出口王仁三郎 文献検索

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原著名出版年月表題作者その他
物語64a-2-91923/07山河草木卯 膝栗毛王仁三郎参照文献検索
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第九章 膝栗毛〔一六三八〕

 この寺院の東南の方、少し隔たつて『乳の洞窟』と云ふのがある。これもチヤペルに成つて居て、入口の上に聖母が幼児キリストに乳を呑ませて居る立像が置かれてある。伝説に由れば、このチヤペルの洞穴に聖なる家族が隠れたと云ふ。聖母の乳の滴りが今でも洞穴の石灰石に印せられて居る。婦女がそれへ参詣をすれば乳が良く出るやうになると信じられてゐる。
 両人は寺院を辞して少しく先へ進んだ。さうすると、ヨルダンの谷に向つた方面の広い眺望が展開する橄欖の樹の植わつた平野……それは『羊飼の野』といふ名称が附せられてゐる。天界の天使が羊飼にあらはれて、
『われ万民に関はりたる大なるよろこびの音信を爾曹に告ぐべし』
とてキリストの降誕を告げ、多くの天軍が天の使と倶に、
『天上ところには栄光神にあれ。地には平安、人には恩沢あれ』
と神を讃美し、羊飼達がベツレヘムへと急いだのは、この辺りだと云はれてゐるが、この話しに応はしい美しい気分の良い場所である。場所の真偽は問題となすに及ばぬ、仮令少々違つて居つても、この所であつた事にしておきたいものだとブラバーサは心の中に思ふのであつた。
 両人は同じ道を歩んでエルサレム市街のホテルへ帰らうとする時、今まで清朗なりし大空は俄に墨を流した如く真黒になつた。両人は世の終りの近づいたやうな気分に襲はれて居ると、ノアの大洪水を思ひ出させるやうな大雨が土砂降りに降つて来て容易に止みさうにもない。しかし暫時の間に雨は小さく成つて稍安心する事を得た。こんな事なら自動車を返さなかつたがよかつたにと、今更の如く後悔しても後の祭りであつた。この大雨は恐らく半年の日照りの終りを画する祝福された最初の慈雨であつたに相違ない。雨が止むと紅塵万丈の往来は、スツカリ洗つたやうに爽快な坦道と変つてしまつた。丘の上にはエルサレムの市街が雨あがりの空にその美しい姿を現はしてゐる。天の一方の嵐の名残の雲には、エホバの御約束の証拠とも称ふべき虹が美はしく七色に映えて高く長くかかつて居る。ブラバーサは、
『われ聖域なる新しきエルサレム備へ整ひ、神の所を出で天より降るを見る。その状は新婦新郎を迎へむために飾りたるが如し』
とある黙示録の言を心の中に繰り返すのであつた。次で両人は雨の晴れたるを幸ひとして、勇気を鼓してまたもやハラム・エク・ケリフの神殿を拝観せむと歩を運ぶのであつた。エルサレムの町の東南隅キドロンの谷を隔てて、橄欖山に面して居る長方形の場所に着いた。今この広場には回回教の二つのモスクが建てられてある。昔ダビデが神壇を設けたのもやはり此処である。
『彼はここに荘厳無比なる大神殿を建築する心算で、沢山な建築の材料まで蒐集したが、尊き清き神の宮殿を建てるのには平和仁愛の人でなくては神慮に叶はないのに、彼は戦ひの人として多くの血を流したので神様からその任でないとして差止められ、その子のソロモンが初めて父の準備しておいた豊富な材料を以て七ケ年の日子を費やして、神殿及び外囲ひや内庭並びに僧院を完成することとなつた。その他に彼は十三ケ年もかかつて附近の地を卜し、自分のために一つ、猶それに面して自分の妻フアラオの娘のためにもモ一つの宮殿を建てたのである。僧院はソロモン時代の神殿の広場を取り囲んで居た。外壁には東に黄金門あり、南に単門、二重門及び三重門が付いて居たと云ふ。その外に猶エルサレムの城壁が在つたのだが、今日の処では跡方も無き有様である。ダビデは主のために建てらるべき宮は比類なく荘麗にして、万国を通じての光栄で無ければ成らぬと言つて居たが、ソロモンの建てた神殿は実にダビデの言つた通りの荘麗な宮殿であつた。この神聖なる丘の上に純白な大理石で成り黄金で飾られ、要塞や宮殿で取囲まれ、その美観は世界に鳴り響いて居たのである。その後の神殿はユダヤ人の崇拝の中心となり、アツシリア王ネブカドネザルのために破壊され、ユダヤ人はバビロンに捕虜として連れ去られてしまつた。それは紀元前五百八十五年頃のことであつた。ユダヤ人は捕虜から免れて帰り、種々と苦辛して建てた第二回目の神殿は第一回のものよりは遥に劣つたものであつた。その後キリスト降誕の少し以前に、ヘロデ王はソロモンの神殿に匹敵するやうな第三回目の立派な宮殿を建てたのである。以上三ツの神殿は全く同じ場所に位置を占めて居た。キリストが幼児として参詣せられ、学者達の間に立つて問答し、兌銀者や商人を追ひ出し神の道を宣べ伝へたのも、このヘロデの神殿においてであつた。その後紀元七十年、ローマ皇帝チツスに由るエルサレムの破壊と共に神殿も「一つの石も石の上に圮されずしては遺らじ」との言葉通の運命を見るに至つたのである。百三十年にハドリアン帝がここに異端の神ジユピテルの大神殿を建てたが、それは六百八十八年にまた回々教のモスクに変へられてしまつたのである』
 両人は先づ広場の南端にあるモスケ・エル・アクサの地下になつて居る宏大な基礎建築を見た。無数の四角な石柱が高く広々した空間を仕切つて居る。その角柱の上部は穹状をなしてお互に連り合つて居る。明かりは南方の壁に小さい窓から少し漏れて来るばかりで、内部は物すごいほどうす暗い。これは俗にソロモンの廐と云はれてゐる。マリヤはソロモンの神殿やヘロデの神殿の猶残つて居る石垣を示しながら、
『この場所はローマとの戦ひにあたり、ユダヤ人が避難した所です。また十字軍の時にも廐となつたと云ふことでございます』
と諄々として由緒を説き、ヱスの揺藍、二重門等の由来を細々と説明するのであつた。
『モスケ・エル・アクサはマホメツト教に関して色々の由緒が在るやうですな』
『ハイ、マホメツトが天使ガブリエルに導かれ、不思議な白馬にまたがつてメツカ市から一夜の間にエルサレムに来た所として、回教徒に取つて極めて神聖な場所の一つになつて居るのでございます』
と云ひながらマリヤは後振り返りつつ奥に入る。
 広い本堂には円柱が無数に立つて在り、床は一面に贅沢な毛氈が敷詰められ、所々にムスルマンが坐つて祈祷を捧げてゐる。その後部に岩が有つてその岩の上にキリストの足跡が印せられて居ると云ふのも可笑しいものである。ムスルマンに取つてキリストはアブラハムやモーゼと共に予言者の一人に数へられて居るが故に、彼等はキリストに就ての由緒をもかくの如く尊崇畏敬して止まないのである。
 次に両人は広場の中央にある大きな、クボラをいただく八角堂のクーベツト・エスサクラ(または岩のクボラ)を見物した。この伽藍は大きい岩の土台の上に建てられて居て、その上部は内部に自然のまま露出して居る。この岩上においてアブラハムがその子のイサクを神への犠牲にしやうとしたと伝へられて居る。回教徒は犠牲に成らうとしたのは、イサクで無くてその長子イスマエルだと主張してゐる。何となればイスマエルはアラブの種族の先祖になつてゐると云はれてゐるからだ。また回教徒の伝説に由ればマホメツトは彼の不思議の夜の旅行において、この場所から天へ昇つた。彼の昇天の際、この岩は予言者に従つて共に昇らうとしたが、しかし神は世界がこの神聖な記念物を失ふことを欲しないで天使ガブリエルを残しその力強い手でその岩をおさへた故に今でもその両端に天使の指の跡が残つて居るとか唱えられてゐる。サラセン式にしつつこく飾られたステーンド・グラツスの窓のために内部は蝋燭を灯さなくては歩行ないほど暗かつた。広場の東北端に大仕掛に発掘された場所がある。地の面から階段をいくつも下つて行くと、セメントや石で縁を取つた大きな貯水池やうのものの一端に達する。ここはヨハネ伝に録してあるベチスダのプール(池)だと云ふことで、三十八年間病みたるものがここで池水の動くのを待つて居て、キリストに由つて癒された所ですよと、マリヤはこの由緒は根拠がありますと強く言つて証明した。
 終日雨が降つたり止んだりして居た。夕方の空は美はしく晴れて紺碧の雲の肌を露はして居る。神殿の広場の角にある燭台のやうな形をした塔の上では、アラブがメツカの方角を向ひて頻りに手を挙げて日没前の祈祷をしてゐた。その長く響くオリエンタルなメロデイーはエルサレムには応はしく無いと感じながら、両人は急いでアメリカンコロニーを指して帰路に就きける。

(大正一二・七・一一 旧五・二八 北村隆光録)



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