出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語NM-4-231925/08入蒙記 下木局子王仁三郎参照文献検索
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第二三章 下木局子

 五月六日(旧四月三日)日出雄は朝から晩まで達頼喇嘛の法服をつけて悍馬に跨り、大原野を馳駆した結果にや、腰を痛め、午前中は臥床してゐたが、俄に便通を催し、パサパーナのために陣営の北方なる枯草の野に出で『イリチーカ』(驢馬)の交尾する様を面白く笑ひながら打眺め、そのオチコの大なること、馬の如くなるに呆れ、従卒と共に広野に横臥して大笑ひをしてゐると、そこへ萩原敏明、井上兼吉の二名が軍用品を数台の大車に満載し、悍馬に鞭ち驀地に走つて来た。萩原が蒙古入をしたのはこの日が初めてである。萩原は洮南より索倫に来る途中、三回も落馬した失敗談を繰返して語つた。そこへ三名の騎兵に追はれて、上木局子方面から数百頭の荒馬が司令部へ着いた。これは馬の操縦に妙を得たる蒙古人であつて、その後から十数名の騎兵がこれを守りつつ進んで来た。萩原、井上の送つて来た軍需品の中には西王母の服や、数珠、払子、宣伝使服等、日出雄の必要品が這入つて居た。
 萩原はその翌日から公爺府以西で撮影した写真の現像を始めた。夜に入つて日出雄は真澄別と共に四五の護衛兵を引連れ、衛門を出て空を眺めてゐると、忽然として西北の空に大彗星が出現した。不思議にもこの彗星は三四十分の間に跡もなく消えてしまつた。護衛長の馮巨臣はこの現象を見て、『屹度明日は大暴風が起ります。あの彗星が出ますと昔から蒙古では大暴風があるのです。さうしてこの彗星は御覧の如く低空に懸つて居ります。それ故支那や朝鮮からは仰ぎ見ることは出来ませぬ云々』と説明した。
 軍司令部の編成が成つたので日出雄はしばらく小閑を得、盧占魁、何全孝、温長興、真澄別その他十数名の衛兵を伴ひ、北方の丘陵に上り、地図を披いて地形を調べてゐた。日出雄と盧占魁は山下の原野に数多の兵士が調練をやつてゐるのを望遠鏡を以て瞰下してゐたが、忽ち盧占魁は「ブウブウブウブウ」と七八弾連発的に放屁をなし、ニツコリともせず真面目な顔をしてゐる。日出雄も負けぬ気になり、盧占魁の前に立つて八九発機関銃のやうに連発したが、それでも盧占魁はニコリともせず、素知らぬ顔をしてゐる。蒙古人は人の前で屁を放ることは何とも思つてゐない。また人が屁を放つても意に介せず、日本人のやうに可笑しがつて笑ふと云ふ事はない。屁は出物、腫物、処嫌はずだ。三宝さんが欠伸した位に感じてゐると云ふ事だ。これに反して人の前で欠伸をすることは大変な失礼になり、侮辱したと云つて怒ると云ふ。処変れば品変るとは、よく云つたものである。
 一同は山を下つてある民家に立寄ると沢山の鶏が飼つてあつた、今生んだばかりの皮の柔い鶏卵が二つ三つあつた。それをその家の主人が直ぐに手に載せて日出雄の前に跪き、イオエミトポロハナ、テーハウントコ、シヤルトゲア(大活仏、鶏卵献上)と云つて日出雄に与へた。日出雄は喜んで真澄別と共に一個づつその場で吸うた。これより沢山の兵士は鶏の卵の生みたてがあれば、騎馬に跨り五六支里の処も遠しとせず、日出雄が好きだと云ふので持つて来るやうになつた。夜になると『カツコーカツコー』と云ふて彼方此方からの山林から妙な声が聞えて来る。この鳥が鳴き出すと蒙古人は粟や高粱の種を蒔き初めるのである。昼は真澄別が日出雄の認めておいた日記や支那字で作つた小説等を読んで日出雄の無聊を慰め、守高、坂本は日出雄の手足を揉んだり、日出雄の日記を浄写したりしてゐた。名田彦は公爺府以来、日出雄の頭髪を揃へたり、顔を剃つたり、洮児河で捕獲して兵士が送つて来た『トーラボー』と云ふ魚を料理し日出雄一行に勧めて居た。
 蒙古兵、支那兵は昼夜間断なく、交る代る、日出雄が住宅の入口に二名づつ立つて護衛してゐた。時々角砂糖や飴を日出雄の手から貰つて子供の如くに喜んでゐる。日出雄は沢山な腕時計を奉天より送らせ、護衛兵一般に一個づつ与へ、支那製の巻煙草二十本入りを一人に二個づつ日々に与へてゐた。さうして食料は支那米やその外昆布、和布、いろいろの缶詰、鯣等を沢山に持つてゐたので、盧占魁の司令部に居つて不味い高粱の粥を食はされてゐるのに比し、非常に結構だと云ふので日出雄の護衛にならむ事を希望する者、日々に殖えて来て、盧占魁も大いに閉口したと云ふ。そして日出雄の希望によつて白馬のみを集め、護衛兵全部は白馬隊の如き感があつた。
 五月十一日(旧四月八日)は日出雄が出国以来、満三ケ月に当る吉日である。日出雄の元気は最も旺盛にして、朝早くから原野に出で、乗馬姿の写真を撮影したり、または野に火を放つて興に入つたり、コルギーホワラ、チチクの咲き誇つた花の野に寝転んだり、兎を追ひ出したり、太陽の傾く頃まで遊んで帰つて来ると、蒙古の土人が鶏を四五羽持つて日出雄に面会を求めて来た。日出雄は鶏を贈られた厚意を謝し、蒙古人の額に手を軽くあて、洗礼を施してゐると、そこへ公爺府の協理や主事が二十人の騎兵を引率し、日出雄及盧占魁に挨拶のために訪ねて来た。さうして老印君等は何処までも盧に従軍せむ事を願つて已まなかつた。日出雄は此処でも沢山の歌を詠んだ。その一部を左に紹介する。

 駒並めて木局の荒野を進み行く吾軍卒の姿雄々しき
 シヤカンメラ(白馬)轡並べて進み行けば神代に住める人の心地す
 村肝の心もみつつ吾軍師洮南あたり進むなるらむ
 官兵の出馬と聞いて吾同志索倫入りに悩むなるらむ
 数千里山河隔てて吾は今木局子の野辺に駒に鞭うつ
 バカホンナお留守にお山の大将を気取りて神を汚す枉あり
 新緑の絹をまとひて今頃は日本の山野栄えぬるらむ
 はや初夏の頃とはなれど蒙古地は春の初めの姿なりけり
 雲の窓明けて覗きし月影は一入清く神軍を照らす
 バラガーサ、ホントルモトの茂りたる林に駒を鞭ち遊ぶ
 雪解けて川水日々に増し行けば少時木局子に駒を駐むる
 枯山は日々に青みて水ぬるみオブスレブチもホラに茂り行く
   ○
 五月十三日仏爺喇嘛部下の喇嘛僧三人と兵士数名を従へ、司令部に日出雄を来訪したので、日出雄は真澄別をして接見せしめ、喇嘛教との提携を約さしめた。旅長張彦三は数多の兵を率ゐて上木局子に進軍した。これは日出雄の宿営地を調査せむがためであつた。蒙古には仏爺喇嘛即ち活仏と称するもの約一千人ありと云ふ。同日洮南府長栄号主任三井寛之助及佐々木より、一千の官兵、馬賊討伐のため進軍中なれば日本人の索倫入は大困難なりと報じ来る。盧占魁の進言により日出雄は上木局子へ進出する事に決定した。
 この時王元祺は左の詩を作つて日出雄を讃歎した。

 救世至尊  弥勒為心
 無分貴賤  一視同仁

(大正一四・八 筆録)



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