出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語NM-5-351925/08入蒙記 黄泉帰王仁三郎参照文献検索
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第三五章 黄泉帰

 日出雄が六月二十一日の夜、白音太拉の鴻賓旅館で寝込を捕縛された時、折よく其処に宿つて居た日本人某が、朝になつてふと庭を見ると、皇道大本の神器として病者の祈願に用ゆる杓子が一本遺棄されてあつた。
 その杓子には、

 天地の身魂を救ふこの杓子心のままに世人救はむ

と表に誌しその裏には、

 この杓子我生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな
      王仁

と誌し、スの拇印が押捺してあつたのを見つけ出し、驚いて日出雄一行の遭難を知り、白音太拉から一番汽車に乗り、鄭家屯の日本領事館に届けて出た。領事館では驚いて土屋書記生を急行せしむる事となつた。さて日出雄は総ての所持品を兵営に預ると云ふ名の下に没収され、真澄別外一同は所持金から帽子、靴、帯革その他所有携帯品を支那巡警から掠奪されてしまつたさうである。彼巡警等は今晩日本人全部銃殺の刑に処せらるると云ふ事を聞いて居たから、取つたら取得だと云ふ考で、真裸体としてしまつたのである。一方土屋書記生は二十二日の夕頃に白音太拉に着き、通遼公署に到り、知事に面会し、日出雄一行の引渡しを交渉した。さうして翌早朝土屋氏は日出雄の繋がれて居る監獄へ見舞に来て、親切に慰め、もう領事館から出て来た上は、生命は大丈夫です安心なさいと云ふて帰つて往つた。
 書記生が白音太拉に着いた二十二日の夜は、何となく騒がしく、四方八方から数百千とも知れぬ犬の声が聞え、何事か勃発しさうな形勢であつた。後から聞いて見れば、書記生が日出雄に面会する前、蒙古人として銃殺する準備をして居たと云ふ事である。しかしながら最早日本領事館に判つた以上、国際上後難を怖れ、その夜は決行に至らなかつた。書記生が日出雄等に面会してより漸くにして縄を解き、各々足枷を入れられ、日出雄と守高、井上と萩原、真澄別と坂本と三組、二人づつ手枷で連がれ、便所へ行くにも弾丸をこめた兵が銃剣を擬して警戒し、巡警は弾込め銃を持つて、大小便ともついて来た。
 その翌日、居留日本人会長太田勤及び満鉄公所の志賀秀二の二氏が面会に来て、種々支那官憲と交渉した結果、漸くにして手枷のみを解かれる事となつた。四五日経つた時、日本より広瀬義邦が水也商会の小野某と共に公署を訪ひ日出雄に面会し、かつ太田、志賀の両氏に金を預けて日出雄等一行の凡ての差入れを依頼した。それまでは日出雄一行は支那食の高粱飯に不味い味噌をそへて食ひ、不自由な獄舎生活を送つて居たのである。種々の差入ものが出て来ると、支那の巡警部長は一々折箱などを開けて見ては、これは美味だらうとか、不味だらうとか云つては一口食ひ、二口食ひ、弁当の余剰つたのは餓鬼の如く争ひて食てしまふ。またビールやサイダー、葡萄酒などの空瓶が出来ると私にくれくれと、日出雄一行に頼み込んで持つて帰るのであつた。
 さうして知事や監獄長、その他から、吾々にも相当の謝礼を貰ひたい、貴方方が殺される所であつたのを、知事や監獄長の斡旋で生命が助かつたのだ、と公然賄賂を要求する。日本の警察官に比ぶればその卑しい事、品格の下劣なること、口卑しい事など、到底内地人の想像せられぬほどである。巡警部長の王某は親切に日出雄の垢の付いた足を湯で洗ひ、肩を揉みなどして親切に介抱をし、
『大人が日本に帰らるる時は私も連れて帰つて下さい、巡警を止めて大本の信者となり、お庭掃除でもさして頂きたい』
と頼み込むのであつた。日出雄は、
『奉天に着いた上、模様によつて電報を打つから、電報が届いたら奉天まで出て来い、日本へ同道する』
と云つてやつたら、王部長は非常に喜んだ。国際法によつて領事館から引渡しを要求した時は、二十四時間内に引渡すべきものなるに、二十一日の夜から三十日まで十日間パインタラに繋いで置いたのは、余程日本領事館と支那官憲との交渉が六ケ敷かつたためであつたとの事である。
 四五日経つてから日本人一同は通遼県知事の法廷に引出され、日本語の通訳官を介して取調べを受けた。この取調の要点は、日出雄の名刺に素尊汗と書いてあるが、汗と云へば蒙古第一の王の名称である。また出生地が蒙古の国としてあるが、蒙古は支那の版図であつて、蒙古国と云ふ国名は無い筈だ。汝は盧占魁を使嗾して宗教を表に蒙古独立を企てたのであらう、と云ふのである。日出雄は平然として、
『自分は支那の新宗教道院の宣伝使だ。蒙古の地に宗教を宣伝するの特権を持つてゐる。さうして蒙古の国と云つたのは別に深い意味があるのでは無い。我々日本の国には八十余個の国名があり、丹波の国、丹後の国、山城の国などと小区劃に国名を呼んで居る。さうだから支那の一区域たる蒙古を蒙古の国と書いたのだ。自分は蒙古のみならず、新彊、印度、西蔵、支那は云ふに及ばず、露西亜、西比利亜を経て欧羅巴の天地にまで宗教的王国を建設するのだから、小さい蒙古などに執着して居るのではない。さうして宗教は国境を超越して居るのだ』
と述べた所、知事は二三回うなづいて、日出雄を獄舎に帰した。次には真澄別以下の五名は一人づつ引き出されて取調べを受けたが、真澄別は憤然として知事その他の訊問官に向ひ、
『吾々を馬賊とは怪しからぬ、貴官は盧占魁を馬賊と云はれるが、彼と久しく行動を共にして見て居たが、彼には少しも馬賊的行為は無かつた。それよりも支那官兵は自分等の所持金を掠奪し、その他一切の所持品を盗み取つたではないか。泥棒する者を官兵と云ひ、泥棒せない者を馬賊と云ふのか、張作霖だつて、その他有名の督軍だつて元は馬賊ぢやないか、自分を馬賊と云ふのならそれでよい。まづ馬賊の定義から聴かして貰ひたい』
と云ふ。萩原もまた真澄別と同じ事を云ふて知事その他を手こずらす。
 次に守高、井上、坂本の三人に対し、武器を携帯して居ただらうと厳しく訊問した。何れも日出雄先生のお弟子であつて宗教家だと云ひ抜け、やつと公署の調べも済んだ。それから一行六人は足枷を篏められたまま、門口に並べられ一葉の写真を取られた上、その翌日六月三十日荷車三台に載せられ、銃剣をつけた兵士六名に送られて汽車に乗り、鄭家屯道尹に護送され、次で同地の警官教習所の拘留所や警官室に足枷を篏められたまま分置せられた。其処へ横尾敬義、井口藤五郎の両人が見舞に来て日出雄一行を慰めた。其処で再び道尹の取調べを受けたが、尋ねる事も、答へる事も、白音太拉と同様であつた。
 七月五日の夕暮、鄭家屯の日本領事館に引き渡さるる事になつた。別れに臨んで道尹の高等官以下十数名は、墨と筆とを用意して日出雄の揮毫を乞ふた。日出雄は快く彼等の請求に応じ、腕を揮ふて大小数十の文字を書き与へた。夜の十二時頃日本領事館の手に渡り、一応の取調べを受け、領事館にて久し振りで湯を使ひ垢を落し、監房に一夜を明し、翌六日通常服の領事館の警察署長以下五人に送られ奉天総領事館に収容された。その時既に名田彦、山田、小林の三人は収容されて居り、しばらくして大倉が這入つて来て都合十人になつた。取調べの結果三ケ年の退支処分で一件落着した。
 これより先、日本から中野岩太、隆光彦の二人が役員信者代表として出張し、差入れ物その他について奉天支部の西島と共に奔走した。
 七月二十一日三浦検事外三名の警察官に送られ大連の水上署に着き、この地よりまた二名の警官に送られ、ハルピン丸にて門司に着いた。航海中日出雄は船長以下乗客の依頼に応じて大本教義に関する演説をなし、沢山の揮毫をし、数多の信者に迎へられ、日本の玄関口に安着したのは七月二十五日の午前であつた。その光景は恰も凱旋将軍を迎ふるが如き有様であつた。

(大正一四・八 筆録)



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