出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語NM-5-311925/08入蒙記 強行軍王仁三郎参照文献検索
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第三一章 強行軍

 岩窟の附近もホノボノと明け初めた頃、馬を飛ばしてやつて来たのは萩原である。
萩原『昨晩真澄さんからのお知らせによつて早速引返さうかと思ひましたが、どう云ふものか道筋が真暗で馬が一寸も進みませぬので、漸く只今参りました。昨晩は人家が四五軒あつたため、却つて混雑してゴタゴタしてゐましたから、お越しにならなかつた方が好都合でした』
坂本『ヤツパリ神様は前途が見える哩』
萩原『岡崎さんは非常に憤慨して盧占魁に当り散らしてゐましたよ。それから名田彦さんは病気で困つて心細がつて居ましたが、何でもポツポツ歩行いて引返して来るらしかつたですよ』
日出雄『そら可愛相だ。オイ白凌閣、馬を曳つて名田彦さんを迎へて来い』
 白凌閣は直ちに駒に跨り、守高の乗馬を名田彦の迎へ馬として引具し駆け出した。それと入れ違ひに、五六頭駒の頭を立て並べて疾駆し来たのは、盧占魁とその副官連とであつた。盧は直ちに日出雄の側に行き叩頭して何事か弁じたが、生憎この場には山西省訛りの彼の支那語を通訳し得る者がなかつたが、要するに『露営に適当の場所を選定するために急いだので、無断で行つたのは誠に済まなかつた。軍の整理もせねばならず、混雑してゐるから、自分の心裡を察して一緒に進んで貰いたい』といふ意味であつたらしい。日出雄はただ、
『御苦労であつた』
との一言を残し、真澄別、守高を伴ひ岩山の頂上に登り、東天に向つて祝詞を合奏し、萩原をして記念の撮影をなさしめ、悠々として朝食を喫した。盧は再び日出雄の側に寄り懇願の意を表すると、日出雄も諾きながら馬に跨つた。
真澄別『先生、またお進みなさるのですか、巧く話して別行動を取らうではありませぬか』
と引止むれば、
日出雄『折角盧も懇願するから皆の居る所まで行つてその上の事にしよう』
と出発を急ぐ。名田彦は山田と共に轎車に便乗し、司令部駐屯所まで進む事となつた。
真澄別『チエツ盧氏に曳かれて善光寺参りか』
と呟きながら、日出雄が盧に促され砂煙りを立てて馬を急がすのを見送つた。途中まで出迎へに来た猪野軍医長と轡を並べ、何事か語り合ひつつボツボツ進み行く。
猪野『二先生、盧占魁を力にして居ては前途心細い事はありますまいか。岡崎さんは、現状では危くて仕方がないから、何とか方法を講じて来ると云つて、包団長の轎車に同乗して先程出発しましたよ』
真澄別『とに角神様からの第一命令が盧占魁に下つたのだから、安全に入蒙出来たのは盧占魁の活動ぢやないか』
猪野『昨晩から段々兵隊も減るやうだ……盧の命令は少しも権威がありませぬ。これ位な部隊の統一が出来ないやうでは不安で堪りませぬ。ヤハリ最初岡崎さんの計画で奉天へ日出雄先生のお住居まで用意して居つたと云ふ趙倜や趙傑をお利用になつた方が良かつたらうと思ひますが、どうでせう。岡崎さんも切りにさう言つて居られましたよ』
真澄別『神様の思ひと人間の想ひとは大変な相違のあるもので、実際人間には善悪正邪を批判する資格もないのだから、要するに盧占魁は盧占魁としての使命があり、劉陞山には劉陞山としての使命があつて従軍してゐるのだから、最後まで行かなきやその真相は分るものでないよ。マア行く所まで行くのさ』
猪野『全く劉が却つて盧に命令するやうな傾向ですよ。劉の隊は人数も一番多いし武器も揃ふてますからなア。私は何だか危険味を感ずるので、一度洮南へ帰つてみたいやうな気が致しますが如何でせう』
真澄別『それは大先生に伺つてお定めなさい。私としては何れとも御勧めする訳には行かない。私は大先生自身を神と信じて居るので、仮令自分の考へと違つた言行が大先生にあつても、何事もその舞台々々の筋書は神様でなくては判らぬから、大先生に対し維れ命維れ従つて行くのだ。何だか最前の岩窟から前進するのは厭で仕方がないけれども、大先生がああして盧と一緒に進まれるのだから神に任せて行くのですよ』
猪野『そんなものですかなア』
と腑に落ちぬ顔色で従ひ行く。この時の司令部の駐屯所は熱河の最北部に在る民家で、輓近大英子児が活動の根拠は、右の岩窟の附近だといふのも何等かの因縁事であらう。さて日出雄一行の到着した司令部は兵員整理のため如何にも混雑中で、岡崎は包金山と共に応援軍組織のため奉天に向つた後であつた。茲で陣容は一新され、乗馬や銃器の調のはざるものは、それぞれ旅費手当を給与して帰還の途に就かしめる事となつた。盧の実弟盧秉徳、名田彦、山田、小林善吉その他支那人二名は、洮南より来れる二台の轎車に分乗し、強行軍に邪魔になるやうな携帯品をも積み込み、四百余支里の距離と称せらるる洮南に向つて帰奉の途に就いた。この一行は後に至り突泉にて支那官憲の手に捕へられ、盧秉徳は洮南において銃殺せられ、日本側三名は領事館渡しとなつたのである。
 或る民家の一室には、真澄別が日出雄の意を受けて劉陞山と筆談を交換してゐる。その意味は左の通りである。
真澄別『一体この部隊はこれから何方へ行く事になつてゐますか』
劉『物資の豊かな綏遠で冬籠りをするのだと云つてゐますから、先づ察哈爾へ向ふのでせう。それに就てはこれから三百支里ほど行つた所で、開魯の兵と一戦せねばなりませぬから、此処で可成り手足纏ひを少なくするやうに計つたのです』
真澄別『あなたは何処までも盧司令と行動を共にするお考へですか』
劉『大体私は何も知らずに参加したのです。奉天第一師長の李景林から、鄭家屯の闞旅長に手紙をやつた結果、闞中将も君等を保護すると云つてるから、早く索倫へ行つて盧占魁の軍に参加せよとの事でしたから、実は盧軍の目的も何も聞かず、好きな道だから、早速手兵を率れて参加した次第ですが、私はとに角大先生を中心にして何処までも押立てる考へで居ります。おゝ司令も其処へ見えました』
 盧はこの時微笑しながら入り来り、
盧『これで武器を携帯した騎兵のみ五百騎となりました。こんな所に駐屯して居ても仕方がありませぬから、今少し兵糧の得られる所まで参りませう。大先生は今日から轎車に乗つて戴く事に致します』
とて直ちに出動の用意を整へた。劉陞山の部隊は先鋒に立ち、日出雄は自分の手廻り品と盧の貴重品を積み合はした轎車に乗り、盧占魁自ら馬を馭し、守高並に二三の支那将校は日出雄の轎車に附添ひ護り、真澄別は或は先頭に或は後方に出没して全軍を見守り、萩原は写真機を肩にして自由に飛び廻り、茲に西南に向ふて強行軍が開始せられることとなつた。但し宿営の場合には、日本人一同日出雄の側に集り一団となる事は忘れなかつた。
 六月十一日(陰暦五月十日)の朝、熱河区内の喇嘛廟へ到着するまでは、時に数戸の民家を中心として休息する外殆ど昼夜兼行の強行軍で、索倫より携帯せし食料は已に尽き、巻煙草一本の喫み廻しも元が切れてしまふ。盧その他阿片の嗜好者は顔色憔悴して勇気頓に衰へ、馬の斃るる者或は落伍する者漸次増加の窮境に陥つた。漸くにして喇嘛廟において炒米の供給を得、附近民家より羊を購めて全員腹を充たす事が出来たのである。蒙古内地の喇嘛廟は概して小高き丘上または山腹に建立せられ、本堂を最上中心として数多の僧坊が、それぞれ西蔵本山を模して羅列し、これを遠望すれば宛ら一大城廓の観がある。地方によりて美観壮観に程度はあるが、一般民家の茅屋もしくは羊皮天幕住居に対照して、調和の取れない事夥しい。尤もこれは蒙古民族信仰の結晶として現はれてゐるのだから批判の限りではあるまい。また炒米は日本の粟を煎つたやうなもので、そのまま食べても香ばしい味がある。お茶もしくは牛乳をブツかければ猶更喰べ易い蒙古唯一の穀物である。この日より更に方向は一転されて東南指して進む事となつた。局面は展開して、或は小砂漠、或は砂山の僅かに草木の生ひ茂れる所を横断せねばならなかつた。
 六月十三日(陰暦五月十二日)またもや喇嘛廟に宿泊する事を得たが、方向は依然東南に向ひ奉天省の勢力範囲に近づく様子なので、真澄別が盧に糺すと、
『民家の多い所へ行かねば、兵糧と馬糧が不足して、どうする事も出来ませぬ』
と力なげに答ふるばかりであつた。漸くにして十四日の夕暮に近き頃、達頼汗王府の一族と称する管内に入ると、輪奐の美を極めた朱欄碧瓦の形容詞が相当しさうな喇嘛廟と王府が、約十丁ばかり離れて対立し、外に支那風建築の民家が十数戸建ち並んで居る。盧司令は王府へ使を遣はし面会を申込むと、王は不在なりとて数人の留守居が誠に無愛想な挨拶なのに、盧も不審の思ひをしながら、西南方の谷間に民家を捜し当て、一同の宿泊所と定めた。此処の喇嘛廟は全部戸を鎖し、猫の子一匹ゐない静寂さであつたのは、頗る一同の眉をひそめしめた。
 この夜薄暗き宿営の一遇に、日出雄は何事かヒソヒソと真澄別に向ひ囁いてゐたが、ただ最後に真澄別の声として、
『洮南の御神勅に、今度の挙に必要な金は十万円だと承つて居ましたから、それ以上の金額は早く言へば死金だと私は信じてゐます。そして最後に上木局子で大石氏に迫られて、先生が矢野さんへ送金するやう依頼状をお書きに成つたなどは、全く一種の脅迫でしたね』
と聞えたのみで、あとは犬のけたたましき鳴き声に夜は森閑と更け行くのであつた。

(大正一四・八 筆録)



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