出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語NM-3-151925/08入蒙記 公爺府入王仁三郎参照文献検索
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第一五章 公爺府入

 日出雄と守高は平馬氏の宅に暴風を避け、真澄別以下五人は猪野敏夫氏の春山医院に陣取つていろいろの豪傑話に耽り、守高は柔術の実習や講演をやつて、大にメートルを上げてゐる。そして守高は摩利支天、名田彦は一億円、真澄別は泰然自若、岡崎は霞ケ関と云ふ仇名をつけられた。猪野は鄭家屯の日本坊主を殴つた話や、大川金作のローマンスの追懐談に花が咲いて居る。そして東三省一の美人と云ふ支那芸者が猪野に秋波を送つた事などを気楽さうに喋舌り立て、春の陽気を漂はしてゐる。朝から晩まで摩利支天に一億円、山田に王元祺等の豪傑連が柔道の練習をやつてゐたが、日出雄が行くと直ぐに中止してしまつた。副官の秦宣はオチコの棒に吹出物が発生し、膿汁を拭いた手も洗はずに食器をいぢるので病毒が感染する等と云つて日本人側に嫌はれてゐた。
 愈公爺府入りが定まり、順路の地図を、支那の某将校から借り来り、王府まで二百支里、最高山の北だなどと、頻りに地図に眼を注いだ。眼鬼将軍の岡崎は佐々木や大倉のやり方について大変な不平を洩らし、
『先生を中途まで送りとどけた上、一度奉天へ帰つて彼等二人のやり方を調査する積りだ。万一彼奴等がようやらぬのなら、自分は北京へ行つて呉佩孚や趙倜と会つてこの大事業を成功させる……』
等と捨鉢を云つてゐる。時々風の吹廻しが悪いと変な事を云ふので日出雄も困つてゐた。
 葛根廟には馬賊の根拠地があつて大集団をなしてゐるさうだ。近日の中に女の隊長が洮南に向つて襲来するとの急報に、支那の官憲や駐屯軍が驚いて、騒々しく動揺し初めた。
 三月二十二日の午後四時頃、王天海は蒙古の隊長張貴林や公爺府の協理老印君と共に着洮した。そして愈奥地入りの準備にとりかかつた。張貴林は日出雄に向つて云ふ。
『この先には数千の馬賊団が横行してゐますが、何れも自分の部下ばかりだから、決して先生に害を与へませぬ。私は今回自治軍の旅団長に選まれましたから、安心して下さい。蒙古男子の一言は金鉄より堅うございます。先生のためには一つよりない生命を擲うつてゐるのですから』
等と云つて勇ましく腕を撫してゐる。
 しばらくすると佐々木、大倉の両人が日出雄の奥地入りを送るべく、遥々奉天からやつて来た。さうして岡崎と議論の衝突を来たし、岡崎の機嫌がグレツと一変し、
『俺はこれから奉天へ帰つて張作霖を叱りつけ、自由行動を採つて見せる……』
と頑張り、サツサと停車場を指して出て行つた。佐々木が驚いて停車場へ駆けつけ、危機一発の発車間隙に漸く岡崎を和め、連れて帰つて来たので一同は漸く安心した。
『乾坤一擲の大事業を策しながら、今から内輪揉めが出来ては到底駄目だ。満州浪人は大和魂が欠けてゐる。あゝ自転倒島では思慮浅きもののために過られて身の置所なき破目に陥り、今また蒙古の野に来て日本人のために過られ、千仭の功を一簣に欠くやうな形勢になつて来たのも、小人物の小胆と高慢心と自己本位の衝突からである。少し位の残念口惜しさが隠忍出来得ないやうな事で、どうしてこの大事業が成功するか。真澄別もあまり泰然自若すぎはせぬか。この際両方の調停を計らねばなるまい……』
と日出雄は吾知らず呟いた。真澄別の仲裁によつて同志の間は、もとの平和に帰し、岡崎も再び駒の首を立直し、奉天帰りを思ひ切り蒙古の奥地へ侵入する事をやつと承諾したのである。

 待ち佗びし吉き日は今や来りけりいざ起ち行かむ蒙古の奥へ

 日出雄が洮南在留中沢山の詩歌を詠んだ。その中の数首を左に、

 十二日過ぎてゆ陽気一変し春立ち初めし心地しにけり
 洮南は安全地帯と思ひきや馬賊の横行いとも烈しき
 総司令一日も早く来れかし汝を待つ間の吾ぞ淋しき
 十四夜の月照る下の蒙古野に円を描いて小便をひる
 国人に一目見せばや蒙古地を照らす御空の珍の月影
 山も海も見えねど蒙古の大野原行く身は独り魂躍る
 天か地か海かとばかり疑はる蒙古の広野にひとり月澄む
 月見れば心の空も晴れ渡り天国にある心地こそすれ
 スバル星西に傾き初めてより早や地の上に霜は降りける
 ドンヨリと曇りし空に日は鈍し小鳥の声も頓に静まる
 支那蒙古日本の人も吾ために心砕きて守る嬉しさ

 三月二十五日の早朝、支那旅宿義和粮棧から老印君、日出雄、岡崎、守高、王通訳は三台の轎車に分乗し洮南北門より馳走し、洮児河の橋を渡つて北へ北へと進み行く。寒風烈しく吹き来り轎車は顛覆しさうな危険を感じて来た。副官温長興は数名の兵士と共に騎馬にて前後を守り行く。途中守高の乗つてゐる轎車が路傍の溝の中へ顛覆し、守高、王通訳は溝の中へ投げ落され、馬夫と共に轎車を道路へ引き上げてゐる。その日の午前十一時に六十支里を経た三十戸村に着き、此処にて昼飯をなす事とした。ここには支那の警察もあり、兵営も建つてゐる。旅宿の家の柱には「莫談国政」と云ふ赤紙が貼りつけてある。これも専制政治の遺物だらう……。此処まで来る途上、轎車の中で日出雄はセスセーナ(放尿)を煙草の空罐になし、車外に捨てようとして、岡崎の支那服の上に零した。あまり寒気が酷しいので、忽ち膝の上で凍つてしまつた。岡崎は小便の氷を手に掴んでゲラゲラ笑ひながら道路に投げ捨てた。旅宿に着いて雲天井の大便所へ行くと、毛の荒い汚い豚の子が半ダースばかりも集まつて来て肥取人足の役をつとめ、遂には尻まで嘗めあげる。その可笑しさに日出雄はゲラゲラ吹き出してゐる。午後十二時四十分再び乗車、何十間とも知れぬ広い幅の大道を愉快さうに進んで行くと、茫漠たる大荒原の前方に当つて黒ずんだ一の山が見えた。これは北清山と云ふ、さうしてこの辺には半坪か一坪ばかりの神仏の館が、彼方此方に建つてゐる。これは蒙古人が信仰の表徴となつてゐるのだと云ふ。
 同日午後五時、七十戸村の催家店と云ふ牛馬宿に足を停めた。洮南からは百二十支里を離れてゐる。沢山の支那人の合客が泊つてゐて喋々喃々として賭博をやつて居る。翌三月二十六日朝五時出発の予定であつたが、二十支里ほど前方に当つて官兵と馬賊との戦ひがあり、連長が戦死した場所であるから、朝早く出立するのは極めて危険だとの宿の主人の注意によつて、八時に此処を出発する事とした。
 正午前八十支里を馳駆して王爺廟の張文海の宅に着いた。王爺廟の喇嘛僧は三百人ばかり居る。珍らしき日本の喇嘛僧来れりとて三百の喇嘛が、一人も残らず日出雄に挨拶に出て来る。そして里人や子供が珍らしげに集まつて来た。日出雄は携帯して来た飴を一粒づつ与へた。喇嘛も里人も地上に跪いてこれを受けた。大喇嘛は部下に命じ洮児河の鯉を漁らせ、七八寸から一尺五六寸位のものを八尾ばかり持つて来て日出雄に進呈した。これが本年に入つて初めての漁獲だと云ふ事である。
 午後二時日出雄が王爺廟を出発せむと轎車に乗つてゐると、大喇嘛が牛乳の煎餅十枚ばかり持つて来て日出雄に贈つた。釈迦が出立の時、若い女に牛乳を貰つて飲んだ事を思ひ出し、日出雄は蒙古の奥地へ来て直ぐに喇嘛から牛乳の煎餅を貰つた事を非常に奇縁として喜んだ。この時日出雄の左の掌から釘の聖痕が現はれ、盛んに出血し淋漓として腕に滴つた。しかし日出雄は少しの痛痒も感じなかつた。
 洮児河の氷は処々解け初め、その上を轎車が通過する危険さは実に名状すべからざるものがあつたが、何の故障もなく天佑の下に無事通過し、王爺廟の兵士や張桂林の馬隊に送られかつ張文海の弟の部下に騎馬にて公爺府まで見送られた。王爺廟以東は赤旗を戸々に立て、以西は白旗を戸々に立ててゐる。公爺府は已に白旗区域である。ここは鎮国公、巴彦那木爾と云ふ王様が二百名の兵士を抱へて守つてゐる所である。日出雄一行が公爺府の近くまで行くと、公爺府の兵士が二十人ばかり捧げ銃の礼をして慇懃に迎へてゐた。日出雄一行は公爺府の傍なる老印君の館に午後六時頃無事に着いた。

(大正一四・八 筆録)



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