出口王仁三郎 文献検索

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物語NM-2-131925/08入蒙記 とう南旅館王仁三郎参照文献検索
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第一三章 洮南旅館

 日出雄はやうやくにして三月八日(陰暦二月三日)午後九時三十分、洮南駅に無事安着し、乞食のやうな支那兵に送られ、ガタ馬車二台に分乗して洮南旅館に入る。真澄別、大倉、名田彦の三人は鶴首して待つて居た。さうして洮南府は日本官憲の勢力なく、領事館員と雖も護照がなければ入洮を許さないので、日本人が停車場に迎へに出るのは最も危険だから失礼をしましたと、三人は弁解して居た。王元祺の睾丸炎は益々激痛を感じ、病床に入つたまま起きず、飯も食はず弱りきつて居る。
 明くれば三月九日、奉天の同志へ安着の電報を発した。この洮南旅館は満鉄の御用旅館と云ふ名義で、辛うじて支那官憲の許可を受けて居るのである。一時は洮南府内に百七八十人の日本人が滞留して居たが、支那官憲の圧迫により、何れも退去を命ぜられ、特殊の関係あるもののみ二十五人在留して居るだけである。さうして、日本人の女と云へば僅かに五人と云ふことで、一行七人はこの旅館に宿泊して種々の計画に着手して居た。平馬氏宅から猪野、大川の二人が来訪して蒙古入りの壮挙を聞き、我が国家前途のために慶賀に堪へないと云ふて賛意を表して居る。次に満鉄関係者の三井貫之助氏が来訪した。しかしながら日出雄や真澄別は一室に閉ぢ籠り、岡崎、大倉の両人が接見する事となつた。大倉は三井と共に城内の支那料理店へ出かけ、種々の運動を開始した。夜分になると東西南北から銃砲の音が頻りに聞えて来る。これは洮南府の周囲に散在して居る十数団の馬賊二千余名が、何時洮南府を襲ふかも知れないので、夜になると兵士が馬賊威喝のために発砲するのだと云ふ事である。実に官憲の威力も及ばず、物騒千万の土地である。
 この洮南府は鄭家屯を北に去る鉄路百四十哩の地点にあつて、東蒙古における唯一の大市街である。支那人が蒙古に発展した根拠地は即ちこの地である。四方は土の城壁をもつて囲み、東西南北に六個の通行門があつて、住民は此処から出入する。門の入口には支那の官兵や巡警が控へて居て、一々護照の検査をなし、携帯品や出入の荷物に対しては、幾何かの税金を現場で徴収する。洮南の市街は南北五支里、東西五支里の正方形の面積を有し、この城壁内には官公署や各商店が軒を並べて居る。純然たる蒙古の土地でありながら、その勢力も、政治関係も全く支那の主権に属し、奉天省が管轄して居る。二十年以前、初めて支那人がこの地に市街を築いた時は、僅かに三四十戸に過ぎなかつたが、その時から道尹衙門を設置して土地の発展に努めて居る。その後洮南の道尹衙門は鄭家屯に引き移り、現在の官公署、県公署、第二十九師司令部や、監獄や、警察署、審判庁、捐務局、兵営、郵政局、電報局、学校等がある。国民小学校が三ケ所、国民女学校が二ケ所と県立高等小学校が一ケ所ある。当地の支那官憲は総ての日本人に対して極力圧迫を加へ、排日思想の最も盛んな所である。それ故、鄭家屯の日本領事館から館員が視察に来ても、護照がなければ通さないと云つて、入城を拒むと云ふ有様である。
 かういふ状況に在る洮南府へ日出雄一行は入り込んだから、中々晏如たる訳には行かないのである。洮南へ日出雄が着いた三日目に、秦宣及び山田文治郎の両人が佐々木の手紙を持つてやつて来た。それは帰化城方面の支那人哥老会の耆宿揚成業が、一万数千の兵を率ゐて参加すると云ふ事であつた。この時関東庁の陸軍三等主計正なる日本人某が洮南視察にやつて来て一夜宿泊した上、翌朝八時の汽車で帰つて行つた。
 夜分になると、鉦や太鼓や笛などの楽器で賑々しく葬式の行列が街道を通過する音が聞えるかと思へば、今度はまた嫁入の行列が同じやうな鳴物で通つて行く。さうして爆竹の音が四方から聞えて来る。室内で音ばかり聞いて居ると葬式も嫁入も同じやうに聞える。有名な論評家の黒頭巾横山健堂が、日出雄と入れ違ひにこのホテルを辞し帰つて行つた。此処で健堂の揮毫した立派な書をホテルの支配人から示され、かつ揮毫を依頼されたので、日出雄はこれに応じ日本人に書画を描き与へた。
 三月十一日の未明から機関銃や小銃の音が頻りに聞え、何となく不穏の空気が漂うて居る。洮南府一個旅団約四千人の常備兵があつて、東三省の北門を守つて居るのだが、ホテルの支配人に聞くと、馬賊の一隊が襲来したので応戦して居るものだとの事であつた。
 明くれば三月十二日、鄭家屯の日本領事館書記生某、洮南視察のために入り来り、ホテルに宿泊し、満鉄関係の三井氏が調査した書類を書き写し、四五日間滞在して帰つて行く。日本官吏の調査はすべてこんな具合に行はれて居るのだ。この日城内の春山医院猪野敏夫氏宅、及び平馬慎太郎氏宅に日本人全部移転することとなつた。岡崎は大変な不気嫌で傍人に八つ当りの態である。それは名田彦が──僕は柔術の達人だとか、米国の理髪学士だとか、刀一本あれば数十人の相手を瞬く間に斬りなびけて見せるとか──大法螺を吹いて威張り散らすのが癪に触つたのである。支那では理髪師と云へば下職とみなされて居るのに、名田彦が得々として理髪の妙技を誇つたり、またノコノコと城内の理髪店に出かけて行つて、剃刀の使ひ方がどうだの、かうだのと理窟を云ひ、支那の理髪師に教へてやり、いらざるお節介をやつたと云ふのである。
 おまけに日本人が洮南府に居ると云ふ事を秘密にしておかねばならぬのに、『自分は三五信者中の全体から選ばれて来た神の寵児だ』とか、『日出雄先生の一番の弟子だ』とか法螺を吹くので、岡崎が憤慨したのである。そこへ秦宣と山田とが佐々木の手紙をもつて使ひに来たので、岡崎の機嫌は益々悪い。
岡崎『佐々木、大倉の奴、乞食のやうな人足を使ひに寄こしよつた。あんなものが何になるか、大倉の奴、何もかも自分一人で出来るやうに吐かしよつて……何だ俺が居なければこの危険な洮南府へ来て今日のやうな事があつたらどうするか、マサカ三井の小つぽけな借家へ八人も日本人が宿る訳には行くまい。それだから俺が、平馬君を手に入れておいたのだ。何と云つても佐々木や大倉では駄目だ。趙倜や憑占元の方から日出雄先生を引張りに来て居つたのに、佐々木の奴盧占魁と一緒に頼みやがるものだから先生を御依頼して盧占魁の方の援助をして貰つたのだ。本当に彼奴は馬鹿だからなア。岡崎の腹中が分らぬのだから』
と大気焔と大憤慨の呼吸で室内を包むでしまつた。
 名田彦は猪野、大川の在留日本人に向つて滔々と自慢話を吹きかけて居る。
『自分は沢山の信者の中から選抜せられて居る純信者だが、今回の先生のお供にぬけ駆けしてやつて来たのも、今年は何でも神勅によつて一億円の財産を拵へるつもりだからだ。蒙古には金銀銅鉄の鉱山が沢山にあると云ふ事だから、この通り検鉱器まで持つて来て居るのだ。この器械さへあれば一目に金か、鉄か、銅か、また含有量が幾何あるかと云ふ事が即座に分る。この検鉱器は独逸製で、日本の鉱山師は誰も持つて居ない貴重品だ。それに先生の話に聞くと大庫倫まで神軍を進めると云ふお話だが、大庫倫までは八千支里もあると云ふのぢやないか。こんな事なら来るのぢやなかつたに、チエツ……もう帰つてやらうか』
なぞと不機嫌な顔つきをして呟く。かと思へば、また顔色を変へて、大本の信者の中でもこの度のお供をするやうな精神の研けた人間は、一万人の中に一人もあるまい。それを思へばこの度のお供は不足ぢやない。神様の御命令だと思へば実に私は幸福なものだ。などと一人免許で喜んで居る。其処へ日出雄が何気なくやつて来て名田彦の法螺を聞き、
『大本の信者は千人が千人ながら皆僕について来る者ばかりぢや。さう自惚するものぢやないよ』
と云つたので名田彦は変な顔して黙言込んでしまつた。

(大正一四・八 筆録)



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