出口王仁三郎 文献検索
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原著名 | 出版年月 | 表題 | 作者 | その他 |
物語64b-1-1 | 1925/08 | 山河草木卯 復活祭 | 王仁三郎 | 参照文献検索 |
キーワード: 物語 |
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あらすじ 未入力 名称
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本文 文字数=22870
第一章 復活祭〔一八〇七〕
十二日は聖師ウズンバラ・チヤンダーの降誕日に相当するので、ブラバーサは草庵を立つてその吉辰を祝すべく、橄欖山の聖地に参詣して、熱烈なる祈祷を捧げ了り、今日は常よりも緊張した気分で、かつ敬虔な態度で山を下り、アメリカンコロニーにも立寄り、聖師に会つて神徳談を交換し、日没前袂を別ち、帰途カトリックの僧院ホテルに立寄つた。恰も当日は聖キリストの復活祭で全基督教会はこれを大聖日として一斉になる祈祷が捧げらるるのである。旧教も新教も何れの教派を問はず、最も栄えある福音としてこの聖日を迎へるのである。そして旧教の方面から見ると当年は聖年に当つて居るが、その聖年中の復活祭として乙丑の四月十二日を最も祝福する事に成つてゐる。大体カトリック教会では三月第三回目の水曜日から聖年は四旬節に入つてゐるのである。祈りと、断食と、苦行との節が初まるのである。即ち祈り、苦行、断食等の犠牲がこの四旬節に行はれる。そして四月に入ると五日から十二日の復活祭までこれを大週または聖週として五日を聖き枝の主日、または棕櫚の主日と云ふのである。
『弟子たち往きてイエスの命じ給ひし如くになし、牝驢馬とその子とを引き来たり、己が衣服をその上に敷き、イエスをこれにのせたるに、群集夥しく己が衣服を道に敷き、ある人々は樹の枝を切りて道に敷きたり。先に立ち従へる群集呼ばはりて、ダヴイドの裔にホザンナ、主の名によりて来たるものは祝せられ給へ。いと高きところまでホザンナを言ひ居れり』
即ちイエスがエルサレムに入つた時、人々は道に着物や木の枝を敷いて歓迎したその日なのであるが、四五日を経てそれ等の人達はそのイエスを十字架にかけたのである。
九日は聖の木曜でイエスが死没の前夜、弟子を集めて最後の晩餐を催し聖体の秘蹟を定めた日である。この日司教座の在る聖堂では聖香油を造ることに成つてゐる。
十日は聖の金曜であつて、イエスが十字架に上り死刑に処せられた日である。米国あたりでは午後一時から三時まで、即ちその刑の執行時間を、皆店を閉ぢ商売を休む習慣の所もあると云ふことである。
十一日は聖の土曜で復活の光明が仄かに刺した日である。さうして、十二日の復活大祝日となるのである。
『おそるること勿れ。汝等は十字架につけられ給ひしナザレのイエスをたづぬれどもかれは復活し給ひて、ここにはましまさず』
そしてこの聖週が終つても、十三日を復活第二の主日となし、
『汝指をここに入れて、我手を見よ。手を延べて我が脇に入れよ。不信者とならずして信者となれよ。トマス答へて、「主よ、わが神よ」と言ひしかば、イエスこれに言ひけるは、トマス汝はわれを見しによりて信じたるか。見ずして信ぜし人々こそ福なれ』
そして十四日をその第三の主日とするのである。
『我はまたこの檻に属せざる他の羊をもてり。かれ等をも引き来らざるべからず。さて彼等我声をきき、かくて一つの檻、一つの牧者とならむ』
これらの教を各教会において一斉に説かれて居るのである。
ブラバーサが立寄つた僧院ホテルの別室には数多のカトリック教徒が集まつて、この聖日を祝すべく、復活祭第一の主日の祭典や祈祷を行つてゐた。
ブラバーサはルートバハーの聖師の生誕日に当つて、この僧院に厳粛なる儀式が行はれてゐる事を何となく嬉しく、かつ神縁の絡まれたる不思議さに感歎しながら、式の終るを待ち、末座に敬虔な態度で祈祷を拝げ、感慨無量の面持であつた。
ホスビース・ノートルダム・フランスのこの加特力僧院ホテルを経営してゐる司教テルブソンは、先頭に立つて神の御前に三拝し、一同の信者と異口同音に左の讃美歌を唄ふた。
一
御祖はあれまし 道を説けり
なやみに住む人 求ぎて来たれ
智慧のみはしら 世に降れり
よはき人々よ 来たりまなべ。
二
伊都の大神は 世に降れり
よろづの人々 来たりたのめ
身魂をきよむる 神の清水
汚されし人は 来たりすすげ。
三
美都の大神 世に出でます
なやめる人々 来たりたのめ
生命の御親は 世に降れり
つみにしみし人 求ぎて生きよ。
四
美都の御柱は 世に生れぬ
うへした諸共 来たり斎け
天地のはしら 御世に降る
すべてのものみな 勇みうたへ。
一同美声を揃へて四辺の空気を清めたる讃美歌の奉唱も無事終了し、司教のテルブソンはさも荘重な声にて一場の演説を試みた。
『御一同様、今日は吾々信者に採つて最も慶すべき吉辰でございます。メシヤの復活あそばされて、天国の福音を世界の同胞に垂れさせ給ひました主の日でございます。就ては主の御約束遊ばした聖地エルサレムへ御再臨の時期も追々と近づいたやうに拝せられ、吾々は実に神様より選まれたるピュリタンとして、この上の光栄は在るまいと思ひます。皆様、主は「我が来るは平和を出さむためでは無い。刃を出さむために来れり」と仰せられてゐるでは在りませぬか。吾々は主再臨の好時期に生れたものですから、余程の覚悟を致さなくては成りますまい。現代人の多数は宗教の力によつて、或は絶対的信仰の力によつて、真善美の行為を現はし、家庭の円満を企画し、自己の人格を向上し、社会国家を益せむものと焦慮してゐるやうでございますがしかし私は思ふ、ソンナ怪智くさい考へを以て信仰が得られませうか。刃を出す覚悟が無くては再臨のキリストに救はる事は出来ますまい。信仰のためならば、地位も、財産も、親兄弟も、知己も、朋友も一切捨てる覚悟が無くては駄目です。信仰を味はつて家庭を円満にしようとか、人格を向上させやうとか云ふやうな功利心や自己愛の精神では堂して宇宙大に開放された、真の生ける信仰を得る事が出来ませうか。自分は世の終りまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。かうした悲痛な絶望的な決心が無くては、この洪大無辺にして、有難い尊い大宇宙の真理、真の神様に触れる事が出来ませうか。某聖者が地獄一定と曰はれたのは此処にある。某聖者は世を終るまで悪人たる事を覚悟されてゐた。主イエス・キリストも神様の御命令とあれば何事も敢て辞さないと曰ふ覚悟を持つて居られたのであります。一切の囚はれより、一切の欲望より、一切の執着より、真に離れ去つた時、それは真に胸中無一物、空の空であり無の無である。その時の心境こそは鏡の如く晴れ渡り、澄み切り、総ての事象は如実にその心境に移り来る。その時こそは真に絶対の自由と平安と、幸福は立どころに与へられ、さうして過去の一切の経験は一つの偉大なる力となつて、現在の一点に躍動するものであります。即ちこの瞬間の一点を踏みしめ踏みしめ凝乎と足許を見極めて精進するやうになれば、そこに所愛の創造があり、進化があるのです。私は平素この精神を以て信仰生活を終始して居るのです。私はこの僧院の司教としてかかる信仰を持し、聖キリストの再臨を待つて居るのですが、世間の一般からは外道悪魔のやうに批評されてゐます。しかしながらかかる暗黒の世の中にも私ただ一人三五教の宣伝使ブラバーサ様の知己あることを光栄と存じて居ります。とに角キリスト再臨の間近く迫つた今日、総ての因習を捨て神様の愛に向つて猛進せなくては成りませぬ。善だとか悪だとか天国地獄などに囚はれて居ない私は皆さまに向つて何も申上げる原料も持説もございませぬ。故に今日は主の復活聖日を祝福し皆さまと共に神を讃美し奉ることに止めておきます。アーメン』
と合唱し降壇した。拍手の声は急霰の如く僧院ホテルの内外に響き渡つた。
次にスバツフオード聖師は立つて一場の演説を試みた。
『皆様今日は実に有難い主イエス・キリストの復活あそばされた聖年聖日でございまして、吾々はこの立派な僧院におきまして、兄弟姉妹と共に主の日を讃美し祝福することの光栄を感謝せずには居られないのでございます。吾々兄弟姉妹は、この目出度たき聖日をして意義あるものたらしめねば成りませぬ。そして伝統的ブルジョア的宗教や、伝説や口碑に因つて飾られたる既成宗教の殻を脱いで、時代を指導するに足る宗教の運動に生きなくては成りませぬ。吾々の団体は創設以来数十年の日子を経過いたしました。そして聖キリストの再臨を待望して参りました。やがて待ち焦れたるメシヤの御再臨も近い事と考へさして頂いて居ります。今度顕はれたまふ主エス・キリストは時代相応の理によつて屹度英雄的色彩を濃厚に持つて御降りになる事と信じます。
熟々現代の世相を視れば一方には文学を恥ぢて武勇を好むもの、一方には文学に耽溺して武備撤回を主唱するもの、仁義の士を賤しみかつ愚者扱ひをなし、権謀術数に長じたるものを紳士と崇め、治獄の吏を貴み、悪法を施行し、正言真語を唱ふるものを以て誹謗者と看做して獄に投じ、奸邪を重用して政事の枢機に列せしめ、過ちを防遏せむとするものはこれを妖言者と貶し、流言浮説者として圧迫を加へ、先聖の法服世に用ひられず、忠良功言皆胸中に欝し、誉諛の声は日夜耳に満ち、虚栄と美食心を薫じ、実行なく、口説のみ盛んにして、社会の滅亡眼前に迫るの心地が致します。かかる時代に際して一大英雄即ち救世主の降臨が無かつたならば、最早世は暗黒より道はないでせう。神的英雄なるものは国家または社会の実体とも曰ふべきものであつて、国家も社会も要するに英雄理想の具現の形式であります。凡て英雄の無き国家社会は精霊の脱出した人間の屍体も同様であります。精神の脱出した人間の肉体が恣意なる五欲の乱起によつて自らの破滅に終るが如くこれを大統する神雄聖者の欠如は、常に国運の衰弱、否死滅も同様であらうと思ひます。今日の世の中は文化の低下せしにもあらず、生産の減少にもあらず、僧侶宣伝使の尠きにもあらず、兵備の整はざるにもあらず、しかるに昨日の隆盛も今日の沈衰、径庭かくの如く甚だしきものはどの理由ぞ。要するに国家社会本来の意義を体得した大統的偉材の欠乏せるがためでございませう。故に私は民衆的力をば信ずることは出来ませぬ。独り神雄的聖救世主の出現を待つのみでございます。
主エス・キリストが山上に訓を垂れさせ玉ふや、群集はその教に驚き、孔子の春秋を作つて発表するや、乱臣賊子をして悚懼せしめたではございませぬか。そは主キリストや孔子は所謂学者等の如くならずして、権威あるものの如くであつたからでありませう。今や世界の民は自ら驚かむことを求めつつあります。今日の人民は既に自分等が不平の代弁者の饒舌に倦み果てて居ります。今日の人民が鶴首して待つて居るものは、金切声を搾つて彼等自身の窮状を説明するものでは無くて、神の如き威厳を以てその進路を指すものの出現であります。神においてはその言ふ所は即ち行ふ所となるのであります。徒に民と共に叫び、民と共に躍る如きはこれ雪上更に霜を加ふるの類であつて、吾々真に天下の重きを以て任ずる信者諸士の深く恥る所なのであります。何卒吾が敬愛なる神の御子たちよ、民衆の煽動に乗ずること無く隠忍自重して以て神雄偉人としての聖キリストの再臨を待たうぢやございませぬか。アーメン』
と結んで演壇を降る。急霰の如き拍手の声に満堂揺がむばかりの光景であつた。
ブラバーサは壇上に悠々と立上り、暗祈黙祷の後、聴衆一般に向つて敬意を表し、コツプの水を一杯グイと呑干しながら、咳一咳して曰く、
『皆様、今日は実に目出度き主の復活日でございまして、地球上の人民は、老若男女の嫌ひなく、この聖日を欣仰せない者はございますまい。殊に吾々御互は神様の寵児として、親しく神様にお任へさして頂いて居りまする点からしても、特に讃仰せねばならないと存じます。思想界の悪潮流は世界に氾濫し、今や地上の神の国は破滅せむとするの勢ひでございます。一時も早くこの暗黒の帳を開いて、明晃々たる日出の御代を来すべく、吾々は努力せなくてはなりませぬ』
かく論じ来る折、聴衆の中よりやをら身を起し、満面朱を濺ぎながら、ツカツカと壇上に上つて来た婆アは、日出島からやつて来たお寅であつた。お寅はブラバーサに向ひ、
『コレ、お前はブラバーサぢやないか。今聞いてをれば、一時も早く日出の御代になるやう、吾々は努力せねばならぬと云つたぢやないか。日出の御代にするのは、日出国の天職ぢやぞえ。そして日出の島から現はれたこの日出の神が本当の世界の救世主だ。日出の神の因縁が聞きたければ、この御本尊に聞いたが一番近道だ。ひつこみてゐなさい。ヘン、偉相に、宣伝使面をさげて、何のこつちやいなア。コレ皆さま、こんなバチ者に耳をかす必要はありませぬ。誠の救世主日出の神はこのお寅でございますぞや。第一このブラバーサなぞは、面からしてなつてゐないぢやありませぬか。梟鳥のやうな目玉をして、土左衛門のやうに青ぶくれた面して、このザマつて、ございますまい』
聴衆の中より、
『お寅婆ア、退却だ退却だ、引ずりおろせ』
と叫ぶ者がある。また一方よりは、
『ブラバーサ聖師、確り頼みます』
と叫ぶ者もあつた。お寅はクワツと怒り、聴衆を睨めつけながら、
『ヘン盲聾と云つても余りぢやないか。これでは神様も御苦労ぢやわい。警鐘乱打の声も雷霆叱咤の響きも、耳に這入らぬといふ御連中の多い世の中だから、三千世界の立替立直しを双肩に担うたこの日の出の神も、本当に迷惑を致しますわい。このブラバーサといふ立派な宣伝使は、お前さま方遠国の事で何も知らぬだらうが、今このお寅の救世主が素性をあかし、皆さまのお目をさましてあげませう。ウズンバラチヤンダーなどと申す偽変性女子の頤使に甘んじ、キリスト再臨の先駆だなどと自惚して、ぬつけりことこの聖地に参り、あらう事か、あるまい事か、神聖にして冒す可らざる、オリブ山の聖場において、それはそれはいふに云はれぬ、とくに説かれぬ、話にも杭にもかからぬ、面白い怪体な乱痴気騒ぎを遊ばすといふ大紳士でございますから、ホヽヽヽヽ。余り可笑しうて臍が茶を沸しますぞや。ここまでいふたら、大抵のお歴々方は略肯かれませう、アメリカンコロニーの牛耳をとつてゐるといふマリヤさまと、それはそれは、ヘン……もう後はいひますまい。同席するも汚らはしい。ブラバーサさま、良心があるならとつとと退却なされませ。ようマアぬつけりことこんな所へ、横柄な面をして上られたものだな。早くシオン山の隠処へでもひつ込んでゐなさい。日出の国人のよい面よごしだよ』
ブラバーサはやをら身を起し群衆に対ひ、
『皆さま、私は折角のこの聖日に当りまして、皆様と共に主の日を祝し奉り、尚将来の御相談を致したいと存じましたが、かくの如く邪魔が這入りましては、お話する訳にもゆかず、また皆様も喧嘩をお聞きにお出でなさつたのぢやございませぬから、私は一寸控えますから、どうかお寅さまの演説を聞いて上げて下さいませ。匹夫の言にも得る所ありといふ事もありますし、まして三千世界を統一し、且改良するといふ大責任を自覚してござる御方ださうでございますから……』
『そら、何アんーとおつしやる、匹夫の言とは誰の事だ。大方蛙は口から自分の事を云つてるのだらうな。匹夫といへば男のこと。このお寅は、淑女否神女だ。神女と匹夫と混同するやうな事で、どうして宣伝使が勤まりますか』
ブラバーサは耳にもかけず、サツサと降壇し、聴衆の中に交つて、ハンケチで汗をふいてゐる。お寅は勝誇つた面持にて、稍反り身になりながら、コツプの水を二三杯つづけさまにグウグウとひつかけ、余りあわてて、水が気管支の中へ浸入し、コホンコホンと咳払止まず、目から一杯涙をこぼし、卓にもたれて、しやがんでしまつた。そこへ守宮別はお寅の演説を補はむと、ヅブ六に酔ひながら、ヒヨロリヒヨロリと登壇し、
『皆さま、お寅さまは、中途に負傷を致しましたので、拙者が代つて代理を勤めます。どうぞ不悪思召し下さいませ。私は自転倒島から案内役として、お寅さまに頼まれ参つて来た者でございますが、別にお寅さまの説を信じたのでもなければ、神格に感動したのでもありませぬ。付いてはブラバーサ君に対しても同様の考へを持つてをります。とに角世の中は偽救世主、偽キリスト、偽予言者の横行濶歩する最中ですから、どれがホン物か偽者か、一寸判断に苦まざるを得ませぬ。キリストといふ事は日の出の国の言葉でいへば、……油をそそぐ者……とかいひますが、油を注ぐ事に付いて最も堪能なのはこのお寅さまですよ。喧嘩の火が燃え盛つてる所へ、薪を放り込み油を注ぐやうな事を得意で為います。それで火の勢が益々強くなるので、それで火の出神と自称してござるのであります。ヤソといふ事はイエスともいひ、イエスは癒やすといふ事にもなり、要するに薬といふ事です。くすりはヤクとなる、ヤクは薬師如来です。ヤツコスです。それで薬の最秀れた物は酒です。これ位効験のある神は世界にございますまい。一口のみてもすぐに頬にホンノリと赤味が出て来る。二口三口と呑めばのむほど心が浮いて、世の中が面白くなつて参ります。つまり天国が忽ち出現するのです。それに何ぞや、禁酒禁煙だとかキリストの信者はいつてゐますが、これ位矛盾した事は世の中にございますまい』
などとヘベレケに酔ふて酒宣伝をやつてゐる。その間にお寅は喉の調子が直つたとみえ頭を擡げ、守宮別の側にゐるのを見て、百万の味方を得た如き気分になり、
『皆さまこの方は守宮別といひまして、日の出の島切つての聖人でございます。しかしながら少しばかり今日は聖日を祝するために、お神酒をあがつてゐられますから、チツトばかり脱線の気味があるかも知れませぬが、脱線するやうな人間でないと正当な事は分りませぬ。御覧なさい、汽車でさへ余り勢よく走ると、勢が余つて脱線するでせう。さうだからその積りで聞いて貰はんと、取違されると困りますから、一寸御注意を与へておきます』
聴衆は四方八方よりワイワイと騒ぎ立ち、「引きずりおとせ……放り出せ」と呶鳴り出したり。演説を聞に来てゐた、回々教の信者トンク、テク、ツーロの三人は矢庭に壇上に駆上り、トンクはお寅をかたげ、テク、ツーロは守宮別をかたげて、ヨイシヨヨイシヨと囃し立てながら、僧院ホテルの裏口より何処ともなく駆出してしまふた。これよりブラバーサは再壇上に立ち、救世主の再臨に関する演説や、世界共通語の必要なる所以を説き、次でマリヤの簡単なる演説あり、神前に拝礼を了り、茶菓の饗応あつて目出度くこの聖日祭を閉づる事になつた。
(大正一四・八・一九 旧六・三〇 於丹後由良秋田別荘 松村真澄録)
オニドでるび付原文を読む オニド霊界物語Web