出口王仁三郎 文献検索

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物語NM-3-171925/08入蒙記 明暗交々王仁三郎参照文献検索
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第一七章 明暗交々

 日出雄が公爺府の協理老印君の包に宿泊する事三日の後、隣家の丑他那寸止と云ふ人の家を開放して一行の宿泊所に宛てられた。
 遠近の淳朴なる蒙古人は『ナラヌオロスン、イホエミトポロハナ、イルヂエー イルヂエー イルヂエー』と云つて慕つて来る者日々にその数を増加するのみである。
 右の蒙古語を訳すれば、日出国の大活神来れり、との意味である。
 各人喜んで鎮魂を乞ひ、この国にて最も多い眼病、皮膚病を初め胃病、梅毒、歯痛、脳病の治療を受け、全快して神徳を感謝し大活神と崇敬して居る。眼病、皮膚病、梅毒等は共に不潔から来たのが多く、また花柳病の伝染するものと云ふ事は少しも悟らない。単に乗馬の結果と心得、病毒の伝染に任せて居るのである。殊に喇嘛僧の梅毒に罹つて居るものは殊の外多い。蒙古の婦人は沢山に宝石や大きな真珠を頭に飾つて居るが、何れも遼河や黒竜江中に蕃殖した直径一尺余りもある烏貝の中から採取したものである。蒙古人は貝類を食料とせないので、幾百千年を経た烏貝が棲息して居るのである。蒙古人の食料は支那内地に接近した東蒙古方面では、高粱に大豆、粟、豚など支那人に似た食物を摂つて居るが、奥地の純蒙古地帯公爺府あたりでは牛乳と炒米を常食にして居る。これに肉を加へ雑炊にして食ふ事もあるが、肉を混ぜるは最も上等の部である。普通一般の家では肉なぞの贅沢品は滅多に食はないのである。米利堅粉でウドンを拵へ羊の肉を混ぜて食ふのが第一番の馳走である。牧畜が祖先以来唯一の事業で、随つて牛や羊の乳汁が豊富であり、日々の食料に供して居る家も多い。彼等は日本人の如く牛乳を沸かしては呑まず、冷たいままで呑み、また色々の料理に作り分けてゐる。先づ牛乳壺の上部に浮いた脂肪分からバターを採り、下部に沈澱したものはこれを布の袋に入れて汁を壺に落し、袋の中に溜つた糟を固めて牛乳餅を作る。これを奶豆腐と称へて居る。保存に便なる所からある地方では主食物となり、菓子の代用品ともなり、時としては貨幣の代りとし物々交換の単位ともなり、実に重宝なものである。またバターと奶豆腐とを採つた残りから酸乳が取れ、炒米に注いで食ふべき唯一の調味料となるのである。右の外牛乳を蒸発せしめて牛乳酒を造る。牛乳と炒米ばかりを年中食つて居ながらも蒙古人は体格が頗る立派である。また蒙古人は支那人の如く一切野菜を食はない、家畜が多いため野菜が育たないのが一つの原因かとも思はれる。而かも壊血病に罹らぬのは草を常食とする牛の乳を主食としてゐる結果である。かくの如く牛は蒙古人に取つての生命の母であり、馬は総ての交通機関である。南船北馬といふ言は北大陸の蒙古へ来て初めて知らるる言葉である。
 一日蒙古人の丑他那寸止や王得勝など云ふ公爺府の兵士や、副官の温長興と倶に公爺府の裏山へ兎狩に出掛けた。兎狩の道具は一尺五寸ばかりの先の曲つた棒で、その尖端に三寸ばかりの紐を結び着け紐の尖に一塊の鉄の重りが付いて居る。兎の飛び出すのを待つてこの棒を巧妙に投げ付ける。さうすると棒の尖にブラ下つて居る鉄片が、グルグル舞ひながら兎に当ると紐が捲きつく仕組である。蒙古人は煙管や火打石と共に七ツ道具の一として常にこの棒を携帯して居るのである。しかし蒙古犬の四五匹を以て兎を囲む時は容易に捕へる事が出来るのである。
 日出雄は温長興、岡崎鉄首と倶に国見山に登らむとした時、シーゴーと称する蒙古特有の猛犬に包囲され、噛み付かれようとしたので、副官の温長興、岡崎鉄首の二人が、洋杖を振り上げたり石を拾つて打ち付けたりなど防戦に努めた。ワンワンと吠ゆる猛犬の声を聞き付けて瞬く間に遠近より数十頭の猛犬集り来り、三人を十重二十重に取巻き牙をむき出して飛びかかつて来るその恐ろしき勢を物ともせず、二人は一生懸命に闘つて居る。日出雄も一生懸命になつて祝詞を大声で唱へると、大きな日本人の声音に辟易してか、さしもの猛犬も尾を下げて四方に散乱してしまつた。これより当地の犬は三人を見ると尾を下げて小さくなつて逃げるやうになつてしまつた。
 守高は公府の役人の家へ病気鎮魂のため、稍遠方の家へ出掛けた、其処へ鎮国公より重役が来て、失礼ながら日出国の大活仏様に来館を願ひたいと申込んで来た。日出雄は通訳と共に早速公爺府内に出て行つた。鎮国公は大に喜んで通訳を介して種々の談話を試み、かつ今回の入蒙に就ての経緯を尋ねるのであつた。王元祺は内外蒙古救援の義軍を起す事を諄々として説いた。王は非常に喜びその好意を深く感謝した。そして力一杯の馳走をして日出雄を待遇したのである。東西二百里、南北八百里の地積を主管する公府の王様が態々日出雄の住居を訪ひ、今また再び慇懃に日本国の大宗教家として且貴人として迎へられた事は、日出雄に取つて異様の感に打たれた。内地であつたならば地方の官吏さへ、なかなか威張り散らして日出雄を馬鹿にして居る傾向があるのに比べて、感慨無量であつた。蒙古は未開国とは言ひながら、上下の民がよく親和し、恰も神代の俤を偲ばせる、その容貌も日本人に酷似し日本人を唯一の力と頼む風がある。日本人は蒙古人とその祖先を一にし、源義経の子孫が皆蒙古一百六人の王に成つて居るのだと彼等は信じ切つてゐるのである。
   ○
 岡崎は蒙古人に対し、支那語を以て、愈蒙古を亡国的運命より救ひ出し、大庫倫に駐屯せる赤軍を兎を逐ふやうに追ひまくり、大庫倫において新蒙古王国を建設し、支那、満州、西比利亜を席捲して、日本及蒙古男子の真価を天下に発表する積りだ。なアに、大鼻子だつて、支那人だつて、日蒙両国民が一致すれば直ぐに凹んでしまひますよ、アハヽヽヽ……。などと万丈の気焔を吐いて独り悦に入つてゐる。この話を公爺府の重役が心配相な面して側に聞いてゐたが、すぐに老印君を招いて、鎮国公の館にあわただしく駆けつけて行つた。二三時間ばかりして、老印君は六ケしい面をして帰つて来た。そして岡崎に向ひ、
『日本の方々は東三省の護照を有つてゐますか、護照の無い方は一日も此処に居つて貰ふことは出来ませぬ。殊に蒙古の独立などを企てる人を世話することは出来ぬ、王様初めこの白髪首まで飛んでしまひますから……。蒙古へお出でになるのなら一度奉天まで帰つて護照を貰つて来て下さい』
と態度をガラリと変へてしまつた。温長興はこれを聞くや大に怒り、
『怪しからぬ事をいふ爺だ。盧司令から吾々一行を世話するために沢山の金を頂いて来ながら、今となつて斯様なことを老爺の口から聞くとは不都合千万だ。その上吾々をこんな陋屋につツ込み、南京虫責めにあはしよるとは何の事だ。ともかく一応奉天まで帰つて、司令と談判して来る』
と息巻いてゐる。老印君の態度が一変したのは岡崎の大言壮語が祟つたのである。鎮国公はじめ重役連は支那政府や張作霖を怖れたからであつた。岡崎はまたソロソロ不平を洩らし出した。
『一体盧占魁といふ餓鬼や、俺をこんな奥の方へ突込みよつて、佐々木や大倉と腹を合せ、先生はじめ吾々日本人をペテンに掛けよつたのだらう、ようしツ、俺にも考へがある。これから奉天へ帰つて何もかも盧の秘密をすつぱ抜いてきます。また佐々木、大倉の奴め、洮南以西は馬賊が徘徊するから、一切の荷物や金銭などは一銭も携帯してはならぬ、曼陀汗や老印君に金子が渡してあるから、一切万事不自由のないやうにしてくれると吐かしよつたが、このザマは何だ。毛布一枚あるでなし、南京虫の巣窟にアンペラ一枚布いて寝られるか、そして金子を一文も持つて行くな、など吐しよつたが、先生がそれでもチツトばかり懐にソツと入れて持つて来て下さつたお蔭で、鶏卵も買ひまた旅費も出来たのだ。彼奴等の云ふ通りにして居つたなら、自分等は蒙古の奥で餓死するより仕様がないのだ』
とブウブウ云ふて怒り出す。しかし岡崎の怒るのも無理はない。温突は焚いてあつても毛布一枚ないので、外套をかぶつて、夜は寝るといふみじめな有様であつた。日出雄が洮南府で二万円の旅費を懐中し、日本人一行の費用に充てむとしたのを佐々木、大倉、唐国別から色々と説きつけられ、遂に彼等に渡して終つたのであつた。ともかく温長興を馬で走らせ、洮南府の真澄別一行に面会させ、公爺府における一行の現状を報告せしめ、一日も早く荷物一切を送つて来て貰はねば、どうする事も出来ないといふ手紙を持たせて出発せしむる事に定めた。
 王元祺は朝から晩まで蒙古人の家に行つて麻雀と云ふ賭博に耽り、少しも通訳の用をしない、一言いつても直ぐに腹を立て、
『私はお間に合ひませぬから帰らして貰ひます』
など、足許を見込んで駄々をこねるので、日出雄も大に困り、筆談を以て白凌閣を介し、蒙古人との一切の交渉に当らしめてゐた。守高は得意の柔術を蒙古人に寒い風の吹く戸外で教へてゐた。一見しても一癖あり相な武術面をしてゐるので、蒙古人は薄気味悪く感じてゐたけれ共、物珍らしさに一二回の柔術の稽古をやつて見た。守高は……こんな野蛮国の人間には自分の力を見せておかねば軽蔑されると云ふ考へから、蒙古人の手首の急所を力一杯掴み締めたので、蒙古人は青くなつてヘタバつた。それを蒙古人は柔術の手といふ事は知らず、かつ言葉の通じない所より非常に守高を悪党と誤解し、村中の蒙古男子が王得勝の家に集まつて、暗夜に乗じ守高を鉄砲で討ち殺さうといふ相談を定めた。白凌閣は蒙古人の事でもあり、その相談の結果を心配して日出雄に密告した。そこで日出雄は王得勝に腕時計や若干の金子を与へ、白凌閣を介して柔道の大略や守高の好人物たる事を云ひ聞かせたので、蒙古人も漸く了解して、守高に対する悪感は稍薄らぎ、幸に無事なるを得たのである。この時の日出雄の心配は一通りではなかつたのである。
 老印君は温長興のきびしき追撃に堪へかねて、俄に自分所有の新宅に日出雄一行を移転させる事とした。老印君の宅から西南に当り殆ど五丁ばかりの距離がある。まだ壁も十分乾いてゐないので、盛んに楊の枯枝を燃やして室内の乾燥を図つた。そして牛車一台の薪は五十銭であつたが、壁を乾かすのに二台ばかりの薪をくすべてしまつた。漸くにして四月四日(旧三月二日)新宅に移転し、ヤツト一安心した。そして温長興に手紙を持たせて、盧占魁や日本人側へ公爺府における困難の事情を報告せしめ、且真澄別一行の一日も早く着府するのを待つてゐる事を伝へしめた。温長興は駒に鞭ち勢ひよく洮南を指して駆け出した。ところがその日の午後六時頃望遠鏡を以て洮南方面の原野を眺めてゐると、四台の轎車がまつしぐらに馳けて来るのが目についた、よくよく見れば真澄別の一行が沢山な荷物や食料を満載して来るのであつた。この時の日出雄、岡崎の喜びは一通りではなかつた。
 一同は地獄で仏に会ふたやうな心持になつて打喜び、互に嬉し涙に眼を曇らした。沢山の荷物や食料が来たので老印君は驚いたと見え俄かに日本人に対する態度がガラリと変つて来た。考へて見れば老印君の日本人一行を疑つたのも無理はない。何れも北国雷で何一つ目ぼしい携帯品もなく、どこの落人が出て来たか分らぬやうな体裁だつたからである。老印君が狡猾で知らぬ顔をしたのか、但しは日本側の三人組が日出雄一行をだまして奥へやつたのか合点が行かぬと、一行は怪しみに堪へなかつた。そして老印君に対する悪い感情も次第に剥げて来た。真澄別に従つてやつて来た日本人は名田彦、猪野敏夫の両人であつた。
 これより先き黒竜江方面の馬賊団の頭目と称する団栗眼の物騒な面した男が三人岡崎の許へ尋ねて来て、自治軍に参加させてくれないかと掛合つた。岡崎は早速手紙を認めて盧占魁と佐々木へ宛て相談に向はしめた。

(大正一四・八 筆録)



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