出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語NM-2-141925/08入蒙記 とう南の雲王仁三郎参照文献検索
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本文    文字数=11202

第一四章 洮南の雲

 当地の家屋は内地に比して非常に変つてゐる。何れの民家も皆家の周囲に高き土塀をめぐらし、馬賊の襲来に備へ、屋内は室ごとに入口のみあつて一方口である。中から鍵をかけて寝る構造となつてゐる。一尺以上もあるやうな厚い壁で間を仕切り、そして鰻の寝所のやうな細長い間取になつてゐる。冬季は昼夜温突に火を入れてあるから室内は暖かい。これに反し一歩屋外に出づれば寒気厳しく身に迫り、うつかりしてゐると、直ぐに咽喉を害してしまふ。それから道行く車馬を見ると、例の支那式の床の低い梶棒の篦棒に長い人力車は見られないが、不恰好な牛車や馬車が灰のやうな道路を駆け廻り、防砂眼鏡をかけねば一歩も先を通行することが出来ない。何れの家も入口に赤い紙を張り、富貴だとか幸福だとか、瑞祥だとか、目出度さうな文字を誌してゐる。そして夕方から城門を固く閉し、夜分は他の地方へ出られない事になつてゐる。当城内にいる数千の兵士も数多の巡警も大部分馬賊上りだから、夜の帳がおりると同時に、平気の平左で、軍服のまま泥棒をやると云ふのだから、生命財産の保証などは到底駄目である。そして城内の三分の一までは馬賊の頭目や小盗児連が大小各店を開いてそ知らぬ顔してゐるのだからこれほど危険極まる話はない。この附近の馬賊の団体は三十人或は五十人の小勢で村落に入り来り、三日間位その村に逗留して、よく食ひ、よく飲み、女と見れば老若の別なく強姦をなし、飲食物がなくなると、悠々としてまた次の村へ行つて同じことを繰返すといふ呑気千万な泥棒団が横行し、蒙古の住民は実に枕を高くする事が出来ないと云ふ有様である。それから東蒙古地方の俗称活仏の名望と信用は全然地に墜ち、蒙古人の信仰が動き出したといふ。現にパインタラの活仏は麻雀に負けて、十万余の負債が出来、広大な土地は支那人にボツたくられ、かつ婦女子を小口から引つかけて、今は梅毒に罹り苦しんでゐるといふ有様だ。王爺廟の活仏もまたいろいろ面白からぬ評判が立つてゐる。昨年の三月十四日満鉄の上村某が当地にて馬賊に擲り殺された一周忌に当るといふので、その追悼会が日本人間で行はれた。上村は剣道の達人であつたが、暗夜に後から棍棒で脳天を擲りつけられて一堪りもなく斃れたとの事である。
 寒風烈しく吹きまくり、黄塵万丈の巷をいろいろの鳴物入りで葬式の行列が通つて行く。窓内より眺むれば喇嘛僧が二十人ばかり、黄や赤の衣を着け、面白い旗を沢山押立て、死骸を輿に載せ、五六間もあるやうな長い棒でかついで、チワチワさせながら、馬車数台に豚や羊などを縛りつけて長い行列を作つて通る。恰も氏神の祭礼の神輿渡御のやうな光景である。かかる立派な葬式はこの土地でも余程名の売れた人士だと云ふことだ。
 岡崎は日出雄の手から運動費を受取りニコニコしながら、洮南府知事の縁類なる将校と共に五六人の支那官吏を招き底抜散財をやり、かつ小遣を与へて彼等の歓心を買ひ、まさかの時の用意にと極力運動をやつてゐた。日出雄の宿泊してゐる平馬氏と同じ邸内に洮南府の将校某連長が住んでゐる。岡崎はこの連長と懇意になり、互に往復してゐた。連長夫婦が大喧嘩をおつ初め、死ぬの走るの、暇くれの、殺すの殺せのと、悋気喧嘩が起る度ごとに、下女が驚いて岡崎を呼びに来るといふ深い仲になり、遂には兄弟分となつてしまつた。岡崎は得意然として大きな声で辺り構はず、遂には洮南府を○○しようと云ふやうな事まで主張し出し、それが支那官憲の耳に入つたとか、日本官憲の耳に這入つたとか云ふので、日本人側は非常に気を揉んだ。それでなくても排日思想の烈しい洮南府に潜伏してゐるのだから、こんな事が仮令冗談にもせよ、日本人の口から出たと云ふ事が支那官憲に聞えようものなら、どんな事になるかも知れないと、岡崎の失言が奉天の同志に伝はつたので、唐国別、佐々木、大倉は顔色を変へ、狼狽し、岡崎君を奉天に返さないやうにして貰ひたい。そして一日も早く日出雄先生が岡崎を引張つて公爺府へ行つて貰ひたいなどと言ふ手紙を坂本広一に持たせて依頼して来た。岡崎はそんな事には少しも頓着なく……国家のため、社会のために吾々は最善の方法を講じてゐるのだ。大体佐々木、大倉の奴肝玉の小さい腰抜けだから、何でもない事を心配しよつて、そんな事で、こんな大事が成就するものか、ヘン、馬鹿馬鹿しい……と鼻の先で吹き散らしてゐる。日出雄は岡崎に向つて……『今の場合は可成秘密を守り、余り大事なことは口外せないよう』……と注意すると、誰のいふことも聞かない岡崎も二三日間は神妙に沈黙を守つてゐた。すると一日四平街の奥村幹造氏が倉皇としてやつて来た。岡崎の大言壮語が祟り、日支官憲の耳に這入つたやうなので日出雄一行の身の上を案じ、親切に見舞に来たのである。其処へ岡崎が這入つて来て、支那の各将校と前夜青楼に上り一緒に麻雀や散財をして彼等を全く買収しておいたからモウ安心だと、意気揚々として語る。奥村は岡崎の平気な顔を見て意外の感に打たれてゐた。
 日出雄一行は愈蒙古奥地へ入るに付て、万事便宜のため支那の家屋を王元祺の名義にて一ケ年百五十円の家賃で借入るることとなつた。温突付四間の家屋で、長栄号と命名し表面は貿易商といふことになし、軍器や糧食の中継場とした。
 日出雄が守高と共に平馬氏の宅に書見をしてゐると、日本領事館員月川左門氏がやつて来た。そして猪野敏夫と長い間種々の談話を交換し、結局日本と支那との関係を円滑ならしむるには日本の実力を示すより仕様がないと、満蒙経営談に耽つてゐた。日出雄は次の間から両人の談話を聞いてゐた。暫時すると支那将校がやつて来て、一つの卓子を囲み、嬉し相に笑ひながら、麻雀と云ふ博奕を深更までやつてゐる。平馬氏夫人の二葉子も一緒に麻雀に耽つてゐた。文学趣味を有つた日出雄は幾日間一室に閉籠つてゐても少しも苦痛を感じないのみならず、いろいろな思想の泉が湧いて来ると云つて、面白く楽しく日を送り詩歌などに耽つてゐる。その中の数首を左に、

 十二夜の月見る度に思ふかな吾生れたる夜半はいかにと
 日の本を立出で再び十二夜の月を蒙古の空に見るかな
 大空に月は慄ひて風寒しされど吾身は神の懐
 鈴の音いと賑はしく聞えけりまたもや馬車の路を行くらむ
 潜竜の潜むこの家は神界の深き仕組の館なるらむ

 三月十六日(旧二月十三日)満鉄社員の山崎某が四平街の日本憲兵隊へ、日出雄一行が洮南府へ来た事を密告したので、支那側の官憲が活動を始め出したと云ふ噂が耳に入り、一行は薄氷を踏むが如き思ひに悩んでゐた。そして月川書記生や満鉄の佐藤某が代る代る平馬氏の宅を窺つてゐた。

 洮南へ来りて安心する間もなくまたもや深き悩みするかな

 と日出雄は口誦んだ。しかし彼は、危険なる家に留まり居るも却つて安全なるべし、窮鳥懐に入れば猟夫もこれを殺さずとの金言と神力とを頼みとして日を送つて居たのである。その当時の日出雄の述懐に左の如き一節がある。
『日出雄が天下万民のために正々堂々と天地に愧ぢざる行動を採つて居ながらも、かくの如く身を忍ばせ、秘密の行動を採らねばならないといふのは、要するに上に卑怯なる為政者が居るからである。内強外弱唯々諾々として外人の鼻息のみを伺つて居る日本外交官及内閣員の少しでも心配せないやうとの慮りからである。その癖日本の官憲は支那や朝鮮、露国に対しては、随分鼻意気荒く凡てが威圧的であるに拘らず、英米に対しては、頭から青痰を吐きかけられても小言一つ言ひ得ない腰抜けばかりだ。皇道大本の勢力が大きいと云つて、所在圧迫を加へ遂には純忠無二の大思想家に、無理槍に冤罪を被らせたり、天地の大神の宮を毀つたり、色々雑多の悪政暴虐を加へ、正義の団体を見るに悪逆無道を以てする、実に呆れ果てたるものである。しかも東洋の君子国、浦安国と自惚れて居るのだから堪らない。自分が警戒線を悠々と破つて、神界の経綸を行ふべく遥々やつて来たのに対して、上下狼狽、一千円の懸賞附で捜索を始めかけたと云ふ、実に気の毒なものだ。しかし決して心配下さるな、滅多に諸君等のためにならないやうな拙劣な事はせないから、世界平和共栄の大理想を実行実現のためだ。君等のやうな尻の穴や睾丸で、一体今日の世の中において何が出来ると思ふか、どうして万世一系の国家が守つて行けるか、不義と罪悪との淵源たる君等から、少しは眼を覚ましてくれねば、東洋に国を安全に建てて行く事は不可能だ、現に今日の状態は何んだい……』
 また張作霖に関しては左の如く評してゐた。
『東三省の張作霖も随分支那人としては豪い男だ、コソコソと画策を廻らすのも中々上手だ。そして自分は肝心の金を出さず、人に苦労さして自分がそつと甘い汁を吸はふといふのだから堪らぬ。しかし資本なしの商売は結局駄目に了るだらう。利は元にありだ。資本主が最後の勝利だ。盧氏果して永遠に張の頤使に甘んずるで在らうか、直奉間の引掛合も久しいものだが、何れ遠からぬ中に何とか一幕の芝居が打たれるだらう。云々』

(大正一四・八 筆録)



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