大きな面積を占領して、何一つ芸能のない岩山ではサツパリ話になりますまい。それも昔のやうに暗夜を照らし往来の船を守つて、安全に彼岸に達せしむる働きがあるのなれば岩山も結構ですが、今日となつては最早無用の長物ですな。昔はあの山の頂に特に目立つて、仁王のごとく直立してゐる大岩石を、アケハルの岩と称へ、国の守り神様として、国民が尊敬してゐたのです。それが今日となつては、少しも光がなく、おまけに其の岩に、縦に大きなヒビが入つて、何時破壊するか分らないやうになり、今は大黒岩と人が呼んでをります。世の中は之を見ても、此のままでは続くものではありますまい。天の神様は地に不思議を現はして世の推移をお示しになるといひますから、これから推考すれば、大黒主(物語の中では、地上を攪乱する邪神の巨頭)の天下も余り長くはありますまいな』
『あの岩山には何か猛獣でも棲んでゐるでせうか』
『妙な怪物が沢山棲息してゐるといふ事です。そしてその動物は足に水かきがあり、水上を自由自在に游泳したり、山を駈け登ることの速さといつたら、まるきり、風船を飛翔したやうなものだ……とのことです。(政財界を遊泳し、立身出世、一攫千金をせしめる者等をさすか)昔は日の神、月の神二柱が、天上より御降臨になり、八百万神を集ひて日月の如き光明を放ち、この湖水は素より、印度の国一体を照臨し、妖邪の気を払ひ、天下万民を安息せしめ、神様の御神体として、国人があの岩山を尊敬してゐたのですが、おひおひと世は澆季末法となり、何時しかその光明も光を失ひ、今や全く虎とも狼とも金毛九尾とも大蛇とも形容し難い怪獣が棲息所となつてゐるさうです。それだから吾々人間が、その島に一歩でも踏み入れやうものなら、忽ち狂悪なる怪獣の爪牙にかかつて、血は吸はれ、肉は喰はれ骨は焼かれて亡びるといつて恐がり、誰も寄りつかないのです。風波が悪くつて、もしも船があの岩島にブツかからうものなら、それこそ寂滅為楽、再び生きて還る事は出来ないので、このごろでは、ひそびそとあの島を悪魔島と言つてゐます。しかし大きな声でそんなこと言はうものなら、怪物がその声を聞き付けて、どんなわざをするか分らぬといふことですから、誰も彼も憚つて、大黒岩に関する話は口を閉じて安全無事を祈つてゐるのです。(思想検閲などを意味する)あの島があるために、少し暴風の時は大変な大波を起し、小さい舟は何時も覆没の難に会ふのですからなア。何とかして、天の大きな工匠がやつて来て大鉄槌を振ひ、打ち砕いて、吾々の安全を守つてくれる、大神将が現はれさうなものですな』
『何と、権威のある岩山ぢやありませぬか。つまりこの湖面に傲然と突つ立つて、あらゆる島々を睥睨し、強持てに持ててゐるのですな』
『あの岩山は時々大鳴動を起し、噴煙を吐き散らし、湖面を暗に包んでしまふ事があるのですよ。(強権発動・弾圧)その噴煙には一種の毒瓦斯が含有してゐますから、その煙に襲はれた者はたちまち禿頭病になり、あるひは眼病を煩ひ、耳は聞こえなくなり、舌は動かなくなるといふ事です。そして肚のすくこと、咽喉の渇くこと、一通りぢやないさうです。そんな魔風に、をりあしく出会した者はいい災難ですよ』
『丸つ切り蚰蜒か、蛇蝎のやうな恐ろしい厭らしい岩山ですな。
なぜ天地の神さまは人民を愛する心より、湖上の大害物を取り除けて下さらぬのでせうか。あつて益なく、なければ大変、自由自在の航海が出来て便利だのに、世の中は、神様といへど、ある程度までは自由にならないとみえますな』
『何事も時節の力ですよ。金輪奈落の地底からつき出てをつたといふ、あの大高の岩山が、僅かの風ぐらゐに動揺して、東へ東へと流れ移るやうになつたのですから、もはやその根底はグラついてゐるのでせう。一つレコード破りの大地震でも勃発したら、手もなく、湖底に沈むでしまふでせう。オ、アレアレ御覧なさい。頂上の夫婦岩が、何だか怪しく動き出したぢやありませぬか』
『風も吹かないのに、千引の岩が自動するといふ道理もありますまい。舟が動くので岩が動くように見えるのでせう』
『ナニ、さうではありますまい。舟が動いて岩が動くやうに見えるのなれば、浮島全部が動かねばなりますまい。他に散在してゐる大小無数の島々も、同じやうに動かねばなりますまい。岩山の頂上に限つて動き出すのは、ヤツパリ船の動揺の作用でもなければ、変視幻視の作用でもありますまい。キツとこれは何かの前兆でせうよ』
『そう承れば、いかにも動いてをります。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂の方から下の方へ向かつて歩き始めたぢやありませぬか』
『なるほど妙だ。段々下つて来るぢやありませぬか。岩かと思へば虎が這うてゐるやうに見え出してきたぢやありませぬか』
『いかにも大虎ですワイ。アレアレ全山が動揺し出しました。こいつア沈没でもせうものなら、それだけ水量がまさり、大波が起つて、吾々の船も大変な影響をうけるでせう。危ない事になつて来たものですワイ』
かく話す内、波切丸は浮島の岩山の間近に進んだ。島の周囲は何となく波が高い。虎と見えた岩の変化は磯端に下つて来た。よくよく見れば牛のやうな虎猫である。虎猫は波切丸を目をいからして睨みながら、逃げるが如く湖面を渡つて夫婦連れ、西方指して浮きつ沈みつ逃げて行く。にはかに浮島は鳴動をはじめ、前後左右に全山は揺れて来た。チクリチクリと山の量は小さくなり低くなり、半時ばかりの内に水面にその影を没してしまつた。あまり沈没の仕方が漸進的であつたので、恐ろしき荒波も立たず、波切丸を前後左右に動揺するくらゐですむだ。(終戦のことを思わせる)
 一同の船客はこの光景を眺めて、何れも顔色青ざめ、「不思議不思議」と連呼するのみであつた。この時船底に横臥してゐた梅公宣伝使(三五教・太古の大本の宣伝使)は、船の少しく動揺せしに目を醒まし、ヒョロリヒヨロリと甲板に上つて来た。さしもに有名な大高の岩山は跡形もなく水泡と消えてゐた。そして船客が口々に陥没の記念所を話してゐる。梅公は船客の一人に向かつて、
『風もないのに、大変な波ですな。どつかの島が沈没したのぢやありませぬか』
甲『ハイ、あなた、あの大変事を御覧にならなかつたのですか。ずゐぶん見物でしたよ。昔から日月の如く光つてゐた頂上の夫婦岩は俄かに揺るぎ出し、終ひの果には大きな虎となり、磯端へ下つて来た時分には猫となり、波の間を浮きつ沈みつ、西の方へ逃げて行つたと思へば、チクリチクリと島が沈み出し、たうとう無くなつてしまひました。こんな事は昔から見た事はありませぬ。コリヤ何かの天のお知らせでせうかな』
梅『どうも不思議ですな。しかしながら人間から見れば大変な事のやうですが、宇宙万有を創造し玉うた神様の御目から見れば、吾々が頬に吸ひついた蚊を一匹叩き殺すやうなものでせう。しかしながら吾々はこれを見て、自ら戒め、悟らねばなりませぬ』
乙『あなたは何教かの宣伝使様のやうですが、一体全体此世の中は何うなるでせうか。吾々は不安で堪らないのです。つい一時間前まで泰然として湖中に聳えてゐた、あの岩山が脆くも湖底に沈没するといふよな不祥な世の中ですからなア』
梅『今日は妖邪の気、国の上下に充ちあふれ、仁義だの、道徳だのといふ美風は地を払ひ、悪と虚偽との悪風吹き荒び、世はますます暗黒の淵に沈淪し、聖者は野に隠れ、愚者は高きに上つて国政を私し、善は虐げられ悪は栄えるといふ無道の社会ですから、天地も之に感応して、色々の不思議が勃発するのでせう。今日の人間は何れも堕落の淵に沈み、卑劣心のみ頭を擡げ、有為の人材は生れ来らず、末法常暗の世となり果てゐるのですから、吾々は斎苑の館の神柱、主の神の救世的御神業に奉仕し、天下の暗雲を払ひ、悲哀の淵に沈める蒼生を平安無事なる楽郷に救はむがために、あらゆる艱難辛苦をなめ、天下を遍歴して、神教を伝達してゐるのです。まだまだ世の中は、これくらゐな不思議では治まりませぬよ。ここ十年以内には、世界的、又々大戦争が勃発するでせう。今日ウラル教とバラモン教(物語の中での二つの邪教)との戦争が始まらむとしてをりますが、こんなことはホンの児戯に等しきもので、世界の将来は、実に戦慄すべき大禍が横たはつてをります。それゆゑ、吾々は愛善の徳と信真の光に満ち玉ふ大神様の御神諭を拝し、普く天下の万民を救はむがために、草のしとね、星の夜具、木の根を枕として、天下公共のために塵身を捧げてゐるのです』
甲『なるほど承れば承るほど、今日の世の中は不安の空気が漂うてゐるやうです。今の人間は神仏の洪大無辺なる御威徳を無視し、暴力と圧制とをもつて唯一の武器とする大黒主の前に拝跪渇仰し、世の中に尊き者はハルナの都(物語の中では太古のインドのある都)の大黒主より外にないものだと誤解してゐるのだから、天地の怒に触れて、世の中は一旦破壊さるるのは当然でせう。私はウラル教の信者でございますが、第一、教主様からして、……神を信ずるのは科学的でなくては可かない。神秘だとか奇蹟だとかを以て信仰を維持してゐたのは、太古未開の時代の事だ。日進月歩、開明の今日は、そんなゴマカシは世人が受入れない……と言つてゐらつしやるのですもの、まるきり神様を科学扱ひにし、御神体を分析解剖して色々の批評を下すといふ極悪世界ですもの、こんな世の中が出て来るのは寧ろ当然でせう。あなたは何教の宣伝使でございますか。神様に対する御感想を承りたいものでございますな』
梅『最前も申し上げた通り、斎苑の館の大神様は三五教をお開きになつたのです。そして私は同教の宣伝使照国別様といふお方の従者となつて、宣伝の旅に立つたものでございます。それゆゑ貴方等のお尋ねに対し、立派な答へは到底できませぬ。しかしながら神様は昔の人のいつたやうに、超然として人間を離れたものではありませぬ。神人合一の境に入つて始めて、神の神たり、人の人たる働きが出来得るのです。ゆゑに三五教にては、人は神の子神の宮と称へ、舎身的大活動を、天下万民の為にやつてゐるのです』
『何か御教示について、極簡単明瞭に、神と人との関係を解らしていただく事は出来ますまいか』
『ハイ、私にもまだ修業が未熟なので、判然した事は申し上げ兼ねますが、吾が宣伝使の君から教はつた一つの格言がございますから、これを貴方にお聞かせいたしませう。
神力と人力
一、宇宙の本源は活動力にして即ち神なり。
一、万物は活動力の発現にして神の断片なり。
一、人は活動力の主体、天地経綸の司宰者なり。活動力は洪大無辺にして宗教、政治、哲学、倫理、教育、科学、法律等の源泉なり。
一、人は神の子神の生宮なり。而して又神と成り得るものなり。
一、人は神にしあれば神に習ひて能く活動し、自己を信じ、他人を信じ、依頼心を起すベからず。
一、世界人類の平和と幸福のために苦難を意とせず、真理のために活躍し実行するものは神なり。
一、神は万物普遍の活霊にして、人は神業経綸の主体なり。霊体一致して茲に無限無極の権威を発揮し、万世の基本を樹立す』
『イヤ有難う。御教示を聞いて地獄から極楽浄土へ転住したやうな法悦に咽びました。なるほど人間は神様の分派で、いはば小なる神でございますなア。今までウラル教で称へてをりました教理に比ぶれば、その内容において、その尊さにおいて、真理の徹底したる点において、天地霄壌の差がございます。私はスガの港の小さい商人でございますが、宅にはウラル彦の神様を奉斎してをります。しかしながら之は祖先以来伝統的に祀つてゐるので、言はば葬式などの便利上、ウラル教徒となつてゐるのに過ぎませぬ。既成宗教は已に命脈を失ひ、ただその残骸を止むるのみ。
吾々人民は信仰に飢ゑ渇き、精神の道に放浪し、一日として、この世を安心に送ることが出来なかつたのです。旧道徳は既に已に世にすたれて、新道徳も起らず、また偉大なる新宗教も勃起せないといつて、日夜悔んでをりましたが、かやうな崇高な偉大な真宗教が起つてゐるとは、夢にも知らなかつたのです。計らずも波切丸の船中において、かかる尊き神様のお使ひに巡り会ひ、起死回生の御神教を聞かしていただくとは、何たる、私は幸福でございませう。私の宅は、誠に手狭でございますが、スガの港のイルクといつて、多少遠近に名を知られた小商人でございます。
どうか、私の宅へも蓮歩を枉げ下さいまして、家族一同に、尊き教をお授け下さいますやうにお願ひいたします。そして私はこの結構な御神徳を独占せず、力のあらむ限り、万民に神徳を宣伝さしていただく考へでございますから、何卒よろしくお願ひ申し上げます』
『実に結構なる貴方のお心掛け、これも大慈大悲の大神様のお引合せでございませう。これを御縁に、私もスガの港へ船がつきましたら、あなたのお宅へ立ちよらしていただきませう。
思ひきや神の仕組の真人は
御船の中にもくばりあるとは
此の船は神の救ひの船ぞかし
世の荒波を分けつつ進めり』
(大正十三年十二月二日新十二月二十七日於祥雲閣松村真澄録)


3.出口栄二氏の解釈 

民族宗教から世界宗教へ

 この「浮島の怪猫」は、日本に対する神の予言として受けとめられてぎている。
戦前の日本を考えるとき、国家の根底に精神的支柱として偏狭排他な民族主義的立場を強調した国家神道がある。その頂点に「丸っ切り蚰蜒か、蛇蝎のように」恐れられ「あらゆる島々を睥睨し、強持てに持て」ていた「岩山」があり、その「岩山は時々大鳴動を起し、噴煙を吐き散らし……その噴煙には一種の毒瓦斯が含有」されて、人々の頭からかみを取り除いて丸坊主の禿頭病にしてしまう。
再度の大本事件における信徒の立場を考えてみれば、かみをとりあげられた禿頭病に無理じいさせられたようなものである。
「あるいは眼病を煩い、耳は聞こえなくなり、舌は動かなくなるという事です」とあるのは、間違った偏狭な国家宗教によって真の神の光をみることができず、低俗な教えによって神の真理がわからず、神の真実の声、歴史と人類の正しいおたけびの声も聞えず、つんぼにされ、国民はさるぐつわをはめられて言論の自由もなかった、そんなかつての時代を痛烈に比喩的に批判されている。そして国民一般はとたんの苦しみと飢餓の淵においつあられ、咽喉をうるおして豊かな生活を味わうどころではなかった。このことは特に善良でまじめな一般の民衆は、あの第二次大戦中いやというほど体験させられている。
 聖師はこのことを大正十三年に予言警告していたのである。
 こういうおそるべき精神情況から脱却するみちは、今までいくどもいくどもくり返し述べてきたが、それは外でもなく昭和二十年末、鳥取吉岡温泉での聖師のお言葉である。
その要旨は、第一に誠の親神にめざめよ。真の根源的実在者への信仰をもてと主張される。即ち「ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させていたことが、日本を誤らせた。……」この言葉は、誤れる民族信仰の弊害を完膚なきまでに批判され、しかも理解しやすく示されている言葉である。次に世界平和の間題として、世界の国女の軍備の全廃に言及している。この吉岡発言は、日本民族否世界人類に与えられた指標だとさえ信じたい。
(中略)
「浮島の怪猫」の中で、船がスガの港に入る船上で梅公宣伝使がイルクにこわれるまま、三五教の御教えの大要を簡明に、神力と人力として説いているのは意味深い。それは世界宗教としての大本の立場を表している。


4.窪田栄治氏の解釈

『予言と神話』(八幡書店)より 

P.23 ことばの裏に隠された歴史的な予言 

 そのほかにも、『霊界物語』には予言的な事柄が沢山でてきます。もちろん、ふつうに読めば読み過ごしてしまうことなのですが、そのなんでもないことばの裏に、重大な予言が秘められていることが多いのです。
 第六十七巻に「梅公別」という登場人物がでてきます。この人物が「波切丸」という船に乗って、ハルの海という大きな湖にやってきます。そこには「アケハルの岩」という素晴らしい岩山があって、その頂上からは光が放射されており、航海の目標になっていたと記されています。ところが、梅公別が船上に立つと、その素晴らしい岩山は崩れてしまいます。
 これには一体どういう意味が隠されているのでしょうか。
 実は、この梅公別とは王仁三郎の化身なのです。「ハル」には東という意味があります。東にある海とくれば、そこにあるのは日本列島ですね。
 それから、「アケハル」を漢字になおすと「明治」になります。明治時代の日本は、東洋に冠たる国として光り輝いていました。
 もう少しこの章を読んでみましょう。
 「アケハルの岩」の近くに「夫婦岩」があって、猛獣が目を爛々と輝かせながら梅公別を睨んでいます。猛獣は海辺に降りてくると、いつのまにか猫になってしまい、波の上を西の方角をめざして逃げていったと書いてあります。
 これはどういうことかというと、絶大なる権力をふるっていた明治の帝国憲法が崩壊し、西側の国めざして逃げてゆく、ということを表しているのです。
 この他にも、王仁三郎の予言を知る手がかりはいろいろあります。たとえば、アケハルの岩島には、パインの木がたくさん茂っているとあります。そのまま読み過ごしてしまいそうですが、パインとは松のことなのです。松の木がたくさんある島といえば……、そうだ日本のことなのだなと分かりますね。


5.大室寅之助にからめた解釈

明治維新の際、孝明天皇が暗殺されたという話があり、アーネスト・サトウという当時のイギリスの通訳官の日記にも、うわさとして書かれている。

そして、暗殺されたのは孝明天皇だけでなく、明治天皇も長州の大室寅之助と入れ替えられたという説がある。

内容については、学研のムーの2004年の12月号「悲恋の皇女和宮」の話とか、王仁さブログに書かれているようだ。なお、私が、はじめてこの話を読んだのは、大田龍『天皇破壊史』だ。

大室寅之助の話の中で、「アケハルの岩は明治のこと。それが、大虎となって逃げ出しているのだから之助と関係している」という説がある。

「霊界物語67巻第6章 浮島(うきしま)の怪猫(くわいべう) 」に「アケハルの岩」というのが出てきますけど、これが明治天皇あるいは明治政府の比喩であると昔から言われていて、そのアケハルの岩が動きだして、「大虎」になるんですけど、鹿島昇という人が、大室寅之祐が明治天皇にすり代わったという説を発表して以来、この「大虎」は大室寅之祐のことでないのかと、言われているわけです。

6.狭依彦の解釈(1)

まず、この「浮島の怪猫」の置かれている位置を考えてみよう。

67巻での位置。

第四章 「笑の座」  当時の社会批判と思われる

第五章 「波の鼓」  神仏無量寿経

第六章 「浮島の怪猫」

第七章 「武力鞘」 「浮島の怪猫」の話の後と武術の話

と重要な章が続く。

神仏無量寿経」は予言を含むものだと考えられている。本のページと文字数で自分の死の日付を予言しているとも言われている。

神仏無量寿経の解釈は別のページで書いている。神仏無量寿経の解釈

瑞霊世を去りて後、聖道漸く滅せば、蒼生諂偽(てんぎ)にして、復(また)衆悪を為し、五痛五焼還りて前の法のごとく久しきを経て、後転(うた)た劇烈なるべし。悉(ことごと)く説くべからず。吾は唯衆生一切のために略して之を言ふのみ。

ここで、瑞霊は王仁三郎だから、王仁三郎の死後を指している。ということは、現代を指している。

この予言は、一般的には第三次大本事件と呼ばれている事件など教団内の出来事を指すと思われているが、私は、下記のフレーズなど、まさに現代の社会を描写していると思っている。

ただ自然界、即(すなは)ち現界のみ悪業多くして、惟神の大道に背反し、勤苦して求慾(ぐよく)し、転(うた)た相欺き心魂疲れ、形体困(くる)しみ、苦水を呑み、毒泉を汲み、害食を喰(くら)ひ、かくの如く怱務(そうむ)して、未だ嘗て寧息(ねいそく)すること無し。


7.狭依彦の解釈(2)

文章に従って解釈してみた。

第六章 浮島の怪猫

 波切丸は万波洋々たる湖面を、西南を指して、船舷に皷を打ちながら、いともゆるやかに進んでゐる。天気清朗にして春の陽気漂ひ、あるひはくあるひはくあるひはき翼を拡げた海鳥(かいてう)が、あるひは百羽、千羽と群をなし、怪しげな声を絞つて中空を翔けめぐり、あるひは波間に悠然として、浮きつ沈みつ、魚を漁つてゐる。アンボイナ七八尺の大翼を拡げて一文字に空中滑走をやつてゐる。その長閑さは天国の楽園に遊ぶの思ひがあつた。

■西南……この西南は、第5章の最後で、波切丸が北風によって進み始めたことを受けている。西南(未申)の方角は裏鬼門と呼ばれている。

■海鳥……この海鳥を想像してしてみよう。白、黒、赤い羽の鳥が何千羽も群をなして飛ぶ。これは「怪しげな声」という表現もあり、不気味なイメージが浮かばないだろうか?海鳥に「うみどり」ではなく「かいてう」とルビが振ってあるのは、怪鳥を示唆しているのではないだろうか。そして、その中に、2メートルほどの羽を広げた、両方の羽で4メートルの大きな鳥がゆったりと飛翔している。

アンボイナ……物語でアンボイナ島という島が出てくる。冠島・沓島に関係している島のようだ。

■天国の楽園……「のどか」と書いてあるが、イメージはほんとうに天国の楽園だろうか?

 前方につき当つたハルの湖水第一の、岩のみを以て築かれた高山(こうざん)がある。国人はこの島山(しまやま)を称して浮島(うきしま)の峰と称へてゐる。一名夜光の岩山(いはやま)ともいふ。船は容赦もなくこの岩山の一浬ばかり手前まで進んで来た。船客は何れもこの岩島(いはしま)に向かつて、一斉に視線を投げ、この島に関する古来の伝説や由緒について、口々に批評を試みてゐる。

甲『皆さま、御覧なさい。前方に雲を凌いで屹立してゐる、あの岩島(いはじま)は、ハルの湖第一の高山で、いろいろの神秘を蔵してゐる霊山(れいざん)ですよ。昔は夜光の岩山といつて、岩の頂辺(てつぺん)に日月のごとき光が輝き、月のない夜の航海には燈明台(とうみやうだい)として尊重されたものです。あのスツクと雲を抜き出た山容の具合といひ、全山岩をもつて固められた金剛不壊の容姿といひ、万古不動の霊山です。この湖水を渡る者はこの山を見なくつちや、湖水を渡つたといふことは出来ないのです』
乙『成るほど、見れば見るほど立派な山ですな。しかしながら、今でも夜になると、昔と同じやうに光明を放つてゐるのですか』
『この湖水をハルの湖といふくらゐですもの、暗(やみ)がなかつたのです。しかしながらだんだん世の中が曇つた所為か、年と共に光がうすらぎ、今ではほとんど光らなくなつたのです。そして湖水の中心に聳え立つてゐたのですが、いつの間にやら、その中心から東へ移つてしまつたといふことです。万古不動の岩山も根がないと見えて浮島(うきじま)らしく、あまり西風が烈しかつたと見えて、チクチクと中心から東へ寄つたといふことです』

浮島を形容する言葉

ここで、浮島を形容するのに種々の言い方をしている。高山(こうざん)、島山(しまやま)、浮島(うきしま)、岩山(いはやま)、岩島(いはしま)、霊山(れいざん)、浮島(うきじま)である。

それに、岩島(いはじま)とルビがにごっているものもある。私の持っている八幡書店の1992年の版ではルビがこうなっているが、天声社の修補版では岩島(いはじま)と同じルビになっている。初版を確かめたいものだ。

この種々の表現を使っているのは何か意味があるものと思われる。

高山

この章で高山を使っているのはこの2箇所だけである。

第72巻の最後(『霊界物語』としての最後)で、高姫が最後に大高山へ向かって、金毛九尾に還元して逃げる。『スサノオの宇宙へ』では「大高山とは、高いところと上昇志向である」としている。霊界物語の掲示板で、出口和明氏は「この高山は宮中を表しているのではないか」と言われていたと書かれていた。

なお大本裁判で不敬とされた歌は、次のような歌で、高山が皇室を表してるのではなさそうだ。

月の光り昔も今も変らねど大内山にかかる黒雲 (物語第七巻)
「畏くも現御皇室を呪咀して詠したる」短歌

千歳経し聖の壷も地震の荒ひに逢はばもろく破れむ 
つかの木の弥つぎつぎに伝はりて宝の壷もひびぞ入りぬる (第三十八巻)
「畏くも御皇統の断絶を暗示したる」短歌

現世の君より外にきみなしとおもふ人こそ愚かなりけり (第六十一巻)
「畏くも天皇陛下の外に猶天皇あるか如きこと暗示したる」短歌

日の光り昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲 (第十五巻)
「畏くも現御皇室を呪咀して詠したる」短歌

『なるほど文化は東漸するとかいひますから、文化風が吹いたのでせう。しかし日月星辰何れも皆西へ西へと移つて行くのに、あの岩山に限つて、東へ移るとは少し天地の道理に反してゐるぢやありませぬか。浮草のやうに風に従つて浮動するやうな島ならば、何ほど岩で固めてあつても、何時沈没するか知れませぬから、うつかり近寄るこた出来ますまい

文化……この文化の意味はわからないが、何かの比喩であると思われる。

『あの山の頂を御覧なさい。ほとんど枯死せむとするやうなひねくれた、ちつぽけな樹木が岩の空隙に僅かに命脈を保つてゐるでせう。山高きが故に尊からず、樹木あるを以て尊しとす……とかいつて、なにほど高い山でも役に立たぬガラクタ岩で固められ肝心の樹木がなくては、山の山たる資格はありますまい。せめて燈明台にでもなりや、山としての価値も保てるでせうが、大きな面積を占領して、何一つ芸能のない岩山ではサツパリ話になりますまい。それも昔のやうに暗夜を照らし往来の船を守つて、安全に彼岸に達せしむる働きがあるのなれば岩山も結構ですが、今日となつては最早無用の長物ですな。はあの山の頂に特に目立つて、仁王のごとく直立してゐる大岩石を、アケハルの岩と称へ、国の守り神様として、国民が尊敬してゐたのです。それが今日となつては、少しも光がなく、おまけに其の岩に、縦に大きなヒビが入つて、何時破壊するか分らないやうになり、今は大黒岩と人が呼んでをります。世の中は之を見ても、此のままでは続くものではありますまい。天の神様は地に不思議を現はして世の推移をお示しになるといひますから、これから推考すれば、大黒主の天下も余り長くはありますまいな』

岩山と岩石などの関係

ここで、岩山もしくは山全体と樹木燈明台岩石の意味を考えなければならない。

明らかに、樹木、岩石は山全体の一部として表現されているように思われる。

例えば解釈のとして次のようなものが考えられよう。

(1) (2)

ハルの湖水全体=日本

岩山=支配階層

樹木、岩石=支配者の代表(○○)

ガラクタ岩=腐敗した支配階層

岩山=日本

樹木=国民

岩石=支配者の代表(○○)

樹木と岩石の関係? 山の頂にあるということで、樹木と岩石の釣り合いがとれないのでは?

また、後ろで、岩山を尊敬する国民という表現が出るので、岩山は支配層の集合と考えるべきだ。

とにかく岩山の頂上にある岩石が支配者の代表(○○)を比喩しているのは間違いないと思う。樹木については国民を比喩している場合「ひねくれた、ちっぽけな」という表現をするだろうか?もし、国民を比喩している場合、王仁三郎は一般国民をマルクス主義の「人民」とかいうように、権力は持たないが善意の集団としては捉えていなかったということだろう。

ということは岩石のアケハルというのはこれまで言われてきたように「明治」を暗喩していても解釈上の問題はないだろう。「今は大黒岩と人が呼んでをります」のところの解釈が微妙。

岩石(昔) 岩石(今)
アケハル

山の頂に特に目立つて、仁王のごとく直立してゐる

国の守り神様として、国民が尊敬してゐた

大黒岩

少しも光がなく、おまけに其の岩に、縦に大きなヒビが入つて、何時破壊するか分らない

世の中は之を見ても、此のままでは続くものではありますまい。

岩山についての表現。

岩山(昔) 岩山(今)
暗夜を照らし往来の船を守つて、安全に彼岸に達せしむる働きがある 大きな面積を占領して、何一つ芸能のない岩山

最早無用の長物

「今は大黒岩と人が呼んでをります」のところの解釈が微妙。同じ支配者もしくは支配者層を意味しているなら、最初はある程度の良い意味を持ち、後に悪化したということになる。

血統などは同じだが、支配者もしくは支配者層が世代交代していると考えるほうが自然な解釈ができそうだ。

『あの岩山には何か猛獣でも棲んでゐるでせうか』
『妙な怪物が沢山棲息してゐるといふ事です。そしてその動物は足に水かきがあり、水上を自由自在に游泳したり、山を駈け登ることの速さといつたら、まるきり、風船を飛翔したやうなものだ……とのことです。

日の神、月の神二柱が、天上より御降臨になり、八百万神を集ひて日月の如き光明を放ち、この湖水は素より、印度の国一体を照臨し、妖邪の気を払ひ、天下万民を安息せしめ、神様の御神体として、国人があの岩山を尊敬してゐたのですが、おひおひと世は澆季末法となり、何時しかその光明も光を失ひ、今や全く虎とも狼とも金毛九尾とも大蛇とも形容し難い怪獣が棲息所となつてゐるさうです。

それだから吾々人間が、その島に一歩でも踏み入れやうものなら、忽ち狂悪なる怪獣の爪牙にかかつて、血は吸はれ、肉は喰はれ骨は焼かれて亡びるといつて恐がり、誰も寄りつかないのです。風波が悪くつて、もしも船があの岩島にブツかからうものなら、それこそ寂滅為楽、再び生きて還る事は出来ないので、このごろでは、ひそびそとあの島を悪魔島と言つてゐます。

しかし大きな声でそんなこと言はうものなら、怪物がその声を聞き付けて、どんなわざをするか分らぬといふことですから、誰も彼も憚つて、大黒岩に関する話は口を閉じて安全無事を祈つてゐるのです。あの島があるために、少し暴風の時は大変な大波を起し、小さい舟は何時も覆没の難に会ふのですからなア。

何とかして、天の大きな工匠がやつて来て大鉄槌を振ひ、打ち砕いて、吾々の安全を守つてくれる、大神将が現はれさうなものですな』

『何と、権威のある岩山ぢやありませぬか。つまりこの湖面に傲然と突つ立つて、あらゆる島々を睥睨し、強持てに持ててゐるのですな』

『あの岩山は時々大鳴動を起し、噴煙を吐き散らし、湖面を暗に包んでしまふ事があるのですよ。その噴煙には一種の毒瓦斯が含有してゐますから、その煙に襲はれた者はたちまち禿頭病になり、あるひは眼病を煩ひ、耳は聞こえなくなり、舌は動かなくなるといふ事です。そして肚のすくこと、咽喉の渇くこと、一通りぢやないさうです。そんな魔風に、をりあしく出会した者はいい災難ですよ』

『丸つ切り蚰蜒か、蛇蝎のやうな恐ろしい厭らしい岩山ですな。なぜ天地の神さまは人民を愛する心より、湖上の大害物を取り除けて下さらぬのでせうか。あつて益なく、なければ大変、自由自在の航海が出来て便利だのに、世の中は、神様といへど、ある程度までは自由にならないとみえますな』

岩山

岩山について語られているから、支配者層のことを語っているのだろう。その支配層が怪獣であると言っている。

岩山(昔) 岩山(今)
日の神、月の神二柱が、天上より御降臨になり、八百万神を集ひて日月の如き光明を放ち、この湖水は素より、印度の国一体を照臨し、妖邪の気を払ひ、天下万民を安息せしめ、神様の御神体として、国人があの岩山を尊敬してゐた おひおひと世は澆季末法となり、何時しかその光明も光を失ひ、今や全く虎とも狼とも金毛九尾とも大蛇とも形容し難い怪獣が棲息所となつてゐるさうです。

岩山に降臨したのは日の神、月の神の二柱。これは、通常日の神、月の神は日本のトップ支配者(○○)を表してはいないが、この場面では日本のトップ支配者(○○)の祖先と考えることも可能であろう。

ハルの湖とインド全体の関係……ハルの湖=日本、インド全体はアジアと考えられないか。

時間のスケール……ここで言う「昔」と、アケハルで出てきた「昔」は時間のスケールが違うものと考えるのが妥当であろう。

天の大きな工匠……「天の大きな工匠がやつて来て大鉄槌を振ひ、打ち砕いて、吾々の安全を守つてくれる、大神将が現はれさうなものですな」
 工匠
というところが、石屋のマッソンを思い起こさせるのは狭依彦だけだろうか。フリーメーソンであったというマッカーサーが思い浮かぶ。

『何事も時節の力ですよ。金輪奈落の地底からつき出てをつたといふ、あの大高の岩山が、僅かの風ぐらゐに動揺して、東へ東へと流れ移るやうになつたのですから、もはやその根底はグラついてゐるのでせう。一つレコード破りの大地震でも勃発したら、手もなく、湖底に沈むでしまふでせう。オ、アレアレ御覧なさい。頂上の夫婦岩が、何だか怪しく動き出したぢやありませぬか』

『風も吹かないのに、千引の岩が自動するといふ道理もありますまい。舟が動くので岩が動くように見えるのでせう』

『ナニ、さうではありますまい。舟が動いて岩が動くやうに見えるのなれば、浮島全部が動かねばなりますまい。他に散在してゐる大小無数の島々も、同じやうに動かねばなりますまい。岩山の頂上に限つて動き出すのは、ヤツパリ船の動揺の作用でもなければ、変視幻視の作用でもありますまい。キツとこれは何かの前兆でせうよ』

『そう承れば、いかにも動いてをります。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂の方から下の方へ向かつて歩き始めたぢやありませぬか』

『なるほど妙だ。段々下つて来るぢやありませぬか。岩かと思へば虎が這うてゐるやうに見え出してきたぢやありませぬか』

『いかにも大虎ですワイ。アレアレ全山が動揺し出しました。こいつア沈没でもせうものなら、それだけ水量がまさり、大波が起つて、吾々の船も大変な影響をうけるでせう。危ない事になつて来たものですワイ』

かく話す内、波切丸は浮島の岩山の間近に進んだ。島の周囲は何となく波が高い。虎と見えた岩の変化は磯端に下つて来た。よくよく見れば牛のやうな虎猫である。虎猫は波切丸を目をいからして睨みながら、逃げるが如く湖面を渡つて夫婦連れ、西方指して浮きつ沈みつ逃げて行く。にはかに浮島は鳴動をはじめ、前後左右に全山は揺れて来た。チクリチクリと山の量は小さくなり低くなり、半時ばかりの内に水面にその影を没してしまつた。あまり沈没の仕方が漸進的であつたので、恐ろしき荒波も立たず、波切丸を前後左右に動揺するくらゐですむだ。

夫婦……頂上の岩が大虎となる。夫婦というのは何を意味しているのだろうか?

一同の船客はこの光景を眺めて、何れも顔色青ざめ、「不思議不思議」と連呼するのみであつた。この時船底に横臥してゐた梅公宣伝使は、船の少しく動揺せしに目を醒まし、ヒョロリヒヨロリと甲板に上つて来た。さしもに有名な大高の岩山は跡形もなく水泡と消えてゐた。そして船客が口々に陥没の記念所を話してゐる。梅公は船客の一人に向かつて、
『風もないのに、大変な波ですな。どつかの島が沈没したのぢやありませぬか』

甲『ハイ、あなた、あの大変事を御覧にならなかつたのですか。ずゐぶん見物でしたよ。昔から日月の如く光つてゐた頂上の夫婦岩は俄かに揺るぎ出し、終ひの果には大きな虎となり、磯端へ下つて来た時分には猫となり、波の間を浮きつ沈みつ、西の方へ逃げて行つたと思へば、チクリチクリと島が沈み出し、たうとう無くなつてしまひました。こんな事は昔から見た事はありませぬ。コリヤ何かの天のお知らせでせうかな』

梅『どうも不思議ですな。しかしながら人間から見れば大変な事のやうですが、宇宙万有を創造し玉うた神様の御目から見れば、吾々が頬に吸ひついた蚊を一匹叩き殺すやうなものでせう。しかしながら吾々はこれを見て、自ら戒め、悟らねばなりませぬ』

虎から猫へ

頂上の岩が大虎となり、最後には猫になった。それが、西の方へ逃げ去ったら、島全体が沈んでしまった。

神の経綸と浮島の出来事

梅公のセリフで、島が沈んだくらいは、神の経綸から見れば大きな問題ではないことが示される。ということは、浮島は神の経綸とは関係なかったことになるのでは?

乙『あなたは何教かの宣伝使様のやうですが、一体全体此世の中は何うなるでせうか。吾々は不安で堪らないのです。つい一時間前まで泰然として湖中に聳えてゐた、あの岩山が脆くも湖底に沈没するといふよな不祥な世の中ですからなア』

梅『今日は妖邪の気、国の上下に充ちあふれ、仁義だの、道徳だのといふ美風は地を払ひ、悪と虚偽との悪風吹き荒び、世はますます暗黒の淵に沈淪し、聖者は野に隠れ、愚者は高きに上つて国政を私し、善は虐げられ悪は栄えるといふ無道の社会ですから、天地も之に感応して、色々の不思議が勃発するのでせう。今日の人間は何れも堕落の淵に沈み、卑劣心のみ頭を擡げ、有為の人材は生れ来らず、末法常暗の世となり果てゐるのですから、吾々は斎苑の館の神柱、主の神の救世的御神業に奉仕し、天下の暗雲を払ひ、悲哀の淵に沈める蒼生を平安無事なる楽郷に救はむがために、あらゆる艱難辛苦をなめ、天下を遍歴して、神教を伝達してゐるのです。まだまだ世の中は、これくらゐな不思議では治まりませぬよ。ここ十年以内には、世界的、又々大戦争が勃発するでせう。今日ウラル教とバラモン教との戦争が始まらむとしてをりますが、こんなことはホンの児戯に等しきもので、世界の将来は、実に戦慄すべき大禍が横たはつてをります。それゆゑ、吾々は愛善の徳と信真の光に満ち玉ふ大神様の御神諭を拝し、普く天下の万民を救はむがために、草のしとね、星の夜具、木の根を枕として、天下公共のために塵身を捧げてゐるのです』

前半は、たぶん、この話が書かれた当時の社会世相を描写していると思われる。

物語が書かれた時点では第一次世界大戦は終了した後だから、「ここ十年以内に勃発する世界的大戦争」は第二次世界大戦だと思われる。

次に書かれている「ウラル教とバラモン教との戦争」は「世界的大戦争」と同じものか。これが問題だ。

解釈者によっても違うが、私はウラル教とバラモン教は世界一元管理をめざす秘教組織(イルミナティと呼んでおく)を裏、表から見た二面で、同じものだと思う。霊界物語でも基本的には、バラモン教はウラル教から来ている。

陰謀論者は第二次世界大戦をその一つの組織が起こしたものだとするが、私も同じ立場だ。自由と独裁の争いに見えているが、それは表面上のもので、ヒトラーもチャーチルもフランクリン・ルーズベルトも同じ組織の一員であったと考えている。

日本はどうだったかが難しいが、日本の支配層の中でその組織に属していたものがあったとするか、もしくは、日本はスケープゴートとして使われて、第二次大戦という大きなシナリオの中では脇役に過ぎなかったは決めかねている。

そして、第二次大戦が「ここ十年以内に勃発する世界的大戦争」であれば、「世界の将来は、実に戦慄すべき大禍が横たはつてをります」は今私達の住んでいる現代のことになるだろう。

また、大虎と島の沈没が第二次大戦の終了を意味しているのなら、「ここ十年以内に勃発する世界的大戦争」とその後は後ろにずれることになる。ただし、霊界物語の時間は前後するから、前の考えの方が良いと思う。

甲『なるほど承れば承るほど、今日の世の中は不安の空気が漂うてゐるやうです。今の人間は神仏の洪大無辺なる御威徳を無視し、暴力と圧制とをもつて唯一の武器とする大黒主の前に拝跪渇仰し、世の中に尊き者はハルナの都の大黒主より外にないものだと誤解してゐるのだから天地の怒に触れて、世の中は一旦破壊さるるのは当然でせう。私はウラル教の信者でございますが、第一、教主様からして、……神を信ずるのは科学的でなくては可かない。神秘だとか奇蹟だとかを以て信仰を維持してゐたのは、太古未開の時代の事だ。日進月歩、開明の今日は、そんなゴマカシは世人が受入れない……と言つてゐらつしやるのですもの、まるきり神様を科学扱ひにし、御神体を分析解剖して色々の批評を下すといふ極悪世界ですもの、こんな世の中が出て来るのは寧ろ当然でせう。あなたは何教の宣伝使でございますか。神様に対する御感想を承りたいものでございますな』

時間的な問題

「世の中に尊き者はハルナの都の大黒主より外にないものだと誤解して」いるから「天地の怒に触れて、世の中は一旦破壊さるるのは当然でせう」という部分は、第二次世界大戦の敗戦を意味していると思われるがどうだろうか。

しかし、大虎と島の沈没が第二次大戦の終了を意味しているのなら、大黒主の世界はまだ破壊されていないのだから、時間的に合わなくなる。

ウラル教……ここでのウラル教は「科学的」という言葉から考えるとマルクス主義を表しているように思われる。

梅『最前も申し上げた通り、斎苑の館の大神様は三五教をお開きになつたのです。そして私は同教の宣伝使照国別様といふお方の従者となつて、宣伝の旅に立つたものでございます。それゆゑ貴方等のお尋ねに対し、立派な答へは到底できませぬ。しかしながら神様は昔の人のいつたやうに、超然として人間を離れたものではありませぬ。神人合一の境に入つて始めて、神の神たり、人の人たる働きが出来得るのです。ゆゑに三五教にては、人は神の子神の宮と称へ、舎身的大活動を、天下万民の為にやつてゐるのです』

『何か御教示について、極簡単明瞭に、神と人との関係を解らしていただく事は出来ますまいか』

『ハイ、私にもまだ修業が未熟なので、判然した事は申し上げ兼ねますが、吾が宣伝使の君から教はつた一つの格言がございますから、これを貴方にお聞かせいたしませう。
神力と人力
一、宇宙の本源は活動力にして即ち神なり。
一、万物は活動力の発現にして神の断片なり。
一、人は活動力の主体、天地経綸の司宰者なり。活動力は洪大無辺にして宗教、政治、哲学、倫理、教育、科学、法律等の源泉なり。
一、人は神の子神の生宮なり。而して又神と成り得るものなり。
一、人は神にしあれば神に習ひて能く活動し、自己を信じ、他人を信じ、依頼心を起すベからず。
一、世界人類の平和と幸福のために苦難を意とせず、真理のために活躍し実行するものは神なり。
一、神は万物普遍の活霊にして、人は神業経綸の主体なり。霊体一致して茲に無限無極の権威を発揮し、万世の基本を樹立す』

『イヤ有難う。御教示を聞いて地獄から極楽浄土へ転住したやうな法悦に咽びました。なるほど人間は神様の分派で、いはば小なる神でございますなア。今までウラル教で称へてをりました教理に比ぶれば、その内容において、その尊さにおいて、真理の徹底したる点において、天地霄壌の差がございます。私はスガの港の小さい商人でございますが、宅にはウラル彦の神様を奉斎してをります。しかしながら之は祖先以来伝統的に祀つてゐるので、言はば葬式などの便利上、ウラル教徒となつてゐるのに過ぎませぬ。既成宗教は已に命脈を失ひ、ただその残骸を止むるのみ。
吾々人民は信仰に飢ゑ渇き、精神の道に放浪し、一日として、この世を安心に送ることが出来なかつたのです。旧道徳は既に已に世にすたれて、新道徳も起らず、また偉大なる新宗教も勃起せないといつて、日夜悔んでをりましたが、かやうな崇高な偉大な真宗教が起つてゐるとは、夢にも知らなかつたのです。計らずも波切丸の船中において、かかる尊き神様のお使ひに巡り会ひ、起死回生の御神教を聞かしていただくとは、何たる、私は幸福でございませう。私の宅は、誠に手狭でございますが、スガの港のイルクといつて、多少遠近に名を知られた小商人でございます。
どうか、私の宅へも蓮歩を枉げ下さいまして、家族一同に、尊き教をお授け下さいますやうにお願ひいたします。そして私はこの結構な御神徳を独占せず、力のあらむ限り、万民に神徳を宣伝さしていただく考へでございますから、何卒よろしくお願ひ申し上げます』

『実に結構なる貴方のお心掛け、これも大慈大悲の大神様のお引合せでございませう。これを御縁に、私もスガの港へ船がつきましたら、あなたのお宅へ立ちよらしていただきませう。
思ひきや神の仕組の真人は
御船の中にもくばりあるとは
此の船は神の救ひの船ぞかし
世の荒波を分けつつ進めり』

ウラル教……ここでの葬式宗教のウラル教はマルクス主義を指しているのではないだろう。

主神の定義……「浮島の怪猫」を読むときには、通常はこの部分が中心となる。この内容については参考書を参照してほしい。


8.狭依彦の解釈(3)

まず、明治とアケハル、大虎と大室寅之助をからめた説を考える。

章の最初で、船が「西南」へ進んでいること、「岩」が協調されていることから、西郷隆盛と岩倉具視をイメージさせないこともない。

だから、話の全体を考えて、逃げ出したのは明治体制(三代)と考えればつじつまが合うことは合う。

しかし、私は、明治の体制は第二次世界大戦後も続いていると考えているので以下の問題が残る。

(1)本当に大虎は逃げ出したのか?

(2)大虎は西方へ逃げ出したのだが、それまでは「日本独自」のものがあって、その体制が壊れて、西側におもねった体制になったのか?

(3)物語では、岩山全体が邪神の集合になっているが、大虎は本当に岩山全体を統治していたのか?

(4)梅公のセリフで、島が沈んだくらいは、神の経綸から見れば大きな問題ではないことが示されているが、その体制はあまり重要なものではなかったのか?

 まだまだ、いろいろな問題が残るが、その前の章の神仏無量寿経で第二次世界大戦後の王仁三郎の死後の予言をし、「浮島の怪猫」で主神の定義という神学的な話に隠れて、第二次世界大戦後に「世界の将来は、実に戦慄すべき大禍が横たはつてをります」と言っているらしいことは、物語の他の部分ではあまりないことなので重要なことだろう。



第1版 2004/06/08
第2版2005/12/18
第2.1版(一部修正)2014/12/31

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